Diary 2015. 12
メニューに戻る
12月1日 (火)  トルコの政教分離と世俗化

クズルック村からメルハバ通信
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/002.html

クズルック村の工場には、非常に敬虔なムスリム・トルコ人のエンジニアもいれば、全く信仰のないトルコ人エンジニアもいた。しかし、日本人の出向者も含めて、皆が熱意を持って取り組んでいたのは、生産効率と品質の向上であり、そこには宗教や国籍の違いが介在する余地など殆どないように思えた。

おそらく、トルコの何処の生産現場でも状況はそれほど変わらないのではないか。市場の競争原理に基づいて産業化が進んだ社会では、特定の宗教やイデオロギーの支配力が後退して、世俗化が進むという説は概ね正しいような気がする。

もちろんこれには、雇用機会の均等が条件になるかもしれないが、それを守らない企業は競争力を失うだけだろう。

クズルック村の工場でチーフ・エンジニアだったマサルさんは、非常に敬虔なムスリムで礼拝等の務めも欠かさずにこなしていた。部下の青年によれば、当時(2000年頃)は、そういったムスリムがトルコの一般的な財閥企業に入社しても、あまり出世する見込みはなかったそうである。「だから、ああいう人たちは外資系の企業を選ぶ」と青年は私に囁いた。

実際、マサルさんに訊いたところ、彼はクズルック村に来るまで、米国資本の企業で働いていたという。

80年代、オザル政権によって外国資本の導入が図られるまで、政教分離主義者と敬虔なムスリムの間には、機会均等とは言い難い状況があったと見て良いかもしれない。スカーフを被った女性の社会進出も拒まれていた。

エルドアン大統領は、この状況について、「我々敬虔なムスリムは、アメリカの黒人のようだった」と語って物議を醸していたけれど、多くの敬虔なムスリムが不満を燻ぶらせていたのは事実だろう。

しかも、それほど敬虔とは言えないまでも、この不均等を快く思っていなかったムスリムまで含めれば、それはアメリカの黒人のような少数派ではなく、明らかな多数派だった。

競争の原理から見ても、あまり好ましい状態とは言えなかったはずだ。AKP支持派の知識人であるジャン・パケル氏は、これを次のように説明している。

「・・・共和国発足当時、トルコ人の殆どは農民だったため、共和国の創業者らは、仕事が出来る西欧志向型の階層を作り出す必要があった。そして、創造された“白いトルコ人”(政教分離主義者)を85年近くに亘って守ってきた。関税により、また彼らが製造した粗悪品を国家が買い上げ、競合相手を妨害することにより守ってきた。・・・」

政教分離主義による革命という意気込みがあったにせよ、かなり無理な変化を社会に押し付けようとしていたのは確かじゃないかと思う。反動保守勢力を軍部が弾圧するなど、民主主義も棚上げしようとしていた。

エルドアン大統領とAKPは、この無理な革命をゆるやかに終わらせようとしている。これに政教分離主義の革命勢力が猛反発しているのは、当然かもしれないが、公の場における女性のスカーフまで禁止することに、どういう革命的な意義があったのだろう?

女性のスカーフは漸次解禁され、昨日承認された新内閣には、ついにスカーフを被った女性の大臣も登場した。だからといって、恐れられたように、「世間の圧力でスカーフが強要される」といった事態には至らなかった。

イエニドアンの我が家の近所で、スカーフを被っていなかった娘が、突然きっちりスカーフを被って敬虔な服装になり、『あっ!』と思ったけれど、3か月でスカーフを外すと、今度は以前よりもっと派手な髪形と服装になって驚いた。今思えば、スカーフと敬虔な服装も色合いは随分派手だった。スカーフも既に一種のファッションという扱いなのだろう。

スカーフの解禁により、女性の社会進出は一層進んだ。スカーフを被った女性の路チューぐらいでは私も驚かなくなった。そのうちスカーフは敬虔のシンボルとは言えなくなるかもしれない。

いずれにせよ、トルコで政教分離の根幹が揺らぐことは有り得ないと思う。

AKPの母体となったイスラム主義運動“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”の出身であり、新内閣でも副首相に留任したヌーマン・クルトゥルムシュ氏の祖父は、オスマン帝国の軍人でアタテュルクの同僚だったそうである。この人物は、オスマン帝国時代に、初めてラテン文字によるイスラムの教科書を著したという。

