Diary 2018. 7
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7月2日 (月)  死刑復活?

トルコでは、MHPのバフチェリ党首が死刑復活をあらためて主張して、死刑の是非をめぐる議論が再燃しているらしい。これまで何度も盛り上がっては立ち消えになってきたけれど、今回はかなり現実味があるような気もする。

2週間後には、2016年7月15日クーデター事件の2周年を迎える。この日を前後して、議論は一層熱をおびてくるのではないかと思う。

“新たに改正された法律を過去の事件に遡及して適用することはできない”とは言うものの、クーデター事件の首謀者であることがほぼ明らかになってきたフェトフッラー・ギュレン師の“処刑”も取り沙汰されるに違いない。

もちろん、その前にアメリカがギュレン師の送還に応じてくれなければ、処刑どころか現行の法律に従って裁くことさえ難しいが、“送還”も以前より多少は現実味のある話として語られているようだ。


*写真:昨日の博多駅前。

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7月7日 (土)  死刑の是非

昨日、オウム真理教の麻原彰晃が処刑されたというニュースが伝えられた。トルコで、やはりカルト教団を率いて国家の転覆をはかり、多くの方が亡くなったクーデター事件を主謀したフェトフッラー・ギュレン師も、日本の法律で裁かれれば、間違いなく死刑の判決を受けるのではないかと思う。

しかし、現在、死刑が廃止されているトルコの法律では、仮にギュレン師がアメリカから送還されたとしても、死刑の判決は下せない。今後、法改正して死刑を復活させたところで、それを過去の事件に遡及して適用することは出来ないそうだから、ギュレン師が処刑される可能性は、殆どないと言って良いだろう。

“7月15日”を前後して、“ギュレン師の処刑”は、また取り沙汰されるに違いないけれど、これが現実的な話になるとは思えない。トルコ共和国は近代的な法治国家だからである。

そもそも、今、トルコで盛り上がっている“死刑復活”の議論は、児童に対する性的な虐待・強姦致死といった犯罪に端を発していたらしい。私はこちらの事件の報道をちょっと見落としていた。

EU加盟を目指して死刑を廃止したものの、加盟の夢が色褪せてしまった今となっては、これにそれほど拘る必要はないかもしれない。世界を見渡せば、米国や中国のような強国は、いずれも頻繁に死刑を実施している。

いつだったか、「アメリカがなかなか衰退せずに、力を維持している要因の一つに“銃社会”があるのではないか」などと愚にもつかないことを漠然と考えたりしたけれど、“死刑”もその要因の一つであるような気がしてきた。

弱肉強食の殺伐とした国際社会を“富国強兵”によって生き抜くためには、国家も社会も極端に非暴力的になるのは不都合であるかもしれない。


*訂正:死刑を実施している強国として、ロシアの名を上げてしまいましたが、ロシアは既に死刑を廃止しているそうです。


7月9日 (月)  「いじめゼロプロジェクト」

福岡市は、「いじめゼロプロジェクト」とやらに取り組んでいるらしい。市内の方々の小学校などに、「いじめゼロ」を謳ったスローガンが掲げられている。

日本の社会で、“いじめ”をなくすことが可能であるとは、とても考えられないが、配送センターで働くネパール人の就学生たちを見る限り、彼らの社会に“いじめ”は余りないような気がする。

さぼったり、怠慢な作業で他の就学生らに迷惑をかける者がいても、ちょっとからかうぐらいで、罵倒したり、“しかと”したりして、仲間外れにしようとはしない。

この心優しいネパールの人たちに接していると、文明的であるとは、いったいどういうことなのか考えさせられてしまう。もっとも、私たちの弥生時代に、既に偉大な文明を築き上げていた彼らの方が文明的なのは、当然のことであるかもしれないが・・・。

そして、その文明は、人々が争わずに安寧秩序を保って平和に暮らして行ける社会を築くためのものではなかっただろうか?

カースト制によって身分を固定してしまったのも、自由な競争を妨げ、安寧秩序を保つための知恵だったように思える。非暴力の平和主義を貫いたマハトマ・ガンディーも、カースト制には反対していなかったらしい。

身分が完全に固定されたなら、人々は競争に打ち勝って、さらに上を目指そうとは思わなくなるだろう。また、自由な恋愛も禁じてしまえば、恋敵との熾烈な争いもなくせるはずだ。

現在、文明的であるとされている先進諸国では、人々は皆自由に競い合い、自由な恋愛を謳歌しているけれど、こういった先進国は、かつて文明の周辺にいた野蛮国ばかりじゃないかと思う。日本も偉大な中華文明の周辺にいた“野蛮な武人の国”だった。

また、今でこそ、軍部に対する文民統制が、民主的な文明社会の基準のように言われているものの、英国や日本を始めとして、主だった“先進国”は、いずれも長い武人支配の歴史を有している。文民統制が徹底していて、その歴史が最も長かったのは中国ではないだろうか?

