Diary 2011. 5
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5月6日 (金)  我が街の鍵屋さん

2ヵ月ぐらい前、玄関のドアのノブが壊れて空回りするようになってしまい、以来、家の中から開ける時も、鍵穴にキーを差し込んで回しながら開けていました。

それで特に不便も感じていなかったけれど、先月末に家賃を取りに来た家主さんが、「これじゃあ、キーが中で折れたりしたら、家の中に閉じ込められちゃうよ」と脅かすものだから、心配になって、先日、近所の鍵屋さんに来てもらいました。

「ノブを交換すると50リラ」という話でしたが、鍵穴部分のボックスを取り出して中を調べてみると、ノブを支えているバネが外れていただけで、鍵屋さんは器用にそれを元へ戻して直してしまい、手間賃の20リラしか請求しません。

嬉しくなって、「見事な技術ですねえ」とお愛想を言ったら、「日本にもこういう鍵屋が未だありますか?」と訊かれてしまいました。

「日本で鍵屋さん呼んだ覚えはないけれど、もちろんありますよ」
「でも、多分、こうやって修理はしないと思うなあ。壊れたら、ボックスごと取り替えてしまうのではありませんか? 最近、トルコでも私のような職人は少なくなりました。ボックスの中をばらしたら、元へ戻せなくなってしまう鍵屋が殆どですよ」

鍵屋さんはそう言って、相好を崩していましたが、やはり日本でも、こういう職人技は廃れる一方じゃないでしょうか。それにこの鍵屋さん、腕ばかりでなく人物も確かな感じがするけれど、街の鍵屋さんが信頼できる人であるのは、これまた有難いことかもしれません。

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5月9日 (月)  韓人教会のピクニック

日曜日、イスタンブールの韓人教会が主催するピクニックに参加して来ました。

イスタンブールで、韓国の人たちが集まるプロテスタントの教会組織は、この韓人教会だけなのか、長老会とか純福音派といった区別もないようです。あまり立ち入ったことまで訊いていないから良く解りませんが・・・。

日曜日のピクニックは、年に一度催される“野外礼拝”であり、もちろん信者の方たちが集まるわけですが、韓人教会で“日本語礼拝”に取り組んでいる宋牧師さんが誘って下さったので、無信仰の私も有難く参加させてもらいました。

参加者は、韓国人が約150名、他に、韓人教会で礼拝しているモンゴル人が50名ぐらい、それから、私も含めて日本人が4名、トルコ人、イラン人、中国人が各1名でした。

日本人は、熱心なクリスチャンの方が1人いたけれど、あとは私のような無信仰者だったし、トルコ人、イラン人、中国人の皆さんも、韓国料理屋で働いているのが縁で来ていたのか、クリスチャンではなかったようです。

中国の人は、調理師さんで、トルコ語と韓国語が少しずつ話せるだけでしたが、イランの人は、トルコ語も韓国語も流暢に話していました。韓国に7年ほど住んでいたと言います。

日曜日はちょっと肌寒かったけれど、天気も良くて、韓国の人たちが持ち寄ったキムチや焼肉まで頂き、感謝感激でした。

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5月10日 (火)  蒼き狼の末裔

韓人教会のピクニックには、50人ぐらい参加していたけれど、イスタンブールにモンゴルの人たちは、どれくらい居るのでしょう?
イスタンブールでこんなに沢山のモンゴル人と出会えるとは思っていませんでした。

子供の頃、私がトルコに興味を懐いたのは、“騎馬民族”であるとか“蒼き狼”なんていうイメージからだったので、何だか嬉しくなりました。

モンゴルとトルコの両民族は、いずれもモンゴル高原からアルタイ山脈にかけてが故地であるとされ、長い間、騎馬民族として活動を共にしたと言われています。言語的にも似通っていて、類似する単語も多いそうです。

高校の歴史教科書に、「チンギス・ハンはクリルタイを召集し・・・」と記されていたけれど、トルコでは、政党などの総会を“クルルタイ”と言い表しています。辞書を見ると「モンゴル語からの借用」となっているので、共和国になってアラビア語を排斥する過程で生まれた言い方かもしれませんが、来たばかりの頃は、こんなところにもロマンを感じてしまいました。

