Diary 2015. 8
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8月20日 (木)  東京 - ソウル - イスタンブール

先月の25日にインチョン空港から便りを書いて、日本に着いたら、ノートブックの画面が映らなくなってしまっていた。25日の便りの右の写真に見えるのが、あのノートブックの最後の姿だったかもしれない。

結局、日本で新しいノートブックを購入したけれど、それから直ぐに日本を離れ、6日ほどソウルに滞在した後、昨晩、イスタンブールに戻ってきた。

トルコはもちろん、日本やソウルでの出来事も明日より少しずつお伝えしたい。

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8月21日 (金)  日中韓の合同キャンプ

7月の末だったか、神奈川県の実家に滞在中、犬を連れて、母と陣馬山の登り口辺りまで散歩に出かけたことがあった。

途中、高校生ぐらいの若者たちが賑やかにキャンプしているのを見かけて、ちょっと眺めていたら、どうも日本の若者たちだけではないような気がした。それで彼らに近づき、一人に声をかけてみたところ、やはり韓国の女子高生だった。

引率者らしい、ジムさんという日本語の達者な男性に話を聞くと、日中韓の若者たちによる合同キャンプだそうである。

後になって、ネットで調べてみたら、どうやら主催者は、クエーカー教徒の方が創めた、広島に本部のある平和団体らしい。

韓国の女子高生も、いきなり変な韓国語を話すおっさんが表れて、驚いていたようだけれど、私も実家の近くの山の中で、こんなキャンプが開催されていたのに驚いた。

皆、和気藹々とキャンプを楽しんでいる。若者たちに、こういう機会があるのは良いかもしれない。

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8月22日 (土)  美ヶ原

先月の24日、日本へ向けて出発した頃のイスタンブールは、夕方になると少し肌寒いくらいで、一向に夏らしくなっていなかった。それが、翌日、東京へ辿り着いた途端、あの猛暑で、夏好きの私もさすがに参ってしまった。

神奈川県藤野の実家の辺りは、山に囲まれ、鬱蒼と樹木が生い茂っているため、写真で見ると何だか涼しげに見えるけれど、都内よりは少しましな程度で、やはりもの凄く暑かった。犬の散歩で長時間歩いたら、汗びっしょりになってしまうほどだった。

それなら、浅草まで行って、仲見世でもぶらぶらした方が良いくらいじゃないかと思い、一度、母と一緒に出掛けてみたら、これがまた蒸し風呂にいるような凄まじい暑さで、ちょっと歩いて喫茶店で涼み、直ぐに退散した。

こうして、近所の散歩も都内観光も駄目なら、他に何処があるだろうか、姉と相談した結果、レンタカーを借りて、家族総出で”美ヶ原”へ行くことになった。家族総出だから、もちろん犬も一緒である。

美ヶ原へは、43年前にも家族総出で出かけたことがある。あの頃、家族に犬はいなかったけれど、父がいた。後の顔ぶれは変わらない、母と姉、私は未だ小学校6年生だった。

夏休みに、北アルプスを槍ヶ岳まで縦走する計画で、まず燕岳へ登ったところ、翌日から雨になり、縦走を諦めて下山し、残りの休日をのんびり過ごそうと美ヶ原へ向かったのである。

霧が深く殆ど視界もない中をジープのような車で、夕方、美ヶ原のホテルに到着したと記憶している。

ところが、翌朝は一変して快晴となり、ホテルの窓から、登るはずだった槍ヶ岳も含めて北アルプスの峰々がくっきりと見渡せた。それから美ヶ原の高原を家族で歩き回った。この辺りの記憶はかなり鮮明である。

