Diary 2016. 6
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6月1日 (水)  エスキジ(古物商)とフルダジュ(スクラップ屋)

先日、家電修理屋さんに、廃品回収屋さんの移転先を訊いて、「その辺りで、越して来た“エスキジ”は何処か、また訊けは解るでしょ?」と言ったら、「おいおい、彼らの仕事は“フルダジュ”で、“エスキジ”じゃないよ。“エスキジ”を探すと、全く違う所へ連れて行かれてしまうぞ」と笑っていた。

“エスキジ”は、直訳すれば“昔屋”で、古物商と言って良いかもしれない。“フルダジュ”の“フルダ”は、辞書を引くと「くず(鉄)、スクラップ」となっていて、要するに“スクラップ屋”である。

家電修理屋さんは、「直せば未だ使える古物を集めて回るのが“エスキジ”で、使い物にならない古物を集めるのが“フルダジュ”さ」と教えてくれた。しかし、廃品回収屋さんで働いている人たちも、古物を集める際に、「エスキジ〜」と触れ回ったりしているから、ちょっと紛らわしい。

さて、日曜日、故マリアさんの娘スザンナさんに呼び出されて、ビュユック島の旧別宅のゴミ出しを少し手伝わされたが、彼女も“フルダジュ”と“エスキジ”を混同している一人であるように思えた。

もう3年ぐらい放置されたままの別宅に残された品々は、冷蔵庫にしてもテレビにしても、既に完璧なスクラップになっていて、引き取りに来た“フルダジュ”さんも、威勢よくトラックの荷台にぶん投げていた。でも、その前にスザンナさんは、「未だ直せば使えます」と一生懸命説明していたのである。

そして、“フルダジュ”さんは、彼女が全く予期していなかった寝台の残骸といった“くず鉄”も喜んで引き取ってくれたけれど、どうやら彼女は、“フルダジュ”がどうやって利益を上げているのか良く解っていなかったらしい。

昔、私が日本で産廃屋をやっていた経験からすると、“くず鉄”よりも、古物家電の中に含まれている銅線がい値で売れたし、アルミニウムはそれ以上の値がついた。

それはともかく、かつては私も良くこの別宅を訪れていたから、馴染んだ懐かしい品々がスクラップとなって、トラックの荷台へ放り込まれて行くのを眺めていたら、なんだか一抹の寂寥感に襲われてしまった。

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6月2日 (木)  サクランボ

イスタンブールは、市場にサクランボが出回る季節になった。良く見ると我が家の軒先の樹にもサクランボの実がなっている。

先日は、帰宅した際に、向かいの家の男の子に呼び止められて、サクランボの入ったビニール袋を手渡された。礼を述べに伺うと、家族そろって庭先でチャイを楽しんでいるところだった。

お父さんが立ち上がって来て、「いや、ここの樹に成っていたものですから、どうぞ召し上がって下さい」と微笑む。特に交流があるわけでもないのに、トルコの人たちの隣人愛はとても暖かい。

もちろん、ありがたく頂くことにした。サクランボは、糖質制限に引っ掛かるかもしれないが、少しずつ食べれば良いだろう。

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6月5日 (日)  モハメッド・アリ逝く

昨日、エルドアン大統領は、“トルコ輸出業者会議”の総会でスピーチした際、最後に「アリの訃報」を伝えて、2分以上にわたり功績や思い出について語っていた。

「・・・若い頃、私たちは夜中に白黒テレビで彼を観ていた。とてもエキサイトしながらその姿を追っていた。子供の頃から青春時代にかけて、いつもはボクシングに余り関心のない人たちも含めて、彼の試合を観るために朝までテレビやラジオの前で待っていた。・・・」

アリがジョージ・フォアマンをKOで降した“キンシャサの奇跡”は、1974年のことだから、エルドアン大統領も未だ20歳の若者であり、おそらく朝までテレビの前で待っていた人々の中にいたのではないかと思う。

