Diary 2016. 12
メニューに戻る
12月1日 (木)  マルディン市長アフメット・テュルク氏の逮捕

先週土曜日(11月26日)のヒュリエト紙のコラムで、ムラット・イエトゥキン氏は、逮捕されたクルド人政治家アフメット・テュルク氏と面会するために、マルディンを訪れたデニズ・バイカル前CHP党首の談話を伝えていた。

それによると、バイカル氏はマルディンまで出かけたものの、拘束されているテュルク氏との面会を果たせず、自宅にテュルク氏夫人を訪ねて、その要望を聞いたそうである。

高齢のテュルク氏の健康状態を案じた夫人は、収監されるならマルディンの刑務所に留めてもらいたいと望み、バイカル氏も直ぐさまベキル・ボズダー法相に、これを要請したという。

しかし、ボズダー法相が、バイカル氏へ「要請を関係所管に伝える」と返答したにも拘わらず、テュルク氏は、イスタンブール近郊の刑務所まで移送されてしまった。バイカル氏によれば、法務大臣の指令さえも軽視する何らかのメカニズムが機能しているらしい。

また、この数年来、バイカル氏とエルドアン大統領は、与野党間の争いをよそに、様々な局面で連絡を取り合って来たのではないかと憶測されているけれど、バイカル氏は、エルドアン大統領の最も忠実な側近と言われているボズダー法相とも、簡単に連絡を取り合える間柄であるようだ。

2015年3月13日(金)2003年のエルドアン−バイカル密談
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2015&m=3

ところで、2009年の8月、エルドアン首相(当時)と会談したテュルク氏は、やはりムラット・イエトゥキン氏のコラムを通して、当時まだCHPの党首だったバイカル氏に、以下のようなメッセージを伝えている。

「私はあの時に心を分かち合ったバイカル、痛みを理解し、拷問の何たるかを知り、それを追及しようとしたバイカルと会いたい。もしも、また向かい合って座り、ラクを飲みながら話し合えたなら・・・。我々は古い友人同士だ」

1980年の軍事クーデターで、バイカル氏と苦難を共にしたテュルク氏(当時はCHPの党員)は、1983年、マルディンを訪れたバイカル氏とラクの杯を酌み交わしながら、苦難の日々を語り合ったというけれど、信心深いエルドアン首相が、ラクを飲めるはずもないから、これはなかなか意味深なメッセージであるように思えた。

しかし、この時(2009年8月)、バイカル氏は、「PKKをテロリストと認めない者とは話し合えない。アフメットは変わってしまった」と述べて、テュルク氏の呼びかけを、にべもなく拒絶している。

今回、バイカル氏は、PKKに協力した罪で逮捕されたテュルク氏を擁護しながら、面会を求めてマルディンにまで出かけているのだから、7年前と現在で、何がどういう風に変化したのか、検証してみなければならないだろう。

7年前、エルドアン首相は、テュルク氏とも会談して、クルド問題の解決に、一応前向きな姿勢を見せていたものの、あの頃は、元来AKPを支持していたイスラム的なクルド人たちの中からも、エルドアン首相の姿勢を非難する声が上がっていた。

エルドアン氏の側近と言ってもおかしくないメフメット・メティネル氏が、エルドアン首相に対して、「クルド問題に対する態度が民主的じゃない」とか「トルコを統治するだけの知性も政治的な蓄積もない」といった激しい言葉を浴びせていたのもあの頃だった。

メティネル氏とエルドアン大統領
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=20&y=2015&m=11

その後、2010年9月の憲法改正国民投票を乗り切った辺りから、徐々に好転の兆しを見せていたクルド問題の解決は、2011年6月の国政選挙におけるAKPの圧勝を経て、いよいよ加速され、2013年3月の平和宣言に漕ぎつける。

それが、2015年の7月以降、再び大きく暗転してしまったけれど、これはシリアの内戦に活路を見出したPKKの戦略転換によるものであり、トルコ国内のクルド問題ではないと主張する識者もいる。果たして、今後の展開は、どうなって行くのだろうか?