そして、今月の8日、レンタカーで諏訪の方から登った美ヶ原は、やはり快晴で高原の風は爽やかだった。

しかし母は、駐車場に車を置き、美しの塔の辺りまで歩いて来ても、43年前の家族旅行を思い出していないように見えた。

それから、北アルプスが見渡せる所へ至ると、白馬岳に登った話などしていたけれど、3人の中で白馬に登ったことがあるのは母だけである。当時、母は既に50歳を過ぎていたんじゃないかと思う。だから、私にも未だ登攀のチャンスはあるかもしれないが、どうだろう? なんだか登らずに終わりそうな気がする。

この日、母は、前々日のかなり長い散歩の影響が出たのか、駐車場へ戻る途中、酷く疲れてしまい、よろよろと足元も覚束なくなった。

それで私が「背負いましょう」と申し出ても、「お前なんぞに背負われるほど落ちぶれちゃいない」と怒り出す。この会話が何度か繰り返された後、いよいよ足元が危なくなったので、仕方なく、無理に母を抱きかかえて暫く歩いてみたけれど、私のパワーでは、あまり長く続かなかった。

また少し母に歩いてもらい、それからまた抱きかかえて歩くことを繰り返しながら、やっと駐車場に辿り着くと、母は「お前も結構逞しくなったのう」と笑っていた。でも、あれでは情けないほど鍛え方が足りていない。今からでも遅くないから、もう少し鍛えるべきじゃないかと思った。

帰りに、中央高速に乗ってから、諏訪湖のサービスエリアで休憩したところ、母は「なんで今日はこんなに体が重いんだろう?」なんて首を捻っている。美ヶ原での苦闘は忘れてしまったらしい。

このため、翌日から、2〜3日は母に休んでもらい、私が一人で犬の散歩に行こうと思っていたが、1日置いたら、母はもう元気なっていて、また一緒に散歩に出た。84歳にしては見事な回復力じゃないかと思う。

ところが、アルツハイマーによる記憶障害の方は、全く回復しそうに見えない。それより、体力や諸々の衰えの方が先に来てしまっているような気がする。

でも未だ、私がイスタンブールに住んでいて、たまに帰国すること、そして自分も何度かイスタンブールへ出かけたことがあるといった大枠は認識していて、散歩の途中で会った人に「これがイスタンブールから帰って来ているもんで・・・」などと挨拶したりしている。

しかし、その人と別れてから、「今の人誰?」と訊いても、「えーと誰だろう?」と惚けてしまうのである。

13日の朝、成田へ向かう私を、母は犬の散歩がてら、藤野の駅まで送ってくれた。

改札を通り、階段を上り下りしてホームに出ると、駅の外で、母が小雨の中、傘を差しながら、ホームの様子を覗っているのが見えたので、良く見えるように屋根のないホームの先端まで出たところ、母は「気を付けて行って来なさい。雨に濡れるから、そこまで出てこなくても良いよ」と大きな声で言い、手を振っていた。

あの時点で、母はまだ、私がイスタンブールへ帰るところであることを覚えていただろうか? その辺は解らないが、多分、犬を連れて、家に着いた頃には、いつもの朝の散歩から戻った気分になっていて、駅まで私を見送りに来たことも忘れていたのではないかと思う。

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8月23日 (日)  東京ジャーミー(モスク)

一時帰国中、代々木上原にある”東京ジャーミー”にも出かけてみた。今回はちょっと目的があって、つまりイエニドアンの御近所に配る何か簡単な土産物でも見つからないかと思って出かけたのである。

出かける前は、東京ジャーミーの名前が記されたキーホルダーのようなものを想定していたけれど、そういったものは何れも結構値段が高く、結局、東京ジャーミーの写真付き絵葉書を数枚買ってお仕舞にした。

それから、ムハンマドの言行録”ハディース”の中から40の言葉を抜粋して、小さな手帳に纏めたものが無料で配布されていたので、これもいくつか頂いて来た。日本語の他、アラビア語の原文も記されていたので、信仰に篤いイエニドアンの御近所の中には、なんとか読んでみようとする人もいるだろう。

