Diary 2010. 2
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2月2日 (火)  ディミトリー君の国籍は?

あっという間に2月になってしまいました。先週、イスタンブールは数年ぶりと言われる大雪で一面銀世界となっていたけれど、その雪も数日の内に融け、もう跡形もありません。トルコや日本の社会を煩わす様々な問題も、この雪のようにすーっと融けてしまえば良いのですが・・・。

日本では、近頃、そういった問題の一つとして、外国人参政権であるとか、国籍取得の是非が議論されているようなので、今日は、最近、身近に起こったトルコの国籍問題をお伝えすることにします。

度々話題にしている故マリアさん家族のディミトリー君は、マリアさんが亡くなった後、大学進学を諦めて暫く働いていましたが、亡きマリアさんの友人で、やはりマリアというお名前の老婦人が学費を援助してくれることになり、現在は大学の受験を目指して勉強中です。

ディミトリー君の父親はギリシャ国籍のギリシャ人であり、彼はアテネに生まれ、幼い頃をイスタンブールで過ごしたものの、中学校までは親戚が暮らすギリシャのロードス島で学びました。その後、本人の希望でトルコ国籍を取得して、イスタンブールにあるギリシャ系正教徒の民族高校へ進み、ここを卒業したけれど、ギリシャの国籍を失ったわけではありません。トルコとギリシャ、双方の国籍を持っています。

ギリシャの大学では、イスタンブールの民族高校卒業者に特別枠が与えられていて受験が容易になるらしく、マリアさんも母のスザンナさんも、ディミトリー君がギリシャの大学へ進学することを望んでいましたが、もともとイスタンブールへ来たのはディミトリー君本人の希望であり、さらにトルコ人の彼女も出来たので、彼は何とかイスタンブールの大学へ進学したいそうです。

この場合も、単なるギリシャ国籍者なら、留学生枠が使えるから受験は容易になるものの、ディミトリー君にはトルコの国籍もあるため、正規の入学試験を受けなければなりません。それで、彼らが、今、何の手続きに奔走しているのかと言えば、それはトルコ国籍の抹消です。これによりギリシャ人留学生としての入学が可能となります。

国籍とはいったい何なのか良く解らなくなってしまう話じゃないでしょうか。

2005年頃だったか、ギリシャのアレクサンドロポリスからイスタンブールへ戻るバスの中で出会った青年は、ギリシャ国籍のトルコ人と言い、普通にトルコ語を話していたけれど、幼い頃、両親と共にドイツへ渡り、殆どドイツで暮らして来たため、ギリシャ語は全く解らないという話でした。まあ、トルコでも南東部へ行けば、トルコ語が殆ど解らないクルド人のトルコ国民もいるだろうから、大陸の国々で、こういうのはそれほど珍しい話じゃないかもしれません。

また、トルコで、故マリアさん家族のようなルームと言われるトルコ国籍のギリシャ人や、トルコ国籍のアルメニア人は、それぞれの民族学校で、ギリシャ語やアルメニア語によって授業を受けることができます。しかも、これらの民族学校は公立であり、トルコ政府の予算で運営されているのです。

しかし、それならトルコ共和国で、ギリシャ人やアルメニア人が平穏に暮らして来たのかと言えば、決してそんなことはありません。摩擦や衝突の連続でした。ギリシャ人は、当初、25万人いたと言われているのが、既に2000人を割ってしまったのです。

多様な文化を有する人々が、仲良く一つの社会で暮らして行けるとしたら、こんなに素晴らしい話はないものの、以下にも記したように、それは容易なことじゃないでしょう。

2008年10月4日(土) 多様性は豊かさなのか?
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=10

日本の外国人参政権についてですが、在日コリアンに参政権が付与されれば、それで在日の問題は解決されるのか、私には疑問に思えてなりません。コリアンはいつまで“在日”として存在し続けなければならないのでしょうか? トルコ国籍のギリシャ人は、その殆どがギリシャへ渡ってしまいましたが、在日韓国人の多くは韓国語が話せないから、今更、韓国へ渡るのは難しいような気がします。

在日朝鮮人の場合は? あの国へ渡れなんて余りにも残酷です。在日朝鮮人の方たちは口が裂けても言えないだろうけれど、北帰者は、日本に残った家族にしてみれば、人質に取られてしまったようなものでしょう。

この問題は、もともと日本が朝鮮半島を36年間統治したことに起因しているから、二重国籍を認めるのが良いのではないかとも考えられますが、参政権でさえ、あれだけ反対の声が上がっているのに、今のところ、あまり現実的な案とは言えないかもしれません。もう少し時間をかけて解決を図らなければならない問題じゃないかと思います。


2月3日 (水)  侵略して良かった?

