Diary 2017. 3
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3月1日 (水)  霧の季節?

今日の昼、海峡横断地下鉄マルマライ線で、ヨーロッパ側のシルケジに出たら、晴れているのに霧が立ち込め、イエニ・モスクの後方におぼろげに見えるスレイマニエ・モスクは、なかなか幻想的だった。

そういえば、昨年の「3月1日」にも、「霧のイスタンブール」なんて駄文を書いている。今頃は、霧の発生し易い季節なのかもしれない。↓

2016年3月1日(火)霧のイスタンブール
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2016&m=3

昨日は、濃霧のため、海峡横断連絡船が航行できなくなり、乗客の殺到した地下鉄マルマライ線も、運行が大幅に遅れて、大変な騒ぎになっていたらしい。

しかし、今日は、シルケジ駅まで、マルマライ線は普通に空いていたから、『昨日のようなことはないだろう』と思って、帰りはカドゥキョイに出るつもりで、連絡船乗り場へ行くと、シャッターが下りたままになっている入口の電光掲示板に、「霧のため欠航」と記されていた。

どうやら、その1時間ぐらい前から運航が中止されたようである。

仕方なく、マルマライ線のシルケジ駅へ戻ったところ、駅は最も空いて良い昼の時間帯にも拘わらず、船に乗れなかった人たちでごった返していた。夕方まで欠航が続いていたら、また大変なことになっていただろう。

カドゥキョイへは、アイルルックチェシメスィ駅から歩いた。海岸に出ると、少し先に見えるはずのハイダルパシャ駅舎の姿もない。ヨーロッパ側よりも、霧はこちらの方が深かった。


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp

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3月2日 (木)  波には弱いが霧には強い?

昨日、濃霧のために欠航した海峡連絡船、シルケジとアジア側のハーレムを結ぶカーフェリーも同様に欠航していたけれど、民間の会社がやっている小さな連絡船は、まだ運航しているようだった。

と言っても、シルケジの海岸で、アジア側から来たと思われる小さな船が、ガラタ橋の方へ向かって、目の前を通り過ぎて行くのが見えただけで、運航の有無を確認したわけじゃない。

ひょっとすると、あれが欠航前の最後の便だったかもしれない。

しかし、海峡横断どころじゃなくて、マルマラ海を渡ってブルサまで行く高速船は、通常通り運航していた。これは一種の水中翼船で、海の上を飛ぶように航行する為、相当なスピードが出る。

あの霧の中では、それほどスピードも出せなかったと思うが、レーダーなどの機能により、少しスピードを落とせば安全に航行できる、ということなのだろか?

ところが、この高速船、波には弱くて、海峡連絡船が普通に航行できるような天候でも、よく欠航したりしている。

まあ、なんでも長所があれば、短所もあって当たり前なのかもしれない。

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3月3日 (金)  犬たちの行進?

(3月2日)

昨日(3月1日)、カドゥキョイで、3〜5匹の犬に追いついたり追い越されたりしながら歩いて、短い距離だったけれど、なんだか心が癒された。

イスタンブールに住んでいると、街中に野良がたくさんいるから、わざわざ犬を飼う必要もないような気がする。

近所の野良に餌でもやって手懐ければ、もっと仲良くなれるだろう。

トルコの人たちは、犬に限らず、猫にも他の動物にも、とても優しい。歩道には、犬の糞が転がっていたり、猫が集まっている所は小便臭くなっていたりもするが、あまり苦情の声は聞かれない。

動物に優しいくらいだから、人間にも優しいのだと思う。特に不慣れな旅行者には、何処の国の人であろうと親切にしてくれる。

「親日国」などと、何を根拠にしているのか良く解らないキャッチフレーズが使われたりしているけれど、実際は「親世界国」なのである。

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3月4日 (土)  凄い爺さん?

