Diary 2015. 10
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10月1日 (木)  アンカラの夏の夜

イスタンブールは、10月になって急に涼しくなってしまった。ビールの美味い季節も終わりそうだ。

今年は夏の盛りに一時帰国していた。日本の夏はもの凄く暑かったけれど、その分だけビール(発泡酒)も美味くなった。やっぱりビールは汗かくぐらい暑いときが美味い。

一時帰国する前、イスタンブールは7月になっても妙に涼しく、なかなか夏らしくならなかった。7月の20日、黒海地方からの帰りに寄ったアンカラの夜が、かえって少し蒸し暑いくらいだった。通常、内陸に位置するアンカラは、イスタンブールより遥かに涼しいのだが・・・。

アンカラでは、例によって、ウルスの格安ホテルに泊まり、近くのレストラン「ウーラク」でビールを飲みながら“焼き鶏”を食べ、もう一軒、親爺酒場に寄って、またビールを飲んだ。

ああいう“焼き鶏”は、イスタンブールにでも何処にでもあるけれど、あれはアンカラへ来た時の儀式のようなもので、何故か、あそこで飲むビールはいつも美味いから不思議だ。

それから、ウルスの親爺酒場。一つのビルの中に、おそらく10軒以上の親爺酒場がひしめき合っていて、同じような雰囲気を醸し出している所はイスタンブールにもないかもしれない。どの店にも、大概、女性の従業員がいて、これもウルスならではじゃないかと思う。

この女性従業員たち、看板娘と言うほど若くもないし美人でもない。なんとなく“酒場の女”風ではあるけれど、特に愛想が良いわけでもない。注文聞いてビールを運んでくるウェートレスさんである。

かつては、イスタンブールにもこの手の親爺酒場がもっとあったと思うが、小奇麗な店が増えて、これに追いやられてしまったのだろうか。安くても小奇麗になっていて、気取った若い連中が気取って飲んでいる所が多いような気がする。そもそも保守的な人たちは余り飲まないから、トルコで飲酒というのは、元来ちょっと気取った行為なのかもしれない。

しかし、ウルスの親爺酒場に気取った雰囲気は全く感じられない。愛すべき酔っ払いもいれば、若いOL風の女性客が来ていることもある。ここで飲むビールも格別に美味い。


アンカラのウルス
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2014&m=7

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10月2日 (金)  トルコの美しい女性アナウンサーたち

先月の11日、旧友のアリさんと飲みに行ったカドゥキョイの小奇麗なカフェ風の酒場では、若い女性が働いていたけれど、やはり“看板娘”と言うにはほど遠いような気がした。

なにしろ、トルコには美人が多い。その中で“看板娘”と言える為には、平均より少し上でなければ拙いだろう。

カフェ風酒場の女性は、残念ながら平均並みだった。もちろん、ニシャンタシュやバーダット通り辺りの高い店へ行けば、度肝を抜かれるような美人の看板娘が出迎えてくれるのかもしれないが、私には殆ど縁のない話だ。

しかし、そういう店に看板娘的な美人が進出し始めたのは、この20年ぐらいの出来事じゃないだろうか? 

91年、私が初めてトルコへやって来た頃は、銀幕の女優たちの中にも飛び切りの美人はそれほど多くなかったような気がする。

『巷にはこんなに美人が多いのに、何故、美人女優が少ないのか?』と考え込んでしまったほどである。あの頃は、トルコの航空会社のスチュワーデスさんたちを見ても、同様の考えが頭に浮かんだ。

多分、当時は未だ“女性の美しさ”を売り物にすることが憚られていたのかもしれない。以下の2004年4月のミリエト紙の記事で、筆者は民放の女性アナウンサーが美しくなったことを歓迎しながら、次のように解説している。

「国家イデオロギーにより創造された、政教分離主義で飾り気のない、重厚でくそ真面目な女性の姿(公営放送の女性アナウンサーは正にこのタイプ)からも、左翼やインテリやフェミニストたちが理想とした女性の姿からも、ほど遠い彼女たちの姿が際立って来たことを、私たちは喜んで良いはずだ。」

【66】トルコの美しい女性アナウンサーたち【ミリエト紙】【2004.04.02】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00066.html

この現象は、記事が書かれた2004年以降、一層顕著になって来たように思う。

現在は、記事の筆者がおそらく想定していなかった“スカーフを被った女性アナウンサー”も活躍しているけれど、彼女たちでさえ、多くの場合、筆者が美しい女性アナウンサーを形容しながら並べた−『言葉使いは正しい/概して高学歴で結構文化的/着飾っている/とても魅力的で素敵な女らしい女性』という表現にぴったり当てはまっている。

イスラムのイデオロギーは、政教分離の国家イデオロギーほど強くなかったということなのか・・・。

1月29日 (水) 活躍する“悪魔”のようなイスラムの女性たち
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=20&y=2014&m=1


