Diary 2013. 3
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3月1日 (金)  “ヴェファ・ボザジュス”の酢 

健康の為、毎日、少しずつ酢を飲むことにしようかと思ったけれど、スーパーで売っている葡萄の酢は、どうにも酸味が強くて飲み辛い。一気に飲み込もうとすれば咽てしまう。

トルコでは、この葡萄から作った酢が最も一般的で低価格、他にリンゴ酢とかレモン酢も売られているけれど、サラダ等に使うのであれば、私は葡萄の酢が美味いと思う。

それで、“ヴェファ・ボザジュス”という老舗の葡萄酢はどうだろうかと考えた。“ヴェファ・ボザジュス”は、ボザという甘い発酵飲料で有名な老舗だが、葡萄の酢も作って売っている。

ちょっと高いかもしれないけれど、健康には変えられないと思い、一昨日、ヨーロッパ側エミノニュの銀行まで行ったついでに寄ってみた。

ボザを一杯飲んでから、おもむろに、酢の1リットル瓶の値段を訊いたら、これが何と2.5リラで、スーパーで市販されているものよりずっと安い。市販の酢は半リットルで、2〜3リラする。

一本買って来て、早速飲んでみたら、酸味がそれほど強くなくて、とてもまろやか、ぐっと飲んでも咽たりしない。これなら、毎日、ショットグラスに一杯ぐらい飲めそうだ。サラダとか酢の物にもどんどん使ってみよう。

しかし、なんであんなに安いのだろう? 直売だからなのか? 老舗の心意気かもしれない。

1876年創業のこの店には、アタテュルクがここに寄って、ボザを飲んだコップというのが恭しく展示されていて、以前は『本当かよ?』なんて半信半疑だったけれど、これで疑いが晴れた。万歳!“ヴェファ・ボザジュス”! 

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3月3日 (日)  クルド和平交渉の行方

昨日のサバー紙に、エンギン・アルドゥッチというコラムニストが、クルドとの和平交渉に関連して、「旗の名は“トルコ人(テュルク)の旗”であり、軍隊の名は“トルコ人(テュルク)の軍”である。クルド人もこれを認めなければならない・・・・」と書いていた。トルコ人(テュルク)を“テュルキエリ(トルコ人の国に住む人々?)”などと言い換えるのはナンセンスというのである。

タハ・アクヨル氏も、数日前のコラムで、「憲法を改正したとしても、そこには必ず“テュルク・ミッレッティ(トルコ民族)”の概念が記されていなければならない」という旨を明らかにしていて、大いに納得したけれど、タハ・アクヨル氏はもともとトルコ民族主義から出発した人だから、別に意外なことじゃなかった。

でも、アルドゥッチ氏はリベラル派のようだから、『こんなこと言う人だったのかなあ?』と思った。続きを読んで見ると、「現存する国家を過去のものにして、新たに全く異なる国家を築くのであれば、それは法改正とか国民投票などで出来るものじゃない。“我々に塗炭の苦しみを与える大騒乱”が必要になる。何故なら、この変遷を自分の意志だけで認めさせられる力など何処にも存在しないからだ・・・」と明らかにされている。

そして、「オスマン帝国が国家としての機能を果たせなくなって大騒乱に陥ったため、アンカラに新しい国家が生まれたが、この国家にも救国戦争で勝利する保証などはなかった・・・」とトルコ共和国が大変な生みの苦しみの末に成立した歴史が説かれている。

20年前、故オザル大統領は、雑誌のインタビューで「アタテュルクを批判するつもりはないが、トルコ共和国ではなく、オスマン共和国という名称になっていれば、何の問題も起こらなかった」といった趣旨の発言をしていたけれど、これは今考えてみても驚くべき発言だったと思う。アタテュルクは、父(アタ)なるトルコ人(テュルク)という意味だから、オスマン共和国などと言ったら、それは批判どころかアタテュルクの否定になってしまうだろう。

その頃、イズミルの学生寮で、黒海地方出身の寮生が、アタテュルクの肖像画を示しながら、「これ誰?」と訊くので、「アタテュルク」と答えたら、彼は可笑しそうに手を振りながら、「違う、アタラズ!」なんて凄い冗談を飛ばしていた。彼はラズ人だったようだ。

先月、タハ・アクヨル氏による“社会の各層でアタテュルクを共有する試み”について触れたけれど、クルドの人たちの一部はこれを認めないだろう。しかし、トルコ共和国としても、これは絶対に譲れない一線じゃないかと思う。

オザル大統領は、トルコ人という概念をアメリカ人に準え、ルーツをそれぞれ異にする人たちが集まってトルコ人を構成しているとも語っていたが、トルコの場合、こうしてトルコ人のエスニック的な民族性を否定しまうと、ルーツがはっきりしなくて、結局、何民族に属しているのか解らない人たちがたくさん出てきてしまうような気がする。そのぐらい複雑に混ざり合ってしまっているのではないか・・・。

