Diary 2014. 1
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1月1日 (水)  2014年のトルコ

謹賀新年。明けましておめでとうございます。

2014年は、トルコにとって、どんな1年になるだろうか?

昨年は、“クルド和平のプロセス”がいよいよ現実味を帯びて来る中で、希望に溢れる1年の幕が開いたけれど、6月の“ゲズィ公園騒動”を境に影が差し始め、最後は、“疑獄事件”の騒乱の中で幕を下ろしている。そして今年は、騒乱の治まる気配もないまま、不安に満ちた年明けとなってしまった。

しかし、今のところ、“クルド和平のプロセス”は、“ゲズィ公園騒動”にも“疑獄事件”にも影響を受けることなく続いている。この点から見れば、昨年のトルコは、かつてない“平和な1年”を過したと言えるだろう。

今日、ザマン紙のエティエン・マフチュプヤン氏は、“クルド人の知性が皆に必要だ”と題されたコラムで、クルド人の政治勢力が、“ゲズィ公園騒動”で政府の強権を非難し、“疑獄事件”で不正の追及を要求しながらも、決して反AKPのサイドに与しなかった知性を評価していた。

クルド人たちが、人権と自由を語り合い、その誠意に信頼を寄せられる“政治的なパワー”は、AKP以外にないと言うのである。

マフチュプヤン氏が、年頭のコラムで、この“クルド和平のプロセス”に言及したのは意義深い。それは、トルコが解決しなければならない最も重要な問題であるからだ。これを解決せずして、トルコ共和国がその将来を築くことは不可能だろう。

現在進行中の“クルド和平のプロセス”を反故にしようとすれば、トルコ共和国そのものを反故にしてしまう危険性すらあると思う。

AKP非難に血道を上げながら、“クルド和平のプロセス”には、言及さえしようとしない人たちは、いったいトルコをどうしてしまうつもりなのか・・・。

でも、希望の輝きは、まだ少しも失せていないかもしれない。例えば、エルドアン首相は、年末の遊説で、“疑獄事件”の裏には陰謀があると決め付けながら、その陰謀は“クルド和平のプロセス”を台無しにしようとしていると訴えていた。これは2年前でも想像できなかったはずだ。

エルドアン首相のAKP政権は、クルド問題に対して、とても慎重に歩を進めて来た。“クルド語による教育”等が分割の道標に成りはしないかと見極めつつ、クルド側と話し合いを続け、おそらくは、同時に政府内部・軍とも調整を重ねて来たのではないだろうか。

トルコ軍では、多分、1994年から2007年まで、クルド勢力の武力制圧を主張する軍人たちが主流派だったと考えられている。それが、この数年で大きく変わってきた。今やトルコ軍も“クルド和平のプロセス”を後押ししているようだ。

AKPは、軍の反発だけでなく、“トルコ民族主義的な国民”の反発も恐れていたに違いない。なにしろ、自分たちの票基盤の一部は、この“トルコ民族主義的な国民”たちである。その為、クルドとの和平を模索しながら、選挙が近づくと一歩後退して、トルコ民族主義的な主張を繰り返したりしていた。

それが、選挙を前にした遊説でも、「“クルド和平のプロセス”を守ろう!」と国民に訴えるようになったのである。これは、昨年の1年を通して続いた平和により、“クルド和平のプロセス”が既に国民の信を得ているという自信の表れだろうか? いずれにせよ、画期的な出来事じゃないかと思う。

【144】クルド問題−オザル大統領からエルドアン首相へ【ミリエト紙】【2006.04.19】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00144.html

この2006年4月の記事で、ジャン・デュンダル氏は、クルド和平から一歩後退したエルドアン首相を批判しながら、故オザル大統領の“勇気”を称えている。

しかし、あのオザル大統領の勇気は、クルド和平に何をもたらしただろう? 間もなくして、オザル大統領は不審な死を遂げ、その後はクルドの人たちにとって悪夢のような日々が続いてしまった。

政治に必要以上の勇気など出されても困る。

今回の“疑獄事件”で標的にされたハルク銀行は、イランとの石油の取引に使われていたが、経済封鎖が強められ、金による決済も認められなくなった以降は、この取引を一切停止しているとAKP政権は弁明している。本当だろうか?

