Diary 2011. 4
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4月1日 (金)  桜?

イスタンブールは3月の終わり頃から大分暖かくなったのに、4月に入ったら、またちょっと肌寒くなりました。

例年、4月の1日になると、“エイプリルフール”のお騒がせなメールなどを出したりしていたけれど、今年は何だかネタを考える気にもなれませんでした。こちらはまだ1日ですが、日本ではもう2日になっているでしょう。これから、来年のネタを考えることにします。明るい話が良いですね。「年貢の納め時がまいりました。結婚します」とか、本当になったら凄いけれど・・・。

写真の花、家の直ぐ近くで撮ったのですが、これ、桜でしょうか? こうして花が咲くと、例年にも増して心が和みます。

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4月9日 (土)  トルコに原子力発電所

近所で良くピーナツを買いに行く小さな乾物屋のおじさん、震災以来、私の顔を見ると、いつもお見舞いの言葉をかけながら、原子力発電所の事故経過を尋ねようとします。

かなりニュースを聞いたり、新聞を読んだりしているのか、今回の事故のあらましや放射能の被害についても良く知っていて、「やはり原子力は恐ろしいねえ」とか、「核廃棄物の処理も大変みたいだなあ」なんて話していました。

しかし、昨日、トルコの原子力発電所建設に話が及んだら、「リスクは承知しているよ。でもね、トルコにだって原子力発電所は必要なんだ」と力説し、なかなか熱心な様子でした。原子力に、トルコ発展の夢を託しているのかもしれません。

私も震災前まで、日本の発展には原子力が必要であると考えていたけれど、今から思えば恥ずかしくなります。


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【250】日本との原子力交渉は続くが・・・【ミリエト紙】【2011.04.09】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00250.html

*前回の記事で、「・・・日本が受注すれば、東京電力がリーダーとなる。」と訳した部分、「日本が受注すれば、東京電力が発電所を運営する」と訂正します。今回の記事を訳していて、気がつきました。


4月10日 (日)  ジャーケバブの“シェフザーデ”

先月お伝えしたジャーケバブの店、あのマルテペの店で、ケバブを焼いていたおじさんから、「シルケジにも“シェフザーデ”というジャーケバブの店があるよ」と教えてもらい、とても懐かしく思いながら、一昨日、シルケジ駅の近くまで行った折に寄ってきました。

というのも、私が初めてジャーケバブを食べたのは、その“シェフザーデ”だったからです。92年頃の話で、当時は、ガラタ橋をカラキョイ側へ渡ったところに店を構えていました。

あの頃は、まだ物価も安かったので、「これは美味い!」と思って、その辺を通り掛るたびに、食べていたような気がします。

それが、いつだったか、出かけてみたら、既に店が無くなっていて、近所の人たちは、「コズヤタウの辺りに移転したらしい」とか、いろいろ教えてくれたけれど、結局、移転先は見つかりませんでした。

一昨日、シルケジの“シェフザーデ”で聞いたら、彼らはガラタ橋カラキョイ側の店を閉じた後、カドゥキョイなどで再起を図ったものの、なかなか巧く行かず、一時期、廃業していたけれど、6年前、このシルケジの店を開いて復活したのだそうです。味はもちろんのこと、ケバブを焼く炉に、そこらの板切れも突っ込んで燃やしたりして、余り昔と変わっていません。

この6年の間も、シルケジ駅の辺りには、しょっちゅう来ていたのに、この店が見つからなかったのは、なんとも不思議な気がします。

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4月13日 (水)  イスティックラル通りに登場したショッピングモール

イスティックラル通りにも大規模なショッピングモールが登場しました。

かつて、イスティックラル通りは、イスタンブールで最も多くの高級ブランド店が軒を並べる目抜き通りだったらしいけれど、1989年以来、車両の通行が禁止になると、徐々に高級店は撤退して行き、その位置をニシャンタシュやアジア側のバーダット通り(バクダッド通り)に奪われてしまったそうです。

イスタンブールで、高級ブランド品をたくさん買う富裕層は、車で移動するから、車両の通行止めが致命的だったと言われています。

このイスティックラル通りに登場したショッピングモールは、古めかしい外観を備えているものの、まっさらの新築であり、かなり思い切った投資と言えるのではないでしょうか。