だから、本人がトルコ民族であると意識しているのであれば、それを認めないわけには行かないだろう。これは、もちろんクルド人にとっても通用するわけだけれど・・・。

トルコ共和国の名称やアタテュルクに関して譲ることはできないし、トルコ人というのが民族の名前であることも譲れないのであれば、タハ・アクヨル氏やアルドゥッチ氏が言うように、クルド人側に譲歩を求めるよりないが、こちらは可能であるかもしれない。

クルド系政党BDPのデミルタシュ代表は、トルコ人もクルド人も包括する新たな国民の名称(例えば“テュルキエリ”)を求める動きを批判して、「彼ら(トルコ人)は我々を否定するために、トルコ民族まで否定しようとしている。彼らを擁護するのも我々の仕事になってしまった。エスニックとしてのトルコ民族は存在する。全てのエスニック民族は存在する。そして同価値である」と語ったそうだ。

つまり、求めているのは同価値の異なる民族としてトルコ共和国に留まる、或いは離脱する、であって新しい国家を創造することではない。

イズミルの学生寮で、「アタラズ」と冗談言ってたラズ人の寮生も、アタテュルクを敬愛していた。他にも、アタテュルクを敬愛するトルコ国民のチェルケズ人やグルジア人など、いくらでも例を挙げることが出来る。クルド人でも、イスタンブールに住んでいる人たちであれば、「アタテュルクを敬愛している」と答える人も決して少なくないと思う。

なにより、もう人々は、トルコ人もクルド人もなく、争いにうんざりしている。これからビジネスを拡大できるチャンスがいくらでもあるのに、いい加減にしてくれという気持ちだろう。

私は、トルコの人々が今までに何度も示して来た、あの魔法のようなバランス感覚で、この問題もきっと解決してくれると信じている。


3月7日 (木)  ダイナミック・ソウル!

イスタンブールの地下鉄、以前お伝えしたように、タクシムを通る路線の車両は、全て韓国の現代ロテム製。

各車両に取り付けられたテレビ画面には、当初、ソウルの光景が映し出されていたが、いつからかイスタンブールを始めとするトルコの観光名所を案内するプログラムに変わっていた。

と思っていたけれど、今日、レヴェントからタクシムまで乗ったら、また元のソウルを紹介するプログラムが繰り返されている。たまたまのことなのか、何か意味があるのか、その辺の事情は良く解らない。

この車両、扉の部分でも韓国らしいデザインが目を引く。こういったやり方が、韓国のイメージアップに繋がるのかどうか、これまた良く解らないが、韓国の人たちの積極性というか、果敢さにはいつも驚かされる。

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3月10日 (日)  トルコの菓子メーカー

トルコの菓子メーカー、ウルケルとエティという会社が有名で、何処の小売店やスーパーに行っても、大概、両社の製品が売られている。ウルケル社は1944年、エティ社は1962年の創業。

ビスケットやケーキ、チョコレートといった両社の主な製品は、各々が中身から包装に至るまで、とても良く似ているような気がするけれど、こういった状況は日本でもそれほど変わらないかもしれない。

自国の市場で、どんな製品が売れるのか考えていくと、だいたい似たり寄ったりの答えが出てきてしまうのだろうか?

しかし、トルコで、ウルケルとエティの両社は、その思想的な背景が大きく異なると思われている。

ウルケル社は創業者一族が敬虔なムスリムで、経営方針にもある程度それが反映されているのか、近年、菓子ばかりでなく、あらゆる食品の分野に進出を遂げているものの、アルコールには全く手を出そうとしていない。

一方のエティは、政教分離主義の会社として知られていた。トルコには、軍支援協会(OYAK)という、退役軍人の年金等を運用する組織から出発した財閥があって、エティは昨年まで30年に亘って、このOYAK財閥から出資を受けて来たのである。

その為、以前、軍関係の施設では、エティの菓子しか売られていなかったという話も囁かれている。

それぐらい、思想的には異なっていたはずなのに、各々の製品が殆ど変わらないのは、結局、双方とも思想じゃなくて市場に基づいて経営してきたからだろうか?