*写真:ミリエト紙および24TVより

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10月3日 (土)  歩道は駐車場

写真は、レべントの高級な住宅街の一角。車優先の社会とは言え、これはあまりにも酷い。歩道は殆ど駐車場と化していて、歩くこともままならない。

この直ぐ手前に大手スーパーのミグロスとテニスクラブがあるから、おそらく大半は買い物客とクラブのメンバーが乗って来た車じゃないかと思う。

道路脇に車を止め、駐車整理係りのおじさんにキーを預けた老夫婦は、テニスクラブの中へ消えて行った。

金曜礼拝の際、モスクに入り切れず、歩道の上でお祈りしている群衆を見て、通行の邪魔だとかアナクロニズムだとか言って騒ぐハイソサエティーな人たちがいるけれど、彼らはまさか、こうやって歩道に駐車したりしないのだろう。

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10月5日 (月)  新しい国民・民族の概念という議論

先月、左派アタテュルク主義者の友人は、思想的に真逆のエルドアン大統領と前CHP党首のバイカル氏が“ミッリ”の概念だけは共有してきたと論じていた。最近、トルコでは、この“ミッリ”の議論が騒がしい。

*ミッリ(milli)=“国の”“国民の”といった意味の形容詞。

PKK(クルディスタン労働者党)が再び武力闘争に転じると、一部の識者や野党政治家の中から、これを擁護するかのような発言が相次いだため、彼らの“ミッリ”の概念の有無が問われているのである。

そして、“ミッリ”の概念が欠如している者には、“非国民”の烙印が押されてしまう。これでは、魔女探しみたいで、あまり気分の良い議論ではなさそうだ。

しかし、PKKは、“和平プロセス”が進められていた2年の間に、至るところへ地雷を設置して、武力闘争の下準備を続けていたらしい。この悪辣なやり方には、擁護の余地など、確かに無いかもしれない。

もっとも、政府や国軍が、こういったPKKの動きを知らなかったわけがないだろう。おそらく、ぎりぎりの線まで我慢して“和平プロセス”を進め、クルド人民衆の信頼を勝ち取ろうとしていたのではないかと言われている。

この“ミッリ”の議論について、歴史学者のシュクル・ハニオウル氏は、昨日(日曜日)のサバ―紙のコラムで、“ミッリ”の概念の歴史的な変化を明らかにしながら、今後の展望を論じていた。

まず、「ミッリ」および「ミレット(millet)−国民・民族」という言葉は、オスマン帝国の時代、宗教的な属性を表していたという。

例えば、当時の身分証明書の“ミレット”の欄には、“イスラム”“ギリシャ正教会”といった宗派が記され、人々はこれによって各々の属性を認識していたそうである。

しかし、19世紀にタンズィマートの改革が始まるまで、それぞれの“ミレット”は決して平等とは言い難く、“イスラム”が「統治者のミレット」として認められていたらしい。

その後、“統一と進歩委員会”によって、“ミッリ”とトルコ民族との間に関係性が築かれるようになり、あたかも「トルコ人」が、タンズィマート改革以前の「統治者のミレット」のように定義され始めたとハニオウル氏は明らかにしている。

青年トルコ人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B9%B4%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E4%BA%BA

トルコ共和国が樹立されると、共和国のイデオロギーは、“ミッリ”の概念を宗教から完全に切り離し、創造されようとしていたエトノス(つまりトルコ民族)に関連付けた。

ところが、1970年代になり、社会的な基盤を広げたイスラム主義運動は、長年忘れ去られていた宗教的な意味合いで“ミッリ”の概念を新たに蘇らせようと努力し、次第に、国家イデオロギーによる完全にエスニックな“ミッリ”から、「トルコ民族とイスラムの合成」という融和へ向って行ったと説明されている。

そして現在、トルコでは新しい“ミッリ”の概念の必要性が叫ばれている。これは既存の“ミッリ”が、“我々”を創造するのに不充分だったと認めていることになる。このように指摘したハニオウル氏は、その新しい“ミッリ”の概念を以下のように論じている。

それは、包括的でなければならないから、現存のいくつかの“ミッリ”を廃してしまおうとするのではなく、それらの上に立脚することを目標とすべきである。

(つまり、トルコ人が考えている“ミッリ”やクルド人が考えている“ミッリ”を廃することなく、その上にという意味じゃないかと思う。)

そのためには、ヒエラルキーを生み出したり、排外的になったりするものではなく、またその合成でもなく、“平等”を基本にした包括的な“ミッリ”の発想が必要になる。それは「平等な国民たちに基づく、政治的な社会」として理解されなければならない。

このような“ミッリ”であれば、エスニックや宗教による様々な“ミッリ”と争うことなく、これに対して何らかのヒエラルキーを作り上げることもなく、そして誰も疎外せずに、“我々”を創造することができるだろう。・・・・・

以上のハニオウル氏の論説は、既にそれほどラディカルな主張でもないと思う。多分、トルコの大きな流れは、この方向に進んでいるのではないか、“和平プロセス”もその一環として進められて来たのではないか、私にはそのように思えるのだが・・・。


10月8日 (木)  トルコ人のアジズ・サンジャル氏がノーベル化学賞を受賞!!

