Diary 2014. 12
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12月1日 (月)  聖ゲオルギオス大聖堂のミサ/ヘイベリ島の神学校

昨日(11月30日)、聖ゲオルギオス大聖堂で、ローマ法王臨席のもとに営まれたミサの模様は、以下の“YouTube”から観ることができる。↓

Pope Francis held a joint service in Istanbul together with Patriarch Bartholomew
http://www.youtube.com/watch?v=J_MuNYUpLK0

荘厳で音楽も美しい正教のミサを、ローマ法王も堪能されたのではないか、と私は勝手に思っている。

2012年のクリスマスには、私たちも、ここでミサを見学したから、映像を観ていて何だか感慨もひとしおである。

12月25日 (火) クリスマス・ミサ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=20&y=2012&m=12

ローマ法王の来訪で、昨日から色んな“YouTube”の映像を観た中に、以下のような場面もあった。宗務庁が2年前に配信した映像らしい。宗務庁のメフメット・ギョルメズ長官が、コンスタンティノポリ総主教庁にバルソロメオス総主教を訪ねて会談している。↓

Diyanet
http://www.youtube.com/watch?v=9easQs14VBw&feature=youtu.be

会談後の記者会見で、ギョルメズ長官は、「これほど豊かな歴史のある国が、宗教家を育成する為に、他国を必要としているのは、この国の歴史、文化、文明、そして偉大さに全く相応しくない・・・」と語り、ヘイベリ島(ハルキ島)で閉鎖されたままになっている神学校の再開へ意欲を示している。

バルソロメオス総主教も卒業生の一人であるヘイベリ島の神学校は、オスマン帝国時代の1844年に創設され、共和国革命以降も活動を続けていたが、1971年、トルコ政府が教育省の管轄に組み入れようとした為、これに抵抗したコンスタンティノポリ総主教庁は学校を閉鎖したそうである。

この10年ぐらい、神学校の再開は絶えず議題に上がっているものの、ギリシャ共和国で少数派となっているムスリムにも、同等の権利が与えられるべきだという反発の声もあり、なかなか進展していない。

ギョルメズ長官も上記の発言に続けて、ギリシャ共和国のトラキア地方に住むムスリム住民から、アテネのモスク建設に関する要望が寄せられていると明らかにしていた。

ヘイベリ島の神学校へは、3年ほど前、様子を見に出かけたことがあるけれど、やはり内部は見せてもらえなかった。しかし、クルドやアレヴィー派の問題と共に、こちらの解決も、もう後一歩の所まで近づいているのではないかと思う。


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp

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12月2日 (火)  ルムの民族学校

昨年の11月、コンスタンティノポリ総主教庁の近くにあるルムの高校(ギリシャ民族学校)を見に行って、辺りを歩いていたら、やはり学校のような古い建物の前に人々が集まっている。訊くと、そこもかつてはルムの民族学校であり、その日は、展覧会が催されていた。

*ルム:
≪ルムとは「ローマ人」のことであり、トルコに住んでいるギリシャ人は、自分たちを、ギリシャ共和国のギリシャ人(ユナンル)と区別して、必ず「ルム」と称している。千年の都コンスタンティノポリで暮らすルムの人たちにとって、ユナンル(ギリシャ人)というのは少し田舎者のように聞こえるらしい。≫

もう随分前に廃校になったそうだが、教室には机や椅子がそのままになっていた。良く見れば、各教室の前に生徒の名簿の一部らしきものも張り出されている。

ある教室には、「1987〜1988学年 中等第3教室」という表示の下に、3人の女生徒の顔写真付き名簿が貼り付けられていた。各々の名は、アントヴァネット、マリア、ナターリアで、マリアさんはイスタンブール、アントヴァネットさんは、シリア国境に近いハタイ県アルトゥノズの生まれのようである。

彼女たち、1973年生まれと記されている。多分、スザンナさんと同じぐらいじゃないだろうか。スザンナさんの友人でハタイ県出身のデスピナーさんは、総主教庁のあるバラット地区に住んでいると話していたから、ひょっとすると知り合いかもしれない。

バラット地区には、昔、ルムの他にユダヤ人も多かったと言われているが、おそらく50年代〜60年代に、彼らが去ってしまうと、その後は東部や南東部から出て来た貧しい人たちが居住し始めたらしい。ハタイ県出身のアラブ系正教徒の住民も少なくないようである。

