Diary 2014. 11
メニューに戻る
11月1日 (土)  イスタンブールには変人が多い?

1ヵ月ほど前、ベイオウルのフランス横丁の坂を下りたところの裏通りを歩いていると、レコードを売っている小さな店が目に付いた。

ちょっと珍しいなと思って、店の中を覗いたところ、以前、何度かコマーシャル等のエキストラ出演で一緒になった韓国人の李さんが座っている。驚いて中へ入り、挨拶もそこそこに、何をやっているのか訊いたら、未だ開店準備中だが、そこは李さんの店であるという。

初めて撮影現場で顔を合わせた時には、「韓国人学校で教員やっています」などと自己紹介していたから、わりとお固い人なのかと思っていたが、そうでもなかったようだ。そもそも教員といっても、それは臨時雇いのアルバイトみたいなものだったらしい。

その日は、他に用事もあった為、少し立ち話しただけで、「開店したら、また来ますよ」と言って店を後にした。

実を言うと、私はそれまで、レコードの製作・販売が未だ続けられていることさえ知らなかった。李さんの店も『中古のレコード屋か?』と思って覗いたくらいだ。最近は、一部の愛好家の間でレコードの音が再評価されていて、結構“新品レコード”の市場も広がりを見せているそうである。

李さん自身も、そういった愛好家の一人なのだろう。ひょっとすると、韓国にいた頃から、ミュージック関連の仕事をしていたのではないか。また、欧米に長く滞在していたような気もする。

それで、昨日、あらためて店を訪ねて雑談しながら、トルコ以外の海外経験について訊いてみた。すると、トルコへ来る前に、少しカタールで働いていたことがあるだけだと言う。

「カタール? カタールで何やっていたんですか?」
「韓国の建設会社で働いていたんですよ」

「それじゃあ、まさか大学でも建築学部とかにいたんですか?」
「ええ、都市工学です」

これには驚かされた。まずは相当な変人のようである。1974年の生まれというから、30代半ばにして、大きく路線変更を図ったというか、脱線してしまったというか・・・・。

いずれにせよ、こういう変人と知り合えて良かった。イスタンブールには、変わった連中を引き寄せる何かがあるのかもしれない。


Velvet Indieground
https://www.facebook.com/velvetindieground?pnref=lhc


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp

20141101-1.jpg 20141101-2.jpg 20141101-3.jpg



11月2日 (日)  脱線してしまった人生

81年か82年頃だったと思う。私は東京で2tトラックによる配送の仕事をしていた。その運送会社には、入れ替わり立ち替わりアルバイトの大学生が働きに来ていて、私のトラックで1日助手を務めてくれた学生もいる。

彼は私より一つ年上だった。何処の大学か訊いたら、某国立大学だそうである。それだけでも凄いが、さらに、当時4年生で、既に某省の内定が決まっていると言うから、私はもう畏れ入ってしまった。

しかし、例えば、配送の仕事中、3箱の荷物をとても重そうに抱えているのを見て、「2箱だけで良いですよ」と言っても、「貴方が3箱持っているのに、そういうわけにはいかない」と譲らず、あくまでも助手の姿勢に徹していた。

翌日からは、1台のトラックを任されて、暫くの間、毎日運転手の仕事を続けていたようだけれど、朝、配送所を出てしまえば、運転手同士が顔を合わせることは殆どないため、彼と会話を交わしたのは、助手を務めてくれたあの1日だけだった。

それでも、30年以上過ぎて思い出せるくらい強い印象を残した。それは、とにかく実直で爽やかな青年のイメージである。もっとも、どんな話をしたのか、会話の詳細までは覚えていないが、以下のように語っていたのを記憶している。

「貴方のような人生も面白いけれど、私の場合、もう前にレールが敷かれてしまったので、なかなかここから脱線してみる勇気が出ない・・・」

2000年頃だったか、この話をメールで日本の友人たちに伝えたら、「嫌な奴、ぶん殴ってやれば良かったのに・・」とか、「高級官僚はレールから外れると自殺してしまったりするそうですよ。その人、まだ生きているかな・・」といった反応が戻って来てびっくりした。

