Diary 2014. 5
メニューに戻る
5月1日 (木)  労働者の祝祭

今日はメーデーで、工場も休日だった。この10年来、殆ど仕事のないフリーの通訳だか何だかで過ごして来たため、気がついていなかったけれど、2008年からメーデーは「労働者の祝祭」として公休日になっていたらしい。

2月の初旬、2週間ほど通っていた工場に、3月末より、また2ヶ月間の契約で出勤している。工場へは、以下でもお伝えした“送迎ミニバス”に乗って行く。

送迎ミニバス
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2014&m=2

送迎の同乗者たちとは、もうすっかり仲良くなったが、この業務も後3週間ほどで終了してしまう。送迎に限らず、工場で顔を合わせる人たちとは、皆親しくなったし、工場自体にも愛着を感じるようになったから、何だか残念な気もする。

オフィス棟で私たちが使っている部屋をこまめに掃除してくれる雑用係のイスメットさんとは、特に親しくなった。いつも冗談を言い合っている。私と同年輩のイスメットさんは、「お前良いよなあ。通訳とか言って、喋っているだけで金もらえて。俺も中国行って通訳やりたいよ」なんて言う。

いくら「日本人」と繰り返しても、直ぐ“チン(中国)”になってしまうので、もう諦めてしまった。イスメットさん、東洋人は皆中国人だと思っているらしい。

「中国に行って通訳って、何語の通訳やるの? トルコ語以外に知っている言葉あるの?」と訊いたら、「俺、ザザ語なら良く解るよ。教えてやろうか?」と身を乗り出してきた。

ザザ語は、クルド語(クルマンチ語)に近い、ペルシャ語系統の言語と言われ、アナトリア東部のトゥンジェリ県、エルズィンジャン県、エラズー県などに話者が多いそうだ。トゥンジェリ県、エルズィンジャン県には、イスラムの異端派されるアレヴィー派も多いと聞く。イスメットさんはエルズィンジャン県の出身である。

私は、送迎に乗る所で、毎朝サバー紙を買って来る。ここの売店は、他にスポーツ紙ぐらいしか置いていない。イスメットさんは、私がサバー紙を読んでいるのを見ると、「それは泥棒エルドアンの新聞だぜ。そんなの読んじゃ駄目だよ。ソズジュ紙を読まなきゃ」と文句を言う。

「ソズジュ紙? イスメットさんは左翼なの?」
「そうだよ。俺は左翼でアタテュルク主義者だよ」
「そして、アレヴィー派でしょ?」
「おっ、良く解っているなあ」
「ジェムエヴィ(アレヴィー派の礼拝施設)とか行くんですか?」
「もちろん。今度、お前も連れて行ってやろうか? サルガーズィで俺の家から近いんだ」

このジェムエヴィの話で大分盛り上がった。実際、都合がつけば、一緒に訪れて見たい。

トルコでは、“左翼”がインテリだけのものにはなっていないようだ。アレヴィー派の民衆の中には、イスメットさんのように“左翼”を名乗る人が多い。でも、イスメットさんは、社会主義や共産主義をどう理解しているのだろう? おそらく、以下の話に出て来る“ペンキ屋のおじさん”のような感じじゃないかと思う。

5月15日 (木) ペンキ屋のおじさん
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=5

イスメットさんに、「最近、ジェムエヴィも増えたよね。やっぱり、あれはエルドアンのAKPになってから増え始めたんじゃないの?」と水を向けたところ、「違う! 違う! そんなのは大嘘だ!」と真っ赤になって否定してから言った。「ジェムエヴィは、オザルの時代に増えたんだよ」

これはなかなか興味深い話だと思った。イスラムの復興に尽力したオザル氏を、かつて左翼的なアレヴィー派の人たちは目の敵にしていたけれど、最近はその“功績”も認めるようになったのだろうか? 