その2年後の1976年、アリはイスタンブールを訪れ、人々の熱狂的な歓迎を受けたけれど、当時の新聞に掲載された写真を見ると、エルドアン大統領の師である故ネジメッティン・エルバカン元首相と壇上に上がって群衆の歓呼に応え、ブルーモスクで礼拝に参列したようである。これは、若き日のエルドアン氏に忘れ難い印象を残しただろう。

私にとっても、アリは“絶対的なヒーロー”であるため、エルドアン大統領のスピーチには思わず感動してしまった。

また、エルドアン大統領に限らず、オバマ大統領を始め世界各国の政治家や著名人が、アリの死を悼んでメッセージを発信している。それが、どういうわけか、日本の報道では、40年前に、アリと良く解らないイベントで共演した元プロレスラー氏のコメントばかりが目立っていて悲しくなる。

元プロレスラー氏は、ボクシングの選手だったわけでもなければ、世界一流のアスリートの中にも数えられていないだろうに、コメントの中でアリを“ライバル”と呼んでいた。草葉の陰で故ジョー・フレージャー氏が聞いたら驚くに違いない。

もっとも、元プロレスラー氏が背負って来たプロレスの歴史は、日本の敗戦から復興の歴史と微妙に重なっているような気がする。だから、この“プロレスのヒーロー”を批判したらいけないかもしれない。

しかし、日本はいつになったら、戦後の闇や“力道山の空手チョップ”から解放されるのだろう。もう空手チョップの演出などしなくても、実力で大リーガーを捻じ伏せる野球選手たちが活躍しているというのに・・・。


エルドアン大統領のスピーチ(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=DKW1HOK1lGY

キンシャサの奇跡
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=30&y=2014&m=10

3月16日 (火) イスタンブールの名誉市民モハメッド・アリ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2004&m=3

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6月7日 (火)  蝶のように舞い蜂のように刺す

私がモハメッド・アリに引き付けられたのは、1972年の6月、テレビでジェリー・クォーリーとの第2戦を観てからだ。当時、私は小学校6年生だった。↓

Muhammad Ali vs Jerry Quarry 2
https://www.youtube.com/watch?v=xKAeghZCNcw

その2年近く前に、ジョー・フレージャーとの歴史的な一戦も観ていたけれど、あれは父親が大騒ぎして観ていたのを一緒にぼんやり眺めていただけで、最終ラウンドにアリが壮絶なダウンを喫した場面ぐらいしか印象に残っていなかった。

その後もスポーツ観戦と言えば、相撲と野球で、ボクシングには余り関心がなく、ジェリー・クォーリーとの第2戦もたまたま他に見る番組がなかったので、なんとなく観始めたに過ぎない。あの時間、家には私の他に誰もいなかったのではないかと思う。

それが、暫く観ているうちに、画面の中のアリの動きへ引き寄せられてしまう。とにかく『なんて恰好良いのだ!』と感嘆していた。あの試合のアリは、全盛期を彷彿とさせる動きで、カウンターの名手と言われたクォーリーを翻弄し、まさしく“蝶のように舞い蜂のように刺す”だったような気がする。

それから瞬く間に、アリは私の“絶対的なヒーロー”になってしまったけれど、要するに、動きの格好良さ、美しさに見惚れていただけで、今、やたらとクローズアップされている“政治的な言動”であるとか“イスラムに改宗”といったリング以外の出来事には殆ど関心もなかった。今でもそれほど関心を持っているわけじゃない。私にとってアリは、あくまでもボクシングというスポーツのヒーローである。

ところが、そのボクシングで、私はアリの全盛期をリアルタイムで見ていない。アリの全盛期は、なんといっても兵役拒否で3年余のブランクを経る前の1965〜67年頃だろう。

今では、以下のように“YouTube”から簡単に当時の試合を観ることが出来るけれど、これをリアルタイムで観ていたら、どんなに素晴らしかったか・・・。

Muhammad Ali vs Cleveland Williams
https://www.youtube.com/watch?v=oJUzl0aFHZw&feature=youtu.be

