Diary 2015. 1
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1月1日 (木)  謹賀新年/与瀬神社

明けましておめでとうございます。

元旦の朝、一人で犬を連れて、相模湖駅の近くにある与瀬神社へ初詣に行った。境内に屋台などが出て賑わっていたら、昼に母を案内して、また来るつもりだったが、境内は参拝客も少なく静寂に包まれていた。

神社の方に訊くと、昔は多くの屋台で賑わったそうだ。「時代が変わったんですねえ」と寂しそうに微笑まれていた。


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp

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1月2日 (金)  元旦の高尾山

(1月1日)

元旦の昼は、母と一緒に、この辺で最も賑わうという高尾山に行ってみた。

昼過ぎから天気は崩れると聞いていたので、早めに出かけたつもりだったが、高尾山口の駅を降りた時には、もう雪が降り始めており、ケーブルカーで上に登ったら、結構本格的な雪になっていた。

それでも、元旦とあって参拝客は多く、下りのケーブルカー乗り場は既に長蛇の列である。ここで長時間待たされたら、寒くて大変そうだし、夕方の犬の散歩時間までに帰れなくなってしまう。

その為、参拝を諦め、そのまま下りのケーブルカーで引き返すことにした。母には改札口付近の雪や風がしのげる場所で待ってもらい、私は直ぐに列の最後尾についた。

しかし、これはちょっとトルコ的なやり方だったかもしれない。見ると、かなり年を取った方たちも雪の中をじっと列に並んでいる。トルコでは、こういう場合、却って周りの人たちが、年寄りに暖かい所で待つよう勧めるのではないだろうか・・・。

それで、私の前に並んでいた老婦人に、「母を改札口の辺りで待たせているので・・・」と勧めてみたけれど、「いや良いんですよ・・・」と朗らかな笑みで返されてしまった。

15分ほどして、改札口が見える所まで近づくと、母は列に並んでいる家族連れの方たちと談笑していた。40年配の男性のナップザックに積もった雪を払い落としてあげたりして、相変わらず愛想が良い。こういう所は親子でとても良く似ている。

それから、暫くして、ケーブルカーに乗り込む段になったら、さきほどの男性が、わざわざ席を確保しながら、母を呼んでくれた。本当に有り難い。日本の人情も未だ廃れていないと思った。

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1月8日 (木)  神田淡路町〜連雀町

昨日は、母を連れて神田淡路町の辺りを歩いてみた。母の実家は、淡路小学校の前で本屋をやっていたそうだ。あの辺は戦災で焼けなかったので、その家も主が変わっただけで、10年ぐらい前まで残っていたらしいけれど、私はついぞ見ることがなかった。母もわざわざ私たちをそこへ連れて行こうとはしなかったのである。

今、アルツハイマー症を患っている母は、下手をすると、5分前の出来事もきれいさっぱり忘れてしまうのに、50年以上前の記憶は、かなり確かだったりするので驚く。

淡路町から連雀町界隈を歩いても、ニコライ堂であるとか、“ぜんざいの竹村”“あんこう鍋のいせ源”“蕎麦のまつや”といった、当時から残っている建物は、見れば直ぐに思い出して、「ニコライ堂に良く銀杏を拾いに行ったりした」なんて追憶まで語っていた。

しかし、生家や淡路小学校があった一帯は、再開発でモダンなビルディングが建設され、様子が一変していたため、その位置関係を把握するのもままならず、呆然としていた。

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1月9日 (金)  神田珈琲園

(1月8日)

昨日は、淡路町から神田の駅まで歩き、それから電車に乗って、私が生まれ育った錦糸町・横川にも足を延ばしてみた。

母は2000年まで神田駅の近くで雀荘を経営していた。私も子供の頃から頻繁に出かけていたため、なんとなくあの辺りでは土地勘も働くような気がする。

しかし、淡路町から神田駅にかけての街並みも大分変わっていた。まず、“万惣フルーツパーラー”が跡形もなく消え去っていたのに驚いた。子供の頃、よくホットケーキを食べに連れて行ってもらったので、私にとっては、とても懐かしい店の一つだった。

神田駅の近くでは、小鍛冶という洋菓子店もなくなっていた。こちらもなかなか趣のある店構えだったから残念だ。

でも、神田珈琲園は未だ健在である。私は10歳ぐらいの時に初めて連れて行ってもらったような記憶があるから、店の歴史は少なくとも40年以上になるだろうと思って訊いたら、創業は昭和33年に遡るという。

