Diary 2014. 10
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10月1日 (水)  金曜日のミサ

“テオドシウスの城壁”のハリチ(金角湾)側の起点となる辺りを“アイヴァンサライ”と言い、ここに“パナギア・ヴラヘルナ・アヤズマス・メルイェム・アナ”というギリシャ正教の教会がある。

最後の“メルイェム・アナ”は、トルコ語で聖母マリアのことであるし、“アヤズマ”も聖水を意味するギリシャ語がトルコ語風に訛った言い方らしいから、ギリシャ語の正しい名称がどういう風になるのかは良く解らない。

この教会の特徴は、ミサを日曜日ではなく、金曜日に行なうところにある。

以下のサイトの記述によれば、教会は5世紀に創建された。そして、7世紀にコンスタンティノポリがアヴァール族の攻撃を受け、今にも陥落しそうになったある金曜日、まず聖母マリアが天空にその姿を見せ、これに続いて大雨が降って洪水となり、アヴァール族は撤退して、コンスタンティノポリは救われる。

これに喜んだ教会の会衆は、以来、ミサを金曜日に行なうようになったという。

しかし、教会の建物は、1434年の火災で焼失して、長い間廃墟のようになっていたらしい。時を経て、1860年に再建されたものの、1955年のギリシャ人排斥事件で甚大な被害を受け、その後、また改修されて現在に至っているそうだ。

Panagia Vlaherna Ayazmasi
http://hagiabyzantion.blogspot.com.tr/2011/11/panagia-vlaherna-ayazmas-kilisesi.html

教会の礼拝堂の中には、“アヤズマ(聖水)”の謂れとなっている泉があり、信徒の方たちは、その水を備え付けの小さな容器に入れて持ち帰っていた。


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp

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10月2日 (木)  パナギア・ヴラヘルナ・アヤズマス・メルイェム・アナ教会

この教会には、コンスタンティノポリで最も古いイコンも保存されているそうで、内部の装飾や泉の趣はなかなか見事だったが、外から見ると、建物の規模も小さく、あまり荘厳な雰囲気は感じられない。

しかし、参列している信徒が多いことに少し驚かされた。カドゥキョイにあるギリシャ正教の教会で、あれほど信徒が集まっているのは見た覚えがなかった。

それで、教会の敷地内にある土産物店の人に尋ねてみたところ、「いや、この教会も会衆が少ないのは同じですよ。ミサに訪れている人たちは、殆どギリシャから来た観光客なんでね・・・」と教えてくれた。彼はルーム(トルコにいるギリシャ人)だった。

教会内で、その観光客らに何事か説明していた女性にも話を聞いてみようと思ったが、彼女もギリシャ共和国のギリシャ人で、トルコ語は片言程度にしか話せなかった。

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10月3日 (金)  城壁に登る

先週の金曜日は、ギリシャ正教の教会を後にしてから、“テオドシウスの城壁”に沿って、城壁のマルマラ海側の起点まで歩いてみた。ハリチ(金角湾)からマルマラ海まで、だいたい7キロぐらいあるらしい。

城壁の上を歩けたら、なお良かったが、階段を上がって、城壁の上に出られる箇所はいくらもなかった。

上がれそうな所は一つずつ上がってみようと思い、まずはエディルネ・カプ(門)近くにある階段から城壁の上に出た。

ハリチ(金角湾)やその向こうの新市街、さらにボスポラス海峡からアジア側まで見渡せて、ここは、なかなか眺望が素晴らしい。

4〜5人、同様に城壁の上で景色を眺めたり、写真を撮ったりしている人がいたけれど、皆、外国人の観光客だった。

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10月4日 (土)  城壁の上の激しい抱擁

“テオドシウスの城壁”は、シリヴリ・カプ(門)とベルグラド・カプ(門)の間の区間でも、城壁の上に登ることができた。

そして、城壁の上を歩きながら、3ヵ所ある望楼にも、一つ一つ登ってみることにした。この辺りは、観光客が殆ど来ないらしく、城壁の上には全く人影がなかった。

しかし、まず一つ目の望楼に登ったところ、思わぬ先客がいた。男女がひしと抱き合っていたのである。直ぐに引き返したが、見た瞬間、ちょっと驚いて、「おお!」と小さく叫んでしまった。

