Diary 2014. 2
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2月1日 (土)  シェケル・パンジャル(サトウダイコン)

まだ1月29日だけれど、毎日、馬鹿みたいに何か書き続けていたら、この欄の日付では、もう2月になってしまった。1日にいくつも書ける設定にして置いてもらえば良かった。

さて、先日、近所の市場で、妙なものを見つけた。サトウダイコンらしい。トルコ語では“シェケル・パンジャル”という。「どうやって食べるの?」と訊くと、「茹でても良いが、油で揚げると美味しい」と言われた。

サトウダイコンなんて食べたことなかったけれど、糖分が多いのだから、澱粉質でイモみたいなものだろうと思って、一つ買ってきた。

まず切り分けて、皮を剥いた時の感触から、イモというより、やはりその名の通りダイコンに近いような気がした。

最近、あまり油は使わないようにしているので、一切れだけ、“油焼き”も試してみる為に取っておいて、後は全て水を張った鍋に放り込んで火にかけた。

茹でても、なかなか柔らかくならず、40分ぐらい煮込んだんじゃないかと思う。汁が煮詰まって来たら、甘い香りが漂い始めた。

ちょっと泥臭さも漂っていたが、火を止めて冷ましたところ、気になるほどではなくなった。

食べてみると、食感もダイコンに似ていて、とにかく甘い。ダイコンを砂糖で甘く煮たような感じだ。はっきり言って美味しくない。

次に“油焼き”を試してみた。糖分が多いので、ちょっと焦げてしまったが、こちらは、まあまあいけた。しかし、もう一つ買って来て、“油焼き”にしてみる気にもなれない。もう二度とサトウダイコンを買うことはないだろう。今はとにかく、出来た“甘煮”を残らず食べてしまわなければ・・・。

世の中には、けったいな食物があるものだと思った。


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp

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2月2日 (日)  トルコの反エルドアン−日本の脱原発

トルコの中央銀行が利上げに踏み切って、その影響が懸念されている。トルコに限らず、殆どの新興国に同様の動きが見られるそうだが、トルコの有権者たちは、果たしてどういう反応を見せるだろう?

2ヶ月後に迫った地方選挙に向けて、第一野党CHPのクルチダルオウル党首は、「信仰の自由は認める」とか「市場経済を重視する」などと明らかにして、イメージチェンジに努めている。けれども、その支持層から「ギリシャ人もクルド人もいらない」といった排外主義的な声が聞かれるようでは、何処まで変わったのか疑念を懐いてしまう。

“クルド和平のプロセス”についても、何か具体的なアプローチを見せているわけではない。この調子で、来年の国政選挙までに態勢を整えられるだろうか?

多くの識者も、CHPが過半数を取れるとは思っていないようだ。最悪の場合、票が微妙に割れて、かつての何も決められない“連立政権”に戻ってしまう可能性もある。

一昨日(1月27日)のラディカル紙のコラムで、タルハン・エルデム氏は、司法の信用が失墜した現況に苦言を呈しながら、このままではAKPの得票率がかなり落ちてしまうのではないかと危惧している。

そして、今後、地方選挙までの2ヵ月間に、エルドアン首相が、民主主義と“クルド和平のプロセス”に向けて、さらなる一歩を踏み出せるかどうかに、トルコの安定が掛かっていると言う。

エルデム氏の周囲には、「もうAKPには投票しない」と漏らすAKP支持者もいるそうだ。おそらく、エルデム氏の周囲にいるのは知識層に属する人たちだろう。私が暮らすイエニドアンの街では、逆に危機意識からなのか、AKPを支持する声が高まっているような気もする。

人口を考えれば、イエニドアンの住人のような人々の割合が遥かに高いと思う。実際、最新のアンケート調査結果でも、まだAKPは優位を保っているらしい。しかし、予断を許さぬ状況なのは確かであるに違いない。

エルデム氏は、以前のコラムで、もともとエルドアン首相を嫌っている人々の間に、「とにかくエルドアンを引き摺り下ろしてしまえ、後はどうなっても構わない」という空気が蔓延していると指摘していた。

反エルドアン派に、これといった展望がないのは明らかじゃないだろうか。とにかくエルドアン憎しで、“あとは野となれ山となれ”という感じがする。そして、エルドアン首相が躓いた場合、本当に“野となれ山となれ”になってしまう可能性が高いから恐ろしい。

