Diary 2012. 1
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1月1日 (日)  謹賀新年

今年も12月31日は、日本時間の年越しに合わせた集いで沢山ご馳走になり、夜の10時15分頃にヨーロッパ側のメジディエキョイでバスに乗ったところ、したたか飲んでいた所為か、いつの間にやら寝込んでしまいました。

「イエニドアンですよ」と肩を揺すられて目をさまし、窓の外の様子を窺ってみたら、バスはイエニドアンの我が家の前をとっくに通り越し、終点まで来ていました。慌てて降りようとすると、運転手さんが「よく寝ていたねえ、ごきげんよう!」と後ろから声を掛けてくれます。私も挨拶を返して、バスを降り、小雨が降る中を「やれやれ」と思いながら、我が家の方に向かって歩き出したけれど、この終点から歩いたら、30分以上掛かるでしょう。時計を見たら、11時をちょっと回ったばかり。バスは夜になって空いた海峡大橋を快調に越えて、ものの45分ほどで終点まで来たようです。

しかし、少し歩いたら、あのバスが歩道に寄せて止まり、ドアが開いて、運転手さんが大きな声で私に呼びかけます。

「君は何処で降りるつもりだったの?」
「イエニドアンの役所の辺りですよ」
「それは結構あるなあ。このバスは業務終了でサルガズィに戻るけれど、通り道だから、イエニドアンの交差点のところまで乗せてあげよう。あそこからだったら少し近くなるでしょ」

もちろん有難く乗せてもらいました。乗っていた時間は、2分ぐらいですが、これで歩く時間は10分以上短縮されたんじゃないかと思います。礼を言ってバスを降り、さっきよりずっと快活な気分で我が家に向かって歩き始めました。

ところが、小雨降る暗い夜道を歩きながら、どういうわけかマーラーの1番3楽章の旋律が思い出され、それを口ずさんでいると、何だか段々と寂しい気分になり、雨が少し強くなったのに、ナップザックから傘を取り出そうともせず、背を丸めてとぼとぼ歩いていたら、これまたどうやって連想されたのか、「武器よさらば」で、ヘンリーがキャサリンの死を見届けた後、雨の中を病院からホテルまで歩いていく場面が頭の中をよぎり、急に悲しくなってしまいました。

涙ぐんだような情けない状態で我が家に辿り着き、ビールを飲みながらマーラーの3楽章を聴いて、トルコ時間の年越しを祝ったら、また少し気分が晴れたように感じられます。

1日の間に、喜んだり悲しんだり、哀楽が交差したけれど、これは年越しに用意された走馬灯のようなものだったかもしれません。

MAHLER, Symphony No. 1, Titan, III
http://www.youtube.com/watch?v=6tUDnZVDQkk

*写真は25日の朝に我が家の前で撮ったものです。イスタンブール市内では雨が降っていたようだけれど、イエニドアンでは雪になっていました。今日は朝から雨が降ったりやんだりしています。

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1月7日 (土)  アルメニア教会のクリスマス

昨日、ベシクタシュにあるアルメニア教会で、クリスマスのミサを見学してきました。アルメニア正教では、クリスマスを1月6日に祝いますが、私はこれをユリウス暦を使っているために、暦が12日間ずれているからだと思っていました。ロシア正教会等はユリウス暦によって祝祭を行うそうです。

しかし、昨日、教会でアルメニア正教徒の方たちから伺ったところによると、「1月6日はイエスが受洗した日であり、私たちはこの日にクリスマスを祝います」という話でした。

実際、ミサでは、最後に子供が壇に上がり、“イエスの受洗”を象徴した儀式が執り行われていました。

この儀式が終わると、司祭さんらは信徒の方たちを従えながら礼拝堂から外へ出て、隣の付属施設にある司祭さんの執務室に入ります。執務室には15人ぐらいしか入れないので、他の信徒の方たちは外で最後の祈りを捧げていたけれど、私は“外国から来たお客さん”ということなのか、特別に招かれたうえ、写真まで撮らせてもらいました。

司祭さん始め聖職者の方も信徒の方たちも、皆さんイスタンブールに暮らすトルコ国民ですから、もちろんトルコ語を話されますが、ミサはアルメニア語で執り行われ、信徒の方たちも、その多くはアルメニア語で会話していました。

