Diary 2015. 9
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9月1日 (火)  ノートブック復活!

一時帰国中に、画面が映らなくなってしまったノートブック、日本でもサービスセンターに電話してみたけれど、修理に3万6千円かかると言われた。しかし、昨年、キーボードにジュースをこぼしてしまい、やはり画面に不具合が生じた時は、イスタンブールの代理店で、基盤だかを交換して、8千円ぐらいだった記憶がある。

結局、日本で新しいノートブックを購入してきたけれど、旧も出来れば修理しておかないと、ここへ記録した事項が見られないので困る。日本と韓国でもこれで大分苦労した。

それで、金曜日に代理店へ、このノートブックを持ち込んで修理を依頼したら、早くも月曜日の午前中に電話がかかって来た。「修理に210リラ(約8千7百円)かかりますが、どうしますか?」という問い合わせだった。もちろん、修理してもらえるように頼んだところ、4時間ぐらいで、「直ったから、いつでも取りに来てください」と連絡してきた。

今日、早速引き取ってきたけれど、日本では、こんな早く片付かないような気がする。

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9月4日 (金)  日本はもう島国じゃない

さる7月24日に、大韓航空でイスタンブールを飛び立つと、インチョンまでは隣の席に、上海からトルコへ旅行に来たという若い女性が座っていた。愛想が良くて綺麗な英語を話していたけれど、私の英語力では殆ど会話にならなかった。

私は長時間飛行機に乗る場合、できる限り、最後尾の2人掛け席のいずれかを確保するようにしている。トイレに近くて、出入りも余り面倒にならない、それから後ろの席を気にしなくても済む。

翌25日、インチョンから成田までは、2時間ほどだから、何処の席でも構わなかったが、また最後尾の席になっていた。イスタンブールで予約した際、こちらも同様に手配してくれたらしい。

今度は隣の席に、韓国語を話す老婦人が座った。70歳ぐらいの方だった。

この方も愛想が良くて、成田まで楽しく雑談させてもらった。言葉が通じるのはいい。それに、お話の内容が非常に興味深く、もっと長い時間かけて詳細に聞きたいくらいだった。

最初、老婦人は韓国語で話しかけて来たため、韓国の方なのかと思っていたら、インチョンにはトランジットで寄っただけで、実は中国のハルピンから来たという。

しかし、朝鮮半島の北部から満州地域へ進出して行った朝鮮族とは異なり、ご両親はもともとソウルの人で、日本統治時代にハルピンへ働きに出かけて戻れなくなり、そのままハルピンに定着したそうだ。

だから、老婦人はハルピン生まれのハルピン育ちで、国籍は中国ということになる。

今回、日本へ行くのは、長女が東京に住んでいるからで、12年前以来の2度目の訪日だそうである。長男も東京に住んでいて、次女はソウルへ嫁ぎ、もうハルピンに家族は残っていないらしい。

老婦人も、1995年〜2007年にかけて、ソウルで働いていたことがあるという。12年前はソウルから日本へ行ったのだろう。

成田に着いて、老婦人と一緒に入国ゲートを出たところ、長女の方が出迎えに来ていた。

老婦人が「この方は日本人だけれど、韓国語も話せるから、いろいろお世話になったよ」なんて紹介するものだから、長女の方は恐縮されて、日本語で「母がお世話になりまして、ありがとうございます」と挨拶していたけれど、日本語の発音といい、その身のこなし、お辞儀の仕方といい、全く日本人そのものだった。ご主人は漢族の中国人ということだが、多分、夫婦そろって、日本の生活にすっかり溶け込んでいるのではないかと思う。

ソウルでは、イーテウォンに“イスラム街”が出来ていて驚かされたものの、ソウル在住の日本人の友人によれば、街角のラーメン屋さんの店主がイランの人だったりする最近の東京と比べたら、ソウルには、“外国人”が未だそれほど多くないらしい。

