Diary 2015. 11
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11月1日 (日)  選挙/AKPの単独政権復帰がほぼ確実

トルコでは、今日、再選挙が行われ、多くの人たちが投票所へ足を運んだ。選挙権の無い私も、投票所が設けられた小学校まで、様子を見に行って来た。

出かける前、近所の人に場所を確認したら、「この通りのずっと先のモスクの裏にある学校だ。近くまで行けば、人がたくさん集まっているから直ぐ解るよ」と言われたけれど、確かに、モスクへ近づくと急に往来が多くなった。

これから投票に行く人たち、投票を終えて戻ってくる人たち、車で来た人たちも多く、警察官が整理にあたっていた。

17時に投票が終了すると、速やかに開票作業に入り、20時頃にはAKPの単独政権復帰がほぼ確実と伝えられ、AKP支持者が圧倒的に多いこの街では、早くも花火を上げたり、爆竹を鳴らして、AKPの勝利に答えている。

票差は、予想以上に開いているようだ。この結果により、トルコは、非常に重大な危機を、ひとまず乗り切ったのではないかと思う。

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11月2日 (月)  選挙の結果

昨日の便りを書き終えた21時(昨晩)頃の段階でも、AKP圧勝の勢いが伝えられていたけれど、開票が進む中、その後も大きな変動は起こらず、最終的にAKPの得票率は約49%に達した。これは、2011年の約50%(49.9%)に次ぐ数値である。

選挙の1週間ほど前、定評のあるリサーチ会社アディル・ギュルが、AKP約47%という調査結果を明らかにしていたものの、その時点では、AKP支持の識者らも、「さすがにそこまでは行かないだろう。45%前後の攻防じゃないのか?」と予想していた。代表のアディル・ギュル氏によれば、AKPの幹部でさえ、47%を過大な数字と見ていたそうだ。

それどころか、その幹部はギュル氏に、「あんたCHPから金もらって、甘い数字で我が党を怠惰にさせようとしているんじゃあるまいな?」などと冗談を言ったらしい。しかし、この辺りがAKPの凄いところであるような気がする。ライバルのCHPは、いつも選挙前に甘い数字を掲げながら惨敗しているからだ。

今回の選挙で、最も大きく後退したのは、AKPと同じく保守層を支持基盤とするMHPだった。16%から12%に落ち込み、その多くの票がAKPに流れたと思われる。党の創設者故アルパスラン・テュルケシュ氏の子息トゥールル・テュルケシュ氏が、党を脱退してAKPに入党したのは何より痛かったに違いない。

MHPは、イスラム的・保守的な点でAKPに似通っているけれど、トルコ民族主義を強く打ち出しているところが異なっている。そのため、MHPの票を何とか取り込もうとしていたAKPには、以前からクルド問題の解決を模索しつつ、選挙が近づくと“トルコ民族主義的”になる傾向が見られた。↓

【144】クルド問題−オザル大統領からエルドアン首相へ【ミリエト紙】【2006.04.19】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00144.html

AKPが、2012年以降、クルド問題の解決へ大きく舵を切ったのは、2011年の総選挙における大勝、トルコの国力の充実といった諸々の条件が揃ったからだろう。2013年には、大々的に“和平プロセス”を開始した。

ところが、その6月には“ゲズィ公園騒動”が勃発して早くも歯車が狂い始める。トルコからの撤退を約束していたPKKは、そのまま国内に留まり、着々と武力闘争再開の準備に取り掛かったらしい。そして、今年の6月の選挙で、クルド系政党HDPが大躍進して和平への期待が高まったのも束の間、PKKは再び武力闘争に転じた。

これには、政治勢力のHDPが力を持つことを、武装勢力のPKKが嫌ったためだとか色々な説が飛び交っているけれど、真相はどうなのか良く解らない。シリアの内戦激化に活路を見出したとも言われている。

いずれにせよ、これに対して、AKP政権は軍を出動させて反撃を加え、“和平プロセス”は凍結されてしまう。でも考えようによっては、これが今回の再選挙における圧勝の大きな要因になったような気もする。

まず、和平を求めるクルド人民衆の一部がHDPから離れた。もっとも、これによってAKPが得たのは2ポイントぐらいかもしれない。しかし、MHP等からトルコ民族主義的な人たちの票がAKPに流れたのは大きかったと思う。AKP憎しの野党勢力は、AKPを非難するため、PKKを擁護するような発言を繰り返して墓穴を掘ってしまったようだ。