(3月2日)

産廃屋の思い出
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2008&m=7

34年ほど前、上記の産廃屋にいた頃、寮の部屋で、私より15〜17歳年長の先輩二人、青森県出身のヤマさんと岩手県出身のサトウさん、そして、私より3歳ほど年下で暴走族あがりという20歳の青年エンドウ君と無駄話をしていた。

つけっ放しになっていたテレビの画面に、未だ御健在だった昭和天皇の姿が映し出されると、エンドウ君はテレビの画面を示しながら、冗談とも思えない口調で、「この爺さんが凄いんだってね」と言い放ち、ヤマさんとサトウさんは凍りついたように顔を見合わせた。

「おい、エンドウ、お前、この人が誰だか知らないのか?」
「何だか知らねえけれど凄い爺さんだって話だよ」

「馬鹿、この人は俺のお父さんだよ」
「ハハハハ」

「まっ、それは冗談だけど、本当にお前、この人が誰だか知らないのか? 天皇陛下だよ」
「あっ、それそれ。凄く偉いんだってね」

ちょうど、その時、下からエンドウ君を呼ぶ声がして、エンドウ君が降りて行った後、ヤマさんは唖然とした表情で、「ニイノミ、お前はいくらなんでも知っていたよな。でも最近、学校じゃ天皇陛下について何も教えていないのか?」と私に訊きながら、首を傾げていた。

私は子供の頃に皇室一般参賀へ連れて行ってもらった記憶もあり、両親から皇室に対する敬意は何気なく教えられていたように思う。

しかし、高校時代を経て、左翼的な友人たちと生意気な議論を重ねたりしていた所為か、当時、それほど皇室を敬っているわけでもなかったけれど、エンドウ君の発言には私も驚かされた。

エンドウ君にしてみれば、天皇は右翼の大親分のようなイメージだったのだろうか?

それから数年、私はバイト先の先輩に、「皇室の人たちに、国民としての権利や自由は法的に保障されているんですか?」なんて問い質したこともある。

先輩はその翌年、司法試験に合格した法学士で、明確に皇室の存在を支持していたが、この時は、私に良く解らせようとしたのか、次のように答えていた。

*******
あのなあ、皇室の人たちは、結構あれで毎日美味しい物食べて快適に暮らしているんだぜ。

社会には貧しい家に生まれて満足に学べなかった人もいる。法的にはその人に自由や権利が与えられているだろうけれど、経済的な条件によって最初から人生の選択肢は狭められ、自由も制限されているんじゃないのか? 

その上、貧しくて快適とはいえない生活を余儀なくされているんだ。皇室の場合、法的にも自由は殆どないかもしれないが、快適な生活が出来るだけましだよ。世の中、全てが巧く行くことはない。様々な運命を背負った人たちがいて成り立っている。
*******

翌年、韓国へ語学留学していた私は、韓国の新聞だか雑誌の記事に、以下のように記されていたのを読んで、また皇室の存在について色々考えて見た。

「日本では権威と権力が巧妙に分離されている。天皇に権威はあるが、権力はない。首相は権力を持っていても権威は持っていない。これが社会に安定をもたらしている」

皇室の方たちが不自由を強いられてまで、何故、天皇という権威は存在しなければならないのか、私は今でも良く解っていない。

民主主義の世の中に、生まれながらにして職業選択の自由を奪われてしまった人たちが存在するのは甚だ矛盾しているだろう。

とはいえ、矛盾に満ちた人間たちの営む社会を何から何まで合理的に正そうとしたら、そのうちポキッと折れてしまうのではないか?