チェーンのコーヒー店が全盛の時代に良く健闘していると思う。自家焙煎の美味しいコーヒーで、雰囲気も凄くいい。これからもまだまだ頑張って欲しい。

神田珈琲園
http://www.kanda-coffee-en.com/cafe.html

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1月10日 (土)  スカイツリー

(1月8日)

錦糸町から押上辺りの変貌も激しい。私が生まれ育った横川の古い都営住宅もとっくに姿を消している。

2006年の一時帰国中に訪れた時も驚いたが、ますます発展して、また大きく様変わりしたように思う。なにより“スカイツリー”の出現が強烈だ。

昨日は錦糸町から押上まで歩き、途中、小中学校時代の同級生を訪ねた。母も彼のことは覚えていたようである。なんとなく、高校より小中の友人たちについて良く覚えているような気がする。古い記憶のほうが残りやすいのだろうか?

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1月14日 (水)  イスタンブール・アタテュルク空港

11日(日曜日)にパリ経由でイスタンブールへ帰って来た。前日、2時間ぐらいしか寝ていなかったので、成田〜パリでも4〜5時間寝られたけれど、パリに着いたら、なんだか積もった疲れがどっと出たのか、へたり込んでしまい、パリ〜イスタンブールでは、機内食も断って爆睡していた。

イスタンブール到着時間は、夜の11時半で、入国ゲートを通った時は、既に12時を回っていた。この時間になると、もう途中からタクシーを使わなければ家に帰れない。タクシー代は少なく見積もっても50リラ(2500円ぐらい)を下らないだろう。

それで、当初の予定通り、空港で夜を明かすことにしたが、あの寒空の中、バスやタクシーを待ったりしたら、本当にくたばってしまいそうな感じだった。

イスタンブールのアタテュルク空港は、24時間態勢だから、空港の中は何処も暖房ががんがん効いていて、とても暖かい。トランジットで利用する旅客も多く、所々、ベンチの上に寝転んでいる人たちがいる。

まずは、インターネットが使える出国ロビーへ上がり、2時ぐらいまで、ネットを見たり、新聞に目を通したりしていたけれど、人の動きも少なくなって辺りが静かになったため、私もベンチに横たわってそのまま寝入ってしまった。

物音で目を覚まし、辺りをうかがうと、かなり人の動きが活発になっている。もう朝になったのかと思って時計を見たら、まだ4時だった。こんな時間から出発する便が結構あるらしい。

隣のベンチで寝ていた若い白人の女も起き上がっていて、連れの若い白人男に、なにやら激しい口調で話しかけている。これが何処の言葉なのか見当もつかず、とても気になった。

ちょっとスラブ系らしい感じもしたが、ロシア語とかウクライナ語ではないようだった。グルジア、あるいはアルバニア辺りを想像して、直接、彼女らに訊いてみようかと思ったが、酷く下品な雰囲気の連中だったので止めにした。

そのうち、男の方も立ち上がり、ペットボトルの水を口に含んで、それを当たり前のように床へ吐き散らすと、女と共に立ち去っていった。


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1月17日 (土)  パリの事件

11日、航路がパリ経由だったため、パリの様子を訊かれたりしたものの、空港の外へ出られたわけじゃないし、フランス語も全く解らないし、何も見聞しなかったに等しいと思う。そういえば、空港内のテレビでは、事件を報道するニュース番組が映されていたような気もする。

空港には黒人のスタッフが多かった。彼らの一部はムスリムだったかもしれないが、何か特別な雰囲気は感じられなかった。

それから、イスタンブールに戻って来て、既に6日が過ぎようとしているけれど、もちろん、我がイエニドアンの街の様子には何の変化も見られない。平穏そのもの・・・。

街の人に会っても、「日本はどうだった?」とか「お母さん元気か?」というように日本の話を訊かれるだけで、パリの事件はなかなか話題にならなかった。

昨日、行きつけのピデ屋さんで、肉とチーズ入りのミックス・ピデを食べていたら、トラブゾン県出身の店主から、初めてパリの事件について訊かれた。彼は私が日本に一時帰国していたのを知らなかったらしい。知っていれば、やはりこちらを話題にしたんじゃないかと思う。

事件に関する彼の見解は、「イスラエルの陰謀」だそうである。スウェーデンに続いて、ヨーロッパ各国がパレスチナを承認する動きを見せているため、危機感をつのらせたイスラエルが陰謀を仕掛けたのだと言う。