こんなことを言ったら、また叱られるけれど、私には、最近、トルコの「反エルドアン派」と日本の「脱原発派」が何だか似ているような気がして仕方がない。「とにかく原発を潰してしまえ、後はどうなっても構わない」・・・。

日本では既に経常収支も赤字に転落したと聞く。いち早く安全性の高い原発を再稼動させるか、エネルギー消費を大幅に減らすかの瀬戸際であるかもしれない。工業用エネルギーを削るわけには行かないとしても、過剰なネオンサインぐらいは直ぐに止められるだろう。

東京都知事選の焦点が“脱原発”になっている様相だけを見るならば、「反エルドアン派」と「脱原発派」の多くは、第3次産業に従事する都市住民という点でも共通しているような気がする。生産には余り関与していないが、都市生活は多くの消費を伴う。地方への旅行なども随時楽しんでいる。相当なエネルギーを消費しているはずだ。

東京都民の使う電気が、地方の原発で生産されているのは問題だと言うけれど、地方で生産されて、東京都民が消費しているのは別に電気だけじゃない。食肉の消費量が最も高いのは東京23区だとして、23区内に牧場や養豚場はどのくらいあるだろうか?  

こんなつまらないことは言いたくなかったが、都知事選の報道を読んでいるとうんざりしてくる。なんだか、とても気分的なものが先行していて、現実感に乏しい。「議論の為の議論」を好む人たちが群がって騒いでいる感じもする。議論に勝とうと思ったら、“脱原発”と“平和”を持ち出すのが最善手だろう。平和を望まない人などいないし、原発もなるべくなら早く減らして行ったほうが良いに決まっている。まさしく無敵だ。

しかし、気分的なものは、多くの右翼的な発言にも感じられる。韓国憎し、中国憎しも、その後に、どういう展望があるのか見えてこない。

靖国神社参拝も、今の状況を見る限り、国際世論の批判にさらされただけのような気がするけれど、どうなんだろう? 太地のイルカ漁と同じであの批判をかわすのは容易じゃなさそうだ。でも、その背景にある伝統や信仰、人々の思いを考えたら、参拝を否定するのも、太地の人々に納得してもらう以上に困難であるかもしれない。

トルコも日本も難題ばかりで滅入ってしまうが、トルコの方は、成長期に見られる“生みの苦しみ”と考えることも出来るのではないだろうか? 日本の状況は、なかなかそう思えないところが悲しい。




2月3日 (月)  カスムパシャの暴れん坊

エルドアン首相を嫌う政教分離主義者(あるいは“白いトルコ人”)たちは、何故、あそこまで激しい嫌悪感を懐くのだろう? 

イスラム的な傾向が見られると言うのであれば、これはギュル大統領を始めとする他のAKP主要メンバーにも共通しているはずだ。

しかし、例えば、ギュル大統領などは、それほど嫌悪されている様子もない。強面のエルドアン首相に比べて、ギュル大統領は、その温厚な雰囲気が好意的に見られているのかもしれないけれど、かつて軍部のクーデターを熱望していた人たちが“強面”嫌いというのも、何だか変な気がする。

エルドアン首相には“カスムパシャの暴れん坊”という綽名がある。カスムパシャは、エルドアン首相が生まれ育ったイスタンブールの下町で、東京の浅草とか錦糸町、亀有といった感じじゃないかと思う。

この綽名は、支持者たちも好んで使っているが、反対派は、この“下町っぼい品の無さ”が嫌いらしい。つまり、“イスラム的”“強面”“下町っぽい”の三点セットで嫌悪感も倍増ということじゃないだろうか。

それから、エルドアン首相は、英語が余り話せないので、これも恐らく大きなマイナス要素になっている。トルコでは、歴代の首相や大統領の多くが、英語もしくは独語などに堪能だった。現在のギュル大統領も、非常に流暢な英語を話す。

その他、10年前にエルドアン首相が就任した頃は、ギュル氏との比較で、随分馬鹿々々しい批評もあった。両氏の夫人の着こなしを比べた場合、エルドアン首相のエミネ夫人は野暮ったくて、酷く見劣りがすると言うのである。

確かに、やたらと金ピカで、あまりセンスの良さは感じられないかもしれない。私も冗談に「成金の有閑マダムみたいだ」なんて揶揄したりしていた。しかし、新聞のコラムで論じるような話題じゃないだろう。それを少なからぬ識者たちが大真面目に論じていたのは、今、思い出しても馬鹿らしい感じがする。

