Diary 2010. 6
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6月4日 (金)  トルコとイスラエル:ガザの事件

ガザへ救援物資を運び込もうとした各国運動家の船団が、公海でイスラエル軍による攻撃を受け、死傷者を出しながら制圧された事件は、死傷者の大部分がトルコ人であった為、トルコでは連日大きく報道され、街頭へ繰り出した人々もいたようです。

過激な内容の報道もあり、リベラル派の民主主義者と言われるメフメット・アルタン氏は“戦争も辞さず”といった論調の記事をスター紙に書いていたけれど、ラディカル紙のテュルケル・アルカン氏は、「かつて“良心に基づく兵役拒否”を主張していたアルタン氏が何を言うのだろう?」とこれを批判していました。

また、トルコから救援活動に参加していた人々の殆どが熱心なイスラム教徒であり、航海の違法性も指摘されていたため、一部の左派は冷ややかな対応を見せているものの、左派の第一野党CHPは、AKP政権と同様にイスラエルを厳しく非難しています。

しかし、イスラエル軍による襲撃を厳しく非難したエルドアン首相も、矛先をイスラエル国家そのものに向けることは極力避けて、非難を現イスラエル政権に集中させていたようです。

それから、今日のミリエト紙の報道によると、大きな勢力を持つイスラム教団の指導者フェトフッラー・ギュレン師は、ウォール・ストリート・ジャーナルに掲載された談話で、救援物資を運ぶ船団がイスラエルの許可を得ていなかった点を批判して、これを「良い結果が生じないやり方で権威に反抗した」と論じたそうです。


【230】本当の戦い【ラディカル紙】【2010.06.02】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00230.html

【231】トルコの対イスラエル外交【ミリエト紙】【2010.06.04】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00231.html


6月10日 (木)  パレスチナ人の工場長

先月、イスタンブール市内で、中堅財閥が経営する工場を訪れる機会があったけれど、案内してくれた40代前半ぐらいの工場長は、トルコ国籍を取得したパレスチナ人でした。

どういう経緯でいつトルコへ来たのか聞きそびれてしまいましたが、そのトルコ語は非常に流暢で、私の下手なトルコ語とは比べ物にならないものの、多少、ネイティブにはない訛りがあります。おそらく、トルコの大学に留学し、それからトルコで生活するようになったのではないでしょうか。

91年、私がイズミルのエーゲ大学にあるトルコ語教室で学んでいた頃、キャンパスにはたくさんのパレスチナ人留学生がいました。彼もそんな留学生の一人だったかもしれません。とても感じの良い人物で、工場の作業員たちからも慕われているようでした。

この財閥系企業は、安価な労働力を求めて海外に進出しており、彼も管理者としてエジプトとバングラデシュの工場へ出向していたそうです。

エジプトからアメリカへ輸出すると関税が低くなる為、生産拠点をエジプトに作っているトルコ企業の話は他所でも耳にしたけれど、パレスチナ人の彼は、エジプト人を“怠け者”であると言って、こてんぱんに貶していました。「バングラデシュの人たちの“のんびり”には人の良さが感じられるし、仕事はちゃんとやってくれる。でも、エジプト人の“のんびり”は怠けているだけだ」と言うのです。パレスチナ人の彼にしてみれば、エジプト人はアラブの同胞であるはずなのに・・・。

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【232】アラブ諸国はイスラエルを必要としているのか?【ラディカル紙】【2010.06.05】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00232.html

今日のミリエト紙のインターネット・ニュースによると、エルドアン首相はハマスとファタハの仲介役に名乗りを上げていたものの、ハマス側が「仲介役はエジプトだけで良い」と言って、これを拒否したそうです。国連では、トルコとブラジルの尽力の甲斐も無く、イランへの制裁が決議されてしまうし、これからいったいどうなるのでしょうか?


