Diary 2013. 9
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9月1日 (日)  世界平和の日

今日の昼過ぎ、バスでカドゥキョイへ向かっていたら、途中で降ろされてしまい、30分ぐらい歩いてカドゥキョイに出た。デモ行進があって、車両は通行止めになっていたからだ。

バスを降ろされた時は、『こん畜生!』と思ったけれど、デモの様子を写真に撮ったりしながら歩いて行く内に、気分も安らいだ。というより、結構楽しませてもらったかもしれない。まあ、仕事のある人たちは、最後まで「こん畜生!」だっただろう。

デモには、他の左派政党も参加していたようだが、クルド系政党BDP(平和民主党)が中心となっていて、クルド語で何か記された横断幕を掲げ、反政府武装組織PKKのオジャラン党首の顔が描かれた旗を振りながら行進していた。

参加者に「なんで今日、デモしているの?」と訊いたら、今日“9月1日”は、“世界平和の日”なんだそうである。それから、シリアへの軍事介入にも反対していた。

家に帰ってから、ネットで調べてみたところ、確かに“国際平和デー”というのはあるけれど、これは“9月21日”に定められていて、“9月1日”を“国際平和デー”として祝っていたのは、かつての共産圏の国々であるらしい。

冷戦終結後も、トルコでは一部の左派が“9月1日”に祝い続けていたのだろうか? 私は今年初めて見たような気がする。

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9月2日 (月)  イスタンブール−キョンジュ世界文化EXPO

昨日、出かけたのは、カドゥキョイで“世界平和の日”のデモ行進を見るためじゃなかった。カドゥキョイからヨーロッパ側のエミノニュへ渡り、“イスタンブール−キョンジュ世界文化EXPO”の会場を歩いて来た。

キョンジュとは、韓国の慶尚北道のキョンジュ(慶州)市であり、慶尚北道を中心として、韓国の文化や物産を紹介する“EXPO”が開かれている。会場はエミノニュとスルタンアフメット、それからタクシムでも演劇等の公演を行うらしい。

エミノニュの“韓国博物館”だけでも、かなり大掛かりで人目を引く。入場者も多かった。

この“EXPO”を準備するために、慶尚北道の職員数人は、既に昨年からイスタンブールに来ていた。友人の韓国料理店で、何度か顔を合わせたけれど、彼らは仕事の合間にトルコ語学校にも通っていた。相当な予算を使ったばかりでなく、その意気込みも凄かったような気がする。


ISTANBUL-GYEONGJU WORLD CULTURE EXPO 2013
http://www.istanbul-gyeongju.com/en/
http://www.igwce2013.org/tr/Anasayfa

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9月3日 (火)  シルクロード・バザール

“イスタンブール−キョンジュ世界文化EXPO”、スルタンアフメットでは、アヤソフィアの前に、韓国風に装飾された大きな舞台が設置されていた。ここでも、コンサートや舞踊の公演があるらしい。

7月〜8月のラマダンに出店で賑わっていた“仲見世通り”は、“シルクロード・バザール”と銘打って、韓国の物産を紹介する“見本市”に様変わり、“仲見世”の裏側では、韓国の伝統遊戯も楽しめるようになっていた。

サンプルを展示して、自社製品の紹介に努めているコーナーが多かったけれど、中には、コチュジャンやカップラーメンを販売しているコーナーもある。

また、“シルクロード・バザール”と銘打っているので、カザフスタンなど他のシルクロードの国々からも出展があった。カザフスタンのコーナーでは、馬乳酒クムスも売っていて、貼り紙に“父祖の飲み物”なんて書かれていたが、一方には“アルコール無し”とも明記されていた。店番しているカザフ人の女性は、「残念ながら・・・」と言って微笑んだ。

当然、韓国の酒もなく、会場で出会った在イスタンブールの韓国の人たちも、これを残念がっていた。特に、在20年以上の友人は、「昔だったら、マッコリでも何でも紹介できたのに・・」と非常に残念そうだった。

31日、空港近くの国際展示場で4日間だけ開催される韓国フェアのオープニングを見に行ったら、ここではマッコリの試飲もあって、白い田舎風のスカーフを被った女性の亭主らしき中年男性が、「これは韓国の伝統的な酒なんですか?」なんて訊きながら、嬉しそうに飲んでいたのだが・・・。まあ、国際展示場の方は、イスタンブール市政が絡んでいない所為かもしれない。