トルコの政教分離と民主化の流れは、オスマン帝国時代のタンズィマートの改革で既に始まっている。そのため、一部のAKP支持者は、「我々も従前から政教分離だった」というけれど、オスマン帝国がそのまま続いていたら、その政教分離は大分違うものになっていたはずだ。

人口に異教徒の占める割合が高かったため、その意味では別の魅力のある政教分離になっていたかもしれないが、現在の政教分離は、あくまでもアタテュルクによる共和国革命の賜物である。その業績は、これからも称えられ続けるだろう。歴史は過ぎ去ってしまったのだから、今更、どちらの政教分離が良かったかと優劣を競っても意味はない。

おそらく、こんなところが多くの人々の共通理解になっているような気がする。トルコで、歴史をほじくり返したリ、歴史に逆行したりする人たちが主流派になるような事態は、まず想像できないのである。

欧米でも、こういったトルコにおける政教分離と世俗化の歩みが理解され、ムスリムによる政教分離の可能性がもっと語られるようになれば、イスラムに対する見方も変わってくるに違いない。

いくらなんでも、欧米の大きな流れは、既にイスラムとの共存を模索する方向へ進んでいるだろう。イスラムの教義を論ってみたり、抑圧を続けたりしても、何ら成果が得られないのは明らかである。そして、イスラム教徒が水蒸気のように消えていなくならないのであれば、相手の価値を認めて共存するより他にない。

また、サウジアラビアのような原理主義は、欧米にとって却って扱い易かったのかもしれないが、今や最大の脅威となっているようだ。

これに対して、政教分離による民主主義の中で、イスラムの教えを生かそうとしているトルコ共和国が果たせる役割は、極めて重要で大きいと思う。

20151201-1.jpg 20151201-2.jpg



12月2日 (水)  廃品回収屋さんの末弟

先日、市場へ買い物に行った帰り、廃品回収屋さんの所へ寄ったら、経営者である長兄(35〜40歳ぐらい)に、「それで何作って食べるの? あんたに早く嫁さんを世話してあげなきゃなあ」と、また言われた。

それで、傍らに座っていた弱冠23歳の末弟を指して、「そんなことより、こっちの嫁さんを早く世話してあげなさい」と応じたところ、「こいつは駄目だ。何の見込みもない。早く日本かどこかへ連れて行ってくれ!」なんて笑っている。

おそらく、当時の義務教育である小学校(5年制)しか出ていない長兄と異なり、末弟は一応短期大学の卒業である。でも、長兄に言わせれば、「せっかく金かけて勉強させてやっても、何にもならない。相変わらず馬鹿のままだよ」ということになるらしい。

まあ、卒業して良い仕事が見つかったわけでもなく、汗にまみれて廃品回収屋の手伝いをやっているのだから、長兄としては何とも歯がゆいのだろうが、一生懸命働いているし、なかなか頼もしい好青年のように思える。

好奇心旺盛で、短大で勉強したから、ある程度基本的な知識もある。私の話を面白がって聞いてくれるけれど、私もこの青年と話すと楽しい。

しかし、彼女がいそうな気配はない。ちょっと女性に声かけたりする器用さもないような気がする。

「短大には女の子もたくさんいただろう? 何か良い話でもなかったのか?」と水を向けても、「いやあ、あなたと同じで、僕も『電気が走った』とか、そういうのは全く解らないんですよ」という。女の子と向き合ったりしたら、赤面して何も話せなくなってしまうそうだ。

私たちのやり取りを笑いながら聞いていた、もう一人の次兄も、「こいつは度胸がねえんだよ」と冷たい態度である。

それで私が、末弟の代わりに言い返してやった。「そんなこと言って、あなただってお見合いで結婚したんじゃなかったんですか?」

信心深い保守的な家族のことだから、きっとそうだろうと思い込んでいたのだ。長兄からは見合いの話を聞いた覚えもある。

ところが次兄はそうじゃなかったらしい。「俺は恋愛結婚だった。二人で結婚しようと決めてから、自分で彼女の親のところへ行って話した」というから大したものだ。

しかし、繰り返し「度胸がない」と詰るのには、私も少々ムッとした。「そうかなあ、やたらと女の子に声をかける連中がいるけれど、ああいうのは度胸じゃなくて、恥知らずなだけでしょう」

