Diary 2016. 10
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10月1日 (土)  ローザンヌ条約は勝利だったのか?

10月中に終わる予定だった非常事態宣言は、どうやらもう3ヶ月延長されるようだ。

宣言発表の当初から、「3ヶ月では無理」という声が高かったくらいで、それほどの騒ぎにはなっていないものの、「1か月半で済ませる」などと明らかにしていた政府の見通しは余りにも甘かったと言わざるを得ない。

それよりも、トルコのメディアでは、一昨日の「ローザンヌ条約は勝利だったのか?」というエルドアン大統領の発言が、もっと大きな話題となっている。

発言の中で、エルドアン大統領は、ローザンヌ条約でエーゲ海の島々も割譲されたかのように述べているけれど、島々がギリシャ領になったのは、1913年のことであり、ローザンヌ条約とは関係がなかったらしい。そのため、大統領の認識不足が指摘されて余計に盛り上がってしまった。

一方で、入念に準備された発言ではなさそうなことから、「話題を逸らすための“目くらまし”発言じゃないのか?」と穿った見方をする識者もいる。

いずれにせよ、この発言に纏わる議論がそれほど長く続くとは思えない。もともと議題を提起しようとした発言でもなく、社会の隅々にある不満の声を代弁して、不満解消を図ったということなのかもしれない。

でも、よく解らないのは、オスマン帝国を懐古する保守派の多くがローザンヌ条約に不満を持ち、アタテュルク主義者の多くは却ってこれを擁護しているところだ。

ローザンヌ条約を締結した当事者は「アタテュルクの共和国」だったかもしれないが、その責任はオスマン帝国にあったような気がする。誕生したばかりのトルコ共和国は、この条約で、言うなれば「オスマン帝国の尻拭い」をさせられたのではなかっただろうか?

そもそも、オスマン帝国が西欧列強に押し付けられたセーブル条約を認めてしまったため、これに反対したアタテュルクを始めとするオスマン帝国の有志軍人らが、救国戦線を戦って共和国を建国したのである。

セーブル条約締結時のオスマン帝国宰相ダーマート・フェリト・パシャは、共和国以降の進歩主義者も顔負けの「西欧かぶれ」だったらしい。タンジマート以来の西欧に倣った改革が、なかなか富国強兵にならなかったのは、この辺りに要因がありそうだ。

明治の日本もオスマン帝国も、西欧に対抗できる力をつけようとして、西欧化を進めたはずだが、途中から西欧化そのものを目標にした人たちが現れてしまったのかもしれない。

日本の先人たちは、それでも富国強兵を実現して西欧に対抗し、太平洋戦争に敗れた後も、技術力と経済力を高めて何とか踏ん張ろうとした。そのお陰で、私も今まで楽に生きて来られたと思う。残念ながら、トルコの産業化は、今でも外国の技術に頼りっぱなしである。


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp


*写真:2012年夏、アソス付近から眺めた対岸ギリシャ領のレスボス島。この島も1913年にギリシャへ譲渡されたという。

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10月2日 (日)  「ローザンヌ条約は勝利だったのか?」発言の背景?

昨年の11月、アタテュルクの命日を前にして、近所の家電修理屋さんは、次のように語っていた。

「今、アタテュルク主義とか言ってる連中には、ミッリがない(祖国愛がない)。でも、アタテュルクにはミッリがあった。そうじゃなかったら救国戦争に勝てるはずがない。そして、アタテュルクと一緒に戦ったのは、今のアタテュルク主義者みたいな連中じゃない。我々のようなムスリムだったのだ!」

かつて、彼みたいなイスラム傾向の強いムスリムの中には、まるでアタテュルクがオスマン帝国の歴史に終止符を打ったかのように言いながら、あからさまに嫌悪感を示す人も少なからずいたけれど、これが大分変ってきたかもしれない。

3〜4年前、やはり非常にイスラム的で、教養のある友人が語ったアタテュルク主義者への批判にも、そういった変化が感じられた。

「アタテュルクも人間だから間違いはあったが、私たちはもう、その間違いについては口を閉ざして何も言わないことにした。私たちは、アタテュルクの功績だけを称えている。ところが、彼らはアタテュルクの間違いまで喧伝しようとする。そこが違う」

「アタテュルクの間違い」とは、おそらく飲酒の習慣であり、そんな「悪癖」を喧伝してはいけないとアタテュルク主義者に矛先を向け、アタテュルクに対しては、批判を避けていた。

