Diary 2013. 4
メニューに戻る
4月1日 (月)  “我が谷・・・”の亀

3月31日、パシャキョイ村から、さらにダム湖まで歩き、藪の中を見晴らしの良い所まで登って、一息ついていたら、足元の近くでガサッと音がした。見ると、亀が一匹のそのそ歩いている。甲羅の長さが20cmぐらいある亀だった。

亀の写真を撮り、10mほど移動して、また佇んでいたところ、今度は、近くの藪の小枝がガサガサ音を立てながら揺れている。何かもっと大きい動物でもいそうな感じがして、こっちも「シッシッ」と声を出しながら、恐々近寄ってみると、その藪の下で、ゴットンと石がぶつかったような音がした。

一瞬、動きを止めて身構え、暫く様子を覗って、何も飛び出して来ないのを確認したのち、藪の小枝を掻き分けてみたら、そこには2匹の亀がじっとしていた。さきほどの亀と同じ種類のようだ。何という亀だろうか?

亀といえば、20年ぐらい前、イスタンブールの商工会議所で、当時、トルコから日本へ輸出されていた産品のリストを見せてもらったところ、その中で“Kaplumbaga(亀)”が上位に記されていた。あれは、どういう亀だったのか、今でも謎のままである。

20130401-1.jpg 20130401-2.jpg 20130401-3.jpg



4月2日 (火)  パシャキョイの春

3月31日、散策の帰り道、パシャキョイ村のモスクの前を通ったら、そこに椅子を並べて雑談していた5〜6人のおじさんたちに呼び止められた。

もう一つ椅子が用意され、茶を勧められたので、有り難く頂戴することにした。日本人であるとか、イエニドアンに住んでいて、そこから歩いて来たとか、一通り自己紹介すると、その中では最も年配の50代後半に見える紳士的なおじさんに、「ところで貴方は、ここが何処であるのか解っているんですか?」と訊かれた。

「パシャキョイ」と答えると、皆、「よく知ってるなあ」と嬉しそうに笑ってくれた。そこで、「ご先祖は、テッサロニキから移って来たんですよね?」と付け加えたら、目の玉を丸くして驚いていた。

パシャキョイの住民は、共和国革命の際、住民交換によってギリシャのテッサロニキ辺りから移住させられた人々の子孫であると言う。

現在は、トルコの他の地方からやって来た人たちもいるようだが、あの紳士的なおじさんは、「そうです。うちもテッサロニキからの移民です」と答えていた。

少し彼らの話を聞いてみただけで、彼らがAKP政権とエルドアン首相を強く支持していることが解ったし、なにしろモスクの前だから、慎重に言葉を選んで話していると、向こうから「酒は飲むんですか?」と訊かれた。

これで私も楽になり、「この村に酒の飲める店はあるんですか?」と訊き返したら、「そういうのは無いねえ」と言われたけれど、「この村にも飲む人はいますか?」と重ねて訊いたら、「全員!」と答えて爆笑していた。

先月から、“ニュフス・ミュバデレスィ(住民交換)”というメフメット・アリ・ギョカチト氏の本を読んでいるが、その第二章に、オスマン帝国末期のテッサロニキにおけるムスリム社会の様子が描かれている。

それによると、当時、テッサロニキのムスリムは、押し並べて敬虔であり、礼拝などの儀礼を熱心に実践していたものの、男たちの間では飲酒も一般的に行われていたらしい。海岸通りの居酒屋は、ムスリムとクリスチャンの住人が交流できる数少ない場所の一つだったそうである。

パシャキョイの人たちは、その伝統を受け継いでいるのかもしれない。

****
写真左は、ダム湖の方から見たパシャキョイの家並み。奥の方に見えているビルが建て込んだ丘はイエニドアン。
写真中は湖畔でバーベキューを楽しみながら寛いでいる家族。
写真右は、パシャキョイの中心部。

20130402-1.jpg 20130402-2.jpg 20130402-3.jpg



4月3日 (水)  グルジアの“チャチャ”と“フィンガリー”

6月7日(木) 本場?グルジア料理の店
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2012&m=6