私はこの17年間、たまに一時帰国するだけで、今の日本が何だか良く解らなくなっているようだ。トルコで暮らしながら、日本は島国だ島国だと思っていたけれど、もうそんなことはないのかもしれない。

人間にも社会にも、適応力というものが備わっているのだから、日本へ移住した外国の人も、日本の生活に適応して行くし、受け入れる側の社会もこれに適応して行く。それほど難しく考える必要などないような気がしてきた。


* 写真: インチョン空港では、韓国の伝統文化を紹介する様々な企画が実施されていた。

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9月5日 (土)  聖ニコラス大聖堂

ソウルで過ごした6日の間には、日曜日も入っていたので、東方正教会の聖ニコラス大聖堂に出かけて、日曜ミサを見学して来た。ここを訪れるのは、2013年の4月に続いて2度目だが、ミサを見学するのは初めてだった。

府主教はギリシャの方で、説教はギリシャ語で話され、韓国人の司祭さんが韓国語に訳していたけれど、典礼は韓国語で営まれていた。府主教も、ある程度は韓国語がお解りになっているようだ。

ウィキペディアの記述によると、韓国の正教会は、当初、日本の正教会と同じように、モスクワ主教庁の管轄下にあったそうだが、朝鮮戦争で活動停止の危機に陥った際、参戦していたギリシャ軍の従軍司祭たちの支援により、聖堂が修復されて活動も再開したため、1955年の信徒総会でコンスタンディヌーポリ総主教庁管轄下に移ることを決議したという。

この経緯は、朝鮮戦争によって韓国が、トルコばかりでなく、ギリシャとも強い絆を結んだように思えて興味深い。コンスタンディヌーポリ総主教庁のバルセロメオス総主教は、東京のニコライ堂を一度表敬訪問されただけらしいが、ソウルの聖堂は、1995年、2000年、2005年と、三度にわたって訪れているそうだ。聖堂の敷地内にある図書館には、バルセロメオス総主教の直筆署名入りと思われる写真も掲げられている。

2年前、この図書館で、韓国人信徒の母娘からコーヒーを御馳走になったけれど、今回、また母娘との再会が叶ったうえ、タチアナ金順徳という韓国人信徒の方が、日本語に翻訳された貴重な本まで頂いた。「エギナの聖ネクタリオス」という、近代ギリシャの聖人の半生を描いた本である。

この本を出版した韓国の正教会は、日本の正教会の協力も得て、これを日本でも販売したい意向らしい。こうして、様々な友好の輪が広がっていくのではないかと思う。


5月3日 (金) ソウル聖ニコラス大聖堂
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2013&m=5

コンスタンディヌーポリ総主教庁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AA%E7%B7%8F%E4%B8%BB%E6%95%99%E5%BA%81

韓国正教会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A

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9月6日 (日)  PKK(クルディスタン労働者党)

昨日、アクシャム紙のコラムで、ギュライ・ギョクテュルク氏が、南東部のシュルナク市から発信されたニュースを伝えていた。

トルコ軍の軍曹が、具合の悪くなった妻を連れて病院へ行き、診療が終わって市内に戻ろうとしたところ、武装したPKKの戦闘員4人に車を止められ、軍曹だけ降ろされてしまう。しかし、妻も隙を見て車から降りると、連れ去られようとしていた夫のもとへ駆け寄り、「死ぬなら一緒に死ぬ」と叫んだことで、状況が一変する。周囲にいた一般のクルド人市民らが夫婦を守ろうとして集まったため、結局、戦闘員らは拉致を諦めて、その場から立ち去ったらしい。

もちろん、こういった記事だけで、実際の状況が解るわけでもないが、かつては武装した戦闘員の言いなりになっていた民衆が、これにささやかな抵抗を見せ始めたというニュースは、他のメディアからも伝えられている。

ギョクテュルク氏によれば、PKKは言うことを聞かない市民を一人ずつ殺すことは出来ても、抵抗しようと集まった群衆に武器を向けることは出来ない。

武力闘争に転じたPKKは、自分たちの領域を確保するために、道路を封鎖したり、携帯電話の通信ステーションを焼き払ったりしているものの、これによって生活権を脅かされた一般のクルド人民衆は、既にPKKを恐れることなく、抵抗するようになったというのである。