デスピナーさんは、以前、デルヤ・ツアーというギリシャ行きのバスを運行している会社で働いていた。2004年〜2006年に、私は何度か彼女からギリシャ行きのチケットを買ったことがある。

チケットを購入する際、ギリシャの状況を確認しようとしたら、直ぐギリシャに電話して問い合わせてくれたので、私は彼女がギリシャ語を母語とするルムなのかと思った。

2005年頃、当時、間借りしていた所の家主だった故マリアさんに訊いても、「ルムで私たちの良い友人だよ」と言うから、それで納得していたが、実のところ、デスピナーさんの母語はアラビア語であり、ギリシャ語が解るのは、イスタンブールの民族学校で学んだお陰らしい。

マリアさんが亡くなってから、一度、スザンナさんを訪ねて来たけれど、傍で2人の会話を聞いていると、デスピナーさんはそれほど流暢にギリシャ語を話せるわけでもないようだった。かなり頻繁にトルコ語が出て来てしまうのである。

スザンナさんとデスピナーさんは同い年ぐらいに見えたが、同級生ではなかったと思う。スザンナさんは中学を卒業すると、ギリシャへ渡ったそうだし、中学校もバラット地区には通っていなかっただろう。

良く解らないが、デスピナーさんは、スザンナさんというより、故マリアさんの友人だったような気がする。

マリアさんは、相当な資産家のお嬢さんとして育ったらしいが、どんな人とも分け隔てなく付き合っていた。「昔、この街(ジハンギル)には、私たちルムや上級のトルコ人しか住めなかった」などとぼやいたりすることもあったけれど、隣の貧しい夫婦にはいつも優しく声をかけていた。

何より、民族や人種に対する偏見が殆ど感じられなかった。我々東洋人にも全く偏見はなかったに違いない。

「イスタンブールには美しい都市にあるべき全てのものがある」と言って、この都市をこよなく愛していたけれど、もともとオープンで世界的なイスタンブールがとても良く似合う人だったのではないだろうか。

マリアさんがバルソロメオス総主教を敬愛してやまなかったのも、この辺に理由があったのかもしれない。

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12月3日 (水)  焼け石に水?

イスタンブールは、今朝、未だ少し雨が残っていたけれど、昼過ぎから晴れ渡り、気温も20℃近くまで上がったのではないかと思う。

出先から陽の明るい内に戻って来られたので、カメラを持って、ちょっと裏山に登ってみた。

こんなすっきり晴れたのは、多分、10日ぶりぐらいだろう。少し歩かないともったいないような気がした。それに、裏山から見えるパシャ・キョイ村のダム湖の水位も気になっていた。

この写真では解り難いが、ダム湖の中ほどに未だ中州のようなものが見えていて、何だか余り水量は増えていない。10日ほど、しょぼしょぼ降っただけでは、“焼け石に水”なのだろうか? まあ、冬は始まったばかりだから、あと2〜3ヵ月、鬱陶しい天気が続いて、どうにかなるのかもしれない。

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12月4日 (木)  ピーナッツ

ウイキペディアの記述によれば、日本に輸入されているヘーゼルナッツの95%はトルコ産であるという。↓

ヘーゼルナッツ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84

しかし、スーパーやナッツの専門店で買い求めても、ヘーゼルナッツは結構する。アーモンドも同じくらい、ピスタチオはもっと高い。

それで、私はもっぱらピーナッツを食べている。これが一番安い。トルコはピーナッツも栽培していて、生産量は日本の7倍ぐらいになるようだ。

とはいえ、世界のランキングでは28位とそれほどでもないらしい。↓

落花生の生産量 国別ランキング統計・推移
http://www.globalnote.jp/post-1052.html

このサイトで調べたところ、アーモンドは8位、ピスタチオは3位の生産量を誇っている。ピーナッツが安いのは、もとより安上がりな作物だからなのだろう。安上がりな私にはぴったりの食品かもしれない。

ところが、この安いピーナッツが最も買い求め難い。イエニドアンの辺りでピーナッツを買うと、古くなって劣化していることもある。新鮮で美味しいピーナッツはなかなか見つからない。

ヘーゼルナッツやアーモンドなら問題は無いのに、どうしてなのか首を傾げたくなる。この辺の人たちは贅沢に出来ていて、安上がりなピーナッツなど口に合わないのだろうか? そんなことはないと思うが、ピーナッツは余り流行っていないようである。