“又聞き”の“又聞き”ぐらいだから、少々眉唾だけれど、両夫人の比較では、こんな話もある。エミネ夫人が、外遊先などで何かプレゼントされても、価格を確かめて、「そういう高価なものを個人的には頂けません」と断り、国への寄進として処理するのに対し、ギュル大統領のハイリュンニサ夫人は、そのまま受け取ってしまったりするそうだ。

しかし、これが事実とすれば、多分、結婚する前にイスラム運動の婦人部で活躍していたエミネ夫人と異なり、ハイリュンニサ夫人にはそういった社会経験がなかったことに起因しているのではないだろうか。

いずれにせよ、エルドアン首相が、人々の間で根強い人気を誇っているのは、反対派が嫌悪する“イスラム的”“強面”“下町っぽい”の三点セットにあるんじゃないかと思う。 人々は、“カスムパシャの暴れん坊”と“ちょっとセンスのない下町の肝っ玉母さん”に拍手喝采している。

反対派は、これを理解しない限り、選挙で過半数を獲得するのは難しいような気がする。


2月4日 (火)  AKP政権とフェトフッラー・ギュレン教団の対立

昨日(1月31日)のラディカル紙のコラムで、オラル・チャルシュラル氏は、BBCのインタビューに答えたフェトフッラー・ギュレン師の発言の中から、“クルド問題”に関する部分を取り上げ、解説していた。

“クルド和平のプロセス”で、クルド武装組織PKKとも交渉しているAKP政権に対して、フェトフッラー師は、「組織と交渉は可能だが、・・・国家の尊厳と名誉を守りながら交渉すべきだ」と批判している。 

チャルシュラル氏の解説によれば、前後の発言から、フェトフッラー師が、PKKをテロ組織と看做しているのは明らかで、クルド問題の解決は、“教育”“厚生”“治安”“貧困の撲滅”によって得られると主張しているそうだ。

チャルシュラル氏は、フェトフッラー師が、“クルド人のアイデンティティー”“自治の要求”といった問題から目をそむけていると指摘しながら、「これでは、国家の以前の見解との相違を見出すことさえ難しい」と述べている。(以前、トルコ国家は、南東部が経済や教育の面で立ち遅れている為に問題が生じたと主張して、“クルド問題”という言い方も否定していた。)

この指摘は、非常に興味深い。フェトフッラー師の教団も、かつてはPKKと同様に、国家から危険分子と目されていたはずだ。それが今や、当時の国家と余り変わらない見解を明らかにしている。

ところが、現在、“国家”のほうは、AKP政権と共に“クルド和平のプロセス”を推し進め、イムラル島で拘束されているPKKのオジャラン党首もこれに協力する姿勢を見せているのである。

以下にお伝えしたテレビの番組で、“トルコのエスタブリッシュメント”に属すると思われるジャン・パケル氏は、「今、トルコには、民衆から強い支持を得た2人の政治指導者がいる。一人はエルドアン、もう一人はオシャランである」とまで言い切っていたほどだ。

1月10日 (金) トルコのエスタブリッシュメント
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2014&m=1

最新の世論調査によれば、AKP政権が“不正事件”を“教団の陰謀問題”にすり替えようとしているにも関わらず、大多数の国民が「不正の事実はあるだろう」と見ている。しかし、AKPの支持率も殆ど落ちていない。つまり、不正の疑いを認めながら、AKPを支持する人々が少なくないのである。まさしく「不正にもぶれない強い支持」と言えるかもしれない。

私の周囲にいるAKP支持者の中にも、政府の発表を鵜呑みにしている人は全くいない。ハルク銀行の頭取宅から出て来た大量の札束について、「あれはイラン絡みの金じゃないのか?」と疑う友人もいる。彼はそう言いながら、「そんなことがバレたら、トルコは大変な苦境に立たされてしまう。教団はなんて真似をするんだ」と非難の矛先を教団に向けていた。

世論調査の結果を見ても、フェトフッラー・ギュレン教団へ支持を明らかにしている人の割合はいくらでもない。特に他のイスラム各教団からは、総スカンの状態である。今回、フェトフッラー師がBBCのインタビューを受けたことで、さらに印象は悪くなったかもしれない。「やっぱり欧米の手先という噂は本当だったのか・・・」と感じた人も少なくないだろう。