ヨーロッパ側アクサライのバスターミナル内にある上記のグルジア料理店。昨年の6月は、お勧めの“グルジア風餃子”を食べ損なったので、昨日、また出かけてみた。

今回は、トルコ語が良く解るグルジア人のおじさんがいて、何が食べたいのか直ぐに話が通じた。でっぷり肥えたこのおじさんが店主なのかもしれない。

グルジア風の餃子、“ツィンガリー”と言ってるように聴こえたが、おじさんにゆっくり発音してもらうと、どうやら“フィンガリー”らしい。

おじさんは、「グルジアのウォッカ“チャチャ”もあるよ」と勧めるので、これも飲んでみることにした。

早速、トルコ茶用のチャイ・グラスになみなみと注がれた“チャチャ”が、清涼飲料水のペットボトルと一緒に運ばれてくる。

「これ何? 水はないの?」と訊いたら、「グルジアでは、これと一緒に飲むから試してみなさい」と言う。

ペットボトルには、グルジア文字が記されているが、もちろん私には解らない。一口飲んでみると、凄く甘いレモン味のサイダーだった。

実際、後から来たグルジア人たちも、皆、そのレモン味サイダーをチェイサーにして“チャチャ”を飲んでいた。

チャチャは、ギリシャのティプロを思わせる風味で非常に美味かった。ティプロと同じく“粕取りブランデー”と言われる類の酒であるようだ。

チャチャ (飲料)−ウイキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%81%E3%83%A3_(%E9%A3%B2%E6%96%99)

このウイキペディアの記述を読むと、グルジアの人たちは、チャチャに医療効果があると信じているそうだが、ルーム(トルコのギリシャ人)の故マリアさんも、ティプロは万病に効くと言ってたから、何か関係があるかもしれない。

“フィンガリー”が出てくるまでに、チャチャを半分以上飲んでしまい、もう一杯飲みたくなったけれど、かなり強い酒なんで我慢した。すきっ腹に呷ったため、一杯でも結構効いた。

そして登場した“フィンガリー”は、一見餃子というより、小龍包みたいな感じだ。持ってきたグルジア人のおばさんが、『こうやって食べるのよ』というように、少し胡椒をかけて行った。

一口喰らいつくと、肉汁がドバッと流れ出て、まさに小龍包だった。昨年の6月に来た時、トルコ人の青年が「気をつけなさい。あれには豚の油が入ってますよ」と注意してくれたけれど、確かに牛肉だけではなかったような気もする。おじさんに訊いておけば良かった。

一人前で10個も出てきて、『こんなに食べられるか?』と思ったが、具の挽肉にはパクチの香りが効いていて、実に美味かったから、あっという間に平らげてしまった。

最後に、少し残しておいたチャチャをぐいとやって大満足。これで14TLは安いと思う。

20130403-1.jpg 20130403-2.jpg 20130403-3.jpg



4月6日 (土)  チャタル・ダー(山)

我が家の裏山に登ると、遠くパシャキョイ村の左手に、小高い山が見える。幅の広い防火帯が、てっぺんまで真っ直ぐ延びていて、そこを辿れば容易に登れそうな感じだ。

グーグルアースでチェックしたところ、チャタル・ダーという山で、パシャキョイ村から防火帯の直ぐ下まで行く道がある。

今日、昼前にチャタル・ダーを目指して出発した。ところが、パシャキョイを経由して、防火帯の下まで辿り着くと、そこは何かの採掘場で、立ち入り禁止になっている。

グーグルアースでは、てっぺんに繋がる別の防火帯へ、左側から迂回すれば行けるように見えていたので、だいたいの見当をつけて歩いて行き、途中で会った人に訊いたら、道筋を丁寧に教えてくれた。見当は大きく間違っていなかったようだ。

こちらの防火帯の下は、ハイキング場になっているらしく、“森林局−パシャキョイ―Cタイプ―ハイキング場”という看板が出ていた。そこを過ぎて暫く行くと、番所らしきものがあり、中から若者が一人姿を現した。入場料2TLと言う。

「向こうのタシュデレンのハイキング場は、只で入れてくれて、お茶まで御馳走してくれるよ」と文句言いながら2TL出したら、ケラケラ笑っていた。ひょっとして、タシュデレンの方も、本当は只じゃなかったんだろうか?