6月11日 (金)  しょうもない東洋人の親子

91年の4月に初めてトルコへ来て、翌92年の5月までイズミルに住んでいた頃は、3ヵ月の滞留期間が切れる度に、キオス島というエーゲ海に浮かぶギリシャ領内の島へ往来していました。

それこそ数え切れないくらい島へ往来した印象があるものの、良く考えてみると、一年間なら滞留期間の延長は4回で済んだはずです。その内、一度はクシャダスからサモス島に渡っているので、キオス島へ渡ったのは3回だけだったでしょう。なんだか意外な気がしました。

島へ往来するのは、滞留期間の延長が目的だから、朝の船で島へ渡り、夕方、同じ船で戻ってくるのが常だったけれど、92年の4月だったか、キオス島へ渡った船が、天候の悪化で、その夕方トルコへ戻れなくなり、仕方なく島内で一泊したことがあります。

この時は、同じ船にハンさんという顔見知りの韓国人が乗っていました。ハンさん、当時、65歳ぐらいだったでしょうか。イズミル市内のカルシュヤカにあった韓国料理屋の店長をしていたけれど、長期滞留許可は持っていなかったようです。

ハンさんとは、いつも韓国語で話していましたが、日本統治時代に育った方だから、日本語もかなりお解かりになっていたと思います。「日本語は解るんだが、余りにも長い間使っていなかったので、思うように口から出てこない」と残念そうでした。

キオス島の船着場で、夕方、ハンさんや他の乗客たちと出航を待っていたところ、トルコ人の船長から欠航を知らされました。翌朝9時に延期されたのです。船長に訊いたら、彼や船員たちが泊まる安いホテルが近くにあるというので、ハンさんと一緒について行き、結局、二人で一部屋に泊まって、寝る前に酒を飲みながら語り合いました。

翌朝は、電話の音で起こされました。ハンさんが電話に出て、少しトルコ語で話してから切ると、「大変だ。もう時間だって、船長が電話してくれたよ」と言いながら、窓の雨戸を開けたところ、もうかなり高くなった日の光が眩しいくらいに差し込んで来ます。この雨戸が全く光を通さなかったものだから、部屋は真っ暗で二人とも寝過ごしてしまったのです。

慌てて、船着場まで小走りに走っていったら、欧米人の他の乗客たちが恐い顔して私たちを出迎えてくれました。でも、トルコ人の船長と船員たちは、一応小言を言いながらも、それほど嫌な顔付きじゃありません。船員の一人は、「なんだよ、お父さんも起きなかったのか?」と笑っていました。『しょうもない東洋人の親子だなあ』と思ったのでしょう。

最近になって、この話を日本人の友人に話したら、「トルコの人たちはやっぱり優しいなあ。日本だったら、船は絶対に待ってくれませんよ」と言われてしまいました。確かにそうです。この優しさにはもっと感謝しなければいけないような気もするけれど、トルコで暮らしていたら、これに慣れてしまっているかもしれません。



6月12日 (土)  韓国〜ベトナム〜イラン〜トルコ

ハンさんは95年頃に韓国へお戻りになったと聞いています。まだお元気でいらっしゃるでしょうか? 

ハンさんの人生は、なかなか波乱万丈だったようです。なんでも75年のサイゴン陥落までは南ベトナムで仕事をしていて、その後はイランへ行き、ホメイニの革命後も暫くイランに留まったものの、結局、仕事にならず、トルコへ渡って来たとお話になっていました。

92年にイスタンブールへ越してから、キム・ドゥギョンさんとおっしゃる韓国の方とも知り合りましたが、この方も全く同様に、ベトナム、イランを経てトルコへやって来たそうです。

キムさんは、ハンさんより少し年上じゃなかったかと思いますが、かなり歳の離れたベトナム人の奥さんと、その間に生まれた二人のお子さんがいました。ベトナム語もお話になっていたけれど、なにしろ日本語が大変流暢で、殆どネイティブではないかと思えるほどでした。

「日本へ行かれたことがありますか?」と尋ねたら、「いや一度もないんです。行ってみたいですねえ」とお答えになったので少々驚かされました。

それから、99年に、また5ヵ月ほどイズミルで暮らした折に、一度、キオス島へ渡って滞留期間の延長を図ったのですが、この時は、キオス島でホテルを経営している韓国の方を訪ねてみました。イズミルの韓国の人たちからホテルの場所等を聞いていたのです。

キオス島では、かなり大きいホテルらしく、タクシーの運転手に名前を告げたら、直ぐに連れて行ってくれました。この韓国の方は、ハンさんより一回り若いように思えたけれど、驚いたことに、やはりベトナム、イラン経由でした。まあ、終着駅は少しずれていますが・・・。