この土産物、まず、廃品回収屋さんの所に持って行ってみた。一応短大を出ている末弟は、アラビア文字も少し読めるはずだ。彼は手帳を受け取ると、裏表を万遍なく眺めてから、私に訊いた。「これ、ギュレン教団とは関係ないですよね?」

「それは東京ジャーミーで配られていたんだ。東京ジャーミーはトルコの宗務庁が管理しているはずだから、多分、関係ないと思うよ」と答えたら、にこっと笑ってページを開き、アラビア語の1行を読み解こうとしていた。

それから、家電修理屋さんにも寄ってみたところ、ここでも同じことを訊かれた。「ギュレン教団とは関係ないだろうな?」。それで、また同じ答えを繰り返すと、ありがたく受け取ってくれたけれど、彼はアラビア文字が読めるわけでもないようだった。

しかし、この日は、家電修理屋さんに来客がいて、彼らはすらすら読みこなしていた。シリア難民の父子だった。息子が35歳ぐらい、お父さんは65歳ぐらいじゃないかと思う。トルコへ逃れてから、もう2年ぐらい経つはずだが、息子のトルコ語もあまり上手くなっていない。お父さんの方は、それこそ片言でやっと話す程度である。

息子は、ハディースを2つほどアラビア語で読み上げてから、私に「日本語で読んで、その意味を言え」とトルコ語で言い、どのように日本語訳されているのか調べたりして、いつになく能弁だった。

土産物は、ジャー・ケバブ屋さんにも持って行ったが、ここでもギュレン教団との関連を訊かれた。どうやら、「海外でイスラムの普及などに努めているのは”ギュレン教団”」といった認識がかなり広まっているらしい。

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8月24日 (月)  イーテウォンのモスク

帰途、ソウルに到着した翌日が金曜日だったので、イーテウォンにあるモスクへ金曜礼拝の様子を見に行ってきた。このモスクの由来については良く解らないが、形状からして、トルコのモスクとは大分違うような気がする。東京ジャーミーのように、トルコの文化を紹介する施設が付属しているわけでもない。

礼拝が終わって出てきた人たちが、それぞれに集まって談笑している所へ近寄ったりしながら、暫く歩き回って見たけれど、結局、トルコ語の会話を耳にすることはなかった。

98年、やはり金曜日に訪れた時は、ここで多くのトルコ人留学生と出会ったくらいだから、今回も間違いなくトルコ人の参拝者はいたはずだが、あまりにも人が多過ぎたため、却って出会うチャンスがなかったのではないかと思う。

この10数年の間に、インドネシアやパキスタンから働きに来る人も多くなり、ソウルに居住するイスラム教徒の数は飛躍的に増えているのかもしれない。

モスクの周囲に、イスラム関係の商店なども沢山出来ていて、辺りは”イスラム街”といった様相を成していた。

ハラール認定を謳う飲食店であるとか、イスラム図書館というのもあった。トルコの国旗を掲げた菓子店や飲食店をいくつも見かけた。モスクには、トルコの人たちも大勢礼拝に来ていただろう。

90年だったか、ソウルを訪れた際、すでにトルコ語の学習を始めていた私は、何処かでトルコの人たちと出会える機会はないものかと思い、在ソウルのトルコ大使館へ行き、窓口に出た韓国人の職員に、「イーテウォンのモスクには、トルコの方たちも来られますか?」と尋ねたところ、次のような答えが返って来て驚かされた。「トルコの人たちは文明化されていますから、モスクへ行って祈ったりしません」

そういえば、当時は、東京のジャーミー(モスク)も、以前あったモスクが取り壊されて更地になったまま再建の目途も立っていなかったらしい。その頃、東京にいたトルコ人の友人たちは、何度かトルコ大使館から駆り出されて、その更地になっていたトルコ大使館が所有する地所へ、モスクを再建しようとしないトルコ政府を非難する落書きを消しに行ったことがあるそうだ。

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8月25日 (火)  イーテウォンのパスターネ(パン・菓子店)