さて、今日は、昨日イスメットさんが、「明日メーデーに行こう! タクシムに行くんだ。サルガーズィから送迎バスも出るよ」と話していたので、朝、ぶらぶらサルガーズィまで歩いて行ったけれど、ちょっと遅かったらしい。サルガーズィの街角はがらんとして、のんびりした休日の朝の雰囲気が漂っていた。


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp

20140501-1.jpg



5月2日 (金)  ビジー・イェック・グラン(万歳5月1日)

昨日、イスメットさんたちは、警官隊に阻まれてタクシム広場まで到達できなかったという。報道によれば、かなり激しい衝突もあったみたいだが、幸いイスメットさんは、それに巻き込まれることもなく、無事に戻って来られたようである。「もう少しだったのになあ」と笑っていた。

昨年も、タクシムは大騒ぎになっていたそうだ。私はその頃、カドゥキョイでメーデーの行進を見物していたけれど、こちらは平穏な雰囲気だった。タクシムでは、70年代に死傷者も出たため、象徴的な意味が付加され、例年、タクシム広場へ行進しようとするデモ隊と警官隊の攻防が繰り広げられて来たらしい。

イスメットさんに、「昨日、10時過ぎにサルガーズィの広場に着いたんですが、人通りも少なくて静かでしたよ」と報告したら、「そりゃ遅かった。その頃は静かだったろう。しかし、夕方になって、あそこでもクルドの連中が騒いでいたけどね」と教えてくれた。

その前の日曜日の夕方、バスでヨーロッパ側から帰って来る途中、サルガーズィ広場の前を過ぎると、“ビジー・イェック・グラン(万歳5月1日)”とクルド語のスローガンを掲げた人たちがたくさん集まっているのが見えた。今から思えば、あれは予行演習だったのかもしれない。

サルガーズィの街には、イスラム的な保守層もいれば、アレヴィー派やクルド人も多い。モスクに、ジェムエヴィもあれば、メイハーネ(居酒屋)もある。なかなか興味深い街じゃないかと思う。

20140502-1.jpg



5月3日 (土)  選挙民の55%はAKPを支持していない

今日“YouTube”で、エティエン・マフチュプヤン氏が、アスル・アイドゥンタシュバシュ氏の問いに答えている場面を観た。

マフチュプヤン氏は、「・・・民主主義とは、異なる人たちとも関係を作れることだ。保守層と関係を作ることができない知識人たちの思考に、私はそれほど意味があるとは思わない。民衆もそう思っていない」と言う。

そして、アイドゥンタシュバシュ氏の「選挙民の55%はAKPを支持していない」という反論に対しては、以下のような見解を示した。

「・・・彼らは一つにまとまることが出来るだろうか? これはバラバラになって党派を作った各集団に過ぎない。百年来そうだった。自分たちのアイデンティティーで凝り固まっているだけだ。今、これを乗り越えようとしている政党はないのかと考えたら、それはAKPだった。AKPは、アイデンティティーの異なる人たちからも票を得られる唯一の政党である。・・・」

確かにそうかもしれない。第一野党のCHPは“アレヴィー派を含む政教分離主義者”、MHPは“イスラム的・保守的なトルコ民族主義者”、BDPは“クルド人”と、殆ど決まったカテゴリーの中から票を得ていたような気がする。

AKPが、その中核をなしているイスラム的な“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”から得た票は、おそらく20%にも満たない。あとは広範な保守層から得た票だろう。それどころか、クルド人やアルメニア人、ルーム(トルコに住むギリシャ人)の中にも、AKPへ投票した人が少なくなかったのではないかと思う。

工場のイスメットさんは、いつもCHPに投票しているそうだが、これは要するに、自分たちのアイデンティティーで凝り固まって来たからであるかもしれない。だから何が起ころうと支持政党を変えたりはしない。

でも、「ジェムエヴィは、AKPになって増え始めたのでは?」と訊かれて、イスメットさんが見せた激しい反発には、何だかちょっとした心の揺らぎを感じてしまった。この数年にジェムエヴィが急増したのは、紛れも無い事実だからだ。

もちろん、これはAKPの功績でもあるけれど、最も大きな変化は、トルコ社会の成熟じゃないだろうか。ジェムエヴィに限らず、“クルド和平のプロセス”やアルメニア問題への歩み寄りなど一連の動きは、成熟したトルコの社会によって、もたらされたのではないかと思う。

Etyen Mahçupyan
http://www.youtube.com/watch?v=tV79MQVE-ag

20140503-1.jpg



5月4日 (日)  韓人教会のピクニック

2011年−5月9日(月)韓人教会のピクニック
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2011&m=5

2013年−5月20日(月) 韓人教会のピクニック
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=5

今年も恒例の“韓人教会のピクニック”に参加して来た。今日は、午前中、かなり雨が降っていて、どうなることかと心配したものの、11時頃、ピクニック場に皆が集まり、牧師さんの先導で礼拝が始まると、空はみるみる内に晴れわたった。