その後も、北イラクとの石油取引に、このハルク銀行を使おうと交渉を進めていたらしい。結局、北イラク側がイラク中央政府と合意して、ハルク銀行は外されてしまったが、やはりこれは“外された”のであり、トルコ側が「どうぞ外して下さい」と譲歩した可能性はないようである。その後もユルドゥズ資源相は、ハルク銀行に誘致してみせると強気の発言を繰り返している。これが過剰な勇気でなければ良いのだが・・・。

この2014年も、トルコにとって、平和な1年となるように祈りたい。

エティエン・マフチュプヤン氏のコラム−Zaman(トルコ語原文)
http://www.zaman.com.tr/etyen-mahcupyan/kurtlerin-akli-herkese-lazim_2190676.html

フアト・ケイマン氏(Fuat Keyman)のコラム−Milliyet(トルコ語原文)
http://siyaset.milliyet.com.tr/milliyet-e-veda-ederken/siyaset/ydetay/1815828/default.htm


*自己紹介欄のメールアドレスは既に使えなくなっているので、私(新実誠)へのお問い合わせは下記のアドレスにお願いします。↓

makoton1@hotmail.co.jp



1月2日 (木)  トルコの新年

大晦日の夜は、新年のカウントダウンなどがあったりして、ニシャンタシュやタクシム広場の辺りは、例年のように盛り上がったそうだ。

他のイスラム諸国で、こういった新年行事は行なわれているのだろうか? おそらく多くの国が、公式にはグレゴリオ暦さえ採用していないと思う。

トルコでは、共和国革命により、グレゴリオ暦が公式の暦に定められ、元日は公休日となっている。週の休日も金曜日ではなく日曜日である。

この暦法の改正とラテン文字の導入は、共和国革命の最も大きな成果に数えられるだろう。イスラム的な保守層は、スカーフ着用の禁止などに激しく抵抗していたけれど、こういった改革は受け入れていたようだ。新年の行事も既にトルコの伝統の一つとして定着しているかもしれない。

我が街の信仰に篤いジャー・ケバブ屋さんは、「私らムスリムにとって、新年は祝祭というわけじゃない。でも、1年の区切りとして、アッラー(神)の前で、昨年の行いを反省し、新しい年に何をやるべきか考えることにしているよ」と語っていた。

もちろん、彼らは、カウントダウンのような新年の行事に加わったりはしないが、乱痴気騒ぎでも起こらない限り、特に嫌な顔もしていない。「ああやって喜んでいる連中もいるんだなあ・・・」ぐらいである。

ところで、こういった政教分離に基づく改革は、全て共和国になってから一斉に始まったわけでもないらしい。オスマン帝国時代の19世紀初頭以来、少しずつ西洋化の動きは始まっていたという。

一昨年の11月頃、オスマン帝国時代のルム(トルコに住むギリシャ人)の報道活動に関するシンポジウムを見学したところ、パネリストのニコ・ウズンオウル氏は、「我々ルムは、帝国のミドハト憲法のもとで、何の問題もなく暮らして行くことができた」と語っていた。

イスタンブールのルムは戻って来るのか?
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=1

しかし、ミドハト憲法に、いくら政教分離的な要素があったとしても、トルコがイスラム法を完全に廃して、政教分離を達成したのは、共和国革命を迎えてからのはずである。ニコ氏の発言には、『我々が不満を懐いているのは、オスマン帝国でもイスラムでもない、共和国の排外主義だよ』という嫌味が込められていたように感じた。ニコ氏はその前年に、アテネでエルドアン首相と会っていたそうである。(↑イスタンブールのルムは戻って来るのか?)

ルムの故マリアさんも、何かに付けて「私たちルムは、オスマン帝国のテバ(臣民?)だったのだ」と不満を漏らしていた。

多民族・多宗教のオスマン帝国から、住民交換等の政策により、キリスト教徒らを国外に退去させたため、トルコ共和国はかなり純度の高いイスラム教徒の国になってしまった。オスマン帝国のミドハト憲法には、宗教間の差別を無くすという意味合いの政教分離的な側面も見られたようだけれど、98%がムスリムの共和国では、そもそも宗教間の差別は、あまり問題にならなかったかもしれない。

共和国は、分割寸前のオスマン帝国から、ムスリムが自分たちに残された国土を守り抜いて樹立した国家だ。政教分離も自分たちの近代化の為であり、暦法の改正は、国際社会の一員となる意思表示だったように思える。

ところが、一度は亡国の瀬戸際に立たされた所為か、過剰防衛に陥ってしまい、80年代までは、何だか国際社会の隅にじっと佇んでいた印象がある。

それが、近年の経済発展で自信を回復し、再び国際社会の檜舞台に躍り出ようとしている。オスマン帝国時代は、何の問題もなく一緒に暮らしてきたクルド人との和平も、あと一歩のところまで近づいた。そればかりか、北イラクのクルド人たちもトルコに熱い眼差しを向けていることが解ってきた。ルムの人たちもトルコへ戻って来ようとしている。なんとなく、オスマン帝国時代の絆は未だ残っているような気もする。これには、トルコの人たちも驚いているだろう。

「長い間、“小さい国だ”と思い込まされてきたが、実のところ、トルコは偉大な帝国の後継者なのだ」という知人の言葉にも、この“驚き”が表れているのではないかと思う。

欧米の人たちも同様に驚いているかもしれない。しかし、こちらは嬉しい驚きじゃなさそうだ。彼らに安心してもらえるような工夫も必要ではないだろうか。




1月3日 (金)  アタテュルク主義者によるアタテュルク批判?

