Diary 2011. 12
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12月2日 (金)  天下無敵の“トルコのおばさん”?

今日の昼過ぎ、4時頃でしょうか、市バスに乗っていると、ちょうど学校が引けた時間だったらしく、ある停留所からスカーフを被ったイスラム教導師養成高校の女生徒がたくさん乗り込んで来て、車内は俄かに騒がしくなりました。

導師養成高校で学ぶ敬虔な女生徒たちは、さぞかし淑やかで大人しいのだろうと思ったら大間違いで、騒々しい同世代の女の子たちと何ら変わるところはありません。少し混んでいる車内を図々しく奥へ進んで空いている席を見つけて素早く座り込むと黄色い声を上げて友達を呼びます。バスの中ほどに立っていた私の前にたちまち5人ぐらいの女生徒が集まってしまいました。

それだけなら、構いませんが、私の直ぐ隣に立っていた子は、私の顔をちらっと覗き込むなり、前に座っている友達へ、「見て、チンチャンチョンよ」と囁いて可笑しそうに笑います。『まあ、箸が転んでも可笑しい年頃なんだろうな』と無視を決め込むことにしたけれど、この娘たちの雑言には少々しつこいものがありました。

「チンチャンチョン、トルコ語解っているのかなあ?」
「私たちが中国語解れば良いんだけれどね」
「ねえねえ、チンチャンチョン、怒っているんじゃないの?」
「チンチャンチョン、チンチャンチョン」

まったく導師養成高校じゃ当たり前の礼儀も教えていないのかと思わず憮然としたものの、顔をしかめたところで恐いもの知らずの娘たちに効果はないようです。これがまた後20年も経てば、面の皮がさらに数ミリ厚くなって天下無敵の“トルコのおばさん”が出来上がるんでしょう。

30年に亘って宗教科の教師を務めた友人は、黒海地方東部のトラブゾン県出身で激しい男尊女卑の家庭に育ったためか、「イスラムは本来男女同権であるはずだ。これを徹底させなければならない」と頻りに強調していたけれど、トルコもアンカラより西の地域では、もともと状況が異なっているのではないかと思います。

91年、イズミルのトルコ語学校で、同じ教室にいた韓国人の女性が、「隣近所の奥さんたちは、皆、朝起きないようですが、御主人たちは朝食を摂らずに出勤するんでしょうか?」と日頃の疑問を講師の先生にぶつけたところ、中年男の先生は苦笑いしながら、「残念ですが、そういう家庭が多いようです。私の家でも妻が起きて来ない時は、一人で食べて出てきますよ。外で朝食を済ませている亭主たちも少なくありません」と答えていました。

もちろんこれは、男女同権とは別次元の話だけれど、最近になって、トルコ語には女性のための“サバーフルック(朝着?)”という言葉もあると友人から教わって驚いています。トルコの女性たちは、寝間着のような朝着でリラックスしながら午前中のひと時を過ごすそうです。

しかし、この朝着とは、いったいどんなものかとネットで検索してみたら、早速、次のようなサイトが出てきました。

http://www.lingabooms.com/sabahlik.shtm

何というか、やけに色っぽい写真が載っていますが、どうやらこれは朝着などのファッションを扱っている会社のウェブサイトのようです。

「・・・自然の生き生きとした色彩でデザインされた朝着で御家庭に春をもたらしましょう。特に休日や日曜日の朝は、朝着を着てお茶を飲みながら、お読みなる本や御自身に割り当てた時間が終わらぬようにと望まれることでしょう・・・」

朝っぱらからこんな色っぽいもの着たら、いったいどんな春が訪れるのでしょうか? “お読みになる本”なんて言うけれど、こんな艶姿でまともな本が読めますか? まあ、これは単なるコマーシャルの口上ですから、いきりたつ必要など何処にもありませんが・・・。


12月7日 (水)  他人の信仰を測ってはならない

宗教科の教師だった友人は、子供の頃、男尊女卑的な風習が残る田舎で、母親の苦労を見ながら手伝って上げなかったことを成人してから非常に悔やんで自分を責めたそうです。

私はこの友人と話していて、異なる宗教や文化に対する柔軟な思考に度々驚かされたけれど、それは相手を思いやる気持ちからもたらされていたかもしれません。

いつだったか友人に以下の記事を読んでもらったら、反論されるかと思ったのに、「私もこれと同様のことを考えていた」と感想を述べたので意外な気がしました。

【224】信仰・イデオロギー・良心【ラディカル紙】【2009.12.03】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00224.html