それで、ピーナッツは、カドゥキョイまで行った時に、船着場近くのナッツ屋さんで買うことにしている。この店のは、いつも新鮮で美味しい。イエニドアンに限らず、これほど美味いピーナッツは、そう簡単に見つからないと思う。

イエニドアンに引越す前のエサットパシャでは、直ぐ近くのナッツ屋さんのピーナッツが、やはり同じくらい美味しかったけれど、当時はその有難みが良く解っていなかった。

ナッツ屋のおじさんは、好奇心旺盛な人で、日本についてもあれこれ調べていて、よく質問攻めにされたが、自分ところの商品もちゃんと調べていたようだ。「ピーナッツの仕入先を変えたんだが、どうだろう? こっちの方が美味いと思うんだが・・・」なんて訊かれて、味見させられたこともあった。

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12月5日 (金)  バルソロメオス総主教

Bartholomeos, Giresun
http://www.youtube.com/watch?v=qHL9wYB5Vhk

この“YouTube”の映像↑は、昨年、黒海地方のギレスンで撮影されたらしい。バルソロメオス総主教が、どういう目的で同地を訪れたのか、映像に何の説明も無いため良く解らないが、博物館や遺跡、高校、大学などを視察している。

バルソロメオス総主教は、1940年の生まれで、昨年、73歳になっていたはずだが、階段を上ったりしている姿を見ると、とても動きが軽い。高校の視察を終えて出て来た所では、少年が蹴ったボールをほいと蹴り返している。学問だけでなく、体の鍛錬も怠っていないのではないだろうか?

総主教を迎えた地元の人たちとの交流も微笑ましい。子供らに「喧嘩するなよ」と言ってから、飴(?)をプレゼントしたり、子供たちの携帯で一緒に写真を撮ってみたり、とても気さくな人柄が覗える。

この地元の人たちは、もちろんムスリムだろう。7〜8年前の「宣教師が殺された」とか何とか、ああいうのは全て“政治的な事件”だったのではないかと思う。トルコでは、私のような異教徒の外国人が何処へ行っても、皆、暖かく迎えてくれる。

バルソロメオス総主教の人柄が覗える映像として、以下の“YouTube”の一場面にも驚かされた。↓

M.Ali Birand Son
http://www.youtube.com/watch?v=ytanNzlD2ow

これは、2013年1月17日に亡くなったメフメット・アリ・ビランド氏の葬儀の模様である。ビランド氏は、さほど難しくないと思われていた胆嚢か何かの手術が失敗して、翌日だかに亡くなってしまった。遺族の悲しみは大きかっただろう。

その中で、未亡人となったジェムレ夫人は気丈に振る舞い、毅然とした態度で葬儀の挨拶を述べ、順に弔問客のお悔やみを受けていたが、バルソロメオス総主教を前にしたら、総主教の手を取ったまま泣き崩れてしまい、「貴方の祈りも彼を救えなかった・・」と嗚咽しながら言ったのである。それまでの気丈さからは想像も出来ない姿だった。

総主教はビランド氏の家族と懇意にしていたらしく、亡くなる1週間ほど前にも夕食を共にしたと明かしていたけれど、あの場面を見たら、やはり特別な何かを持った人なのだろうと思わされてしまう。

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12月6日 (土)  ポルターティフ〜♪ マコト〜♪

先日、仕事があるのかキャンセルになったのか、連絡が付かずに良く解らないまま、朝、所定の場所に行って、ぼおっと40分間、送迎の車を待ったが、結局、車は現れなかった。

家に戻って、始業時間になってから、連絡を取ったところ、やはりキャンセルになっていた。似たような出来事は前にもあったので、別段腹も立たなかったけれど、一抹のむなしさを感じて、妙な歌を思い出してしまった。

91年、イズミルはアルサンジャクの学生寮にいた頃、同部屋のトゥファンという学生が、何度も変な所作と共に披露してくれた歌だ。

足を前後に交差させながら、「ポルターティフ〜♪ マコト〜♪」と歌うのである。

ポルターティフは“ポータブル”のことで、当時、何かそういうポータブル商品のテレビコマーシャルが放送されていたらしい。トゥファンは、そのコマーシャルの振り付けを真似して、商品名の代わりに“マコト”を歌詞に入れて歌ったようだ。

ひょっとすると、私はその頃もよっぽど軽い人間に思われていたのかもしれない。持ち運び自由で取り付け簡単といったところだろうか?