リング以外の言動に、それほど興味はなかったものの、“ほら吹きクレイ”とまで言われた大言壮語は、なかなか痛快だった。私自身が意気地なしで、なるべく自分のエゴを隠そうと努めて来たから、あのエゴむき出しの言動が痛快に思えたのかもしれない。

それに、普通、人間がエゴをさらけ出したら嫌らしく見えるはずなのに、アリの場合はなんとなく微笑ましく見えてしまうから不思議だ。あまり屈折したところのない一直線な人柄の所為じゃないかと思う。しかし、あれほど強烈なエゴを持った人間が、なんらかの宗教に帰依してしまうのは、ちょっと信じ難い気もする。アリにとって神とは、即ち自分自身ではなかったのだろうか?

以下の「カシアス・クレイ」には、ノーマン・メイラーによる前書きが収められていて、メイラーはアリの強烈なエゴを独特な表現で称えていたけれど、残念ながら殆ど思い出せない。アリがエゴのボートで宇宙空間に飛び出すとか、そんな言い回しだったような記憶が頭の片隅にある。また、読んで直ぐに強い印象を受けたのは、翻訳の力もあったに違いない。

「カシアス・クレイ」ホセ・トレス/[著] 和田俊/訳
http://honto.jp/netstore/pd-book_00065777.html
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001282324-00

ライトヘビー級王者が描く、内側から見たボクシング〜『カシアス・クレイ』を読む〜
http://number.bunshun.jp/articles/-/823924

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6月9日 (木)  大豆を求めてアクサライ・・・テロの現場は通行規制

大豆はイスタンブールでも売っていると思っていたのに、これがなかなか見つからない。エジプシャンバザールの周辺も随分探してみたが、やはりなかった。

昨日は、友人と昼前にスルタンアフメットで待ち合わせだったので、少し早目に家を出て、アクサライに寄ってみた。アクサライのマーケットでは、サツマイモのような変わった食材も売っていたからだ。

しかし、期待通りに大豆は現れてくれなかった。「大豆? ないねえ。この辺で探してもないと思うよ。あるとしたら、ミグロスやカリフールといった大型スーパーだろうね」と言われたけれど、なんとなく待ち構えていたように答えていたから、大豆を探してこのマーケットに来たのは私が初めてじゃなかったかもしれない。

さて、アクサライからスルタンアフメットに向かおうとすれば、路面電車の通りを辿るか、さもなければ、ローマ時代の水道橋近くの通りへ出るかだが、一昨日の爆発事件の現場を確認して置こうと、躊躇わずに後者を選んだ。

ところが、現場の近くまで来たら、通行が規制されていて、かなり大きく迂回する羽目に陥り、待ち合わせ時間に10分ほど遅刻してしまった。

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6月10日 (金)  ユダヤ教コーシェルの料理

(6月9日)

昨日(6月8日)の昼飯は、ユダヤ教コ―シェルの料理だった。ユダヤ教の戒律に則った食材・調理法による料理である。

3月28日 (木) イスタンブールのユダヤ教コーシェルの料理店
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=3

上記の料理店は、既に閉店しており、今回、友人と出かけたのは、オスマンベイにあるシナゴーグの中で営業している食堂だった。

ここは、料理や雰囲気もさることながら、なんといっても、調理から接客までを切り盛りしている気さくなユダヤ人のおばさんが、底抜けに明るい笑顔で私たちを楽しませてくれたけれど、それほど気安く来られるわけでもない。

以下のように、フェースブックでも広告しているし、おばさんは、「また来てね! 友達たくさん連れて来てね!」とにこやかに話していたものの、事前にイスタンブールのユダヤ教本部のような所から許可を取らなければならず、セキュリティーはなかなか厳しかった。

ユダヤ料理店・イスタンブル
https://www.facebook.com/KaserLokanta/?fref=ts

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6月11日 (土)  マダム・デスピナーのメイハーネ(居酒屋)

(6月9日)