一部のアタテュルク主義者が、アタテュルクの死因を「過度の飲酒による肝臓病」としながら、それさえ自慢げに話すのは、確かに余り好ましくないだろう。偉大なアタテュルクは、健康管理も出来ない人物だったということになってしまう。

最近の歴史的な研究によれば、アタテュルクは、過度のストレスを和らげるために晩酌を欠かさなかったものの、常に適量を維持して飲み過ぎることはなかったという。

もっとも、これを「喧伝」しているのは、その多くがAKP支持の保守派じゃないかと思う。彼らの中には、アタテュルクの早過ぎる死に、他の要因を探そうとする人もいる。つまり、アタテュルクを恐れた「外国勢力」によって一服盛られたのではないかというお得意の「陰謀説」である。

こうして、イスラム的な人たちが、徐々にアタテュルクを称賛し始めたのを、元来のアタテュルク主義者は不愉快に感じているようだ。「我々の手からアタテュルクまで奪おうとするのか?」という声も聞かれる。

ところが、7月15日のクーデター事件以降、ギュレン教団の排除が喫緊の課題になってくると、政教分離主義者・アタテュルク主義者の中からも、エルドアン大統領を支持する声が高まってきて、今度は、これに元来のエルドアン支持者たちが不愉快になっているらしい。

一部の政教分離主義者が、エルドアン大統領を支持する背景には、『イスラム的なエルドアンに任せれば、イスラムと政教分離の対立という構図は避けられる』といった思惑も見え隠れしている。

また、エルドアン大統領も国家的な危機に対して、協調と和解を掲げ、左派へ歩み寄りの姿勢を見せたため、「エルドアンはなかなか良くやっている。やっと政教分離の有難さが解ってきたのか?」なんて言う人たちも現れた。これは元来の支持者にとって不愉快かもしれない。

それで、先日、エルドアン大統領が、「ローザンヌ条約は勝利だったのか?」と発言したのも、ある識者によれば、そういった支持者の人たちに向けて、『私は昔通りのエルドアンで、今でも貴方たちの側にいる』というメッセージと理解できるそうだ。

何だか深読み過ぎるような気もするけれど、どうなんだろうか?


*写真:
一時期、随分寒くなって、「このまま冬になってしまうのか」と心配したが、昨日〜今日はまた少し暑いくらいだった。先月以来、日曜日の度に、ここでエズィネ産のチーズを買っている。クリーミーでとても美味い。

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10月3日 (月)  エジプシャンバザール付近〜エミノニュの賑わい/大豆

1日の土曜日、大豆を買いにエジプシャンバザールの辺りへ出かけたら、久しぶりに陽気の良い週末だった所為か、まずは凄い賑わいだった。

どこもかしこも人が溢れていて、カドゥキョイへ渡る海峡連絡船でも立つ場所を見つけるのに苦労したほどだ。

やっぱり街は賑わっていないと楽しくない。私は人混みの中を歩くのが大好きである。

7月の超糖質制限期間は、大豆も食べずに、ひたすら「鶏肉・チーズ・ゆで卵」を繰り返していたけれど、これからは毎日大豆で行こう。何と言っても安いので助かる。

肉類は結構高い。子羊の肉なんてとても手が出ない。たまに外食で肉を食べるのは、近所のジャー・ケバブ屋さんぐらいで、あそこのケバブはおそらく牛肉だろう。

トルコでは、なんと言っても子羊が高級である。トルコの羊は、牛肉よりも遥かに美味いと思う。しかし、滅多に食べられるものじゃない。

大豆は、昨日、鍋一杯に茹でて置いた。多分、あれで1週間ぐらいは持ちそうな気がする。ところで、この大豆だが、茹でる前の下準備がなかなか大変だ。

鞘のカスとか、小石や泥の塊まで混ざっていて、これを丹念に取り除いて、よく洗わなければならない。最初、ざっと洗って茹でたら、何度か小石を噛んでしまった。

トルコで大豆は、搾油作物として生産されているようだから、あの大豆も搾油工場のお流れが回って来るのかもしれない。一般の食材であるインゲン豆やヒヨコ豆等は、きれいに洗浄されたものが流通している。

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10月4日 (火)  ドイツ神話の崩壊?