その代わり、歴史上、中国が軍事的に強かった時期は余りなかったようだ。軍事力では野蛮な夷狄に全く敵わないので、ひたすら文明力で感化して懐柔しようとした。

ところが、大航海の時代以降に台頭してきた英国、そして、かつては野蛮な夷狄に過ぎなかった日本に対しても、その文明力が通用しない時代が到来してしまった。そのため、今や中国もその文明をかなぐり捨て、野蛮な富国強兵に努めようとしている。

私たちは、時間に厳しかったり、細かいルールを守ったり、衛生的であったりすることが文明の証であるかのように考えてしまいがちだけれど、その多くは軍事的な社会の中で育まれてきたような気がする。

今、就学生たちが通っている日本語学校では、教室やトイレの掃除を教育の一環として彼らにやらせているそうだが、これも何だか軍隊生活に由来しているように思えてならない。

軍事教練として行われてきた日本の武芸はもちろん、西洋のスポーツにも、なんだか軍事的な雰囲気が漂っている。これに対して、ネパールやインドのスポーツの弱さは、いったいどういうことだろう? 10億以上の人口があるのに、オリンピック等で殆ど活躍していない。争い事を避けようとする平和な文明の歴史があまりにも長かった所為だろうか。

一方、中国は、野蛮な富国強兵を目指す国家がスポーツ振興に力を入れているから、オリンピックでも結構活躍しているけれど、格闘技では余り目立った活躍がないように思える。あれほど世界一になるのが好きなのに、ボクシングの世界チャンピオンは、まだ数えるほどしか出現していない。国家はともかく、人々は今でも至って文明的なのかもしれない。喧嘩になっても、殴り合ったりせず、口喧嘩ばかりだという話も良く聞く。

しかし、こうして考えて見ると、競争を抑えて、とにかく安寧秩序と平和を保とうとした古い文明は、私たちの美意識に全く応えていないような気もする。スポーツで競い合い、学業や仕事でも、頑張って競争に打ち勝った人が評価される社会は素晴らしい・・・これで良いのではないか?

自由な恋愛によって男女が愛し合えば、当然、嫉妬も憎悪も生まれ、争い事は絶えないけれど、これがない社会のつまらなさに私たちは堪えられそうもない。

だから、「いじめゼロ」というのも、私には何だかナンセンスであるように思えてならない。地位を利用して、下の者をいじめたり、そのやり方が余りにも陰湿だったり、過激だったりする“いじめ”は、防ぐように努めるとしても、仲間内の“いじめ”まで全てなくしてしまうのは、日本の社会では土台無理な話だろう。

それよりも、“いじめ”に負けない強い子に育てた方が良いのではないかと思う。



7月16日 (月)  クーデター事件から2年が過ぎた・・・

2017年7月15日(土)7月15日クーデター事件から1年/プーチン大統領が語ったクーデター事件
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2017&m=7

クーデター事件から既に2年が過ぎた。しかし、事件を企てたギュレン教団の摘発は、まだ半ばの段階であるという。軍部や司法、警察機構ではかなり進んでいるものの、教団の関係者と目される政治家の追及などは余り捗っていないらしい。

例えば、教育機関に大量の教団関係者を送り込んだ張本人とも言われるヒュセイン・チェリック元教育相は、どうなったのだろう? 他にも、AKP党内には、未だに教団の関係者が残っているのではないかという説もある。

元軍人であり、自身も教団の陰謀と思われているエルゲネコン事件で逮捕された経験を持つエロルミュテルジムレル氏によれば、徹底的に摘発しようとしているエルドアン大統領の周囲には、摘発が殆ど終わったかのように報告して、大統領を騙そうとしている連中がいるそうだ。

一方、議院内閣制から大統領制に移行して、いよいよAKP党内の摘発が始まるのではないかと論じる人たちもいる。そのため、AKP生え抜きのメンバーではないスレイマン・ソイル内務相が留任したのだという。↓

2016年9月3日(土)ギュレン教団の摘発
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2016&m=9

確かに、新しい閣僚の中で、元からAKPのメンバーだったと言えるのは、チャヴシュオウル外務相、そして、財務相に抜擢されたエルドアン大統領の娘婿アルバイラク前エネルギー相ぐらいのようである。↓

2015年11月27日(金)新内閣/エルドアン大統領の娘婿がエネルギー相に
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2015&m=11

また、チャヴシュオウル外務相は、AKPの創設メンバーであるけれど、イスラム的な傾向は余り感じられない人物なので、教団との接触も殆どなかったと考えられるかもしれない。

なにより、国防相にアカル参謀総長が任命されたのは、教団摘発への揺るぎない姿勢を示すのものであると指摘する人もいる。さて、今後の展開はどうなることだろう?


7月17日 (火)  トルコとアメリカの文民統制

7月17日付けサバー紙のコラムでマフムート・オヴュル氏が明らかにしたところによると、大統領令により参謀本部は国防省に従属することになった。

これまでは、1960年の軍事クーデター以来、58年に亘って、参謀本部は大統領府に直属していたそうである。とはいえ、オヴュル氏によれば、これも建前に過ぎず、実態は、ほぼ独立した機構になっていたという。

例えば、予算を取って来るのは国防省でも、その用途は参謀本部が決めて、国防省は蚊帳の外に置かれていたらしい。

オヴュル氏は、この決定により文民統制が強まり、トルコの民主化はさらに進むと論じているものの、その国防省の長には、前参謀総長のフルスィ・アカル氏が任命されている。まずは段階を経て、文民統制を実現して行くということだろうか?