しかし、モンゴルは、本国の人口が300万にも満たないのに、日本や韓国だけでなく、トルコにまでやって来る人たちがいるのは、いったいどういうわけでしょう? まあ、800年前にも、騎馬で中央アジアの草原を長駆、ドナウ河へ至った“蒼き狼”の末裔にしてみれば、これぐらいの移動は大したことじゃないかもしれませんが・・・。

ピクニックに参加したのは若い人たちが多く、バレーボールや結構運動量がありそうな遊戯を楽しんでいました。写真の遊戯は、相手組の最後尾の人をつかまえれば勝ちというもので、私は知らなかったけれど、韓国や日本にも同様の遊戯があるそうです。大柄で頑健な体つきの人が多いように感じました。

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5月12日 (木)  ソビエト映画−「私は20歳」

“私は20歳”という1962年に制作されたソビエトの映画があって、私はこれを90年、つまりトルコへ渡る前に、神保町の岩波ホールで観たように記憶していましたが、今、調べて見たら、この作品が岩波ホールで上映されたのは、1995年のことでした。

その頃は、川崎にいたから、この映画を観るために、わざわざ神保町まで出かけたようです。何だか意外な気がしました。

90年には、東池袋のボロアパートから、毎月、歌舞伎座へ足を運んでいたくらいで、マメに方々出かけていたけれど、トルコから戻って来て、川崎にいた当時は、多摩川を越えて東京都内に入ることさえ珍しかったように思います。

多分、新聞の広告か何かを見て、非常に興味をそそられ、出かける気になったのでしょう。考えて見ると、トルコへ行ってから、ソビエトへの興味が倍増していたかもしれません。

91年の8月、イズミルの学生寮で、朝、ラジオを聴いていたら、ゴルバチョフがどうたらこうたらニュースが伝えていて、何か大きな異変があったのかと聴き取りに集中したものの、未だそんな難しい話が直ぐ解るほど、トルコ語は上達していませんでした。

午後になって、また同じニュースを始めたので、今度は予め『ゴルバチョフがどうかしたのか?』と待ち構えながら聴いていたところ、ソビエトでクーデターが起こってゴルバチョフは拘束されているらしい、というニュースの内容が、絡んでいた糸が解けるように解り始め、最後まで聴いてから、思わず興奮して立ち上がると、階段を駆け下りて、食堂にいた舎監のメフメットさんに、「大変です! ソビエトでクーテーターが起こったらしいです!」と息を切らして伝えたら、メフメットさんは落ち着いた様子で、「そのニュースは朝からやってますよ」とつまらなそうに答えてくれました。

これを契機に、トルコ語を聴く耳が少しほぐれたように感じられて、私にとっては忘れ難い思い出となっています。しかも、それはソビエト崩壊の序章を告げる歴史的なニュースでした。

しかし、ソビエトとは何と壮大な実験だったのでしょう。もちろん、この実験は失敗に終ってしまい、再び試みられるはずもないけれど、何でも贅沢に消費しようとする人間の欲望が留まるところを知らない現在の世界を眺めたら、『ソビエトがあのまま続いていたら、どうなっていたのか?』なんて、ボンヤリ考えてしまいます。

“私は20歳”では、1962年当時、モスクワの若者たちがジャズのダンス・パーティーに興じたりして、青春を謳歌している姿に、ちょっと驚かされました。この映画は、以下の“YouTube”から御覧になれます。ロシア語のみで、字幕もありませんが、映像と音楽でも充分に楽しめるのではないでしょうか。冒頭、制服の兵士が歩いているシーンに、インターナショナルが流れているのは、何だか奇妙な感じです。

Мне двадцать лет (1964) - 1/16
http://www.youtube.com/watch?v=8zyJVpN7OKo


5月14日 (土)  キュネフェの本場はハタイ

5月も半ばというのに、イスタンブールは肌寒い日が続いています。今日はやっと少し暖かくなりました。昨日も天気は良くて、友人のアリとカドゥキョイの街を暫くブラブラしたけれど、セーターを着込んだままで丁度良いくらいの陽気でした。

トルコでは、チャイを沸かすコンロだけ備えて営業しているチャイ屋が、何処の街に行ってもあります。チャイを淹れて近所のレストランや事務所に出前するのです。

カドゥキョイで、歩行者専用になっている街区の一角にあるチャイ屋は、チャイが一味違うと評判になっていて、天気が良ければ、道端のベンチに腰掛け、チャイを出前してもらって飲んでいる人が良くいます。