今日、家賃を納めにウムラニエの銀行まで行った。

途中、渋滞で走ったり止まったりしているバスの窓から外を眺めていたところ、並走していたフォルクスワーゲンの高級車は止まったまま発進できなくなってしまったのか、パリッとしたスーツを着た中年男が、『まいったなあ』という顔しながら降りてきた。

それから、前を走っていた大衆車が、少し先でUターンしてくると、頭を向き合わせるようにして高級車の前に止まった。どうやら、バッテリーが上がってしまったらしい。

ワーゲンの高級車は、黒光りしていて、まだ新車のように見えた。あれでバッテリーが上がってしまうのでは、最初から欠陥があったとしか思えない。

フォルクスワーゲンは不正も取り沙汰されていたが、品質は大丈夫なんだろうか? 昨年は、韓国でBMWが突然発火する事件が相次ぎ、大騒ぎになっていた。

私も子供の頃から「ドイツの技術力は凄い」と思わされてきたけれど、最近、これがどうも怪しくなっているそうだ。

クズルック村の工場にいた頃だから、2001年か2年だろう。イスタンブールで日本語に堪能なドイツ人の青年と会って話したことがある。

強い訛りもあって余り流暢な日本語とは言えなかったものの、日本語の知識は相当なレベルで、かなり難しい本も読みこなしているような気がした。

この青年の話によれば、当時、ドイツの社会で肉体労働に従事しているのは、既にトルコ人を始めとする移民ばかりになっていたらしい。「レストランのウェイターとか、ガソリンスタンドの店員も殆ど移民の人たち」というのである。

「それじゃあ、あまり出来の良くないドイツの人は何をしているの?」と訊いたら、「皆、失業保険で食っているんですよ。そんな社会が長く持つと思いますか?」と問い返しながら、ハハハハと笑っていた。

しかし、その後もドイツの経済は好調を維持していたので、『あの青年の話は少し大袈裟だったのかなあ』と首を捻っていたけれど、いよいよ「ドイツ神話の崩壊か?」なんていう声も出てきている。

日本は、昨日からノーベル賞の話題で持ち切りじゃないかと思うが、2000年以降、科学3賞の受賞者は、日本が米英に次ぎ、独仏を大きく引き離しているらしい。

やっぱり、肉体労働を移民の人たちへ任せたりする社会は、様々な所に綻びが出てきてしまうのかもしれない。


*写真:ボスポラス海峡の連絡船(10月1日)

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10月5日 (水)  「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は「私立」の内を腐らせる。

西欧で最も早くから衰退が囁かれていたのは、英国じゃないかと思うけれど、意外にしぶとい。

ノーベル賞がどのくらい判断基準になるのか解らないが、2000〜15年までの科学3賞受賞者は14人を数え、7人のドイツを大きく上回っている。基礎科学の分野は、それほど衰えていないらしい。

EU脱退が気になるとはいえ、国際社会での発言力は相変わらずであるような気もする。いったい何が英国を支えているのだろう? 王室と貴族階級の存在は、結構大きいのではないかと思うが、どうなんだろうか?

英国には、ジョン・メイジャーみたいな人が首相になれる一面もあるけれど、それだけになっていたら、屋台骨は揺らいでしまったかもしれない。伝統と能力主義が巧く調和して、屋台骨を支えてきたようにも見える。

日本も今はともかく戦前までは、英国と似ているところがあったのではないか。士族階級の中には、それなりの責任感を懐く人が少なくなかっただろう。

ところで、私の父の家は、戦前、浅草で料理屋を営んでいたそうだが、御先祖は明治になるまで、三河辺りの水呑百姓だったらしい。

父の家には、戦後の混乱期でも、料理屋の特権により白米が配給されていたため、父は白米しか食べたことがないと自慢げに話していたものの、その国家の恩に報いるといった殊勝な気持ちは全くなかったようである。

兵役は、太平洋戦争が始まる前に満州で済ませ、戦時中は再度の徴兵を逃れようとして、何処かの軍需工場に潜り込んでいたという。

父はそれさえも、「あんな戦争、最初から負けると思っていた」などと先見の明があったかの如く自慢げに話していた。御先祖が水呑百姓だから、「武士の魂」なんてものには全く縁がなかったのかもしれない。

そのお陰で、私も無事に生まれて来たわけだけれど、こんな人間ばかりだったら、日本はとっくに滅びていただろう。

「考えるヒント」という連作の中で、小林秀雄は福沢諭吉について論じながら、以下のように書いている。

「『士道』は『私立』の外を犯したが、『民主主義』は『私立』の内を腐らせる。福沢は、この事に気付いていた日本最初の思想家である。」

私には、今でもこの一文が良く理解できたように思えないが、例えば、上記のような話は、これと少し関連があるかもしれない。うちは親子二代に亘って、「私立」の内を腐らせ続けている。

さて、ここでトルコの歴史を考えた場合、「士道」に当たるのは、やはり「イスラム」じゃないかと思うけれど、違うだろうか?