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3月11日 (月)  ハジュ(巡礼者)

近所にあるエルジエスという小さなスーパーマーケット、顎鬚をたくわえた青年が時々店番していて、従業員かと思っていたら、彼がここの経営者だった。

まだ30歳ぐらいじゃないかと思う。顎鬚ばかりじゃなく、ダブダブのズボンはいて、鍔無しの帽子を被り、ひと目でイスラムの濃さが解る。

店には、スカーフも何も被っていない、若い女性の従業員もいて、一昨年、引っ越して来たばかりの頃、彼女に、「顎鬚の人は今日いないの?」と訊いたら、「えっ? 顎鬚って、うちのハジュ(巡礼者)のこと?」なんて言ってたけれど、このハジュ(巡礼者)には、間違いなく少し嘲笑的な意味合いがあったと思う。

クズルック村の工場では、やはり顎鬚にダブダブのズボンでタリバンを気取っていた青年が、ホジャ(師匠)と嘲笑的に呼ばれていた。クズルック村の人たちは大概が敬虔なムスリムだったけれど、あのタリバン気取りはやりすぎだと思っていたのだろう、「ホジャ(師匠)の話はまともに聞かないほうが良いよ」なんて笑いながら忠告してくれたりした。

ホジャ青年の工場での仕事ぶりは非常に真面目で、優秀工として何度も表彰され、パソコン制御の最新機械を任されたこともある。そしたら、ホジャ青年、パソコンの任意で書き込める欄に、早速、「使用場所:アフガニスタン」「使用者:ビン・ラディン」などと記入し、自分より若い大卒のエンジニアに見つかって叱られると、すまなそうに頭を掻いて謝っていた。

しかし、このホジャ(師匠)という言葉は、本当の先生に対しても、文字通りの敬意を込めて使う。日本の“先生”と殆ど変わらない使い方かもしれない。ハジュ(巡礼者)のほうは、どうなんだろう? 敬意が感じられる使い方には、まだ接したことがないように思う。

うちの大家さんは、70歳を越えた御老人で、本当のハジュ(巡礼者)であっても可笑しくないけれど、少々問題のある人物なので、近所の人たちは、皆、嘲笑的に「ハジュ、ハジュ」と囁きあっている。もちろん、面と向かっては言わないが・・。

スーパー・エルジエスの青年経営者は、まだ若い所為か、面と向かって「よう、ハジュ、元気かよ?」なんて言われてもニコニコしていた。

店のラジオは、いつも宗教の番組を流しているけれど、スカーフを被っていない女性従業員については、別に何とも思っていないようだ。冗談を言い合ったりして仲良くやっている。

彼女は、まだ20歳ぐらいじゃないだろうか? とても愛想が良い子で、スーパーに来るお客たちが、「アイセル! 小麦粉ある?」とか気軽に呼んでいるから、私も直ぐに名前を覚えてしまった。

「何処そこの某がアイセルちゃんに惚れて言い寄ったけれど、ひじ鉄砲喰らってしまった」なんていう下世話な噂話も聞いたことがある。すでに、この街のアイドル的な存在なのかもしれない。

さて、このスーパー・エルジエスでも、ウルケル、エティの両社の製品が売られているけれど、エティのほうが圧倒的に多い。特に、チョコレートは、エティとネッスルの製品しかなくて、ウルケルのチョコレートが好きな私は残念に思っている。

まあ、これはハジュ青年の意向と言うより、この店に商品を卸している問屋さんの方針なんだろう。もちろん、ハジュ青年がどうしてもウルケルの製品が欲しいと思えば、変えられないこともないはずだが、だからといって、売り上げが増えるわけでもないし、大した問題ではないに違いない。


*右の写真は、ネッスルの“バクラヴァ風チョコレート?”。食べてみたけれど、何処がバクラヴァ風なのかさっぱり解らなかった。

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3月14日 (木)  ハジュ爺さんの噂話

うちの大家さんは、黒海地方の出身で74〜5歳じゃないかと思うが、まだ42〜3歳の若い後妻がいる。前の奥さんは数年前に亡くなったらしい。その奥さんとの間に、何人か子供がいて、長男は何処かで校長先生だか何だかになっているそうだ。

後妻との結婚には、長男ら皆が反対した為、大家さんはここに新居を構えて、彼らから離れたようである。

後妻の素性は良く解らない。20歳ぐらいの連れ子がいるけれど、この青年の話は8割方嘘じゃないかと思えるくらい、平気で嘘をつく。母親の方も推して知るべしだろう。

昨年の5月、上の階に住んでいる大家さんが、私を訪ねてきて、深刻な表情で語りだした。「もう、あの女とは別れることにする。原因はあれの息子だ。あの子には我慢できない。だから、暫く家賃を振り込むのを見合わせてくれ。振り込んだら、あの女がカードを使って引き落としてしまう」。

それから数日後の晩、上の階で激しく言い争う声が聴こえていたかと思ったら、誰が呼んだのか、パトカーまで出動して大騒ぎになった。近所の人たちは、皆、外へ出てこちらを凝視している。