私たちも、ここに寄って、一服することにしたら、その3人掛けのベンチに、大学生と思しき青年が一人、所在無げに座っていました。おそらく、友人と待ち合わせでもしているのでしょう。アリは、遠慮もなく、青年を端に寄らせると、自分が真中に座り、青年にあれこれ問い始めました。

「君は学生か? 何処の大学?」
「マルマラ大学です」

「ふーん、郷里は何処?」
「ハタイ県のアンタキヤですが、元々はレバノンのベイルートです」

「えっ? いつベイルートから来たの? トルコ語はどうやって勉強したの?」
「違いますよ。両親がベイルートから来たんです。僕はアンタキヤ生まれのトルコ国民だから、トルコ語で教育を受けています。最近、アラビア語を忘れかけているくらいですよ」

シリアとの国境に位置してアラブ系の住民が多く、キリスト教徒やユダヤ教徒も珍しくないハタイでは、民族や宗教の対立も見られず、文化的なハーモニーを成していると聞いていたから、私も青年にいろいろ尋ねて、興味が尽きませんでした。

青年は、アラブのアレヴィー派なんだそうです。しかし、それは、アナトリアのアレヴィー派とは、少し違う宗派であるかもしれません。ジェム・エヴィというアレヴィー派に特有の礼拝所もなく、礼拝は何処でも出来ると言ってました。

また、アナトリアのアレヴィー派は、断食もラマダン月ではなく、ムハレム月に12日間だけ行っているけれど、アラブのアレヴィー派は、スンニー派と同じくラマダン月に断食するそうです。

まあ、こういうややこしい話はともかく、ハタイと言えば、キュネフェという菓子が有名だから、私はこれについて、ちょっと訊いて見たくなりました。 キュネフェは、春雨のような細い麺状のものでチーズを包み、こんがり焼いてから甘いシロップを掛けたものです。

しかし、「イスタンブールで、最も美味しいキュネフェが食べられるのは何処でしょうか?」と訊いたら、「イスタンブールには、ありません」と、きっぱり答えられて、がっかりでした。

中に入れるチーズは、ハタイの特種なチーズを使わなければならないけれど、これをハタイから取り寄せたとしても、鮮度が落ちる所為か、本場の味はなかなか出ないそうです。


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5月21日 (土)  近づくトルコの国政選挙

トルコは6月13日に国政選挙を控えているので、街の至るところで選挙キャンペーンが繰り広げられています。

一昨日、近所で、毎週木曜日に開かれる市場へ行ったら、ここにも政権党のAKP(公正発展党)と第一野党のCHP(共和人民党)が受付所を設けて、党員の登録を呼び掛けたりしていました。

まず、沢山の人が群がっていたAKP側にカメラを向けたら、受付所の後ろに立っていたおじさんがカメラに気がつき、嬉しそうに近づいて来て、受付所の女性たちを振り返りながら、カメラの方を向くように促し、「もっと撮って下さい」なんて言います。

撮影が終ったら、このおじさんや女性たちに取り囲まれてしまい、キャンペーン用のマフラーを首に巻かれ、AKPのバッジも付けられそうになったので、「私は外国人で選挙権がないから」と固辞したけれど、「いやいや国際親善ですよ」と否も応もありません。結局、バッジを付けられ、ボールペンまでもらってしまいました。

向かい側のCHPは、人も少なく、ちょっと寂しげな感じ。カメラを向けたら、にっこり微笑んでくれたけれど、アクションはそれだけでした。まあ、この辺りは保守的な地域なので、CHPは最初から得票を諦めているかもしれません。

AKPのキャンペーンでは、女性たちがとても元気です。CHP支持の友人は、「私たちがやろうとして出来なかったことをAKPは成し遂げてしまった。社会の表舞台にあんなに多くの女性たちを引っ張り出したのだから、これを評価しないわけには行かない」と残念そうに話していました。

一方、イスラム知識人男性の一部は、以前、スカーフを被った女性たちが政教分離体制の社会で差別されているとして、彼女たちの抗議運動を支持していたのに、こういった敬虔な女性たちの社会進出がますます活発になって来たら、今度は、これに不快感を表しているようです。しかし、もうこの流れは止められないのではないでしょうか。