AKP政権を忌み嫌う人たちは、「AKPがアタテュルクを消そうとしている!」と反発している。

アタテュルクは、今でも国父として敬愛の対象であり、消されそうになっているとも思えないが、以前と比べて、確かに扱いは小さくなった。でも、国父への崇拝が余りにも激しいのは、何だか“第三世界の国”みたいで、嫌な感じがしていたから、今ぐらいがちょうど良いような気もする。

年末、友人の奥さんと雑談していて、これが話題になった。彼女も「アタテュルクを消そうとしている!」と怒っていた。しかし、その後で、「アタテュルクも嘘ついたけれどね」と付け加える。「“トルコ人は勤勉である!”とか“トルコ人は賢い!”なんて嘘ばかり・・・」と言うのである。

これでまた、2007年に、シヴァス県の教員宿泊施設で聞いた話を思い出してしまった。相部屋になった教員は、「日本ように勤勉で賢い国民がいれば、諸外国と競合して行くことも可能だが、この国には愚かな怠け者が多いから、外国資本の食い物にされてしまう。しかし、我が国は日本と違って国土が広く豊かだ。国を閉ざしても充分やっていける」と論じていた。

トルコ共和国は、帝国末期に亡国の瀬戸際に立たされたトラウマから、アタテュルク亡き後、とにかく縮こまって国を守ろうとしていたのかもしれない。これが今でも一部の人たちの間で続いている。

アタテュルク主義者によるアタテュルク批判としては、次のような話も聞いた。ある友人は、アタテュルクが救国の対象に、クルド人地域も含めてしまったのが間違いだったと嘆いていた。東部地域は切り捨てて、もっと小さなトルコ共和国を作れば良かったらしい。

こういう人たちは競争も嫌っている。自分たちが手に入れた僅かばかりの権益を守り、新規参入者との競合も拒んで、ずっと“ぬるま湯”の中に浸っていたいのだろう。

数年前の話で今はどうなっているか解らないが、国立管弦楽団なども、「構成員は国家公務員になっていて首になる心配がない、入団試験は欠員が生じなければ行なわないから新規参入者との競合もない」という驚くべき“ぬるま湯体質”だったそうだ。

トルコで、政治家・官僚・軍人が秀でているのは、結局、こういう分野はオスマン帝国以来のもので、それなりの伝統を受け継いでいるからじゃないかと思ってしまう。

クルド人地域は切り捨てても構わないと考えているのであれば、確かに“クルド和平のプロセス”などどうでも良いのかもしれない。しかし、そんなマイナス思考では何処へも行けないのではないだろうか。

AKP政権も長期に亘ったから、そろそろ交替しても良い時期だとは思うけれど、受け皿が見当たらないのは困ってしまう。政権に就くためには、プラスの何かを見せてもらいたいが、今のところ、野党勢力は、相手の失策に乗じて得点を狙っているだけのように見える。



1月4日 (土)  四海の内は皆兄弟

経済と気持ちの面で余裕のない生活を続けてきた所為か、正月に年賀状を出すのは、もう随分前に止めてしまった。それでも、一昨年ぐらいまでは、メールで新年の挨拶などを少し送ったりしていたが、それも殆ど書かなくなった。だから、私のところへも正月にメールが来ることはない。

と思っていたら、今年は一通、ごく簡単な新年祝いのメールが届いた。ソウルの明仁からだった。

明仁は在韓華僑の友人。昨年の4月にソウルを訪れた時は、とても世話になった。いつも韓国語の発音で“myongin”と呼んでいるけれど、中国語の発音は“ming yen”であるらしい。これをそのメールで初めて知った。

それで明仁にハングルで返信を書き、もう一つ、やはり4月のソウルで世話になった韓国人の友人李さんにも簡単な新年祝いをハングルで書いて送った。そしたら、翌日、李さんから丁重な数行にわたるメールが返って来た。如何にも律儀で実直な李さんらしいメールだった。

李さんは、亡くなった明仁の兄の友人である。80年代の中頃、ソウル近郊の龍仁で、明仁らのお父さんが経営していた中華料理屋へアルバイトに来ていたそうだ。彼はその頃、韓国外国語大ドイツ語学科の学生だったが、中華料理屋がキャンパスに近いから来ていたらしい。