しかし、韓国の文化を紹介すると言って、酒が出て来ないのは、何だか片手落ちであるような気もする。

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9月4日 (水)  カシャル・ペイニルの語源に驚く

トルコ語でチーズはペイニルと言い、辞書を見ると「ペルシャ語からの借用語」となっている。どうやら、イランのパニールなどと同じ系統らしい。

日本では、「ギリシャのフェタチーズのような・・」と説明されたりしている。しかし、トルコのアナトリアは、オスマン帝国の成立以来、徐々にイスラム化とトルコ化が進んだものの、ギリシャ人はオスマン帝国の末期に至るまで、経済的、文化的に影響力のある民族として存在を維持していたそうだから、似ているというより、もともと同じチーズだったのではないかと思う。

市場へ行くと、そのフェタチーズのような白いチーズ“ベヤズ・ペイニル”が、確かに多いけれど、紐状や捻り棒状など、様々な形のチーズがあり、それぞれに風味も食感も異なる。草が入ったチーズもあって、これがとても美味しい。

カシャル・ペイニルは、“ゴーダチーズ”に似た硬質な黄色いチーズで、やはり産地や熟成度により違いがある。このカシャルの由来を調べてみて驚いた。

カシャルの生産は、100年ほど前、オスマン帝国領内だったテッサロニキで始まったらしい。伝聞によれば、テッサロニキでチーズを作っていたユダヤ人一家の娘が、失敗から偶然に作り上げてしまう。

しかし、それまで食べたことがないチーズだった為、一応、ユダヤ教の導師ラビに、食べても良いか尋ねたところ、「これは“コーシェル(食事規定)”に適っている」と認定してくれた。それで“カシャル”と呼ばれるようになったそうだ。“カシャル”の語源は、なんと“コーシェル”だった・・・。

3月28日 (木) イスタンブールのユダヤ教コーシェルの料理店
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2013&m=3

ところが、もう一つ別の説もあるというから、話はややこしくなる。当時のテッサロニキは、オスマン帝国で最も西欧に近い開かれた港町であり、イタリアから珍しいチーズも輸入されていた。その中にカチョカヴァッロ(Caccio-Cavallo)というチーズがあって、これが先ず“カシカヴァル”と訛り、さらに“カシャル”に変化したと言う。この為、ブルガリアなどでは、今でもこのタイプのチーズを“カシカヴァル”と呼ぶそうである。

余談だが、こういった由来を知っていたのか、ルーム(トルコに住むギリシャ人:ローマの末裔の意)の故マリアさんの娘スザンナさんは、「カシャルは、ギリシャの方が美味い」と良く言っていた。マリアさんもスザンナさんも、ギリシャとトルコに同じ食べ物があれば、大概イスタンブールの方が美味いと決め付けていたのに、カシャルだけは別にしていた。あと、マリアさんは、コーヒーもギリシャの浅煎りが好きだったようだが・・・。

マリアさんは自分たちの料理を“ポリティキ”と称していた。コンスタンティノポリ風という意味らしい。大概のものは、コンスタンティノポリ、つまりイスタンブールの方が美味いのである。

しかし、マリアさん家族の友人だったアルメニア人のガービ爺さんは、「ギリシャのカシャルが美味いのは、ブルガリアから輸入しているからだ」とスザンナさんに反論していた。

トルコの人たちに言わせると、ブルガリアは酵母が良いので、チーズもヨーグルトも美味しく出来上がる。オスマン帝国の宮廷でヨーグルトを作っていたのもブルガリア人の職人だったらしい。そういったブルガリア人の子孫が乳製品を売っている店が、今でもイスタンブール市内にある。

いつだったか、ブルガリア人も同じ正教徒だから、知っているかと思ってスザンナさんに尋ねたら、「知っているわよ! あのインチキ爺の店でしょ」と言われて二の句が継げなかった。まあ、没落したブルジョワの性なのか、彼女たちは何にでも文句をつけようとした。マリアさんが文句なしに称賛していたのはバルセロメオス総主教だけだったかもしれない。

ところで、そのブルガリア人の店だけれど、7月に母と食べに行ったら、結構な値段だったので驚いた。『なるほどねえ』と少し納得した。

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9月6日 (金)  トルコのチーズ

カシャルの由来、いずれが真実なのか良く解らない、まだ他の説もあるのだろうか? ギリシャ産やらブルガリア産やら、いろいろ食べ比べて、研究したら良いかもしれない。

でも、私には出来ない研究だ。高血圧の為、塩分を制限しているから、実を言えば、もうこの1年ぐらい、チーズは殆ど食べていない。お陰で、8月以来、降圧剤の服用を停止しているけれど、血圧は125〜135で推移している。このまま減塩を続ければ、125以下に落とせそうな気もして来た。チーズの食べ比べなんてやっている場合じゃない。