以下のコラム記事を書いているアヴニ・オズギュレル氏のような保守派の論客によれば、アタテュルクは、イスラム的な思想に対して改革を試みながら、最後までイスラム的な価値観を維持していたという。

【61】トルコにおけるムスリムによる政教分離の可能性【ラディカル紙】【2004.03.26】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00061.html

「アタテュルクの死後、政教分離が進められる中で反宗教的な態度が明らかになって来た。今日まで続く民衆に憤激をもたらした変革の全てが、アタテュルクの病状が悪化した時期に大統領となったイスメット・イノニュと首相の座に就いたジェラル・バヤルの政権により実現されたことは疑いもないだろう。」

オズギュレル氏はこう書いているが、何だかアタテュルクを守るために、全ての罪をイノニュとバヤルに負わせてしまったような感じがしないでもない。

しかし、これが事実であれば、アタテュルクは、「『イスラム』は『私立』の外を犯したが、『民主主義』は『私立』の内を腐らせる」という事に気付いていた最初の指導者であったのかもしれない。

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10月6日 (木)  プーチン大統領の訪土

来週、10月10日に、ロシアのプーチン大統領がトルコを訪れるそうだ。昨年11月の露機撃墜事件から未だ1年も経っていない。例えば6ヶ月前に、この急な展開を予想した識者はいただろうか?

そもそも、あの露機撃墜の背景は、今もって謎に包まれたままである。

7月15日のクーデター事件後、「撃墜を実行した空軍のパイロットは、ギュレン教団のメンバーであり、クーデターにも加担していた」といった情報がメディアを騒がせていたものの、その後、何かが明らかになったわけでもない。

いずれにせよ、トルコ政府が明確な意志を持って撃墜させたのではなかったようである。偶発的な事件だったのか、あるいは、実際、何らかの陰謀が仕組まれていたのかもしれない。とはいえ、それが立証されることはないと思う。

「アメリカがギュレン教団を使って、トルコとロシアの交戦を画策した」などと言う識者もいるけれど、様々な陰謀説と同様、話のネタぐらいにしかならないだろう。

撃墜から暫くの間は、冷え込んでいた欧米との関係修復を期待する声が高かった。私も「トルコの西方回帰」を歓迎していた。冷戦の時代に育った所為か、どうも西側・欧米中心の世界観から抜け出せない。現時点でも、トルコとロシアの接近には不安を感じている。

経済、軍事、科学技術、全ての面で、ロシアはアメリカに遠く及ばない。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の例に倣えば、ロシアへ近づくのは危険な賭けになってしまいそうである。

しかし、12月には、プーチン大統領の日本訪問も予定されている。いよいよ、世界は多極化へ向かっているということなのか?

アメリカの屋台骨も相当揺らいで来ているらしい。大統領候補のお爺さんお婆さんなどは、その斜陽を象徴しているような気もする。


11月30日(月)トルコの西方回帰
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=20&y=2015&m=11

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10月7日 (金)  トルコとロシアの縁

1991年に、初めてトルコへやって来た頃は、未だ冷戦が終わっていなかったこともあり、人々のソビエト・ロシアに対する感情は余り芳しいものじゃなかった。

ところが、ソビエトの崩壊後、困窮したロシアの人たちが出稼ぎ等の目的で、大挙してトルコを訪れるようになり、人的な交流が深まってくると、人々の対ロ感情もみるみるうちに好転して行く。

あの変わり身の早さには、『さすが、文明の十字路を生き抜いてきた人たちだ』と思わず感心してしまったほどである。ロシアに対しては、昨年来、それこそ僅か1年の間に、二転三転と目まぐるしく態度を変えて、その器用さを見せつけている。

98年だったか、大阪のある図書館で講演したロシア人女性は、たどたどしい日本語で、「ロシアと日本の交流は、日露戦争を機会に発展しました」と語り出し、これに場内がざわつくと、「皆さん、戦争も立派な国際交流ですよ」と切り返していた。