昨日の夕方、帰宅してパソコンを開くと、まずネットのニュース欄に目をやった。ノーベル化学賞の行方が気になっていたからだ。

日本から科学3賞の全てに受賞者が出たら素晴らしいし、韓国の人が受賞して、日中韓同時受賞となっても面白い。そんな期待があった。

しかし残念ながら、日本からも韓国からも受賞はなく、「米教授ら3氏」という見出しが躍っていたけれど、その続きを読んだら、「・・・米ノースカロライナ大チャペルヒル校のアジズ・サンシャー教授」と記されていて、『もしや・・・』と思った。

“アジズ”がイスラム教徒の名であることは、ほぼ間違いない。期待に胸を膨らませながら、画面に並んだ見出し記事をざっと眺めたところ、“Aziz Sancar”というローマ字表記が目についた。これなら、十中八九トルコ人である。

俄然、勢いづいて、“Aziz Sancar”で検索したら、トルコ人の快挙を伝えるトルコ語の記事がいくつか出てきて、私も快哉を叫びたくなった。20年以上トルコに関わってきたトルコ・フリークにとって、これは何よりも嬉しいニュースである。

それから、他の日本語の各記事を読んでみると、その多くは“サンジャル”と表記され、トルコの出身であることも明らかになっていたけれど、大半が「トルコ系米国人」という扱いだった。

二重国籍が認められているトルコで、サンジャル氏がトルコ国籍を保持している旨も伝えていた記事は何だか少なかったような気がする。

アジズ・サンジャル氏は、南東部のマルディン県出身で、子供の頃はサッカーの選手を夢見ていたそうだ。マルディンの高校に在籍中は、サッカー・クラブのゴールキーパーとして活躍し、トルコ・ナショナルチームのジュニアクラスへ声がかかるほどの腕前だったものの、背が低かったために、キーパーでやって行くのは難しいと判断して、学業の方を選んだとTVのインタビューで語っている。

その後、奨学金を得て、イスタンブール大学の医学部へ進み、主席で卒業すると、2年の間、郷里のマルディン県の保健所のような機関に勤務して、県下の過疎地域を隈なく回り、患者の治療に努めていたが、それよりも医療のレベルを高めれば、もっと多くの人たちが救われると考え、再び医学研究の道へ向かったという。

こういったエピソードは、生理医学賞を受賞した大村氏に通じるところがあって非常に興味深い。

化学賞受賞の業績について、“YouTube”で検索してみたところ、以下の韓国のYTN放送はかなり詳細に解説していたが、私の韓国語の聴き取りも随分怪しくなっていて殆どチンプンカンプンだった。もっとも、解説者の高麗大教授が、説明し終わってから、「ご理解頂けたかどうか良く分りません。なにしろ難しい話なんで・・」と笑っていたくらいだから、私がチンプンカンプンだったのは当然だろう。

YTN SCIENCE
https://www.youtube.com/watch?v=DwAmhSYZ0yc&feature=youtu.be

ここで高麗大の教授は、サンジャル氏を始め受賞した3氏についても紹介しているけれど、自身が米国へ留学した80年代後半には、3氏とも既に学界の重鎮だったと回顧しながら、「この3氏皆が30〜40年に亘って研究を続けて来られた偉い方たちなので、誰も今回の受賞を驚いていません」と述べていた。

どうやら、サンジャル氏はかなり前からノーベル賞の有力な候補の一人だったらしい。インタビューでは、サンジャル氏も「自分は生理医学賞だと思っていたので、2日前に発表があって、今年も諦めていたら、化学賞の受賞が伝えられて非常に驚いた」と語っている。

ところが、トルコでは、これが殆ど話題になっていなかったようである。毎年のノーベル賞受賞者についても、簡単な短いニュースで伝えられるだけだった。ノーベル賞なんて、トルコとは関係のない話だと思われていたのかもしれない。(文学賞の受賞はあるのだが・・・)

その所為か、受賞が決まっても、日本のように「待ってました!」とばかりの迅速な報道はなく、寝耳に水で慌てて取材したような印象さえあった。それどころか、いろいろな情報が入り乱れて、嘆かわしい政治的な議論まで巻き起こっている。

というのも、クルド系政党HDPの国会議員ミトハト・サンジャル氏は、親族の一人であることが明らかになり、アジズ・サンジャル氏の「民族」までが取り沙汰されてしまったのである。