服は着ていたから、それほど驚くような光景でもないし、引き返す必要はなかったかもしれないけれど、人っ子一人いない城壁から、さらに望楼にまで登って抱き合っているカップルが、観光や散策の途中、たまたま人目が無いのを良いことに、一瞬抱き合っただけとは到底思えない。

おそらく、わざわざ人目につき難い場所を探して来たのだろう。カップルは、私が次の望楼に登って振り返った時も、まだそこで抱き会っていた。やはり、あそこは遠慮しておいて良かったに違いない。

このカップルの女性は、頭に何も被っていなかったが、スカーフを被っていながら、人目につく路上で抱き合ったり、キスしたりするのは、もう珍しいことでもなくなっている。

4〜5年前、ビュユック島の山道から、ほんの少し入った林の中で、スカーフをきっちり被った若い女性が、木の幹に座った男と、腰の辺りから跨るようにして抱き合い、激しくキスしているのを見た時は、随分驚いた。さらに、10分ぐらいして、またその道を戻って来たら、まだ激しく絡み合っていたので、もう一度驚かされた。

あるトルコ人の友人の解説によれば、この手のカップルは、ある程度、信仰心があるため、その先へ進むことが出来ず、そこまでの行為を延々と続けてしまうものらしい。

しかし、考えて見ると、日本でそういう激しい場面を見たことはないような気がする。日本は、性がかなり自由になっているけれど、大概の日本人は、人前で抱き合ったりするのを嫌がるんじゃないかと思う。

それなのに、性のタブーが多いはずのトルコで、これほど良く“目撃”してしまうのは、いったいどういう訳なのかと首を捻りたくなる。 

2週間ぐらい前だったか、乗っていたバスが、立体交差の下の停留所で止まったところ、陸橋の柱の影で、未だ15〜6歳に思える学校制服のカップルが抱き合っているのを見てしまった。後ろ向きだったが、顔の角度からして、多分、キスしていたのだろう。女子はスカーフを被っていた。

最近、中学校(第5学年〜第8学年)でもスカーフの着用が許されるようになったと言って、政教分離主義者の親たちは、また悲鳴を上げているけれど、その前に、スカーフなど絶対に被らない自分たちの娘が、男子生徒と何処まで進んでいるのか心配してみた方が良いのではないか。スカーフを被っていても、あれなのだから、もう一線を越えているかもしれない・・・。


ムスリムに憎しみはない?
http://neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#60

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10月5日 (日)  犠牲祭/ISISのテロ

今日(10月4日)は、犠牲祭の初日だった。トルコの人たちにとっては、日本の正月のようなものじゃないかと思う。

昼過ぎてから、サルガーズィまで歩いて行った。40分ぐらい掛かる。途中、方々で生贄が屠られているのを見た。年々規制が強まり、もうイスタンブール市内では、指定の屋内施設を利用しなければ、屠殺は許されなくなっているが、この辺りはイスタンブールの市内に数えられていないのだろう。

サルガーズィの中央は、人通りも多く結構賑わっていた。“手回し回転椅子”や“パンチングマシーン”で楽しむ親子連れがいたりして、祝祭日らしい雰囲気も感じられた。

アフリカから来た人たちも、腕時計等の行商に精を出していたけれど、彼らは何処で商品を仕入れて来るのだろう? それ以前に、なんで腕時計なのか良く解らないが、彼らの主要アイテムは、大概、この腕時計である。


7月25日 (日) ガラタ塔と“手回し回転椅子”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2010&m=7