若い頃、キリスト教は間違っているのではないかと考えながら、一方的にそう考えてしまったことで良心が咎めたと言うのです。

また、宗教科の授業にも学期末等のテストがあることに対して、「他人の信仰を測ってはならない」と抗議し、すべての答案に正解を与え続けたそうだけれど、これはなかなか出来ることじゃないと思います。



12月9日 (金)  パシャキョイ

イスタンブールの端っこにあるイエニドアンの我が家から40分も歩けば、辺りは長閑な田園風景となり、パシャキョイという村に至ります。

そもそもキョイは“村”という意味ですが、イスタンブールのメジディエキョイなどは地名に“キョイ”がついているだけで、喧噪の大都会、村らしいところは一つもありません。あそこも昔は“村”だったんでしょうか?

そこへいくと、パシャキョイはまさしく現役の農村。村の中心部には、4〜5階建てのビルが連なっているけれど、その前を牛がのんびり歩いていたりします。

トルコでは、何処へ行っても、このように家々が密集して街区をなしている村が多く、村の人たちはそこからトラクターなどで近くの農地に通うそうです。

しかし、アダパザル県のクズルック村は、家がぽつんぽつんと離れて立っている散村という形態でした。工場の同僚によれば、これは黒海地方の村の特色であるらしく、彼は嘘か真かその理由を次のように説明していました。

「俺たち黒海地方の人間はへそ曲がりに出来ているからな。隣近所からなるべく離れて暮らしたいんだ」

パシャキョイの住民は、共和国革命の際、住民交換によってギリシャのテッサロニキ辺りからから移り住んできた人々の子孫で、それ以前はルーム(ギリシャ人)の村だったそうです。

当時、人々はイスタンブールの外れに移住して来たなんて思っていなかったでしょう。気がついたらイスタンブールが直ぐそこまで広がってきた、という感じじゃないかと思います。

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12月10日 (土)  ザ・ジェイムズ・ジョイス・アイリッシュ・パブ

一年ぐらい前、ベイオールで“アイリッシュ・パブ”という酒場を覗いたら、大きな画面でラグビーの試合を放映していて、4〜5人の客が熱心に観ていたので、『珍しいものを発見したぞ!』と嬉しくなりました。トルコでラグビーの試合なんて観たことなかったし、話題にさえならないからです。

しかし、店の人に訊いたら、観戦している客は皆イギリス人というから残念。“トルコ人ラグビー・ファンを発見!”というわけには行きませんでした。でも、こういうイギリス人やアイルランド人の溜り場になっている店があるというのは、新しい発見に違いありません。以来、『ここでギネスビールでも飲んでみよう』と思いながら、あっという間に一年過ぎてしまい、先週、やっとこれを実現させました。

ギネスとつまみはやっぱりアイルランド的なものが良いと思ったので、“フィッシュ&チップス”を注文したんですが、これがまた衣の分厚い大きなフライでびっくりしました。日本のビヤホールで出てくる白身魚のフリッターみたいなものを想像していたけれど、ネットで調べてみると、こういう大きなフライが本場では正統派とみなされているようです。

お味については何とも申し上げられません。「イギリスは・・・」という先入観がちょっと固まってしまったような気がします。ギネスは美味しかったけれど・・・。

The James Joyce Irish Pub Center
http://www.theirishcentre.com/

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12月11日 (日)  トルコ料理は“世界三大料理”の一つ

アイリッシュ・パブの“フィッシュ&チップス”、美味しいトルコ料理の本場で、イギリス風を望んだのは拙かったかな? なんて思ってしまいました。

トルコ料理屋なら、格安の大衆店でもああいう代物は出てこないような気がします。なにしろ、トルコ料理は“世界三大料理”の一つですから・・・。

この“世界三大料理”、私もトルコに来たばかりの頃は、『誰が決めたんだよ?』とか言ってたけれど、今では大いに納得しています。

トルコへ来る前は、韓国に居たことがあって、味だけ比べたら、今でも韓国料理のほうが個人的には好きかもしれません。しかし、文化的な背景等も含めて考えたら、中華、フランスの次に来るのは、やっぱり“トルコ料理”じゃないでしょうか?