昨日、“社会を煩わす様々な問題も、この雪のようにすーっと融けてしまえば良い”と書いたら、晩からまた雪が降って、イスタンブールは今日も雪景色です。やっぱり問題はそう簡単に解決しないということでしょうか。

2009年12月27日(日) GHQ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2009&m=12

上記の“便り”に記した在韓華人の友人は、高校まで、ソウルの華人学校で学び、台湾の一流大学を卒業(中退だったかもしれません)した後、ほぼ就労目的で日本の専門学校へ留学したのではなかったかと思います。滞在期間を延長するために、色々な専門学校へ登録したから、「俺は本当なら、カメラとか美術とか色んなものを学んだはずなんだか、何一つできないんだよな」と笑っていました。

友人のお父さんは、日本統治時代に満州から朝鮮へ移住したようです。その頃、日本の国籍を持っていたのかどうか良く解りませんが、二度ほど、私たちの前で「日本の歌を歌います」と仰って、朗々と“君が代”を歌ったことがあります。

友人は、88年の末に、日本で知り合った台湾人の女性と結婚し、年明けに韓国でも結婚式を挙げるというので、当時、韓国に留学していた私は、滞在期間を少し延ばして、友人の結婚式にも参列しました。

台湾人女性も日本に留学していたから、友人ほど流暢ではなかったものの日本語が話せたし、結婚式の為に韓国を訪れた女性の父親は日本統治時代に役人として働いたこともあるという方で、台湾語の他、普通に日本語をお話しになるものの、本当に話せないのか、話したくないだけなのか、北京語は一切話そうとしませんでした。この為、新郎新婦の家族が一堂に会した時は、結局、日本語が共通語になっていたのです。

結婚式の後、ソウルの下宿に帰って、韓国人学生にこの話をしたら、「やっぱり侵略はしてみるものですねえ」と何だか感心したように話していたけれど、あの“侵略”は、未だに解決できない様々な問題を残しただけで、日本にとっても良いことなど全くなかったのではないでしょうか。

韓国にとっては、もちろん屈辱的な歴史に違いないはずですが、韓国の識者の中には、「当時、朝鮮が中国への事大を続けていたら、もっと大きな混乱へ巻き込まれたかもしれないし、ロシアへ事大した場合、結果的に全土が共産化した可能性もある」として、日韓併合はそれほど悪い選択じゃなかったと主張する人もいます。

こういった意見を取り上げて、「日本は余り悪いことをしていなかった」と言う日本人もいるようですが、少し見方を変えれば、日本は朝鮮の事大主義に巧く利用されてしまったということかもしれません。

挙句の果て、日本はアメリカに叩きのめされ、韓国と共にアメリカへ事大しなければならなくなりました。以来、双方で“反日”とか“嫌韓”などとやり合っているものの、何となくアメリカの手のひらで踊らされているだけのような気もします。

あの“便り”には、“在日コリアンの処遇にも、GHQの関与があったのではないか”と良く解らない話を書いてしまいましたが、昨日お伝えしたトルコにおける“ギリシャ人とアルメニア人の処遇”は、ローザンヌ条約によって西欧から押し付けられたものです。

ローザンヌ条約で西欧から認知されたトルコ共和国は、暦法を西欧式に改めるなどして、イスラムの歴史から抜け出て、西欧の流れに加わろうとしました。日本もやはり明治維新で暦法を改め、西欧史の流れに身を置こうとしたけれど、韓国を併合した辺りから、新しいアジアの歴史を切り拓こうとして失敗し、戦後はまた、アメリカへの事大はともかくとして、西欧の流れに戻ったということでしょうか?

日本もトルコも、結局はこの大きな流れに道を求めるべきであり、アジア史やイスラム史の再興なんてことは考えない方が身の為かもしれません。台頭しつつある中国が日本と同じ過ちを犯さないよう祈るばかりです。



2月6日 (土)  トルコ人の相撲ファン

2002年のいつ頃だったか、クズルック村の工場で、ユーロスポーツの大相撲中継を良く観ているというトルコ人エンジニアが、「モンゴル出身の凄い若手力士が現れたぞ」と興奮したように話し出しました。「あまり大きくないが、スピードがあって、テクニックもあるようだ」と言い、私の喉元をつかまえて押し上げながら、「こういうテクニックを良く使っている」なんて乱暴に説明しようとします。それが“のど輪”であることは解ったけれど、その若手力士について、私は未だ何も知りませんでした。

直ぐにインターネットで調べて、“朝青龍”というモンゴル出身力士の基本情報を手に入れたものの、私が実際に朝青龍の取り組みを観ることができたのは、2003年に一時帰国してからで、その頃、朝青龍は既に横綱へ昇進していました。確かにスピードがあって迫力満点の取り口であり、トルコ人エンジニアが興奮したのも無理はないと思いながら、私も瞬く間に魅了されてしまったようです。

あのエンジニアは、英語に堪能だったから、相撲に関する予備知識をかなり持っていたけれど、中には殆ど背景も知らないまま、ただ力士たちの迫力ある動きに魅せられて、ユーロスポーツの中継を観戦しているトルコ人の相撲ファンもいます。