10月27日 (土) 犠牲祭の意義
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2012&m=10


さて、犠牲祭などで、生贄が屠殺されることについては、かなり偏見があるかもしれない。

最近は、ISISのテロリストによる斬首が日本でも話題になっていて、ある識者は、「ムスリムにとって、生贄の首を切るのは容易いことだから・・・」などと語っていた。これでは、トルコの農村で育った人たちは、皆、容易く“人殺し”も犯せることになってしまう。

私が3年半暮らしたクズルック村には、相互扶助の精神が根付いていて、人々は穏やかで優しかった。治安も極めて良好だった。あの地域は、黒海地方から移住してきた人たちが多く、拳銃の所持は当たり前になっていたが、強盗事件などまず聞いたことはない。家のドアに鍵を掛ける必要性さえ殆ど感じていなかった。

まあ、残念ながら、「名誉を傷つけられたことによる衝動的な殺人」は、身近で一つ起きているけれど、実行犯は拳銃を使い、しかも扱いに慣れていなかったのか、至近距離で的を外し、狙った相手の父親を殺してしまったそうである。

そもそも、「羊の首を切っているから、人の首も容易に切れる」なんて考えるのは、何だか幼稚な連想のように思える。あのテロリストたちは、流暢な英語を話していたらしいが、イラクの農村で育った若者なのだろうか? そうではなく、もしも、西欧で育っているのであれば、犠牲祭で羊を屠った経験などなかったかもしれない。

また、「動物の屠殺に慣れている人は、人も容易に殺せる」と言うのであれば、これは、屠殺を生業にする人たちへの差別に繋がってしまう。「ムスリムにとって、生贄の首を切るのは容易いことだから・・・」は、非常に軽率で不見識な発言だったと思う。

他にも、欧米に対して、ISISとイスラムを擁護すると言いながら、「イスラム法やその教義によれば、彼らの行為はそれほど不当なものでもない」などと解説する“識者”の方がいる。その意図が何処にあるのか解らないが、これを聞いた日本人の多くは、『イスラムって、やっぱり恐い宗教なんだ』と感じてしまうだけのような気がする。これでは、イスラムフォビアを広めたい欧米の思う壺じゃないだろうか。

トルコでは、かなり敬虔なムスリムであっても、既に“イスラム法による統治”などは望んでいないように見える。欧米の敬虔なクリスチャンが、キリストの教えを社会の中で役立てているのと同じように、イスラムの教えを活かそうとしているのではないかと思う。

私も長い間、“イスラム特殊論”に振り回されていたから恥ずかしい限りだが、何故、イスラム教徒だけがその教義に、時代性を考慮しないまま、拘束されてしまわなければならないのだろう? ムスリムが、21世紀の現代社会を生きたらいけないのだろうか?

仏教徒も釈迦の時代に立ち戻るのであれば、その教えの根本は“解脱”にあったはずだ。修行を積んでも解脱できない人には、“即身仏”という手もある。もちろん、冗談だから本気にされても困るけれど、例えば、クリスチャンがその教義に忠実であるならば、「右の頬を打たれたら、左の頬を差しだしなさい」というのだから、911で“ワールドトレードセンター”がドカンとやられた時は、「どうぞ、エンパイヤーステートビルのほうもドカンとやって下さい」と差し出すべきじゃなかったのか?

あまりにも下劣な冗談で申し訳ないが、911の当時、あのテロ行為をイスラムの教義に結び付けて論じる人は少なくなかった。それなのに、キリストの教えに相反する“報復処置”に出た米国を、教義に結び付けて批判する人は余りいなかったような気がする。


*犠牲祭らしい写真もあった方が良いと思って、生贄の羊を撮ってきた。東部のアール県から来たという。白い羊とは、ちょっと種類が違うように見えた。生贄を犠牲祭の2日目以降に切る人たちもいるそうだけれど、初日の昼を過ぎたら、もう売れ残りと言って良いんじゃないかと思う。「安くするから、一匹買って行きなよ」と声をかけられた。


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10月6日 (月)  イスラムの屠殺法/ISISに纏わる陰謀論

日本のメディアでも、羊や牛の首を切るイスラムの屠殺法が、話題にされたようだけれど、何故、それの元になっている“ユダヤ教の屠殺法”への言及は少ないのだろう?