ところが、そこで明仁の家族と知り合い、家族が話す中国語に興味を覚えて勉強し始めたら、ドイツ語は何処かへ行ってしまい、卒業すると、ドイツではなく台湾に留学したと言うから、ちょっと変わっている。亡くなった明仁の兄は「彼の中国語は完璧だ」と評していた。

さらに、李さんのメールアドレスが、またちょっと変わっていて、間に“sihai”という文字が入っている。“四海”の中国語の発音だと言う。

“四海”は、論語の以下の一節に出て来る“四海”である。

「死生命あり、富貴天に在り。君子は敬して失なく、人と恭々しくして礼あらば、四海の内は皆兄弟たり」

中国では、この“四海の内は皆兄弟”という言葉が、今でも頻繁に使われるらしい。私も“死生命あり”から始まる一節が大好きだ。今年が、これに相応しい1年になることを祈りたい。

4月30日 (火) 在韓華僑の友人
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=4

5月7日 (火) ソウルの晩はパラダイス!
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2013&m=5

しかし、現実の世界では、今年も日中関係は芳しくないようだ。“四海の内は皆兄弟”からはほど遠い。ネットの記事を読んでも、“中国崩壊!”なんて言葉がたくさん出て来る。

これが単なる“ガス抜き”を狙っているのであれば、『日本はいつからこんなガス抜きが必要な国になってしまったのか・・・』と悲しくなっても、ある程度は納得できるけれど、本気で“崩壊”を期待して、それによって戦略を立てようとしているのであれば、なんだか血の気が引いてしまう。これでは、トルコの野党勢力と全く変わるところがない。

例えば、将棋の場合、相手は必ず最善手を指して来ると想定して、次の一手を考えなければならないはずだ。相手の悪手を期待しながら指したら、大概負けてしまう。太平洋戦争もそうやって負けたような気がする。これは本当に恐ろしい。



1月5日 (日)  サイクリング通路?

今朝、また長い停電があった。ネットの接続も切れ、ニュースが読めなくなったので、散歩がてら新聞を買いに行こうと思って外へ出た。

この街で、スポーツ紙や娯楽紙以外の新聞は、20分ぐらい歩く店まで行かないと売っていない。ちょうど良い散歩コースになる。

店に着いたら、驚いたことに、その辺りも停電中だ。かなり広範囲な停電らしい。交差点の信号も消えていた。

新聞買って、交差点近くの茶店でチャイを飲んでいる内に電気が来た。信号が消えている交差点の様子を写真に撮ろうと思いついたところだったから、ちょっと残念な気がした。でも、一応、交差点の周囲を写真に収めた。

一帯は、最近、歩道を造りなおしたばかりだが、もう少しガタが生じていた。なんともお粗末な工事である。

歩道は、端の部分だけアスファルト舗装になっていて、そこに自転車のマークが描かれている。サイクリング通路ということらしい。しかし、まだここで自転車を走らせている人を見たことがない。そういう人は、いつまで経っても現れないような気がする。

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1月6日 (月)  韓半島の統一

先ほど、インターネットから韓国のKBSニュースを観ていたところ、就任一周年の記者会見で朴大統領が、「統一は“テバク(大舶)”だ」と語っていた。“テバク(大舶)”の意味が良く解らなかったけれど、どうやら統一への固い意志を強調した言葉であるらしい。

私は、朴大統領の“反日”が、ひょっとすると統一への“理論武装”じゃないかと想像を膨らましたりしていたので、『うーむ、いよいよか』なんて唸ってしまった。もちろん、どのくらい現実味のある話なのか、今の段階でははっきりしていない。

でも、統一は韓国・朝鮮にとって、民族の悲願だろうし、必ずやり遂げなければならない事業じゃないかとは思う。

一昨日は、イスタンブール在住の韓国人宅に招かれて、夕食を御馳走になった。証券会社の社員として、日本に赴任していたこともあるという方なので、97年のIMF救済時の状況などもちょっと訊いてみた。「日本企業が韓国への投資金を引き上げ始めてから、一大事になったと気がついた。日本の企業は情報が早かったようだ」と回想していた。

良く解らないが、当時、韓国の人たちには、『日本に見放された』という無念さもあったのではないだろうか。私の感覚だと、韓国の反日が最も薄れた時期は、IMFの直前、90年代の中頃だったような気がする。

あの頃は、スポーツで日本と中国が試合すると、韓国の人たちの多くも日本を応援してくれるという信じられない事態が起こっていた。あのまま進んで行けば、日韓の結びつきは、かなり強くなっていたかもしれない。その夢がIMFで一気に萎んでしまう。『アメリカに仕掛けられた』という陰謀説にも一理あると頷けるほど残念な成り行きだった。