私が食べて良いのは、塩分無しの“ロル”というチーズぐらいだろう。これも“おから”みたいなタイプから、豆腐状のものまでいろいろある。蜂蜜をかけて、おやつ代わりに食べることもできる。日本では“カード”というらしい。

7〜8年前、カナダ人女性がトルコ各地のチーズを調べて書いた本のトルコ語訳を少し読んだことがある。トルコには、驚くほど様々な種類のチーズがあるけれど、市場に商品として流通しているわけじゃないから、その美味しさを味わう為には、各地の農村を一つ一つ歩いて回らなければならないと記されていた。

The Treasury of Turkish Cheeses
http://www.marymartin.com/web/selectedIndex?mEntry=66981
http://www.lezzetyolu.com/turkiye%e2%80%99nin-peynir-hazineleri/

しかし、カシャルの由来から、イタリアのカチョカヴァッロに行き着いたが、ネットでちょっと検索するだけでも、実に様々なイタリアのチーズが出てくる。その多様さにトルコはとても太刀打ちできそうもないと感じた。昔から、地方の特産品としてブランド化して来たために洗練されたばかりではなく、一層多様化も進んだのではないだろうか。

イタリアの食文化が、西ローマ帝国の流れを汲んでいるとすれば、トルコのそれは東ローマ帝国の流れじゃないかと思うけれど、特にブランド化の面では大きく差をつけられてしまったかもしれない。

こういった差は良くイスラムの所為にされているが、ビザンチン、オスマンと強固な中央集権の帝国が続いたのも拙かったのではないだろうか。韓国にいた頃、李朝時代に長く続いた中央集権の弊害を散々聞かされた。日本の江戸時代は、封建制度の下、各藩が特産品の開発などを進めたものの、朝鮮にはこれが全くなかったとか・・・。

トルコでは、現在も各県に、地方選挙で選ばれた知事と中央から任命された知事が並存しているなど、地方分権は未だに進んでいない。地方の特産品のブランド化なども、最近、やっと始まったばかりであるような気がする。

7月、ボズジャ島に行った帰り、チーズで有名なエズィネの街に寄ってきた。川の両岸に開けた、緑の多い静かな街だった。チーズ生産者組合で、エズィネのチーズ作りについて伺ったけれど、かなり長い歴史を期待していた私は、何だかがっかりしてしまった。エズィネで専門業者によるチーズの生産が始まったのは、高々80年ほど前であると言う。

それまでは、各農家がチーズを作っていただけで、このチーズを集めてイスタンブールに送っていた業者が、需要の増加を見て、自分で工房を作って生産を始めたことにより、その後、エズィネではチーズの生産が盛んになって行ったが、“エズィネのチーズ”というブランド化の動きが起こったのは、この15年ぐらいの話らしい。

エズィネには、羊や山羊の放牧が多く、新鮮な羊乳・山羊乳が手に入るため、これを天然の酵母で発酵させたチーズの風味は、他の追随を許さないそうだ。私もほんの少し食べてみたが、滑らかな舌触りでとても美味しかった。

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9月8日 (日)  オリンピック−2020

オリンピックの招致合戦で東京に敗れたイスタンブール、報道を見る限りでは、「やっぱり無理だったか・・」とサバサバした雰囲気が感じられる。

ゲズィ公園のデモ騒ぎやシリアの内戦など、土壇場になってマイナス材料が重なった為、昨日の決定前のニュースも、期待感を煽るどころか、敗北に備えて“心の準備”を促しているかのようだった。

ところが、ファイナルに残ってしまい、急に期待が膨らんでドキドキしたのか、スタジオのコメンテーターは、「こうしてファイナルまで残ってから敗れたとしたらショックも大きい。それならいっそのこと、ファイナルの前に落選したほうが良かったかもしれない」なんて言い出した。なんと気の弱い・・・。

こういう後ろ向きの姿勢は、50代より年配のトルコの人たちに多いような気がする。だからこそ、オリンピックを決めて、ガーンと前に出て欲しかった。これは日本も同じだろうか? でもオリンピックに関しては、日本の方が遥かに自信に満ちていたのではないかと思う。これからお互い頑張ろう・・・。