一口にトルコ料理と言うけれど、それはギリシャ風から中近東風まで様々な要素から成り立っているはずです。

2005年だったか、ルーム(トルコ国籍のギリシャ人)のマリアさんの家で間借りしていた頃、ギリシャに行ってアレクサンドロポリスで食べた“サガナキ”という料理が美味かったんで、マリアさんにそう伝えたら、マリアさんは一つも喜ばずに、「さあ知らないね。それはユナンル(ギリシャ国籍のギリシャ人)の料理だろ。私たちルームの料理とは違うよ」とつっけんどんに答えていました。

マリアさんは自分たちの料理を“ポリティキ”と称していて、これは“コンスタンティノポリの料理”といった意味らしいけれど、要するに“イスタンブールの料理”だったような気がします。マリアさんは、料理に限らず文化全般に関しても、よくこんなことを言ってました。

「お前知っているかい? オスマン帝国に、文化的・文明的な都市は三つしかなかったんだよ。まずイスタンブール、それからセラニク(テッサロニキ)、そしてイズミルだよ。アテネなんてね、牛がうろついているような村だったんだ。文化もへったくれもありゃしないよ」

イスタンブールの正式名称は、1930年に至るまで“コンスタンティニーエ”であり、オスマン帝国の時代はその末期であっても、人口の半数近くがルームのような非イスラム教徒であったと言われています。彼らによって、オスマン帝国になってからも、“コンスタンティニーエ”は、ビザンチンの文化を継承し、その中心であり続けたのでしょう。

マリアさんは、自分たちの話すトルコ語が、オスマン帝国の都で話されていた最も正統派のトルコ語であると言って誇るだけでなく、そのギリシャ語もビザンチンの伝統を受け継いだ最も格式のあるギリシャ語であると言って譲りませんでした。

ルームの人々は、共和国以降、ギリシャに移住すると、向こうでは「トルコ訛りのギリシャ語を話している」などと揶揄されたそうですが、東ローマ帝国以来、文明の中心として栄え続けた都からやって来たのに、何故、アテネ辺りの田舎者から侮辱されなければならないのかと、さぞかし無念だったことでしょう。

料理もビザンチンの宮廷からオスマン帝国の宮廷へ受け継がれて発展したかもしれません。いずれにせよ、イスタンブールの料理が洗練された宮廷の料理をベースにしているのは間違いないようです。

91年にイズミルのトルコ語学校で同じ教室にいたギリシャ人(ユナンル)のエバさんも「トルコとギリシャには同じ料理がいくつもあるけれど、同じ料理だったらトルコのほうが美味い」と断言していました。


【49】トルコの少数民族とトルコ人の定義【ラディカル紙】【2004.02.26】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00049.html

【92】トルコはマイノリティーの寄せ集まりである【ラディカル紙】【2004.21.10】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00092.html

【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である【ラディカル紙】【2004.12.30】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00105.html

【109】かつてはギリシャ人も自分たちを「ビザンチンの子孫」であるとは思っていなかった【ザマン紙】【2005.01.18】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00109.html

【150】アルメニア文字で表記されたトルコ語の小説【ザマン紙】【2006.05.08】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00150.html

【152】アナトリアの歴史と文化【ザマン紙】【2006.05.13】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00152.html

7月28日 (水) コンスタンティヌス帝の都市 
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2010&m=7



12月14日 (水)  本物のトルコ人

半年ぐらい前のことです。タクシーに乗って、品が良い初老の運転手さんと世間話を始めたところ、何からその話題になったのか忘れてしまったけれど、「以前、ルームの家で一年ほど間借りしていた」という話になり、運転手さんが「それじゃあ、ルーム語(ギリシャ語)も少しは覚えたでしょ?」と訊くので、「エフハリストー(ありがとう)」と知っているギリシャ語の単語を口にしたら、運転手さんは「バラカロー(どういたしまして)」と答え、続けてギリシャ語の単語をいくつか披露しました。

ちょっと驚いて、何故、ギリシャ語を知っているのか尋ねると、運転手さんは次のように説明したのです。

「もともとイスタンブールに住んでいた本物のトルコ人であれば、皆、このぐらいのギリシャ語は知っていますよ。まあ、私たちのような本物のイスタンブールのトルコ人は、もう5万人ほどしか残っていませんがね・・・」

これにはもっと驚きました。本物のトルコ人って・・・?