ネットで検索してみると、各国の動物愛護団体から、「ユダヤ人の屠殺の仕方は残酷である」と槍玉に挙げられている例もあるらしいが、イスラムに関するそれに比べたら、かなり少ないような気がする。(イスラムより、人口が圧倒的に少ないのだから、当たり前かもしれないが、いろいろな力関係も絡んでいるのではないか?)

また、「イスラムは教義上“政教一致”だから・・」と盛んに論じられているが、ユダヤ教も“政教一致”のはずである。

イスラムの“豚の禁忌”は良く知られているのに、ユダヤ教の方は意外に知られていない。そもそもイスラムは、ユダヤ教のそれを踏襲して、“豚”を禁じたのではなかっただろうか?

コーランの第6章146節などを読む限り、イスラムでは、ユダヤ教の厳しいコーシェルの規制が緩められて、元々アラビアの人たちが殆ど口にしていなかった豚の禁忌だけが引き継がれたようにも思える。

3月28日 (木) イスタンブールのユダヤ教コーシェルの料理店
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=3

ところで、トルコには、「ISISの攻勢も、イスラエルのガザ侵攻から目を逸らす目的で、米国が仕組んだのではないか?」などと言う人もいる。イラク軍が交戦もせずに、あっさり撤退して、ISISへ明け渡したモスルには、米国が資金を保管させていた機関があった為、これを押収したISISの『兵士らに配っている給与』が米ドルになったのだそうである。(これ、一応は国営アナトリア通信の記者の説だが・・・)

こういうのは“陰謀論”の域を出ないかもしれないけれど、シーア派に敵対しているはずのスンニー派のISISが、スンニー派のクルド人勢力の拠点を次々に攻撃しているのは、何だか解せないような気もする。これにも、「トルコとクルドを仲違いさせる為の陰謀」という説明が成り立つらしい。

いずれにせよ、ISISの攻勢で最も難しい立場に置かれている国がトルコであるのは間違いないかもしれない。それで、「米国とイスラエルがトルコを困らせる為にやっているんだ」なんていう“陰謀論”が出てきてしまうようである。

しかし、パレスチナやシリアの人たちは、どうなのか解らないが、トルコ人の大多数は、ユダヤ人やイスラエルに恨みを持っているわけじゃない。現AKP政権にしても、イスラエルが不法に占領している地域から引き上げれば、それ以上のことは要求しないだろう。

トルコの国民と政府が望んでいるのは、中東の平和だけであり、これまで疑う必要はないと思う。中東に平和と民主主義が訪れれば、トルコはかつての“オスマン帝国の絆”を手がかりに経済活動を広げ、利益を上げることができる。もちろん、これは狙っているに違いないが、“オスマン帝国の再興”なんて、誇大妄想狂じゃあるまいし、誰がそんなことを考えるのだろう?

おそらく、こういった中東の権益を巡って、トルコと米国等の間で激しい鍔迫り合いが続いているようだ。ここで、当たり前に考えれば、米国等があまりにも多くの“分け前”を要求するのはおかしい。でも、強い軍事力や経済力を背景にして、そのおかしい状態が100年近く続いているため、トルコも何処かで譲歩するのは仕方ないと思っているのではないか。今は、その落とし処を交渉中といった状況なのかもしれない。



10月7日 (火)  ISISの攻勢〜クルド和平プロセス

ISISに纏わる陰謀論だが、3日付けのサバー紙で、コラムニストのマフムト・オヴュル氏は、昨年6月のゲズィ公園デモから年末の不正事件、そしてISISの攻勢に至る全ての騒乱が、“クルド和平プロセス”に対する妨害工作であるかのように述べている。