アルサンジャク学生寮では、同じ部屋に大学生も高校生もいたが、“いじめ”も“使い走り”もなかった。先輩・後輩という序列も余り意識されていなかったと思う。自由で和気藹々とした雰囲気があった。

その中で、31歳と最年長者だった私にも特別な敬意などは微塵も感じられなかったけれど、もちろん苛められたり、使い走りをさせられたわけじゃない。でも、よく“からかわれる”存在だったような気もする。

当時より、さらに13年前に遡ると、私は日本の高校の寮で、それこそ酷く苛められていた。あれは“からかわれる”なんて愛嬌のあるもんじゃなくて、なかなか悲惨だったが、早々と抵抗を諦めてしまった所為か、万遍なく何処からも苛められた。

ところで、2012年だったか、日本のある小学校で、組替えの際、生徒たちに“同じ組になりたくない生徒”の名を書かせていたことが、社会的な問題になっていた。

それが何で問題になるのか私にはさっぱり解らない。我が母校でも、寮の部屋替えの時にやっていた。けれども、私はつまらない信条を守って誰の名も書かなかった。その結果、最も恐れていた相手とまた同じ部屋にさせられて心臓が止まりそうだった。そして、また同じことが繰り返された。

当時、先生方はそういう事態を少しでも防ごうとしてくれたのだろう。しかし、後になって「誰それの名が一番多かった」なんて情報の一部をもらした先生もいたという。

私が一時帰国すると、いつも世話になっている2人の友人は、その漏洩されたリストで上位に名前が上がっていたそうだ。特に、帰国の度に、蹴りや叩きで荒々しく歓迎してくれる友人は、断トツの一位だったと言われている。

それで、代表的な“いじめられっ子”だった私が、何故、あの凶暴な“いじめっ子”の大将たちと親しくしていられるのか不思議に思う人もいるらしい。

でも、ああいう典型的な昔の不良、番長タイプの奴は、決して陰湿ないじめをやるわけじゃない。虫も殺さぬような顔した人のほうが、よっぽど恐ろしいことをする。残念ながら私は、それを身をもって学んでしまった。

さすがにこの歳になって、世間で苛められたり虐げられたりすることもないが、相変わらずうだつが上がらないため、今でも何だかポータブルに扱われているのかもしれない。しかし、そのお陰で、ちょっと違った視角が与えられ、色々学べる機会を得ているような気もする。

せっかく与えられたこの視角は、せいぜい大切にすべきじゃないだろうか。40分、待ちぼうけ喰わされたくらいで、むなしく感じてしまうのでは未だ修行が足りていないと思う。



12月7日 (日)  今日の散歩

今日、イスタンブールは、昼前から晴れてきて、昼過ぎには快晴となり、気温もぐんぐん上昇した。20℃を越えたのではないだろうか。

せっかくだから、少し散歩しようと思い、近くの日曜市場へ出かけるつもりで家を出たが、市場を通り過ぎてどんどん歩き、1時間ほどしてチャタル・ダー(山)の山麓辺りに出た。

しかし、舗装道路から一歩外れると、今朝方まで降っていた雨のために、道が酷くぬかるんでいたから、山の中へ入るのは諦めた。途中、かなり早足で歩いて来たので、半袖でも暑いくらいだった。

山麓の道路沿いには、蜂蜜の瓶を並べて売っているおじさんがいた。このおじさんとは、昨年の4月に、チャタル・ダーから降りて来た時も会った。どうやら、いつもここで商売しているらしい。

今日は先客が一人いたので、3人で無駄話しながら、結局、蜂蜜を一瓶買ってみることにした。近々、カイマク(濃厚クリーム)も買って来て、また、あの“悪魔の誘惑”を味わってみよう。