韓国では不幸な出来事が相次いでしまったが、今日の天気のように、すぐまた晴れ間が広がるように祈りたい。

ピクニック場には、子供たちの元気な声が響きわたっていた。教会に来ている韓国の方たちの家族は、どこも子供が多いように見える。韓国で、日本以上の少子化が進行しているという報道は、何だか信じられなくなってしまう。信仰のある人々は少し違うのだろうか? 韓国の教会は、社会の中でそれなりの役割を果たしているのかもしれない。

私は、いつも御馳走になってばかりだから、今日も例年のように“肉焼き係り”を担当させて頂いたけれど、“焼き係り”なのか“食い係り”なのか解らないほど、焼きながら鱈腹食べてしまった。私は信仰がないから「神に」とは言えないが、全ての事物に感謝を捧げたい。

モンゴルの人たちは今年も元気一杯だった。モンゴル相撲は、伝統的な装飾も施されて、段々本格的になってきたような気がする。

20140504-1.jpg 20140504-2.jpg 20140504-3.jpg



5月6日 (火)  宗派問題

アレヴィー派の人たちは、ジェムエヴィで、セマーと呼ばれる礼拝の儀式を執り行なう。この儀式には女性も男性と共に参加し、歌や舞踊を伴うなどイスラムとは思えない光景が繰り広げられる。

しかし、こういった特異性の為に、主流のスンニー派からは異端視され、いわれのない悪質な風説も流布していた。「アレヴィーの村では男女が一つの部屋に集まり、蝋燭の火が吹き消されると乱交が始まる」などと噂されていたのである。

1992年、私はイスタンブールの学生寮で、スンニー派の学生たちが、そんな流言の真否を真面目に討論しているのを見て、思わず背筋が冷たくなった。

当時知り合ったエルズィンジャン県出身の友人は、おそらくアレヴィー派だったが、アレヴィー派を話題にしただけで、とても不機嫌になり、「その単語を口にしてはならない」と“忠告”してくれたものだ。何か忌まわしい記憶でもあったのだろう。

彼は、如何なる信仰も持っていないように見えたものの、今から思えば、『我々もアレヴィー派の信仰を否定するから、スンニー派の連中も同様に信仰を否定してくれ』ということだったのかもしれない。

しかし、この10年ぐらいで、こういった宗派や民族の問題がとても楽に話せるようになった気がする。誰もが、自分の信仰や民族性を隠したり否定したりする必要を感じなくなったのではないか。

今出向いている工場で、掃除などを請負っているイスメットさんは、相手がどんな人であろうと殆どその態度を変えない。この率直さが、“アレヴィー派”とか“ザザ語”とか、臆せずに語らせているのだと思うけれど、20年前であれば、さすがにもう少し警戒していただろう。私もかなり気をつけて話題にしていた。

工場の製造現場には、下請けの業者も入っていて、彼らは、皆エラズー県の同郷出身であり、仲間内ではザザ語を話している。現場の隅で、一人が礼拝している姿も見かけたから、スンニー派に違いないとは思っていたものの、今日、リーダー格の男にその辺りのところを確かめてみた。

彼によれば、エラズー県のアレヴィー派住民は、隣のエルズィンジャン県やトゥンジェリ県から移住して来た人たちで、エラズー県は元来殆どがスンニー派だそうである。

「最近は、もう宗派問題なんてないでしょう?」と訊いたら、「いや、そんなものエラズーでは昔からありませんよ」と言う。

イエニドアンの写真屋メフメットさんの故郷トカット県もそうらしい。「うちの村から道路一つ隔てた向こうは、アレヴィー派の村だが、お互い結婚式に呼ばれたりして交流してきた。イスタンブールでは未だに少し差別があるようだけれどね」とメフメットさんは話していた。現在、ジェムエヴィが最も多いのはトカット県であると報道されていたから、これは確かな話に違いない。

イスラム異端派
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/002.html#90



5月7日 (水)  零落した名家の出身

2月の初旬、この工場へ製品を納入しているグローバル企業のトルコ人エンジニアと知り合った。カナダとの二重国籍者で、普段はカナダに住んでいるという。

大柄な男で、英語を話していれば、何処から見ても標準的なカナダ人に見えるけれど、トルコ語で話し始めると、たちまち気さくで親しみやすい何処にでもいそうな“トルコ人のおっさん”に切り替わってしまう。