昨日(6月8日)の夕食は、マダム・デスピナーのメイハーネ(居酒屋)へ。ルーム(トルコに住んでいるギリシャ人)女性の故デスピナーさんが、1946年に創業したという老舗のメイハーネ(居酒屋)である。

テーブルには、チロズ(干し魚を焼いて酢に漬けたもの)といったギリシャ語の如何にもルームらしい料理から、トピクのようなアルメニア人の料理も並んだ。

【101】アルメニア人の食卓【ラディカル紙】【2004.12.02】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00101.html

もっとも、チロズやトピクは、イスタンブールの多くのメイハーネ(居酒屋)で味わえる定番のメニューである。

政権党AKPの議員であるアルメニア人のマルカル・エサヤン氏が、「オスマン帝国は、当時のアメリカだったのだ」と語っていたけれど、様々な民族や文化が混淆したオスマン帝国の都は、昨日の食卓からも偲ぶことができる。

また、エサヤン氏は、「この地域は、強力な安定した国家が平和を築くか、あるいは弱小の各勢力に分裂して争い、列強の喰い物にされるかの何れかしかなく、中程度の国家が併存するという状態には成り得ない」と論じて、AKP政権による強力なトルコ共和国の必要性を強調していた。

つまり、南東部クルディスタンのトルコからの離脱などは、地域の混乱を深めて、列強に利するだけだと言うのである。

一昨日(6月7日)のテロは、そういったトルコからの離脱を図ろうとしているクルド勢力の仕業と考えられているが、今後、拡散・拡大する可能性は殆どないと思われ、事態が収束に向かう過程で起きた単発的な事件という見方が、今のところ支配的ではないだろうか。

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6月12日 (日)  モハメド・アリの追悼式

(6月11日)

昨日(6月10日)、アリの故郷ルイビルで追悼式が行われ、出席したクリントン元大統領は弔辞を読み上げたそうだ。

トルコのエルドアン大統領も、この追悼式でスピーチするかもしれないと噂されていたけれど、エルドアン大統領は、前日営まれたイスラムの葬儀に参列しただけで、早々と帰国の途についた。

おそらく、アメリカ側との調整がつかなかったのだろう。アメリカ側としても、中東のイスラム世界ではアリ以上にポピュラーな人気があると言われるエルドアンに追悼式でスピーチなどされたら迷惑だったに違いない。

しかし、アメリカはこの追悼式で、イスラムと他宗教の融和を巧みに演出しようとしたはずだ。エルドアンの葬儀参列も、その意味では悪くなかったんじゃないかと思うが、どうなんだろうか?

さて、昨晩のある時事番組では、ファディメ・オズカンという女性ジャーナリストが、アリの思想的な功績を称えながらも、ボクシングは頭部に打撃を加える危険なスポーツだから廃止されるべきじゃないかと論じていた。

アメリカでもボクシングを危険視する声は年々高まっていて、競技人口は減少の一途を辿っているそうだから、ボクシングの歴史に幕が下ろされる日は、そう遠くないかもしれない。

今思えば、モハメド・アリの名は、ボクシングというスポーツがその頂点を極めた時代に燦然と輝いていたのだろう。少なくとも、ヘビー級では技術的にも頂点に達していたような気がする。その後、アメリカで、身長も高く運動能力に優れた人たちは、バスケットボールなどの分野を目指すようになり、ヘビー級の競技人口は急激に減ってしまったらしい。

アリのパーキンソン病と頭部に加えられた打撃の因果関係も良く取り沙汰されていた。しかし、アリが相手の選手にそれほど深刻なダメージを与えたことは余りなさそうである。

アリのパンチ力は、ヘビー級歴代チャンピオンの中で最も軽いと評されていたくらいだし、それが平和主義によるものかどうかは解らないが、アリはグラッとよろめいた相手に決定的なパンチを打ち込むのを躊躇うことが多かった。おそらく、そこに何らかの美意識はあったに違いない。