どうやら私は、彼の実直な人柄をメールで巧く伝えられなかったようである。それ以前に、私が脱線した人生を結構楽しんでいることも、友人たちには余り伝わっていなかったのかもしれない。とても残念に思った。

それから数年して、またこの話を思い出し、試しに、彼の苗字、出身大学、某省で検索を掛けてみたところ、見事にヒットした。当時は某県の副知事を務めていたのである。

今日、また検索してみたら、既に本省へ戻り、ますます栄達して御活躍のようだ。小さな画像も出てきて、それを見ると、なんとなく実直で爽やかな青年の面影がまだ残っているように感じられる。

あるブログには、某県時代の印象が、「・・・本音を語る人だった。省庁に働いて世の表裏を学ばなかったはずはないが、それでも、若き日の思いを抱いて仕事をしていた」と記されていて、何だか感動してしまった。30余年前も、偽らざる本音を語ってくれたのだと思う。


*写真は、ベシクタシュのウフラムル・カスル。19世紀中頃の作品だそうである。

20141102-1.jpg 20141102-2.jpg 20141102-3.jpg



11月3日 (月)  高級官僚氏と美人の女房

96年、日本で長距離トラックの運転手をしていた頃の話である。

4月の引越しシーズンを迎えると、引越し専門各社は、中小の運送会社から大量の代車を受け入れて、これで何とかシーズンを乗り切る。私もこの年、3月中旬から4月末まで、10トン車で某引越しセンターに配属となっていた。

ある日、名古屋から広島までの運行を命じられて、夕刻、引越しセンターの名古屋支店に赴くと、引越し荷物は、既に支店の倉庫に搬入されており、数多の倉庫要員が手伝ってくれて、一軒分としてはかなり多い“10トン車7割分ぐらい”の荷物が、あっという間にトラックへ積み込まれた。

『これは幸先良いぞ』と思いながら、輸送指令書を良く見たところ、広島の搬入先は“某省官舎・4階・エレベーター無し”と記されていたので、がっかりした。そうそう何でも上手い具合には行かない。

夜、トラックを走らせ、夜明け前に広島支店の前につけて仮眠をとっていると、朝、いつものように引越しセンターの人が起こしに来てくれた。それから、各トラックへ搬入要員が割り振られたけれど、私のところへ来たのは、引越しセンターの高校生アルバイトが一人、外注の赤帽さんが二人だけだった。しかし、代車の身分では、引越しセンター自体が“お得意様”だから文句も言えない。

まあ、高校生のバイトは、なかなかしっかりしているように見えたし、私と同年輩の赤帽さんも頼りになりそうだ。

早速、バイトを助手席に乗せ、赤帽さんの先導で搬入先住所へ向かうと、そこは、同じような4階建ての古い建物が4棟ほど並んだ団地であり、他にも沢山のトラックが来ていて、それぞれの引越し荷物を大勢の人たちが群がるように手伝いながら搬入していた。

『しめた!』と秘かに喜び、群がっている中の一人に搬入先の住所を尋ねたら、彼は手拭で汗をふきふき指令書に記されている住所を見て、残念そうにこう言った。

「うーん、これはキャリアさんだなあ。この向こう側の棟の一番奥の階段ですね。でも悪いけれど、キャリアさんの搬入は手伝わないことになっているんですよ。だって、金出せば、大勢の手がつく高級な引越し会社を使えるでしょ。お宅は何人で来ているの? えっ、4人? そりゃ大変。まあ頑張って下さい」

これを聞いて、私も、バイトも、赤帽さんも、皆でがっかりしながら、トラックを奥の階段の下に着けたところ、上から見ていたのか、その“キャリアさん”が下りて来て、「やあ、ご苦労様です」と挨拶した。

“キャリアさん”といっても未だ30代前半ぐらいの若い男で、高級官僚とは思えない気さくな雰囲気が漂っていた。

「エレベーターが無くて大変ですが、手伝いの人たちも来てくれるみたいだから、なんとかなるでしょう」と言うので、今さっき聞いた話を伝えると、「えっ? なんでそんなこと言うんだろうなあ」と、一瞬、顔を曇らせたものの、直ぐに元の笑顔に戻り、「しょうがない。私も手伝いますよ。力だけは自信があるから、私にどんどん重いものを寄越して下さい」と腕まくりして見せた。実際、がっしりとした体育会系風だった。