その意味で、皇室には、国家の権威ばかりでなく、この世の矛盾を象徴している意義があるかもしれない。

トルコの人たちから、「天皇とはどういう存在ですか?」と問われて、こんな私が答えては拙いけれど、一応次のように説明している。

「アタテュルクのような存在であると思います。貴方たちがアタテュルク廟へ詣でるように、私たちも皇室一般参賀などで皇居へ詣でるのです。ただ、アタテュルクはお亡くなりになった方ですが、皇室の方たちは生身の人間であるところが違うかもしれません」

アタテュルクについても、トルコでは、「個人崇拝はもうやめよう」とか「アタテュルク廟に祀りたてるのではなく、普通の墓地に埋葬してあげなければ故人の霊も浮かばれない」といった意見が聞かれる。

しかし、残念ながら、日本の皇室の方たちと同じく、トルコで権威を象徴しているアタテュルクも、そう簡単には自由になれないような気がする。



3月5日 (日)  民族問題の難しさ

(3月4日)

メルハバ通信〜「川崎の産廃屋でダンプの運転手」
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#200

この川崎の産廃屋の寮で、私を在日の韓国人と勘違いして、「日本人というのは随分おかしな連中だな。おまえもそう思わないか」と訊いた沖縄出身のKさんは、「自分のことを日本人だとは全く考えていない」と明らかにしていた。

彼は、沖縄から本土へ出て来ると、まず単車でカーフェリーに乗って、北海道まで行ったそうだ。「アイヌの人を見たかった」と言うのである。

当然、皇室にも「君が代」にも、相当な反感を抱いていたようだ。彼に限らず、あの寮にいた沖縄の人たちは、テレビの画面に映し出された天皇の姿を見て、激しい野次を飛ばしたりしていた。

韓国へ留学しても、全く揺らぐことのなかった私の愛国心は、沖縄の人たちと過ごしたあの1年で、見事にひっくり返され、暫くの間、回復しなかった。多分、私がまた確かな「日本人」になったのは、98年にトルコへ復帰してからじゃないかと思う。

しかし、こんな話を聞いて不愉快になる沖縄の人もいるかもしれない。

どのくらい確かな調査結果であるのか解らないが、沖縄で「独立を望む人たち」は25%に及ぶという記事を読んだ覚えがある。仮に、これが正しいとしても、75%の人たちは、引き続き日本への帰属を求めていることになる。

75%の人たちの中には、不愉快どころか、反発を感じる人もいるのではないだろうか?

一方、トルコで「独立を望むクルド人」に関する調査報告を見ると、「15%に及ばない」と明らかにされたりしている。これまた信頼性を疑う声も聞かれるけれど、クルド系政党の得票率の推移を見れば、結構、妥当なところであるような気もする。

AKP政権を支持して、「独立を望むクルド人」に敵愾心を抱くクルド人も少なくない。AKPの有力メンバーの中にもクルド人はいる。

なにより、トルコではクルドの人たちも、600年に亘って、オスマン帝国の有力な一要素であったため、沖縄の問題とは、歴史的な背景が大きく異なっているだろう。

19世紀に至るまで、オスマン帝国の人々は、自分たちを「オスマン人」と認識していたと言われる。その後、西欧から「国民国家」の思想が伝えられる過程で、各々の母語に基づいて、「トルコ人」であるとか「クルド人」といった意識が芽生えて来たらしい。

いずれにせよ、トルコ共和国が、現在の「国民国家」の成り立ちを反故にして、一から新たな国家を築こうとするのは、非常に危険な試みになると多くの識者が指摘している。これは、日本でも同様ではないかと思う。

皇室の権威を否定して、新たな正統性を確立しようすれば、それこそ膨大なエネルギーが費やされるばかりか、流血に至る混乱も覚悟しなければならなくなるかもしれない。


*写真:昨晩(3月3日)のクムカプの酒場街、週末の所為か大変賑わっていた。

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3月6日 (月)  対岸の火事?