この伝で行けば、トルコとロシアは、歴史上、まさに限りなく交流を発展させてきた。そのため、お互いのことを良く知っているし、トルコの人たちも、「戦争は国際交流」と言われて驚くような野暮じゃない。

【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である【ラディカル紙】【2004.12.30】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00105.html

この記事で、ムラット・チザクチャ氏は、次のように述べている。

「・・・ギリシャに住む人たちも、トルコに住む人たちもエスニック・ルーツはオスマンへ、そしてビザンチンへ遡ることができる。我々の祖先は、ある時点でイスラム教を認めて改宗したが、ギリシャ人は変えなかったのである。・・・」

チザクチャ氏の説には、多少誇張もあるかもしれないけれど、トルコ人に多く見られる容貌が、中央アジアの「原トルコ人」ではなく、ギリシャ人の平均に近いのは明らかじゃないだろうか。DNAを調べても、中央アジアの遺伝子は余り出て来ないそうである。

しかし、ギリシャ正教(東方正教会)を奉じるロシア人の中にも、少数とはいえ、先祖はイスラムからの改宗者と思われる人たちがいるらしい。例えば、ラフマニノフといった姓はイスラムに由来しているという。シャラポワも、アラビア語の“シャラープ”だから、おそらく先祖はイスラム教徒じゃないかと言われている。

トルコとロシアの縁は非常に深いのではないかと思う。

とうとうネット上の配信も止めて廃刊となってしまったラディカル紙で、長らくモスクワ特派員を務めていたスアト・タシュプナル氏は、そういったトルコとロシアの縁について、とても興味深い記事をたくさん書いていた。以下は、その中から拙訳を試みた例である。


【78】イスタンブールの娼婦たちと20ドルもする高価な本【ラディカル紙】【2004.05.14】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00078.html

【100】宗教を遠ざけてきたトルコの知識人【ラディカル紙】【2004.11.23】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00100.html

【113】貿易を知らないトルコ人【ラディカル紙】【2005.02.24】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00113.html

【184】娘を処女のまま嫁がせたい。でも息子は?【ラディカル紙】【2008.03.31】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00184.html

【220】トルコとアルメニアの関係改善を支援するロシア【ラディカル紙】【2009.10.19】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00220.html



10月8日 (土)  ロシアとアメリカ

トルコ共和国は、ローザンヌ条約へ至る前に、やはり誕生したばかりだったソビエトと平和条約を締結しており、この為、英国は、さらなる侵攻を一旦諦めて、ローザンヌで交渉の席についたと言われている。

こうしてみると、トルコ共和国の潜在的な脅威は、当初より、ソビエト〜ロシアではなく、英〜米だったのではないだろうか?

ソビエトに亡命して客死したナーズム・ヒクメットも、潜在的な脅威の認識では、アタテュルクと相通じるところがあったのかもしれない。

トルコは、米英が最も深刻な脅威だからこそ、彼らとの友好に腐心してきたような気がする。

この辺り、トルコと日本の歴史は何だかとても良く似ている。トルコの革命は、土足で上がり込んで来た英国によって、オスマン帝国が崩壊して行く過程で成し遂げられた。明治維新も、その発端となったのは、黒船の砲艦外交である。

以来、暫くの間、日本にとって最も深刻な脅威は、他でもないアメリカだったはずだ。その後、日本は日清・日露戦争を経て大陸へ進出したものの、最終的にはアメリカの壁にぶち当たってしまう。

そして、ひょっとすると、今でもトルコと同様、潜在的には、アメリカが最も脅威と言える存在であるのは、変わっていないかもしれない。

現在、トルコでは、1980年のクーデターによってもたらされた憲法の改正、あるいは新憲法が議題になっている。一部の識者によれば、クーデターの黒幕はアメリカであり、憲法の作成にも関与していたらしい。

これも何だか、そのまま日本に当て嵌まりそうだ。もちろん、だからこそ、アメリカとの友好が非常に重要であるという点も・・・。

冷戦の期間中、ソビエトは紛れもない仮想敵国であり、今でもロシアには余り良いイメージが持たれていないけれど、これには、ある程度、アメリカ中心メディアによる影響があるような気もする。

江戸の末期、黒船の砲艦外交に比べたら、ロシアの幕府に対する態度は遥かに紳士的だったという。日露戦争では、乃木大将による水師営の会見であるとか、東郷元帥が敵将ロジェストヴェンスキーを手厚くもてなした美談が伝えられている。