政治学者・ジャーナリストでもあるミトハト・サンジャル氏は、こういった議論を「悲しくなる」と非難しながら、「アジズ・サンジャルの母語がアラビア語なのを知るべきである。私が何であればアジズ・サンジャルもそうである。家族の中ではアラビア語を話している」と語ったらしい。

しかし、他の報道によれば、アジズ・サンジャル氏本人は、英国のBBC放送が取材に来て、いきなり「貴方はアラブ人なのか?」と問うたことに立腹し、「ジズレで生まれたとしても、カルスで生まれたとしても、私はトルコ人である。アラビア語もクルド語も話さない」と答えたという。

アジズ・サンジャル氏は8人兄弟であり、実兄にはトルコ軍の退役将軍もいるそうだ。やはり実兄であるタヒル・サンジャル氏が、ハベルテュルク放送のインタビューに答えているのを聴く限り、その家族、少なくともタヒル氏には、アタテュルク主義、あるいはトルコ民族主義の傾向があるのではないかと感じた。

父母は読み書きが出来なかったものの、8人の兄弟は、全て大学を卒業しているというから、その世代や辺境の農村地域であったことを考慮すれば、かなりインテリな家族と言えるだろう。

タヒル氏は、弟が「貧しい家に生まれ・・・」と報道されていることに対して、「貧しくはなかった。取材に行けば、私たちの家が立派であることが解るはずだ」と反論している。

それから、「弟はイスラム教導師養成学校なんてものを出たわけじゃない」とか、「以前に弟の業績を報じていたのはジュムフリエト紙(左派紙)ぐらいである」と語り、左派アタテュルク主義の立場から現政権を批判しているようにも見える。

また、タヒル氏によると、家族のルーツは中央アジアから来たトルコ民族であるらしい。

これでは、HDP議員ミトハト・サンジャル氏の主張と大きく異なってしまうが、タヒル氏は、ミトハト氏が従弟である事実を認めて、特にミトハト氏を批判するような話もしていない。マルディンという地域の特性から、母親がアラビア語を話していたようなことも少し仄めかしている。

一方、アジズ・サンジャル氏へのトルコ語のインタビューをいくつか聴いてみると、言葉を慎重に選びながら、非常にゆっくり話していて、少したどたどしい感じさえする。次の言葉を考えている時、英語の話者が良くやるように「アーム(Uhm)」と繰り返したりしている。

夫人は、アメリカの大学の同僚だったというアメリカ人女性なので、殆ど英語中心の生活になっているのだろう。また、研究についての説明をトルコ語で行う機会が、これまで余りなかったため、少し戸惑ってしまったのかもしれない。

インタビューでは、祖国トルコへの思いを熱っぽく語り、やはりアタテュルク主義的な傾向が感じられた。

それに、夫人はイスラム教に改宗して、“ギュヴェン”というトルコ名を使っているという報道も見られたから、ある程度はイスラム的でトルコ民族主義的な人物であるような気もする。

サンジャル氏は、研究で重要な発見があった日、夫人に、「凄いことを発見したよ。今、これを知っているのは、アッラーと僕しかいないはずだ」と打ち明けた話をインタビューで楽しそうに語っていた。

しかし、サンジャル氏のインタビューで私が最も感銘を受けたのは、かつて医師として、マルディンの村々を回った経験を振り返り、当時は差別もなく、人々はお互いに争ったりしていなかったと回想しながら、現在の状況がいち早く改善されることを願っていたところだ。それに続けて、サンジャル氏は次のように語っていた。

「私が奨励したいのは、政治に関わったりするより、科学を重視して、これの為に働き、自分を捧げることです。トルコの発展とトルコの人々の向上は、ただ科学とテクノロジーによって実現するのです。これをトルコの国民に捧げます」


写真−左:サンジャル氏の快挙を伝える今日(10月8日)の新聞。
写真−中:サンジャル氏のマルディン県の生家。
写真−右:MANSETOKUより。研究室のサンジャル氏と学生たち。
氏の右隣の学生が、トルコ人留学生であることは明らかにされていたけれど、両脇の東洋人は何処の留学生だろう? 日本人の門下生もいるだろうか?

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10月14日 (水)  「国に平和、世界に平和」

先週の土曜日、アンカラで実に忌まわしい事件が起きてしまった。この自爆テロについては、日本でも報道されているので、ここで繰り返す必要はないと思う。

未だ実行犯の身元、背後関係などは明らかになっていない。内外の複数のテロ組織による共謀の可能性もあるという。

犠牲者の中にクルド系の人たちが多いことから、テロ組織は、トルコ国内の混乱を狙うと共に、クルド人とトルコ人の対立を煽ろうとしたのではないかと解説する識者も少なくない。