2月19日 (火) アライルとメクテップリ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=2

長年、宗教教育に携わって来た友人は、アライル(正規の学校教育を経ずに知識を身につけた人)とメクテップリ(正規の学校教育を受けた人)という言葉の違いについて説明しながら、「フェトフッラー・ギュレン師は“アライル”だ」と評していた。

友人の言う通り、フェトフッラー師は、神学部等を出ているわけじゃないらしいが、教団には、一流の大学を卒業したエリートも多い。しかし、政権寄りのジャーナリストによれば、このエリートたちは、貧しい家庭の子供を、師が引き取って育てた成果であり、その為、彼らは“師への忠誠”を違えることがないそうである。(仮に、一部そういう例があるとしても、それが全てであるとはちょっと信じ難いが・・・)

【176】フェトフッラー・ギュレンの活動と新たなる冷戦【ラディカル紙】【2007.11.05】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00176.html

この記事でも、仄めかされているように、フェトフッラー・ギュレン教団は、冷戦の最中に、反共勢力として培養され、冷戦後は“穏健なイスラム”を広める目的で、欧米から支援を受けて来たと囁かれている。こういった背景により、90年代までは、トルコ軍とも良好な関係があったらしい。

それが今では、トルコ国内で孤立してしまった為、さらなる欧米の支援を取り付けようとBBCのインタビューを受けたのではないかと穿った見方を示す識者もいる。

おそらく、騒動が収まった後になって、事実は、ある程度明らかになるのだろう。

イスタンブール・シェヒル大学のブルハネッティン・ドゥラン(Burhanettin Duran)教授は、“教団”という存在そのものを認めない従来の政教分離が、フェトフッラー・ギュレン教団を不透明な構造に導いてしまったと分析しながら、これを機会に、各“教団”の宗教活動も認める方向で、新しい政教分離を模索して行かなければならないと論じていた。

“禍を転じて福と為す”じゃないけれど、こういう前向きな議論は、今後の展開に期待を懐かせてくれると思う。


2月5日 (水)  凍土の共和国

「凍土の共和国」という北朝鮮の悲惨な状況を伝えた本がある。私はこれを高校卒業して間もない頃に読んだような記憶があったけれど、ネットで調べてみたら、同著が出版されたのは84年となっていた。

どうやら、卒業して8年以上経ち、韓国への語学留学を考えていた86年頃になって読んだようである。おそらく、高校時代から韓国には興味を持っていたと思うが、それは中国への関心に付随していただけかもしれない。中国〜西域〜モンゴル〜トルコというシルクロードのメインストリートから、韓半島は大分外れていた。

86年から87年にかけては、韓国・朝鮮に関する本を相当読んでいたはずだが、今、思い出せるのは、四方田犬彦、関川夏央両氏の著作ぐらい。北朝鮮関連では、「凍土の共和国」の他に、もう一冊思い出すが、書名を覚えていない。数人の著者による紀行集だった。

北朝鮮政府に招待されて、共に同地を訪れた人たちが、帰国して直ぐに書いたのではないかと思う。その中で、明治大学の学長という人物の紀行がとても面白かった。

多分、歓待を受けていながら悪くは書けないという制約を感じていたのだろう。徹頭徹尾、北朝鮮を褒めているけれど、その対象は余り好ましくない事実ばかりで、何だか“褒め殺し”であるとしか思えない内容だった。

例えば、平壌有数の建築物を訪れて、高さも揃っていない歪な階段に気がつくと、「この階段は、機械など使わず、労働者たちが、その血と汗で作り上げたのだろう」といったような調子で褒め上げ、“感動”してみせる。

北朝鮮政府が手配したベンツに乗って、平壌の街を走れば、子供たちがベンツに向かって最敬礼すると記しながら、「子供たちは、ベンツに乗っているのが地位の高い人であると知っているから最敬礼で迎える。目上の人に対する礼儀を忘れた日本の若者に見せてやりたい」というような感じで、これも称賛の対象にしてしまう。

あれほど巧妙な“称賛”には、なかなかお目にかかれないような気がする。もの凄く嫌味な文章でもなかった。歓待されたのに悪く書いて方々に迷惑は掛けたくないし、かといって嘘も書きたくないと苦心されたのではないかと思う。

しかし、その紀行集で、面白くて印象に残ったのは、これだけだった。後は余りにも嫌らしくて覚えているのが一つある。

本当に北朝鮮を称賛していると思われる左翼の人が書いた文章で、のっけから「あの成田空港は絶対に使いたくないので、一行とは別のルートで向かった」などと得意そうに書き出している。