いずれにせよ、私にとっては、ロシアの方が、文化的にも歴史的にも、アメリカより遥かに魅力的である。アメリカが世界に広めたのは、不味いファーストフードとか禄でもないものばかりだ。やたらにうるさい音楽を奏でて、チンドン屋の総大将じゃないかと言いたくなる。

しかし、西欧の国々の中では、黒船以来の長い付き合い、太平洋戦争という凄まじい交流を経てきた所為か、もっとも近い存在であるのは間違いない。私は、トルコの語学学校で、ドイツやフランスの人たちと比べて、アメリカ人の留学生に何とも言えない親近感を覚えた。

アメリカにも美しい文化が全くないわけではないし、良き友人と成り得るアメリカの人も多いだろう。脅威ではなくなるまで、友好を深めて行かなければならないと思う。

一方、ロシアとの友好ムードは、プーチン大統領の来日で、少し盛り上がるだろうか?

プーチン大統領は、檜舞台への登場の仕方があまりにも悪かった。エリツィンに抜擢されたお陰でのし上がったKGBの元幹部、これだけで充分に陰湿なイメージが出来上がってしまった。実際のところはどうだか解らない。少なくとも、祖国の為に誠心誠意働いている雰囲気は伝わってくる。

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10月9日 (日)  日本の正教会と韓国の正教会

正教会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A

*ルム:
≪ルムとは「ローマ人」のことであり、トルコに住んでいるギリシャ人は、自分たちを、ギリシャ共和国のギリシャ人(ユナンル)と区別して、必ず「ルム」と称している。千年の都コンスタンティノポリで暮らすルムの人たちにとって、ユナンル(ギリシャ人)というのは少し田舎者のように聞こえるらしい。≫


2004〜5年にかけて、正教徒のルムである故マリアさんの家に間借りさせてもらったこともあり、私には正教会がとても身近に感じられるけれど、どうも日本では、カトリックやプロテスタントに比べて、あまりポピュラーな存在ではないらしい。

ギリシャ正教、あるいは東方正教会と、名称も統一されていない。上記ウイキペディアの「正教会」も、以前は「東方正教会」となっていたのではないかと思う。

また、日本へ正教を伝えたのが、ニコライ・カサートキンというロシア人の司祭だったためか、「ロシア正教」として馴染まれていたりする。

ニコライ・カサートキンは、維新前の1861年に来日してから、亡くなる1912年まで、半世紀に亘って、日本での布教活動に尽力し、東京・神田のニコライ堂を建立した人物。

ウイキペディアなどの記述を読んだだけでも、なんだか誠実な人柄が偲ばれるようであり、日本とロシアの友好の歴史についても色々考えさせられてしまう。

1904年には、日露戦争が勃発している。さらに、カサートキンが亡くなってから10年後の1922年、ロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、日本における「正教会」の活動も、非常に困難な状況へ陥ったらしい。

しかし、日本の正教会は、戦後、GHQからアメリカの正教会管轄へ入るよう圧力を加えられたにも拘わらず、ソビエトの崩壊に至るまで、モスクワとの関係を断ち切ることなく維持し続けたようである。

一方、韓国の正教会も、日本の統治下で布教が進められたので、日本の正教会と同様、モスクワの管轄下にあったが、朝鮮戦争を経た1955年、韓国人信徒らの意志によって、イスタンブールのコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄へ移ったという。

この為、韓国の正教会は、「ギリシャ正教」という雰囲気になっている。

以前、私はこの鞍替えを、韓国の人たちに特有な鋭い国際感覚のなせる業じゃないかと考えていたけれど、アメリカの正教会管轄に入ることも出来たはずだから、やはり朝鮮戦争の最中、従軍ギリシャ人司祭から得た支援が大きかったのだろう。


聖ゲオルギオス大聖堂のミサ/ヘイベリ島の神学校
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2014&m=12

ニコライ堂/復活祭
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2016&m=5

エミノニュ〜カラキョイ/ロシア正教のクリスマス
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2016&m=1

9月5日(土)聖ニコラス大聖堂
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2015&m=9


*写真:左−東京のニコライ堂/右−ソウルの聖ニコラス大聖堂

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10月10日 (月)  トルコ・日本・韓国・それぞれの歴史に纏わる悩み