2009年8月12日(水)トルコのクルド問題
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2009&m=8


*写真:雨のジハンギル〜イスティックラル通り(11月29日)

20161201-1.jpg 20161201-2.jpg



12月2日 (金)  クルディスタン州

2013年の3月、エルドアン首相(当時)は、ジャーナリストらの質問に答える報道番組で、「2023年、首相だったならば、その時は州制度を提議する」と述べている。

クルド問題が解決に最も近づいた頃でもあり、エルドアン首相は、民主主義の発展と地方自治の拡大に、相当な自信を抱いていたのだろう。

オスマン帝国には“クルディスタン州”もあった、オスマン帝国の後継者を自認するMHPが何故それを恐れるのか、我々はトルコの全域から支持を得ている(MHPはクルド地域から全く支持を得ていない)、等々の自信に溢れた発言を繰り返していた。

州制度の議論は、大統領制とも関連しているが、つい先日放送された報道番組に出演していた法律学者によれば、大統領制は、もともとエルドアン氏の発案というわけでもないらしい。

この法律学者を含む何人もの識者から、当時未だ首相だったエルドアン氏が意見を聞き、その過程で大統領制の構想が形作られてきたそうである。

例えば、2013年3月頃の段階では、大幅な地方自治を認めた州制度による「アメリカ的な大統領制」が構想されていたかもしれない。

あの仰々しい大統領府も、そういった構想のもとで建設計画が進められていたのではないだろうか?

2013年の3月、PKKのオジャランが平和宣言を発表し、5月にトルコはIMFの債務を完済している。

当時、トルコの多くの人たちが、華々しい未来を描いていたに違いない。それが、6月のゲズィ公園騒動で早くも陰りを見せ始め、2015年以降、一気に萎んでしまう。

現在、MHPの呼びかけに応じて再開された「大統領制」の議論には、州制度など全く出て来ていない。実現したところで、なんだか随分こじんまりした大統領制になってしまいそうだ。

大統領制に伴う憲法改正では、「クルド民族」という言葉を憲法に織り込めるのではないかと、かつては期待されていたけれど、今となっては、これも殆ど不可能に近いような気がする。

MHPばかりでなく、AKPの党内からも猛烈な反発を受けるだろう。

さすがのエルドアン大統領も、州制度はとうに封印しているようだ。「クルディスタン州」なんて、また言い出したら、それこそ大変なことになる。

2023年、「大統領制によって強化された大統領」にエルドアン氏が就任していたとしても、州制度を提議するのは絶望的に難しいと思う。2023年まで、もう6年しか残っていない。


2013年3月:州制度について語るエルドアン首相(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=wzhURlrFLKA


*写真:雨のイスティックラル通り(11月29日)

20161202-1.jpg 20161202-2.jpg



12月3日 (土)  分割とイスラム化の脅威

90年代のトルコでは、分割とイスラム化の脅威が叫ばれていた。イスラム化を目論んでいると見做された政党は、司法の介入によって解党されても、軍事介入で政権の座から引きずり降ろされても、それは致し方ないことだった。

クルドの言語と文化の解放を要求する人々も、トルコの分割を目論む欧米の手先と見做され、彼らに対する弾圧は、これまた致し方なかった。

EU加盟を目標に謳ってはいたものの、分割の脅威がなくならない限り、その条件に合わせてしまうのは危ういと思われていた。「トルコは四方を敵に囲まれている」などと言い、孤立主義を主張する知識人も少なからず見受けられた。

そもそも、80年代、オザル政権が経済開放に踏み切るまで、トルコでは、50年間に亘って外貨の所有が禁じられていたそうである。そのため、人々は、「金」を購入して財産の保持に努めていたという。

しかし、2002年、イスラム主義の政党と言われていたAKPが単独で政権に就くと、「分割とイスラム化の脅威」に大きな変化が見られるようになる。

AKP政権は、EU加盟の目標を高々と掲げ、条件の整備にも前向きな姿勢を見せて、2006年には加盟交渉権を得る。翌2007年の国政選挙でAKPは、欧米との協調や市場経済の重要性を訴えて、これに強く反対するCHPを退けた。

クルド人らの要求も少しずつ受け入れが進み、2013年の10月には、私立学校でクルド語による教育を可能にする法改正が成し遂げられる。「分割とイスラム化の脅威」は既に消え去ったのではないかと思われた。

ところが、2014年になって、シリアの内戦が激化し、ISがその支配地域を拡大させると共に、トルコを取り巻く状況は悪化の一途を辿り、再び「分割の危機」を叫ぶ声が高まって来た。

「ISの跳梁跋扈はアメリカが仕掛けた」とか「トルコの分割を狙うEU各国が、PKK〜PYDのクルド勢力を支援している」といった様々な“陰謀論”が飛び交い、「トルコは四方を敵に囲まれている」状態に戻ってしまったかのようだ。