右派MHPとは異なり、ラディカルな左派のトルコ民族主義者ドウ・ペリンチェク氏(元労働者党党首)も、選挙の数日前に、AKP政権寄りのニュース番組でインタビューに答え、AKP支持こそ表明しなかったものの、CHP、MHP、HDPの野党全てが外国勢力と結託していると非難していた。

私にとっては、あのドウ・ペリンチェク氏がAKP政権寄りのニュース番組に出演したこと自体驚きだった。右派に限らず、左派トルコ民族主義者の中にもAKPへ投票した人たちはいたのだろう。

もしも、PKKが撤退していたり、HDPが和平路線を強く打ち出していたりしたら、和平プロセスに反対しているトルコ民族主義者の票がAKPへ流れることもなく、選挙の結果は6月と大して変わらないものになっていたと思う。

それどころか、AKPの支持基盤にもいるトルコ民族主義的な人たちの票が、かなりMHPへ流れていたかもしれない。

今日、近所の家電修理屋さんの店に寄ったところ、エルドアン大統領と同じ黒海地方リゼ県の出身で、熱烈なターイプ・エルドアン支持者の彼らは、まず選挙の結果を喜びながら、「これはターイプの勝利だ。アンカラの党本部の前に集まった人たちも、演説しているダヴトオウル首相の名ではなく、ターイプ・エルドアンを連呼していたじゃないか?」と満面に笑みを浮かべていた。

しかし、私が和平プロセスの再開云々を話題にしたら、途端に顔を曇らせ、「和平プロセスなんてとんでもない話だ」と言い出したのである。

「あれはターイプの重大な過失だった。我らがターイプだから、一度の過ちは許すが、今度またクルド人たちに譲歩するようなことがあったら、もう許さない。我々は二度とAKPには投票しないだろう」

彼らは、シリア難民の人たちへ支援を惜しまないのに、相手がクルド人になると、たちまち殺伐としたトルコ民族主義者に豹変してしまう。これには、本当にがっかりしたけれど、彼らが、エルドアン大統領には無条件で従う“信者”でないことは解った。左派知識人らは、「無知な連中が、何も考えないままエルドアンに追従している」なんて下らないこと言っているが、これは全く正しくない。

これに引き換え、フェトフッラー・ギュレン教団の人たちは、いったいどうなってしまったのだろう。彼らはHDPばかりか、あからさまにPKKまで擁護していた。それは以前の彼らの主張とは全く違う。あれだけ教養がある人たちなのに、尊師には無条件で従ってしまうのか・・・。

教養があって紳士的な教団の人たちとは異なり、尊師のフェトフッラー・ギュレン氏は一風変わっている。説教の際には、熱狂して泣いたり叫んだり、とても冷静な様子とは思えない。

AKPを支持する信心深いムスリムの中には、その様子が滑稽に思えるのか、説教の動画をフェースブックにアップして茶化す者もいる。基本的に、スンニー派のイスラムが信仰の対象にしているのはアッラー(神)と預言者だけで、特定の導師を崇めたりすることもなければ、祈りの最中に熱狂することもない。そのため、熱狂する“尊師”を茶化したくなるようだ。

ところが、教団の人たちも同様の動画をアップして、尊師の言葉を書き込んだりしているから驚く。彼らにとっては、もちろん滑稽どころか有難いものなのだろう。やはりカルト教団はちょっと剣呑に思えてしまう。

そういえば、フェトフッラー・ギュレン教団の報道機関が、選挙の数日前に閉鎖されて話題になっていた。しかし、現在、教団を目の敵にしている司法関係者の中には、以前教団に協力的だったAKPとは少し距離を置いている人も少なくないような気がする。

10月7日に再審の法廷に立ったイルケル・バシュブー元参謀長官は、教団が罰せられるまで裁判は終わらないと語っていたが、同時にAKPとエルドアン大統領にも非難の矛先を向けていた。果たして、司法と教団の闘いはこれからどう展開するのだろう。

さて、つまらない話を長々と続けてしまったが、今日はイエニドアンの街も、AKPの勝利で祝賀ムードに包まれていた。家電修理屋さんが和平プロセスに反対するのは残念だけれど、彼らは日々の生活に忙しい至って冷静な人たちだから、和平プロセスが再開されたとしても、怒って街頭に繰り出したりしないはずだ。