これには、末弟も嬉しそうに反応してくれた。「そうです! まさしく、その“恥知らず”だと僕も思います!」。そして、意気投合して固い握手を交わした。

それから、ふと周りを見たら、次兄も隣にいるおじさんもヒーヒー笑っている。口車に乗せられた末弟はともかく、なんだか最も恥知らずなのは、やっぱり私であるような気がして、どっと落ち込んでしまった。

20151202-1.jpg 20151202-2.jpg



12月3日 (木)  寒さに震えてビールを飲む

昨日はカドゥキョイで飲んだ。街は相変わらずの賑わいだった。

気温は10℃ぐらいと寒く、外でビールを飲む陽気じゃなかったが、ふところ具合を考えたら、他に選択肢もない。ここに至るまで、あちこち歩き回って来たから、一杯目は結構美味しく飲めた。

その後は、ロシアがどうたらいう話題で熱く盛り上がったと言いたいところだけれど、やっぱり寒かった。

20151203-1.jpg 20151203-2.jpg 20151203-3.jpg



12月4日 (金)  トルコの国産ウオッカ“バズーカ”

日本にいた頃は、冬でも湯上りには先ずビールを一杯、それから酒だったりしたが、イエニドアンの我が家にはシャワーしかないし、暖房も余り効かず、部屋の中にいても寒いから、冬は専らワインで、ビールは滅多に飲まなくなった。

そのワインも、ふところ具合がどんどん寒くなって来たため、そうやたらと飲めるわけじゃない。

アルコール単位の値段を計算したら、蒸留酒の方が割安かもしれないけれど、ラクはいまいちだし、ウイスキーなどは高くてとても手がでなかった。

一昨日、カドゥキョイのスーパーに寄って、酒類陳列棚を見渡しながら、また『ふーむ』と思案していたが、最も安価な究極のアルコールは、要するに“ウオッカ”だろう。

そして、1本買って来たのが、トルコの大手酒造メーカー“メイ社”のウオッカ、“バズーカ”というブランドである。

昨日、冷蔵庫で冷やしておいたその“バズーカ”を、早速、ストレートで飲んでみた。

なかなかいけると思ったが、ちょっとパンチが足りない。見るとアルコール度数は37.5%である。これでは“バズーカ”じゃなくて、“カラシニコフ”程度のような気がする。

口上書きには、「先進のテクノロジーで、穀物アルコールを何度も純化して得られました」なんて記されているけれど、あまり大したテクノロジーではなさそうだ。

でも、健康を考えたら、少し物足りないぐらいが良いかもしれない。この冬は、これをちびちびやりながら乗り切ることにしよう。

20151204-1.jpg



12月5日 (土)  文明の揺籃“アナトリア”

いつだったか、トルコを訪れた人が、料理について、「トルコにもビーフストロガノフに似た肉料理があった。ロシアから伝わったのだろう」というような感想を記していたのを読んで溜息がでた。

オスマン帝国の宮廷料理は、19世紀になって、フランスの影響を受けたらしいけれど、これはロシアも同じはずである。しかし、それ以前には、オスマン帝国の食文化がフランス等へ影響を与えたこともあったそうだ。この点、ロシアはどうだろうか? 

オスマン帝国の都コンスタンティノポリの食文化は、おそらく、ギリシャ人らが東ローマ時代から受け継いできた伝統が土台になっていて、そこへ中東や中央アジアの味覚が加わって行ったのではないかと思う。

なにしろ、ヨーロッパの人たちは、その料理を世界三大料理の一つに数えていたのである。ロシア料理など、五大か七大まで枠を広げても、なかなか入れてもらえないだろう。

まあ、我々東洋人にしてみれば、世界三大も何も「中華」に比肩し得る料理なんて何処にもないような気がするけれど・・・。

ロシアの人たちが大得意にしている“飲酒”にしたって、多分、その歴史は中東やアナトリアに遠く及ばない。アルコールの蒸留はアラビア人の発明である。

ただ、アナトリアの人たちは、その後、イスラムへ改宗して行ったため、あまり飲まなくなり、コンスタンティノポリから伝えられたギリシャ正教に改宗したロシアの人たちは、その分まで浴びるように飲んでいる。