事実であれば、これは“和平プロセス”がもたらした最大の成果であるかもしれない。PKKを恐れない民衆は、トルコ政府にも恐れず要求を突きつけ、自分たちの代表として議席を得たHDPの議員らが、要求の実現に尽力することを望むだろう。近いうちに、こうした一層民主的な環境の中で、“和平プロセス”が再開されるよう祈りたい。

しかし、もともと左翼革命的なイデオロギーのもとに、分離独立を目指す武装組織として結成されたPKKが、そう易々と“和平”に応じるとは考えられていない。

ところで、先日、北イラクのカンディルという山の中に籠っているPKK幹部らの写真が、ネットの記事に掲載されていた。いずれも戦闘服を身に着けて勇ましいが、白髪や禿げ頭の目立つ老人ばかりである。

現在、イムラル島に収監されている、かつての指導者オジャラン氏が67歳になるのだから、幹部同志の多くも60歳を越えていて不思議ではない。80年代に武力闘争を開始した頃は、皆、血気にはやる30代の青年革命家だったのかもしれないが、その後、全く世代交代することなしに、30年以上、彼らが闘争を主導してきたらしい。

「革命を叫ぶ青年たち」はともかく、「革命を叫ぶ老人たち」は、何処でも余り歓迎されない存在に成り果てているような気がする。


*写真:INTERNETHABER

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9月7日 (月)  エギナの聖ネクタリオス

ソウルの聖ニコラス大聖堂で頂いてきた「エギナの聖ネクタリオス」は、まだ“序論”や“訳者あとがき”に目を通したぐらいだが、ネットで検索してみたところ、聖ネクタリオスについては、ウィキペディアにも「エギナのネクタリオス」という項目が掲載されていた。聖ネクタリオスは、1846年に現在のイスタンブールにほど近いシリヴリで生まれ、1920年、ギリシャのエギナ島で永眠したと記されている。↓

エギナのネクタリオス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AE%E3%83%8A%E3%81%AE%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9

ネットの検索では、以下の日本の正教会のサイトにも行き着くことができた。このサイトには、「エギナの聖ネクタリオス」の出版案内が出ている。日付を見ると、7月5日となっていて、私が本を頂いた7月26日には、既に日本の正教会でもこの本が販売されていたようである。

本の出版のご案内(小田原ハリストス正教会)
http://odawara-orthodox.com/new/%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%89%88%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85/

しかし、この出版案内では、訳者のタチアナ金順徳女史の訃報も伝えられている。本の出版を見届けた後、5月に亡くなったそうだ。“訳者のあとがき”を読んで、90歳に近い高齢であることは解っていたが、少なからず驚き残念に思った。“訳者あとがき”には、とても印象深い一文があったので、その部分を以下に引用してお伝えしたい。

「・・・六歳のときから日本語で教育され、父のこともあって日本にも恨みがありました(注:父君は日本の警察によって投獄、拷問を受けたとのこと)。しかし、それはその時代の避けられぬ国運に任し、個人的には近くて遠い間柄の両国、今でも韓国と日本は二国間問題で揉めていますが、お互いに欲張らず、良心的に理解し、過去の過ちを省みながら理解したいと思います。・・・」

考えてみると、正教会に限らず、カトリックやプロテスタントの各教派でも、日韓の交流は非常に盛んである。願わくは、宗派などの垣根を越えて、さらに交流が広がってくれたらと思う。

また、宗派における交流は、もちろん日本よりも、他のキリスト教の国々との間で一層緊密になっている。韓国の正教会は、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあるため、ギリシャ、そしてイスタンブールとも強い絆がある。プロテスタントの各教派であれば、米国との結びつきが強いだろう。