私はトラックの荷物を端へ寄せたりしなければならなかった為、皆が荷物を何度か運んだ後になってから、搬入を手伝って4階に上がった。

そこでは、客間らしい大きな部屋の中央に、キャリアさんの女房と思われる若い女が“見取り図”を片手に仁王立ちし、厳しい口調で「ハイ! その箪笥はそこです」と指示を飛ばしていた。

女は若い頃の浅野ゆう子を彷彿とさせる美人だったが、亭主と違って愛想は全く無し、荷物を置いた後に「ご苦労様」の一言も無し。なんだかお里が知れるように思えた。

それから、その間取りの広さに驚かされた。内装も豪華になっていて、外から眺めた時のボロ官舎とはえらい違いだった。世間を憚って、わざと外装は汚くしたままなのかもしれない。

少し経ったら、先刻、キャリア宅の搬入は手伝わないと言ってた人が大勢の仲間を連れて駆けつけてくれた。キャリアさん本人が先頭に立って汗を流しているのを見て、『これは手伝わなければ』と思ったのだろうか。

ところが、大勢の助っ人により、搬入も先が見えて来た頃になって、一騒動持ち上がってしまった。

あの“浅野ゆう子”が客間でヒステリックな金切り声を上げて、バイトの高校生に詰め寄っているのである。搬入された家具にほんの小さなキズがついていたらしい。

赤帽さんの話では、女の「キズがある!」というクレームに、バイトは自ら「僕が引越しセンターの責任者です」と名乗り出たという。

しかし、“浅野ゆう子”は、相手が高校生のバイトだろうが誰だろうが全く見境はなかった。亭主の方はと言えば、玄関の所に立ったまま、申しわけなさそうな顔して周囲を見渡すだけで、女房には何も言えないようだった。

引越しの仕事は、その1ヵ月の期間しか経験がないけれど、様々な家庭の内部事情まで見えたりして、なかなか面白かった。高級官僚になったり、美人の奥さんがいたりしても、決して羨ましい話ばかりじゃない。


11月4日 (火)  アーシューラー

昨日は、イスラム暦によるムハレム月の10日目“アーシューラー”の日だった。

西暦680年のこの日に、イマーム・フサインが“カルバラーの戦い”で殺害されたため、シーア派の人々は“フサインの殉教”を哀悼して盛大な行事を催すようになったという。

しかし、スンニー派が主流のトルコで、シーア派は50万人ぐらいと僅かな存在に過ぎないらしい。しかも、その殆どがアルメニアとの国境に接する東部のウードゥル県に集中しているそうだ。

イスタンブールのアタテュルク空港に近いハルカル地区には、このウードゥル県から出て来た人たちが多数居住していて、毎年、“アーシューラー”に催される盛大な行事が報道されていたので、昨日、私も一度ぐらいは見聞して置こうとハルカルまで出かけて来た。

トルコでシーア派の人たちは、“ジャフェリー”と呼ばれている。これはシーア派の主流となっている“ジャアファル法学”に由来するものらしいが、詳細は末尾にURLを貼付したウイキペディアの記述を参照して頂きたい。

昨日の午前11時過ぎ、行事が催されるという体育館の前へ着いた頃には、大群衆が辺りを取り囲んでいて、既に騒然とした雰囲気になっていた。多分、私はぎりぎりで体育館の中へ入れたのだと思う。途中退場した時は、既に入口が閉められていて、係員が少しだけドアを開けて、私を外に出してくれた。

中へ入ると、まずその収容人員に驚いた。どのくらい集まっていただろうか? 演壇では、トルコのシーア派のリーダーであるというセラハッティン・オズギュンデュズ氏が熱弁をふるっていた。

今日、調べて見ると、オズギュンデュズ氏は、シーア派の思想をイランで学んだようであるが、演説の中では、オスマン帝国の栄光が語られ、自分たちがトルコ共和国の国民であることも強調されていた。ウイキペディアの記述によれば、CHP議員のアリ・オズギュンデュズ氏は従兄に当たるという。

