Diary 2013. 5
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5月1日 (水)  メーデー

初等教育校で美術科の教員をやっている友人のアフメットに誘われて、カドゥキョイへメーデーを見に行った。

イスタンブールでメーデーに出かけてみたのは、2006年以来、7年ぶりで、あの時もカドゥキョイだった。

アフメットは、「年々、参加者が減ってきている」とぼやいていたが、7年前と比べて、どうなのか私には良く解らない。相変わらずの人出と熱気であるように感じた。

しかし、7年前は、いろいろな組織や政党の旗が掲げられていたのに、今年はTKP(トルコ共産党)の旗一色だった。広場では、“TKP”と記された赤い前掛けが配られていて、アフメットも喜んでそれを着ていたけれど、彼がTKPの党員というわけではない。

広場中央に設けられた舞台では、入れ替わり立ち替わり何人もの人が演説を行っていた。

「ビジー・イェック・グラン!」で始まる演説があって、これがクルド語で「万歳5月1日!」を意味することぐらいは知っている。演説が終わってから、そのトルコ語訳が読み上げられた。どうやら演説者は、シリアから来たクルド人で、アメリカやトルコ政府のシリア介入を非難していたから、バース党寄りの人物だったかもしれない。

続いて、「ズィトー・・・」と始まる演説があった。昨日、読んでいた本に、ギリシャ人が「ズィトー(万歳)!」と叫ぶ場面があったから、アフメットを振り返って、「これギリシャ語?」と訊いたら、「そうだ。ギリシャ語の万歳だよ」と答えてくれた。

アフメットが生まれ育った黒海地方トラブゾン県の村では、住民がギリシャ語のポントス方言を話していたので、彼はギリシャ語がかなり解るのである。

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5月2日 (木)  クリーチ

4月末の日曜日、ヨーロッパ側の新市街へ出かけたところ、イスティックラル通りにある老舗のレボン菓子店では、東方正教会の復活祭期に合わせて、クリーチが売られていた。

クリーチは、ロシアやブルガリアの正教徒が、復活祭期に食べるそうだ。レボン菓子店の近くにはロシアの領事館もあるし、あの辺には、ロシアの人たちがたくさん住んでいるのかもしれない。(詳しくは、以下のウイキペディアを御覧になって下さい)

クリーチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81

この日は、カラキョイにあるロシア正教会の教会にも寄ってみた。ちょっと早めに、朝の9時頃に礼拝堂へ上がったけれど、復活祭期の日曜ミサとあって、礼拝堂は立錐の余地もないほど混んでいた。

礼拝堂には椅子もなく、皆、立ったまま祈りを捧げている。10時頃から、美しい聖歌のコーラスが始まり、司祭さんも姿を現した。私は引き続き1時間ぐらい、入口のところに立ってミサを見学していたが、途中、失神した初老の女性が外へ担ぎ出されて行った。満杯の堂内は、かなり暑かったから、かれこれ2時間ぐらい立ちっ放しだった女性が失神してしまうのは無理もないと思う。

しかし、昨日のメーデーに熱狂していた、一応はイスラム教徒であるトルコの人たちのことを考えると、何だかとても皮肉な感じがする。今年のモスクワのメーデーは、どんな様子だったろうか? 

4月12日 (月) ロシア教会
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2010&m=4

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5月3日 (金)  ソウル聖ニコラス大聖堂

ソウルでは、マポ区にある東方正教会の聖堂も見学して来た。

キリスト教の盛んな韓国だが、圧倒的に信徒が多いのは、プロテスタントの各教派であり、カトリックの信徒も少なくはないけれど、正教会は、洗礼を受けた信徒も約3500人と振るわず、定期的に聖堂を訪れる信徒は僅か400〜500人に過ぎないらしい。

基督教(キドッキョ)と言えば、これはプロテスタントのことで、カトリックは天主教(チョンジュギョ)と言い表して、明確に区別している。教会(キョフェ)という呼称もプロテスタントだけに通用し、カトリックの場合は聖堂(ソンダン)となる。

正教会は、文字通り“正教会(チョンギョフェ)”と呼ばれていて、教会ではなく“聖堂(ソンダン)”が通用しているようだ。私は、昨年、友人から教わるまで、韓国正教会の存在にさえ気がついていなかった。