私はアルメニア語を全く解しませんが、ミサはパイプオルガンの伴奏による合唱隊の聖歌で、所々感動的な高まりを見せ、11時から13時までの2時間を長いとは一つも感じませんでした。アルメニアの教会音楽は本当に素晴らしいと思います。ここで写真しかお見せできないのが残念です。

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1月8日 (日)  ベシクタシュのアルメニア教会

クリスマスミサを見学したベシクタシュのアルメニア教会“Surp Asdvadzadzin(聖マリアという意味のようです)”は、1838年の創建。ドルマバフチェ宮殿を手掛けたオスマン帝国の著名な建築家ガラベット・バルヤンの作品と言われています。

この教会を紹介していたヒュリエト紙の記事によれば、オスマン帝国では、1839年のギュルハネ勅令によりタンジマートの改革が始まるまで、モスク以外の建造物にドームを用いることは禁止されていたそうです。

モスクにドームが造られるようになったのは、オスマン帝国がコンスタンティノープルを征服して、アヤ・ソフィアをモスクに改造した後、新たに建設されたモスクが、アヤ・ソフィアのドーム構造を踏襲した為ではなかったでしょうか? それなのに、モスク以外での使用を禁じていたなんて・・・。

しかし、この1838年に創建されたモスクには、外見からは解らないようにして、大きなドーム天井がつけられています。昨日のミサで聖歌が美しく響いていたのは、このドームによる音響効果もあったかもしれません。

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1月9日 (月)  12人の怒れる男

アルメニア教会の近くにあるベシクタシュ区の公園に、ずらりと銅像が並んでいました。全部で12人の銅像。一つの画面には収まりきれません。

『どういう人たちだろうか?』と思って説明書きを読んだら、この12人は、全て暗殺によって非業の死を遂げたトルコの知識人なんだそうです。

トルコには、今でも刑務所に収監されているジャーナリストが多数いるため、国の内外から非難を浴びているけれど、そのぐらい“タブーに挑戦してしまう知識人が多い”とも言えるのではないでしょうか? もちろん、タブーが多いのは問題ですが、全てのタブーを打ち壊してしまえば済むのか私には良く解りません。日本にも、テレビや新聞では報道されないタブーがあります。

*もう一つの写真は、公園の前から遠くに見えたアヤ・ソフィア・・・。イスタンブールは美しい。

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1月10日 (火)  ドイツの黒パンとソーセージ

ドイツの黒パン“プンパーニッケル”。91年にイズミルのトルコ語学校で、ドイツ人のクラスメートから勧められて食べたのが初めだったような気がします。はっきり覚えていないけれど、あれをトルコへ来る前に日本で食べた記憶がありません。

イスタンブールで“カリフール”のような外資系の大きいスーパーなら、何処でも売っているんじゃないでしょうか?

独特な風味ですが、慣れると結構病み付きになります。この前、ふと思い出して、久しぶりに食べたら、とても美味かったので、また続けて二つ買ってしまいました。

この“プンパーニッケル”を食べながら、『イスタンブールにはアイリッシュ・パブもあるんだから、ドイツ酒場とかないだろうか?』と思い、インターネットで探したら、一軒ヒットしたものの、電話が通じません。どうやら、すでに閉店したようです。イスタンブールにはドイツの人も多いから、一軒ぐらいあっても良さそうな気がするけれど・・・。

ベイオウルのバルック・パザールにあるシュッテという食料品店では、豚肉の加工品も売っていたから、先週、立ち寄ってみたところ、ベーコンや生ハムのようなものからソーセージに至るまで、なかなかの品揃えでした。早速、ソーセージを買ってきて、“プンパーニッケル”と一緒に食べました。やっぱり、ソーセージは豚肉のほうが美味しいと思います。

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1月11日 (水)  シュッテ

シュッテ
http://www.sutte6.com/

シュッテは、ルームのマリアさんもお気に入りの店でした。豚肉加工品の他にも、珍しい食品が揃っていて、日本の海苔も売っています。

上記のウェブサイトを見て、やっと解りましたが、この店は、1918年にドイツ人のシュッテ氏が開いたから、“シュッテ”というのだそうです。道理でソーセージの種類も多いはずです。

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1月12日 (木)  オリエント急行とアガサ・クリスティ