私は時々、韓国の人たちの日本を恨む気持ちは、かえって戦後になってから蓄積されたのではないかと思ったりする。統治時代、日本は朝鮮に投資して、開発が進み、経済も発展した。ところが、太平洋戦争が始まると、朝鮮の人たちも戦場へ駆り出され、一緒にアメリカと戦ったのに、戦争が終わって気がついたら、日本だけアメリカ陣営の一角を占めて着々と経済発展を遂げ、平和を謳歌していた。それに引き換え、韓国は朝鮮戦争で悲惨な戦場となり、その後もベトナム戦争への参戦を余儀なくされてしまう。傍から観ても『それはないだろう・・・』と思えるコントラストに違いない。

我々日本人の中には、「統治時代に日本が韓国のインフラを整備してあげた」などと言う人もいる。しかし、あれは日本が使うつもりで整備したのに、戦争に負けて手放さなければならなくなっただけである。“敗戦”を強調しているようでみっともないから、余り偉そうに言わないほうが良いだろう。

日本は冷戦のお陰で大いに繁栄し、敗戦の咎めもある程度猶予された。それが冷戦の終結で、また一斉に蒸し返されているようにも思えるが・・・。

竹島の問題にしたって、『韓国は既に実行支配しているのだから黙っていれば良いのに、何故、騒ぎ立てるのか?』なんてつまらないことを考えてしまったけれど、黙っていれば良かったのは日本のほうであるかもしれない。

何の強制力も持っていない国際司法裁判所が当てになるのだろうか? 取り返すつもりだったら武力に訴えるよりないような気がする。これは大変だ。

日本はトルコと比べ物にならないくらい、近隣諸国との間で難しい立場に置かれているのではないかと思う。


*“テバク”の漢字を“大船”と誤って記していました。“大舶”に訂正します。


1月7日 (火)  トルコの権力闘争

エルドアン首相を始めとする政府要人らが日本を訪れている。これで他に大きなニュースがなかったら、日本がもっと話題に上るところだが、昨年の12月17日に始まった“疑獄事件”騒動は未だ治まる様子もなく、ニュースの主役に居座り続けている。まったく残念であるとしか言いようがない。

その“疑獄事件”だが、政府寄りの主要メディアでは、既に「国家の中に巣食う“もう一つの国家”」問題にすり替わってしまった。“もう一つの国家”とは、フェトフッラー・ギュレン教団が、メンバーを警察や司法に送り込んで形成したとされる“組織”のことである。

警察や司法内に教団のメンバーがかなり入り込んでいたというのは、随分前から囁かれていて、教団も特に否定して来なかったようだし、今回の事件では、AKP政権に対して、真っ向から対決姿勢を取っている。

しかし、かつてAKP政権と教団は協力関係にあり、軍の一派がAKP政権の転覆を図ったとされる“エルゲネコン事件”等では、2007年に、この“軍の一派”が摘発されて始まった司法過程において、主導的な役割を果たしたのも、この教団のメンバーだったと言われている。 

その後、下された判決では、一派に加担したとされる軍高官が終身刑に処せられるなど、あまりに重い刑罰に、AKP政権内部からも「これは厳しすぎる」という声が聴かれた。 

そして今回、AKP政権は、“もう一つの国家”の一掃を宣言しながら、“エルゲネコン事件”等の再審も提起している。つまり“教団の司法”ではなく、公正な司法で再審すると言いたいらしい。

どうやら、AKP政権は、政権の転覆を図る軍内部の反対派を封じ込めようとしただけで、軍の弱体化までは意図していなかったのに、所謂“教団の司法”が勝手に独走してしまったようである。

軍の信奉者である知人によれば、もともと軍内部にも、政教分離主義のエリート層を支持する一派と、民衆の側に立とうとする一派の対立があり、“軍内部の清算”によって、エリート派は一掃され、司法へ引き渡されてしまったそうだ。「トルコ軍は、民衆の軍であることを選択したのです」と知人は語っていた。

どうなんだろう? 私には、なんとなく、軍や政界で、“反オスマン帝国”主義者と“オスマン帝国の後継者”を主張する人たちが対立していて、結局、AKPや現在の軍主流派のような“オスマン帝国の後継者”側が勝利したのではないか、そんなような気もする。

もちろん、“オスマン帝国の後継者”と言っても、また領土を広げようというのではなく、ルムや北イラクのクルド人とも積極的に交流して、経済圏を拡大して行こうという意味じゃないかと思う。

だから、トルコ共和国の体制は維持されるし、それほどラディカルな変更も行なわれないが、イスラム教は国民の紐帯として再び役割を果たすようになる、こんな感じかもしれない。