ソウル聖ニコラス大聖堂の敷地内には、図書室兼カフェがあって、正教関係の図書も販売している。私が訪れた時、聖堂に人影はなく、カフェも閉まっていたが、案内を請うと、20代ぐらいの若い女性と中年の女性が現れ、カフェを開けて中に招き入れてくれた。

彼女たちは母娘だった。コーヒーを御馳走になり、韓国正教会のカレンダーまで頂いた。

カフェの入口には、バルソロメオス総主教の署名入り写真が飾られていた。総主教がこの聖堂へ来訪されたこともあり、母娘は拝顔の栄に浴したそうだ。

母娘の家族は、お母さんの祖父にあたる方が、聖堂の建設に携わった人たちと懇意になり、それが縁で正教会に入信して以来の信徒であるという。何だかこの家族の歴史を感じてしまった。

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5月4日 (土)  オリンピック

2020年のオリンピック、なんとしても東京で開催してもらいたいという気持ちはなかったけれど、トルコの人たちに問われれば、「東京」と答えてきた。その方が、話も弾むからだ。彼らが議論をふっかけて来ているのに、「イスタンブール」と答えたのでは、そこで話が終わってしまう。

しかし、猪瀬都知事の呆れ果てた発言に、もう「東京」と主張する元気もなくなった。エルドアン首相は、「・・・都知事にオリンピックを辞退するよう命じてください」と冗談めかして、安部首相に伝えたそうだが、そんなこと言われるまでもなく、都知事は辞退を申し入れたほうが良いんじゃないかと思う。東京の名誉を回復するためにも・・・。

3月には、IOC委員が視察にイスタンブールを訪れ、日本のメディアもその詳細を報道していた。ニュース番組では、活気に溢れるイスタンブールの様子が映し出されていて、私もそのいくつかを“YouTube”で見ることが出来た。交通渋滞や、市民の支持率の高さに注目していたようだ。

私も未だ「東京」と主張して議論に応じていた頃は、この支持率の高さに反論を用意していた。8割以上の市民が、確かにオリンピックの開催を支持しているかもしれないが、その市民たちに、もう一つ、「じゃあ、オリンピックとサッカーのワールドカップなら、どちらが良い?」と訊いたら、どうなっていただろう。

おそらく、これまた8割以上の人たちが「サッカーのワールドカップ」と答えるのではないか・・・。

トルコでは、サッカーばかりに人気が集まっていて、あとはバスケとバレーボールぐらい。他のスポーツ種目には関心が低く、オリンピックが中継されていても、それほど盛り上がった試しがなかった。まあ、2020年には、イスタンブールで大いに盛り上がるんだろうけれど・・・。


*写真はいずれもアジア側のウムラニエ近辺で撮った。サッカーを楽しむ子供たちと交通渋滞・・・。

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5月5日 (日)  山いちじく

近くの市場で売ってた“山いちじく”。野生のいちじくってことじゃないかと思う。

日本にも輸出されている普通の干しいちじくは、実が大きくて形も揃っているれど、この“山いちじく”は、小さくて形もいろいろ、干し加減も統一されていないような気がする。

普通の干しいちじくみたいに甘くなくて、素朴な味わい。なにより1キロ2リラととても安かった。

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5月6日 (月)  イチゴの季節

いよいよイチゴの季節になった。写真のイチゴが、1キロで約220円、1週間ぐらいすると、もう少し安くなるかもしれない。

形は不揃いで、味も甘かったり酸っぱかったり・・・。でも、これで満足。全てが妙に甘いイチゴより自然な感じで良い。

2003年頃だったか、仕事で日本に来たトルコの方たちをデパ地下に御案内したところ、形がきれいに揃ったイチゴがずらっと並べられているのを見て、「これは、いくらなんでもイミテーションだよね」と言われたので、「ええ、そうだと思います」と迂闊に手を出してイチゴに触れたら、それは本物のイチゴだった。

私も驚いたけれど、トルコの方たちは、もっとびっくりしただろう。

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5月7日 (火)  ソウルの晩はパラダイス!