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5月22日 (日)  アンティオキア教会

ハタイ県のアンタキヤに来ています。いにしえのアンティオキアです。昨日の夜、ハタイ空港に降りた時もイスタンブールより大分暖かいと感じたけれど、今日の昼はもう夏の陽気でした。30℃ぐらいまで上がったのではないかと思います。

3年前、美術科の教員としてアンタキアに赴任した友人のアフメットさんから、毎年のように招待されていたのに、なかなか叶わなかった旅がやっと実現しました。

アフメットさんは、トラブゾン県のトンヤ地方出身、彼の村では今でもギリシャ語のポントス方言が話されているそうです。アフメットさんによれば、この村は、おそらく数世代前まで、ギリシャ正教を奉じていたのが、時勢に抗しきれず、イスラムに改宗したのではないかと言います。とはいえ、彼自身は、こういった歴史上の変遷を、「自分は特に信仰があるわけじゃないから、キリストだろうとイスラムだろうと何でも構わないよ」と余り意に介した風でもありません。

しかし、ギリシャ人やイスタンブールのルーム(トルコ国籍のギリシャ人)には、並々ならぬ関心があるようです。ニューヨークに留学していた時分は、ギリシャ人の多い街に住んで、交流を深めたと話していました。

アンタキアには、ギリシャ正教(東方正教会)の教会があり、正教徒の住民も多いから、アフメットさんは彼らとも交流しているのかと思って訊いたら、アンタキアの正教徒は皆アラビア語を話しているらしく、彼はこの街でギリシャ語を話す人をみたことがないそうです。

イスタンブールには、ギリシャ語もアラビア語も解るハタイ出身の正教徒がいるけれど、多分、彼らはイスタンブールに来てからギリシャ語を習得したのでしょう。

今日は、アフメットさんとそのギリシャ正教(東方正教会)の教会に行って来ました。アンタキアは、エルサレムの次に教会が築かれた地と言われ、キリスト教徒の方にとっては、とても重要な教会だそうです。

イスタンブールでは、何処の教会に行っても、日曜日のミサを自由に見学できたから、事前に問い合わせることもなく、ミサが始まった頃を見計らって出かけたら、中庭で来場者を案内しているおじさんに、「信徒でない方はミサを見学できません。11時にミサが終ってから来て下さい」と言われてしまいました。

後から来たトルコ人の旅行者は、これを聞くと直ぐに諦めて引き上げてしまったけれど、私はどうにも納得が行きません。

「イスタンブールでは、何処でも見学できますよ」
「ここは有名な教会なので、観光客の方たちが沢山訪れます。見学を認めたら、混雑してミサが行えなくなってしまいます」
「イスタンブールの総主教座には、多くの観光客が訪れますが、それでも見学は自由です」
「ここはイスタンブールではなく、アンティオキア総主教座(所在はダマスカス)の管轄なんです」

アフメットさんも、何とか許可をもらおうと、「私はトラブゾンのトンヤ地方の出身なんで、もとを質せばルームだったのです。10分ぐらいだけ静かに見学しますから・・・」と食い下がり、二人で繰り返しお願いしたら、案内のおじさんは、「じゃあ、責任者の方に訊いてきましょう」と言って、その場を離れ、暫くして戻って来ると、「これは特別に許可するんですよ」と念を押してから、礼拝堂の中へ案内してくれました。

見学したのは、実際、ほんの20分ぐらいです。イスタンブールのギリシャ正教の教会は、復活祭とかクリスマスでもない限り、訪れる礼拝者は少ないけれど、アンタキアには、かなり正教徒の人口があるのか、20分もしたら、大分席が埋まってきて、おじさんの心配も解るような気がします。

ミサはアラビア語で執り行われていたようです。十字架を掲げて登場した子供たちの姿が印象的でした。イスタンブールのルームには、もう若い世代が殆ど残っていないので、こんな光景はまず見られません。

外へ出て、門に掲げられているアラビア文字の看板にカメラを向けていたら、そこへ、トルコの大学生と思われる4人の男女がやってきました。二組のカップルなのか、その辺は良く解りません。一人は、スカーフを被った敬虔そうな女性でした。この4人は、2時間ほど離れたカフラマンマラシュから観光に来たそうです。