結局、その晩、大家さんはパトカーに乗せられ、署に連行されてしまった。諍いの経緯は、まったく解らないが、これで離婚は決定的だと思った。

翌日、大家さんの長男と思われる方が来た、その後も毎日のように来て、何事か大家さんと話し合っているようだった。しっかりした雰囲気の紳士で、歳は私と同じぐらいだろう。

その時、どういう話し合いが持たれたのか解らないけれど、事件後、姿を見せていなかった後妻が、1週間ぐらいしたら、何事もなかったかのように一人で戻ってきた。連れ子は何処かへ置いて来たようだ。

後妻の女にしてみれば、大家さんが亡くなるまで待たなければ、結婚した意味がない。大家さんの長男にしてみても、今更、この厄介な父親の面倒を見るのは大変だ。その辺に妥協点があったのではないかと想像する。

さて、これはつい先日のことだが、停留所でバスを待っていたら、左翼風に顎鬚(イスラム風の顎鬚と少し違うだけだが、慣れれば直ぐに見分けがつく)を蓄えた30歳ぐらいの男性に声を掛けられた。

「貴方は、ハジュ(巡礼者)の所にいる人ですよね。私は隣に住んでいる者です。よろしく」
「ハジュ?」
「ええ、オスマン爺さんのことですよ。私ら近隣の者は、皆、あの爺さんをハジュ(巡礼者)と呼んでいます」

そう言って、彼は意味ありげにニヤニヤ笑った。大学で地理学を修め、暫く地方で働いていたが、今はイスタンブールに戻って来て、姉の所へ身を寄せ、高校教員の資格試験に備えているそうだ。

故郷が、アナトリア最東部のアール県であることが解ったので、「クルマンチ・ザーニー(クルド語解りますか)?」とクルド語で訊いたら、とても喜んでいた。現在、進められているクルド和平交渉には、かなり期待を持っているようだ。「我が指導者オジャランが望んでいますから・・・」なんて言う。

同じバスに乗って、ヨーロッパ側まで渡った為、そのまま30分ぐらい雑談を続けた。地理学を修めただけあって、日本について頓珍漢なことを訊いたりはしない。クルド問題についても少し話したが、彼が私から最も聞きたがったのは、ハジュ爺さんの近況だった。

「ハジュの爺さん、自分でセメントこねて、門の前にタイル張ったりしているけれど、いったいどうしたの?」とか、まず良く観察している。おそらく、近所中でハジュ爺さんの一挙手一投足に注目しているのだろう。

他にも、「貴方は、ハジュ爺さんにどのくらい家賃払っているのか?」「ハジュ爺さんと話して解り合えるのか?」等々・・・いろいろ訊かれた。近所の人たちが集まると、よくハジュ爺さんの噂話が出るらしい。

この世の中で、間抜けな他人の噂話ほど楽しいものはない。近所には彼のようなクルド人もいれば、他の地域出身のトルコ人もいるが、こんな面白い噂話があれば、クルド人もトルコ人もなく皆で楽しめるのだろう。

うちのハジュ大家さんは、なかなかトルコの平和に貢献しているかもしれない。



3月16日 (土)  トルコ人とは、いったい何者なのか?

先日、タハ・アクヨル氏のコラム(3月2日付けのヒュリエト紙)に興味深い話が紹介されていた。

1932年、アタテュルクは、アナトリアで6万4千に及ぶ頭蓋骨を計測調査するよう指示した。当時、ヨーロッパでは、トルコ人や全てのアジア系人種をモンゴロイドとして侮蔑する風潮が蔓延していたが、この調査の結果、アナトリアのトルコ人は、ヨーロッパ人のように短頭のアルプス人種であることが証明されたそうだ。

多くのトルコ人が、この結果に満足したようだけれど、モンゴロイドであるのは、そんなに恥ずかしいことなのか? しかし、一方で、彼らはトルコ人のルーツが中央アジアにあると主張して来たのだから、その心情はなかなか複雑だったかもしれない。

「トルコ人は、中央アジアからやって来て、僅かな兵力で広大なビザンチン帝国を打つ負かし、オスマン帝国を築いた。我々トルコ人はその子孫である」と誇っているものの、科学的に考えたら、そんな僅かな兵力しかなかった“トルコ人”が、千年ぐらいの間にこんな増えるはずがなく、実のところ、現在のトルコ人には、その勇猛な“トルコ人”に僅かな兵力で征服されてしまった弱々しいビザンチン人の子孫が多く含まれているらしい。

「トルコ人は、ヨーロッパ人と同じアルプス人種」という調査結果は、図らずもこれを立証しているような気もする。実際、トルコ人の多くは、ヨーロッパ風な顔立ちだから、オスマン帝国の末期に始まった西欧化により、服装などを改めただけで、ヨーロッパ人と見分けがつかなくなった。