先月の韓国行きは、3月になってから決め、慌ただしく準備した。亡くなった在韓華僑の友人の下の弟とは、10年前にソウルで会ったきりだったが、ソウルの家の電話番号が変わっていなかったので、なんとか連絡を取り合うことが出来た。

電話すると、「ウエイ(もしもし)」という中国語が聴こえた。これで、違う家に掛かったのではないと、ひとまず安心して、韓国語で挨拶した。電話に出たのは、会ったことのない上の弟だった。

彼は、2005年までの21年間を台湾で過し、奥さんも台湾の人だから、生活の中心は中国語になっているのだろう。だが、それにしては韓国語も、私には完全に思えた。

彼から、下の弟の携帯番号を教えてもらい、以後、日程などは全て下の弟と話し合って調整した。下の弟は明仁と言う。天皇さんと同じ名前。明仁の奥さんは韓国人なので、既に生活の中心は韓国語になっているかもしれない。

明仁には、「空港まで来なくても良い。ソウルの旅館に着いたら電話するから・・・」と何度も念を押していたのに、17日、インチョン空港に降り立って、ゲートを出たら、目の前に明仁の笑顔があった。10年前と何処も変わっていない、長閑で平和な笑顔だった。「ヒョン(兄)は、全く変わっていないから直ぐ解りましたよ」と言われた。

翌18日に、高校同期の友人と奥さんが日本から来た時も、明仁は空港に来ていた。

高校同期の友人は、「俺が行こうと決めたのだから、お前の旅費も俺が払う」と言ってたくらいで、ソウル滞在中、食事などは殆ど彼が出してしまうため、トルコから用意してきたユーロはなかなか減らなかった。日本へ行けば、これまた世話になりっぱなしだったから、さすがに拙いと思った。この友人夫婦をいつになったら、トルコへ招待出来るのか。向こうも、もう当てにしていないだろうけれど・・・。

しかし、はるばると韓国まで来てくれた兄の友人たちを手厚く供応しなければと準備していた明仁は、もっと拙いと思っていたのだろう。飲食の際は、いつも「私が払います」合戦が起きてしまった。彼にしてみれば、ソウルの宿として自宅を提供できなかったことすら、申し訳ないと感じていたに違いない。

3月に日程が決まったら、「私がホテルを予約しておきますから・・・」と言い張っていたけれど、予約したら宿泊代も支払ってしまうつもりだったのではないかと思う。

明仁は中国語が出来るので、21年来、ウォーカーヒルのカジノ“パラダイス”で働いていて、もう次長に出世しているそうだ。昔のように、遠来の友人があるからと言って、職場を休むわけにも行かない。空港で出迎えたりするのも、全て寝る時間を割いて来ていたわけで、あの1週間は、彼にとってなかなか強行軍だったはずだ。

22日、明仁はシフトが変わる休日だったようで、「ペ・ヨンジュンで有名になった行楽地へ御案内しますから・・・」と言って聞かなかったが、それを何とか断り、私たちだけで市内を回って、夜10時頃、旅館に戻った。

翌朝は、板門店ツアーの為、6時には起きなければならないから、友人夫婦も早めに寝ると言い、私は一人で旅館の近くのサウナ(日本で言うスーパー銭湯)へ行った。

トルコでは、温泉地にでも行かない限り、ゆったり湯に浸かれないから、このスーパー銭湯は本当に有り難かった。

その晩も、湯の中で「ああ極楽じゃ」と身体を伸ばし、いい加減温まってから、よっこらしょと湯船を出て、シャワー場の方へ行こうとしたら、衣服を着たままの人がこちらに近づいてくるのが見える。銭湯の従業員かと思ったけれど、何だか私に向かって来るような気もする。メガネを外しているし、湯気があるので良く見えなかったが、至近距離まで近づいて、誰が来たのか解った。明仁だった。

「ヒョン(兄)、早く出て下さい。ウォーカーヒルに行くんですよ」

慌てて身体を洗い、外に出たら、友人夫婦も来ていた。私が旅館を出て、少ししたら、明仁が「ウォーカーヒルに行きましょう」とひょっこり現れたそうだ。

それから、明仁の車でウォーカーヒルへ・・・。「ヒョンたちに、私の職場を見せるだけですから・・・」という話だったのに、着いたらルーレットの席に座らされ、明仁は5万ウォン分のコインを自分で買ってテーブルに置き、「ちょっとだけ遊んでみて下さい」と言って後ろに身を引いた。

コインは20枚あったそうだが、最後の5枚くらいになってから、その内の1枚で、なんと友人が見事に36倍を当てた。元金をほぼ倍にしてしまったのだ。明仁は、「まさか当たるとは思いませんでした」と後ろで苦笑いしていた。