トルコ人の奥さんもカナダで会社勤めしていて、子供たちは、もう殆ど英語しか解らないらしい。どうしてカナダで暮らすようになったのかは聞かなかった。近年は、トルコで大きなプロジェクトがあると、長期に亘って、トルコへ“出向”して来たりするそうだ。

そういったプロジェクトで、日本の企業とも長い間一緒に働いたため、「日本人には親しみを感じる」と言い、私たちとの出会いにも、とても喜んでくれた。

しかし、当初は“日本人”をなかなか理解できずに苦労したという。「同じオフィスで働いている私に訊けば良いことを、日本の本社経由で問い合わせたりするんだよ。なんていう人たちなのかと思ったね。打ち解けて話すようになるまで6ヵ月掛かった。6ヵ月だよ! でも、その後は、とても信頼できる人たちであることが解った。私は日本人が好きになったよ」

日本とトルコを比較して、こんな風にも話していた。「日本は巧くやったと思う。充分な技術力を蓄えてから、国際市場に門戸を開いたでしょ。トルコは何の技術力もないまま開放してしまったからね」

良く解らないが、近年のトルコの経済発展には、そこそこの期待を懐き始めているようにも見えた。だからこそ不安も感じるのではないか。

トルコには、こうして海外へ出て行ってしまった優秀な人材が少なくなかっただろう。彼らが戻って来るようになれば、技術力等も飛躍的に上がるかもしれない。

我々日本人の中には、「産業化して経済発展したけれど、日本人は幸せにならなかった。トルコは産業化などしなくても良い」なんて言う人もいる。

こんなのは、定年退職して余生を過している“しょぼくれた老人”が、今から出世しようと意気込んでいる35歳に、「俺も君ぐらいの頃は、とにかく上を向いて頑張ったけれど、辿り着いてみたら大したこともなかった。そんな頑張ってもつまらないよ」とか何とかぶつぶつ言っているのと変わらないような気がする。

しかも、この35歳は、零落した名家の出身なのである。再び栄華を取り戻せば、それを巧く使いこなしていく術を心得ているかもしれない。

トルコは共和国以降、亡国のトラウマからなのか、暫くの間、かなり内向きになっていたけれど、二重国籍に何の抵抗も感じていないところなど、かつての大帝国の気概の名残ではないかと思う。また、私のように5年以上滞在している外国人が、元の国籍を維持したまま、トルコ国籍を取得するのは難しいことでもないらしい。なかなか太っ腹な国なのである。

日本も一時期“帝国”をやっていたのに、期間が短かった所為か、それほどの気概は身につかなかったようだ。以前の支配地域から渡って来た“旧帝国臣民の後裔”にも、二重国籍は認めないどころか、地方参政権さえ与えようとしていない。



5月9日 (金)  冷たい雨のイスタンブール

今年のイスタンブールは、2月に好天が続いて、半袖で出歩けるほど暖かい日があったかと思ったら、3月、4月には雨も多くなかなか暖かくならなかった。

そして、5月になったら、4月より寒くなったように感じられる。今朝も雨が降っていて寒い。いったいどうなってしまったのか?

これで心配された水不足も解消されたようで良かったのかもしれないが・・・。

20140509-1.jpg



5月10日 (土)  盗難事件

3月の地方選挙では、この街の人たちから、「貴方は何処に投票するんですか?」とか「選挙権ないんですか?」とか良く訊かれた。「私はトルコ国籍じゃありません」と答えると、「なんで国籍取らないの?」と不思議そうな顔をする人もいた。

日本が二重国籍を認めていない旨を説明すれば、大概納得してくれたけれど、何だか“国籍”に対する考え方が、私たちとは大分違うらしい。規模の大きな“戸籍”ぐらいに考えている人も少なくないような気がした。

やはり多民族の大帝国であった時代のDNAが人々の間に脈々と受け継がれているのではないだろうか。クルドやアルメニアの問題も、こういった社会の下地があるからこそ、解決の糸口が見えてきたのではないかと思う。

日本でも、外国人への地方参政権の付与が議題に上っているけれど、下地がなければ、無理に貼り付けても剥がれてしまうかもしれない。

さて、昨晩は、平和なイエニドアンの街で嫌な事件があった。メフメットさんの写真屋に泥棒が入って、仕事用のデジタルカメラが盗まれてしまったのである。もっと高価なプリント機が無事だったところを見ると、犯人はそれほどの“プロ”ではなさそうだが、ドアのキーを壊すことなく器用に外して侵入している。