スカーフの女性に、「カフラマンマラシュにはいらっしゃいましたか?」と訊かれたので、「17年ぐらい前、名物のアイスクリームを食べるために3時間ほど寄ったことがあります」と言ったら、皆で笑ってくれました。

多分、日帰りの旅行じゃないかと思うけれど、カフラマンマラシュのような保守的な地域から、しかもスカーフを被った女性もいるのに、こうして若い男女が文化的な散策を楽しめるようになったとは、なかなか感慨深いものがあります。

Antakya Rum Ortodoks Kilisesi
http://www.antakyaortodoks.com/defaultinside.htm

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5月23日 (月)  アンタキア郊外

昨日は、教会を訪れた後、アフメットさんの同僚の車で、市の郊外にある教員組合の保養施設へ出かけて、昼食を食べ、周囲を散策しました。

食卓を囲んだ6人は、私も含めてなかなか多彩な顔ぶれで、記念写真を撮ってくれた施設の管理者は、「いろいろいるねえ。日本人にクルド人、アラブにルーム、トルコ人もいる」なんて面白がっていたけれど、どうやらアフメットさんはここでもルームで通っているようです。

クルド人は、東部のエルズルム県から赴任してきたビナリさん、アラブは地元ハタイ県のエクレムさんで、トルコ人のムスタファさん夫婦はメルシン県のシリフケ出身と言ってました。しかし、トルコ人もそのエスニック・ルーツは様々だろうから、こういう分け方にどのくらい意味があるのか解りません。

この人たちは、宗派も様々で、クルドのビナリさんはアレヴィー派、エクレムさんはアラブに多いスンニーのシャーフィー派、ムスタファさん夫婦はトルコで一般的なスンニーのハナフィー派でしょう。後で、アフメットさんはどうなのか確認しようとしたら、「そんなの知らないよ。宗派なんてどうだって良いじゃないか。シャーフィー派なんて言ってるが、エクレムも酒は飲んでいるぜ」と笑っていました。

ビナリという名は、現運輸相のビナリ・ユルドゥルム氏ぐらいしか見たことがなかったので、「珍しい名前じゃないですか?」と訊いたら、「そうですねえ。ビナリ・ユルドゥルムが有名になってから、ビナリと言っただけで、姓をユルドゥルムと書かれてしまうくらいだから、確かに珍しいんでしょう」とビナリさんが答えたけれど、この問答を聞いていたエクレムさんは、「ビナリ(Binali)というのは、Bin-Ali、アラビア語で“アリの息子”という意味ですよ」と横から教えてくれました。

エクレムさんは、アラビア語の読み書きも出来て、シリアのアレッポに良く親戚を訪ねて行くそうです。「ハタイのアラブは、皆、シリアに親戚がいますよ。ダマスカスの大学に留学する例も増えました。入学が容易な向こうの医学部を出て、トルコで医者になることも可能ですから」と明らかにしていました。

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5月24日 (火)  アンタキアの韓国プロテスタント教会

ギリシャ正教の教会で、「近くにプロテスタントの教会もありますよ」と言われて寄ってみました。門が閉じられていた為、裏の通用口に回ると、東洋人の女性が出てきたので、韓国語で声をかけたら、やはり韓国の人でした。

イスタンブールの宋牧師からアンタキアに韓国人牧師がいると聞いていたので、『ここだったか』と思いながら、宋牧師の話をすると、「宋牧師を御存知なんですね」と喜んで、通用口から入ったところにある集会所に案内してくれました。

集会所の脇には韓国文化を紹介するコーナーまであり、微かにキムチの香りも漂っていたけれど、アンタキアに韓国人は2世帯いるだけだそうです。

暫くして、御主人の牧師さんが現れ、表門から礼拝堂に案内してくれたけれど、ここにもトルコの国旗と共に韓国の国旗が正面に置かれていました。このプロテスタント教会は、トルコの人たちを対象に、トルコ語でミサを行い、グローバルな宗教を説いているのに、韓国のナショナリズムが感じられるようで驚かされます。