換金して外へ出てから、友人は元金も含めて明仁に返した。「それなら、食事を御馳走させて下さい」と明仁は言い、最近、ソウルで流行っているという“羊肉串焼き”の店に案内してくれた。

この“羊肉串焼き”は、中国から来た朝鮮族の人たちが始めたそうだ。何処へ連れて行かれたのかも良く解っていなかったが、辺りにはずらりと“羊肉串焼き”の店が並んでいた。深夜の1時過ぎだと言うのに、どの店も営業中で賑わっている。案内されたのは、その中でも有名な店らしい。

羊肉が主なメニューだが、豚の内臓等もある。肉が刺さった鉄串の端には、歯車が付いていて、それをテーブルに用意された炭焼き台の歯に合わせると、鉄串は自動的にぐるぐる回って焼き上がるという仕組みになっている。焼きあがった串は、上段に置いて保温する。この仕組みはとても面白い。

面白いばかりじゃなくて、肉も酒も皆美味くて満腹になった。明仁の車で旅館に戻ったのは、3時半を回っていた。この日は私たちにとっても、なかなか楽しい強行軍だった。

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5月8日 (水)  親日VS反日

相変わらず日本のメディアは、「反日」にギャーと叫び、「親日」にヒャーと喜ぶ。

そして、“親日国トルコ”で盛り上がろうとする。もちろん、トルコにも親日的な人はたくさんいるけれど、政府が特に親日的な政策ばかりを進めているわけじゃない。また、親日的な人たちが、その他の国々に比べて極端に多いわけでもない。反日的な人は割りと少ない方かもしれないが・・・。

そもそも、親日的な政策ばかりを進めている国など、世界の何処にあるのだろう?

親米的な国なら、たくさんある。政治的に、あるいは経済的に、米国の強い影響下にある国々がそれで、日本もトルコも“親米国”と言って差し支えないだろう。しかし、トルコで「嫌いな国」のアンケートを取ったら、おそらく1位は米国である。

およそ、普通の人間関係でも、自分のことを牛耳っている人物に親しみを感じる人は余りいないのではないか。だから、多くの親米国の人々の大半は、米国に余り親しみを感じていない。それどころか、憎んでいたりする。

日本も、かつて東アジアに覇を唱えていた頃は、幾多の国々を牛耳っていたから、“親日国”も存在していたはずだ。満州国や大韓帝国などがそうだろう。

個人的に、親日や親米になるのと、国をあげて親日や親米になるのとでは、意味が異なって来ると思う。

また、個人的な“親しみ・好き”という感情には、敬意が含まれている場合もあれば、上から目線で“可愛らしい”と感じているだけの場合もある。

我々、平和で優しい現代日本人の多くは、多少、上から目線で親しまれても、これを喜んで受け入れそうだが、例えば、ロシアのプーチン大統領などはどうだろう? 「日本人の多くが、ロシア可愛い、好きと言ってます」なんて報告受けたら、「まだ俺たちのことを恐れていないのか、もう一発ビビらせてやれ」とでも言いそうな気がする。

もちろん、これは冗談で、そんなこと言わないと思うけれど、日本でタカ派的な論陣を張り、拳を振り上げて、反日を糾弾している人たちが、“親日”に喜んでいるのを見ていると、何だか情けなくなってしまう。

雄々しいタカになりたいなら、方々を牛耳って、“親しみ”など断ってしまえば良い。親日より反日が増えることを望むべきだ。

親日を増やすのは簡単だろう。金をばらまけば、いくらでも親日になってくれる。反日を増やすのは簡単じゃない。80年代の憎々しいほど強い経済大国“日本”を再現できれば、反日も増えると思うが、これは可能だろうか?

