Diary 2012. 4
メニューに戻る
4月6日 (金)  クズルック村の工場

昨日、一昨日と一泊二日で、アダパザル県のクズルック村を訪ねてきました。

1999年の7月から2003年の1月まで、私はクズルック村にある邦人企業の工場で働いていたのですが、退社して以来、この方面へ来る機会がなく、村を訪れたのは実に9年ぶりでした。工場にも出かけて、一緒に働いた仲間たちと会い、今もって感激がおさまりません。

退社した後も、トルコ人の上司だったマサルさんからは、時々、連絡がありました。敬虔なムスリムのマサルさんは、イスラムの祝祭がある度に、「貴方にもアッラーの加護がありますように・・・」といったメッセージを送ってくれたのです。ところが、昨年は何の音沙汰もなく、『クズルック村もますます遠退いたなあ』と思っていたところ、今度は他のトルコ人元同僚たちから“フェースブック”を通じてメッセージが来るようになりました。“フェースブック”も結構役に立ちます。

“フェースブック”で私の名前を見つけて、最初に連絡して来たのは、以下の“トルコの人達の民族感情”という話にも出てくる元同僚。彼とはトゥズラ工場の社員寮で数ヶ月に亘り一緒に生活したこともあります。

クズルック村へやって来る
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/002.html#10

トルコの人達の民族感情
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/004.html#100

彼も2003年に工場を辞めてしまい、今は経済的にも楽じゃないようだけれど、“同じ釜の飯を食った仲”ということで、今回、「是非来い」と私をクズルック村に呼んでくれたのです。

でも、皆が勤務中である工場にまで出かけるつもりはありませんでした。彼はそういう日本人の感覚が解っているから、「お前も工場の今の姿が見たいだろうが、中には入らず、工場の外観だけで満足しろよな」とか言っていたのに、工場の前まで来ると、警備所の顔見知りに掛け合って、勝手に私の訪問許可を取ってしまいました。

私が退社する頃、既に日本からの出向者は、工場長と技術部長しか残っていませんでしたが、それから1〜2年の内に、この方たちも日本に帰任し、以来、各工場の運営はトルコの人たちに委ねられています。トゥズラの工場は閉鎖されましたが、現在はブルサ県にも二つの工場が出来て、業績は順調なようです。

しかし、工場へ行く前に、クズルック村のカフェへ寄ったら、退職している元同僚たちが来ていて、口々に不満を述べていました。「日本人が残ってくれたら、もっと頑張れたけれど、あのトルコ人社長の下で働く気にはなれなかったよ」なんて言います。他にも、工場長を懐かしむ話などが出てきて、「日本の人たちとは良い思い出ばかりだ」と続けられたら、私は同じ日本人として嬉しくなるものの、当初より現地化が目標だった企業にしてみれば複雑なところでしょう。

それに、欧州の不況等、最近の厳しい状況を考えると、日本の人たちが残っていても、皆が満足するような結果には至らなかったかもしれません。

工場の中に入って、大きなメイン・オフィスの脇にある訪問者用の待合場所みたいなところで、警備所から連絡を受けて私を出迎えてくれるという製造部の元同僚が現れるのを待ちながら、メイン・オフィスの様子を眺めていると、かつて出向者の経理部長が座っていた席に、技術部のグループ長だったオメルさんの姿が見えます。

オメルさん、以下の“ 強面の恐妻家”という話で紹介した高卒叩き上げの青年ですが、もう部長に昇進したのでしょうか? 村のカフェでは、「高卒者は部長になれない」という奇妙な規則が出来てしまったと散々に不満を聞かされていたので、「おや?」と思ったけれど、結局、本人に現在の役職を訊いたりはしませんでした。しかし、ちょっと挨拶程度に話しただけでも、昔と変わらぬエネルギーが感じられました。オメルさん、頑張っているみたいです。

2月3日 (木) 強面の恐妻家 
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2011&m=2

製造部からは、メフタプさんという元同僚が出迎えてくれました。私がいた頃はライン長だった女性です。「ファトマたちも待っているから・・・」と言われて彼女の後について行くと、メイン・オフィスには寄らず、そのまま製造現場の中へ入って行きます。何処へ行くのだろうと暫く進んだら、現場の中にある小さな部屋に案内されました。以前は、製造部もメイン・オフィスに席があったのですが・・・。