オズギュンデュズ氏の演説に続いて、アゼルバイジャンから招かれたセイド・タレフ・ボラディガヒという人物が、哀悼の詩を朗唱し始めると、会衆の興奮はクライマックスに達したように感じられた。私の両隣の中年男性は、時折、涙を拭いながら聴き入っていた。↓

動画(セイド・タレフ・ボラディガヒ氏の朗唱)
https://www.facebook.com/video.php?v=10204492115279604&set=vb.1134094593&type=2&theater

これは、昨日、私が録画した映像で、僅か30秒に過ぎないが、以下の“YouTube”から一昨年の朗唱を聴くことができる。

Seyid Taleh Boradigahi
http://www.youtube.com/watch?v=Bta-TKItdCY

どうやら、セイド・タレフ・ボラディガヒ氏は、毎年ここに招かれて哀悼詩を朗唱しているらしい。

私には、詩はもとより、ボラディガヒ氏が話す“アゼルバイジャンのトルコ語”も解り難かったけれど、ウードゥル県出身のシーア派の人たちの多くは、アゼルバイジャン系のトルコ人であるというから、特に問題はないのだろう。

しかし、体育館の前に集まっていた人たちの中からは、「チュアニバシ!」というクルド語の挨拶も聞かれた。アゼルバイジャン系のシーア派という青年によれば、トルコには僅かながらクルド系のシーア派もいるそうだ。

もっとも、トルコの人たちのアイデンティティーを確かめるために、母語やエスニック的な血統を見ても余り意味はないような気がする。

例えば、母語がクルド語であっても、敬虔なスンニー派のムスリムであれば、AKPに投票しながら、自分たちを多数派であると認識している人が多いのではないかと思う。

逆に、BDPなどのクルド系政党の支持者の中に、クルド語を全く話せない人もいる。彼らは自身のアイデンティティーを、“左翼的なクルド政治思想”に求めているのかもしれない。

アゼルバイジャン系トルコ人のシーア派の青年は、自分たちが少数派であると語っていた。

さて、ボラディガヒ氏の朗唱が終わると、イランの最高指導者ハメネイ師の代理人であるという法衣を纏った人物が壇上にあがり、トルコ語の通訳を介してペルシャ語でメッセージを伝えていたが、途中、アメリカとイスラエルに対する激しい非難が繰り返され、なかなか興味深いものを感じた。

以下はその冒頭の部分で、「ハメネイ師の熱い誠意のこもった挨拶を皆さんに伝えたい・・・」と始められている。ペルシャ語の抑揚がとても美しい。↓

動画(ハメネイ師代理人のメッセージ)
https://www.facebook.com/video.php?v=10204492170840993&set=vb.1134094593&type=2&theater

ところで、ウイキペディアにも、「宗教的な感情が最高潮を迎えるアーシューラーの日は、シーア派社会のエネルギーが爆発する日」と記されているけれど、昨日の会場の様子は、まさしく“エネルギーの爆発”という形容が相応しいように思えた。

いったい、あの熱狂は何処から得られるのだろう? それは、やはりイマーム・フサインが無残に殺されてしまったという悲劇性に起因するのではないかと思うが、ひょっとすると人間には、多くの場合、マゾヒズム的な一面が潜んでいて、これを刺激されると堪らなく興奮してしまうのではないか。シーア派の人々は、フサインの名を叫びながら、自分たちの体を叩いたりしている。

しかし、そういうマゾヒズムの頂点に達しているのは、十字架に掛けられたイエスであるかもしれない。しかも、イエスは、イマーム・フサインのように権力争いに敗れたのではなく、人々の罪を購う為に自ら進んで磔にされたというのだから、あれほど感動的な物語はないような気もする。老体を晒す前に、若くして非業の死を遂げるという“偶像”の絶対的な条件も満たしている。

イスラムの預言者ムハンマドの場合、成功した指導者として天寿を全うしてしまったところが、まず物語になり難い。成功する過程においても、敵に攻められると塹壕(ハンダク)を掘って守りを固めたりと、何だかせこい事ばかりしている。これじゃあ一つも熱狂できない。

それで、シーア派は、イマーム・フサインの死に焦点を当てようとしたのだろうか? その時に、イエスの物語を参考にした形跡はないのだろうか? こんなこと考えても休むに似たりだけれど・・・。