これでは、90年代に、国家主義的な人たちが唱えていた「分割とイスラム化の脅威」は、全て正しかったということになってしまいそうである。

現在、AKPを「イスラム主義の政党」と未だに思っているのは、ごく限られたラディカルな少数派に過ぎないが、「イスラム化の脅威」はギュレン教団という別の形で現れたと言えるかもしれない。

かつて、エルドアン首相は、EUを信頼して加盟交渉を進め、アメリカにも友好的な態度で接し、クルド勢力の運動家とは親密な関係を築いていたけれど、今やその全てが行き詰まっている。

『だから言わんこっちゃない。あれほど、みんな敵だと注意したのに・・』と内心せせら笑っている反対派もいるだろう。

州制度に言及した、当時のエルドアン首相の構想は、非常に大きなものだったと思うけれど、それが小さく縮まって、権限ばかり大きい「大統領制」が議論されているような現状である。

危機的な状況を突破するためにも、権限はなるべく大統領に集中させた方が良いと考えている識者も少なくないようだ。必要なのは緊急処置であり、大きな構想について語っていられる場合ではないということだろうか。

先日、エルドアン大統領は、多分、例の目くらまし的な爆弾発言で、「外貨の影響を受けない金本位制に戻そう」なんてぶち上げていた。外貨の所有を禁じていた時代の国家主義者が聞いたら、泣いて喜びそうな気もする。


*写真:雨のイスティックラル通り(11月29日)

20161203-1.jpg 20161203-2.jpg



12月4日 (日)  クルド問題の行方

90年代に、「分割の脅威」を叫び、「クルド人の要求を受け入れてはならない」と論じた人たちが恐れていたのは、「当初の要求を受け入れると、後からハードルを上げられて次々に要求された挙句、最終的には分離独立を許してしまうことになる」というものだった。

AKPとエルドアン大統領を熱烈に支持しているクルド人の友人も、和平の兆しが見えていた2013年の段階で、「BDP(現HDP)は何も変わっていない。私たちは近くにいるから良く解っている。上層部の連中は、今でも分離独立主義者だよ。皆、騙されているんだ」と言って、エルドアン首相(当時)らの融和的な姿勢を批判していた。

2015年9月13日(日)“クルド和平プロセス”の行方
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2015&m=9

2013年の10月、私立学校でクルド語による教育を可能にする法改正が成し遂げられた時点で、クルド側に残された要求があるとすれば、憲法を改正して、公立学校でもクルド語による教育を可能にし、「憲法」に、「クルド民族」という言葉を織り込むことだと言われていた。

そのため、2015年6月の国政選挙で、HDPが必要な議席を獲得した場合、「HDPはAKPに協力して、憲法の改正を試みるのではないか」という説も唱えられていたのである。

しかし、現状を見る限り、「皆、騙されているんだ」と警告していた友人の考えが正しかったと言わざるを得ない。今や残念なことに、憲法改正でAKPに協力する姿勢を見せているのは、トルコ民族主義のMHPであり、彼らがクルド問題で何らかの譲歩を見せるとは、全く考えられないだろう。

クルド語による教育を始めていた私立学校は、この2ヶ月ぐらいの間に殆ど閉鎖されてしまったそうだが、PKKのテロが収束しなければ、再開は難しいと思う。

「地域住民の支持を失ったPKKには、戦闘員も5千人ほどしか残っていない」などと言われていた時期もあったけれど、現在、2万人以上のPYD戦闘員が、シリア国境の向こうで、虎視眈々とトルコ南東部の動向を窺っているのではないかと言われている。


*写真:シシリーのモスク(12月2日)

20161204-1.jpg



12月5日 (月)  ギュレン教団の恐ろしさ

今年は、1月12日のスルタンアフメット自爆テロに始まり、6月28日のアタテュルク空港襲撃に至るまで、4度に亘って、凶悪なテロ事件がイスタンブールで発生した。

しかし、ギュレン教団の企てによる「7月15日のクーデター」が制圧された後、少なくともイスタンブールではテロが発生していない。

これは、非常事態宣言が発令され、厳しい警戒を怠っていない成果であると考えられているけれど、一方で、それ以前の4回のテロにギュレン教団の関与を疑う声も聞かれる。

つまり、「テロの頻発により、社会の公安秩序が崩壊した」という大義名分を「軍事クーデター」に与える計画だったのではないかと推測しているのだ。

なんだか良くある“陰謀説”のようにも思えるが、その説によれば、ギュレン教団は、ISやPKKとも緊密な関係を築いていたことになる。

また、取り調べの過程で、ギュレン教団の驚くべき秘匿性も明らかになっているという。例えば、マルマリスで大統領の襲撃に失敗して、山中へ逃げ込んだ部隊のリーダーは、一息ついてから部隊の面々に、「この中に、教団のメンバーでない者はいるか?」と訊いたらしい。