まあ、ここまでは冗談だが、韓国とトルコを比べてみると、韓国は日本との関係が濃密であるため、とても親日的な人が多い代わりに反日的な人も多い。日本と取引があったり、日本人の友人がいたりして、心情的には日本が好きだけれど、政治的には「反日」という人もいる。

トルコの場合、日本との関係は、まだ希薄であるため、とても親日的な人はそれほど多くない代わり、反日的な人も余りいない。経済摩擦などもないからだ。「何となく日本が好きだ」という人はかなりいるだろう。でも、日本と取引があったり、日本人の友人がいたりする人は、韓国に比べたら、ほんの僅かに過ぎない。

しかし、これから経済的な関係が発展したら、摩擦も生じるのではないか。都知事のように横柄な態度を取る日本人が目に付き始めたら、反日的な人も増えるはずだ。その代わり、日本との関係が濃密になって、親日の度合いも増してくるに違いない。

それから、韓国の政治的な“反日”だが、これはある程度仕方ないと思う。かつて日本が、朝鮮の独立を奪い、朝鮮の人々を差別した歴史的な罪が消え去ることはないのだろう。これを帳消しにする為には、再び米国と戦争して勝ち、世界に覇を唱えるより他になさそうだ。そんなことを本気で考える人がいればの話だけれど・・・。

しかし、何でもかんでも、昔の日本が悪いことにすれば良いのだろうか? いつだったか、「韓国の人に申し訳ないから、豊臣秀吉が好きだと言うのは止めよう」といった趣旨の文を読んでのけぞったことがある。

韓国の人たちは、日本人と本音の議論がしたいのではないか。侮辱的な言葉は聞きたくないが、御座なりの謝罪も受け入れたくない。だから、「豊臣秀吉は嫌いです」なんて言ったところで、一つも喜ばれない。本音を語っていないと思われるだけだ。もちろん、ある日本人が日韓併合は正しいと考えていて、その本音を語ったら、激しい議論というより、殆ど喧嘩になってしまうかもしれない。

そもそも、日韓併合が正しいのであれば、東京裁判は間違っていたことになる。韓国の人たちも、「それに文句があるなら、米国に言え!」と怒るだろう。

それ以外のところで是非を論じ、韓国側に間違った認識があれば、それを質すべきだと思う。

また、「昔の日本は全て悪い」という説を論じている“進歩的”な人たちは、その発言によって、保守的な日本人を酷く苛立たせ、却って右翼的な風潮を煽ってしまっていることにも配慮して欲しい。



5月9日 (木)  ソウルのカンジャン市場

ソウルでは、カンジャン市場もなかなか楽しかった。食材などを売る店が軒を連ねるアーケード通りの中央に屋台が並び、会社帰りのサラリーマンや若い人たちで賑わっていた。

韓国の人たちも、近年、焼酎のアルコール度数が下がったくらいで、ソフトな酒を好むようになったらしいが、アーケード通りには乾杯を繰り返して気勢を上げる声が響きわたり、相変わらず元気だった。

カンジャン市場の屋台は、屋台と言っても、各店にガスや水道が来ていて、すべて常設の店になっている。大きな屋台村のような感じだ。訊くと、この“屋台村”は、7〜8年前に作られたらしい。私がソウルに居た頃は、所々に屋台が出ているだけで、普通の市場だったのだろう。

ガスや水道まで敷設されているのだから、かなり計画的に作ったはずだ。お陰で観光客も訪れるようになった。素晴らしい企画じゃないかと思う。

私たちも刺身の屋台に座って一杯やった。刺身は、マグロがルイベ状態(半分凍ったまま)で出てきたりして、お味の方は「?」だが、72歳になるという“アジュモニ(おばさん)”の笑顔と如何にも屋台らしい雰囲気は最高だった。

刺身は、千切り大根のツマではなく、なんだか春雨のようなものの上に盛られていて、にんにくとサンチュも付いて来た。

その“春雨”をつまんで食べながら、「これ何だろう?」と話し合っていたら、隣で一杯やっていた40歳ぐらいの2人組みサラリーマンがこちらを向いて、「スミマセン・・・ドウモ・・・」と日本語の単語を繰り返し、しきりに何か伝えたい様子。

「韓国語で言って下さい」と応じたら、「良かったあ。韓国語解るんですね。いや、それ食べない方が良いですよ。洗って使い回していますから・・・」と“春雨”を指差した。

屋台の裏が見える所に座っていた友人は、「もう見てしまったよ。多分、サンチュもそうじゃないか。道理でバリッとしている。何度も洗っているからね」と苦笑いしていた。しかし、私が若い頃、飲食店でバイトしていた経験から言うと、当時、日本の喫茶店等でも、パセリなどは当たり前に洗って使い回していて、それに慣れてくると、特別不衛生なことにも思えなくなってしまう。「飲食店で1年もバイトすりゃ、何でも食えるようになるさ」などと嘯いていたものだ。