ISISやアルカイダのテロは、こういった宗教的な熱狂とは、ちょっと違うような気がする。まず何より、彼らの背後に、熱狂している民衆などいないように見える。おそらく民衆は、その暴力を恐れているだけだろう。まあ、そういう抑圧的なところや、金銭で兵士を募ったりしている“商人感覚”が、少しイスラムらしいかもしれないが・・・。

私の偏見では、イスラムのスンニー派に問題があるとすれば、それは、その“事なかれ主義”が停滞を招いてしまう可能性じゃないかと思う。


ジャアファル法学派(ウイキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E6%B3%95%E5%AD%A6%E6%B4%BE

シーア派(ウイキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%B4%BE

アーシューラー(ウイキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC

ハンダクの戦い(ウイキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

20141104-1.jpg 20141104-2.jpg 20141104-3.jpg



11月5日 (水)  “アーシューラー”の街

キリスト教は、自分たちを迫害した人々への恨みではなく、十字架に掛けられたイエスへの“感謝”を信仰の動機にしているのではないかと思うが、果たしてシーア派の場合はどうなんだろう? 昨日、また良く解らない話を書いてから、こんなことが気になってしまった。

一昨日の行事では、ハメネイ師代理人のメッセージに続いて、愛をテーマにした演劇が上演されると聞いたけれど、私はこれを観ることなく会場を後にしてしまった。観ておけば、少しは何かが解ったかもしれない。

しかし、例えば、イスラム革命以降のイランを見ていると、何だかアメリカやイスラエルに対する恨みをエネルギーにしているようで気になる。一昨日の“アーシューラー”の熱狂にも、トルコでシーア派の信仰が蔑ろにされて来たという恨みに似た思いが込められていたのではないだろうか?

会場の周辺を案内してくれたアゼルバイジャン系トルコ人の青年も、「昔は、自分たちが“ジャフェリー”であると口にすることも憚られた」と少数派の思いを語っていた。

ある人が、何らかの恨みや妬みをエネルギーにして成功を収めたとしても、果たしてその人は、どのくらい幸せになれるのか、私には疑問に思えるけれど、これは一つの社会においても同様であるかもしれない。

しかし、残念ながら、現在のイスラム世界を見ると、シーア派に限らず、スンニー派でも知識層の一部は、欧米に対する恨みを動機にしているような気がする。もっとも、そのエネルギーが社会全般に行き渡っていたわけじゃないから、社会的な発展を遂げることもなかったのだろう。

戦後の日本が、アメリカに対して極端な恨みを懐かなかったのは幸いだったと思う。


*写真は、一昨日の街の様子。至る所で、大鍋にピラフや肉の煮込みが用意されて、人々に振舞われていた。チャイや水を配っているスタンドもあった。また、コーランなど宗教的な書物を販売しているスタンドに、ホメイニ師の本が置かれているのも興味深かった。

20141105-1.jpg 20141105-2.jpg 20141105-3.jpg



11月6日 (木)  シーア派のモスク

月曜日は、アゼルバイジャン系トルコ人青年の案内で、街のモスクも訪れることができた。

“ゼイネビイェ・ジャーミー”というシーア派のモスクである。プレハブ2階建ての簡単な構造だが、それは以前のモスクが、地震による損壊で使用出来なくなり、暫定的に使い始めたからだという。

200mほど先にある新しいモスクの建設現場も見せてもらったけれど、現在、工事は中断されていて、未だ再開の目処が立っていないらしい。

完成すれば、シーア派の文化センターも兼ねる大規模なモスクになるそうだが、青年の話では、AKP政権との間に齟齬が生じたため、工事を差し止められているという。

しかし、月曜日の“アーシューラー”に、ハメネイ師の代理人が来ていたくらいだから、文化センターにもイランの影響は見え隠れしているのではないだろうか。トルコの政府としては、そう簡単に進められない問題であるかもしれない。

いつだったか、イラン人の友人に連れて行ってもらった旧市街のベヤズィットにあるシーア派のモスクでは、ウードゥル県出身のトルコ人より、イラン人の会衆が多かったような気もする。イランから来たという宗教指導者がいて、振舞われた食事もイラン料理だった。