まあ、トルコの場合、このぐらいオリンピックが話題になったのは、開催期間中でさえ、今までなかったかもしれない。リオでさらに関心が高まり、20年の東京に注目してくれたら嬉しい。そして、24年をそれこそ国民が一丸となって勝ち取ってくれたら尚嬉しい。

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9月10日 (火)  貧すれば鈍する

昨日、エキストラに駆り出されたコマーシャルの撮影は、スルタンアフメットで行われた。朝7時に集合と言うから、観光客で混み合う前に始めて、早めに終わらせるつもりなのかと思っていたら、なんと夜中の1時まで付き合わされた。

携帯電話のコマーシャルで、5人の日本人観光客が、土産物屋店主の持っている携帯電話に興味を示したところ、何か勘違いした店主は、彼らに絨毯を売りつけようとする、というストーリー。

場面に現れるのは土産物屋だけで、背景にブルーモスク等が見えるわけでもないし、何故、わざわざスルタンアフメットで撮影したのか良く解らない。現場の前は交通量も多く、騒音の為、頻繁に撮影が中断された。

エキストラに、僅かばかりの日当を生活の足しにするつもりで出演している日本人は、私ぐらいだろう。他の皆さんは、撮影現場の雰囲気を楽しんだり、ちょっとした気分転換に利用したりしているのではないかと思う。だから、昨日の状況には堪え難いものがあったかもしれない。中には、私がエージェントに紹介した人もいたから、何だか申しわけなく思ってしまった。

撮影が長引いた為、エージェントの担当者は、「日当は12時間超過したら、5割増し。深夜12時を過ぎた場合は2倍になる」と説明していたが、皆さん、「2倍なんていらないから早く終わらせてくれ」と口々に言い、私もこれに同調した。しかし、“2倍”の計算が私の頭から離れることはなかった。“貧すれば鈍する”とは、このことだろう。本当に情けなくなる。

そして昨日は、深夜の2時半に帰宅してから、ネットのニュースで、カッパドキアの悲しい事件を知った。

今日、イスタンブール在住の日本人の知人のブログ(↓)を読んだところ、彼女は、この事件を取材する日本のメディアから、夜の12時に電話で叩き起こされたそうだ。電話番号をどうやって入手したのかも告げず、いきなり事件の情報を求め、さらに2時間後の放送出演まで依頼したという。その上、彼女が断ると、誰か他の人を紹介してくれと迫ったらしい。

しかし彼女は、こういう失礼な人物に友人を紹介するわけには行かないと思い、この要求を断固拒否したそうだ。その毅然とした態度に脱帽!

私のところに、メディアが情報を求めて連絡して来ることなど先ず考えられないが、仮にそういう要求があったとして、彼女のように毅然と拒否することが出来ただろうか? 出演の依頼は断ったとしても、少しは良い顔しようと、誰か適任者の連絡先を紹介してしまったかもしれない。

“貧すれば鈍する”は言い訳にならない。昨日の一件もあり、肝に銘じて置かなければならないと思った。


トルコ語翻訳家のイスタンブル暮らし
http://masalgibi.blog.fc2.com/blog-entry-74.html

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9月12日 (木)  ムスタファの次女の寮探し

先週の木曜、ルレブルガスから友人のムスタファが、次女を連れて、日帰りでイスタンブールに来た。イスタンブール大学の文学部に合格した次女の為に、学生寮を探すのが目的だった。

ルレブルガスは、イスタンブールから2〜3時間の所だけれど、ムスタファがイスタンブールまで出て来ることは殆どない。休暇もなかなか取れないようだし、経済的な余裕もないから、物見遊山には来られないのだろう。

ムスタファとは、91年にイズミルの学生寮で知り合った。彼は電気の専門学校に通う傍ら、寮の雑用も引き受けていたので、寮費は免除されていた。私は初めて寮を訪れた時、ムスタファと話して入寮を決めたのだ。

その後、ムスタファは、郷里のアダナには帰らず、姉夫婦を頼ってルレブルガスに落ち着くと、この街の電気屋さんで修理工の職を得て、地元の女性と結婚し、娘を2人もうけた。しかし、2005年頃には、トルコでも電化製品の修理などという仕事はなくなり、以来飲食店等で働きながら家族を養って来たのである。