成田の用地買収には不正があったとか何とか言いたいのなら、新幹線の建設にもあっただろうし、これに電力を供給している原発もかなり怪しいに違いない。成田から飛ぶどころか、成田まで移動するのも不都合がありそうだ。日常生活も送れやしないだろう。

別に腹を立てる必要もないが、学長さんの“気配り”に比べて、なんと傲慢な態度なのかと思った。こういう人たちは、「あちらを立てれば、こちらが立たず」なんて悩んだりはしないのかもしれない。



2月6日 (木)  断絶された朝鮮の歴史

やはり86年頃だったと思う。韓国関連の本の中で、司馬遼太郎と鮮于W(ソヌ・フィ)の対談に、強い感銘を受けた。鮮于Wは、韓国の小説家で、司馬遼太郎とほぼ同年輩の人物である。

それが対談の中の会話だったのか、鮮于W氏によって加筆された文だったのか、その辺りも良く覚えていないけれど、鮮于W氏は次のように述べていた。(例によって、うろ覚えだが・・)

「今の日本の若い人たちは、戦前の日本人より、自分たちのほうが国際的であると思っているかもしれないが、とんでもない。戦前の日本人は遥かに国際的だった。・・・・・・私は、日本の若い人たちが大学で、例えば、タイ人の先生から授業を受けている未来を想像したりする。日本にはその力があると思う・・・」

多分、70年代の後半か80年代の前半に出版された本だから、“今の日本の若い人たち”というのは、私の世代〜団塊世代ぐらいを指しているはずだ。

確かに、戦前の日本は“多民族国家”であったし、国際感覚にも優れていただろう。でも何だか、鮮于W氏は、日本を買いかぶり過ぎていたかもしれない。鮮于W氏が夢みた未来は、ちょうど今ぐらいの時代じゃないかと思うが、果たして今の日本に、それだけ多様化を図れる力があるだろうか?  

しかし、最近、活躍の場を求めて海外に出て行く若いスポーツ選手や科学研究者の話題に接すると、『いや、出来るのではないか』と思えてくる。ついでに、政治家さんも40歳前後まで若返ったほうが良さそうだ。どうも、私の世代やその上が問題であるような気がする。

俺の墓に唾を吐け
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=30&y=2014&m=1

この「俺の墓に唾を吐け」に描かれた昭和18年頃の日本、東京士官学校に入学していた朴正熙について、当時、中央大学で学んでいた金鍾吉氏は、「あの頃が、朴正熙の人生で最も楽しい時期だったんじゃないのか?」と回想したそうだ。

まだ空襲もなく、東京の街は平穏だったらしい。そういう記述はないけれど、それほど差別はなかったようにも受け取れる。

私の想像に過ぎないが、韓国人等への差別は戦後になって、激しくなったのではないか。これについては、戦後に第三国人として、彼らが横暴を働いた所為だとか、いろいろ言えるかもしれない。しかし、その後、私たちの世代になっても、日本人はかつての度量を取り戻せなかった。鮮于W氏は、これが言いたかったのだろう。

今、お騒がせの都知事選に出ている舛添さんによれば、戦時中、九州では、選挙の際、朝鮮人の有権者のために、ハングルの広告が配られていたそうだ。それが、今の日本はどうか? 「舛添は朝鮮人!」なんてネットに書き込む奴らがいる。

戦前は、それこそ世界中で戦争していた。言うなれば戦国時代みたいなものに違いない。その中で、日本の軍人と政治家は、見通しを誤り、分不相応な拡大戦略を続けた結果、日本を亡国の淵まで追いやってしまった。

しかし、この戦争を命懸けで終局に導いたのも、軍人だった。鈴木貫太郎首相と阿南陸相。阿南陸相が終戦に同意しながら、陸軍を制御するため、腹芸を演じていたという説が何処まで正しいか解らないが、終戦を迎えると、阿南陸相は、鈴木首相と東郷外相に暇乞いを告げてから、腹を切ったらしい。

維新の英傑にだって、功名心や出世欲はあったに違いないが、敗戦の幕引きをした人たちは、どんな気持ちで奔走したのだろう? まさしく無私の決意だったような気がする。この決意があれば、今の日本の難局を打開するぐらい、わけないと思う。

阿南陸相について、ちょっと調べて見たところ、四男の方が、現在も靖国神社の氏子総代を務めているそうだ。参拝を否定するのも、未だ簡単には出来ないのではないだろうか? 