そもそもイスラム教を好ましくない宗教として、社会の隅へ追いやろうとするのは無理があっただろう。自分たちの宗教や伝統に固執するのも問題だが、それを切り捨ててしまったら将来は築けないような気がする。

さて、仮に、軍の一派を裁いたのが“教団の司法”であったとして、彼らは、何故、そこまで軍を痛めつけようと思ったのだろう? リベラル派の知識人は、民主主義の観点から、軍の影響力が完全に排除されることを望んでいた。教団はそれに同調したようだけれど、ちょっと良く解らない。

確かに、リベラル派が望んでいた“民主主義”は達成されなかった。司法でも、教団側と政権側の争いが続いていて、公正な法治国家にはほど遠い。でも、改革は始まったばかりで、これからじゃないかと思う。

“疑獄事件”が勃発して、その不正に眉を顰めた人もいるけれど、中には「ああ、何かまた“権力闘争”が始まったな」と最初から醒めた見方をする人もいた。なにしろ、ちょっとした事業申請を行なう際も、申請書の間に札束を忍ばせるのは常識と言われていた社会である。人々は役人の不正ぐらいで驚かない。

日本だって、政治家の不正や女性スキャンダルが取り沙汰されて、直ぐ思い浮かんだのは、やはり“権力闘争”じゃなかっただろうか?

私は、事件が勃発した12月17日付けで、以下の駄文を書いて、最後に「(エルドアン首相の子息の)ビラル氏が思わぬ不正事件などに巻き込まれないよう祈りたい」と記したけれど、これを書いた時は未だ16日で、翌日、あんなことになるとは夢にも思っていなかった。

12月17日 (火) エルドアン首相の評判
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=12

ただ、その前の“学習塾廃止騒動”で、教団と政権の対立が明らかになった為、選挙を前にして何か仕掛けて来るのでないかという噂は出回っていた。こういう“仕掛け”は、日本と同様、何処でも大概が不正か女性スキャンダルだろう。

しかし、トルコで女性スキャンダルをネタにされる場合、指を3本出して「これでどや?」と言ったとか、コスプレで“ステテコ”履いたなんて微笑ましい話じゃ済まされない。嘘か本当か“同衾中のビデオ”というのが、いきなりネットにばら撒かれてしまう。CHPのバイカル前党首は、これで党首の座から引き摺り下ろされたのである。


1月8日 (水)  AKP対教団?

トルコ民族主義には、二通りあると言われ、ひとつはかなりイスラム色の濃い民族主義。これを主張する人たちは“栄光のオスマン帝国”への郷愁を強く懐いていて、MHP(民族主義行動党)の支持者が多いものの、当初よりAKPを支持して来た人も少なくない。

もう一つは、イスラム色が殆どない民族主義で、こちらは“オスマン帝国”への郷愁が全くないどころか、これを強く否定している。彼らはアタテュルクと共和国をこよなく愛し、自分たちの源として、遥か昔の“突厥帝国”に仄かな郷愁を感じているようだ。支持政党はCHPである場合が多い。

先日、フェースブックに、後者の典型と思われる知人が、「“AKPのファーストイレブン”と“(フェトフッラー・ギュレン)教団のファーストイレブン”」などという洒落にもならないリストの画像を貼り付けていた。

“AKPのファーストイレブン”は、もちろんエルドアン首相から始まっているが、名前を記すのも嫌なのか“RTE(レジェプ・ターイプ・エルドアン)”と頭文字で済ませている。

2番目以下は次のように続く・・
2−アキット新聞(イスラム色の非常に濃い新聞) 
3−追従メディア 
4−アブドゥッラー・ギュル(大統領) 
5−大臣たち 
6−MIT(国家情報局) 
7−民族資本 
8−スポーツ界 
9−ルム(トルコのギリシャ人) 
10−不正な資本 
11−バルザーニとPKK(要するにクルド人)

“教団のファーストイレブン”は以下の通り・・・ 
1−フェトフッラー・ギュレン 
2−ザマン新聞 
3−サマンヨルTV 
4−国内の学習塾 
5−国外の学校 
6−裁判所 
7−メフメット・バランス(反政権的な新聞記者) 
8−アメリカ 
9−イスラエル 
10−グローバル資本 
11−警察

そして、欄外に「異なる極は互いに引き合うが、同じ極は互いに押し合う」なんて断り書きを付けている。自分たちのファーストイレブンも書いて置いてくれたら良かったのに残念だ。まあ、トップはアタテュルクに間違いないと思うが・・・。

いずれにしたって、実に下らない“遊び”で、論じるのも馬鹿々々しいけれど、いくつか興味深いところもある。

まず、“AKPのファーストイレブン”に、ギリシャ人やクルド人も入っているのが恐ろしい。もともと排外主義的な傾向はあったが、段々激しくなっているような気もする。

次に、同じ極と断っているものの、民族資本とグローバル資本なら、両極と言えるのではないだろうか? 