先日、朴大統領が中国の抗日勝利式典に参席したことが話題になっていたけれど、韓国のキリスト教各宗派は、韓国が欧米との関係を深めて行くうえで、一定の役割を果たしてきたのではないか、これがますます重要になってくるかもしれない。


*写真; グーグルアースで、エギナ島の聖ネクタリオス修道院を探してみたら、いとも簡単に見つかった。ストリートビューもばっちりである。ソウルの聖ニコラス大聖堂も同様。便利な時代になったものだ。

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9月8日 (火)  ソウルで食べた美味い物

スンデクッパプ(豚の血腸詰入り汁ご飯)、ナクチポックム(タコ炒め)、パッピンス(小豆かき氷)。店は、いずれも旅館から10分以内の所だった。

スンデクッパプの専門店は、サウナ(スーパー銭湯)のあるビルの1階にあって、2年前に来た時も、『ここは美味そうだ』と思いながら、入る機会がなかった。

熱々の汁ご飯は、真夏の味覚じゃないかもしれないけれど、冷房の時代になって、そういう季節感は大分失われてしまったような気もする。この店でも、風呂上がりの冷たいビール飲んで、これでは少し涼しすぎると感じた頃に、熱々のスンデクッパプが出てきて、とても美味しかった。愛想の良いおばさん3人組が切り盛りしていて、店の雰囲気も良かった。

ナクチポックム(タコ炒め)は、旅館近くの飲食店街にある居酒屋風の店で食べた。ここも3人のおばさんが楽しそうに店をやっていた。韓国には、なんだかこういう飲食店が多い。

パッピンス(小豆かき氷)は、旅館からインサドン(仁寺洞)に行く途中の店で、焼き芋も旨かったが、とにかく店内の調度品がやたらと凝っていて、ちょっと洒落たギャラリー風になっていた。

朝、山に登った後だったので、冷たいパッピンスが非常に美味かった。それに、扇風機だけで冷房を入れてないから、最後まで美味しく食べられた。かき氷を完食したのは何10年ぶりだろう? 黄な粉がちょうど良い割合でまぶされていた所も美味かったと思う。

ついでに言うと、一人で店をやっている若い女性が、なかなか知性派の美人で良かった。夏が終われば、パッピンスに代わり小豆ぜんざいが出るそうだ。この小豆ぜんざいも是非食べてみたくなった。

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9月9日 (水)  韓国とトルコのクレジットカードとスマホ

韓国はまさしくカード社会になってしまったらしい。商店、飲食店はもちろん、タクシーも殆どカード払いのようだった。すでに現金など持ち歩く必要はまったくないかもしれない。

トルコもカード社会を目指していて、何処にでも端末機が置かれているけれど、未だタクシーには余り普及していないと思う。(この一年ぐらい、タクシーに乗った覚えがないから良く解らない、空港のタクシーには結構普及しているという・・・。)

また、トルコではカードを端末機に入れて、暗証番号を押しているが、韓国は液晶の画面に備え付けのペンでサインするやり方になっていた。いずれにせよ、クレジットカードがない私にとっては、やっぱり日本が何といっても心安い故郷である。

トルコはカード社会を目指しているから、外国人であってもトルコ人の保証人を一人立てれば簡単にクレジットカードを作ることができる。銀行でも何度か作るように勧められた。しかし、今のところ、カードがなくても、さほど不便は感じていないので、そのままにしている。

クズルック村にいた頃は、頼みもしないのにカードが支給されたけれど、全く使わないでいたら、数年のうちに無効となった。要するに、使わなくても済むのである。それに、何より「信販」という言葉が私は嫌いだ。こいつからは「審判」という別の言葉も連想されてしまう。人を金銭の量で判断して裁くとでも言うのか・・・。

韓国はスマホの普及も凄かった。ソウルで地下鉄に乗ると、座席にずらりとスマホを手にした人たちが並んでいる。しかも、その殆どがイヤホンを耳につっ込んで、外界との接触をなるべく遮ろうとしているかのようだ。