私も30年前、飯田橋に住んでいた頃は、初詣に靖国神社へ行った。浅草に近ければ、浅草寺へ行っただろうし、神社と寺の区別さえ意識していなかったけれど、あの辺であれば、屋台がたくさん出ていて、正月気分に浸れるのは靖国神社だったからである。

私は、神社にも寺にも、関心が相当低いほうの部類じゃないかと思う。それでも、例えば、中学校時代、お伊勢参りに行ったのは良く覚えている。機会があれば、もう一度ぐらいは訪れたい気がする。

伊勢から奈良、京都へ掛けて旅すれば、日本の歴史そのものが感じられる。私だけじゃなくて、多くの日本人が嬉しくなるに違いない。

ふと思ったけれど、韓国の人たちは、これほど優雅に、歴史を感じながら旅を楽しめるだろうか? 高句麗、高麗、李氏朝鮮までは良いが、そのあとは何処へ行っても、日本の影が見えて来る。朝鮮の王朝の歴史は、1910年に途絶えてしまった。

朝鮮の王朝が慕われていたのは、日本の皇室から嫁いだ李方子妃へ、解放後も、韓国の人たちが変わらぬ敬愛の念を示し続けたのを見れば解るような気がする。

また、戦後、韓国にあれほどキリスト教が普及したのは、国家神道を押し付けていた日本が撤退して、信仰のエリアに大きな空白が生じてしまったからではないかと思う。

このように、私たち日本の歴史も切断され、皇統が途絶えていたら、どうなっていたか? 想像しただけで、耐え難い痛みを感じる日本人は少なくないだろう。阿南陸相は、その歴史の連続性と皇統を守るために腹を切った。



2月7日 (金)  朝の国から

88年、ソウルでオリンピックが始まる少し前か、あるいは開催期間中だったかもしれない。同じ語学学校に通う、在日韓国人の友人と連れ立ってトクスグン(徳寿宮)公園に行ったら、NHKの取材班が来ていて、何やら撮影の準備をしていた。

ちょっと記憶が怪しいけれど、カメラ等がセットされている脇の芝地に茣蓙が敷かれ、“お花見”のように座り込んだ人たちが、飲食を楽しんでいた。

その中に、派手なチマチョゴリの衣装を纏った30歳ぐらいの女性がいて、一緒に座っている初老の女性と談笑している。距離があって、会話まで聞き取れなかったが、「オモニ(お母さん)」と呼んでいるのを聴いたような記憶がある。

女性は歌手のキム・ヨンジャさんだった。多分、私は良く解っていなかったけれど、友人が「おっ、あれはキム・ヨンジャじゃないか」と教えてくれたのではなかったかと思う。

撮影の準備が整うと、ヨンジャさんは“お母さん”に声を掛けてから茣蓙を離れ、カメラの前に立って、司会者と日本語でやり取りしながら、その場を盛り上げ、最後に“朝の国から”を熱唱した。

“朝の国から”は、オリンピック賛歌になっていたから、さすがに私も良く知っていた。作曲は吉屋潤(よしや・じゅん/キル・オギュン)、この方の人生も凄い。

以来、この歌がもっと好きになったし、ヨンジャさんとは話したわけじゃないが、カメラが回っていない所で、周りの人たちと接している様子を見ていると、気取らない自然な雰囲気が感じられ、とても良い印象を受けた。

昨年の暮れ、突然、この歌が聴きたくなり、“YouTube”で以下のクリップを見つけて、耳を傾けたら、何だか25年前のソウルの日々を思い出して、目頭が熱くなってしまった。

それから、他の歌も聴いたりしていて、“キムヨンジャ 歌とトーク”というクリップが目についたので、ちょっと聞いてみたところ、「パワーがついたのは、15歳の時から、キャバレーで歌ったりしたが、お客さんが大酒飲んで騒がしくしているのに、負けないよう声を張り上げたので・・・」なんて、あっけらかんと楽しそうに話している。

とても辛く悲しい記憶であるはずだけれど、それを率直に楽しそうに話してしまう。もの凄い人だと思った。

キム・ヨンジャさんは、今年も新曲を出して、元気一杯に頑張っているようだ。いろいろ難しいことなど考えなくても、キム・ヨンジャさんみたいな人が千人もいれば、日本と韓国の間の問題なんて、たちどころに解決してしまいそうな気がする。