この三人の韓国の方が、何故、ベトナムとイランで仕事されていたのか、詳しい話は伺いませんでしたが、アメリカとは何か関係があったように思います。しかし、ベトナムではサイゴン陥落を前に脱出したと言うものの、イランではホメイニの革命後も少しイランに留まっていたようで、この辺りの事情が良く解りません。

皆さん、日本について恨みがましいことは全く口にされていなかったけれど、朝鮮戦争にベトナム戦争、まさしく冷戦の矢面に立たされ続けた人生であり、その間、ぬくぬくと高度成長に浸っていられた日本人に良い感情を持つのは難しいような気もします。



6月14日 (月)  ベトナムからイラン、トルコへ・・・

先日のベトナムとイランを経由してトルコへ渡ってきた韓国の人たちの話ですが、昨日、イスタンブール在住の日本人女性と雑談していたら、この方もキム・ドゥギョンさんとお知り合いだったことが解りました。私よりもっと近い付き合いをされていたようです。しかし、5年ぐらい会っていないので、今どうされているかは知らないという話でした。

私も最後にキムさんにお目にかかったのは5年ぐらい前だったでしょう。それも街角で二言三言挨拶を交わしただけです。息子さんとは、3年ほど前に会って、その変貌にちょっと驚いたことがあります。

私がキムさんやその家族と良く会っていたのは92年から94年にかけてで、息子さんはその頃、エティレルにあった韓国カラオケでバーテンをしていました。19歳ぐらいだったでしょうか。凄くハンサムで、韓国の若者らしく年上の人間にはやたらと礼儀正しかったけれど、ちょっと突っ張った不良っぽいところがあり、ロックを英語で歌ったりすると、なかなか様になって格好良かったです。それが、3年前に会った時は、荒々しい角が取れていたうえ、少し太った所為もあって何だか随分丸くなったように感じられました。彼は韓国で兵役を済ませ、韓国企業のトルコ支社長に収まっているそうで、お父さんのキムさんも元気であるという話でした。

日本人女性の話によれば、キムさんは、イランにいた頃、日本企業に勤務して結構羽振りも良かったのに、トルコへ渡って来た時は、既に60歳を越えていたので、適当な仕事が見つからずに苦労したものの、息子さんが韓国人女性と結婚した際には、数十年ぶりで韓国へ帰国し、サイゴン陥落のどさくさで行方不明者にされてしまった自分の墓を見て驚いたそうです。

また、日本統治時代の子供の頃、日本人からとても親切にされて良い教育を受けたので、何とか日本の人たちへ恩返しがしたいと仰って、この日本人女性に親切にしてくれたと言います。私はキムさんと韓国語で話したりしていたから、日本人とは思われていなかったのでしょうか。こういった話は伺いませんでした。



6月15日 (火)  今はもう夏、誰もいない海?

先週の土曜日、ビュユック島の海辺で初泳ぎして来ました。ビュユック島へは、イスタンブール市内アジア側のボスタンジュからも船が出ていて、30分ほどで渡ることができます。

ビュユック島
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=8

この海辺は、ビュユック島の主だったビーチから少し離れていて、一昨年までは何の整備もされていない代わりに、藪の中の小径を下りて海岸に出れば只で泳ぐことが出来たし、ムール貝も採り放題でした。

ところが、昨夏の途中から小径や海岸を整備し始めたと思ったら、周囲をフェンスで囲い、料金を徴収するになったのです。それでも、昨年は7リラというのを3リラに負けてもらったのですが、土曜日に出かけて見たところ、さらに整備が進み、海岸には脱衣所やシャワー、トイレまで設けられて、料金は15リラに上がっていました。

今度も何とか交渉したら、5リラに負けてくれたけれど、これは未だシーズンが本格的に始まっていなかったからでしょう。整備された海岸は、御覧のように人っ子一人いませんでした。

まあ、金を払わなければ泳ぐこともできない世の中になったようです。

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6月16日 (水)  殉教

イスタンブールは先週あたりから急に暑くなりました。夏好きの私でも少し暑いと感じるくらいだから、暑がりの人は大変でしょう。6月のイスタンブールとしては、例外的な暑さじゃないかと思います。