次の選挙に投票しないと言っても、次の選挙は4年後である。クルドの人たちも大部分は和平を求めているし、選挙結果に酷く失望している左派の人たちは、発言こそ過激なものの、その多くは教養があって良い生活をしているから、もう余り無謀なことはしないだろう。明日から平穏な日々が続くように祈りたい。

私も今晩は安いワインで祝杯を挙げることにする。


2014年のトルコ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2014&m=1


11月3日 (火)  トルコ総選挙:在外投票−日本では・・・

サバ―紙のインターネット版に、在外投票の各国別の結果が出ていた。

まず、トルコからの移民が最も多いドイツを見ると、以下のような結果で、本国よりもAKPの得票率はさらに高くなっている。

*ドイツ
AKP−59% (小数点以下四捨五入)
CHP−15%
MHP− 7%
HDP−16%

やはり移民が多いフランス等の西欧各国も、おおよそ同じような結果が出ている。

しかし、アメリカ合衆国では、かなり様相が異なる。

*アメリカ合衆国
AKP−18%
CHP−49%
MHP− 6%
HDP−23%

多分、米国には、移民よりも留学生や研究者といった知識層が多いためではないかと思う。

アラブ首長国連邦などの湾岸諸国でも、米国と同じようにCHPが優勢である。これは、様々なプロジェクトを受注しているトルコのゼネコン等で働くエンジニアが多いからじゃないだろうか。

*アラブ首長国連邦
AKP−11%
CHP−63%
MHP− 5%
HDP−19%

以上、各国の結果を見ると、クルド系政党HDPの得票率は、いずれも本国より高い。トルコ国外へ出て行こうするクルド系の人たちは、やはり他のトルコ人より多いのかもしれない。

しかし、以下のフィンランドやスイスにおけるHDPの得票率の高さには、何か他の理由がありそうだ。(例えば、政治難民を積極的に受け入れているとか・・・)

*フィンランド
AKP−22%
CHP−20%
MHP− 4%
HDP−52%

*スイス
AKP−27%
CHP−17%
MHP− 5%
HDP−49%

スウェーデンやイタリア、タイでもHDPは40近い数字を出しているけれど、HDPの得票率が、フィンランド、スイスに次いで高かったのは、なんと他ならぬ日本だったので驚いた。

*日本
AKP−34%
CHP−14%
MHP− 4%
HDP−47%

フィンランドやスイスの事情も良く解らないが、日本にも何か特殊な状況が出来てしまっているのではないだろうか。在外投票乱闘騒ぎの背景が少し解るような気もする。


11月4日 (水)  選挙が終わって・・・

昨年3月の地方選挙でも、反AKPの主要メディアは、エルドアン首相らに対してネガティブ・キャンペーンを繰り広げ、これに与するジャーナリストの多くがAKPの敗北を予想していた。

選挙前、「もしもAKPが勝利したら、そういったジャーナリストはどうするのだろう?」という問いに、当時、ザマン紙にコラムを書いていたエティエン・マフチュプヤン氏は、「おそらく何事もなかったかのように、異なる観点から記事を書き続けるだけだから、心配する必要もない」といった風に答えていたけれど、実際の経過は確かに暫くそんなところだった。

しかし、ほとぼりが冷めると、4か月後の大統領選挙、翌2015年6月の総選挙に向けて、さらに激しいネガティブ・キャンペーンを開始する。

6月から今回の再選挙までは、武力闘争に転じたPKKのテロなどもあり、様々な陰謀説まで飛び出して、誹謗中傷の度合いは凄まじいレベルに達した。

主要メディアとは、AKP政権寄りの人たちが“メルケズ・メディア(中央メディア)”と呼んでいるドアン系等のメディア・グループ。中央メディアじゃ変なので、適当に主要メディアと訳しておいた。

昨年以降は、フェトフッラー・ギュレン教団系のメディア(ザマン紙等)も、これに加わって来て、この数か月はほぼ一致協力して、AKPを追い込もうとしていたような気がする。・・・これから、どうするのだろうか? 早くも、いくらか軌道を修正し始めたように見られるが・・・。

昨年の5月には、エティエン・マフチュプヤン氏も、追い出されたのか、自分から辞めたのか、ザマン紙を離れている。

あの頃から、私もザマン紙や主要メディアに余り目を通さなくなってしまった。もちろん良いことじゃないが、コラムには現実から乖離した主張が多くなり、報道も一層偏向が激しくなったように思えた。

この1年ぐらい、新聞は、もっぱらサバ―紙とアクシャム紙のコラムを読んでいる。これはこれでAKP政権寄りの偏向が見られるものの、少なくとも多数派の動向は解る。

反AKPの知識人がコラムに書いている記事からは、せいぜい今回の選挙でCHPに投票した25%ぐらいの動向しか読み取れないのではないだろうか?