多分、彼が好んでいる保守的・イスラム的なメディアに、そういった説が明らかにされていたのだろう。

“預言者に対する誹謗中傷”については、「どうでもいい。気にしていないよ」と軽く受け流していた。

この10年で、トルコのイスラム的な人たちは、大分余裕を持ち始めているから、実際、その多くは、もうそれほど気にしていないのかもしれない。

かつては、自分たちがトルコの政教分離主義からも抑圧を受けているように感じていたため、もっと過激に反応していたのではないかと思う。


*写真左は、日本の藤野の家の直ぐ近くから少し見える富士山。右は、1時間15分ほど登った明王峠から見た富士山。

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1月18日 (日)  ドトールのコーヒーとミルクレープ

日本では大手チェーンの飲食店が安くてとても助かる。吉野家の牛丼、リンガーハットの長崎チャンポンなど、一時帰国の度に必ず一度ぐらいは食べているような気がする。今回はこれに“サイゼリヤ”が加わった。次回は評判の“バーミヤン”を試してみたいものだ。

コーヒーもチェーン店全盛で、昔ながらの喫茶店が姿を消して行くのは寂しいけれど、美味しくて安いチェーン店には、どうしても足が向いてしまう。このドトールのコーヒーも、一時帰国すれば必ず一度は飲んでいると思う。

なにより瀬戸物のカップで出て来るのが嬉しい。紙コップで飲んだのでは、風味が損なわれてしまうように感じる。

アンパンが無くなってしまったのは残念だけれど、ミルクレープも美味い。コーヒーにとても良く合う。今回は帰国の翌朝、上野のカプセル・ホテルを出たところで、まずこのセットを頂いた。

コーヒーは普通のブレンドにするつもりでいたが、“本日のストレート”がインドのコーヒーだったので、ちょっと珍しいような気がして、70円ほど高かったけれど、これを試してみることにした。

しかし、注文してコーヒーが出てくるのを待っていたところ、店員の女性がコーヒーメーカーの前で、なにやら悪戦苦闘している。どうやら、ストレートの豆が粉砕機のほうへ下りて行かないようである。

店員さんは、おそらくほんの数10秒間苦闘しただけで、あっさり諦めると、こちらへ向き直り、「大変申し訳ございません。メーカーに不具合が生じて、ストレート・コーヒーを御提供できません」と丁重に謝罪した。

それで私が「普通のブレンドで良いですよ」と申し出たら、また「大変申し訳ございません」を繰り返して、「では、代金はお返ししますので、ブレンド・コーヒーをお召し上がり下さい」と言う。

多分、70円の差額が返ってくるのだろうと思って、ミルクレープとブレンド・コーヒーをゆっくり味わい、いざ店を後にしようとしたところ、店員さんは、最後の締めに、また「大変申し訳ございませんでした」と言いながら、代金の差額らしきものを差し出して来たけれど、ちょっと見ただけでも、間違いなく70円以上ある。

『あれっ?』と首を捻りながら、数えてみると、ストレート・コーヒーの代金290円全額が戻って来ていた。手違いがあったのに、コーヒーの代金を頂くわけには行かないということらしい。

これがマニュアルの規定によるのか、店員さんの判断によるのか、その辺りは良く解らないが、日本のサービス業は凄いものだと驚いた。

トルコでも、こういう手違いがあれば、差額は返金されるだろうけれど、全額は戻って来ないような気がする。わりとまともなレストランで、注文したのと異なる料理が出て来たため、「これじゃないよ」と言ったら、「これも美味しいですよ」と平然と言われて済まされたこともある。

まあ、トルコの雰囲気に慣れてしまえば、これで一向に構わないのではないか。違う料理でも“美味しさ”にそれほど変わりはないだろう。そもそも、ブレンド・コーヒーとストレート・コーヒーなんて、私に味の違いが解るわけではないのだ。

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1月20日 (火)  パリの事件について

日曜日のサバー紙に、歴史学者のシュクル・ハニオウル氏が「彼らも“真の”を主張している」と題するコラムを書いていた。

多くの真っ当なイスラム教徒たちが、パリのテロを非難して、「あれは真のイスラムではない。真のイスラムは・・・」と主張したところで、テロの実行犯らも自分たちが“真のイスラム”だと主張しているのだから、あまり意味はないだろうと言うのである。

ハニオウル氏は、こういった“真偽の議論”の歴史的な例として、18世紀にアラビア半島で台頭したワッハーブ派が、オスマン帝国とイスラムの真偽を争って衝突した史実を挙げていた。

