Diary 2010. 7
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7月1日 (木)  旧友ムジャイ

先月末に訪れたエディルネでは、ヤールギュレシ(オイルレスリング)の期間中、市内のホテルが一杯になると聞いていたので、近郊のハブサに住む友人ムジャイのところで、2日ほど厄介になってきました。ムジャイとは、最初にトルコへ来た91年、イズミルの“アルサンジャック学生寮”で知り合った仲です。

アルサンジャック学生寮
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#30

旧友ムジャイを訪ねる
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#270


2007年7月29日:古き良きトルコの思い出
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=7


イスタンブールから電話した時は、ムジャイも一緒にエディルネまで相撲を観に行くような話をしていたのに、ハブサに着いたら、「明日、俺はエディルネまで行けないよ。店があるから」と言います。

ムジャイは、“Vestel”というトルコ有数の家電メーカーの販売店を営んでいて、朝の9時から夜の10時まで、店を空かすことができないそうです。お父さんが少し店を手伝っているものの、商品や営業については余り解っていないから、そんなに長い時間、ムジャイが店を離れるわけにはいかないのでしょう。従業員も何人かいたけれど、営業と金の出入りは、全てムジャイが一人で仕切っているようでした。

ムジャイは、他に電気敷設工事の設計管理もしていて、昔は家に大きな製図版などもあったので、今回、ふとそれを思い出して、「製図道具はどうしたの?」と訊いたら、「おい、いつの話だよ? もう随分前から、何処でも、ああいうのはパソコンでやるようになっているんだ」と呆れられてしまいました。近くで新築工事などがあれば、こちらの仕事も随時入って来るというから、ムジャイも結構忙しいみたいです。「イズミル? イズミルなんてもう暫く行ってないなあ。イスタンブールだって仕事で行くだけだよ」なんて言ってました、奥さんはイズミル地方の人なのに・・・。

ムジャイには、昔から余り細かいことを気にしない大らかなところがあるけれど、文学とか歴史、政治、宗教、スポーツなどにも余り関心を示しません。だから、店を誰かに任せてまで、相撲を観に行くなんて、彼にはとても考えられないのでしょう。

逆に、ムジャイから「日本では、どんな薄型テレビが良く出ているんだ?」とかしつこく訊かれたものの、これには私が全く関心を持っていないため、答えようがありませんでした。


*写真はムジャイの店の内と外。真ん中の写真で座っているのがムジャイです。随分、太りました。

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7月2日 (金)  1991〜2010

エディルネには、やはり“アルサンジャック学生寮”同期の友人ムスタファも来るはずだったのに、結局、仕事が忙しくて来れませんでした。

ムスタファは、エディルネから2時間ほどのルレブルガスに今も住んでいるけれど、電気技師の仕事は4年ほど前に止め、それ以来、友人が経営する菓子店で、店長を務めています。南東部ウルファ出身の友人は、今や“ハビブオウル”という菓子店をルレブルガス市内で4店舗も展開していて、ちょっとした実業家と言って良いかもしれません。

ムスタファのところへは、土曜日にイスタンブールへ戻る途中、少し寄るつもりで、そう連絡しておいたら、ムスタファは、わざわざ奥さんと二人の娘さんを連れて、店にもバスターミナルにも近い、姑さんの家まで来てくれました。ムスタファの家は、そこから10分ほど離れていますが、姑さんは一人暮らしなので、家族で頻繁に行き来しているようです。

今回は、高校2年生になった次女とも8年ぶりぐらいに会いました。商業高校4年生の長女とは、昨年も会ったけれど、次女は来る度に何処かへ出かけていて、ずっと顔を見ることができませんでした。お姉さんと同じく、背が高くてなかなか美人ですが、のんびりした感じの長女と違い、気が強くて賢そうな雰囲気を漂わせています。次女の学校は、アナドル高校と言い、進学校として有名です。