部隊の面々は、いくつか異なる系統で、ギュレン教団の秘密指令を受けて行動に移ったため、全員が各々を見知っていたわけではないというのである。

その他にも、長年にわたり、軍役生活を共にしながら、双方とも、自分たちが同じギュレン教団のメンバーだとは気が付いていなかった将校らの証言であるとか、その秘密主義を浮き彫りにする様々な話が伝えられている。

ギュレン教団は、長い年月をかけて、軍の内部へメンバーを浸透させている事実が発覚するのを恐れ、どの部署に何というメンバーが配属されているのかは、ごく限られた幹部しか知らない秘密になっていたらしい。

なにしろ、40年近い浸透戦略により、軍のあらゆる部署に教団のメンバーがいて、順調に昇進を重ねていたので、2013年12月以来、教団排除の動きが始まっていなければ、おそらく2023年頃に、軍は教団の制圧下に入っていたのではないかと分析されている。

また、教団のメンバーが、謀殺にまで関与したり、文化的事業だけに留まっていたりするのは、どういう指令を受けていたかの違いだけで、本人の気質とは何の関係もないという。

この説が正しければ、私が身近に知り合っていたメンバーの中にも、謀殺等に関与した人がいなかったとは言い切れなくなるかもしれない。


*写真:メジディエキョイ(12月2日)

20161205-1.jpg



12月6日 (火)  ガラタ塔〜カラキョイ

昨日、タクシムから、夕闇の迫るイスティックラル通りを抜けて、カラキョイの船着き場まで歩いた。

途中、ライトアップされたガラタ塔を見上げながら、暫く佇んでいると、トルコ語ではない言葉を話す人たちも、何組か傍らを通り過ぎて行った。観光業界は、相当冷え込んでいるはずだが、客足が全く途絶えてしまったわけでもないらしい。

上半期に相次いだテロと「7月15日クーデター事件」の影響が、じわっと効いてきたのか、トルコの経済は非常に難しい状況を迎えているとも言われ、現在、トルコリラは、32円〜33円辺りを推移している。去年の今頃は、40円以上のレートだった。

しかし、日本から旅行に来るのであれば、今のトルコは、格安で楽しめる最高の穴場と言えるかもしれない。特に、日本人観光客はとても珍しい存在になっているから、何処へ行っても、熱烈に歓待してもらえるんじゃないかと思う。

一方、カラキョイに立ち並ぶ、オスマン帝国時代の歴史的な建造物の多くは、20年ぐらい前まで、廃墟のように放置されていたが、今は装いを改め、観光資源としての期待も高まっている。

暗くなってからライトアップされた姿も、なかなか洒落ていたけれど、訪れる観光客が少ないのは、なんとも寂しい限りだ。

20161206-1.jpg 20161206-2.jpg



12月7日 (水)  アメリカ大統領の選挙を中東で行ったらどうだろうか?

11月26日付けカラル紙のコラムで、イブラヒム・キラス氏は、西欧のポピュラーな歴史雑誌が、「もしも、こうなっていたら?」という仮定をテーマとして良く取り上げるのに対し、トルコでは、何故、それが余り試みられていないのか説明していた。

キラス氏によると、そういった「たら・れば」の仮説を組み立てるためには、原因と結果に基づく論考が必要になる。トルコの人たちは、どうもこれが苦手らしい。

キラス氏は、保守派の論客として知られているにも拘わらず、トルコの保守的な人々の間で良く話されている以下の例をあげて、その浅薄な考え方を批判している。

トルコの過去の栄光は、御先祖が信心深く、正直で勇気があったお陰であり、災難に見舞われたのは、ユダヤ人の陰謀、あるいはフリーメーソンや改宗者の所為である・・・。

一方で、進歩主義の識者も、アタテュルクがガリポリ戦争で死んでいたらと仮定して、トルコは政教分離と民主主義を達成できなかっただろうと結論付けていたそうだ。

キラス氏は、こちらに対しても、社会の移り変わり、文化、政治、経済のダイナミズムを見ていないと批判的に語っている。

さて、キラス氏が、この歴史の「たら・れば」に言及したのは、「オール・アバウト・ヒストリー」という英国の歴史雑誌が、最近、そういった「たら・れば」の仮説を特集していて、キラス氏もこれに目を通していたからである。