私ら日本人に、こんな芸当は無理だ。明治になって、いくら鹿鳴館で西欧風に着飾ってみても、モンゴロイドの顔はどうすることもできなかった。でも、そのお陰で中身の近代化に邁進できたのではないか。なまじ西洋人の顔をしていたら、鹿鳴館に満足して終わっていたかもしれない。我々はモンゴロイドで本当に良かった。

さて、トルコの人たちが、“民族”を意識し始めたのは、オスマン帝国の末期になってからだと言われている。その頃には、領内のギリシャ人やスラブ人といったキリスト教徒の民族が、それぞれの国民国家を樹立して、帝国から離れて行く。

その過程でアナトリアに残されたイスラム教徒らにも民族主義が芽生え、“トルコ民族主義”を唱えたズィヤ・ギョカルプは、「トルコ人化,イスラム化,近代化」をスローガンに掲げた・・・(という歴史のプロセスに興味がある方は以下の本を読んでみて下さい)

民族と国家―イスラム史の視角から (岩波新書)
http://shinshomap.info/book/4004302609.html

ズィヤ・ギョカルプ自身はクルド人だったようだが、“トルコ民族主義”を掲げながら、「トルコ人化,イスラム化,近代化」と言って、“トルコ人化”しなければならない人たちの存在を最初から認めていたのは、なかなか凄い話だと思った。

そして今、この“トルコ人化”を拒否したクルドの人たちが、クルド民族の存在を憲法にも明記するよう運動している。

その為、“トルコ人”という概念を“アメリカ人”のようなエスニック的な民族性がない“上部アイデンティティー”として認め、人々はそれと同時に、自分のエスニック的な民族性を“下部アイデンティティー”にすれば良いのではないかと主張する知識人もいる。

この場合、クルド人は、エスニック的には“クルド民族”だが、トルコ共和国の国民として“トルコ人”という“上部アイデンティティー”を持つ。

しかし、多くの西洋人顔した“トルコ人”はどうなってしまうのだろう? エスニック的には、モンゴロイド風のトルクメン人やカザフ人と同じ民族であり、“上部アイデンティティー”が“トルコ人”ということになるのか?

さもなければ、“上部アイデンティティー”は“トルコ人”に違いないけれど、“下部アイデンティティー”は何だか良く解らないという人がたくさん出てきてしまいそうな気がする。

だから、“アナトリアのトルコ人”というエスニック的なアイデンティティーも認めないわけには行かないと思う。それが、いつどのように形成されたのかは追及しないことにして・・・。

本人が“トルコ人”と意識していればトルコ人であるし、“クルド人”と意識していればクルド人になる。それでも、この国の人たちは、持ち前のバランス感覚で何とか折り合いを付けながら巧くやって行くのではないか・・・。“上部アイデンティティー”とか “下部アイデンティティー”など論じる必要はないかもしれない。



3月20日 (水)  日本とトルコの友好

一昨日、ボスポラス海峡の連絡船に乗ったら、韓国人の青年と隣席になり、船がアジア側に着くまで20分ぐらい雑談した。

大学4年生で、初めて海外旅行に出たと言う。まず、日本に渡り、博多、大阪、東京を経て、4日前にイスタンブールへ来たらしい。

「日本の人たちもトルコの人たちも皆とても親切なんで楽しく旅行できます。我が国の人たちは、こんな親切じゃないですよ」なんて話していたけれど、どうなんだろう? トルコ人が親切なのは解るけれど・・・。

日本へ旅行したトルコの人たちからも、「日本人は親切」という話は良く聞く。何処の国でも、外国人の旅行者には、特に親切なのかもしれない。韓国もそうだと思う、自分たちは気がつかないだけで・・・。

韓国には兵役があるから、大学4年生というと23〜4歳になるのか? いずれにしても、88年、私が韓国に滞在していた頃、彼は未だ生まれていなかったような気がする。

当時、韓国で海外旅行に出かける人たちは、ごく限られていただろう。今、調べてみたら、海外渡航が完全に自由化されたのは89年だったそうだ。

私は、89年の9月から4ヵ月ぐらいの間、日本で韓国から来る旅行者の案内もしていた。サムスンやLGといった大企業が送り込んでくる“研修旅行者”の団体が顧客だった。

秋葉原で電化製品を買い漁るLGの管理職に、「いずれも御社で扱っている製品じゃないですか?」と訊いたら、「いやあ、やっぱり日本製に限りますよ。うちの製品なんて直ぐ壊れちゃいますから・・」と屈託無く笑っていた。今、思えば、その笑い顔を冷ややかな目で見て蔑んでいた私が恥ずかしい。