北朝鮮のミサイル発射は、トルコのメディアでも大きく取り上げられている。

今年に入ってから、北朝鮮の問題に限らず、「中国とアメリカが衝突するのではないか?」といった極東全体の情勢が良く話題になっていたけれど、この一件で一層「極東」に注目が集まりそうである。

しかし、ニュース専門局の時事討論番組で、トルコの識者たちは、「ようやく中東の戦火が収まりそうになったら、極東が危なくなってきた。北朝鮮の暴発を懸念している」などと述べながら、あまり心配そうな様子でもない。

とはいえ、日本人の多くも、「中東情勢への懸念」を明らかにするだけで、言うなれば「対岸の火事を見物していた」ようなものだから、文句は言えないだろう。

ひょっとすると、今度は、トルコの人たちが「火事の見物」を決め込む番かもしれない。

中東の戦火に、トルコはなるべく巻き込まれまいと努めて来たが、結局、IS掃討の越境作戦に踏み切らざるを得なくなった。外の火種を消してしまわなければ、国内に飛び火するテロを防ぐことができないと判断した結果ではないかと思う。

そのため、既に多くの軍人が戦死している。

元左派のクルド人で、今はAKP政権の支持者であるジャーナリストのムフスィン・クズルカヤ氏が、「軍人は死ぬために給料をもらっている」と発言して大騒ぎになっていたけれど、実際、軍人は死を覚悟しないと務まらない職種になってしまった。

一方、イラクとイランの国境に接して、トルコで最も危険な地域の一つと言えるハッキャリ県に生まれ、高校卒業まで同地で過ごしたというクズルカヤ氏も、いくどとなく危険な目にあってきたはずである。

日本で、「自衛官は死ぬために・・・」なんて言ったら、たちまち右翼だのファシストだの色んなレッテルを張られてしまいそうだが、クルド人のクズルカヤ氏は、どちらかと言えば左派に近いリベラルであり、トルコ民族主義的な右派とは全く関係がない。

ただ、ハッキャリ県で生まれたために、おそらく様々な災難へ巻き込まれていたに違いない。トルコの不運も、この延長線上にある。

果たして、この先、日本が同じような状況に陥らないという保証はあるのだろうか?

右翼と罵られても構わないから、「さっさと憲法を改正させて、自衛隊を戦える軍隊にしておかなければ、取り返しのつかないことになるかもしれない」とトルコの不運を振り返りながら考えてしまう。


*写真:カドゥキョイ(3月5日)

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3月7日 (火)  石原慎太郎

87年に語学留学したソウルの下宿で、部屋の片隅に「月刊文藝春秋」が山積みにされていた。以前に下宿していた日本人留学生が残して行ったそうである。

その「文藝春秋」に、石原慎太郎氏の連載エッセイがあり、私はそこで初めて石原氏の文章に接した。他にどういう連載があったのか思い出せないところを見ると、おそらく石原氏のエッセイを特に興味深く思いながら読んでいたのだろう。

しかし、まずは難しい横文字言葉が多いのに悩まされた。それがアルファベットでそのまま表記されていたら、辞書で直ぐに調べられるけれど、カタカナ表記だったため、スペルが解らず、該当する単語を見つけるまで一苦労した。

多分、英語も解らない無学の読者は想定されていなかったのだろうが、私はその過剰に欧米的な雰囲気を怪しんだ。

当時、戦前世代の韓国の知識人には、反日を主張しながら、やたらと日本に関する知見をひけらかす人も少なくなかったため、なんとなく彼らと石原氏の間に類似性を感じたのである。

例えば、日本人記者の問いに決して日本語で答えようとしなかった金大中氏と、英語のインタビューを拒否した石原氏の姿も奇妙に重なり合ってしまった。

先日、ネット配信の「虎ノ門ニュース」で、有本香氏のインタビューに答えて、石原氏は、敗戦直後に米兵との接触で味わった屈辱について語っている。幸せな時代に育った私などには想像もできない苦しみがあったに違いない。

でも、それならば、独立を奪われた韓国の人たちが感じた屈辱に、もう少し配慮できなかったものかと思うけれど、それは、私が屈辱的な時代を知らないから、簡単に考えられてしまうだけなのかもしれない。