「ワット・イフ?」と名付けられた特集には、「ナポレオンがワーテルローで勝っていたら?」とか「アメリカ南北戦争で南軍が勝利していたら?」等々の仮説ストーリーが掲載されていたらしい。

その中で、キラス氏が真っ先に読んでみたのは、「第一次世界大戦にドイツが勝っていたら?」という、トルコにも重大な影響を与えた史実に纏わる仮説ストーリーだったそうである。これは、トルコの知識人として、当然の選択と言えるかもしれない。

ところが、その仮説では、「当時のドイツが西欧を支配したとしても、ユダヤ人虐殺は起こらなかった」であるとか、「英国の占領までは考えなかっただろう」といった論考が述べられていたものの、トルコや中東がどうなっていたかについては、何一つ記されていなかったという。

キラス氏は、「英国を除く欧米にとって、大戦における興味は、この方面になかった」と至って冷静に分析していたけれど、やはり残念に思っていたのではないかと思う。

そういえば、先日のアメリカの大統領選挙について論じる番組で、ある識者は、選挙の投票率が、トルコのように高くないのは、余り大きな権限もない大統領が市民生活に及ぼす影響はそれほどでもないからであり、彼らにとっては、州知事選挙の方が却って重要だろうと解説しながら、以下のように提案していた。

「しかし、アメリカの大統領が誰になるかは、中東に多大な影響を及ぼす。それなら投票箱は中東に置くべきじゃないのか?」

20161207-1.jpg



12月8日 (木)  トルコはヨーロッパじゃないかもしれないが中東とも異なる

福沢諭吉が「文明論之概略」を著した明治8年、その記述の中に、諸外国の事情を誤って伝えた部分があるとしても、当時の読者の多くは、それに気づきようもなかったに違いない。

ところが、今日、トルコに関する情報が、誤って日本へ伝えられた場合、如何に無学であっても、現地にいる私は、『ちょっと違うんじゃないか?』なんて首を捻ったりしている。

かくいう私も、1991年にトルコへやって来るまでは、日本のメディアが伝える海外事情を概ね信じて疑わなかったけれど、近頃は大分疑い深くなってしまった。例えば、日本のメディアが伝えている南米等の状況は、どのくらい正確なのだろう?

もっとも、「トルコの政教分離の危機」といった問題では、トルコ国内の一部極端なメディアの報道もあって、現地で暮らしていながら、必要以上に危機感を募らせたりしていた。

しかし、今振り返ってみると、その殆どが取り越し苦労だった。

エティエン・マフチュプヤン氏は、もう2〜3年前に、「未だAKPをイスラム云々で論じていたらお笑い草だ」と切り捨てていたが、最近は、反対派の多くも、建前はともかく、AKPを「イスラム主義の政党」とは認識していないだろう。

なにより、その支持基盤の民衆が、政教分離を否定するイスラム化など望んでいないと思う。トルコの社会は非常に世俗的であり、これは一朝一夕に出来上がったものじゃないような気もする。

オスマン帝国の時代、共和国革命によってもたらされる「政教分離と民主主義」の下地は、既に備わっていたと主張する識者も少なくない。

また、帝国の末期には、アナトリア西部のトルコ的な社会と、シリア〜イラクのアラブ的な社会の間で、既に相当な隔たりが生じていたのではないかと論じられている。

現在、トルコにおけるシリア難民の問題は、同じイスラム教徒であるという点で、西欧より遥かに扱いやすい状態であるかもしれないが、それでも文化的な摩擦は顕著になっていると言われ、トルコの社会が厳しい負担を強いられているのは明らかである。

イスタンブールでは、かなり保守的な人たちであっても、シリアに紛れもない異文化を感じているのではないだろうか。

このトルコが、簡単に西欧から遠ざかって、東へ重心を移すというのは、あまり現実的な見方じゃないように思える。


*写真:イスティックラル通り(12月5日)

20161208-1.jpg 20161208-2.jpg



12月9日 (金)  湯沸かし器から水漏れ?