周囲のアパートを眺めてみると、窓を締め切っている家も少なくないけれど、冷房を入れているのでしょうか? 我が家には、もちろん冷房なんてありませんが、さきほど熱いウドン(麺はスパゲッティ)をパンツ一丁でふうふういって食べたら、大汗かいて少し涼しくなったようです。暑気払いはこれに限るかもしれません。

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新聞記事の訳、最近なんだか同じ方のコラムばかり取り上げているような気がして、今日はこれまで余り目を通してこなかったヒュリエト紙のコラムもいくつか読んだものの、結局、いつものようにラディカル紙からハールク・シャーヒンさんのコラムを訳して見ました。

この記事の最後のところで、ガザへ救援物資を運ぶ活動に参加して殺されてしまった17歳の高校生が、事件の直前に書いた日記の一部が紹介されているけれど、どうもこういう話には弱いです。ちょっと目頭が熱くなってしまいました。

「殉教の安らぎが近づいています。これ以上美しいことがあるでしょうか? あるとしたら、お母さんだけです。でも、これには私も確信が持てません。この二つを比較するのはとても難しい」。


【236】トルコは危険な領域に入った【ラディカル紙】【2010.06.16】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00236.html


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以下も最近訳した記事です。

【235】中東か? 西欧か?【ミリエト紙】【2010.06.14】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00235.html

【234】トルコの外交軸はずれたのか?【ミリエト紙】【2010.06.13】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00234.html

【233】自主独立のトルコ?【ラディカル紙】【2010.06.12】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00233.html


6月17日 (木)  キム・ドゥギョンさん/イランに行った韓国の人たち

韓国からベトナムとイランを経てトルコへ渡って来たキム・ドゥギョンさん。

キム・ドゥギョンさんがどうしていらっしゃるのか気になったので、韓国の方に御消息を尋ねてみようと、今日、市内のタクシムにある韓国料理店“Gaya Restaurant”へ行ってきました。

このレストランは、私が91年のイズミル以来、とてもお世話になっているキム・サンジンさんとイ・ヨンヒさんの御夫婦が経営しています。こちらのキムさんは私より少し年上で、もともと、韓国の大手家電メーカーがトルコの会社と合弁でイズミル近郊に設立した現地法人の副社長として赴任しましたが、その後、社を辞してトルコへの半ば永住を決意したのです。

奥さんのイ・ヨンヒさんは私と同い年で、如何にも韓国の人らしい率直な朗らかさの中に、何処となく育ちの良さが感じられます。今日の昼過ぎ、私が連絡もせず、久しぶりにレストランへ立ち寄ったところ、何だかとても喜んでくれて、「食事未だでしょう? さあ、今日は何か食べて行きなさい」とビビンバをご馳走してくれました。いつもこうやって世話になりっぱなしです。

食事が済んでから、キム・ドゥギョンさんについて尋ねると、少し驚いたように「えっ、知らなかったの?」と私の表情を窺いました。

「亡くなりましたよ。もう2年ぐらいになるんじゃないかしら?」

3年ほど前に、私が息子さんと会ってから、いくらも経たない頃のようでした。よく解らないけれど、結局、日本へは行かずじまいだったのではないでしょうか。私にもっと甲斐性があれば、日本へ御案内できたのにと思い、とても残念です。

それから、イ・ヨンヒさんに、韓国の人たちがイランへ行った理由を訊いてみました。

「革命前のイランは、とても商売になったからでしょう。あの頃は、建設や土木工事のプロジェクトが多くて、現場労働者も韓国から大勢行ってましたよ。ほら、イズミルにいたキムチのおばあちゃん知らない?」

「キムチのおばあちゃん?」

「ハンさんの韓国料理屋にも良く来ていたのにね。会わなかったかしら。あのおばさん、トルコに来る前は、イランでキムチ売っていたのよ。それから、貴方も良く知っているでしょう? イスタンブールで旅行会社やっているユンさん。彼もイランからトルコへ来たの。イランでは韓国のテレビ番組のビデオを貸し出したりしていたそうですね。革命以降、出稼ぎの労働者たちはビデオ見るぐらいしか娯楽がなかったから」。

70年代〜80年代の韓国は、中東のアラブ諸国で建設工事のプロジェクトを受注すると、労働者も韓国から送り込んだため、出稼ぎを志願する韓国の男たちは、アラブ諸国が出すビザの発給を容易にしようと、こぞってイスラムに改宗したという話は聞いていたけれど、これは何もアラブ諸国に限った状況ではなかったようです。

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6月18日 (金)  トルコでも韓流!