散歩がてらに立ち寄って、ブランド品なども気軽に購入して行く中流層が増えたから、こんな投資も成り立つのだと思います。急速に発展しているトルコ経済を象徴する出来事であるかもしれません。

しかし、煌びやかな新築ショッピングモールの地下階にある家電製品の売場をざっと見てから、エスカレーターで1階へ上がろうとしたら、このエスカレーターが「ガガッ、ガガッ」と凄い音を立てているのです。足元の表示を見ると、スイスに本部がある某社の製品でした。トルコの業者の取り付けミスかもしれないけれど、『日本製にしておけば良かったのに・・・』とか思ってしまいました。

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4月14日 (木)  カリフールの配送

以前は、トルコで電化製品などを購入する場合、街角の電気店であれば、冷蔵庫や洗濯機を直ぐに店の車で運んでくれたけれど、大きなショッピングセンターでは、後日、運送業者による配送となってしまうので、掃除機ぐらいのサイズなら、自分の車に積んで持って帰る客が多かったのではないかと思います。

ところが、イスティックラル通りの新しいショッピングモールは、裏通り側なら車両が入れるものの、買い物客用の駐車場などはないから、掃除機ぐらいでも配送してもらわなければ、持ち運ぶのは大変でしょう。

家電売場の係員に訊いたら、掃除機も無料で2日以内に配送するそうです。最近は、運送業者のシステムも整備されて来たのかもしれません。

トルコ人の友人たちとウスキュダルのアパートをシェアしていた2005年の暮れ、フランス資本の大規模ショッピングセンター“カリフール”のアジュバーデム店で、手頃な本棚を見つけて、日曜日に配送してもらえるのか訊いたら、快い返事だったので、購入を決め、代金も払って帰宅し、次の日曜日を心待ちにしました。

日曜日の朝は、天気も良く、友人のハムザとオカンが何処かへ出かけようと誘ってきたけれど、「今日は本棚が配送されてくるから・・」と言って断ったら、彼らはニヤニヤ笑いながら、「おい、お前は何年トルコに住んでいるんだ? 本棚なんて配送されて来ないから心配するな。さあ、一緒に出かけよう」と急かします。

「でも、カリフールはフランスの会社だよ。ちゃんと配送されると思うけどなあ」
「フランスだか何だか知らないが、働いているのはトルコ人だろ。運送屋もトルコ人だぜ。直ぐに持って来るわけないよ」

彼らは尚もしつこく誘ったけれど、私も頑固に断って、配送を待つことにしました。

しかし、午後の4時を過ぎても何の音沙汰もありません。さすがに痺れを切らして、カリフールへ問い合わせたら、日曜日なんで、担当者がなかなか見つからず、「この番号へかけてみて下さい」という指示に3回ほど従って、やっと事情が解っている人間に繋がり、運送業者の電話番号を聞き出したところ、これがまた携帯電話の番号でした。

何だか腑に落ちないものを感じながら、その番号に電話してみると、如何にも運転手らしいガラッパチなおじさんが出てきて、「えっ? 本棚? 本棚は今日積んでないなあ」なんて言います。

「はあ、それでは運送本部の電話番号を教えてくれませんか?」
「運送本部? そんなものないよ」
「他の運転手さんに連絡は付かないのですか?」
「他の運転手? アジュバーデム店の家具は俺一人で運んでいるんだよ」

カリフールには、皆、車で買い物に来るから、配送を頼む客は余りいないでしょう。でも、まさか一人で配送を請け負っているとは思いませんでした。

夜、ハムザとオカンは帰ってくるなり、私の部屋を覗き、「おい、本棚は何処にあるんだ? やっぱり来なかっただろう? だから心配するなって言ったんだよ・・・」と勝ち誇ったようにはしゃいでいました。

まあ、翌日、カリフールに電話して、ガンガン文句を言ったら、さすがに次の日曜日には、朝一番で持って来たけれど、やはり運転手さんは、あの電話に出たおじさんで、“俺一人”という話に偽りはなかったようです。