この25%の人たちは、「君が暮らしている街で、まだエルドアンは人気があるの?」なんて外国人の私に訊いたりする。

彼らは、どういう人々が、何故エルドアンを支持しているのか理解しようと試みたことすらなかったかもしれない。

それでいて、「エルドアン人気に陰り」などと勝手な評価だけ下そうとする。申し訳ないが、エルドアン大統領は、この街で今も昔も「希望の星」である。何も変わっていない。

さて、イスラム系とは言い難いサバ―紙とアクシャム紙には、相変わらず水着モデルの写真が載っていたりするけれど、スカーフを被った女性ジャーナリストのコラムもある。

サバ―紙系列の“アーハベル”といった放送局の時事討論番組を見ていると、結構様々に異なる視点を持った人たちも出て来ている。

まあ、対立の激化以来、殆どAKP支持者になって、反AKPの知識人はまず出てこなくなったようだが、最近、AKPを「アー・カー・ペー」と発音して呼ぶ知識人も出演していた。

こういう人は、おそらく根っからのAKP支持者じゃない。支持者らの多くは「アク・パルティ」と呼ぶからだ。

選挙の数日前には、あのドウ・ペリンチェク氏が、“アーハベル”のニュース番組でインタビューに答えていた。

ところで、“アーハベル”の時事討論番組を見ていて、とても気になったことがある。軍事アナリストとして良く出演しているメスット・チャシュンという教授、この方は、どういうわけか時事討論で向かいに座ったりするAKP議員ベラット・アルバイラク氏のことを決して氏名で呼ぼうとしない。

他の共演者に対しては、「今のメフメットさんの意見に私も賛成ですね」といった感じなのに、アルバイラク氏に対しては、「今のこの方の意見には私も賛成ですね」という風になってしまう。

チャシュン氏は参謀本部に在籍していた時期もあったらしく、非常に軍に近い人物のようだけれど、エルドアン大統領の娘婿でもあるアルバイラク氏を余り好んでいないのだろうか? 何度も共演しているはずなのに、何故かとても他人行儀である。

でも、時事討論が仲良しクラブの応援会みたいになるより良いだろう。このところ、そういう時事討論番組も少なくなかった。

しかし、2年に及んだ激動の選挙シリーズも終わり、向こう4年間は選挙がない。これから、もっと意義のある討論番組が増えてくると思う。

この間、滅多に顔を合わせなかった人たちが、同じ番組に出演して、いがみ合うこともなく、意見を述べ合う場面が見られるようになるのではないか。

AKPは、今回の選挙で、おそらく左派からも僅かながら票を得たようである。支持層の多様性はさらに広がっただろう。

もう随分前から、イスラム主義の政党とは言えなくなっているけれど、そのうち単純な保守というカテゴリーにすら収まり切れなくなってくるかもしれない。

今日、エルドアン大統領は、和平プロセス再開へのシグナルとも受け取れるメッセージを明らかにしたそうだ。今後、選挙の心配なしに、アレヴィー派問題などの解決にも踏み込んで行くのではないかと思う。

アレヴィー派問題と言えば、いつだったか、エティエン・マフチュプヤン氏が、アクシャム紙のコラムに、「アレヴィー派問題などというものはない。あるのはスンニー派の問題だ」と書いていた。

アレヴィー派が問題になっているのは、多数派であるスンニー派が彼らを受け入れようとしないからであって、アレヴィー派自身の問題ではないというのである。

このスンニー派の人々を説得して問題解決に導けるのはAKP、そしてエルドアン大統領に違いない。

そもそも、巧く相互の譲歩を引き出せる人は、大概、強硬派の顔を持っているような気がする。さもないと、他の強硬派を抑えきれないからだろう。

また、どなたか忘れたけれど、「スカーフ問題の解決は、CHPのチャンスだった」と述べた識者もいる。つまり、これもスカーフを被っている女性に問題があるのではなく、それを受け入れようとしない頑なな政教分離主義者側に問題があったというわけだ。

そして、CHPが彼らの説得に乗り出していれば、大きな役割を果たせたはずなのに、そのチャンスを逃してしまったと論じていた。

しかし、これからはCHPも、様々な問題の解決に役割を果たそうと関わってくるのではないだろうか。こうして、トルコがまた大きな一歩を踏み出すことを期待したい。


11月6日 (金)  アクサライの難民レストラン?