生活は楽じゃないと思う。遠いアダナに帰省するのは5年に一度ぐらい、代わりにお母さんが時々アダナからやって来るらしい。

7月、次女のイスタンブール大学合格を電話で知らせて来たムスタファの声は多少上擦っていた。「下の娘は勉強が出来る」と随分前から期待していたから、とても嬉しかったに違いない。でも、これからが大変だ。

先週の木曜は、私も一緒に三つの学生寮を回って来た。先ず、ベヤズィットのキャンパスに最も近いラーレリで、2ヶ所訪ねて見たが、一つは既に空きがなかった。

もう一方の寮は、キャンパスの前にもスタンドを設けて勧誘していたけれど、このスタンドに立っていた4人の女性は、1人を除いてスカーフを被っていたし、寮で案内に携わる女性たちも、やはりその殆どがスカーフを被っていた。

しかし、それよりも、寮を囲む壁の上に張り巡らされている有刺鉄線が目を引く。ラーレリは、派手な格好をした東欧の女性たちが多数往来し、お世辞にも風紀の良い街とは言えない。寮はもちろんイスラム関連の団体が運営しているはずだが、何故、こんな街に寮を建てたのだろう?

信仰に篤いムスタファは、有刺鉄線を見ても、スカーフを被った女性たちの立ち居振る舞いに安心したようだけれど、次女がこの寮を気に入らなかったのは明らかだった。

それから、キャンパス前のスタンドにパンフレットだけ置いていた寮を見に行った。この寮はファティフ・モスクの近くにあり、歩いて20分ぐらい掛かったと思う。ファティフは非常にイスラム色の強い街だが、パンフレットには「教団等とは一切関係がありません」と明記されていた。

実際、スカーフなど被っていないモダンな雰囲気の舎監が案内してくれた。街の“風紀”は申し分ないし、寮の部屋も広く、ここなら良さそうに思えたが、寮費は朝食だけ付いて月に500リラとかなり高かった。

舎監の女性に、ムスタファと何処で知り合ったのか訊かれたので、「イズミルの学生寮です」と答え、ムスタファを指差しながら、「この男を信用して入寮を決めたんですが、どうやら騙されたようでした」と説明した。これに、ムスタファがすかさず「その前に私が騙されていたんですね」と言い添え、皆で大笑いした。舎監の女性も笑っていた。

舎監の女性と少し距離が開くと、ムスタファは「マコト、セマさん覚えているか? この人、雰囲気が少しセマさんに似ているな」と私に耳打ちした。セマさんは、イズミルの学生寮の経営者の夫人だった。とてもチャーミングなうえ、弁舌も巧みで、彼女の話には説得力が感じられた。寮生たちは皆、「彼女も悪徳な亭主に騙されているんだ」と言い、彼女を責める者はいなかった。

私はこの日、アジア側で友人と会う約束があったので、そのファティフの寮を出た所で、ムスタファ父娘と別れた。ムスタファは、もう一つ、ラーレリの“イスラム寮”と同じ系列という、バスターミナルの近くにある寮を見てから、ルレブルガスに帰ると話していたが、結局、その“イスラム寮”に決めたそうだ。

今日、ネットで調べてみたところ、その寮はどうやら与党AKPに近いとされる“ミッリ・ギョルシュ”の系統らしい。まあ、父ムスタファとしては、そういう寮のほうが安心だし、なにより寮費が安いのは助かる。次女も決して信心がないほうではないから、他の寮生たちとも仲良くやっていけるだろう。

私がイスタンブールで3ヵ月過ごした“トラブゾン学生寮”は、やはりイスラムの基金によって運営されていたが、寮費が安いから入寮していただけで、あまり信心のない学生たちもいた。そんな学生たちとビールを飲みに行ったりしたものだ。“イスラム寮”とか言っても、それほど心配する必要はないと思う。

*写真は、一昨年、母とルレブルガスにムスタファを訪ねた時のもの。ムスタファ夫婦、私の母、そして次女。

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9月13日 (金)  東京オリンピックのヒートリー選手

東京でオリンピックが開催された1964年、私は未だ4歳で、何となく覚えているような印象も、おおかた後付けの記憶ではないかと思う。

しかし、“東洋の魔女”とか“アベベ・ビキラ”などは、ある程度リアルタイムで印象が刻み込まれていたような気もする。まわりで大人たちが相当興奮していたのではないだろうか? 世間が騒然としていた雰囲気は生の記憶として残っているかもしれない。今でも“東京オリンピック・マーチ”を聴くと、おそらく錯覚だろうけれど、何だか興奮が蘇る。

それから、ヒートリーというマラソン選手、競技場に入ってから円谷選手を抜き去ってしまった英国の選手だが、子供の頃、この名前を見たり聞いたりすると、とても嫌な感じがした。同じ名前を持っているだけで、きっと悪い人に違いないと思えてしまった。

ひょっとすると、周囲の大人がヒートリー選手を罵倒したりしたため、憎々しい印象がそのまま染み付いたのかもしれない。どうなんだろう?