当時、オスマン帝国の皇帝は、正統性がかなり認められていた“カリフ”も兼任していたのに、ワッハーブ派の人たちは、そのカリフの見解に従おうとしなかったらしい。これでは、現代にカリフ制を復活させても、何の役にも立たないような気がする。

しかし、テロを辞さない人たちが、いくら“真のイスラム”を主張しようと、その行為が人間として真っ当でないことは明らかじゃないだろうか? 斬首シーンを公開したりしているISISに至っては、とうに精神状態さえ真っ当ではなくなっているに違いない。

このような“宗教を理由に掲げたテロ・暴力”を防ぐためには、ハニオウル氏が述べているように、多様性を認めた民主主義に依るしかないのではないか。そして民主主義には、やはり政教分離が条件であると思う。

もちろん、政教分離が人々の信仰を抑圧するものであってはならないだろう。これに対して、トルコはかなり軌道修正を図ってきた。イスラム教徒が増えつつある西欧も、これを見習ったらどうだろうか。

とはいえ、トルコの例が、他の異なる地域から来たイスラム教徒らにも適応可能かどうなのかは良く解らない。↓

【203】アタテュルクと国民【ヴァタン紙】【2008.11.10】
http://neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00203.html



1月21日 (水)  公証役場

月曜日、サンジャクテペ区の警察署へ行って、滞在許可証の延長手続きを済ませてきた。

私の滞在許可証の期限は、18日の日曜日までだったけれど、金曜日にインターネットで手続きの申請をしているので問題にはならない。

昨年は、インターネットで申請してから1ヵ月以上後の2月25日になって、やっと手続きの順番が回って来た。一昨年もその前も順番待ちなどなかったから、『サンジャクテペ区に居住する外国人が急に増えたわけはないよなあ・・』と首を捻りたくなった。

おそらく、市の中心部に居住する外国人が、順番待ちの少ないサンジャクテペ区で、友人の住所を借りて申請するケースが増えただけなのだろう。外国人居住者の多い中心部のシシリー区などで申請すると、数ヶ月も待たされるらしい。

サンジャクテペ区に実際居住している外国人なんて、オーバーステイの人たちを除けば、僅かなものだと思う。12年の1月に初めてサンジャクテペ区の警察署で手続きした時は、担当官が「日本人が来るのは初めてだ」と喜び、お茶まで出してくれたほどだ。

これが昨年には、1ヵ月以上待ちになっていたから、今年も同様だろうと思い、先週、インターネットで申請してからゆっくり必要書類を揃えるつもりでいたら、順番待ち無しで翌日が「手続き指定日」になっていたので、ちょっと焦った。

昨年の4月に、外国人の滞在許可に関する法規が変わり、健康保険の加入やら賃貸契約書の提示といった新しい条件が付加されたけれど、どうやら「賃貸契約書の提示」が求められるようになったため、住所を拝借して申請していた人たちが、元の住所へ戻ってしまったようだ。

私は賃貸契約書を取ってあるから、この新しい条件は問題にならないだろうと思いながら、先週の金曜日、手続きに警察署へ赴いたら、「この契約書は公証がないから駄目」と却下されてしまった。また申請し直したうえ、月曜日に公証付きの契約書を揃えて、また手続きに来るようにというお達しだった。

それで、月曜日の朝は、まず大家さんを伴ってサルガーズィの公証役場まで行って来た。大家の御老人は、最近、めっきり体が弱って、足元も覚束ないようになっていたが、頭もかなりボケてしまったのか、サルガーズィへ向かう車中、若い後妻に何度も「これから何処へ行くの?」と訊いた。私が店子であることも既に認知していないかもしれない。この老人のサインによる“公証”にいったい何の意味があると言うのだろう?

トルコでは、公証役場を“Noter”と言い、この“Noter”がやたらと多い。車の売買とか、色んな所で“公証”が必要になるそうだ。

日本の場合、全国に公証役場は300箇所ぐらいしかないらしい。私も日本の公証役場には一度しか行ったことがない。それも、韓国で学生ビザを取得する際に、韓国大使館から要求されたからである。韓国にも公証役場は多いのだろうか?

さて、賃貸契約書の“公証”だけれど、たった一枚の紙切れを出すために、70リラ(3500円ぐらい)も取られた。予期していない出費だった所為か、何だか恐ろしく高額であるように思えた。

*写真はカドゥキョイの公証役場。あの辺をちょっと歩いただけでも、いくつもこの“Noter”の看板を見るような気がする。

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