10日ほど前、アクサライの辺りを歩いていて、“ハーレプ(アレッポ)・レストラン”という看板を見かけた。シリアの料理でも出すのかと思って、中へ入ってみたけれど、驚いたことに殆どトルコ語が通じない。店の人も食事を楽しんでいる人たちも、皆シリアから逃れて来た“難民”のようだった。

英語で話しかけられたものの、私の英語力ではまともな会話にならない。彼らも残念そうにしていた。シリアではどのくらい英語が通じるのだろう?

うちの近所のスーパー“エルジエス2”で、昨年暫く働いていたシリア難民の青年も流暢な英語を話していた。なんでも、シリアにいた頃は英語の教師をしていたそうである。

「トルコ人は英語が解らない」と不満を述べていたけれど、それは場所によりきりだろう。レヴェント辺りの高級団地だったら、おそらく大半の住民が英語を話せるのではないか。しかし、イエニドアンの街では無理だ。やっと見つけた日本人にも英語が通じなくて、『ここはいったいどういう街なんだ?』と彼は驚いていたのかもしれない。

それから間もなく、彼の姿は見かけなくなった。英語の通じる西欧にでも向かったのだろうか? 無事に到達して、元気で暮らしていたら嬉しい。

イエニドアンの街に定着してしまったシリア人の父子などは、余り英語も話せないから、仕方なく、ここの暮らしで満足しているようだが、西欧へ渡ろうとして無謀な冒険を試みるよりは無難で良いと思う。

さて、昨日は、またこのアクサライに出かけて、北イラク料理を食べて来た。ここは看板も全てアラビア文字で、何が記されているのか全く解らなかったものの、店の人たちは少しトルコ語を話す。彼らは北イラクのモースルからやって来たらしい。

しかし北イラクと言っても、どうやら、トルコ語をかなり巧く話す男が一人クルド系なだけで、あとは皆アラブ系のようだった。

シリア難民に纏わるニュースが続いて忘れていたけれど、彼らもイラクの戦火を逃れて来たわけだから、“難民”と言って良いに違いない。どのくらいの規模になるのか解らないが、イラク戦争以来だろうから、こちらのほうが遥かに歴史は長い。トルコは、もう長い間、中東の避難場所になっているのだ。

それから、アクサライには黒人さんの姿も多い。このアフリカから渡って来た人たちの中にも、内戦などの戦火を逃れて来た“難民”がいるかもしれない。難民問題で、トルコによる国際貢献は計り知れないほど大きいと思う。

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11月7日 (土)  グーグルアースでトルコを旅しよう!

グーグルアースのストリートビューに、いよいよトルコがアップされている。ギリシャとブルガリアがアップされて以来、トルコはいつになるのかと首を長くして待っていたのでとても嬉しい。

イスタンブールのアヤソフィア、アンカラの大統領府なども、現地にいるかのように眺めることができる。それから、イスタンブールでは、今、私が住んでいる家もばっちり写っている。

しかし、イエニドアンへ、いつ頃撮影に来たのだろう? ムスタファ青年のスーパー“エルジエス2”が未だ昔の場所に写っているから、少なくとも2014年の7月以前であるのは間違いない。

これを使って、懐かしい地方の街々をまた旅してみることにしよう。

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11月9日 (月)  亡くなったクルド人の友人

昨年の2月頃だと思う、まだ32〜3歳だった友人が世を去った。3か月ぐらい経ってから知ったので正確な日付は解らない。

久しぶりに近所まで行き、「彼の容体はどうだろう?」と訊いたら、「えっ? 知らなかったの? もう亡くなったよ。3か月ぐらい経つんじゃないかな?」と言われた。

友人は南東部ディヤルバクル県出身のクルド人で、教養のある敬虔なムスリムだった。クルド民族主義的な主張を露にする左派の人たちとは異なり、イスラムをアイデンティティーの核に据えていた。

この“トルコ便り”でも、友人や彼の周囲にいたクルド人たちの意見を度々紹介したことがある。一昨年だったか、友人が癌との闘病生活に入って以来、そういった人々の貴重な意見を聞くことは難しくなってしまった。

その後も、友人はフェースブックで時々所信を明らかにしていたけれど、それも年末が近づくにつれて殆ど見られなくなっていた。6月に“ゲズィ公園騒動”が始まった頃は、まだ意気軒高にフェースブック上の議論に応じたりしていたのだが・・・。