大学へはもちろん進みたいと言うので、志望の学部を訊いたら、力強い声で「法学部!」と即答してくれました。なかなか鼻っ柱も強そうです。しかし、ムスタファは、「アナドル高校も数が増えてしまったから、昔ほどじゃないんだ。娘が通っているのは、最低レベルのアナドル高校だよ。まあ、これから頑張れば、大学は良いレベルのところへ行けるかもしれないが・・・」と彼らしく慎重に構えていました。

姑さんもお元気でしたが、何だか随分痩せたように思えたので、ムスタファと連れ立って外へ出てから、心配になって訊いてみたところ、健康を考えて計画的にダイエットしたのだそうです。昔から、しっかりして恐そうな姑さんだったけれど、本当にしっかりしています。姑さんがこれだから、奥さんはもちろん美形を維持していて、少し気の強そうなところも変わっていません。ムスタファの頭に髪の毛が僅かとなり、それも殆ど白髪になっているのは、何故だか解るような気がします。


*右の写真は、91年の私とムスタファ。昨年、ムスタファがスキャンしてメールで送ってくれました。真ん中の写真は、これと同じポーズで撮るつもりだったけれど、少し違ったようです。

左の写真は、ムスタファが店長を務める菓子店の外観です。

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7月3日 (土)  友人の出世物語

数年前、邦人企業が進める工事現場で通訳を務めていた頃に知り合ったタフシンという友人の話です。タフシンは、作業員として現場に入って来たものの、英語が非常に堪能だった為、直ぐに現場責任者の一人だったエジプト人エンジニアから目をつけられ、彼の専属通訳に取り立てられました。

英語を覚えたのは、ニューヨークに3年ほど住んでいたからだというけれど、別に留学とかしていたわけではありません。高校を出て、外国航路の船で働きながら、寄港したニューヨークに住み着いてしまったというのです。しかし、その割には、とても流暢な英語でした。

同じ現場で作業員として働いていた弟も、直ぐに簡単な日本語なら話せるようになったところを見ると、兄弟そろって頭脳明晰だったのでしょう。彼らは体力もずば抜けていました。

とはいうものの、タフシンの話によれば、彼がニューヨークに住み着いて、まずはガソリンスタンドで働き始めたところ、英語を覚えないトルコ人の同僚が何年もそこで苦労しているのに気がつき、英語の教科書を手に入れて、寝る間を惜しんで勉強したそうです。3年間、ぼおっとニューヨークの空気を吸っているうちに英語を覚えてしまったわけではありません。

英語がある程度話せるようになったら、ガソリンスタンドのお客さんに見込まれ、タクシー運転手の仕事を斡旋してもらったけれど、そこでも道を知らない運転手は出世しないと考え、毎晩、地図を見ながら必死にニューヨークの道路を頭に叩き込み、数ヶ月でハイヤーの運転手に昇格、ここまではちょっとしたサクセスストーリーでした。

ところが、トルコの御両親は、黒海地方リゼ県出身の非常に保守的な方たちで、息子が外国人と結婚してしまうのを嫌がり、“母危篤”と偽って、無理やりトルコへ呼び戻し、直ぐに同郷の女性と見合い結婚させてしまいます。

その後は、学歴もないから、トルコで英語力を活かせるような仕事も見つからず、かなりくさっていたところへ、現場で専属通訳に取り立てられたものだから、当初、タフシンはえらく張り切っていました。しかし、これも長く続かず、エジプト人エンジニアが帰任すると、たちまち現場から干されてしまいます。

それから数年の間、英語の勉強を続け、一流ホテルなど英語力を活かせる仕事に何度か応募したものの、学歴がネックになって、なかなか思うように行きません。

昨年の今頃、私がたまに利用しているレンタカー会社の部長さんと雑談していて、彼もリゼ県の出身でタフシンの直ぐ近くに住んでいることが解ったので、ちょっとタフシンについて尋ねてみると、「タフシン? 知らないなあ。同郷といっても、あの街区に住んでいるのは殆どリゼ県の出身なんだ。皆、知り合いになれるわけないよ」と言われてしまったけれど、英語が話せる人は会社で必要だから、是非、面接に来てもらいたいそうです。