ここまで枠を広げられてしまうと、何だか典型的な“陰謀論”としか思えなくなってしまうが、それぐらい“クルド和平プロセス”はトルコにとって重要であると言いたいのかもしれない。

この数年の出来事で、最も画期的だったのは、昨年の3月、イムラル島の刑務所に収監されているクルド反政府組織PKKのオジャラン氏が発表した“平和宣言”じゃなかっただろうか。

3月23日 (土) そして、道は開かれた・・・
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2013&m=3

これによって、“クルド和平プロセス”は軌道に乗り、南東部で四半世紀に亘って多くの死者を出した内戦は、一旦停止された。以後、多少の衝突はあったものの、まだトルコ領内では平和な状態が続いている。

この平和は、非常に重要なニュースであるはずだが、日本のメディアでも余り大きく報道されていなかったように思える。それが、ISISの攻勢で、シリアのクルド勢力の拠点コバニが陥落しそうになり、オジャラン氏が「コバニが陥落すれば和平プロセスも終わる」と発言するや、これは比較的大きく取り上げられていた。

オヴュル氏の“陰謀論”ではないが、確かに、欧米の“和平プロセス”に対する冷淡な姿勢が、こんなところに現れているような気もする。

トルコ国内でも、オジャラン氏の発言を“和平プロセス”への警告と看做して、「これでAKPはお終いだ」と半ば喜んでいるような人たちがいるけれど、そうなれば、これはAKPのみならず、トルコ国家の危機である。

しかし、オジャラン氏の発言は、前後を読むと、“和平プロセス”の継続を強く望んでいる部分も見られる。その解釈は読む人によって、かなり異なってくるのではないかと思う。

今日(10月5日)のアクシャム紙で、エティエン・マフチュプヤン氏は、クルド側もISISの出現で、これまでの思惑が外れてしまったため、オジャラン氏の発言には『なんとかしてくれ!』という要望が含まれているのではないかと分析している。

シリアのクルド勢力は、自治区を確保するために、アサド政権が当面維持されることを望み、トルコに対して協力的ではなかったが、最初から協力していれば、もっと良い立場を築けていただろうとマフチュプヤン氏は言うのである。

いずれにせよ、“和平プロセス”が直ぐに頓挫してしまうことはないという分析であり、クルド問題に詳しいルシェン・チャクル氏(ヴァタン紙)の分析もこれとそれほど異なるものではない。

なにより、南東部のクルド人の民衆は、平和が一日でも長く続くことを願っているだろう。

イラク、シリアと欧米が創り上げた国家は、全て破綻してしまった。米国が望んでいるという“大クルディスタン”なる国が誕生したとしても、同様の末路を辿るような気がする。

トルコ人とクルド人は、民族の概念が曖昧だったオスマン帝国で、長い間同じムスリムとして存在していたのであり、どちらかが支配されていたという関係ではなかったと言われている。現在のトルコ共和国も、その歴史的な関係を継続させようと努力しているのではないかと思う。



10月8日 (水)  メッカへの大巡礼(ハッジ)

(10月6日)

メッカへの大巡礼(ハッジ)は、犠牲祭が始まる日に終わるそうだ。トルコから巡礼へ出かけた人たちの日程がどうなっているのか良く解らないが、その多くは、今週中にでも帰路へつくのではないかと思う。

一昨年の10月、トラブゾンからイスタンブールへ帰る飛行機で、この巡礼者の方たちと一緒になった。白い巡礼用の服を着ているので、何処へ行く人たちなのか直ぐに解ってしまう。イスタンブールでトランジットして、メッカへ向かうのである。

私の隣の席も巡礼の老夫婦だった。席につこうとしたら、やはりそこで立ち止っていたおじいさんが、私に半券を見せながら、「私らの席はここでしょうか?」と訊く。私は通路側だったので、まず、おばあさんに奥の窓際に入ってもらい、おじいさんは真ん中の席に座った。