一時期、「AKPと反AKPの対立は、イスラムと政教分離の対立ではなく、クローバル派と民族派の闘い」という説が論じられた。しかし、2009年以降、AKPは、イスラエルやアメリカと齟齬をきたすようになり、この説は少し怪しくなっていた。

AKPは、グローバル派じゃなくて、もともと“ネオ・オスマン主義者”だったとすれば、すっきりするかもしれない。そもそもAKPの母体となった“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”にも、そういうネオ・オスマン主義的なところは見られたようだ。

それが、当初は、明らかにグローバル派と目されていたフェトフッラー教団と手を結んでいた為、話がややこしくなってしまったけれど、今は双方が元の鞘に戻ったらしい。しかし、オスマン帝国にもグローバルな傾向はあったから、AKPがグローバル主義者と思われたのは、それほど間違いでもなかったのだろう。

それから、もう一つ興味深いのは、エルドアン首相を“RTE”と頭文字で表しているところだ。以下の記事を読むと、かつてクルド人運動家たちは、“トルコ共和国”と言いたくないので、“TC”と頭文字で呼んでいたそうである。

【114】連邦制はトルコに適していない【ヒュリエト紙】【2005.02.27】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00114.html

このように、嫌いなものを頭文字で呼ぶやり方もあるみたいだが、通常は、好ましい対象を頭文字で表す場合が多いように思える。

例えば、トルコ共和国を“TC”として、これを自分の氏名の前に付けたりするのが、6月の“ゲズィ公園騒動”以降、AKPに反対する共和国主義者の間で流行っている。

年末、カドゥキョイに出掛けたら、ズィラート銀行の支店が、“トルコ共和国ズィラート銀行”の意で、“TC”と表記されている看板を下ろそうとして、大騒ぎになっていた。

共和国主義者と思われるモダンな服装の御婦人が先頭に立ち、「トルコ共和国を無くそうとするのか!」と金切り声を上げていた。御婦人、風体はモダンだが、頭の中身はあまりモダンじゃないらしい。

結局、支店側も看板の張替え作業を諦めてしまった。双方で、なんと無駄な労力を費やしているのか・・・。

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1月9日 (木)  民主主義の中のイスラム

1月5日付けのサバー紙で、“イスラムと民主主義”と題された、シュクル・ハニオウル氏のコラムを読んだ。ちょっと難しくて、何処まで理解出来ているか心許ないが、最後の部分だけを、以下のように拙訳してみた。

*********
・・・ホセ・カサノヴァが明にしたように、「世俗的なコンテクストで活動することを認めるならば、宗教は公共的な役割を演じて、“公共の宗教”という立場を獲得できる」。これは可能であり有益である。

イスラム主義の思想家たちも、これを受け入れて、「ムスリムの社会では、多数派の価値観と考えを受け入れない人たちの自由は制限される」という説の代わりに、「宗教が、単に個人的にではなく、社会的なレベルでも干渉されることなく活かされ、議論される、そして、公共的な役割も果たせる、言い方を変えるならば、“イスラム的な民主主義”ではなく、“民主主義の中のイスラム”」というアプローチを受け入れなければならない。

双方で、これに激しく抗議する人は少なくないだろう。しかし、トルコは、理論的なアプローチではなく、試行錯誤という方法によって、既に、この目標へ向かって歩み出していると言える。
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私はこれを読んで、ふと思ったのだが、ひょっとするとトルコ共和国は、世俗主義・政教分離主義を進める際も、理論的なアプローチによってではなく、試行錯誤という方法でやっていたのではないだろうか?

共産主義のように、宗教を弾圧することはなかった。宗務庁は当初より存在していた。宗教教育でも、イマーム・ハティップ校を設立、廃止、再開と試行錯誤を繰り返している。

“ネオ・オスマン主義”などと言って、今、新たにオスマン帝国への憧憬が芽生えたかのように言われたりもするが、トルコ共和国は、その出発点から既に“オスマン帝国の後継者”であることを自覚していたかもしれない。

例えば、国旗のデザインも、オスマン帝国のものと殆ど変わっていない。国歌の歌詞には、“新月”“神”“エザーン”といったイスラムを想起させる言葉がたくさん出て来るけれど、“トルコ”という言葉は一度も出て来ない。そのまま充分、オスマン帝国の国歌としても使えそうだ。

ラディカル紙のモスクワ特派員を務めていたスアト・タシュプナル氏は、トルコとロシアの近世史の類似性を指摘して、アタテュルクとレーニン、イノニュとスターリン、デミレルとブレジネフ、オザルとゴルバチョフを対比させながら、時代毎の各指導者まで良く似ていると論じていた。