早速、タフシンに連絡して勧めたものの、暫く経っても音沙汰がないので、また部長さんにどうなっているのか訊いてみたら、「ああ、あなたの友達ね。この前、アポも取らずにいきなり来たんですよ。それがまた忙しい時だったから、履歴書のフォームを渡して書くように言ったら、気分悪くしたのか、そのまま出て行ってしまったよ。残念ですが・・・」という話。がっかりしながら、タフシンに電話すると、「面接には行ったが、俺のことなんか全く構ってくれなかった」と不貞腐れていました。

これでは、なかなか巧く行きません。困ったもんだと思っていたら、3ヵ月ほど前、タフシンが元気そうな声で電話してきて、なんでもトルコ航空に採用され、アタテュルク空港の国内線で働き始めたと言います。

先日、アタテュルク空港に出掛けたおり、タフシンとちょっと会ってきました。トルコ航空のパリッとした制服を着て、とても張り切っているようでした。国内線とはいえ、英語は所々必要になるため、ある程度、その英語力を発揮できる場面もあり、なにしろ頭が良いから、あっという間に仕事の要点を抑えてしまい、既に責任者として一部署を任されているそうです。

数年に亘って不遇をかこち、『なんでトルコへ戻って来たんだ?』と、一時期、大分不貞腐れていたけれど、今は明るい表情で張り切っています。私も何だか嬉しくなりました。




7月4日 (日)  実業家の“心遣い”

2007年1月3日(水) 犠牲祭の思い出
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=1

上記の“便り”にも記した2000年の犠牲祭に黒海地方オルドゥ県を訪れた時の話です。

小・中学校の教員をしている友人は、奥さんの実家がある山間の街(クムル)を案内しながら、街角で出会った高校時代の同級生であるという人物を私に紹介してくれました。友人の話によると、彼は同級生の中で、最も成功した実業家であり、黒海地方特産のへーゼルナッツの加工や輸出を手掛けて相当な財を成したそうです。

やはり犠牲祭の為に帰省中だった彼は、同級生である友人との出会いを喜び、暫くの間、私たちと連れ立って街を歩いたけれど、大成功した実業家という話が俄かには信じられないくらい腰が低くて庶民的な雰囲気でした。

途中、友人が開店間もない雑貨屋へ立ち寄って、開店祝いなどを述べていると、雑貨屋さんは林檎をいくつか差し出しながら、「これ、親戚の庭で採れたもので、とても美味しいんですよ」と私たちに勧めます。しかし、友人は「林檎は結構ですよ。荷物になるし」とにべもなく断り、雑貨屋さんが「うーん、この林檎、美味しいんですがねえ」と残念そうに言っても、「いりません」を繰り返すばかり、私もこのやり取りをボンヤリ眺めていました。

すると、そこへ実業家の彼が進み出て、「せっかくだから頂きましょう。そこのナイフを貸して下さい」と頼み、ナイフを受け取ると、その場で器用に林檎を切り分けて皮を剥き、友人や私にも配ってから、一口頬張って、「うん、本当にこの林檎は美味しいですね」と満面の笑みを浮かべて見せたのです。雑貨屋さんも、これにはとても喜んで破顔一笑、それからお互い楽しく四方山話に花を咲かせました。