アリのボクシングの魅力は、“蝶のような舞い”で相手のパンチを外し、“蜂のような一刺し”で的確に相手の急所を突き、酷い肉体的なダメージを与えずに勝つところだったと思う。

アリに倒された相手は、大概の場合、カウントが終わる頃には立ち上がっていて、そのまま失神してしまう事態には至っていない。アリのボクシングに、背筋が冷たくなるようなシーンはまずなかったはずである。

著書「カシアス・クレイ」の中でホセ・トレスは、アリとジョー・フレージャーの力量を比較しながら、アリの100%はジョーの100%を上回るものの、アリはジョーのように、いつも100%に仕上げてくるわけじゃないと論じて、ジョー・フレージャーが自分の肉体を鞭打つ態度に、中南米の独裁者たちを擬えていた。

「フレージャーは、トルヒーヨ(この後に他の独裁者の名が続いていたと思う)のような態度だ。彼の肉体はその命令に従わなければならない。それでは、アリの態度は何なのか? きちがいじみた民主主義者なのか? 考えてみなければなるまい。・・・」(こんな感じで記されていたように記憶している)

アリは、ボクシングの選手として、なかなか“穏健派”だったのかもしれない。また、民主的だったかどうかはともかく、確かに好不調の波があって、いつも100%には仕上がっていなかったような気もする。

これでは、完璧なアスリートとは言い難くなるけれど、1975年10月の対フレージャー第3戦で、アリは超人的な精神力を発揮して、“冷酷な独裁者”との消耗戦を凌いで勝つ。あの試合にも、私はアリの神懸かりな力を感じてしまった。

また、12歳の少年アリは、親の指導でも周囲の勧めでもなく、ほぼ自分一人の決意でボクシングを始めたらしい。シュガー・レイ・ロビンソンに憧れて、そのボクシングを模倣したそうだが、ロビンソンの教えを受けたわけでもなければ、子供の頃から教官たちの指示にも余り従わず、自分でボクシングに関する本を読み漁って、自分なりにやり方を研究したという。

オリンピックで金メダルを取った後、プロ入りする過程で、自らアンジェロ・ダンディーのジムに押しかけ、自分を勧誘しに来なかったダンディーに腹を立てて、「どこのジムも、高級車を用意したりして俺を勧誘したのに、あんたは馬鹿じゃないのか?」と罵ったというから凄い。

なにからなにまで、自分が起点となっていなければ気が済まない究極のエゴイストだったのだろうか?

と、こうやってアリの話を始めたら、一日中続けてしまうから、この辺で止めにします。そもそもここまでの話は、以下のホセ・トレスの著作「カシアス・クレイ」に書かれていたことばかりです。↓


「カシアス・クレイ」ホセ・トレス/[著] 和田俊/訳
http://honto.jp/netstore/pd-book_00065777.html
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001282324-00


6月14日 (火)  猫広場?

日本では、最近、人里の近くまで下りて来たクマに、住民が襲われる事件が相次いでいるという。このクマは、本州以南に生息しているツキノワグマで、北海道のヒグマに比べれば、ずっと小型で、肉食の傾向も少ないと言われていた。

ところが、以前実家のあった相模原市藤野の周辺では、鹿が増えたため、これを襲って食べるようになり、冬眠しなくなったクマもいたらしい。ドングリのような食べ物と異なり、鹿は冬になってもいなくならないからだ。

それで、「鹿の味を覚えたクマは、人間が意外と弱っちくてのろまなことが解れば、こっちを襲うようになるのでは・・・」などと半ば冗談で話していたら、こんなことになってしまうとは・・・。

“人食いトラ”とかいうのも、年老いて鹿などの獲物を追えなくなったトラが、一か八か人間に手を出したところ、いとも簡単に仕留められたので、以後、常食するようになったのが多いそうである。ツキノワグマが、同様の過程を経ないように祈りたい。

そういえば、私が初めてイスタンブールに来た91年の頃は、街角でクマに芸をさせて見物料をもらう、“猿回し”ならぬ“熊回し”が未だいた。

それが、翌92年だったか、動物愛護団体の人たちが「クマを虐待している」として廃止を求める運動を始め、政府もこれを認めて、瞬く間に“熊回し”は街角から姿を消してしまった。

“熊回し”のおじさんたちは、何か他の職を探し、クマは故郷の山野に返されたらしい。山野で無事に暮らせただろうか?