それは、ルームのマリアさんが話していた“上級のトルコ人”であるかもしれません。マリアさんは、住んでいたジハンギルの辺りへ地方からたくさんの人たちが移り住んできたことを嘆いて、「この辺はね、昔、私たちのようなルームか“上級のトルコ人”しか住めなかったんだよ。それが何だろうね、あの田舎者たちは。文化もなければ礼儀も知らない・・・」とよくこぼしていました。

実際、1950年代まで、ジハンギルやイスティックラル通りの辺りを始とする新市街の住民は、ルームやアルメニア人、ユダヤ人といった非イスラム教徒が多く、イスラム教徒のトルコ人はモダンな知識層が大半だったと言われています。

しかし、“本物のトルコ人”という初老の運転手さんも、容貌に“中央アジアのトルコ系民族”らしい痕跡が全く見られない白人だったし、この“上級のトルコ人”とはいったいどういうルーツを持つ人たちだったのでしょう?

私は会う機会がなかったけれど、マリアさんの知り合いに、もとは正教徒のルームだったのに、イスラム教に改宗して“トルコ人”となった人がいたそうです。この人物に会ったことのある友人は、「銀行に勤める温厚な紳士で、マリアさんの周辺では最もまともな人だった」と話していました。

【92】トルコはマイノリティーの寄せ集まりである【ラディカル紙】【2004.21.10】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00092.html

上記の記事では、コラムニストのテュルケル・アルカン氏が次のように述べています。

「そもそも、民族的なルーツを“中央アジアのトルコ人”であると自認している人たちが、どのくらい真実を語っているのかは疑わしいものだ。我々の殆どは、モンゴロイド顔である中央アジアの親族に余り似ていない。中央アジアからアナトリアにやってきたトルコ人は、ここに元々住んでいたギリシャ人(ビザンチン人)を皆殺しにしたわけでもなければ、追い出したわけでもなかった。そして、この人たちが水分のように蒸発してしまったはずがないことを考えて見るならば、現在のトルコ人である我々のかなりの部分を、イスラムへの改宗を選択したギリシャ人が占めていることを認めないわけには行くまい」

昨年だったか、“モンゴロイド顔の東洋人”という条件で、コマーシャルの撮影に出向いたら、現場で顔を合わせた“東洋人”のメンバーは、私ともう一人の日本人、それからモンゴル人、ウズベク人、カザフ系トルコ人の計5人でした。

撮影前に、我々日本人、モンゴル人、カザフ系トルコ人の4人が、撮影スタッフのトルコ人を交えて雑談していると、カザフ系トルコ人の青年が、突然、日頃の不満をぶちまけ始めたのです。

「僕はイスタンブールで生まれ育ったトルコ共和国の国民であり、両親が中央アジアのカザフスタンから来た“本物のトルコ人”であるにも拘わらず、この国ではトルコ人として認められていないようだ。僕の顔を見て、“チンチャンチョン”と言う奴らがいる・・・」

撮影スタッフのトルコ人が、「それは違う。私たちは絶対そういう差別などしない」と反論して、二人で暫く言い争っていたけれど、カザフ系の青年も、そんなこと気にしているのなら、“東洋人”という条件なんかで出演しなければ良かったかもしれません。

まあ、その後は、もう一つ別のテーマで盛り上がりました。「チンギス・ハンは、モンゴル人だったのか? トルコ人だったのか?」

これも「チンギス・ハンはトルコ人」と主張して議論を始めたのはカザフ系の青年で、モンゴル人留学生の青年は、『議論の余地などないでしょう』と余裕の表情で受け流し、撮影スタッフのトルコ人が、「歴史的な事実を見れば、モンゴル人であることに間違いない」と反論していました。

私も意見を訊かれたので、もう少し場を盛り上げようと、以下の如く主張したら、皆笑っていたので、結構楽しんでもらえたようです。

「チンギス・ハンは、モンゴル人でもなければ、もちろんトルコ人でもない。あれはミナモトノ・ヨシツネという日本人だったのだ!・・・」

トルコの人達の民族感情
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/004.html#100



12月17日 (土)  ヒュンキャル・ベエンディ

トルコ料理は、世界三大料理の一つなどと言いながら、ここでも色んな料理を紹介してきたものの、出てくるのは、いずれもB級グルメに分類されるような惣菜ばかり。「あれで三大料理か?」と言われそうだけれど、これは単に私の経済状況に起因するものです。

考えてみれば、日本史の弥生時代に、この国の人々の先祖は既に都市文明を築いていたわけだから、料理文化の歴史も長くて洗練されているのは当たり前かもしれません。トルコでは、各家庭の料理も美味しくて、その味が受け継がれてきた歴史を感じさせます。

高級な料理はあまり食べていませんが、トルコ料理の神髄は、オリーブ・オイルをふんだんに使った種々の冷菜や、茄子などの野菜を上手く用いた料理にあるんじゃないでしょうか。