イーテウォンには、イスタンブールで見かけるのと全く変わらないようなパスターネ(パン・菓子店)もあった。

パンや菓子の品揃えから、ショーケースなどの配置まで、何から何まで同じようになっていた。缶ジュースもトルコの”Tamek”だった。

私が出かけた時は、店員さんもトルコ人の留学生で、彼女と話していると、なんだかトルコの何処かに来ているような気がした。

彼女は、カイセリの大学の韓国語学科の学生で、一年のソウル留学を終えたら、また復学するのだという。韓国語の発音もきれいだった。韓流ドラマを見ながら勉強したくちかもしれない。

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8月26日 (水)  ソウルの日本語・日本食

ソウルでは、2年前と同じ大元旅館に宿泊するつもりでいたけれど、インチョン空港でソウル駅行きの電車に乗ってから、果たしてこの先、地下鉄の何号線に何処で乗り換えて、何処で下りるのか、何も覚えていないことに気が付いた。

景福宮・光化門(カンファムン)に近い旅館の場所は、まさか忘れていなかったものの、車内の路線図には、この「空港−ソウル駅線」の停車駅と乗り換え路線の番号しか記されていない。『さて、光化門(カンファムン)に行くのは何号線だったか?』と路線図を見ながら考えた末、直ぐわきの席に座っていた3人連れのサラリーマン風に、韓国語で尋ねてみた。

すると、40歳ぐらいと、3人の中では一番年配に見える男性が、わざわざ立ち上がって路線図を見上げながら、「えーと、日本語解りますか?」と日本語で私に訊いた。こちらが韓国語で訊いているのだから、「日本語解りますか?」もないものだが、韓国語をやっと話す初学習者と思われてしまったらしい。私の韓国語も随分錆びついたようである。

「ええ解ります、日本人です」と答えたら、にこっと笑い、路線図を指し示しながら説明してくれた。「カンファムンは5号線ですからね。えーと、ここですね、金浦空港、ここで乗り換えです」

この方の日本語もそれほど上手いものではなかったし、”コンドク”というもっとソウル駅に近い停車駅にも5号線との乗り換え表示が出ていることに私は気がついていたけれど、せっかく日本語で教えてくれたのだから、私も「ありがとうございます」と日本語で礼を述べて、向かい側の席に腰を下ろした。

それから3人連れは、スマホで何か調べて話し合っていたが、あの男性がまた立ち上がると、私を手招きし、路線図を示しながら、「さっき金浦空港と言ったんですが、調べたらですね、このコンドク駅で乗り換えが早いですね」と丁寧に訂正してくれた。これには何だか、とても嬉しくなった。

しかし、韓国ぐらい、こうして日本語が簡単に通じてしまう外国が他に何処かあるだろうか? 台湾もそうかもしれないが、日本語学習者の数は今でも韓国が台湾を上回っているそうだ。韓国の人たちにとっても、日本語は文法的に近くて、最も楽に学べる外国語だかららしい。

今回、韓国に滞在した6日間は、8月15日を挟んで、最も”反日”の高まる日々だったはずだか、新聞も読まなければ、ニュースも見なかったので、街を歩いていて何も特別なものは感じなかった。また、日本から韓国への旅行者は大分減ってしまったようだけれど、韓国の人たちは相変わらず日本への旅行を楽しんでいるという。

イデオロギーばかり振り回している韓国の”知識人”は嫌になるが、それとは別に現実の世界でしたたかに生きている”人々”には、やっぱり大陸の気風があるのかもしれない。

ソウルの街では、2年前と比べても、日本語の看板を掲げたりする飲食店などが、また少し増えたようにも感じられた。

「フクオカ・ハンバーグ」というハングルの看板を掲げた店もあった。福岡にそういうハンバーグ屋があって、その店がソウルに進出してきたのかと思ったところ、実は経営者が暫く福岡に住んでいた人で、そこで食べたハンバーグに感激し、これを研究してソウルで実現させた店なのだそうである。