また、トルコと良好な関係を築いている北イラクのクルド自治区でも、時を同じくして大規模なデモ騒動が発生したため、その関連性が取り沙汰されている。

トルコは、AKP政権のもとで、中東の近隣諸国に対して積極的な平和外交を展開していたものの、“アラブの春”が終わると、こちらも破綻してしまった。今や中東は混乱の真っただ中である。

しかし、例えば、仮にシリアでアサド政権が崩壊して内戦も収まり、民主的な政権が誕生するとしたら、それはやはり北イラクと同様、親トルコの政権になりそうな気がする。これではわざわざ崩壊させる意味がない。イラク戦争のように、またもやトルコに漁夫の利をさらわれてしまう。

それなら、イランを中心とする、反トルコ的なシーア派の勢力拡大のほうがよっぽど好都合かもしれない。

そして、トルコの国内も混乱すれば、トルコは積極的な外交が展開できなくなる。PKKも息を吹き返すだろう。等々、いろんな背景が考えられるらしい。

アタテュルクが国軍の充実を図りながら、「国に平和、世界に平和」というスローガンを掲げたのは、平和な日本で聞いたら、何だかつまらない“平和のお題目”みたいに響いてしまいそうだけれど、今のトルコに身を置いてみれば、非常に奥深い真摯な意味を持つ言葉として、胸に響いて来るのではないかと思う。


*写真:昨日(10月13日)のタクシム広場の様子。小雨は降っていたが長閑だった。

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10月15日 (木)  トルコ人・クルド人・アラブ人

中学か高校になって、世界史を習い、清朝の皇帝は満州族であると教わったけれど、私にはこれが何だか奇異に思えてしょうがなかった。

その後も、世界史では、ソビエト・ロシアの独裁者スターリンがグルジア人だったというような話に首を捻ったりしていた。

日本の歴史を学ぶと、渡来人といった人たちが活躍したのは飛鳥時代までで、それ以降に登場して来るのは大概日本人ばかりだ。

現代の日本も、社会的な有力者の殆どは“日本人”で、民族的に異なる出自を持つ人はほんの僅かしかいない。

それでも、ここは日本なのだから当然だろうと考えていた。異民族が、皇帝や独裁者になってしまうほうが遥かに不思議である。

ところが、大陸の世界では、同じ言語や文化を持つ人たちだけが集まって歴史を作ってきた社会・国はかえって珍しいのかもしれない。

ハンガリー独立運動の英雄コシュートは、父方スロバキア系・母方ドイツ系であり、叔父の中には熱心なスロバキアの愛国者もいたそうだ。

しかし、コシュート本人は自身をハンガリー人と認識していたらしい。

フィンランドの愛国的な音楽“フィンランディア”の作曲者シベリウスは、スウェーデン系のフィンランド人だったという。

おそらく、こういった例は探せばいくらでも出て来るのだろう。文明の十字路“トルコ”に目を向けたら、それこそ数え切れないくらい出て来てしまうと思う。

ノーベル化学賞のアジズ・サンジャル氏には、トルコ民族主義的な傾向が見られるようだが、従弟のミトハト氏は、自分たちの母語がアラビア語であると主張して、クルド民族主義的な政党で政治活動を行っている。

そもそも、トルコ民族主義思想の創始者と言われるズィヤ・ギョカルプは、ディヤルバクルの出身で母語はクルド語のザザ方言だったらしい。

私たち日本人には、こういった事情がどうにも解りにくい。

「トルコ人、クルド人、アラブ人」と言えば、「日本人、韓国人、中国人」と同じように区別できるのかと思ってしまうけれど、実態はそう生易しいものじゃない。

ものの本によれば、オスマン帝国時代の人々は、西欧からエスニック的な民族主義が持ち込まれるまで、トルコ人やらクルド人といった概念さえ明確に意識していなかったそうである。

トルコ語やクルド語、アラビア語、ラズ語、ギリシャ語といった様々な言語を母語とする人々が、それぞれの宗教を拠り所にして、自身をイスラム教徒のオスマン帝国臣民、あるいはギリシャ正教徒のオスマン帝国臣民などと認識していたらしい。

カラマンルというトルコ語を母語とするギリシャ正教徒の存在も伝えられている。

それが、オスマン帝国の解体を目論んだ西欧により、民族主義が持ち込まれたことで状況が一変してしまう。

ズィヤ・ギョカルプのような知識人は、トルコ民族主義という思想のもとに団結して、西欧の分割攻勢から自分たちを守ろうとしたのだろう。

母語がクルド語系ザザ方言で、オスマン語(トルコ語)による教養を身に付けた“オスマン人”だったギョカルプにしてみれば、ひょっとすると、トルコ民族主義によって“トルコ人”となるのは、「オスマン」という括りが「トルコ」に変わるようなものだったのかもしれない。