初めて日本を訪れた人たちは、日本の繁栄を目の当たりにして不愉快そうだった。お客さんには楽しんでもらうべきだと思ったので、予定を早めに消化して時間が余れば、山谷のような繁栄の陰の部分も見せた。

とても喜んで、韓国に帰ってから、感謝の手紙を送ってくれた人もいる。“日本の恥部ツアー”といった企画でも組めば、相当な商売になるんじゃないかとさえ思った。

サムスンから来た5〜6人のグループを山谷に案内した後、わざわざ吉原のソープランド街を通りながら、「この両側のビルは、皆、売春をしています」と説明したところ、一行のリーダーを務めている課長さんは、「ほお、日本にもこんな場所があるんですね」と顔をほころばせてから、驚くべき一言を付け加えた。

「でも、働いている女性は、皆、韓国人なんでしょ?」

なんという被害妄想だろう。愕然として思わず耳を疑った。「いや、この辺の店は営業許可をもってやっているから、不法就労の外国人女性は殆どいないと思いますよ」と補足したら、課長さんは部下たちを振り返り、「おい、聞いたか? 日本の女性がいるそうだ。誰か今晩行ってみる奴はいないのか?!」と発破をかけ、車内は爆笑に包まれた。

しかし、こんなことを繰り返しながら、私は韓国という国に対する敬意を急速に失ってしまう。これが、一旦、韓国から離れることを決意した最大の要因だった。

それから、私はトルコ語を学び始め、91年にトルコへ来て以来、既に22年が過ぎようとしている。

この22年間で、世界は随分狭くなったように思う。91年に初めてイスタンブールの観光名所スルタンアフメットを訪れた時、この界隈を行き来する外国人ツーリストは、西欧の人たちか日本人が殆どで、あとはアラブの石油成金ぐらいだった。

今や、韓国や中国、インド、南米の国々等々、世界のあらゆる所からトルコへ旅行者が訪れる。トルコの人たちも気軽に海外へ旅行に行く。

考えてみたら、日本人が気軽に海外旅行できるようになったのも70年代以降のことだろう。

高校生の頃、酒や煙草の味をどのくらい早くに覚えたのか自慢して粋がったところで、3年もすれば、誰もが酒を飲んで煙草を吸うようになるのと同じで、少しばかり早く繁栄した日本を得意に思っていた私は実に恥ずかしい。

トルコには、オスマン帝国からビザンチン帝国、そして古代ギリシャに遡る偉大な文明の蓄積がある。この悠久の歴史を考えたら、日本の経済的な発展など、つい最近の事象だろう。私たちの弥生時代に、この国の人たちは既に都市文明を築いていたのだ。

先日、長年日本と関わってきたトルコ人の知り合いと会って話したら、何だか思い切り日本への不満をぶつけられてしまった。

いつまで経っても、“親日トルコ”といった陳腐な紹介を試みようとする。まるで、親日だから相手にしてあげるようだ。何処までトルコを馬鹿にしたら気が済むのか。近隣の国々と友人になれず、親日国を探して世界を彷徨い、トルコと友達になりたくてしょうがないのは日本のほうだろう。確かに、そんなところかもしれない。まったく情けなくなる。

人間関係と同じく、国と国の付き合いも、お互いの敬意がなければ巧く行かないと思う。それで日韓はややこしくなってしまった。トルコとの交流はそうならないように祈りたい。



3月23日 (土)  そして、道は開かれた・・・

一昨日の3月21日は、トルコの“春の祭典”ネヴルーズだった。日本の“春分の日”。イランではノルーズと呼ばれ、イラン暦の新年ではなかったかと思う。

この日は、昔から、中央アジアやイラン、トルコの人たちにとって大切な“春祭り”の日だったらしい。

ところが、90年代、私が初めてトルコへやって来た頃は、ネヴルーズと言えば、まるで、トルコ政府と対立するクルドの人たちが政治的な主張を掲げる日であり、毎年、この日になると、南東部のクルド人地域で、民衆が警察や軍と衝突して大変な騒ぎになっていた。

それが、この数年大分落ち着いて来たけれど、今年のネヴルーズには、ある政治的な重大発表が予定されていたため、私も一昨日は何だか緊張して、報道がネット上に伝えられるのを待っていた。

反政府クルド人武装組織PKKの指導者で、99年からイムラル島の刑務所に収監されているアブドゥッラー・オジャランの声明が、この日、クルド地域の中心都市ディヤルバクルの広場に集まった民衆の前で発表されると言われていたのである。