なにより、ソウルの下宿でエッセイを読んで以来、結局、石原氏の著作を一冊も読まなかった私に、つまらない批評を申し上げる資格などあろうはずもない。

連載エッセイの中に、養殖ハマチの危険性を訴えた文章があって、それは次のように書き出されていたと記憶している。「あの脂でギトギトしたハマチを美味いと思って食べる人もいないと思うが・・・」

私はこれにぶち切れてしまった。安いからと言って、美味いと思わないハマチをわざわざ食べる人が何処にいるだろうか? 安価なハマチは私の大好物だった。

食べ物の恨みが恐ろしいとは、良く言ったものだと思う。これで私は徹底的な石原氏嫌いになり、何か一冊読んでみる気にもならなかった。

尚且つ、石原氏を嫌う人が多い世間で、これに同調するのは、私にとって快適だったのだろう。はなから石原氏を拒絶してしまう食わず嫌いは、それ以降もずっと続いてしまった。

そして、「戦前の世代である中曽根氏の堂々とした態度に比べて、戦中戦後の世代には、何とも言えない屈折が感じられる」などと生意気に論じたりしていた。

しかし、良く考えて見ると、あの堂々とした戦前世代の先人たちが犯した過ちにより、戦中戦後世代は、たとえようもない屈辱感に苦しまなければならなかったのかもしれない。

その屈辱感を拭い去り、戦前の過ちを正して、もう一度日本が堂々と立ち上がるために、石原氏も様々な提言を行ってきたのではないだろうか。

ところが、屈辱をそのまま受け入れるかのような平和主義や現実感に乏しい独立自尊、あるいは、戦前の過ちを全く正そうともしない復古主義の間で、空虚な言い争いが延々と繰り返された挙句、私たちは未だに何処を彷徨っているのか解らずにいる。

もちろん、石原氏が韓国や中国について語った言葉の中に、私は納得し難いものを今でも感じているけれど、少なくとも、石原氏らの提言に耳を傾け、まっとうな議論を重ねていれば、森友学園などという時代錯誤が、この御時世に現れる機会はなかったように思える。



3月8日 (水)  展覧会の絵

(3月7日)

一昨日、友人に「只で酒が飲めるよ」と誘われて、ある展覧会のオープニングに出かけて来た。

絵画の良し悪しについては全く解らないが、一枚、ちょっと面白い絵が展示されていた。和服を着た女性が縄で縛られ、両足を露にされている図である。

作者の女性に訊くと、「日本のサドマゾがとても興味深かった」と言う。雑誌か何かで見た「緊縛」の写真を参考にして描いたらしい。

そこへ友人が来て、その絵を背景に作者の女性と並んだ写真を撮ってくれた。

翌日、友人がフェイスブックで送って来た写真を、よく考えもせずにシェアしたところ、「お似合いですね」とか「お幸せに」といったメッセージが書き込まれたので驚いた。

3分ほど立ち話しただけで、どういう方なのかも存じ上げない女性と「お幸せ」になったら大変である。

慌てて、その旨をメッセージで伝えたけれど、その後からも「お幸せに」が書き込まれた。

どうやら写真は見てもメッセージまでは読んでくれないらしい。

それなのに、写真から得た勝手な印象をもとに色々書き込んでくる。SNSはなかなか恐ろしいと思った。

仕方ないから写真を削除したが、いったいどういう想像を働かせると、私が突然「お幸せ」になってしまったりするのだろう?

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3月9日 (木)  デスクの陰からバットをちらつかせる?