4月15日 (金)  トルコの20年の夢

長い間、1991年の4月に、初めてトルコへ足を踏み入れた日は、ラマダンの最終日だったように思い込んでいて、そうであれば、今日4月15日でちょうど20年になるから祝うつもりでしたが、良く考えたら、これは間違っていたかもしれません。その翌日に、イズミルのトルコ語教室で入学の手続きを済ませているけれど、ラマダン最終日の翌日なら、バイラム(祝祭)が始まっていて、教室は休みになっていたはずです。

あの日、ギリシャのアテネから、オリンピック航空の便で、イスタンブールに降り立ったのは、朝9時頃だったでしょう。直ぐにタクシーでバスターミナルへ移動し、イズミル行きのバスに乗りました。バスの運転手が断食していたのを覚えています。

イズミルに着いた時は、もう暗くなっていて、バスターミナルから、またタクシーを使って、バスマハネ駅近くの安宿街まで来たら、辺りのレストランは何処も断食明けの夕食で大盛況でした。

しかし、翌日、トルコ語教室で入学手続きを済ませ、教室の近くにあったコライ・ペンションに落ち着いてから、周囲の人たちが断食していたような印象は、全く記憶にありません。それで、着いたその日が最終日だったに違いないと思い込んでいました。

アテネに寄ったのは、トルコ航空がストライキに入ってしまったからです。成田からバンコク経由のオリンピック航空で、アテネに着き、市内で一泊して、翌朝イスタンブールへ飛びました。

当初は、トルコ航空の“成田〜イスタンブール”を予約して、旅行代理店でチケットも購入していましたが、フライトの一週間ぐらい前に代理店から電話があって、ストライキによりフライトがキャンセルになったと告げられ、オリンピック航空の便に振り替えたのです。

そういえば、電話があったのは、4月1日で、エイプリルフールの冗談じゃないかと思った覚えがあります。今、ネットで検索したら、「1991年の4月1日からトルコ航空のストライキが始まった」という記事が出てきたので、これは間違いないかもしれません。

このように所々あやふやになっているけれど、印象に焼きついた場面は今でも鮮明に思い出せるから、20年が過ぎてしまったなんて信じられないような心持です。“未だ覚めず池塘春草の夢”ってやつでしょうか。


4月16日 (土)  戦前の神田駅

私は20歳ぐらいの時に、40を過ぎた中年が若い頃の思い出をつい昨日の出来事のように話しているのを見て、『よくそんな下らないことまで覚えているもんだなあ』とか『このおっさんに20歳の時代なんてあったのかなあ』なんて不思議に思っていたけれど、今、自分が50歳になってみると、これは不思議でも何でもありませんでした。

20歳の時代どころか、高校や中学の頃まで、鮮明に思い出せます。20歳過ぎてからの記憶などは、ついこの前の出来事みたいです。あの頃の自分と今の自分が、それほど変わったようにも思えません。余り進歩がないからでしょうか。

高校時代の友人も、ずっと親しく付き合っている連中は、その変化を少しずつ見てきた所為か、それほど変わったようには思えないけれど、高校時代を思い出そうとしても、彼らは今の姿が(5年も日本に帰っていないから、5年前の姿ですが)先に出てきてしまって、卒業以来会っていない同級生の姿とつりあいが取れなくなったりします。

一時帰国した5年前、卒業以来という同級生に会ったら、その変わりように驚きました。その同級生が、「あいつ太ったなあ」と、いつも会っている友人を指して驚くので、「そうかなあ? もう大分前からあんなだよ」と首を捻ったものの、確かに高校時代から比べたら倍ぐらいに太ったかもしれません。

雪印の配送やっていた22歳の頃、トラックを運転しながら良く高島忠夫さんのラジオ番組を聴いていました。その番組にリスナーの思い出話を高島さんが電話で聞くコーナーがあって、ある日、声だけ聴くと未だ40代ぐらいに思えるリスナーの男性が、戦前の思い出話を昨日の出来事のように語りだしたのです。

男性は、戦前に国鉄の神田駅で駅員をしていたと言うから、当時が1982年頃として、おそらく60歳にはなっていたでしょう。40年前の神田駅で、女優の高峰秀子さん(高峰三枝子さんだったかも)から電車の時間を尋ねられた一件を嬉しそうに話していました。