一方、トルコには、アメリカの文民統制にさえ疑念を呈する識者も少なくない。トランプ大統領は、果たしてペンタゴンやCIAをどのくらい掌握しているのかと言うのである。

トランプ大統領は就任前、「もうクーデター等で他国の政府を転覆させたりするのは止めよう」と語っていたそうだけれど、就任後、これについて何も発言していない。ロシアに関する発言も、就任前と後では一変している。つまり、就任後はペンタゴン等の圧力に屈してしまったということらしい。

また、オバマ大統領時代の「オサマ・ビン・ラディン襲撃作戦」も企画制作はペンタゴンであり、大統領はそれを承認せざるを得なかっただけではないかと論じられたりしていた。

トルコでも、北イラク等への越境作戦は、軍部が立案・実行しているのであって、軍事の専門家ではないエルドアン大統領がどのくらい関与しているのか疑問視する向きも少なくない。

しかし、そのトランプ大統領は、いよいよプーチン大統領との会談を実現して、親密な様子を見せつけている。サバー紙のメフメット・バルラス氏は、他国でのクーデター等を企図してきたCIAもトランプ大統領の常軌を逸した言動に困惑して行動を控えているのではないかと分析していたけれど、結構、トランプ大統領にはそれなりの計算があって常軌を外して見せていたのかもしれない。

もしも、トランプ大統領に、「もうクーデター等で他国の政府を転覆させたりするのは止めよう」という意志がまだあるのなら、こちらも是非押し通してもらいたいものである。


2016年12月11日(日)ギュレン教団の陰謀
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2016&m=12



7月29日 (日)  ジャパニーズ・ドリーム

2年前の7月16日、トルコで軍事クーデターが市民らの抵抗によって阻止された事件を欧米各国や日本の報道は、まるでクーデターの成功を望んでいたかの如く冷ややかに伝えていたようである。

ところが、あの日、韓国のKBSニュースは、軍事クーデターの失敗を“民主的な国民の勝利”といったように熱狂的に報道していた。翌日以降は、欧米各国に追従したのか、反エルドアン的な論調になってしまったけれど、あの日に限っては、国民とエルドアン大統領の勝利を称えていたのである。

あれは、“軍事クーデター”を忌み嫌う韓国人ジャーナリストらの“条件反射”のようなものだったのだろうか?

韓国では、500年の長きにわたった李氏朝鮮の時代を通して文人支配が徹底していたため、武人・軍人が尊敬されることは余りなかったという。

支配階級である文人たちは、ひたすら読書・勉学に励み、武芸を始めとする“肉体的な活動”によって汗をかくことを嫌っていたそうである。そのため、真偽のほどは解らないが、代々支配階級に属していた家系の人たちは、骨格まで細くなっていたらしい。日本のお武家さんとはえらい違いじゃないかと思う。

しかし、それでは余りにも不健康だったような気がする。あくまでも“武”を卑しみ、“文”を崇めるのが「文明」であると言うのなら、そういう不健全なものが日本に伝わらなかったのは幸いだったかもしれない。

また、韓国で“軍事クーデター”が忌み嫌われた要因の一つには、下克上に対する徹底的な嫌悪もあるだろう。下克上は、韓国語で“ハグックサン”と読み、言葉の響きまで、非常に嫌らしい感じがするという。

日本では、「時は戦国、下克上の世」なんて言ったりすると、なんとなくロマンを掻き立てられるような気持ちになってしまうから、これもえらい違いじゃないだろうか?

豊臣秀吉が韓国で嫌われたのは、“侵略”の張本人であったのはもちろんのこと、下克上で成り上がった半生も嫌悪されたそうだけれど、日本では、これが太閤人気の最も大きな要因の一つになっている。

今太閤と持て囃された田中角栄元首相もそうだし、裸一貫から成り上がった立志伝中の人物には、夢を感じる人も多いだろう。“ジャパニーズ・ドリーム”と言って良いかもしれない。

韓国では、現代財閥の創業者・鄭周永氏でさえ、あまり“コーリアン・ドリーム”などと持て囃されたことはなかったように思う。なんとも寂しい限りだ。

しかし、“ジャパニーズ・ドリーム”なんて大そうなこと言っても、これに“アメリカン・ドリーム”のようなスケールは感じられない。なぜなら、“ジャパニーズ・ドリーム”を夢見ることができるのは、これまで殆ど“日本人”に限られてきたからである。

今、ネパールやベトナム等々から来た若者たちが、“就学生”という難しい立場のもとで、必死になって働き、日本の労働力不足を補ってくれている。彼らが、“ジャパニーズ・ドリーム”を夢見ることができるようになれば、日本の未来は開けるだろう。私はそう信じている。