クマは、シリアヒグマというヒグマの亜種で、北海道のヒグマとは比べ物にならないくらい小さかった。ツキノワグマより小さかったかもしれない。なんでも、ヒグマの仲間では、最も肉食性が少なく、草食動物のように臼歯が発達していたという。その所為か、なかなか愛嬌があって可愛らしかった。

しかし、トルコ語でアユ(クマ)と言った場合、決して“クマさん”と呼ばれるような愛嬌は感じられない。下劣で粗暴な奴の代名詞である。

トルコ語の罵倒する言葉に良く使われる動物は、クマ、ロバ、犬といったところじゃないかと思うけれど、犬は何処でも可愛がられていて、街角には野良犬がのんびり昼寝していたりする。

でも、最も可愛がられている動物は、やっぱり猫だろう。トルコの野良猫は、人を見たら逃げるどころか、餌をもらえるんじゃないかと思って近寄って来る。

写真の広場の正式な名称は何というのか知らないが、私は勝手に「猫広場」と名付けている。シシリーの軍事博物館の直ぐ近くで、暫く来なかったら、猫が随分増えていたので驚いた。

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6月16日 (木)  大豆をゲット!

今日、友人に教えてもらったエジプシャンバザール付近の食材店で、ついに大豆を見つけて、2キロほど買い入れた。1キロが5リラと値段も手頃だった。この前、探し回った時は、どうやら見当外れな所をうろついていたようだ。

この大豆、産地は黒海地方のサムスンらしい。店の人が、「残念ながら、貴方のお国の大豆じゃないよ」と言うので、「いやあ、日本で売っている大豆も、その殆どはアメリカ産ですよ」と応じたら、買い物に来ていた初老の女性がこちらを振り向き、「それじゃあ、日本は、あの遺伝子組み換え“大豆”を買わされているんですね」となかなか鋭いご指摘。

それから、皆で「サムスン産なら大丈夫だろう」と落ちをつけて笑い合ったけれど、私はサムスン産大豆に遺伝子組み換えが有るのか無いのか知っているわけじゃない。また、それほど有無を気にしてもいない。そもそも、危険性云々と言われたところで、私には殆ど解らない分野の話である。

しかし、大豆をわざわざ買って来たくらいだから、糖質制限の方は、科学的なことなど余り理解出来ぬまま、充分気にしている。こちらは、体調が良いのと、苦も無く減量できた実績を見れば、おそらく有効なのだろう。続けてみる価値はあると思う。

それに、体調に関しては、もう一つ驚くべき変化が見られる。トルコへ戻って来てからは、毎日のように血圧を計っているけれど、これが正常値の120まで落ちて来たのだ。

160まで上がって診療を受けた2013年の2月以来、好きなチーズも止めて極力塩分を控えた所為か、降圧剤など使わなくても済むくらいに落ちてはいたものの、それでも130〜140の間を行ったり来たりで、145ぐらいまで上がっていることも良くあった。

それが、この数日は、朝起きて直ぐ計ったりすると110前後だったりすることもある。最近、塩分は特に減らしていないから、これも糖質制限による効果なのかもしれない。

今日は、大豆を買った後、エジプシャンバザール脇のチーズ屋に寄って、チーズも少し仕入れて来た。多分、ここでチーズを買うのは、2013年の1月以来だろう。店のおじさんに、「あれっ? 久しぶりだなあ」と言われたけれど、食べてみて余り血圧が上がらないようだったら、またちょくちょく寄らせてもらうことにする。

もちろん、塩分の少ないチーズを選んだし、以前のように、塩辛いものを好んで食べるような真似はしないつもりだ。

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