トルコの人たちから、「貴方は、“ブディスト”ですか、“シントイスト”ですか?」と良く訊かれる。以前は、これに「両方です」などと簡単に答えていたけれど、そのうち、『果たして、この問いは、日本語にどう訳したら良いのだ?』という疑問が生じてきた。

“ブディスト”は「仏教徒」で良いかもしれないが、“シントイスト”に相当する日本語はあるんだろうか? 「仏教徒」も何だか、明治以降に作られた言葉であるような気がする。

ぼんやり考えてみると、江戸時代は、日本人の100%近くが、宗門人別改帳に、何処かの寺の檀家として記載されていたはずだから、改めて「貴方は仏教徒ですか?」と問う必要はなかったに違いない。

神社の方はどうだったのか、今ちょっと調べてみたら、“氏子改”が行われるようになったのは、なんと明治になってからだそうである。その背景には、“廃仏毀釈”といった問題があったらしい。

とはいえ、江戸時代にも“お伊勢参り”は盛んだったようだし、おそらく100%近い人々が、氏神信仰を持っていたのではないか? そうなると、「貴方は、“シントイスト”ですか?」なんて問いは、やはり必要がないため、“シントイスト”に相当する言葉もなかったのだろう。

これに気が付いてからは、歴史や宗教について、それなりの知識も興味もありそうなトルコの人たちには、「日本の場合、宗派はともかく、宗教そのものが身分証明になることはなかったから、それを問われることもなかったのです」とか知ったかぶりして答えていた。

トルコに限らず、大陸では多くの地域で、宗教が重要な身分証明になって来たはずであり、この辺りからして日本は大分異なっていたと思う。

しかし、こうして、日本の文化や歴史についての質問に、知ったかぶりで答えていると、直に行き詰って狼狽することになる。

明治神宮の由来を尋ねられて、「明治天皇が祀られているのです」と答えたところ、「じゃあ、他の天皇は何処に祀られているの?」と追い討ちをかけられた時もそうだった。私は、祀られている社と陵墓の区別もついていなかったのである。

それから、慌てて調べて、明治になるまでは、歴代の天皇が、泉涌寺という真言宗の寺に葬られてきた歴史を、ようやく知るに至った。言い訳するなら、中学・高校の授業で、こういう歴史は教えてもらわなかったような気がする。

日本の習俗・伝統は、明治維新を境に大きく変わってしまい、今、私たちが日本古来と思い込んでいる伝統の中には、明治以降に創られたものが少なくないらしい。

それどころか、日本が何とか国家の体裁を整えたのは、明治になってからであり、国家としての日本の歴史は、明治と共に始まったと言っても良いのかもしれない。

そこへ行くと、トルコは、オスマン帝国以来の壮大な国家の歴史を誇れるはずだが、一部の人たちは、長い間、これを否定してきた。「トルコ共和国は、オスマン帝国とは何の関連もない国家である」とまで言う人もいた。

そのため、却ってトルコでは、共和国以来の「新しい伝統」と思い込んでいたものが、意外にも、オスマン帝国の時代から続く伝統だったりして驚く。

先日は、フェネルバフチェというサッカーチームの創立が1907年であることを知って驚いた。トルコの西欧化は、オスマン帝国に始まっているのだから驚いてはいけないが、サッカーチームには何となく共和国的な伝統を感じていたのである。

もちろん、私ら日本人も国家などという仰々しい形ではなく、日本の国柄や文化の成り立ちを振り返ってみれば、その長い歴史を誇っても良いのではないかと思う。今はモダンに装いを改めているものの、創立は200〜300年前まで遡れる商店等も多い。

しかし、昨年の夏にソウルの街を歩きながら、また考えてしまったけれど、韓国の場合、報道や教育といった文化的な事業には、日本統治時代に始められたものや、日本人が運営していた機構を独立後に引き継いだ例が少なからずある。

そういう歴史を直視するのは、非常に辛いだろう。これに比べたら、トルコの一部の知識人が、オスマン帝国の歴史を否定しようとするのは、実に贅沢な悩みであるかもしれない。


2月6日(木)断絶された朝鮮の歴史
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2014&m=2

1月17日(水)日本統治下のピョンヤンで生まれたトルコ人の老紳士
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2007&m=1


*写真:
左−イスタンブールのフェネルバフチェ・スタジアム
右−ソウルの新世界デパート本店(日本統治時代には、三越京城支店だった建物)

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