今でも、人々の民族意識には、我々日本人からして見たら驚くほどエスニック的な要素が少ない。

例えば、まだトルコ民族主義が盛んだった90年代でも、「私の父はボスニア人で、母はグルジア人、私はトルコ人です」といった認識が当たり前に通用していた。

今は解らないが、当時の日本で、仮に、「私の父は中国人で、母は韓国人、私は日本人です」と自己紹介する人がいたら、大概、『ええっ?』と訝しげに見られてしまっただろう。

また、トルコでは、アメリカのように一定のエスニック・ルーツを共にする人たちが支配階層を構成しているわけでもない。

オスマン帝国時代も皇帝一族のルーツが“中央アジアのトルコ人”だっただけで、経済はギリシャ人やアルメニア人、政治的にはバルカン半島やコーカサスの出身者らも強く、宗教界は末期に至るまで、聖典の言語が解るアラブ人が優位だったらしい。

それから、「西欧的な文化を身に付けたハイソサエティーなトルコ人」という意味の造語である「白いトルコ人」は、アメリカの「WASP」をもじって作られたそうだが、そのエスニック・ルーツや肌の色は様々である。

歴代の大統領や首相のルーツもいろいろで、現エルドアン大統領がグルジアのルーツを仄めかしたこともあった。奥さんのエミネ夫人がアラブ系であることは良く知られている。

もちろん、トルコ政府が90年代まで、トルコ民族主義に固執するあまり、クルド民族主義を掲げた勢力を弾圧していたのは事実だろう。

しかし、これには、西欧列強による分割のトラウマも影響していたはずだ。なにしろ未だに、イギリスのBBC放送が、ノーベル賞受賞者へのインタビュー(直接ではなく電話取材だったらしい)で、開口一番「あなたはアラブ人ですか?」などと訊いたりするのである。

現在、トルコ政府は、この頑なな民族主義を改め、平等な国民の創生に向けて努力している。

問題は、クルド民族主義を改めようとしないHDP、そして糾弾されるべきは、クルド人民衆の意向など顧みることもなく、100年前の西欧の希望に従って、今でも分離独立に固執しながら、悪辣なテロを繰り返すPKKではないかと思う。



10月16日 (金)  トルコ人とクルド人

米国におけるアングロサクソンの割合はどのくらいになるのか、ネットで少し検索してみたら、「建国時に約60%、現在は11%」といった記述が見つかった。現在、最も多いのはドイツ系で17%になるそうだ。

しかし、建国時はともかく、今やアメリカの社会も相当混ざり合ってしまっているはずだから、こういった数値がどれほど信頼できるものなのか、ちょっと疑問を感じてしまう。

トルコ共和国では、エスニック・ルーツによる民族の割合など、多分、それほど綿密な調査も実施されていないようだし、調べたところで、ルーツを正確に遡れる人たちは、それほどいないような気もする。

その多くは、トルコ民族主義の思想に基づいて「中央アジアから来たトルコ人」と答えるだけだろう。

いくらか根拠のあるルーツを明らかに出来るのは、トルコ語とは異なる母語を近年まで(あるいは現在まで)維持してきた“クルド人”“アラブ人”“ラズ人”“チェルケズ人”“アルバニア人”といった人たちであるかもしれない。

しかし、例えばシリアには、ルーツを辿ればコーカサス系だが、今はアラビア語を母語にしている人たちも少なからずいるという。トルコ語学校で同じ教室にいたシリア人留学生がそうだった。

トルコの南東部では、オスマン帝国末の混乱期にイスラムへの改宗を余儀なくされたアルメニア人が、ムスリムのクルド人となった例もあるらしい。

クルド系部族の中には、カラウルスといったトルコ語の部族名もあり、本来はトルコ(テュルクメン)系の部族だったのが、次第にクルド化したのではないかとも言われている。

トルコ系部族のアナトリア進出が本格的になったのは、1071年の“マラズギルトの戦い”以降とされているけれど、それでも既に1000年が経過している。

その間、オスマン帝国の領土拡張に伴い、バルカン半島や中東からも様々な言語や文化を持つ集団がやって来て、各々が長年にわたって混交を重ねたため、もう一つ一つの要素を検証するのは無理じゃないだろうか。

いずれにせよ、オスマン帝国の建国当初から隆盛期に至るまで、現在のトルコ共和国の領域において、トルコ系のエスニック・ルーツを有する人の割合が、60%という高率に達したことはなかったように思える。

そうであれば、トルコ人の様々な容貌の割合が、現在のテュルクメニスタンやウズベキスタンの人々のそれにもう少し近くなっていても良かっただろう。

とはいえ、清朝における満州族のように、全人口の1%というほどではなかったはずだ。セルジューク朝の時代を経て、相当数のトルコ系部族がアナトリアへ進出していたらしい。

なにより、オスマン帝国は、トルコ語を土台にしたオスマン語を公用語として使いながら、民衆へオスマン語を強要したことはなかったと言われているにも拘わらず、トルコ語の話者はかなり広範囲に増えていったようである。末期には、皇帝さえ満州語を話せなくなっていたという清朝とは全く違う。