それにしても「フクオカ」の文字が大きく、最初見た時は『福岡がどうかしたのか?』と驚いてしまった。我々東京の人間にしてみれば、福岡と言って先ず思い浮かぶのは、ハンバーグより何より韓国が本場の”明太子”なのだが・・・。

他にも、長崎カステラの”奇跡”であるとか、ラーメンの81番であるとか、いろいろあったけれど、いずれも韓国の人が「日本の味」を研究して実現させた店らしい。81番という店名は、国際電話の日本の局番に由来しているというのも何だか面白い。

ミョンドン(明洞)には、「丸亀製麺」の看板を掲げた店があって、これはもちろん日本の丸亀製麺が経営しているようだ。

昨年だったか、トルコへ出張してきた香川県の会社の方に、「東京で讃岐うどん食べるなら何処が良いですか?」と尋ねたら、「丸亀製麺なら味は許せます。でも、あの値段は許せませんね。香川で”うどん”と言えば、ご飯みたいなものですから・・・」というお答えだった。そうなると、ソウルの丸亀製麺は、ますます許せない値段であるような気がした。


ソウルに日本が溢れていた
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=4

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8月27日 (木)  大元旅館 ― アンカラ公園 ― ドンドゥルマ(アイスクリーム)

ソウルの宿、大元旅館は今月で閉館するそうだ。最後に、もう一度泊まることができて本当に良かった。2年前に初めて泊まって感激し、なんとか近いうちに再訪したいと思っていたら、意外に早く実現したものの、これが最後になるとは・・・。

今回の一時帰国は、大韓航空のソウル経由にしたけれど、今年は特に安くなっていたのか、イスタンブール〜東京の直行便より格安だった。これから一時帰国する時は、必ずソウル経由をチェックして置こう。場合によっては、安いうえに、日本も韓国も楽しむことができる。

さて、閉館してしまう大元旅館、ここはいつ頃からやっていたのだろう? 経営者の御夫婦に訊きそびれてしまったが、多分、80年代の初期ぐらいからではなかったかと思う。私がソウルに語学留学した87年には、既に日本人バックパッカーが集まる安宿として評判だった。

92年に、初めてイスタンブールで暮らし始めた頃は、同じようなバックパッカー宿が、イスタンブールにもたくさんあったけれど、いずれも物価の上昇と共にグレードを上げ、今やその殆どが洒落たホテルになってしまった。

ソウルの多くの安宿も、こういった変遷を経たに違いない。ところが、大元旅館は30年以上、安宿のまま続き、今、その歴史を閉じようとしている。これはなかなか得難いことであるような気がする。閉館間際になって、また泊まることができた私は幸せ者だ。

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旅館に置いてあった「ソウルの中の外国」という韓国語のガイドブックに、アンカラ公園なるものが紹介されていたので、早速出かけて見たけれど、アンカラ、もしくはトルコらしいのは、民俗博物館といったトルコ風の木造家屋が一軒建っているだけで、おまけにその日は休館日だった。残念・・・。

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旅館から歩いて15分ほど行けるインサドン(仁寺洞)は、かつて陶磁器や書道具を売ったりする店が並んだ、静かな味わいのある街だったように記憶しているが、今や韓国の若い人たちや外国人観光客が賑やかに行き交う、原宿と浅草を混ぜ合わせたような変な街になってしまっていた。

トルコのドンドゥルマ(アイスクリーム)の屋台なんて、昔の仁寺洞だったらミスマッチに思えただろうに、これがすっかり街の雰囲気に溶け込んでいる。

屋台をやっているトルコの人は、ドンドゥルマの本場カフラマンマラーシュ県の出身であると言う。私が半信半疑で笑ってしまったら、わざわざトルコの身分証明書を取り出して見せてくれた。毎年、夏季だけソウルに来て、ドンドゥルマを売っているそうだ。