(3月7日)

先日、地下鉄の駅で、野球のバットを2本、ビニール袋に入れて持ち歩いている中年男性がいたので、驚いて「ベースボールするんですか?」と訊いたら、「いやあ、これは私が扱っている商品なんですよ」と言う。

トルコには、おそらく野球場もないし、プレーするどころか、野球を知っているトルコの人も殆どいないのではないかと思っていたけれど、バットが商品になっていると聞いて、もっと驚いた。

20数年前、日本で、友人が働いている語学学校をトルコ人の友人と共に訪ね、友人の授業が終わるのを職員室で待っていたところ、来客用ソファの前に置かれたテレビが「日本シリーズ」の実況を伝えていた。

ヤクルトは、岡林投手があの伝説的な力投を続けていて、バッテリーと打者の間に息詰まるような駆け引きが展開されている。私はアメリカ人英語講師と並んで、テレビの画面に釘付けになってしまった。

ところが、トルコ人の友人からすると、この光景はとても奇異に思えたそうである。私たちが興奮して見つめる画面には、キャッチャーのサインを窺う岡林投手の姿が映し出されているだけで、これといったアクションもなかったからだという。

友人は、当時、1年ぐらい日本で暮らしながら、食べ物を始め、ありとあらゆる日本の文物に興味を示して、果敢にチャレンジしていたものの、野球にはどうしても馴染めなかったらしい。

確かに、野球はルール等を熟知しないと、観戦しても余り楽しめないスポーツだろう。

この野球のバットが商品として流通しているのであれば、非常に画期的なことである。もちろん、その辺りの状況も、バットを扱っているという人に訊いてみた。

そうしたら、その人がおかしそうに笑って、次のように説明してくれたので、なんだかがっかりしてしまった。

「お客さんの中にも、ベースボールやっている人はいないでしょうね。これは室内や車の中に飾るアクセサリーとして使われているんじゃないかと思いますよ」

そういえば、数年前、トルコの新聞に、「ホワイトハウスの執務室で、エルドアンと電話会見しているオバマは、もう一方の手でバットを握りしめていた」という記事が、写真と共に掲載されて話題になっていた。

「マントの陰から棍棒をちらつかせる」というトルコ語の諺に擬えて、トルコを暗に恫喝しようとするオバマ大統領の態度が論じられていたのである。

あれ以来、トルコでも、野球のバットは少し有名になっていたかもしれない。

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3月10日 (金)  国際女性デー

(3月8日)

今日(3月8日)は、「国際女性デー」らしい。昨日、AKPのイズミル女性支部が主催した「国際女性デー」の会合では、ユルドゥルム首相のスピーチもあり、その模様がニュース番組で報じられていた。

スピーチの中で、ユルドゥルム首相は、AKPの女性議員らを紹介しながら、姓名を間違えて読み上げてしまい、「最近は、女性の姓が増えたので・・・」と弁明している。

いつ頃からそうなったのか解らないが、トルコでは、結婚した女性が、夫の姓と共に旧姓を併用することも認められているようだ。

例えば、その「国際女性デー」の会合にも出席していた家族社会政策担当相のファトマ・ベテュル・サヤン・カヤ氏(女性)は、ファトマとベテュルの2つの名前を持っているうえ、自分の姓であるサヤンと、夫の姓であるカヤの双方を使っているので、なんだかとても長い姓名になってしまっている。

日本で議論されている選択的夫婦別姓に、こういう選択も加えたらどうだろう? 稲田椿原朋美さんとか、なかなか格好良いかもしれない。

ユルドゥルム首相のスピーチでは、オスマン帝国時代の1828年に、イズミルで起こった女性の抵抗運動も紹介されていた。

オスマン帝国政府が、パンの値上げを実施したため、まずは男たちが街頭に繰り出して抗議したものの、政府は何の反応も見せなかった。

ところが、その後で女性たちが3日に亘って抵抗運動を繰り広げると、怖れをなした帝国政府は、パンの値上げを撤回してしまったそうである。

強大なオスマン帝国をも怖れさせるなんて、トルコの女性たちは、当時から恐ろしかったらしい。


ユルドゥルム首相のスピーチ(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=23_vdm9fbzA

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