まあ、何処の国でも、実業家として成功する人の“心遣い”は、それほど変わらないかもしれません。



7月10日 (土)  サビハギョクチェン空港

先日、イズミルへ飛ぶ為に、アジア側のサビハギョクチェン空港を利用したら、新築のきれいな空港ビルになっていました。

国際線と国内線の共用なっていて、国際線のエリアは、未だ発着本数が少なく、人影もまばらでしたが、国内線の方は御覧のように、かなり賑わっています。

イスタンブールのメイン空港であるヨーロッパ側のアタテュルク空港も、国内線は古い建物を使っていて、こちらより少し見劣りするかもしれません。

現在、アジア側に住んでいる私にとって、アタテュルク空港は距離的に少し不便なので、日本へここから飛べる日を夢見ながら、一人ではしゃいでいました。

しかし、明日はどうなるとも知れない浮草暮らし、はしゃいでみたところで、次はいつこの空港を利用できるのか解ったものではありません。

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7月11日 (日)  ボズジャアダ(ボズジャ島)でホメロスを読む会

2009年7月11日(土) ボズジャアダ・テネドス島でホメロスを読む
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2009&m=7

“ボズジャアダ(ボズジャ島)でホメロスを読む会”、実を言うと、昨年はイスタンブールから島への往来をジャーナリストのハールク・シャーヒンさんの車に同乗させて頂いたばかりか、島での宿泊から飲食まで全てシャーヒンさんのお世話になってしまいました。その時は、「来年こそ経済的な余裕を手に入れて自費で参加しよう」と固く心に決めていたのに、何の経済的な進展も見られないまま、あれよあれよという間に一年が過ぎてしまい、結局、参加しませんでした。

昨年のように島で三泊もせず、一泊して“読む会”だけに参加すれば、それほどの負担でもなかったでしょう。良く考えたら、何だか礼節を欠いてしまったようで、非常に情けなくなりました。いつもケチなことばかり考えているうちに、心まで貧しくなってしまったようです。正常な判断が効かなくなっているかもしれません。

以下は、昨日の開催式におけるシャーヒンさんのスピーチだそうです。アップしてから読み返したら、もっと巧い訳がつけられないものかと思い、またまた情けなくなりました。

【240】変わりゆくボズジャアダ【ラディカル紙】【2010.07.11】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00240.html


7月12日 (月)  鶏の丸焼き

アンカラはウルス地区にあるレストラン“ウーラク”、鶏の丸焼きが名物です。先日、アンカラへ出掛けた折に寄ってきました。

この店を初めて訪れたのは、91年の夏だったと思います。当時、滞在していたイズミルから、アンカラとイスタンブールを巡るトルコの国内旅行を楽しんでいる時でした。

先日もイズミルからアンカラへ入って、これは91年の夏と変わりませんが、バスが飛行機になってしまったり、ウルス地区の宿のグレードが少し上がったり、所々に歳月が感じられます。

“ウーラク”には、昨年も一昨年も寄りました。おそらく、91年以来、アンカラへ来る度に寄っているのではないでしょうか。いつも、あの辺の宿に泊まっているし、手頃な値段でビールが飲めるということもあるけれど、“ウーラク”で鶏の丸焼きを食べるのは、私にとって、既に“アンカラへ来た時の儀式”になっているかもしれません。鶏の丸焼きは別に珍しいものじゃないし、この店が特に美味かったりするわけでもないのに、ここで丸焼きをつまみながらビールを飲んでいると、妙にアンカラを実感できるのです。

多分、周囲の様子が少しずつ変わって行く中で、“ウーラク”だけは店の雰囲気が何処となく昔のままだからでしょう。とてもノスタルジックな気分に浸れます。

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7月13日 (火)  イスタンブールの地下鉄

イスタンブールの地下鉄ですが、以前は、左写真のように向かい合った4人掛けの席が多かったりして、乗車率はかなり低そうでした。

写真の車両、製造は、ボンバルディア・トランスポーテーション社で“メイド・イン・オーストリア−ウィーン”と表示されています。しかし、人口の少ないウィーンなら、これで良いのだろうけれど、1千万大都市のイスタンブールには、ちょっと向いていないかもしれません。