一昨日の晩は、廃品回収屋さんがやられたという。こちらはシャッターのチェーンを切って入り込み、現金を取って行ったらしい。

一連の事件、『シリア難民の仕業ではないか?』と言われている。どうやってここまで来るのか、最近は、イエニドアンの街でも“シリア難民”の姿が目立っていた。

2週間ほど前、私も家電修理屋さんのところで、そういった難民の一人に会った。トルコへ入国して6ヵ月ぐらいになるため、片言のトルコ語を話せるが、突然現れた東洋人に驚いたのか、暫くはとても緊張した様子で私の顔色を窺っていた。

その後は、街角で出会っても、にこにこ笑って挨拶してくれるようになったが、握手した手を離さずに、真剣な表情で「仕事ないですか?」と訊かれるのは困った。

家電修理屋さんは、彼らの面倒を随分見ていたらしい。『援助する人たちがいるから難民が入って来てしまう』と批判する声もあり、「人助けして非難されるなんて、酷い世の中だ」と修理屋さんはぼやいていたけれど、今回の事件ではちょっと頭を抱えているようである。

アンカラでは、廃屋に住み着いた難民たちと近隣住民との間の喧嘩騒動も報道されていた。難民と住民との摩擦はなかなか厄介な問題になってきている。

今のところイエニドアンでは、それほど物騒な状況にはなっていないものの、難民が問題を起こせば、いつもは優しい住民たちも黙っていないはずだ。これも多民族大帝国のDNAなのか、彼らは異なる人々と和するのも巧みだが、争いにも慣れているだろう。

仲良くしても、押されたら押し返すことが出来ないと、多文化・多民族の共生など無理ではないかと思う。



5月11日 (日)  政権と教団の暗闘

3月の地方選挙は、「AKP政権とフェトフッラー・ギュレン教団の対決」などとも言われていた。エルドアン首相らは、ギュレン師の信奉者たちが検察や公安組織の上層部に広がり、もう一つの政府を構成しようとしていると指摘して、彼らを徹底的に排除しなければならないと訴えていた。

そして、選挙でAKPが勝利したため、「最大の敗者は教団」と見られているものの、教団があっさり白旗を掲げて退いてしまったわけではない。AKP政権と教団の暗闘は、そう簡単に終わらないようである。

政府の中に、教団の指示によって動く別の組織が存在するのは、確かに問題だろう。これは、エルドアン首相が言うように、“徹底的”に排除されなければならないと思う。

しかし、教団の信奉者らを高い地位に就けて、彼らに力を与えてしまったのもAKP政権ではなかっただろうか。第一野党のCHPが、これを追及して、AKPの責任を問質していれば、今頃、違った展開が見られたかもしれない。

ところが、CHPは教団と協力し合う姿勢を見せ、教団と共に敗れてしまった。クルチダルオール党首はいったい何を期待していたのだろう?

前党首のバイカル氏であれば、政教分離主義の信念に基づき、教団と手を結ぶなどという姑息な手段は、絶対に認めなかったに違いない。今から思えば、2010年5月の“バイカル氏の失脚”は、CHPの改革でも何でもなかった。

信念の人バイカル氏には“教条的”という批判が絶えない。先週、5月6日付けのサバー紙では、メフメット・バルラス氏が、以下のようなバイカル氏の発言を紹介している。2000年代の初頭に、党の青年大会で演説した時のものだそうだ。

「CHPは、政権に就いていないかもしれないが、政権に就いている者たちは、CHPの理想に従って行動しなければならない。真の政権は、アタテュルクの政権である。政権に誰が就いているかなど重要なことではない。重要なのは、アタテュルクが政権に就いているかどうかだ。我々の目標は、アタテュルクの政権を継続させることである。政権に就いている時もこれを継続させる、政権に就いていなくても・・・」

これは確かに、とんでもない発言だけれど、青年大会の演説など、何処の党でも、景気づけに無茶苦茶な理想を掲げているのではないだろうか? 同時期のAKP青年大会を振り返ってみれば、エルドアン首相が“イスラムの理想”を掲げて、とんでもない話をしていたかもしれない。

CHPが健全な野党として蘇るためには、バイカル氏に再登板してもらうべきではないのか。教条的であるため、民衆の広範な支持は得られないだろうけれど、野党として“政権批判”の責務は果たせるはずだ。エルドアン首相もかつての教団との関係を、バイカル氏に舌鋒鋭く批判されたら困るに違いない。

ところで、教団は何処まで暗闘を続けるつもりなのだろう? 