そこから、てっぺんまでは防火帯を辿って、30分ぐらいで登れた。それほど急な斜面でもない。

てっぺんでは、風がビュービュー吹いて、半袖だとちょっと寒いくらいだった。我が家の裏山が正面に見えたけれど、霞が掛かっていた上、逆光だったので、写真には巧く映らなかった。


20130406-1.jpg 20130406-2.jpg 20130406-3.jpg



4月7日 (日)  チャタル・ダー(山)の亀

昨日、チャタル・ダー(山)に登って降りてくるまでの僅か1時間半ぐらいの間に3度も亀に遭遇してしまった。この辺はよっぽど亀が多いらしい。

その間、人間はもちろん他の動物も、空を飛ぶ鳥や小さな虫以外は全く見かけなかった。登る前に、番所の若者を見た後は、降りて来て、番所の近くで牛の出迎えを受けたぐらい。もっとも、他の動物は、私の気配を感じて、さっさと姿を隠してしまっただけだろう。

のろまな私の相手をしてくれるのは、もう亀しかいないということかもしれない。

20130407-1.jpg 20130407-2.jpg 20130407-3.jpg



4月8日 (月)  「はい、解りました」と言わないトルコの人たち

2000本安打を達成したラミレス選手、日本の野球で成功する為には、以下の三つの言葉を理解しなければならないと語ったそうだ。

「しょうがない」「はい、解りました」「頑張ります」。

これって、野球界に限らず、日本の社会の何処ででも通用する言葉だと思う。また、ラミレス選手は敬虔なクリスチャンで、2000本安打達成の際も「神様に感謝します」と答えていたけれど、この三つの言葉は、彼の信仰にも繋がっているような気がする。

「しょうがない」−運命の受容。「はい、解りました」−神への従順。「頑張ります」−自助努力。ということじゃないだろうか? ちょっと違うかもしれないが、「しょうがない」を、日本人の自然信仰の顕れとする見方もあるらしい。

私は、このラミレス選手の談話を聞いて、98年に名古屋で会ったトルコの人たちを思い出してしまった。

彼らは名古屋市内の解体屋で働いていたようだが、社長の命令に直ぐ従う日本人の同僚たちが理解できないと話していた。

「俺たちは、理由の解らない命令には従わない。だから、『なんでそんな作業しなければならないの?』と必ず訊く。社長も最初は、『いいからやれ!』と怒っていたけれど、そのうち俺たちトルコ人だけには理由を説明するようになったよ」となかなか得意そうだった。

でも、現場での指示に、いちいち理由を説明したりするのは、殆どの場合、時間の無駄じゃないかと日本人の私は考える。

クズルック村の工場でも、理由を聞きたがる従業員は多かったが、作業の意味を理解してもらわないと困る工程では、逆に日本人の管理者がしつこいくらい説明を繰り返すので、「もう解っているよ」と嫌がる従業員もいた。

そのくせ、トルコの人たちは、停電になっても、断水しても、ガスが止まっても、余り文句を言わない。日本で、明確な理由もなく1時間以上停電したら、大変な騒ぎになるだろう。お上に対しては、トルコ人のほうが遥かに従順であるような気がする。

まあ、いずれにしても、あの名古屋のトルコの人たちは、日本の社会でラミレス選手みたいに成功しなかったと思う。



4月15日 (月)  韓流のトルコ人女学生たち

一昨日、タクシムの韓国料理店“カヤ”に寄ったところ、昼の3時過ぎとあって、がらんとした店内の奥のテーブルで、若いトルコ人女性が5人、お茶を飲みながら談笑していた。

近づくと、彼女たちは、「アンニョンハセヨ!」と韓国語で挨拶した。そこで、韓国語が解るのか、まずは韓国語で訊いてみたけれど、その表情から問いの意味が解っていないのは明らかだったので、直ぐトルコ語に切り替えた。

エスキシェヒルの大学で学んでいる学生たちで、試験後の休暇を利用して、イスタンブールへ遊びに来たそうだ。

韓流のテレビドラマを観ながら、韓国への興味が高まってきたものの、エスキシェヒルでは韓国の文化に接する機会がなく、イスタンブールに来て、やっと韓国料理を味わうことが出来たと喜んでいた。

韓国語の挨拶も韓流ドラマで覚えたらしい。「“サジャンニム”って、社長のことじゃないですか?」と訊かれたけれど、トルコ語の字幕スーパーを読みながら、韓国語の音を拾っているのだろう。

皆、日本にも多少興味を持っていて、日本の映画も観ているそうだが、「なんとなく韓国のほうが文化的に近いような気がする」と口を揃えていた。家族の結びつきなどを見ると、確かにそう感じられるかもしれない。

彼女たちの中の2人は、スカーフを被っていて、一人はちょっとモダンな被り方だが、もう一人は典型的な“敬虔”スタイルだった。敬虔スタイルの彼女は、実家がイスタンブール市内にあると言い、中学生の妹を連れて来ていた。この子はスカーフを被っていない。

この韓国料理店には、もちろん豚肉のメニューもあって、かつての敬虔な人たちは、こういった店に入りたがらなかったような気もするけれど、彼女らは豚肉のメニューさえ注文しなければ、問題ないと思っているようだ。

20130415-1.jpg



4月17日 (水)  ソウルのトルコ流?