オリエント急行の終着駅だったシルケジ駅の構内にあるレストラン。昨日、シルケジまで行ったので、ついでに寄って、昼飯代わりにデザートだけ食べてきました。高級なレストランだから、料理も食べたら予算オーバーになってしまうし、トルコのデザートはボリュームがあるから、それだけでカロリーもオーバーしているかもしれません。

しかし、経済的に余裕があれば、もっと寄ってみたい雰囲気のあるレストランです。壁には、“オリエント急行殺人事件”の映画の場面や原作者アガサ・クリスティの写真が飾ってありました。

今朝、昨日撮った写真を整理しながら、アガサ・クリスティについて調べてみたところ、今日1月12日は、アガサ・クリスティの命日だったようです。1976年の1月12日に亡くなっています。

1976年と言えば、私はもう高校生でした。随分、昔の人であるような印象だったので、ちょっと意外に思いました。

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1月16日 (月)  ナーズム・ヒクメット生誕100周年記念朗読会

昨日、1月15日は、トルコの著名な詩人“ナーズム・ヒクメット”の生誕100周年だったそうで、友人がジャッデボスタン文化センターで開かれた記念朗読会に私も呼んでくれました。

ナーズム・ヒクメットは、1950年にソビエトへ亡命して、1963年にモスクワで客死した社会主義の詩人・文学者として知られているけれど、トルコの左派知識人が寄せるナーズム・ヒクメットへの親愛と憧憬には、ちょっと計り知れないものがあり、“ナーズム・ヒクメットを語らずして、トルコの文学を語ってはならない”という雰囲気さえ感じられます。

20世紀の初頭に生まれた社会主義の文学者と言えば、日本では小林多喜二のようなプロレタリア文学というジャンルの人々が思い出されるかもしれません。しかし、なんとなくナーズム・ヒクメットに、“プロレタリア文学”という貧乏くさいイメージは感じられないような気がします。ナーズム・ヒクメットを愛好するトルコの左派知識人が“プロレタリアート”なんていう雰囲気ではないからでしょうか?

昨日の朗読会に私を呼んでくれた友人も自称“トルコの共産主義者”ですが、昨年、この友人を行きつけの大衆食堂に案内したら、「こんな小汚いレストランじゃ食べたくない」と拒否されてしまったことがあります。この食堂には、他の“トルコの共産主義者”の友人を連れて行った時も拒否されました。

昨日、友人に「君はこの前、私が案内した大衆食堂に入らなかったね。日本の左翼がそんなことすれば自殺行為だよ」と嫌味を言ったけれど、友人はカラカラ笑って、まったく堪えた様子もありません。

「マコト、君は未だ“トルコの左翼”が解らんのか? 高級な街に住んで、贅沢に飲み食いして、ブランド品を着こなす、これが左翼だよ。この朗読会に来ている人たちを見なよ。みんな綺麗に着飾っているだろ?」

「でも、それじゃあ余りにもインチキのような気がするね」
「そうだよ。トルコの左翼なんて昔からインチキなんだよ。でも、イスラム主義者だってインチキだったのが最近明らかになって来たじゃないか」

「すると、もうイスラム化なんて心配していないわけだ?」
「ないない、そんな心配なんて何処にもない」

「では、今まで貴方たちは無駄に闘争して来たの?」
「そう無駄も無駄、まったく無駄に争っていたんだね」

トルコでは、先週、政教分離の守護者たる軍の元参謀総長が、現在の親イスラム政権を転覆させようとした疑いで逮捕されました。ひと頃だったら、世俗主義の左翼はこの事態に心臓麻痺でも起こさんばかりに驚愕したのだろうけれど、今回は世俗主義者の中にも、「軍が政治介入する時代はもう終わった」と冷静に受け止めている人たちが多かったように思います。

少なくとも現AKP政権に、政教分離を反故にするようなラディカルなイスラム化を図る意志はないと見ているようです。かなりラディカルな左翼でも、既に私有財産を制限する共産主義は認めていないのと同様に、イスラム主義者もイスラム法の適用などは考えていないということかもしれません。

*写真は、朗読会の模様、そして行きつけの大衆食堂・・・安くて美味しいんですがねえ・・・。

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1月31日 (火)  トルコ万歳!