教会の古めかしい建物は、19世紀にフランスの銀行として建てられたものだそうです。

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5月25日 (水)  ヴァクフル村

アンタキアに着いて3日目の火曜日、いよいよトルコで唯一残ったと言われているアルメニア人の村を訪れることにしました。ヴァクフル村です。

アンタキアから、小さな乗り合いバスで、地中海を臨むサマンダーの町へ出て、ここからバスを乗り換え、小高い山の中腹にある村を目指します。

サマンダーの町で、教えられた通りに、ヴァクフル村行きのバスが発着するという街角へ行き、そこの雑貨屋さんに尋ねたら、近くでお茶を飲んでいた運転手さんをわざわざ呼び寄せ、「ヴァクフル村へ行くのは彼のバスです」と紹介してくれました。

それから、雑貨屋さんが、「貴方はアラビア語も解るか?」と訊くので、「サーラム・アレイクム」とアラビア語で挨拶したら、雑貨屋さんは、「アレイクム・サーラム」と返して、「キフェ?」と続けたけれど、この“キフェ”はアラビア語で「元気?」といった意味なんだそうです。ネットで調べると、アラビア語の“元気?”は、“ラバース”となっていますが、“キフェ?”はこの辺の方言でしょうか? ちょっと良く解りません。

雑貨屋さんの外見は、全くの“白人”でしたが、運転手さんは浅黒い風貌だったから、『この人もアラブだろう』と思いながら、「貴方もアラビア語が話せますよね?」と訊いたら、「私たちはトルコ人だから解りませんよ」と言います。雑貨屋さんは、「彼の村は、トルコ人の村ですね。この地域には私たちのようなアラブが多いけれど、他にアルメニア人もいるし、いろいろです。しかし、私たちだって“トルコ人”なんですよ」と説明していました。

運転手さんの村は、ヴァクフル村の先にあるフドゥルベイ村で、バスの乗客も殆どがこの村の人たちでしたが、運転手さんと同じような浅黒い風貌が多く、ちょっと独特な雰囲気が感じられます。それで、ロマ民族との関連が頭に浮かんでしまったものの、もちろんそんなことを訊けるはずがありません。

運転手さんは、フドゥルベイ村にある有名な“モーゼの樹”を見せたいと、ヴァクフル村までの料金しか受け取らずに、終点のフドゥルベイ村まで私を連れて行き、戻りのバスでヴァクフル村へ送ってくれました。“モーゼの樹”は、プラタナスの大樹で、モーゼの杖がこの樹になったと言い伝えられています。

ヴァクフル村では、まずアルメニア正教の教会を訪れました。教会の建物は、1996年に改修工事を経て、真新しい装いになっていますが、村の司祭さんが亡くなってからは、後任の司祭がいない為、日曜日に正式なミサを執り行うことも叶わず、葬儀などがある場合は、イスタンブールから司祭が来るそうです。結構、観光客が来るのか、中庭の一角には土産物の売店も設けられていました。

教会から少し下った所にある村のカフヴェ(喫茶店)へ行くと、そこでは村の老人が5人ほど集まって、談笑したり、バックギャモンに興じたりしていました。皆さん、アルメニア語とトルコ語の他にアラビア語も話せるそうです。

「フドゥルベイ村の人たちはアラビア語が話せないようですが・・・」と訊いたら、「あそこにも昔はアルメニア人が住んでいて、このアルメニア人たちが他所へ移住した後、今の住人がやって来ました。彼らは元々この地域で暮らして来たわけじゃないから、アラビア語が話せないのです」と明らかにしてくれました。

「では、彼らは何処から来たんでしょう?」
「さあ、それは良く解りませんが、彼らがやって来たのは、1940年代以降のことでしょう。でも、穏やかな良い隣人ですよ」

老人たちからは、一様に洗練された教養が感じられました。

「皆さんは、大学で学ばれたのですか?」
「いやー、私らは村育ちですからね。大した教育なんて受けていませんよ。でも、子供たちは皆大学へ行かせたし、私らも本や新聞を読んで勉強しました」

アルメニア人の優秀さは、世界的に有名で、いろんな話が語られているようだけれど、本当に不思議な気がします。やはり、ディアスポラが彼らを勤勉で優秀な民族にしたのでしょうか?


*左の写真は、ヴァクフル村から見下ろしたサマンダーの町。その先に地中海が見えます。


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