サラリーマン氏に礼を述べると、彼らも「韓国語お上手ですねえ」と喜んでいた。韓国で、「スミマセン」「アリガトウ」といった簡単な日本語の挨拶言葉も知らない人は殆どいないような気がする。台湾もそうらしいが、これほど日本語が通じてしまう国は他にないと思う。

韓国在住の日本人の友人が、ツイッターに記していたけれど、韓国の人たちは“反日”といっても、日本人に嫌悪感を懐いているわけじゃない、「日本はこうあるべきだ」と主張しているだけで、日本の嫌韓とは全く異なる。確かにそうだと思う。

日本で嫌韓やっている人たちの中には、欧米志向が強すぎるのか、“アジア的な雑然さ”が嫌な人も少なからずいるようで気になる。これでは、めぐり巡って、ある種の日本的なものまで嫌いになってしまうのではないか。

トルコでも、ヨーロッパ志向の強い人たちは、屋台を激しく嫌がる。「不衛生で何が入っているのか解らない」と嫌悪する。私に言わせれば、イスタンブールの目抜き通りの店の家賃は目の玉が飛び出るほど高いため、あれでドネルケバブのような軽食を提供しながら利益を計上している飲食店のほうがもっと恐ろしい。それこそ何を食わされているのか解ったものじゃない。これは日本でも全く同じ。

私にだって欧米志向はあるけれど、最近は、東京の下町の屋台に喜ぶ欧米の人たちも多いそうだ。それに、私たちはアジア人なのだから、アジア的なものから全て逃れることなど出来ないだろう。地理的にも歴史的にも、韓国や中国との交流を深めていかなければならない立場だと思う。

日本で、ある保守派の知識人が主宰しているネットの教養番組があって、勉強になるから時々拝見している。以前から、韓国嫌いを表明されているこの知識人の方が、いつだったか番組で語っていた。

長い英国暮らしから日本に戻って来たら、居酒屋などで酔っ払って「ギャー」と叫んでいる日本人を見て唖然としたそうである。「いつから日本人はこうなってしまったのか」なんて仰る。徒然草にも、酔っ払って管を巻く連中を窘める話が出て来るから、多分、相当昔からじゃないのか。

この方が、カンジャン市場で乾杯を繰り返して気勢をあげる人たちを見たら、肝を潰すに違いない。でも、我々日本人だって、昔から「ギャー」と飲んで来たわけだからねえ・・。申し訳ないけれど、それが嫌なら、英国にでも何処にでもお帰りになるのが宜しいんじゃないかと思ってしまった。

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5月10日 (金)  「1915年:トルコは何が出来るか?(2)」

“トルコの新聞記事”を更新するソフトが使えなくなってしまったため、もう長い間、新聞記事の訳はしていなかったけれど、先月、ザマン紙で、エティエン・マフチュプヤン氏が実に興味深い記事をそのコラムで連載していたので、その中から以下の記事を訳して、この欄に載せたいと思います。マフチュプヤン氏の記事はとても難しく冷や汗ものですが・・・・。

http://www.zaman.com.tr/etyen-mahcupyan/1915-turkiye-ne-yapabilir-2_2082271.html

所謂“アルメニア人虐殺”に関する「1915年:トルコは何が出来るか?(2)」という記事。筆者のマフチュプヤン氏はアルメニア人であるけれど、トルコ共和国の国民であり、ここでもトルコの立場からこの記事を書いているようです。

*それから、“トルコの新聞記事”のソフトばかりでなく、連絡先として記されている“Superonline”のアドレスも既に機能していません。お便りは以下のメール・アドレスにお願いします。

makoton1@hotmail.co.jp

「1915年:トルコは何が出来るか?(2)」
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ジェノサイドという言葉は、多くの国にとって“ダモクレスの剣”だ。このレッテルを貼られてしまうのは本当に恐ろしい。特に、民族主義的な傾向がある場合、ジェノサイドをやった国という認識が、貴方たちを歴史的に下等な国民にしてしまっていることを考えてみなければならない。

まるで世界の国々は、精神的な美しさを競い合っているかのようだ。そして、ジェノサイドをやったというのであれば、贖うことも出来ないまま、歴史の暗いページに送り込まれてしまう。