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8月28日 (金)  ソウルのコンビニ

ソウルは夕方になれば、東京に比べて随分過ごしやすかったけれど、それでも日中はかなり暑くなった。外を長時間歩いていると、汗をかいて喉も渇き、思わず喫茶店に転がり込んで、冷たいものでも飲みたくなるが、どこでも洒落たカフェばかりが目につき、相当財布に響きそうだ。

そこで考えたのが、コンビニで一休みという方法である。ソウルのコンビニには、大概、いくつか座れる席が用意してあり、そこでカップラーメンなども食べられるようになっている。大きな店だと、席がたくさんあって、結構のんびり過ごすことができる。

冷たい飲み物と“おにぎり”を買って、冷房の効いた店内で食べる。これが非常に安上がりで快適だった。“おにぎり”に、梅干しとか納豆はなかったが、ツナマヨなどは日本と変わらない、“キムチ炒めご飯”なんて韓国らしい“おにぎり”もあった。

店内での飲酒がお断りなのは残念だが、何処のコンビニにも、酒類は置いてあるような気がした。また、必ずと言って良いほど、日本のビールも売られていて、キリンに朝日、サントリーと主だった銘柄が揃っていた。

韓国で日本の清酒が大流行というのは聞いていたけれど、ビールも結構な人気らしい。私は日本で、『トルコのビールより安い!』とサントリーの発泡酒ばかり飲んでいた。日本のビールはそんなに美味いのだろうか?

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8月29日 (土)  ソウルの山登り

ソウルの最終日だった18日の午前中、景福宮の西側に聳えるイナンサン(仁王山)という山に登ってみた。旅館からそのまま歩いて登れる標高338mほどの小さな山だが、荒々しい岩肌がむき出しになっていて、なかなか結構な山らしく見える。

ちょっとしたハイキングコースになっているのか、登り口や分岐点には大きな地図が掲げられていて、道に迷う心配はないし、急な斜面には階段なども整備されているから、楽に登ることが出来る。しかし、樹木があまり茂っていないため、直射日光にさらされ、もの凄く暑かった。その代わり、展望を遮るものもなく、尾根に出てからの眺めは最高だった。

南側には、ナムサン(南山)からハンガン(漢江)の流れまでが一望され、頂上へ至ると、北側にプカンサン(北漢山)の頂きを望むことが出来た。

プカンサン(北漢山)は標高837mあるそうだ。周囲を山に囲まれたソウルで、87〜88年に語学留学していた頃は、その山々に登ってみようかと思いながら、結局登ったのは、下宿から歩いて行けるアンサン(鞍山)ぐらいである。最近は、イスタンブールの山々にも登ったりしているのに、あの頃はどうも怠慢だった。

イスタンブールの最高峰!
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=10

イナンサン(仁王山)の頂上からは、360°の展望が得られるけれど、景福宮のある東側にカメラを向けることは禁止されていた。もちろん、景福宮の撮影が禁じられているのではなく、その後方に位置する青瓦台(大統領官邸)を写さないでくれと言うのである。

このためか、尾根のあちこちに若い兵士たちが配備されていた。その兵士らに、「撮影禁止という表示が出ているけれど、全ての方向が禁止されているの?」と訊いたら、「いや、青瓦台が写らなければ、あとはどの方角を撮影されても構いません」と丁寧に礼儀正しく答えてくれた。

北朝鮮との対峙という事情があるとはいえ、グーグルアースでも、青瓦台が眺められてしまう時代である。デジカメの撮影を禁じることに何の意味があるのか全く解らないが、若い兵士らに、そんなこと言っても始まらないので、「良く解った」と伝えてから、「スゴハセヨ(ご苦労様)」と言い添えたら、姿勢を正し、気合を入れて「カムサハムニダ!(感謝します)」と叫んだ。若者らしい、とても爽やかな響きだった

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