おじいさんは、人の好さそうな小柄な方で、席につくと私の方を振り向いて、「すみませんねえ、私ら飛行機に乗るのが初めてなもんで、これ、どうやって着けるのか解らんのですよ」と言いながら、安全ベルトを示した。本当に申し訳なさそうな様子で、こちらが恐縮してしまう。

「私が着けてあげましょう」とお答えし、おじいさんのベルトを手にとって見たものの、向きが逆になっているので、どうも勝手が違う。まごまごしていたら、隣のおばあさんが「こう着けるんですよ」と言って笑った。見ると、もうしっかりベルトを着けている。ちょっと得意そうにしていたけれど、とても愛嬌のある品の良い笑顔だった。

しかし、飛行機がいよいよ滑走路に入って加速し始めると、それまで悠然と構えていたおばあさんは悲鳴をあげ、飛行機が上空に達するまで、頭を抱えて泣き叫んでいた。おじいさんは、「おい、しっかりしろ」と妻を労わりながら、また申し訳なさそうに私の方を振り返った。

飛行機が上空を航行している間、おばあさんは平静を取り戻していたけれど、着陸態勢に入ったら、また同じことを繰り返した。ずっと頭を抱えたまま、窓の外を見なければ良かったのに、何となく気になって、つい見てしまうらしい。確かに、初めて飛行機に乗ったおばあさんにとって、眼下に見えるイスタンブールは、とても恐ろしかったに違いない。

御夫婦とはイスタンブールで別れたが、あれからメッカへ行ってトラブゾンに帰るまで、少なくとも3回は飛行機に乗ったはずである。おばあさんは大丈夫だったろうか?

それにしても、こういったお年寄りばかりの団体を引率している添乗員の仕事は、なかなか大変だと思った。無事、日程が終了するまで、様々なトラブルに対応しなければならないだろう。今頃、メッカで、とりあえず巡礼の行事だけは終了して、彼らはホッと胸を撫で下ろしているかもしれない。


10月9日 (木)  35年前の日本の信仰旅行

(10月6日)

高校を卒業した年、日本の某地方にある温泉街の観光ホテルへ、アルバイトに行った。その年の9月から住み込みで働き始めて、翌年の4月までそこにいた。

冬は一晩で2〜3mの雪が積もる豪雪地帯で、12月の中旬から翌春にかけて、温泉街はスキー客で賑わう。しかし、スキー・シーズンが始まる前の11月、紅葉も散ったこの地方を訪れる旅行客は珍しく、殆どの旅館やホテルが、11月の間は休館していた。その為、温泉街はまるでゴーストタウンのようになってしまう。

ところが、私が働いていた観光ホテルだけは、その11月に特別な企画を実施して、ほぼ連日、全館満室の賑わいを見せていたのである。

それは、県下の各真宗寺院に呼びかけて、門徒の御老人たちに念仏付きの一泊温泉旅行を楽しんでもらうという企画だった。各寺院の住職さんらに引率された門徒の団体が入れ替わり立ち代りやってきて、1ヵ月の間、ホテルはてんてこ舞いの忙しさになる。

御老人たちは、バスで昼過ぎに到着すると、まずゆっくり温泉に入り、それから玄関ホールの奥にあるロビーに集まって念仏を唱える。ロビーの正面には大きな仏壇があって、普段、ロビーとして使っている時は、とても違和感があった。

11月の最終日、最後の団体をお迎えした時には、従業員も皆ロビーに集められ、大掛かりな法要が催された。僧侶が何人も仏壇の前に並び、読経をあげるのだが、なんとも言えない調子とリズムがあって、しかも各々の僧侶が絶妙にハモりながら、クライマックスを演出するのである。あれはなかなか味わい深いものだった。

もちろん、念仏と温泉ばかりじゃなくて、夜は大広間で宴会が開かれた。宴会では旅回りの芸人さんによる様々な余興も披露されたが、どんなものがあったか殆ど記憶にない。漫才がもの凄くつまらなかったことだけ覚えている。