しかし、こういった歴史的な過程が、ロシアや西欧の人たちにとっては、腹立たしくて堪らないのかもしれない。

コンスタンティノポリ、アナトリアは彼らにとって、文明の揺籃の地だったはずなのに、いつの間にかイスラム教徒のトルコ人に分捕られてしまった。

(それと共に、この文明の揺籃の地の人々が、いつのまにかイスラムに改宗してトルコ語の話者になっていた、ということもあるような気がする)

その為、西欧やロシアの視点からトルコを見た場合、それは、中国や韓国の人たちが語る日本と同じようになってしまう恐れもあるのではないかと思う。まるで、ファシスト・アベが支配する凶悪な国家といった風に・・・。

もちろん、西欧にも、公正に見ている識者は少なくないだろうし、まさか韓国ほど激しい偏向もないはずだが、トルコを描いた映画には、あの「ミッドナイト・エクスプレス」のような凄まじい歪曲もあった。

********

そういえば、映画「ミッドナイト・エクスプレス」では、アメリカ人が法廷で、「あんたらが何で豚を食べないのか解ったよ。それはあんたらが豚だからだ!」とトルコ人を罵る場面があったけれど、あれを、やはり豚を禁忌とするユダヤ人に向かって言ったら、どうなるだろう? 

あの映画で、悪辣なトルコ人刑務所所長を演じていたのは、ユダヤ系の米人だったが、彼はあの台詞を何と思っていたのだろうか?


映画“ミッドナイト・エクスプレス”の俳優
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2015&m=3

【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である【ラディカル紙】【2004.12.30】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00105.html

20151205-1.jpg



12月6日 (日)  エルドアン大統領の自邸

エルドアン大統領については、トルコ国内の反対派のメディアが、あることないこと書き立てているものだから、それが日本へ伝わり、一部には凄まじい独裁者のイメージが出来上がってしまっているかもしれない。

アンカラの大統領府も、まるでエルドアン氏個人の宮殿であるかのように報じられたりしている。

私は、イスタンブールのクスクルにあるエルドアン氏の自邸近くを、良く市バスに乗って通るが、あの一角には、それほどの豪邸があるようにも思えない。

辺りは、確かに高級住宅街である。

しかし、エルドアン氏の自邸は、袋小路の奥にあって表通りからは見えないけれど、グーグルアースで上空から確認して見る限り、大した規模ではなさそうだ。

以下の“haberler.gen.al”の2010年9月の記事には、エルドアン氏の自邸と思われる家の写真が掲載され、隣家に住んでいて家族ぐるみの付き合いをしているジハット・デュンダルという実業家が、その規模などについて語っている。

haberler.gen.al
http://www.haberler.gen.al/2010-09-10/basbakan-erdoganin-kisiklidaki-komsusu-isadami-evinin-kapilarini-cihana-acti-bu-mu-7-milyon-dolarlik-villa/

ビオタという化粧品会社の創業社長であるジハット・デュンダル氏によれば、「700万ドルの豪邸」と騒がれたこの家の価格は、せいぜい150万ドルぐらいらしい。

デュンダル氏の自宅も含めて、何棟か同じ業者によって建てられた高級住宅の一つがエルドアン邸となっていて、各棟はそれぞれ規模も構造も殆ど変わりがないという。

ネットの他の記事によると、エルドアン氏はここへ2009年に越してきている。

デュンダル氏は、首相が隣に越して来て、豪邸などと騒がれたものだから、自宅もそういう豪邸なのかと誤解されて困ったそうである。

「エルドアン大統領の豪邸」に関しては、今でも色んな話が出回っているようだけれど、グーグルアースで見ても、デュンダル氏の説明がまるで偽りであるとは考えられない。

ネットでちょっと調べれば、エルドアン氏の自邸が何処にあるのか直ぐに解るから、機密でも何でもないだろう。いっそのこと自邸の写真などをもっと大っぴらに公開してしまえば良いのに、何故そうしないのか良く解らない。

御近所の迷惑になるから、なんてことでもないはずだ。この前の選挙では、勝利を祝う支持者たちが表通りに押し寄せて、深夜まで大騒ぎになっていた。御近所は既に充分迷惑しているだろう。