それは、ちょっとうろ覚えですが、以下のような話でした。

男性が終電間際の山手線のホームに立っていると、高峰さんが近づいて来て、中央線が未だあるかどうか尋ね、男性は終電が迫っていたので、少し躊躇ってから、「中央線のホームはあちらです。お急ぎになれば間に合うと思います」と答えたところ、高峰さんはホームの階段を降りて行ったものの、結局、間に合わなかったそうです。

男性が語る戦前の神田駅は、私が知っている神田駅と余り変わりが無いように思えて、男性の活き活きとした語り口に、電車が発着する光景や、階段を下りていく高峰さんの姿までが目に浮かぶようでした。

考えて見れば、戦前と戦後で、日本の社会や人々の様子が180度変わってしまったはずもありません。父や母の話を聞いても、そんなことは解りきっていたのに、何となく、戦前というのは全く違った世界だったような気がしていたから、この神田駅の話はとても新鮮に感じられました。戦前を別世界だと思わされていたのは、戦後教育とやらの所為でしょうか? 

高島忠夫さんも、時おり合の手を入れながら、楽しそうに聞いていたけれど、1930年の生まれだから、当時52歳ぐらい、この話の時代には12歳ぐらいで、神田駅の光景などを鮮明に思い出しながら聞いていたかもしれません。

私は今50歳で、12歳の頃に見た神田駅の様子を思い出しても、国鉄がJRに変わったり、車両等が入れ替わったりしただけで、それはやはり同じ神田駅です。その変化を少しずつ見てきたから、それほど激しく変わったようにも思えません。

もちろん、私たち世代の場合は、その頃も“戦後”で今も“戦後”なわけだけれど、当時の高島さんが、12歳の頃に見た神田駅を思い出しても、やはり同じ神田駅で、戦前も戦後もなかったでしょう。

私たちは、歴史へ勝手に切れ目を入れられて、何だか騙されてきたような気もします。



4月25日 (月)  食在アンカラ?

先週は、アンカラとイズミルへ出かけていました。戻って来る頃には、イスタンブールも暖かくなっているだろうと期待していたけれど、相変わらず寒い日が続いています。

アンカラでは、コンヤ・エヴィ(コンヤの家)という店で食べた“エトゥリ・エキメッキ”というのが美味かった。“エトゥリ・エキメッキ”は、コンヤ県の名物料理で、細かく刻んだ肉がのったピザのようなものだと思って下さい。特に個性的な料理じゃありませんが、この店の焼き方が上手いのか、ちょっと他所にない味わいでした。

昔はもっと立派な建物で営業していたそうですが、ビル建設に伴って立ち退かされ、今はバラックみたいな仮店舗になっています。それでも、多くの客で賑わっているし、バラックが牧歌的な雰囲気を醸しだして、却って情緒があるかもしれません。このまま建て替えなくても良いくらいじゃないでしょうか。

アンカラは、トルコの首都であり、官公庁では、各地方から出てきたエリートたちが働いています。だから、各地方の郷土料理屋もかなりレベルが高いかもしれません。イスタンブールには、外国人の観光客を見込んで、値段だけ不相応に高い店もあるけれど、アンカラでそんな真似はできないでしょう。舌の肥えた官公庁のお役人たちが贔屓にしている店なら、値段もそれほどではないような気がします。

コンヤ・エヴィ“Konya Evi”
http://www.konyaevikebap.com/tfkon.html

以下の“ハジュババ”のバクラヴァ(菓子)も非常に美味しかったです。

バクラヴァジュ・ハジュババ
http://www.hacibaba.com/turkce/sube.html

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4月26日 (火)  オザル大統領

1993年の4月17日にオザル大統領が亡くなってから、既に18年が過ぎました。

私は、このオザル大統領をイスタンブール市内で見かけたことがあります。92年頃じゃなかったでしょうか。

乗っていた市バスが、ベシクタシュの船着場前でゆっくり左に曲がったところ、向こう側から来たベンツも曲がり角でスピードを緩め、運転している人の顔が明らかになると、バスの乗客が数人、「あっ! 大統領だ!」と口々に言うので、私もそのベンツの運転手を注視したら、それは紛れもないオザル大統領だったのです。