しかし、国連によるジェノサイドの定義を根拠にするなら、ジェノサイドをやっていない国を探すほうが難しい。現実は残酷だ:力の差がない勢力同士の争いでは、比較的に優位な側が一定の時や空間を支配するだけだが、力の差が明らかな勢力がぶつかり合った場合、力の強い側はジェノサイドの実行を余り躊躇わない。

一方、ジェノサイドの罪を訴えることが、何故、“ダモクレスの剣”であるかと言えば、この言葉が、ある歴史的な事件を例にして作り出され、他の諸事例は、その事件の重大性とは比べ物にならないからだ。

ナチスが、ユダヤ人とロマ人に対して実行したシステマティックな集団虐殺に類似するものなど、実際には存在しない。抹殺作業を技術的な施策として計画し、人間的な感情を一切排除してしまった他の事例はないのである。

しかし、ここに一つの言葉が残り、その定義の広さを根拠にして、大小の様々な抹殺行為が、ジェノサイドと名付けられてしまう。

さらに、虐殺の対象になった人たちも、これをアピールし、被害者への政治的な支援の取り付けを容易にするため、事件が必ずジェノサイドと看做されることを望んだ。

しかし、ここで被害者たちを非難するつもりはない。あまつさえ、加害者が自分たちの行為と向き合おうとしない状況では、被害者が事件を出来る限り過激にしようとする努力は、人間的な要求であると思われる。

これは、トルコが、何故、何年もの間、同じところで行き詰っているのか、そして、その間、さらに深まる心理的な泥沼に嵌ってしまったのかを説き明かしている。

一方、当然の権利として、我々はドイツに類似しているとは思われたくない。1918年における、国民議会での議論、当時の司法過程、そしてメディアに公開された回想だけでも、これを立証するのに充分である。

国あるいは国家は言うまでもなく、政府、さらには“統一と進歩委員会”でも全員が加担していたわけではない“特別組織”と地方の日和見主義者の協力によって進められた“政策”について語っているのである。わけても、この“浄化”政策が、ドイツのように人種差別的な思想に基づくものではなく、抹殺というより“減少”を目的としており、トルコ民族主義による資本収得の活動に傷跡を残してしまったことを我々は知っている。

これらの全ては、アルメニア人の身の上に起こった事や、彼らにとっての事件の意味を変えたりはしない。しかし、トルコには一つのチャンスを与えるものだ。歴史を潔く見て、起こった事を認め、それをナチスの事例から遠ざけるのである。

ところが、トルコはこれをやろうとしないばかりか、何十年にわたって、「もともと彼らのほうが我々を殺した」であるとか「彼らは裏切ったのだ」といった類の、ただトルコ国内の良く知らない人たちに呼びかけることは出来ても、世界に対しては軽蔑されるだけの発言を繰り返してきた。

これは、アルメニアのディアスポラに、ジェノサイドの旗を掲げさせるだけに終わってしまった。何故かと言えば、当然のことながら、彼らはこう応じたのである。「トルコで続けられる“拒否”は、事件が意図的に行われたことを示している。そして、これは事件がジェノサイドであったことを立証している」。

こういった中で、トルコは、ジェノサイドという言葉を使わない知恵さえ見せることがなかった。この言葉は、妥当ではないとして、使わないことを明らかにしながら、少なくとも、1915年のために、違う言葉を作り出すことができたはずだ。

しかし、なんという知性なのか、世界各地で今も起きているあらゆる虐殺を“ジェノサイド”と名付けてしまっている。ボス二ヤヘルツェゴビナ、アチェ、ホジャリがジェノサイドであれば、1915年がジェノサイドでなかった可能性もなくなる。

公認イデオロギー、公認の国民アイデンティティーは、トルコ国民を知性の面で去勢してしまった。起こった出来事を、1918年でさえ、詳細に語り合っていた社会が、長い間、記憶を失った状態で、国家が彼らに与えたイデオロギーの杖を頼りに歩く障害者のように過ごして来た。社会は、国家の外交政策の材料にされてしまい、記憶も民族主義的な法理解に利用されてしまった。今、その出来事と記憶を社会に返還する時である。トルコが先ずやらなければならないのはこれである。他者が望んでいるからではなく、自分たちの精神を健全にするため、そして正しい国民になるため。



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