アンカラに来ています。

昨日は、イスタンブールのアタテュルク空港で、夜の9時にアンカラへ向かって飛び立つはずだった飛行機が、大雪の為に3時間も遅れて困ったけれど、その前にアタテュルク空港へ辿り着くまでが大騒ぎでした。

まず始めの計画では、アジア側イエニドアンの我が家を4時ちょっと前に出て、ヨーロッパ側へ渡るバスに乗れば、5時頃タクシムに到着。ゆっくり食事でもしてから、リムジンバスで空港へ・・・こう暢気に考えていました。

しかし、イエニドアンでバスを待っている間にも段々ふり方が激しくなってきた雪を見ているうちに予定変更。『海峡大橋には雪の影響が出るかもしれない』と思い、バスをカドゥキョイ行きに変え、カドゥキョイから海峡連絡船でエミノニュに渡り、そこで軽く腹ごしらえして、電車を乗り継いで空港へ・・・これも割りと余裕のある暢気な予定変更のはずでした。

ところが、カドゥキョイ行きのバスは、30分ほど走ってイメス工業団地に差し掛かると早くも渋滞に巻き込まれ、のろのろ運転の末、工業団地をやっと抜けるかという辺りでバスは完全にストップ、30分で10mも前に進みません。時計を見たら、もう6時になろうとしています。この辺りからは、普通の込み具合でもカドゥキョイまで1時間近く掛かるため、既に絶体絶命の状況です。

『これは何とかしなければならない』と考えながら、思いついたのは、バスを降りて、付近を走る自動車専用道路のインターチェンジまで10分ぐらい歩き、その辺りでタクシーをつかまえ、自動車専用道路を飛ばして、カドゥキョイに出るという案ぐらい。バスの運転手さんにも相談してみたら、「専用道路は流れているかもしれないが、この時間、あの辺でタクシーをつかまえるのは無理だよ。でも、このままバスに乗っていても、間に合わないしね・・・」と難しい顔つきで説明しながら、ドアを開けてくれました。

インターチェンジの辺りまで出たら、確かにその辺も大渋滞で、タクシーなんていつまで待っても来そうにありません。しかし、専用道路を見ると、車は快調に流れているから、専用道路の上まで出てしまえば、あるいはタクシーが通る可能性もあります。

それで、インターチェンジから専用道路への進入路を歩き始めたら、50mも歩かない内に、後ろから来たハイエース型の車が止まり、助手席の男が窓を開けて顔を出しました。

「君は何処へ行こうとしているの?」
「カドゥキョイなんですがね」

「カドゥキョイの方は行かないなあ」
「ウスキュダルでも良いですよ」

「最終的には何処へ行くわけ?」
「アタテュルク空港です」

「何時の飛行機?」
「9時です」

「そ、それは厳しいなあ。よし! まあ、乗りなよ。何処かタクシーがつかまえられる所まで、君を送ってあげよう」

ハイエース型車の荷台に乗せてもらい、運転手と助手席に座っている二人、いずれも30歳ぐらいの男3人でしたが、彼らにバスを降りて歩いてきた経緯などを説明したけれど、彼らも、飛行機の時間や、ウスキュダルからどうやって行くかについて話すだけで、『あなた何処の人? 日本人? 何しているの?』といった余計なことは全く問いません。

彼らにしてみれば、『大雪で大変な時はお互い様』という当たり前な助け合いの精神なんでしょう。タクシーが通りそうなところまで来たら、彼らも外に出て、タクシーをつかまえるのを手伝ってくれたうえ、タクシーの運転手に「この人をウスキュダルまでお願いするよ」と声をかけていました。

タクシーに乗り込む前、彼ら3人と固く握手したけれど、私たちは結局最後まで、何処の誰だか解らずじまいでした。

こうして、8時20分までに空港カウンターに辿り着くことが出来たものの、あの車に乗せてもらえなかったら、どうなっていたのか全く解りません。私が乗った9時の飛行機は3時間の遅れで済みましたが、その後のアンカラ便は、5時間〜6時間の遅れになったそうです。

今、私はトルコに来て良かった、自分がトルコに住んでいて本当に嬉しいと心より感じています。トルコの人々の温かい人情に乾杯! トルコ万歳!


*写真は、先々週、アンカラへ行った時に撮ったアンカラの雪景色です。

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