約1週間の予定で韓国のソウルにやって来た。

昨年の12月にご紹介した“トルコのアイスクリーム”MADOは、残念ながら閉店したようである。

(Mado Cafe)
http://www.foodncafe.com/blog/?mb_id=zizibaekFC&id=4005

カンナム(江南)の“パシャ”というトルコ料理屋は健在だった。

Pasa
http://www.pashakebab.com/

この“パシャ”には、10年前も来たことがある。浮き沈みの激しい韓国の飲食業界で、10年を越したのは成功と言えるんじゃないかと思う。

店員の若い女性に、「トルコに興味があって、こういう店で働くようになったんですか?」と訊いたら、「何の興味もありませんでした〜」と笑われてしまった。まあ、日本でも何処でもそうだろう。興味があって働きに来たなんて、かえって不自然かもしれない。


20130417-1.jpg 20130417-2.jpg 20130417-3.jpg



4月18日 (木)  ソウルの地下鉄

ソウルを訪れたのは、2003年以来で実に10年ぶり。地下鉄の路線も増え、プリペイドカードの購入などでちょっとまごついたけれど、駅員さんが親切に教えてくれた。

地下鉄のホームにも二重のドアが設置されていた。でも、二号線に乗ったら、車内の路線案内の表示版などは、余り昔と変わっていない。それをぼんやり見ているうちに、つい先日もこの地下鉄に乗っていたような気がして来た。1週間もいたら、大分慣れきってしまうのではないかと思う。

20130418-1.jpg 20130418-2.jpg 20130418-3.jpg



4月26日 (金)  板門店ツアー

昨日、イスタンブールに帰ってきた。

韓国滞在中の23日には、板門店ツアーで、共同警備区域(JSA-Joint Security Area)やイムジン河に臨む展望台、北朝鮮が工作員を送り込むために掘ったと言われる南侵第三トンネルなどを回った。

共同警備区域には、韓国人の場合、今でも特別の許可がないと入れないらしい。それで、日本語と英語のガイドさんが案内する“外国人用のツアー”だけが組まれているようだ。

北の金正恩様が無闇に煽ってくれたお陰で、参加したツアーの日本人観光客は、私と友人夫婦の3人だけ。日本語ガイドの女性を独占して、いろいろ質問できたから、とても良かった。

もちろん、ソウル市内にも緊張感など全くなかったが、ガイドさんによれば、ここは厳重な警備区域であるため、ソウルよりよっぽど安全なんだそうだ。

ガイドさんは、太陽政策を放棄した李明博前大統領を厳しく批判していた。午後の第三トンネルツアーのガイドさんは、逆に太陽政策について批判めいた話をしていたから面白い。ガイドさんが自分の政治的な主張を躊躇わずに披瀝するところは、なかなか韓国らしいと思った。

第三トンネルには、韓国人の観光客もたくさん来ていた。岩盤がむき出しになっているトンネルを見学した帰り、通路用に整備されたトンネルを登っていると、降りてきた女子高校生らに声をかけられた。「おじさん、この下に何があるの?」。

「第三トンネル」と答えたけれど、韓国語の“トンネル”の発音はちょっと難しい。女子高生は、きょとんとして少し私の様子を覗ってから、また「あとどのくらいですか?」と訊いた。「200mぐらい」と言ったら、「どうしよう?」「帰りも計算に入れとかないと・・」などと仲間内で言い合いながら降りて行った。

多分、学校の課外授業として来たのだろうから、降りる前に引率の先生が説明しているはずだが、彼女たちは何も聞いていなかったらしい。軍事境界線の緊張感など何処にもないようだ。

トンネル入口の売店では、北朝鮮から輸入された酒も、いくつか売られていた。“力道山酒”というのもあった。

イムジン河の展望台も、韓国人の観光客で賑わっていた。展望台からは、ピョンヤンを通って中国にまで繋がっているという京義線の鉄路が見える。2000年に復元工事が完成したものの、現在、イムジン河を渡ってもうひとつ先のトラサン駅が終着駅になっているそうだ。イムジン河を渡ってくる三両編成ぐらいの気動車を写真に収めることができたが、1日に2回の運行というから、実に運が良かった。

20130426-1.jpg 20130426-2.jpg 20130426-3.jpg



| 1 | 2 |