私もあの日市バスに乗っていたら、“エルドアン大渋滞”に嵌って、大変な目に合っていたかもしれない。


*写真:Google Earth/haberler.gen.al

エルドアン氏の自邸は、左写真の左奥にあるらしい。在宅の時は、警察官がもっといるような気もする。真ん中の写真はその裏手で、警察が常駐しているようだ。右が“haberler.gen.al”に掲載されていた写真。

20151206-1.jpg 20151206-2.jpg 20151206-3.jpg



12月7日 (月)  目白御殿

東京都内の運送屋で働いていた1981年の末、1〜2週間ぐらい某百貨店に出向して、お歳暮の配達を請け負ったことがある。

このお歳暮は、非常に高価な“活け蟹”で、差出人はそれなりに余裕のある人たちだったに違いない。配達先も金持ちそうなお宅が多かった。

これに先立って、格安通販の配達をやらされた時は、「何々荘10号室」といった住所が多く、探し出すのに苦労したけれど、高級お歳暮の配達は、大概の目標が大きくて見つけやすかった。

その辺りで、一番立派そうなお屋敷の前に車を止めてから住所を確認すると、どんぴしゃりだったこともある。

有名人も少なくなかった。朝、当日配達分の伝票を整理しながら、宛先に「王貞治様」という文字を見出し、自分にとって歴史的な瞬間が訪れる期待に胸をときめかしたりした。

もちろん、その瞬間は訪れなかった。玄関先に姿を現したのは、お手伝いさん風の女性だった。

尾上松緑邸では、歌舞伎役者らしい若い人が出て来た。お弟子さんだろうか? 結構有名な若手だったのかもしれない。

まあ、お歳暮を受け取りに“有名人”が、玄関先まで出て来ることはまずなかった。例外としては、宛先に本名が記されていたため、どなたか分らぬままピンポンとやったら、女優の菅井きんさんがドアを開けて顔を出されたのでびっくりした。

「配達ですか、ご苦労さまですねえ」とテレビで拝見する菅井きんさんと全く変わらぬ様子にも驚かされた。

そして、いよいよ最後の配達日だったが、「田中角栄先生」という宛先を見て、これまた興奮した。

まさか御本人に会えるとは思わなかったけれど、あの目白御殿の門をくぐって玄関まで行けたら、それだけでも話のネタになっただろう。

もう覚えていないが、差出人の住所氏名もすかさずメモしておいた。宛先の方は、住所を記す必要さえなかったに違いない。当時、文京区に住んでいた私は、地図を見なくても行くことが出来た。

しかし、迷わず門の前まで着いて、ちょっと様子を覗っていたら、物語はあっけなく幕を下ろされてしまった。門脇の番所から警察官が足早に近づいて来て、「配達か? ここで受け取るから早く出して」と言うのである。

車を降り、素早く荷台から“活け蟹”のお歳暮を取り出して手渡すと、警察官は伝票に「田中」という三文判を押してくれた。まさしく門前払いで、“玄関”などその影を見ることも出来なかった。

今、あそこは目白台運動公園という広い公園になっているようだけれど、あれでも御殿の敷地の一部が再開発されたものらしい。御殿全域はどれほど広かったのだろう?

あの目白御殿と比べたら、クスクルのエルドアン邸なんてケチ臭くてお話にもならない。

エルドアン氏は、イスタンブール市長に当選する94年まで、カスムパシャのごく庶民的な家に住んでいたそうである。これはマルマライの工事現場で知り合ったムスタファという作業員の青年からも聞いたことがあった。彼はカスムパシャで、エルドアン氏の次男と同じ小学校に通っていたという。 

エルドアン氏の場合、長らく批判されていたのは、金権体質というより、その“宗教体質”だった。


12月17日 (火) エルドアン首相の評判
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=12


*写真:Google Earth(目白台運動公園)

20151207-1.jpg



12月8日 (火)  アタテュルクに対する個人崇拝

1991〜94年にかけて、初めてトルコで暮らした3年の間、トルコの人たちと親しく語り合ったりしながら、何を不満に感じていたのかと言えば、それはアタテュルクに対する個人崇拝だったかもしれない。

まず、その称賛を押し付けられるのが嫌だった。私たちは、日本語を学んでいる外国人に、西郷隆盛や勝海舟を称賛するよう求めたりするだろうか?