さて、プレハブ2階建てのモスクだが、2階は女性専用で入口も別になっていた。トルコのスンニー派のモスクでは、女性の礼拝する場所が後方か2階に設けられているだけで、入口は特に別けられていない。

それから、シーア派の人たちは、礼拝で平伏する際、絨毯の上に小さな円盤を置いて、そこへ額をつけるようにする為、礼拝所の片隅には円盤の入った箱が用意されていた。

この円盤は、街角の宗教書などを扱っているスタンドでも販売されていたけれど、聖地メッカの土から作られているそうだ。

訪れた時は、礼拝の時間じゃなかったが、数人が礼拝を行なっていた。礼拝の所作にスンニー派との違いはないように思えたが、どうなんだろうか? スンニー派と同様静かに礼拝の所作を繰り返していた。

異端とされるアレヴィー派では、セマーと呼ばれる歌や舞踊を伴った礼拝の儀式が賑やかに営まれる。7年ほど前、一度、セマーを見学する機会に恵まれたが、その時は、一人の青年が「アッラー!」と泣き叫びながら、半ばトランス状態に陥っていた。

韓国のプロテスタントの教会でも、似たような熱狂的盛り上がりを目にしたことがあるけれど、こういった例に比べれば、イスラムの礼拝は実に整然としていて味も素っ気もない。

イスラム、特にスンニー派は、おそらく本質的に安寧秩序の維持を求めているから、多少抑圧的な傾向はあるとしても(なにしろやたらと禁止事項が多い)、非常に平和な宗教だと思う。

でも、この平和は、映画“第3の男”で、ハリーが「500年の平和なスイスが生んだのは鳩時計だけだ」と語っているような平和であり、イスラムの社会にとっても、それほど有り難いものではなかったかもしれない。

結果として、イスラム世界は西欧の後塵を拝し、辛うじて植民地化を免れたトルコ以外の国々は、欧米から屈辱的な支配を受けてしまい、これが知識層における屈折した宗教意識の元になっているような気がする。

トルコの例を見れば、かつて社会の底辺に押しやられていた宗教が、表舞台へ進出したことにより、否応なく社会の変化に適応して、社会と共に発展を遂げてきたという見方も成り立つらしいけれど、トルコのイスラムは既にオスマン帝国の時代から、他のイスラム世界とは発展の段階が異なっていたかもしれない。

例えば、イラクやシリアでは、どういう社会の変化に適応しろと言うのだろう? 彼らの屈折した宗教意識を癒すのは、とても難しいような気がする。しかし、イスラムフォビアによって、彼らを追い詰めれば、その屈折がもっと捻じ曲げられてしまうのは明らかじゃないかと思う。

20141106-1.jpg 20141106-2.jpg 20141106-3.jpg



11月7日 (金)  シャフクル・スルタン・デルガフ

今日(11月6日)は、ギョズテペの“シャフクル・スルタン・デルガフ”を訪れた。アレヴィー派の宗教施設である。

アレヴィー派もシーア派と同様、第4代正統カリフのアリーを崇拝の対象としているため、所々にアリーの肖像画を掲げている。

しかし、モスクで礼拝(ナマズ)をせずに、“ジェムエヴィ”でセマーという儀式を執り行うところは、シーア派とも大きく異なっている。

10年ぐらい前から、イスタンブールでも“ジェムエヴィ”が増えてきたけれど、“シャフクル・スルタン・デルガフ”の創設は、ビザンチン時代に遡ると言われ、ひときわ歴史と由緒を感じさせる雰囲気が漂っている。

敷地も広く、“ジェムエヴィ”や教育施設、食堂がそれぞれ別の棟でゆったりと建てられている。犠牲祭に生贄を屠るための施設も併設されていて、私はここで生贄の屠殺に立ち会ったこともある、2008年の12月だった。