昨年6月の末に教団の友人と会った。彼によれば、AKP政権と教団は決裂寸前だったが、ゲズィ公園騒動で、国内の左派・政教分離主義者ばかりか、海外のメディアもAKP政権のイスラム的な傾向に懸念を示して、非難の声が高まって来たため、自分たちも標的にされていると感じた教団の人々は、再びエルドアン首相のAKPと力を合わせて行くという話だった。

しかし、今考えて見ると、あの時点で教団が方針転換を図っていたようには到底思えない。友人も上層部の動向までは解っていなかったのではないか。

友人は、フェトフッラー・ギュレン師がイズミルで活動していた頃からの信奉者だそうである。教団が力をつけた後に群がって来た人たちとは違うだろう。“穏健なイスラム”などを標榜して、欧米から支援を受け始めた辺りから、教団は道を誤ってしまったような気がする。友人も、いつかは目を覚ますと信じたい。



5月14日 (水)  バイカル氏の失脚を図ったのは誰だったのか

「祖国を望む」というテレビ番組で、退役海軍中将のアッティラ・クヤット氏が語っていた。NATOの駐在武官としてヨーロッパに赴任していたクヤット氏へ、トルコ軍のクーデターを問い質そうとしたNATO高官は皆無だったそうだ。

何故なら、トルコが軍の統制下にある限り、欧米はトルコに対する要求を参謀本部へ伝えるだけで済み、議会の承認など得る必要がなかったからだとクヤット氏は説明している。

欧米が望んでいたのは、トルコの民主化などではなく、“欧米の言うことを良く聞くトルコ”だったというのである。

しかし、2007年以降、トルコ軍が政治介入を封印したので、欧米は軍を通して、トルコをコントロールすることが出来なくなった。その為、今度はフェトフッラー・ギュレン教団を使って、影響力を及ぼそうとした・・・という仮説を主張する人もいる。もちろん、何の確証もない“仮説”だが、それは次のように続く。

2009年になり、AKP政権が米国と微妙な距離を取り始めると、ギュレン教団はCHPに接近したものの、党首のバイカル氏がこれを認めなかったため、セックス・スキャンダルでバイカル氏を失脚させた。

果たしてどうなんだろう? 考えて見たところで、“バイカル氏の失脚を図ったのは誰だったのか”といったような謎解きは、結局、答えが得られないまま、様々な“仮説”と共に忘れ去られてしまうかもしれない。

でも、バイカル氏には、「トルコを、一から十まで外国の言いなりにされて堪るか!」という信念が明らかであるような気もする。この点に限り、バイカル氏とエルドアン首相は結構一致しているのではないだろうか。

さて、“YouTube”で観たので、いつの放送か良く解らないが、3〜4年前のものじゃないかと思う。ニュース番組でキャスターが、バイカル氏の話を聞いていた。バイカル氏は、夫人と一緒にエルドアン首相夫妻と会って懇談した時の様子を語っている。

その時、エルドアン首相のエミネ夫人は、バイカル氏の夫人に、「うちの主人がやったことの中で何か気に入ったものはありませんか? バイカル氏はここにいないと仮定して仰って下さい」などと訊いたらしい。

これにバイカル氏が割って入り、「エミネさん、貴方は大きな過ちを犯したね。それを妻じゃなくて私に訊いてくれたら、私は貴方たちがもっと喜ぶような返答をしてあげたよ。しかし、もう仕方がない。彼女はなんと答えるかな?」と揚げ足を取ったそうである。

キャスターは、「それで奥さんは何とお答えになったんですか?」とバイカル氏に訊く。バイカル氏は、「禁煙法だよ」と答えて愉快そうに笑った。そして、「エルドアン首相と会って話すこともある。でも政治の話はしないよ」と明らかにしていた。

これを観たら、『なんだ、国会では、いつでも一触即発みたいに罵り合っていたのに、家族で会ったら、そんな暢気な話をしているのか?』と拍子抜けしたけれど、その和やかさにホッとしたものだ。


“YouTube”より、「祖国を望む」のアッティラ・クヤット氏
http://www.youtube.com/watch?v=heFJ3KtsSCw

7月6日 (土) トルコ軍のクーデター
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2013&m=7



| 1 | 2 | 3 |