五つほどのデスクが並べられた小さな製造部専用オフィスに入ると、一番奥の席からファトマさんがこちらまで出てきてくれました。挨拶もそこそこに、「オフィス、こんなところになっちゃったんですか?」と訊いたら、「このオフィスのほうが現場に近くて良いでしょ」と笑っています。

彼女は、誰もが認める製造部の傑出したリーダーでした。私はファトマさんこそ製造部の部長になっているに違いないと思っていました。だから、村のカフェで、ファトマさんも結局部長にはなれないという話を聞いて、とても残念だったのです。

私がこの工場で働き始めた時に社長だった方は、ご自身も高専の出身でしたが、現場作業員の人たちに、「この会社では皆さんも頑張れば社長になれる」と良く訓示していました。工場長も製造部長も皆高卒だったし、「現場が原点」をモットーにするこの企業では、大卒者も現場の作業員から始めさせられるそうです。

こういう話を聞いて、現場の作業員として入社したトルコの人たちも夢を持って頑張り、その代表的な存在がファトマさんでした。

ファトマさんに期待をかけていた製造部長は、自分の娘ほどの年齢であるファトマさんを、必ず“さん”付けで呼んでいました。他の部下、例えばチーフのマサルさんに対しても、いつも呼びつけだったのに、ファトマさんには、私と雑談している時でさえ、“さん”を欠かしません。仕事が巧く行けば、「さすが、ファトマさんだ」と喜び、巧く行かないと、「ファトマさんらしくないなあ」と悲しそうでした。しかし、そのぐらいファトマさんはバイタリティーに溢れた女性だったのです。

気性も男勝りだったし、かなり太めで、女性としては頑健な体格でした。それで製造部長はもちろん、工場長も、ファトマさんが嫁に行き遅れてしまうのではないかと心配していました。「彼女は工場のために、本当に頑張ってくれるけれど、これで嫁に行けなかったりしたら、私は工場長として親御さんに顔向けできない・・・」

でも、9年ぶりに見たファトマさん、随分痩せて、見違えるほど綺麗になっています。仕事の話ばかりして、結婚したかどうか聞き忘れてしまったけれど・・・。

工場をやめてしまった同僚たちの消息についても色々聞きました。中でも見事な転身に、思わず快哉を叫びたくなってしまったのが、以下の話に登場するメレッキさんのその後・・・

娘さんには御用心
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/002.html#120

彼女も現場の作業員からスタートし、早くて的確な作業でとても優秀だったそうです。パソコンが使いこなせたので、私が来た頃は、既に製造部のオフィスにいたけれど、私が退社して暫くすると、彼女も工場をやめて大学に入り、卒業すると、ロンドンに行って英語力を磨いてきたというから驚きました。やっぱり大天使というような人だったのかもしれません。

残念だったのは、エンジニアの某氏のその後・・・。退社して別の会社に入り、今は中国に出向しているそうです。

彼は他の同僚と2人で日本へ長期研修に送られたことがあります。その時、トルコ人の総務部長は、「研修後、○年間は工場を辞めない」という文書にサインさせ、この文書に公証役場を通して法的な根拠を与えるべきだと主張したけれど、工場長は、「我が子も同然の社員に、そんな最初から信用していないような真似ができるか」と却下してしまいました。

そうしたら、もう一人のエンジニアは、総務部長が心配したように、研修から帰ってきて、いくらも経たないうちに転職してしまったのです。しかも、研修の成果が充分に活かせると思われる邦人企業に・・・

当時、某氏は、「僕まで辞めることはないから心配するな」と言うので、私も大丈夫だろうと信じていたのに、どうやら見当違いでした。

しかし、そんな話ばかりじゃありません。彼らの後から、日本へ長期研修に送られたエンジニアのアルペルさんは、「工場長の為にも、僕は絶対にこの会社を辞めない」と言ってたけれど、彼は今、クズルック村で工場長になっているのです。