オザル大統領の顔は少し微笑んでいるように思えましたが、ベンツは直ぐに走り去ってしまい、隣に座っていたのがセムラ夫人であったかどうかも確認できませんでした。しかし、オザル大統領自身がハンドルを握っていたのは確かで、ベンツの後ろを1台白バイが追いかけて行った他に、護衛の車両などもなかったように記憶しています。

翌日、新聞を見てまた驚かされました。「大統領、またもや記録を塗り替える! ベンツを運転してイズミットの某所を出たのが、○時○分。アクセルを踏み込んでスピードを上げ、○時○分、イスタンブールのオルドゥエヴィ(軍の施設)に到着。その間、僅か○時間○分!」といったような記事が載っていたのです。

当時、オザル大統領がスピードを好み、大統領になってからも、度々、ハンドルを握っていたのは、巷に知れ渡っていました。

88年、日本の企業グループによって、ボスポラス海峡の第二大橋が完成すると、未だ首相だったオザル氏は、開通式の先頭車両を自ら運転したそうです。この時、日本トルコ友好議員連盟の会長だった金丸信氏が、その車に同乗していたという話を何処かで聞いたことがあったので、今、ネットで検索してみたけれど、そういった記事は出てきませんでした。


“トルコ便り”2006年4月21日(金)13年前
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=4

【144】クルド問題−オザル大統領からエルドアン首相へ【ミリエト紙】【2006.04.19】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00144.html



4月27日 (水)  交通事故

オザル大統領は、毀誉褒貶の甚だしい人物だったけれど、私は直にお見かけした所為か、ミーハー的に親しみを感じていました。

当時、テレビのニュース番組などで、夏に大統領保養地があるマルマリスの街を散策しながら人々と歓談するオザル大統領の姿が紹介されているのを見て、やらせじゃないかと思っていたけれど、マルマリスのカフェテリアで働いていたという友人に尋ねたら、「ああ、あれは本当だよ。僕も店の前をあのデブが歩いているのを何度か見たことがある」なんて言うのです。

オザル大統領が亡くなった1993年の4月、その頃は東京にいた友人に電話で訃報を伝えると、彼は「オザルが死んだらクルド人たちは困るだろうな」と他人事のように話していたくらいで、そもそもオザル大統領に対しては批判的だったから、「君はマルマリスで大統領と歓談したりしなかったの?」と訊いても、「あんなデブと話して何が楽しいんだよ」と笑って取り合いませんでした。

オザル氏に対する批判では、例のスピード運転もよく槍玉に挙げられていたけれど、これはもっともな話だと思います。あれでは、大統領自ら、交通事故を奨励しているようで堪ったものではないでしょう。

私はイスタンブールで暮らしながら、治安の良さに感謝しているものの、交通事故の多発には呆れるばかりです。スピードの出し過ぎは言うまでもなく、過積載気味のトラックやダンプも実に恐ろしい。

こちらのトラックやダンプは、やたらとサイズがでかくて、それだけでも威圧感があるのに、どのくらい積み込んでいるのか、大きくきしみながらカーブを曲がって来られたりすると、私は以前ダンプを運転していたこともあるから余計に恐ろしくなります。

経済成長の続くイスタンブールは、何処も建設ラッシュで、うちの近くにも現場がいくつかあって、ダンプや生コン車がアパートの前の狭い道にまで入り込んで来ると、アパートへ突っ込みはしないかと気が気じゃありません。

トルコでは、最近、街角の至るところにカメラが設置されるようになった為、このカメラが捉えたショッキングな交通事故の模様が、“YouTube”などに続々とアップされていますが、以下はそのほんの一例です。

まさしく背筋が凍る場面。そういう場面を見たくない方は絶対に見ないで下さい。歩道でバスを待っていた女性が、突っ込んで来た車にはねられてしまいます。

rize kaza
http://www.youtube.com/watch?v=yU2X0VGne00

http://www.beyazgazete.com/video/2011/01/21/kaderini-boyle-bekledi.html

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