宴会が始まる前には、副社長という肩書きのホテルの経営者さんが、必ず大広間に出てきて挨拶した。

いつも、「門徒の皆様の篤い信仰心に応えるため、採算を度外視して当ホテルを提供させて頂いております」みたいな同じ口上を述べていたけれど、一度、何処かの爺様が「嘘こけ! 採算も取れんのに、こんなことするわけがなかろうが!」と大きな声で言い放ったら、経営者さん、かなりうろたえていた。

私たちの仕事は、朝、まず大広間で朝食の仕度を整え、お客さんが大広間に降り始めたら、その間に各室のふとんを上げる。それから、大広間を片付け、お客さんがお帰りになった後で、各室の清掃に入る。

清掃は、男女のペアで行い、男子が部屋掃除、女子が浴室にトイレと決まっていた。私の相方は、その年、県下の高校を卒業して入社した正社員の女子である。(すらりとした美人で、私は未だに彼女の容姿を克明に思い出せる)

今考えると意外な気もするが、当時、既に客室のトイレは全て洋式になっていた。ホテルと言っても、表玄関で靴を脱いで上がってもらう旅館スタイルだったし、和室ばかりでベッドのある洋間もなかった。それにも拘らず、トイレだけは洋式だった。

しかし、そのために、トイレを掃除している相方の彼女は、1ヵ月の間に3回ほど悲鳴を上げなければならなかった。

つまり、洋式の使い方を知らない御老人たちが、便器の外へ放出したまま、お帰りになってしまうのである。

*****

先刻、「メッカへの大巡礼(ハッジ)」という駄文を書いて、『あの団体を引率する添乗員さんは大変だろうなあ』と思いながら、なんとなく35年前のこんな話を懐かしんでしまった。

あの門徒の御老人たちも、飛行機など乗ったことはなかっただろう。それどころか、バスに揺られて、同じ県下の温泉を訪ね、湯に入ったり、念仏を唱えたりするだけで、「ありがたや」と満足されていたかもしれない。多分、それぞれの時代に、それぞれの楽しみがあり、満足があるのだと思う。



10月10日 (金)  観光ホテルの思い出

(10月7日)

35年前に8ヵ月間住み込みでアルバイトした温泉街の観光ホテルは、副社長と専務という肩書きの兄妹である方たちが経営に当たっていた。妹の専務さんは、いつも和服を着こなしていて、いかにも“旅館の女将”という雰囲気だった。

オーナー社長は、65〜75歳ぐらいの女性であり、普段は東京にお住まいになっていた。この方が、ホテルへいらっしゃった時は、従業員一同が揃ってお出迎えし、周囲の空気がピリピリと張り詰めたのを思い出す。

ホテルには、経営者の方たちの住居が隣接していて、女子従業員はこの“お屋敷”の女中さんも兼務していた。私は生意気に、『これって公私混同じゃないの?』と思ったけれど、従業員の多くは特に抵抗も感じていなかったようだ。

住み込みで働いている若い女性たちの部屋は、お屋敷の中にあって、ホテルの仕事が終わると彼女たちはお屋敷へ引き上げて行くのである。一方、私たちが寝泊りしていたのは、梯子のような階段を伝わって下りる薄暗い地下室の大部屋に二段ベッドを1ダースほどびっしり並べた“男子寮”だった。

夜、仕事が終わってから温泉街へ飲みに行って、寝静まった“寮”に戻って来ると、電気を点けられないものだから、『何番目のベッド』と数えながら進んだつもりで数え間違え、人が寝ているベッドに入り込もうとして大騒ぎになったりした。

従業員の間で、オーナー社長の女性は、畏怖の念を持たれていたし、副社長さんも結構煙たがられていたけれど、専務さんや、その下の常務さん等、弟妹の方々は、皆に慕われていた。私も専務さんには大変お世話になったと今でも有難く思っている。