確かに、デミレルとブレジネフ、オザルとゴルバチョフに関しては、『なるほど!』と唸ってしまったものの、イノニュがスターリンでは酷すぎる。そもそも、最初のアタテュルクとレーニンが全く違うだろう。

アタテュルクは、オスマン帝国の伝統を根こそぎ破壊するようなことはしなかった。そして、当初より、トルコを民主主義の国にする青写真を描いていたのではないかと思う。

さらに、また勝手な想像だが、アタテュルクの共和国には、もともと“民主主義の中のイスラム”という発想があって、そのイスラムの“信仰の度合い”について試行錯誤を繰り返して来ただけのような気もする。 



1月10日 (金)  トルコのエスタブリッシュメント

インターネットから視聴できる24TVという政権寄りメディアの番組で、トルコにおける有数の国際派知識人であるジャン・パケル氏が、今回の“疑獄事件”について語っていた。

まず、司会者から、「この事件について、“白いトルコ人”の考えを聞きたい」と切り出された為、パケル氏は、“白いトルコ人”の由来から話始めた。

一般的に“白いトルコ人”は、西欧型のライフスタイルを身につけたエリートのトルコ人と解釈されているけれど、パケル氏によれば、トルコ共和国がこの“白いトルコ人”を創造して守り続けてきたそうである。

共和国発足当時、トルコ人の殆どは農民だったため、共和国の創業者らは、仕事が出来る西欧志向型の階層を作り出す必要があった。そして、創造された“白いトルコ人”を85年近くに亘って守ってきた。関税により、また彼らが製造した粗悪品を国家が買い上げ、競合相手を妨害することにより守ってきた。

これが、80年代、オザル政権の誕生によって揺らぎ始め、国家の庇護に依らず自力で勃興した中産階級が姿を現し始める。この新しい中産階級が支持して政権に押し上げたのがAKPであり、“白いトルコ人”は、彼らにその座を奪われつつある・・・・。

もちろん、パケル氏も“白いトルコ人”と看做されているが、おそらくパケル氏の家系は、共和国によって作り出された“白いトルコ人”ではないだろう。オスマン帝国以来の、ひょっとすると共和国の創業にも関わった一族であるかもしれない。いずれにせよ、純白、真っ白いトルコ人と言っても良いのではないかと思う。

こうして見ると、上述の発言は、“創造された白いトルコ人”、もしくは“白くされたトルコ人”“白くなりたいトルコ人”に対して、少々残酷であるような気もする。

教団の関与については、「何と愚かなことを・・・」という感じで一蹴していた。選挙でAKPを政権に押し上げたのは民衆であり、彼らはAKPが不満になれば、選挙によってAKPを下野させることも出来る。つまり、AKPは彼ら民衆の手の中にあると言って良い。この政権を手放して、教団を支援する民衆など何処にもいない。これが解っていなかったとしたら、愚かとしか言いようがないそうだ。

軍が動く可能性もない。「下級将校の動向までは解らないが、軍のトップクラスには絶対ない」と断言していた。

トルコでは、過半数の支持を得ていた政権が、経済危機に陥るや、あっと言う間に民衆から見放されてしまったことが何度かあるものの、現在、経済危機という状況はなく、何よりAKPがこの10年間で成し遂げた経済発展の影響は大きい。民衆は未だAKPを見放したりしないだろうと言う。

“白いトルコ人”のメディアも、影響力は持っていない。かつて影響力があるように思えたのは、軍の後ろ盾による。民衆は新聞の報道などに影響されない。彼らがAKPを支持しているのは、医療制度の改革等、社会の中で実際に見ることが出来る成果を評価しているからだ。等々・・・。

と言いながら、パケル氏は政権寄りのテレビに出演して、こうして持論を展開している。義兄のメフメット・バルラス氏も、政権寄りサバー紙の主筆として、毎日のように政権を擁護する記事を書いている。

この人たちは“真っ白いトルコ人”であり、“トルコのエスタブリッシュメント”と言っても過言ではないかもしれない。

確かに、多くの民衆がAKPを支持しているのは間違いないだろう。パケル氏は、「国家の抑圧を嫌う民衆がAKPを支持している」というような説明を試みていた。でも、それだけではないような気がする。国家の権力構造、戦略そのものにもかなりの変化が起こっているのではないだろうか?


*パケル氏の発言、ネットに録画が出ていたので確認してみたところ、それほど大きな聞き間違いはなかったものの、軍の動向に関しては、トップクラスに介入の意志が「絶対にない」と言い切っただけで、「政権を支持している」とまでは言ってなかったので訂正しました。


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