武装解除と平和を呼びかける声明が予想されていたものの、何処まで踏み込んだ内容になるのか、多くの人たちが固唾を呑んで待ち構えていたに違いない。

結果は、武装解除と平和に留まらず、クルド人とトルコ人の団結まで呼びかける声明で、なかなか感動的だった。

まず、クルド語で読み上げられた後、映画界からクルド系政党BDPの議員に転身したスレイヤ・オンデル氏(自身はトルクメン系のトルコ人)が、たっぷり情感を込めながら劇的にトルコ語で読み上げたため、興奮した私は思わず目頭を熱くしてしまった。ついに平和が訪れるのかと・・・。

もちろん、今の段階では、平和への道が切り開かれたと言えるだけで、まだ長い道のりが残っているけれど、この日の晩は、ディヤルバクルの街も、それまでの緊張が一気に緩んで、のんびり平和に浸っているような雰囲気だったそうだ。

声明でオジャランは、今後の運動は政治の舞台で行われるとして、武力闘争の終結を明らかにしていた。そして、武力闘争の尊い犠牲により、“我々はクルド人としてのアデンティティーを勝ち取った”と表現している。当初の目的は分離独立だったのだから、これが勝利と言えるのかどうか解らないが、少なくともディヤルバクルの広場に集まった民衆は、歓声を上げて、これに満足しているように見えた。

後は、まだ武器を手にしているPKKのメンバーが、この指導者の呼びかけに応じれば、平和は現実のものとなる。

声明の中には、「イスラムの旗の下、千年に亘って共に暮らしてきたクルド人とトルコ人・・・」であるとか、「“国民の誓い(ミサク・ミッリ)”に基づき、トルコ人とクルド人の主導により実現した救国戦争の、現在における、さらに複雑で深化したバージョンを展開するのだ」といった驚くべき表現も含まれていた。

“ミサク・ミッリ”とは、1920年、最後に開かれたオスマン帝国の議会で、アタテュルクによって準備され合意を得た宣言であり、この宣言の中で守るべきとされた領土には、現在の北イラクも入っているから、この表現の解釈を巡って、早くも様々な憶測が飛び交っているけれど、オジャランは、トルコ政府やトルコ人に対して、「今後とも宜しく」とリップサービスに努めただけかもしれない。

しかし、北イラクのクルド自治政府もトルコとの結びつきを深めていて、同地の石油資源にもトルコの影響力が及びつつあると言われ、イラク戦争で漁夫の利をトルコにさらわれた格好になるアメリカが、トルコとクルドの蜜月状態を快く思っていないと説く識者もいる。

また、オジャランが声明で、何に対して、クルド人とトルコ人の団結を謳っているのかと言えば、それは「我々を分断しようとする西欧の帝国主義者たち」であり、これではまさしく救国戦争の現代バージョンになってしまうが、ただ団結を謳うために“架空の敵”を用意しただけのような気もする。

声明の最後の部分では、「西欧の現代文明の価値を全て否定したりはしない。啓蒙、平等、自由、民主主義を受け入れる・・・」と明らかにし、民主主義、自由、平等を何度も繰り返しながら、エンディングを盛り上げていた。

そもそも、この日を迎えるに至ったのは、AKP政権がグローバル化を受け入れ、欧米と協調しながら、急速な経済発展を成し遂げてきたからじゃないだろうか。トルコもクルドも一緒くたに、グローバル化の波に飲まれてしまっただけだったりして・・・。

でも、それによって人々の暮らしも豊かになったし、トルコの民主化は確実に前進した。そして、平和が訪れる。これの何処が悪いのか? 世界は狭くなった。時代は変わったのだと思う。オジャランは刑務所の中から、この時代の変化を読み取っていたのかもしれない。


*オジャランの声明が発表される場面。“YouTube”
(トルコ語)
http://www.youtube.com/watch?v=Sjj9ONkhSkU&feature=share

(クルド語)
http://www.youtube.com/watch?v=y-NpIf2wmDU




3月24日 (日)  オジャランの声明等々

昨日、クルド人の知人に電話して、今回のオジャランの声明について尋ねてみた。

彼はトゥンジェリ県の出身で、イスラム主流のスンニー派から、異端のように見られているアレヴィー派。私と同年輩の温厚な左派の知識人である。

以前はジュムヒュリエト紙の記者だったというくらいで、5年ほど前に知り合った頃は、アタテュルクが創設したCHP(共和人民党)を支持していて、AKP政権にはかなり批判的であり、クルド民族主義的な傾向は全く見られなかった。アタテュルク主義者と言っても良かったのではないかと思う。

CHPの現党首ケマル・クルチダルオウル氏もトゥンジェリ県の出身である。いつだったか、彼に「クルチダルオウル氏はクルド人なんですか?」と訊いたら、「アレヴィー派であることは間違いありませんが、クルド人かどうかは解りません。トゥンジェリ県にはトルコ人もいますから・・・」と答えていた。