トルコでも、スマホはどんどん増えている。また、スマホに限らず、相手の通話をイヤホンで聞きながら、襟元に付けたマイクロフォンを使って話す人が多い。ソウルにも、襟元のマイクロフォンを使って話す人たちはいたけれど、大概、マイクロフォンをつまんで口元へ持っていき、静かな声で話していたような気がする。

これがトルコの場合、通話している時も、両手を使ったジェスチャーを交える人が多く、街角で一人中空に向かって、両手を広げたり振ったりしながら、大声で話しているのを良く見かけたりする。

先日は、バス停に座っていた若い女性が、そうやって通話していた。女性は普通の大学生風に見えた。

最初は、ジェスチャーも声も小さく、いく分か頭を下げて、マイクロフォンへ口を近づけながら話していたものの、そのうち会話の内容に興奮して来たのか、徐々に手振りが大きくなり、それにつれて声のボリュームも上がり、ついには立ち上がって、急がしく両手を上げ下げしつつ、「そうじゃない! お前は解っていない!」とか大声を出し始めた。

そうしたら、コードに手を掛けて引っ張ってしまったのか、ジャケットの内ポケット辺りから、スマホがごろっと落ちてきた。コンクリートの地面にあたって、かなり大きな音がしたけれど、今のこういう機器は結構丈夫にできているのか、彼女が「チェッ!」と舌打ちしながら、慌ててイヤホンを引き千切るように耳から外し、スマホを拾って耳にあてがうと、異常もなかったらしく、そのまま通話が続けられた。「携帯が落ちただけよ! なんでもないわよ!」と彼女は叫び、バス停で一部始終を見守っていた人たちは、皆、呆れ果てたような表情を浮かべていた。

まったく妙な世の中になったものだ。私のようなロートルは、カードも蔓延っていなければ、携帯なんて、それこそ想像も出来なかった昔が懐かしく思えてしまう。


*写真:本文とは関係ないけれど、グーグルアースにいよいよモンゴルのウランバートルがアップされてとても嬉しい。ここだけはいつか行ってみたい。でも、ここにも携帯の画面を見ている女性が写っている。

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9月10日 (木)  変わる世の中

(9月9日)

たまに一時帰国すると、いろいろ変わっていることがあって、戸惑ったり驚いたりしている。

例えば、実家の近くのセブンイレブンで、レジに菓子パンやら発泡酒やら幾つか置いて、ぼんやり計算が済むのを待っていたら、店員さんに「押してください」と催促され、彼女が指し示す方を見て驚いた。画面に『20歳以上ですか?』と表示されている。55歳のおっさんに、「20歳以上ですか?」もないもんだが、『はい』を押さないと、酒類の会計が出来ない仕組みになっているらしい。

いつ頃からこうなっているんだろうか? 正月もここで酒類を買ったような記憶があるから、それより後のことじゃないかと思うが、少なくとも、ひと月やふた月は過ぎているのだろう。新しいシステムであれば、店員さんも、いきなり「押してください」じゃなくて、何か説明してくれたはずだ。

それから、レンタカーを借りて給油する際、ガソリンスタンドがセルフサービスになっていたので驚いた。これはもう随分前かららしいが、考えてみると、日本で車を運転するのは、2003年以来である。トルコでも2005年以来ないが、車の運転なんてものは体で覚えているから忘れないようである。

しかし、セルフサービスのガソリンスタンドには困ってしまった。どうしようかと思ったら、ちょうどそこへレンタカー屋の人が来ていたので、手取り足取り教えてもらった。礼を述べてから、「すみませんねえ、外国生活が長いもんで・・・」とかつまらない言い訳を付け加えたけれど、レンタカー屋の人は何と思っただろうか?