しかし、オスマン帝国を興したトルコ族が、自分たちより遥かに高度な文明と多大な人口を有していたアナトリア西部とバルカン半島に跨る地域を征服した点は、満州族の清朝と相通じるところがあるのではないか。

また、セルジューク朝からオスマン帝国にかけて、クルド部族の立場は、清朝の八旗蒙古に何だか良く似ているような気もする。

セルジューク朝に始まったトルコ部族による征服事業の当初では、最大の協力者だったはずなのに、気がついたらオスマンはビザンチン帝国の後継者に収まってしまい、クルド部族は辺境に取り残されていた。

南東部に、クルド化したトルコ系の部族もいるというのは、これまた清朝の辺境に残った満州八旗のようで興味深い。

中華の漢人に対する満州族・モンゴル族のように、ビザンチンの人々から見れば、トルコ部族もクルド部族も粗野な騎馬民族であり、殆ど変わりがなかったかもしれない。

現在、トルコ人の歴史的な騎馬槍競技とされるジリットや吟遊詩人の伝統が残っているのは、どういうわけか、トルコ人とクルド人が混在し、部族社会の残滓も見られるシヴァス県やエルズルム県といった東部地域ばかりである。

まとまりのない話で申し訳ないが、トルコに限らず、この地域は、イランの最高指導者であるハメネイ師がアゼルバイジャン系でトルコ語も話すなど、言語や文化が非常に錯綜している。日本や西欧の感覚で、トルコ人とかクルド人とか考えようとしても、良く解らなくなってしまうと思う。


【49】トルコの少数民族とトルコ人の定義【ラディカル紙】【2004.02.26】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00049.html

【92】トルコはマイノリティーの寄せ集まりである【ラディカル紙】【2004.21.10】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00092.html

【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である【ラディカル紙】【2004.12.30】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00105.html


10月19日 (月)  トルコと中東

トルコ国内のAKP政権に対するもっともな批判としては、“中東への過剰な関与”があげられると思う。

トルコ共和国は樹立以来、中東に関わることを長い間さけて来たが、故オザル大統領の時代にまずこの原則が崩され、AKP政権はさらに積極的な関与を試みたため、ついに中東の泥沼へトルコを引きずり込んでしまったというのである。

AKPが試みたのは、“アラブの春”に呼応した平和的な友好外交と言えるものだったけれど、これが“中東の盟主への野心”と受け取られ、欧米を中心とする国際社会の中で孤立して、難しい立場に立たされてしまったのは確かかもしれない。

政権寄りのある識者は、欧米との関係が決定的に悪化した転機として、2013年の11月、南東部のクルド地域の主要都市ディヤルバクルへ、北イラク・クルド自治区のマスード・バルザーニ大統領を招待して開催した盛大なイベントを挙げ、「このトルコの成功に危機感を覚えた欧米は、トルコへの圧力を強めた」と解説していた。

とはいえ、これも「わざわざ成功を誇示して欧米を刺激する必要はなかった」と批判することができるだろう。(盛大なイベントにはPKKを牽制する狙いもあったらしいが・・・)

2013年11月17日 (日) ディヤルバクル
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=11

今やトルコは、南東部で多発するPKKのテロ、国境を越えて流入してくるシリア難民への対応に大わらわである。アンカラでは実に痛ましい自爆テロ事件も発生した。

しかし中東では、現在、欧米の介入により、ローザンヌ条約から約1世紀を経て、また新たに地図が書き換えられようとしている。1世紀前は、革命による騒乱で介入できなかったロシアも、その存在を誇示し始めた。中国も介入の機会を虎視眈々と狙っているそうだ。

その中で、ローザンヌ条約の当事者であるトルコだけが、傍観を決め込むわけには行かなかったかもしれない。

また、トルコの如何に関わらず、シリアでは内戦が勃発して、これに呼応したPKKのテロ、そして、難民の流入は防げなかったはずだという政権寄り識者の主張は、概ね正しいような気もする。

いずれにせよ、11月1日の選挙の結果、AKPが単独政権に復帰しようと、CHPとの連立になろうと、中東外交の大筋は変わらないだろうと言われている。仮に、連立となった場合、CHPは、野党時代とは異なり、現実的な対応を迫られることになりそうだ。

その為か、支持者たちは相変わらず反AKPデモなどを繰り広げ、主要メディアもこれを煽っているけれど、CHP党幹部がAKPを批判するトーンは少し穏やかになった。

また、昨日は、ドイツのメルケル首相がトルコを訪れたりして、欧米の態度にも軟化の兆しが見られる。今後、トルコを巡る情勢に良い変化が現れることを期待したい。


10月21日 (水)  エルドアン大統領の独裁者というイメージ

イスラム諸国の中で、最も原理主義的なのは、サウジアラビアじゃないかと思うけれど、アメリカの友邦国である所為か、あまり酷い評価は日本のメディアでも、それほど多く見られないと思う。