最近は、右写真のような車両も導入され、新市街を走る路線は全てこれに入れ替わったようです。製造者の表示を見たら、韓国の現代ロテムとなっていました。現代ロテムは、トルコ企業との合弁により、近々、トルコで高速列車の生産を始めるそうです。

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7月14日 (水)  市バスでの出来事

先日、市バスに乗っていた時のことです。ハイソな地区を走る路線なので、品の良い乗客が多かったけれど、私の隣に立っていた60歳ぐらいの女性は、ハイソな雰囲気を漂わせながら、携帯電話を手にしたまま、ずっと話し続けていました。

別に聞き耳を立てていたわけじゃありませんが、大きな声で話しているから、所々、どういう話なのか聞こえてしまいます。病院に連れて行くとか、薬はどうするとか、そんな内容でした。

周りの乗客たちは、もちろん余りいい顔をしていません。女性の向こう側の隣に立っていた青年も、『やれやれ』といった表情を浮かべていました。この青年は、膝ぐらいまでの洒落たズボンを穿き、耳に大きなピアスなどして、なかなか気障な兄貴です。

そのうち、話の内容に興奮した女性の声は一段と高くなり、ついに堪えかねた同年配の女性が注意を促しました。

「貴方たちだけが解るように話したらどうですか?」
「緊急の要件なんです!連絡しなければならないことがあるのよ!」
「だから、話すなとは言ってないでしょ? 小さな声で話せませんかと言ってるんです!」

これで、さすがに女性の声は少し低くなったけれど、まだまだ延々と話し続けるので、私はなるべく気にしないよう、外の景色を眺めていました。

暫くして、「パルドン!(ちょっとすみません)」という女性の声に振り返ると、彼女は携帯を口元から外して、私の顔を窺っているから、どうやら私に呼びかけたようです。『えっ?』と思いながら、次に何を言い出すのか構えたところ、彼女はごく当たり前な調子で、「ペンありませんか?」とのたまわりました。

私がカバンからボールペンを取り出して手渡すと、彼女は手にしていたメモ帳をバスの窓枠のところに押し付け、携帯で聞き出している電話番号等を書き取ろうとするものの、なかなかメモ帳を固定できずに悪戦苦闘していたら、ちょうどその時、例の気障な兄貴がすっと手を差し伸べて、メモ帳を押さえてあげたのです。

兄貴はメモ帳がぶれないようしっかり押さえながら、ちらっと私の方を見て、あの気障な様子からは信じられないくらい、自然にニコッと微笑みました。まあ、見かけはともかく、気立てが優しい青年だったのでしょう。私も思わず心が和み、何だか得をした気分でした。



7月16日 (金)  タクシムモダ・カフェ

イスタンブールのタクシム広場に面した一角にある“タクシムモダ・カフェ”。1ヵ月の間に、どのくらいこの前を通り過ぎるのか分からないほど見慣れた一角ですが、もう久しく利用していないような気がします。最後にここでお茶を飲んでから、既に5〜6年経つかもしれません。

しかし、クズルック村の工場にいた頃は、イスタンブールへ出て来ると、よくこのカフェで寛いだりしていました。タクシムの辺りをブラブラしてから、ここでお茶を飲むのは、なかなか贅沢な気分でした。2001年〜2002年にかけてのことです。

当時は、トルコ・リラのレートも低かったので、ドルや円で考えれば、カフェの値段はかなり割安に感じられたから、バックパッカーの旅行者たちもここを訪れていたけれど、物価が上がった今のイスタンブールでは、そもそも長期滞在しているバックパッカーなど殆どいないでしょう。

この10年で、トルコの経済は目覚しい発展を遂げました。しかし、私の懐具合は一向に変わらないため、私にとっては色んなものが割高に感じられるようになっただけかもしれません。このカフェの前を通るたびに、嬉しいような悲しいような矛盾した感慨にとらわれてしまいます。


TAKSIMODA CAFE
http://www.taximhill.com/taximoda.html

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