先週の月曜日(28日)、湯沸かし器の縁から、水がポタポタ漏れ始めたかと思ったら、暫くして湯沸かし器は、アラームを点灯させたまま作動しなくなってしまった。

水漏れは、湯沸かし器下の赤いコックを捻ったら止まったものの、器内の水圧も低下していて、作動させることは出来なかった。

この湯沸かし器は、ドイツの“BOSCH”社製で、毎年一回、市内の代理店から点検が来る。今年も8月に来て、点検と内部の清掃で、60リラほど取られた。

やれやれと思いながら電話したら、出張サービスだけで40リラと言う。それでも、湯沸かし器が作動しなかったら、スチーム暖房も効かず寒くて堪らない。結局、木曜日になってから、出張サービスを依頼した。

情けないことに、手持ちが全くなかった為、ドル預金を下ろしに行くくらいなら、エキストラのギャラが出る金曜日まで待とうと思ったのである。

金曜日の夕方、やって来た係員が、コックを捻ると、再び水が漏れ始めたけれど、係員はちょっと様子を窺ってから私を呼び、「いやあ、これは湯沸かし器の問題じゃありませんよ」と言い、湯沸かし器の下にある左側から2番目の配管を指さした。

良く見たところ、配管のL字の部分から、水が霧のようになって、その上の湯沸かし器内部に向かって噴き出している。どうやら、その水が湯沸かし器の縁を伝わって落ちるため、私は『湯沸かし器の中から水が漏れている』と勘違いしていたのだ。

配管は、プラスチックだから、簡単に穴が開いてしまうらしい。日本の配管がどうなっていたか思い出せないが、トルコでは、大概がプラスチックであるという。

係員は水圧だけ調整すると、「これで暖房の方は使えます。あとは業者を呼んで、配管を取り換えてください。それまでお湯は使えません」と説明しながら、40リラを受け取り、「また、何かあったら電話して・・・」と言い残して帰ってしまった。

それから、家電修理屋さんの所へ行って相談したら、わざわざ家に来て状態を確認したうえで、業者さんに連絡を取ってくれた。配管の種類によっては、自分で直してしまうつもりだったらしい。

業者さんは、1時間もしない内に現れ、30分ぐらいで配管を取り換えてしまった。この修理費が40リラ、さきほど“BOSCH”の係員に支払った40リラはいったい何だったのかと溜息が出た。

しかし、御近所の親切は本当にありがたい。最初から、家電修理屋さんに相談していたら、家まで見に来てくれて、“BOSCH”の代理店に連絡する必要さえなかったかもしれない。

それにしても、29日は家に殆どいなかったから良かったものの、30日と1日は、ずっと家にいて、もの凄く寒かった。天気予報は、日中でも4〜5℃と表示されていたけれど、家の中は何度ぐらいあったのだろう?

20161209-1.jpg



12月10日 (土)  布団の長さに合わせて足を延ばせ

トルコ・リラ(TL)が下落し、トルコの経済は厳しい状況を迎えているけれど、「これぐらいが身の丈に合いそうだ」なんて声も聞かれる。

製造業は、リラ安になれば、却って輸出が増えるのではないかという。そもそも、まだ高品質で勝負できるような段階には至っていなかった。

近年、やたらに高級志向を見せていた観光業も、ある程度価格を下げれば、再び客を呼び込めるかもしれない。

スルタンアフメットの辺りには、15〜6年前でも、バックパッカーを対象にした安宿がたくさんあった。それが、何処も皆、中級以上のホテルに様変わりしてしまった。また少し安宿が復活しても、悪くないような気もする。

思えば、この5〜6年、私の周囲にいる中流の友人たちも、ほいほい海外旅行に出かけていた。あれには、ちょっとバブルっぽいところもあったのではないだろうか。

「布団の長さに合わせて足を延ばせ」という、トルコの諺があるけれど、トルコには見栄っ張りが多いため、気を付けていないと、すぐ足が出てしまうらしい。

さて、一方、ギュレン教団系公務員の排除に関しても、「トルコは、もともと公務員が多すぎて、小さな政府を目指していたから、ちょうど良いじゃないか。もっと減らしても良いくらいだ」などと論じる識者がいる。

警察官や教員などを除けば、確かに、こちらも「布団の長さ」には合っていなかったようだから、「禍を転じて福と為す」が可能な領域であるかもしれない。


*写真:
(左)エジプシャンバザール前のコーヒー販売店には、いつも長い行列が出来ていて、周囲まで混雑してしまう。(右)この辺りには、他にもコーヒー豆を焙煎して売る店がたくさんある。(12月5日)

20161210-1.jpg 20161210-2.jpg



| 1 | 2 | 3 | 4 |