私に仕事を教えてくれた先輩のYさんは、東京の大学の法学部にいた人で、「ここの経営者は労働基準法に違反しているのではなくて、はなから無視しているんだよ」なんて良く話していたものの、そこには何気ない親しみが込められていたかもしれない。

でも確かに、そのやり方は、労働基準法に照らし合わせたら、かなりずれていたと思う。シフト制などなかったから、勤務時間は、朝早くから、昼の休憩を挟んで、夜遅くまでと非常に長くなる。昼の休憩時間がなくなることもあった。

私の仕事は皿洗いから始まって、これが1ヵ月近く続いた。洗い場には、“さっちゃん”という同年輩の知的障害のある女性がいた。彼女の手は、洗剤荒れでゾウの皮みたいになっていて悲惨な状態だった。彼女は「手の動きが悪くなる」と言って、ゴム手袋を着用しようとしなかったのである。

私も職場の先輩である彼女の真似をしたわけじゃないが、ゴム手袋を使わないでいたら、1ヵ月で酷いアカギレになり、『これを何処まで続けると、あんなゾウの皮みたいになるのだろう』と恐ろしく思った。

さっちゃんは、皿を割ってしまったり、何か失敗したりすると、どう対応して良いのか解らなくなって、そこでじっと固まっていたりしたけれど、普段は朗らかにホテルでの生活を楽しんでいるように見えた。

彼女は、私を心安い同僚であると認めてくれたのか、「シン(新)ちゃん、これ手伝って」と気軽に何でも頼んできた。それで持ち場が変わってからも、時々洗い場の仕事を手伝っていたが、フロントにいたSさんという大卒の青年にこれを非難されたことがある。

Sさんは、私より少し後にホテルへやって来て、最初からフロント専門だった。働き始めていくらも経たない内から、「ここの労働状況は酷すぎる。組合を結成して闘わなければならない」と主張するようになり、さっちゃんの悲惨さを訴えたりしたので、私が「それなら貴方もたまに手伝ってくれたらどうですか?」と言ったら、「君はさっちゃんではなく、経営者の手伝いをしているのが解らないのか?」と呆れたような顔をしていた。

しかし、Sさんは組合を結成することもなく、それから間もなくホテルを去ってしまう。

その数日後、さっちゃんも交えて何人かで飲んでいると、さっちゃんは、「Sさん立派な方やったわあ。シンちゃんとはえらい違いだわあ」などと言うのである。私もさすがにムッとして、「こらあ、そんなこと言うと、もう絶対に洗い場は手伝わないからな」と言い返したところ、「ごめん、ごめん、怒るなシンちゃん」とさっちゃんは笑っていた。

しかし、私はそれまでSさんとさっちゃんに接点があったとは思っても見なかったから、『二人はいったいどんな話をしていたんだろう?』と内心とても不愉快なものを感じた。

洗い場が終るのは、どうしても一番最後になるので、うんと忙しい時は、なにも私に限らず、先輩のYさんやアルバイトの若い人たちが手伝うこともあった。専務さんも時には洗い場に入って、額に汗を浮かべながら終了するまで手伝ってくれた。まあ、太った体で通路は塞ぐし、動きは遅いしで、ありがた迷惑なところもあったけれど・・・。Sさんだったら、「経営者が手伝ってくれたのを有難いと思うなんて、何と愚かなことだ」とでも言うだろうか?

でも、こんな偉そうなことを言って、私もSさんが去った3ヵ月ぐらい後には、ホテルを辞めてしまった。だから、洗い場を手伝ったりしたのも、「つまらない自己満足の為じゃないか」と言われたら、それまでかもしれない。

これは35年経った今でも、“永遠の命題”みたいになって、頭の片隅に残っている。もちろん、どちらが正しいとか、そんな答えはいくら考えても見つからないだろう。ただ、この一件が、私に「左翼インテリに対する言いようのない嫌悪感」を植えつけてしまったのは間違いないと思う。



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