昨日は、サッカーのワールド・カップで、韓国とアルゼンチンの試合がありました。イ・ヨンヒさんは、私がそれを承知で訪ねてきたと思ったようです。

「2時半に始まりますよ。皆、テーベク・レストランに集まるから、私たちも行きましょう」

テーベク・レストランもタクシムにあり、レストランの下はカラオケ・バーになっていて、このカラオケ・バーは、やはりイズミルで知り合った韓国人の友人チェさんが経営しています。

2時15分ぐらいに、ヨンヒさんとテーベク・レストランへ赴いたところ、店の外に大画面のテレビが設置されていて、もうたくさんの人が集まっていました。その中にはチェさんもいたけれど、サッカー音痴の私が来たので、彼は驚いていたかもしれません。

チェさんは、カラオケ・バーの営業を他人に任せたまま、今でもイズミルに住んでいますが、今回は別の用事があってイスタンブールに来たそうです。

Taksim karaoke bar
http://www.karaoketaksimbar.com/

トルコ人のサポーターもたくさん来ていました。試合が始まる前から、韓国の国旗を振ったりして盛り上がっていた女性たちに、なんで韓国に興味を持ったのか尋ねたら、きっかけは韓流ドラマだったと言います。

国営放送のTRTで韓流ドラマが放映され、すっかりファンになった彼女たちは、インターネットでも字幕付きの韓流ドラマを観ているそうです。感情の表現がやたらと大袈裟だったりして、私はどうも韓流に抵抗を感じるけれど、トルコの人たちのメンタリティーにはピッタリかもしれません。

肝腎の試合のほうは、韓国が4対1で負けてしまいました。韓国のゴールが決まった瞬間は大騒ぎになったものの、私は自分も浮かれてシャッターチャンスを逃してしまい、それからずっとカメラを手にして応援したのに、結局、次のゴールはありませんでした。

23日のナイジェリア戦でも再びここに集まるそうです。

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6月19日 (土)  韓国人のアイデア

今日、カドゥキョイの船着場近くに開設されているバザールを覘いていたら、ネクタイを売っているおばさんに呼び止められ、「韓国人ですか?」と訊かれました。

「いや、日本人なんですが・・・」
「そう、このネクタイは韓国人のアイデアなんで、もしやと思って訊いたんですよ・・・」

おばさんが売っているネクタイ、良く見ると、最初から結んだ形に作られていて、そのまま首に掛けられるよう伸び縮みする輪っかが付いています。これなら、いちいちネクタイを結ばなくても済むけれど、結び目の形を変えることはできません。

「これ、何処で作っているの? 韓国?」
「いや、イズミルですよ。韓国の人がやっています」
「キム・ジェスさん?」
「えっ、キムさんを知っているんですか?」
「そりゃ、私もイズミルに住んでいましたから」

ここのところ、何だか韓国の人たちとの縁が深くなっているようです。キム・ジェスさんとは、やはり91年にイズミルで知り合いました。以下の“便り”などに出て来るドンギョンさんの伯父さんにあたります。

なんと素晴らしい一日
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=9

その頃は、テレビの画面に取り付けるフレームなどを製造していました。この仕事が巧く行かなくなると、何度かアイテムを変えながら再起を図ったようです。いつ頃から始めたのか知りませんが、「ネクタイを製造している」という話は、4月にイズミルへ行った時、チェさんから聞きました。

しかし、このネクタイのアイデア、キム・ジェスさんの発案なんでしょうか? それとも、韓国でこういうネクタイを作っているところがあるんでしょうか? 韓国でこんなネクタイが流行るとは思えんのですが・・・。

トルコには、ネクタイ結ぶのを面倒ぐさがる人が多いし、中には自分で結べない人もいるから、このアイテムは巧く行くかもしれません。

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