ところが、サウジアラビアに比べれば、よっぽど民主的なイランへの評価は、あまり芳しいものじゃなかったりする。

なんとなく、欧米の都合によって、中東の評価やイメージは形作られているのではないかと思えてしまう。「国を持たない世界最大の民族クルド」などというイメージも、その一つであるかもしれない。

AKP政権が、民営化を強力に進めて、アメリカ等の資本へ門戸を開き、非常に親米的な政権と見られていた頃は、当時のエルドアン首相にも「力強いリーダー」という頼もしいイメージが作られていた。

それが、徐々にアメリカと距離を置くようになり、北イラクの石油資源を巡って利害の対立にまで及ぶと、たちまち「独裁者」というイメージに変わってしまう。・・・もちろん、これはAKP政権寄り識者の見立てに相違ないけれど、まるで的外れな主張ではないような気がする。

トルコでは、2008年から、AKP政権のもとで、所謂エルゲネコン事件の審理が進められていた。これは、同政権をクーデターによって覆そうとしたとされる軍の高官らを対象にした刑事訴訟事件で、2012年の1月には、前参謀長官のイルケル・バシュブー氏が逮捕されるに至った。

多分、この頃までは、エルドアン首相も米国などで、「軍の圧政を退け、民主化を進める強力なリーダー」といったイメージで語られることが少なくなかったのではないかと思う。

また、エルゲネコン事件の審理を進めていた司法関係者の多くは、親米的なトルコのイスラム教団:フェトフッラー・ギュレン教団との繋がりが深い人物であったとされている。

しかし、その後、2013年を境にして、エルドアン首相とフェトフッラー・ギュレン教団の敵対が明らかになる。2014年の3月には、終身刑の判決が下っていたバシュブー氏も保釈となり、再審の道が開かれた。

そして、今月の7日、無罪が予想される再審で、最後の証言に立ったバシュブー氏は、一連の刑事訴訟そのものがフェトフッラー・ギュレン教団の陰謀であるとして、同教団を激しく糾弾し、教団が罰せられるまで裁判は終わらないとしながら、教団と協力関係にあったAKPとエルドアン大統領にも非難の矛先を向けていた。

さらに、バシュブー氏によれば、陰謀の背景には、トルコ軍を弱体化させようと目論んだ米国のネオコンとブッシュ大統領の思惑が絡んでいたそうである。

もっとも、バシュブー氏は、既に退役している軍人であり、この発言にどのくらい政治的な影響力があるのかは解らない。あまり大袈裟に考える必要はないかもしれない。

そもそも、バシュブー氏が関与していなかったにせよ、トルコ軍の一部にクーデターの動きがあったのは、おそらく事実だろう。

いずれにせよ、こうした経緯などを見ていると、トルコの司法は、公正かどうかはともかく、かなり独立しているように見える。中央アジアなどの独裁国家とは全く違う。ロシアや中国と比べても遥かに民主的じゃないかと思う。

確かに、2013年以降、トルコ軍はある程度復権したかもしれない。このところ著しくなった軍事行動により、発言力も増したような気がする。でも、民主化を妨げる意志など持ち合わせていないだろう。

AKP政権は、2013年の9月末にも民主化のパッケージを発表しており、これには、クルド語の教育を可能にする法改正であるとか、スカーフ着用の自由化も含まれていたけれど、軍が何か発言するようなことはなかった。

また、最近、話題になっている豪華過ぎる大統領府にしても、ドルマバフチェ宮殿などの歴史的な遺産を見れば、この国の人たちは、もとより豪華絢爛を好んでいたようだ。侘びとか寂びとは縁がなかった。現在、一般の人たちにも、見栄を張る傾向は多く見られる。

それに、AKPの大統領制構想には、州制度による地方自治の強化といった興味深い一面も含まれていた。

2013年の3月、当時のエルドアン首相が、この州制度について、インタビューに答えている。ゲズィ公園騒動が勃発する前であり、「クルド和平プロセス」に相当な自信を持っていた頃だろう。

「世界中の発展した強力な国家を見れば、彼らは州制度に不安など感じていない。そういった国々で州制度は発展を促進する。民主主義において州制度は、政治的な競争力を高める」などと説明しながら、トルコの歴史にも言及し、「オスマン帝国にはクルディスタン州もあった」と驚くべき発言を残している。

これに対しては、当時も凄まじい反発があり、今は反エルドアン派の格好の攻撃材料になっているようだ。さすがに、エルドアン大統領も、今日同じ発言を繰り返すつもりはないに違いない。

2014年以降、シリア内戦の激化、ISの跳梁跋扈が続く中で、「クルド和平プロセス」は凍結されてしまった。


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