騒動勃発の当初は、「生まれて初めて左派の酒飲み連中に共感した。私も彼らを応援する。何処にでもショッピングセンターを建てて、いったいどうするつもりだ?」というように厳しく政府を批判していた。

しかし、その数日後には、「あんな酒飲み連中を応援した自分を恥じる」と記し、もとのAKPとエルドアン首相支持の姿勢に戻ってしまった。

友人は“和平プロセス”の展開に熱い眼差しを向けていたから、騒動がプロセスに与える影響を心配していたようである。

それから8か月ぐらい後に世を去っているが、和平の成就を見届けることが出来なかったのは、さぞかし無念だっただろう。

彼はスルタンアフメットで、外国人観光客相手の土産物店などを運営していた。土産物店では、「絨毯屋みたいな値切り交渉は時代遅れ」と言って、全商品に値札をつけ、定価販売に徹していた。

外国人客に自己紹介する際は、「エスニックとしてはクルド人で、ナショナリティーはトルコ人である」と説明し、クルド問題に対する誤解を少しでも正そうと努力していた。

しかし私には、AKPのクルド政策へ不満を述べたこともある。左派クルド人の溜まり場である“メソポタミヤ文化センター”に私を案内してくれたのは彼だった。

「ここにいるのは忌々しい左翼の連中ばかりだが、一応クルド人同胞でもあるからな」と笑っていた。

宗教に関しては、トルコの標準からすれば、ガチガチのスンニー派と言って良く、AKPの母体となった“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”に近かったのではないかと思う。

フェトフッラー・ギュレン教団を真っ向から非難することはなかったが、多少この教団を懐疑的に見ていたようだ。彼を教団の集まりへ案内した時にそれが良く解った。

「ラディカル紙とかザマン紙のコラムばかり読んでいないで、アブドゥルラフマン・ディリパク氏のコラムを読むと良い」と生前しつこく勧められたけれど、今年の1月末にディリパク氏の講演会を見に行って、確かに氏が、その原理主義者的な印象と異なり、なかなか常識的な人物であることは理解できた。

アブドゥルラフマン・ディリパク氏の講演会
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2015&m=2

友人も極めて常識的な社会人だった。人間関係においては、全てにそつがなく、社会的な通念に配慮しながら、やたらと正義を主張したりすることもなかった。

10年ほど前だったか、2002頃に日本でも封切られて話題になったトルコの映画について、彼の意見を訊いたことがある。

その時に彼が見せたリアクションは余りにも印象的で、今でも良く覚えている。

トルコ人の監督が、「弾圧されるクルド人」を描いた映画で、トルコでも話題になっていたが、彼は全く知らなかったらしい。

私が新聞に書かれていたストーリーなどを説明したところ、「かなり誇張されているが、クルド人の問題が紹介されるのは悪くない」と答えたけれど、そのトルコ人監督の次作が、黒海地方のポントス人(ギリシャ系民族)の悲哀を描いた映画であると知るや、ちょっと後ろに身を反らし、嫌なものでも見たかのように顔を顰めたうえ、片手を小さく振りながら、こう言ったのである。

「いるだろう? そういう人。何処の国にもいるはずだ。日本にもいるよね? 見てなよ、その監督。いつか、きっと“アルメニア人大虐殺”の映画を作るから」

その監督がアルメニア問題に纏わる映画を制作したという話は聞いていないが、やはりセンセーショナルな社会問題にスポットを当てる傾向はあったかもしれない。

友人は、自分たちの問題が扇情的なネタにされるのを非常に嫌がり、警戒していたのである。おそらく、それが現実的な問題解決へのアプローチになるとは思っていなかったのだろう。

確かに、日本では、クルド人の問題が扇情的に扱われ、クルド人政治難民に対する支援が、却って問題をこじらせてしまったようにも見える。

そのため、例えば私は、シリア難民の人々には支援の手を差し伸べるべきだと考えているものの、同様に扇情的なネタにされてしまうのではないかという恐れも感じている。

友人が生きていたら、これに何と答えるだろうか?