帰り、今まで歩いたことのない道を通ると、向こうに真新しい立派な建築物が見える。何だろうと思ったら“大学”だった。“オズイェイン大学”と記されている。

ネットで調べたところ、2007年に創設され、このキャンパスは2011年に造られたそうである。この10年ぐらいで、トルコの大学は随分増えたような気がする。

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12月8日 (月)  日曜市場

昨日の日曜市場は、うちから歩いて直ぐの所から始まり500mぐらい続いている。ここは日曜日だけ車両通行止めにして場所を作っているので、平日は普通の道路である。

うちの近くでは、15分ぐらい歩いた所に水曜市場も立つ。こちらの方が、車両通行止めの区間が長く、規模も大きいようだ。

あとは、サルガーズィまで歩けば、土曜市場がある。サルガーズィには人が集まる所為か、あの市場がここらでは最大の規模になっているのではないかと思う。

昨日は、帰りも市場に寄ってカボチャを買って来た。なんという品種のカボチャか知らないが、とても大きい。トルコのカボチャは大概この品種であるような気がする。

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12月9日 (火)  カボチャの甘煮

(12月8日)

イスタンブールは、昨日の日曜、あんなに晴れ渡ったのに、今朝は霧が掛かって、どんよりした天気に戻ってしまった。

今年の冬は、たまに晴れ間を挟んで、こういう鬱陶しい日がまだまだ続くのだろう。

朝は昨晩煮ておいたカボチャを食べた。砂糖で甘く煮ただけだが、トルコでは何処でも、こうやってカボチャを調理しているのではないかと思う。この季節は、軽食店でも“カボチャの甘煮”が菓子としてメニューに並ぶ。しかし、カボチャを他の料理に使うことは殆どないようである。

不思議なのは、インゲン豆を良く料理に使うのに、甘い“煮豆”はとんと見かけない。“甘納豆”なんていうのも無い。日本とは全く逆だ。何故だろう?

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12月10日 (水)  ベートーヴェンのロマンス

(12月9日)

3ヵ月ほど前じゃないかと思うが、ネットに「ベートーヴェンは、なかなか艶福家だった」などという記事が出ていた。

ベートーヴェンは、独身のまま一生を終えたので、あまり女性にはモテなかったのではないか、恋焦がれながら、結局ロマンスを成就できなかったのではないか、と言われていたけれど、実際はそうでもなかったようである。

それどころか、当時の音楽界では、トップスターと言って良い存在だったから、非常にモテて、艶聞には事欠かなかったという説もあり、結婚しなかったのは、相手がいなかった為じゃなくて、どうやら多すぎた為だったらしい。

まったくふざけた話だ。私はそれまで、ベートーヴェンの「ロマンス1番」といった甘美なメロディを聴きながら、『これはロマンスに縁のない男が、有りもしない夢を追って作った曲だ』と信じて、幾度も涙を流してきた。『ロマンスなんてものを実体験で知っている奴には、この曲の本当の味わいは解るまい』なんて得意になっていたくらいである。

まあ、良く考えてみれば、音楽とか文学とか碌でもないことやっている奴らには、恋の道にも長けた痴れ者が多い。ベートーヴェンもその中の一人だったに違いない。これでは、「今まで流した涙の半分ぐらいは返してくれ!」と叫びたくなる。

しかし、“英雄色を好む”じゃないけれど、組織の長に立つような男には、ロマンスぐらいないと困るかもしれない。自分を省みて思うが、なんでも望んだら成就させる“気”が無ければ、長なんて務まらないだろう。

でも、音楽やるのに“政治力”までは必要無さそうだから、たまには“ロマンスに縁の無い作曲家”がいても良いんじゃないかと期待していたが、やはり“一芸に秀でる者は大概の芸に秀でてしまう”ようである。指揮者とかやっている人たちみたら“政治力”も凄そうだ。

ベートーヴェンは、56歳で死んでしまっているし、最晩年にも名曲を残しているらしい。才能が枯渇した後も生き長らえて、“政治力”の方が際立つようにならずに済んだのではないだろうか。

モーツァルトだって、長生きしていれば、フランス革命以降の時流に乗って、帝王のように振舞っていたかもしれない。シューベルトも早世したお陰で清廉なイメージが保たれてしまったような気がする。

しかし、シューベルトの死は余りにも早過ぎた。私は交響曲第8番(9番)“グレート”が好きで、勝手に自分の“青春の歌”だと思って聴いているけれど、これはシューベルトが29〜30歳の時の作という。ベートーヴェンは30歳になって、初めて交響曲(1番)を書いたそうである。


BEETHOVEN - Violin Romance No 1 in G Major, Op 40 - HENRYK SZERYNG/Royal Concertgebouw/Haitink
http://www.youtube.com/watch?v=BDt18_j5dXg

Schubert Symphony No.9 Eugen Jochum 1986
http://www.youtube.com/watch?v=6Tbaq-FTAvo



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