それから、アタテュルクについては、少し批判めいた話題に触れただけで、大変なことになるから、口を慎まなければならず、それも不満の鬱積につながったようだ。トルコ人がいないところでは、度々アタテュルクの神格化を茶化すような話で盛り上がったりした。

こういった背景もあって、ようやく新聞の記事などが読めるようになると、アタテュルクに対する個人崇拝、あるいは共和国の体制そのものを鋭く批判していたリベラル派ジャーナリストのコラムを興味深く追うようになった。

2013年に亡くなったメフメット・アリ・ビランド氏、現在サバ―紙に書いているメフメット・バルラス氏、特にこの両氏の記事を感嘆しながら読んでいた。

逆に、当時の体制派であるアタテュルク主義者のエミン・チョラシャン氏などの記事を読むと非常に不愉快だった。体制の思想を押し付ける冷たい権威主義者、ファシストじゃないかとさえ思えた。

もっとも、ビランド氏やバルラス氏は、オザル大統領を支持していたから政権寄りのジャーナリストであり、チョラシャン氏が反政権と言えたかもしれない。しかし、当時は民選の政権よりも、背後で睨みを利かせる軍部の力が重要だったのではないかと思う。

現在もバルラス氏は、エルドアン大統領を支持する政権寄りジャーナリストの筆頭に数えられている。ビランド氏は亡くなる前、「ターイプ・エルドアンの10年」というエルドアン氏の功績を称えるドキュメンタリーの制作に取り組んでいたそうだ。

軍部は表舞台から退き、政権と体制は既に融和していると思われるため、今のバルラス氏は体制の批判者というわけでもない。反エルドアン派の人たちからは、まるで独裁者エルドアンの御用記者のように言われている。

一方のチョラシャン氏は、反エルドアン派の旗頭であるソズジュ紙で活動を続けているけれど、今でも体制派と言って良いのかどうかは良く解らない。というより、体制派とか反体制派などと論じる必要は、もう余りないような気がする。

体制に纏わるタブーはかなり少なくなった。アタテュルクへの批判はさすがに躊躇われても、個人崇拝を批判するのは、既に危ういことでもないだろう。

エルドアン大統領や政権に対しては、それこそ殆ど根拠のない誹謗中傷までまかり通っているのだから、外国人の私も注意深く口を慎んでいた90年代を振り返ってみれば、なんだか感慨深く思えて来る。

20151208-1.jpg



12月9日 (水)  トランプ・タワー

イスタンブールのメジディエキョイにそびえ立つ“トランプ・タワー”。

トランプ・オーガナイゼイションとドアン・メディア・グループの共同事業によって建設されたそうだ。2012年4月に落成すると、ドナルド・トランプ氏もイスタンブールを訪れ、テープ・カットはエルドアン首相(当時)が行ったという。

まともに取り合わなくても良いかもしれないけれど、トランプ氏は「全イスラム教徒のアメリカ入国を禁じる」とぶち上げているらしい。実現したら、共同事業者であるドアン・グループのアイドゥン・ドアン氏らも入国できなくなってしまうんだろうか?

20151209-1.jpg 20151209-2.jpg



12月10日 (木)  近所の日曜市場

(12月9日)

ロシアが経済制裁として、トルコの農産物の輸入をストップしたため、トルコでは農産物が市場に溢れ、価格が大幅に落ちているらしい。

そういえば、いつもはキロ3.5リラぐらいだったプチトマトも、2.5リラに値下がりしていた。でも、国産バナナは、おそらくロシアへ輸出していたわけじゃないから、影響がないらしい。キロ3.5リラ、それでもスーパーで売られている南米産よりは断然安い。

あとは、ミカンがキロ1リラで、とても安く感じた。オリーブはどうなんだろう? 私は数字に弱くて、値段とかも直ぐに忘れてしまうので、あまり正確な比較ができない。多分、影響は出ていないような気がする。

オリーブも、こういう市場で売ってる“無塩”なら、本当に薄塩で、高血圧を恐れる私でも安心して食べることができる。スーパーの“薄塩”は何処が薄塩なのかさっぱり解らない。

市場では、オリーブがむき出しのまま並べられているから、前を通っただけで、その何とも言えない香りに圧倒されてしまう。それで“無塩”の塩加減を味見してから少し買う。無塩と言いながら、塩は必ず入っているのだ。

20151210-1.jpg 20151210-2.jpg 20151210-3.jpg



| 1 | 2 | 3 | 4 |