例えば、ヒュンキャル・ベエンディ。皇帝(ヒュンキャル)が気に入った(ベエンディ)と言うくらいでオスマン宮廷料理の一つらしいけれど、特に高級な食材が使われているわけでもなく、以下のようなセルフ・サービスのレストランなら、私でも気軽に味わうことができます。しかし、あまり大衆的な食堂では作っていません。裏ごしした茄子をペシャルメルソースのようなものに合わせたりして、なかなか手が込んだ料理なのです。

Borsa
http://www.borsaselfservis.com/

ヒュンキャル・ベエンディが美味しい高級店も紹介しておきます。私はいずれの店も2回ぐらい御馳走になったことがあるだけです。

Hunkar
http://www.hunkar1950.com/

Haci Abdullah Lokantasi
http://www.haciabdullah.com.tr/tr/

以下の各店は少し手頃な価格になっていますが、アルコール飲料が提供されません。(Haci Abdullah Lokantasiも)

Kanaat Lokantasi
http://english.istanbul.com/istanbul-guide/restaurants/istanbul-cuisine/kanaat-lokantasi

Yanyali Fehmi Lokantasi
http://www.fehmilokantasi.com/

Komur Lokantasi
http://komurturkmutfagi.com/index.html

こちらは、ヒュンキャル・ベエンディで検索していて見つけた日本語のサイト。トルコ料理のレシピも紹介されていますが、それだけではなく、お話がとても面白いサイトです。

お料理レシピの紹介 ハル子のキッチン
http://www17.plala.or.jp/harukitchen/index.html

*写真は、イスティックラル通りの“Borsa”レストラン(セルフサービス)の外観、店内の様子とヒュンキャル・ベエンディ。

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12月21日 (水)  アシュレ

先週の木曜日(12月15日)、タクシムで“ベレケット・ハルク・ドネル”というレストランの前を通りかかると、長蛇の列が出来ていたんで、『何事だろう?』と覗いてみたら、“アシュレ”という菓子を無料で配っていました。

アシュレは甘く煮た豆やナッツを混ぜた“みつまめ”のような菓子で、通年見られますが、イスラム暦のムハレム月(ムハッラム月)には各家庭でも作って良く食べられるそうです。

また、ムハレム月に断食するアレヴィー派には、12日間の断食が終わる“アシュレの日(アーシューラー)”に、アシュレを作って振る舞う伝統があるらしく、この日にはアレヴィー派の人たちに限らず、色んなところでアシュレが振る舞われたりするけれど、今年の“アシュレの日”は12月6日でした。

どうにも気になったので、昨日、タクシムへ出た折、アシュレを無料で配っていた“ベレケット・ハルク・ドネル”に寄って訊いてみました。

「他所では、アシュレの始まった日に配るようですが、うちではアシュレが終わったに配るんですよ。ええ、毎年やっています」

しかし、そもそもアシュレ(アーシューラー)というのは、ムハレム月(ムハッラム月)の10日目という意味であるというし、ますます何だか解らなくなってしまいました。

いずれにせよ、この無料配布、店の宣伝効果を期待してというより、善意に基づく恒例の行事になっているだけじゃないでしょうか?

トルコでは、こういった恒例の行事が多いから、無料配布を受けて、美味しそうにアシュレの食べていた人たちは、何も気にしていないように見えました。

アーシューラー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC

Beyoglu Bereket Halk Doner
http://beyogluberekethalkdoner.com/subeler.asp?yer=Taksim

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12月23日 (金)  初恋の人はギリシャ人だった


【252】初恋の人はギリシャ人だった【ミリエト紙】【2011.12.23】

http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00252.html

12月22日付けのミリエト紙より、ギュネリ・ジュヴァオール氏のコラムを訳しました。フランスにおける“アルメニア人虐殺”の否定を禁じる法案の採決に関連して、ジュヴァオール氏は、子供の頃から、ギリシャ人やアルメニア人といった区別なく友人付き合いしてきた思い出を語っています。ジュヴァオール氏は1939年アンカラ生まれのジャーナリストです。

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フランスで“アルメニア人虐殺”の否定を禁じる法案が可決されたそうですが、このように反対意見を封じてしまう法律は民主的と言えるでしょうか? そもそも、100年近く前の出来事に客観的な確証を得ることなど不可能であるかもしれません。否定を禁じるのであれば、肯定も禁じなければ片手落ちじゃないかと思います。