*一昨日、スルタンアフメットへ出かけたところ、アヤソフィヤの前には、多くの外国人ツーリストで長蛇の列ができていた。

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11月11日 (水)  11月10日

昨日の朝、7時40分のバスに乗ってカドゥキョイへ向っていたところ、バスがE5国道のギョズテペにさしかかった辺りで、バスも含めて国道を走る車が一斉に停車してクラクションを鳴らし始めた。

一瞬何のことだか解らず、周囲の様子をうかがうと、8割がたの乗客が席を立って前方を見つめている。『ああそうか』と携帯を取り出して、時刻を確かめたら、9時6分だった。11月10日はアタテュルクの命日で、亡くなった時刻には黙祷が捧げられるのである。

私はもう長い間、この光景を目にしていなかったので、式典などの場所以外では行われていないのかと思っていたけれど、そうでもなかったらしい。午後会った友人に訊いたら、「そうなんだよ。昔に比べたら大分少なくなったけれど、未だやっているんだなあ」と笑っていた。

イエニドアンの街ではどうだろう? 4年前に越してきて以来、たまたま居合わせなかっただけかもしれないが、この街のイスラム的で保守的な人々は、アタテュルクに敬意を表しても、“11月10日の9時5分”に黙祷まで捧げたりはしないような気がする。

しかし、かなり信心深い廃品回収屋さんの末弟も、昨日はフェースブックで“アタテュルクを追悼するメッセージ”をシェアしている。

また、数日前は、家電修理屋さんもアタテュルクについて語っていた。

「今、アタテュルク主義とか言ってる連中には、ミッリがない(祖国愛がない)。でも、アタテュルクにはミッリがあった。そうじゃなかったら救国戦争に勝てるはずがない。そして、アタテュルクと一緒に戦ったのは、今のアタテュルク主義者みたいな連中じゃない。我々のようなムスリムだったのだ!」

2004年の3月、以下のラディカル紙のコラムで、アヴニ・オズギュレル氏は、AKPの母体となった“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”でイスラム主義運動を展開したネジメッティン・エルバカン氏が、その結果として、自分自身と共に、過激な考えを持った多くのムスリムたちを、(政教分離の)体制と和解できる地点にまで連れて来てしまったと論じていた。

ひょっとすると、AKPとエルドアン大統領は、さらに進んで信心深いムスリムたちを、アンカラのアタテュルク廟まで連れて来てしまったのかもしれない。

【61】トルコにおけるムスリムによる政教分離の可能性【ラディカル紙】【2004.03.26】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00061.html

この記事でオズギュレル氏は、信心深いムスリムらが抱いている政教分離に対する不満を次のように説き明かしている。

「西欧の慣行に倣って、国会や裁判所のような公的エリアにおける儀式が、宗教上の神聖な文言を無視して行われていることであるとか、知事や知事から任命された役人の持っている婚姻を承認する権限が、高位のイスラム教導師には認められていない、といったような原則とは関係のない『瑣末な事柄だが心に安堵をもたらす装飾的なもの』が欠けている・・・」

そして、その後10年の間に、AKP政権は上記の“装飾的な事柄”の多くを実現させてしまったのではないかと思う。

かつての信心深いムスリムらが抱いていた政教分離に対する不満は、殆ど解消されているかのように見える。AKPのイスラム的な政党としてのミッションは、既に果たされたと言って良いかもしれない。

昨日の式典でも、エルドアン大統領は、トルコに共和国体制の危機といった問題はないと改めて強調していた。

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11月12日 (木)  爆破されたクルド新聞社のビル/裏切られた「太陽政策」

先週、イエニカプからカドゥルガをぬけてスルタンアフメットまで歩いた。カドゥルガの街を歩くのは久しぶりだった。

途中、今は区の登記事務所になっている建物の前を通りながら、10年ほど前、クルド語のロックコンサートを聴いたのは、ここじゃなかったかと思い出した。

当時は、真新しい区の公民館であり、そこのホールを借りてクルド人のグループがコンサートを開いたのである。公民館でクルド語のロックが聴けるようになったとは感慨もひとしおだった。

その時会場で会ったクルド人青年の話によれば、以前は、そこに“オズギュル・ギュンデム”というクルド系新聞社のビルが建っていたものの、これが爆破されてぶっ飛んでしまい、その跡地に公民館が建てられたそうである。

私はこの話に、目を丸くして驚いた。なぜなら、93年か94年、私は友人と共に、“オズギュル・ギュンデム”を訪れたことがあったからだ。確かに、ビルが建っていた場所はその辺りだったかもしれない。しかし、そこで詳細を訊いたりはせずに、コンサートが終わると会場を後にして、暫くしたら全てが忘却の彼方に押しやられてしまった。