操業中にお邪魔して恐れ多いから、ちょっと挨拶しただけですが、9年前と全く変わらない爽やかな青年のままでした。

チーフだったマサルさんは、今や世界各国の工場をサポートする大役に就いて、世界中を飛び回っているそうです。どうやら、忙しくて、私に連絡を寄越すどころではないのでしょう。しかし、かつてマサルさんは仕事のストレスから胃に穴を開けたこともあったから、ちょっと心配になります。

ファトマさんも、「マサルさん、凄く痩せたのよね。あんなに働いて大丈夫かしら?」と心配していました。皆、頑張っています。私ももう少し何とかしなければならんのですが・・・


写真は、左がクズルック村で私が住んでいた部屋。今は地区長の事務所になっています。私が住んでいた時はこんなガラス張りじゃなかったけれど・・・
真ん中の写真は、工場へ向かう道・・・。右の写真は、工場の正門から眺めた景色です。

20120406-1.jpg 20120406-2.jpg 20120406-3.jpg



4月17日 (火)  小説“チャルクシュ”

文学が解るわけじゃないし、日本の小説も余り読んでいないけれど、せっかくトルコ語を学んでいるのだから、トルコの小説をもっと読まなければと思いながら、怠けてばかりいました。

それでも、読もうとする意欲は多少あったから、文学に親しんでいそうなトルコ人と話す機会がある度に、“お勧めの小説”を訊くと、レシャット・ヌーリ・ギュンテキン(1889年生〜1956年没)の“チャルクシュ”という回答が最も多かったように思います。

それで読んでみたのですが、今までに日本語で読んだあらゆる小説と比べても、これは多分、最も印象に残る作品の一つに違いありません。読み終わったばかりなのに、もう一度、最初から読み直してみたくなります。

この小説は、1922年というオスマン帝国の最晩年に出版されました。“チャルクシュ”とは、小説のヒロイン“フェリデ”の綽名で、“キクイタダキ”という駒鳥に似た野鳥のことです。

オスマン帝国の末期、イスタンブールの良家のお嬢さんだったフェリデは、父母に早く死なれたものの、裕福な叔母さんの家に引き取られ、名門校であるノートル・ダム・ド・シオン女学院というフランス系のミッションスクールを卒業しました。

在学中に、叔母さんの息子、つまり従兄弟であるカムランと婚約し、卒業後に結婚するはずだったけれど、結婚式の前日にカムランの浮気が発覚。絶望したフェリデは、婚約破棄を決意したものの、そうなると叔母さんの家にも居られなくなります。しかし、名門校を卒業して教員の資格があるから、これで生計がたてられるだろうと考え、家を飛び出してしまうのです。

その後は、ブルサ県の山奥にある貧しい村“ゼイニレル”の学校へ赴任させられたのを皮切りに、フェリデの試練に満ちた物語が展開され、これはフェリデ自身の日記という形で読者に伝えられますが、480ページ目、悲しみの中で忘れえぬカムランへの思いが切々と綴られた後に、“フェリデの日記はここで終わっていた”という注釈が入り、次の章からは、三人称でカムランの“その後”が語られ始めます。

私は、この480ページを読んだところで、ジイドの“狭き門”を思い出してしまいました。それで、この小説の結末を次のように想像したのです。『おそらく、フェリデは日記書き終えて間もなく死んでしまう。カムランは遺品の中から日記を読み、フェリデが自分を思い続けていたことを知って衝撃を受ける』・・・

しかし、残りの60ページで、こういう展開にはなりませんでした。小説は、最後に二人を幸せにして終わります。悲劇的な結末のほうが良かったような気もするけれど・・・

写真は、ネットから探し出した“ゼイニレル村”の現在。“チャルクシュの村”として、訪れるトルコ人観光客もいるそうです。小説の中では、無知蒙昧な人々の因習に満ちた村が呪わしげに描かれていて、良いイメージは何処にもありませんが、現在の村人たちは、ウェブサイトで“チャルクシュの村”をアピールしています。私も是非行ってみたくなりました。

まあ、漱石の“坊ちゃん”で松山は散々貶されているのに、今では“坊ちゃんスタジアム”などが出来ているのと同じでしょうか・・・

Zeyniler
http://wowturkey.com/forum/viewtopic.php?t=17066

WEB:Zeyniler
http://zeyniler.blogspot.com/

20120417-2.jpg