昨日の電話で、今回のオジャラン声明を、彼も歓迎しているのが解った。しかし、その後で、彼が「私の友人某と最近会っていますか?」と私に訊いたので、何とも言えない気まずい感じがした。その友人某が、彼を私に紹介してくれたのに、最近、彼らは会っていないのだろうか? 同じ左派で、CHPの支持者なのだが・・・。

彼は、友人某の“オジャラン声明”に対する反応を私から聞き出そうとしていた。

実を言えば、この友人某とは、つい3週間ぐらい前、AKP政権が進めているクルドとの和平交渉について激しく言い争ったばかりである。

「和平交渉など分離独立派らの策謀だ。トルコ共和国の国民なら、“トルコ人”であることを認めろ。それが嫌なら出て行け!」等々、無茶苦茶な意見を並べていた。

彼はそういう雰囲気が解っているから、とても直接その友人から反応を訊く気にはなれなかったのだろう。これは悲劇じゃないかと思った。

この10年で、いろんな枠組みが変わってしまったから、こういった悲劇はトルコの至る所で起こっているかもしれない。(知識人とか言われている人たちの間で・・・)

今回のオジャラン声明が出るまで、クルド系政党BDPの議員がイムラル島の刑務所にオジャランを訪ねたりして、様々な形で交渉が続けられていたが、このイムラル島を訪問したBDP議員の中では、特にアルタン・タン氏の存在が注目されていたようである。

アルタン・タン氏はクルド人だが、殆どのBDP議員が左派であるのに対して、彼はイスラム的な人物として知られている。AKPの母体となったイスラム系の福祉党で活動していた時期もあり、左派クルド系政党に加わったのは、2000年になってからだった。

エルドアン首相とは、福祉党以来、旧知の間柄であり、その為、オジャランも、イムラル島訪問のメンバーとして、特に彼を指名したと噂されている。

PKK、そしてクルド系政党は左派という枠組みもとっくに崩れていたのかもしれない。そもそも、南東部のクルド地域には、敬虔なムスリムが多く、この地域はクルド系政党と共にイスラム系政党の大票田でもあった。今もって、AKPの支持者が少なくない。

アルタン・タン氏の主張は、なかなか過激だ。トルコ共和国の体制を変える必要はないが、共和国の枠組みの中で、民族も宗教も全てが自由であるとして、共和国になってから閉鎖されたアレヴィー派の教団、ギリシャ正教の宗教学校等々は皆元通りに活動を再開すべきだと言う。

民主主義や政教分離も、世界の最も発展した基準に合わなければならないと主張していた。西欧じゃなくて“世界”の基準。タン氏の話はどれも何だか少し大袈裟な気がする。「ビザンチン帝国以来、ここでは国家が宗教を管理してきた。これを自由しなければならない」と宗務庁の廃止を求める時もビザンチンまで遡ってしまう。

しかしながら、イスラム的な人たちの中には、以前、「政教分離主義に合わせようとする宗務庁がイスラムを薄めている」と文句を言う人もいたけれど、AKP政権が基盤を固めて以来、宗務庁が特に変わった印象はないのに、そういう声は余り聞かれなくなった。

昨年の夏、宗務庁のテレビ局が開局したそうだ。その調印式で、ビュレント・アルンチ副首相は、既にテレビがトルコの人々の生活に欠かせないものになったと言って、自分の孫が観ているアニメのキャラの真似まで披露したり、政教分離の理解も変わったと明らかにしながら、列席している宗務庁の副長官をからかったりして、皆を笑わせていた。

「ほら、エクレム・ケレシュ先生もネクタイをするようになったでしょ。昔、小巡礼へ一緒に行ったことがあるけれど、あの頃、先生はネクタイなんて知らなかったよ。なかなか似合っているね。顎鬚生やしながらネクタイしめて・・。ブランドの靴を履く人もいれば、ブランドのジャケットを着る人もいる。でも、ズタ袋みたいな服(原理主義者風の服装?)を着てはいけない。なんでも綺麗にしないと・・・」

トルコのイスラム的な人たちは、かつて西欧の価値観に反対するような発言を躊躇わなかったものの、その実、西欧というか“世界”の基準に出来る範囲で合わせようと努力してきたのではないかと思う。今や臆せずに、「世界の最も発展した基準に合わせるのは当たり前でしょ」と言うようになった。

AKP政権は、その近代的なイスラムに相変わらず熱心だけれど、イスラム主義といったイデオロギーからは後退したような気がする。既に、イスラム主義、政教分離主義というかつての枠組みは余り意味を成さなくなっているのではないだろうか。エスニック的な民族主義もそうなって行くと期待したい。

“YouTube”−ビュレント・アルンチ副首相のエスプリ
http://www.youtube.com/watch?v=5BrkVO2hR5g



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