以前、長距離トラックの運転手として働き始めた頃に、これで誤解を招いたような覚えがある。95年に3年暮らしたトルコから戻って来て、まず1年のあいだ川崎でダンプをやってから転職した後のことだった。

年若い同僚と2台のトラックで大阪へ向かう途中、サービスエリアで風呂に入ったら、その若い運転手が私の体をしげしげ見ながら、「ああ墨は入れてないんですね?」などととんでもないことを訊く。驚いて「そんなもんあるわけないだろ」と言い返したら、「いやー、もっぱらの噂ですよ」なんて言うのである。

私の風体見て、誰がそんなこと想像するのかと首を捻ったが、しばらく考えていて、はたと思いついた。カバン一つ持って、その会社の寮に入った翌日、他の運転手に前の職歴を訊かれて、「1年ほど、川崎でダンプをやっていました」と答えたところ、さらにその前を訊かれたので、トルコについて色々説明するのも面倒に思い、「その前は外国にいたんで・・・」と言葉尻を濁したら、相手は「へえー、外国ですかあ」とニヤニヤしていた。

多分、この“外国”が誤解を招いたんじゃないかと思う。その“外国”にいた期間も訊かれたため、これには「約3年」と正直に答えて置いたけれど、相手は『3年? 3年の刑期か・・・。こいついったい何をやらかしたんだろ?』なんて余計なことを考えてしまったのかもしれない。

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9月11日 (金)  適応力の問題?

(9月10日)

セブンイレブンなどのコンビニやスーパーで、『20歳以上ですか?』と確認するのは、もう3年ぐらい前から実施されているそうだ。どうやら、正月に来た時は、コンビニ等で酒類を買い求めたりはしなかったらしい。

しかし、3年も前から実施していたのでは、「押してください」と言われて、きょとんとしていた私に、セブンの店員さんも驚き、『なにこの親爺? いったい何処から出てきたの?』なんて思っていたかもしれない。

まあ、私みたいな奴は、外国生活が長いとか言う前に、もともと日本にいた頃から少しズレていたような気がする。だから、墨でも入れてんじゃないかと噂されてしまうのだろう。

例えば、大韓航空の機内で隣り合わせた老婦人の娘さん、彼女は日本語の言葉使いといい、その身のこなしといい、何処から見ても日本人だったけれど、それは彼女の語学力や適応力など様々な能力の高さを示していると思う。多分、彼女なら、目まぐるしく変化している中国へ、久しぶりに一時帰国しても、その変化に素早く対応して、『外国生活が長いから・・・』とつまらない言い訳をしなくても済むはずだ。

それは、もともとハルピンで、中国と朝鮮・韓国の2つの文化の間を行き来していた経験によって培われていたかもしれないが、同じ環境ならば誰もがそうなるとは限らない。どうしたって、その能力に個人差はあるだろう。

私などは、不器用でちょいとズレている所為か、なかなかトルコ語も上手くならないし、トルコの社会に溶け込めるほど適応もしていない。しかし、受け入れる側の社会に素晴らしい“適応力”があるため、何の不都合もなく暮らすことが出来ているのだと思う。

こういった社会の適応力を考えたら、島国の日本はトルコに比べて見劣りするかもしれない。トルコには、それこそ幾多の文化の間を行き来した歴史がある。でも、日本の社会にも、トルコとはまた違う魅力や文化の力がある。受け入れる側の社会としての適応力もこれからもっと高まるに違いない。

8月、東京では、大久保の“韓国街”も見てきたけれど、人通りも多く、なかなか賑わっていた。美味しい韓国料理の店もまた増えたそうだ。今度来るときは、何処かの料理屋で一杯やって行こう。

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9月12日 (土)  曹渓寺(チョゲサ)

(9月11日)

ソウル最大の仏教寺院「曹渓寺(チョゲサ)」。8月に訪れた時は、ハスの花が満開だった。

ここは、警察に追われている人たちが逃げ込んだりして、ニュースになることもある。仏の慈悲を説く寺院は、庇護を求めて来た人を、問答無用で警察へ突き出したりしないらしい。

韓国の寺院は、極彩色の外観からして、日本とは大分異なるけれど、訪れる信徒の方たちの祈りも、非常に熱心というか、所作が派手でエキサイティング。侘びとか寂びとかイメージして来たらびっくりしてしまう。

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