一昨日、もう一度確認して見ようと、またカドゥルガまで出かけた。登記事務所前の古そうな金物屋さんに入って話を聞くと、登記事務所の建物がかつては公民館だったところまでは間違いなかった。

しかし、「その前は“オズギュル・ギュンデム”じゃなかったですか?」と訊いたら、「いや、あの新聞社が使っていたのは、その2軒先の黄色いビルですよ」と言われた。それから金物屋さんは、もう一人の来客に、「ほら、あのクルド人の新聞社だよ。爆弾騒ぎがあったじゃないか」と説明していた。

金物屋さんを出て、その黄色いビルの前まで行ってみると、なんとなく20余年前の記憶が少し蘇って来た。やはりこのビルだったと思う。爆破されてぶっ飛んだというのは、私の聞き違いか、クルド人青年の勘違いだったようだ。

私たちが“オズギュル・ギュンデム”を訪れた20余年前は、オザル大統領が不審な死を遂げ、クルド問題が最悪の事態を迎えようとしていた頃だった。それから97年ぐらいまで、クルド人の有力者らが次々と不審な死を遂げる暗黒の日々が続いたという。(私は94年の夏に帰国し、その後丸々4年間、トルコから離れていた)

私たちを迎え入れた“オズギュル・ギュンデム”の編集者は、「一人で外へ出ると、そのまま“行方不明”になってしまう危険があるので、タバコを買いに行く時でさえ、必ず二人で出るようにしています」と話していた。突然拉致されて行方が解らなくなったクルド人運動家がたくさんいたそうである。

トルコ共和国は、オザル大統領が問題の政治的な解決に乗り出すまで、クルド人が存在するというリアリティーさえ認めていなかったと言われている。

84年に、PKKが武力闘争を開始すると、武力には武力とばかり、これを軍事力だけで解決しようとした。そして、オザル大統領の死後、暗黒の90年代には、PKKのテロに対して、国家テロとも言うべき拉致・謀殺といった手段で制圧が試みられたらしい。

2000年代に入って、再び政治的な解決が模索されるようになり、AKP政権はこれを加速させた。2013年からは、和平プロセスがいよいよ本格的にスタートする。

この和平プロセスは、韓国の金大中大統領が北朝鮮に対して実施した“太陽政策”に似ているかもしれない。冷たい風で制圧しようとするのではなく、暖かい太陽の光で和解をもたらそうという姿勢が同じであるような気がする。そして、同じように相手から裏切られてしまった。

譲歩を引き出そうとする時だけ融和的な態度を見せたりして、PKKとこれに同調する勢力は、北朝鮮にとても良く似ている。

現在、トルコ軍によって進められているPKKの掃討は、既にPKKがクルド人民衆の支持を失っている点で、90年代のものとは全く異なる。

トルコ政府は、クルド問題のリアリティーを充分に見極めているはずだ。今は世界がPKKのリアリティーを認識すべき時じゃないかと思う。

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11月13日 (金)  カドゥルガのハマム

カドゥルガの街並みは、20余年前とそれほど変わっていない。古いハマム(トルコ風呂)も残っていたけれど、このハマムには、ちょっと恥ずかしい思い出がある。

やはり93年頃だったと思う。通りがかりに、ふらっとここへ入った。下着の替えなども持ち合わせていなかったので、靴下だけ買ってから脱衣室に入り、ペシタマルという腰巻をつけて風呂場へ向かった。トルコのハマムではこれをつける決まりになっている。

風呂場の入り口辺りで、垢すりの親爺に声をかけられたが、これはもちろん断った。垢は自分で洗い流せば充分だ。垢すりなんて頼んだことは一度もない。

そしたら、垢すりの親爺が後ろで何か言った。軽い卑語だったけれど、気分の良かろうはずがない。『この野郎!』と思った。

でも、風呂場を出た頃にはもうさっぱりしていた。それで、服を着ると会計を済ませる前に、休憩所でのんびりコーラを飲んだ。

ところが、会計して釣りをもらった途端、また頭に血が上った。明らかにボッている。コーラがそんなに高いわけがない。『この野郎!』と、相手を睨みつけながら、思いっ切り文句を並べてやった。

すると、向こうも凄い剣幕で言い返してきた。「お前、靴下買ったじゃないか!」。

これには、『しまった!』と血の気が引いた。狼狽したまま、何も言葉が見つからない。黙って、そそくさと逃げるようにハマムから立ち去った。湯上りの爽快感など一つも残っていなかった。

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