朝の国から
http://www.youtube.com/watch?v=eLSLmh8-aKs&feature=youtu.be

キムヨンジャ 歌とトーク集06 演歌百撰
http://www.youtube.com/watch?v=ylVSjrCoQSo




2月8日 (土)  イスタンブールの“ジャパン・フェスティバル”

94年の夏、イスタンブールで“ジャパン・フェスティバル”が開催された。狂言に日本舞踊など、伝統芸能や歌謡の公演もあったが、私はその公演会場で、準備期間中からアルバイトしていた。

狂言は大蔵流という流派で、公演された方たちの名前までは思い出せなかったが、ネットで調べてみたところ、大藏基誠という狂言師のプロフィールの海外公演記録に、“1994 Turkey(Istanbul)”と記されている。

大藏基誠
http://ohkurakyougen.jp/

79年生まれというから、どうやら、一座の最若手だった少年が、この大藏基誠さんらしい。当時、彼には、まず驚かされた。何処で習って来たのか、トルコ語をかなり知っていたからである。

狂言の舞台では、トルコの子供たちにも演じてもらう場面があり、万が一、通訳等の手配がつかない場合、彼が子供たちに演技の要領を伝えるつもりだったそうだ。たった2回の舞台の為に、なんという執念なのかと感嘆した。

一座は、前日から公演会場に来て、何度も稽古を繰り返していたけれど、稽古を舞台下から指導していた座長さんが、一度、手本を見せようと舞台へ飛び上がったことがある。この時も驚かされた。腰ぐらいの高さの舞台へ静かに近づくと、音もなく、まるで忍者のようにスッと飛んだ。凄い跳躍力だった。

もちろん公演は大成功で、演じた子供たちの親御さんなどは、それこそ気も狂わんばかりに喜んでいた。

日本舞踊を演じられた花柳流の家元は、おそらく以下にある三代目花柳壽輔さんではなかったかと思うが、残念なことに、2007年に亡くなられたようである。

花柳壽輔 (3代目)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%9F%B3%E5%A3%BD%E8%BC%94_(3%E4%B8%96)

この方の舞台でも、その芸にかける情熱と、周囲のスタッフへの気配りに、私は身も震えんばかりに感動した。

公演前日の晩に、海部元首相主催の夕食会だか何だかあって、家元にも参加の是非をお尋ねしたところ、まだ稽古があるから出席できないと大変恐縮された様子だった。そして、会場に残って入念な稽古を繰り返されていた。

しかし、なんと恐ろしいことに、当日は、プログラム上の手違いから、公演の時間がどんどんずれ込んでしまい、花柳流の舞台は、予定より2時間余りも遅くなってしまったのである。

遅延が明らかになり、控え室へ御報告に伺うと、家元は予定通りに重い衣装を着けられ、待機されていたけれど、嫌な顔一つ見せず、にこやかに「もう準備できていますから、いつでも舞台に立てます。ご心配なく」と仰る。それから、さらに遅延時間が増えるたびに、何度も御報告に上がったが、いつもお答えは同じだった。

結局、夜の9時ぐらいになって舞台が始まった頃は、観客席も半分ぐらいしか埋まっていない状態だった。その中で入魂の舞台を演じられたのち、トルコ人のスタッフとも一人一人握手を交わされ、礼を述べてから会場を後にされた。今、思い出しながら書いていても、目頭が熱くなってしまう光景だった。

実を言えば、私は狂言も日本舞踊も全く解っていないけれど、全身から伝わって来るような気迫だけで、とにかく圧倒されてしまった。日本の伝統芸能は凄いと思う。


2月9日 (日)  “ジャパン・フェスティバル”の某演歌歌手

94年の“ジャパン・フェスティバル”では、某女性演歌歌手の公演もあり、私がその司会役を任された。

司会役を命じられたのは、当日の朝になってからで、会場のロビーで簡単な打ち合わせがあった。その時、某歌手にも紹介されたが、彼女は、「よろしくお願いします」と頭を下げた私の方を見るでもなく、何も言わずに後ろへ下がり、打ち合わせに加わることもなかった。

前日は、一応、リハーサルの為、会場に現れていたが、予定曲の中から一曲、それも一番だけを歌って“リハーサル”を済ませると、例の海部元首相の夕食会だか何だかへ行ってしまった。