あの1964年のオリンピックでも、開催に反対した人たちはいたに違いない。今回、トルコでも少なからず反対を唱える人たちがいた。健全な社会の証しじゃないかと思う。AKP政権の失敗を喜ぶ人たちにはうんざりしたけれど・・・。

2020年は、どういうオリンピックになるのか? 「最近の日本は、少し内向きになっている」と言われて久しいが、これが世界に目を向ける機会になるかもしれない。近隣諸国との友好を訴える人たちもいる。なんでもプラスの方向に期待したい。

競技場で日本の選手が抜かれても、抜いた選手の名前が、子供たちに悪い印象として残らないようなオリンピックになれば良いと思う。


"Olympic March" オリンピック・マーチ 古関裕而
http://www.youtube.com/watch?v=N-jXAczTvk8


9月14日 (土)  イスラム主義の終焉

昨年の夏頃、ザマン紙のコラムニストらを中心に、イスラム主義(イスラムジュルック)に関する論争が繰り広げられていて、私はこれをザマン紙のエティエン・マフチュプヤン氏のコラムを通して知ったけれど、結局、マフチュプヤン氏のコラム以外には殆ど目を通さなかった。

マフチュプヤン氏のコラムだけでも、“イスラム主義の世俗化”をテーマに、11回ほど続いたので、もう一度最初から読み直すため、わざわざインターネットカフェに行ってプリントアウトして来た。これは今でも本棚の隅に置いてある。

もともとこの論争は、やはりザマン紙のコラムニストであるミュムタゼル・テュルコネ氏とアリ・ブラチ氏の間で始まったらしい。テュルコネ氏の主張は、「イスラム主義はイデオロギーとして既に終わっている」という刺激的なもので、これに対して自他共に認めるイスラム主義者のアリ・ブラチ氏が反論を加えていったようである。

論争が一段落つくと、テュルコネ氏は、これを基にして「誕生から死に至るまでのイスラム主義」という著作を、昨年の11月に出版しているけれど、私はこれをやっと今年の7月になってから購入して読んだ。

イスラム主義の終焉とは、大雑把に言えば、元来、既存の体制に対する抵抗のイデオロギーとして始まった“イスラム主義”は、これを旗印にしていた人々が政権に就いた為に、その意義を失ってしまったという趣旨で、マフチュプヤン氏の“イスラム主義の世俗化”にも同様の趣旨が説かれていた。

テュルコネ氏の「誕生から死に至るまでのイスラム主義」には、イスラム主義がどのような背景のもとに生まれて展開して行ったのかが、私の如き門外漢にも解るように記されていて、非常に興味深かった。

イスラム主義を創始した人々は、例外なく西欧で教育を受けたインテリであり、西欧のイデオロギーを下敷きにして“イスラム主義”というイデオロギーを作り出した・・・といった説明は、“イスラム主義”と言われてもチンプンカンプンだった私には、とても新鮮で、“目から鱗が落ちる”ような気がした。

印象的だった部分を以下に引用する。

「イスラム主義者のプログラムは、国家を、政治システムをイスラム化させることである。しかし、イスラム化されるはずの国家もまた新しい現象だ。イスラム世界における国家の問題は、彼らの前に姿を現した国民国家、植民地主義、そして西欧との接触により生まれた全く新しい現象なのである。イスラム主義者の多くは、1648年のウェストファリア条約以降の国民国家の秩序の中で思想を展開し、この枠組みに収まるイスラム国家を求めていることに気がついていなかった」

また、エジプトのサイイド・クトゥブによるラディカルなイスラム主義が、トルコには制限された影響しか残せなかった要因について、「トルコでは如何なるムスリムも、西欧に対して、あれほど打ちひしがれた感覚を持っていなかった」と述べているけれど、この観察も実に興味深く思えた。


「誕生から死に至るまでのイスラム主義」
http://www.idefix.com/kitap/dogum-ile-olum-arasinda-islamcilik-mumtazer-turkone/tanim.asp?sid=OD6VIVMUS5J1GWU4DSBY

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