“ジェムエヴィ”は、ドームを思わせる屋根が印象的な趣のある建物だが、2007年にセマーの儀式を見学した時は、未だ建設中、あるいは改修中だったのではないかと思う。


12月9日 (火) アレヴィー派の犠牲祭
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=12

アレヴィー派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E6%B4%BE

20141107-1.jpg 20141107-2.jpg 20141107-3.jpg



11月8日 (土)  アシュレ

アレヴィー派の人々は、ラマダン月ではなく、ムハレム月に12日間の断食を行なう。

2008年の1月に、“シャフクル・スルタン・デルガフ”を訪れた時は、ちょうどこの断食期間中だったが、敷地内で飲食しているアレヴィー派の人もいたので、その自由な雰囲気に驚いた。

今年は、昨日が断食の最終日で、今日(11月6日)の昼には、アシュレという“アーシューラー”にちなんだ蜜豆のような菓子が振舞われると聞いたので、昼の時間に合わせて出かけてみたのである。

11時半に着いたら、食堂の前には、もう大分長い行列が出来ていた。30分ぐらい待っていると、アシュレの盛り付けが始まったのか、列が少しずつ前へ進み始めたけれど、そうしたら、前の方に並んでいる人たちが、「貴方は外国から来たお客さんだから、どうぞ前に入ってください」と言い出した。

そもそも信者の方たちに振舞われるアシュレを、アレヴィー派どころかイスラム教徒でさえない私が頂けるだけでも有り難いのに、そこまで図々しくはなれないから、さすがに固辞して順番が来るのを待った。

食堂に入ってから解ったが、アシュレだけでなく、肉入りのピラフにアイランも振舞われている。

有り難く頂いて席についたら、前に座っているおばさんが、自分の家で焼いてきたというチョレック(トルコの伝統的なパン)を分けてくれた。思いがけず豊かな昼食になって感謝感激だった


1月21日 (月) アレヴィー派の断食
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=1

アシュレ
http://akdeniz.exblog.jp/18281496/

20141108-1.jpg 20141108-2.jpg 20141108-3.jpg



11月9日 (日)  ハッピー・チャイナ・ハウス

近頃は、イスタンブールにも中華料理屋が増えてきて、市の中心部では、もう珍しいとも思えなくなった。

しかし、これが我が家の近くまで進出して来ると、バスでその前を通る度に、『こんな所で商売になるのか?』と気になってしまう。

それで、先週、試しにこの「ハッピー・チャイナ・ハウス」という中華料理屋へ出かけて見た。近いと言っても、バスで15〜20分ぐらいの距離だが、歩いて行ったら、ちょうど1時間で到着した。

付近には、最近出来た“高級マンション団地”もあるけれど、中小企業の工場などが多く、殺風景な街並みが続いている。『いったい誰が中華を食べにくるのか?』と周囲を見渡しながら、ますます不思議に思えて来た。

20141109-1.jpg 20141109-2.jpg 20141109-3.jpg



11月10日 (月)  ハッピー・チャイナ・ハウス・続き

昼過ぎ、3時頃だった所為もあるが、案の定、店には一人もお客がいなかった。注文を取りにきた若いトルコ人の店員に、焼ソバとワンタンスープを頼んでから、店内の写真を撮ったりしていると、40歳ぐらいのトルコ人男性が出て来て、丁重に挨拶するので、多分、この人が経営者なのだろうと思って訊いたら、これも図星だった。

彼は、イスタンブール市内の高級ホテルにある中華レストランで12年ほどチーフを務めてから、昨年、この店を出したそうだ。中国へは、上海に一度行ったことがあると言う。

もちろん、最も気になる客層についても訊いてみたところ、トルコ人の客が殆どで、それもケータリングが主になっているらしい。オートバイで、スルタンベイリの辺りまで配達するというから、もう“出前”の域は越えているように思えた。

出て来た料理を食べてみると、焼ソバは『まあ、こんなものだろう』というお味だった。ワンタンは皮が厚くて、水餃子に近かったけれど、味はそれほど悪くなかった。配達してもらって、チンして暖めて食べれば、それなりに楽しめるのだろう。

当初より、ケータリングでやって行くつもりだった為、店の立地条件は余り問題にしていなかったそうである。『いったい誰が食べにくるのか?』なんて心配していた私は、とっくに時代から取り残されていたのかもしれない。

20141110-1.jpg 20141110-2.jpg 20141110-3.jpg



| 1 | 2 | 3 |