さて、当日の朝の打ち合わせは、ごく短いものだったが、司会者の台詞を渡され、それをトルコ語へ訳さなければならなくなった。

司会には、もう一人トルコ人の女性も立つことになっていて、台詞を私が日本語で読んだ後に、彼女がトルコ語訳を読むという手筈になっていた。

途中に一つ、かなり長い台詞があって、マネージャーさんによれば、そこで某歌手が衣装替えに入るため、「出来る限りゆっくり読んでもらいたい」という指示だった。

それで、午後になってから、トルコ人女性にトルコ語訳を見せて、少し手直ししてもらうと、一通り読み上げる練習をしながら、ゆっくり読む部分にも留意した。

当日は、もうリハーサルを行なう時間などなかったから、我々司会者は殆どぶっつけ本番と言って良かった。舞台に上がったら、さぞ緊張するんじゃないかと思っていたけれど、スポットライトを浴びたら、観客席は真っ暗になって何も見えなくなったので、それほどでもなかった。

某歌手とはアドリブのやり取りもあって、その時初めて彼女と会話したが、朝の態度が信じられないくらい、にこやかで馴れ馴れしいのに驚いた。

数曲歌って、彼女が舞台から退くと、代わりに私たちが出て行って、ゆっくり台詞を読んだ。読み終わったら、退くことになっていたから、そのまま舞台の袖まで戻って来ると、マネージャーさんは、「うーん、ちょっと早かったなあ。未だ衣装替え終わっていないんですよ。でもしょうがない。私の書いた台詞が短過ぎました」と言いながら、とても困った様子だった。

それからの出来事である。衣装替えを終えて、舞台の袖に姿を現した某歌手は、誰に向かうともなく、大きな声で、「舞台の上に誰もいないじゃないのよおー! 打ち合わせはどうなっているのよおー!」と四方に怒鳴り散らした。あれは観客席まで響いたのではないかと思う。そのぐらい大きな怒鳴り声で、私も肝を潰した。

マネージャーさんは怯えたような面持ちで、「もう一度舞台に出て、とにかく何か話して下さい」と私に懇願する。仕方ないから、ふらふらと出て行って、つまらないことをトルコ語で喋ったら、その内容が受けたのか、下手なトルコ語が可笑しかったのか、観客席がどっと沸いた。ホッとして後ろを向いたら、某歌手がにこやかな笑顔で、意気揚々と歩いて来るのが見えた。

まあ、この歌手さんには驚いた。後でスタッフから聞いたところによると、歌は一曲を除いて、全て口パクだったそうだ。リハーサルなど必要なかったのである。




2月10日 (月)  イスタンブールの外れ

先週の火曜日から、イスタンブール市内の工場へ通訳業務に出ている。今週の木曜日まで続くらしい。

斡旋してくれたエージェントの人が、「イスタンブールの外れで大分遠いようですが、朝8時に着けますか?」と心配していたけれど、調べてみたら何のことはない、うちから歩いて30分〜40分で行けそうな場所だった。僻地に住んでいても、たまには良いことがある。

初日は、歩いて行くつもりでいたが、ちょっと家を出るのが遅くなり、用心のため、途中までバスに乗って、そこから歩くと20分ぐらいで工場に着いた。

かなり規模の大きい工場で、従業員の送迎用ミニバスが何台も来ていたから、『もしや』と思って訊いたところ、やはり家の近くを通る送迎がある。

歩いたほうが健康には良いけれど、送迎に乗れば、従業員の人たちとも仲良くなれるので、これを利用することにした。実際、直ぐに打ち解けて話も弾み、先週の3日間で、随分親しくなったように思う。

さて、日曜日は休んで、今朝、また送迎の通る交差点に出て、待っていたが、何か変更でもあったのか、これがいつまで経っても来ない。仕方ないので、少し先のバス停まで移動して、今度はバスを待つことにした。もう歩いて間に合う時間じゃなかった。

『やれやれ』とため息ついて、バスを待っていたら、何やら後ろの方で私を呼ぶ声がする。振り返ると、同じ送迎の仲間が、手招きしていて、その向こうに送迎が止まっていた。

どうやら、交差点の角に待っている人がいなかった為、送迎は交差点を横切ってそのまま行こうとしたけれど、誰かがバス停の前にぼんやり立っている私を発見してくれたらしい。運転手さんも、「渋滞で遅くなってしまったんだよ。まあ乗れたから良かった」と喜んでいた。

こうして、せっかく皆と仲良くなったのに、後、3日でお別れとは、何だか残念な気がする。

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