2004年頃に、そういった相撲ファンの弁護士さんと話していたら、「名前を思い出せないが、好きな力士がいた」と言い、“背が高い”とか“ハワイアンじゃない”といった特徴を並べるのですが、誰だかちょっと解りません。それから、「他の力士とは、相撲のやり方が違っていた」と明らかにしたので、もしやと思って貴ノ浪の名を挙げたところ、「そう、タカノナミだよ。態度もジェントルマンな感じがしたね」と喜んでいましたが、“相撲のやり方が違う”なんて良く気がついていたものだと思います。『この人は本当に相撲が好きなんだな』と私も嬉しくなりました。

先場所は、“YouTube”にアップされたニュース番組から、かなりの取り組みを観ることができたけれど、朝青龍が琴欧州や把瑠都を投げ捨てた場面などが印象に残っています。ああいった相撲は、朝青龍ならではの取り口じゃないでしょうか。それがもう観られないかと思うと残念でなりません。しかし、もう少し前の時代だったら、双羽黒のように、もっと早く引導を渡されていたかもしれないし、まあ、仕方ないような気もします。

いずれにせよ、相撲ほどダイナミックで見応えのあるスポーツは、なかなかないでしょう。土俵を出れば負けというルールを設けることにより、息詰まるような速い攻防がもたらされました。判定も解り易く、引き分けも殆どありません。見事なくらい観戦に適したスポーツじゃないでしょうか。江戸時代に、どういう方が“土俵を出れば負け”というルールを考え出したのか知りませんが、実に偉大な発明だったと思います。

私は東京の下町に育ったから、近くに相撲部屋もあったし、蔵前国技館へ良く本場所を観に行ったりしていたので、相撲の伝統的な部分にも愛着はあるけれど、こんな素晴らしいスポーツを日本だけに閉じ込めて置くのは、世界の人々に申しわけないような気持ちもあります。

一方で、琴欧州や把瑠都のような力士が増えたら、そのうち相撲の姿も変わってしまうのではないかという不安がないわけじゃありません。でも、それを恐れていたら発展はないでしょう。既に、力士の大型化により相撲は変わってきました。相対的に土俵が小さくなってしまったため、立ち合いは一層重要となり、速い攻防が多くなったようです。これからどのように変わって行くでしょうか?


2月18日 (木)  風邪の当たり年?

今冬は風邪の当たり年なのか、先日、また体調を崩した挙句、3日ほど寝込んでしまいました。ところが、症状としては、酷い頭痛と倦怠感、食欲不振ぐらいなもので熱はなかったようです。

昨日回復してから、近くの薬局で体温計を購入して何度か計ってみたところ、いずれも36.2度前後で、何だか平熱にしても低い感じがします。今日になって、また数回計ってみたものの、36度を越えたのは、少し運動してから計った時だけで、あとは全て35.8度前後でした。

ネットで色々調べてみたら、低体温という症状があって、これは35度を下回る場合だそうですが、36度前後でも、“免疫能力の低下と体調不良を招く”と記されていたばかりか、“35度前後まで下がると癌のリスクが増大”という記述も見られ、思わず“ガーン!”なんて洒落を言ってる場合じゃありません。

しかし、調べれば調べるほど、思い当たる事例が次から次へと出てきました。まず、“低体温の人は寒がり”になるそうで、私は35歳ぐらいから急に寒がりになったけれど、ここ数年はこの傾向が著しく増したような気がします。しかし、数年来、イスタンブールは暖冬が多く、たまに寒波が訪れたりすると、そういう時に限って、暖かい南の地方へ長期出張の仕事にありつき、夜は暖かいホテルの一室で“イスタンブール大雪”を伝えるテレビニュースにホッと一息つくという展開を繰り返していました。こんなに寒い日が続いたイスタンブールは久しぶりで、ついに寒がりを思い切り実感させられてしまったようです。

今のアパートは、一応スチーム暖房が入っているけれど、“ホテルの一室”のようには暖かくならないし、何よりシャワーだけの風呂場が滅法寒くて、酷い時は吐く息も白くなるほどであり、冬場、シャワーを浴びるのは3日〜4日に一度だけ、それも腕立て伏せや腹筋で汗を充分にかいてからにしています。風邪を引いて、これでこじらす場合もあれば、逆に体が温まって治ることもありました。

まあ、これで平熱が少し低いという実態が解り却って良かったかもしれません。糖分の摂り過ぎが体温を下げるとか、塩分は逆に体温を上げるなんてことも初めて知った次第です。でも、私の場合、今日計った血圧も100〜150と相変わらず高いから、塩分の補給は出来ません。甘いものを控え、ケチケチしないで肉や魚も食べ、運動量をもっと増やすことにします。あとは、くよくよせずに、ストレスをためないことでしょうか。しかし、肝っ玉の小さい私にはこれがなかなか難しいようです。

もう一つ、ゆっくり湯に入って体を温めるのも良いそうですが、これは今のアパートでは叶いません。もともとトルコの人たちには湯に浸かるという習慣がないので、バスタブのついているアパートは余りないし、あっても活用していない家が大半じゃないかと思います。

ハマムという蒸し風呂へ行っても湯に入れる所はありません。韓国の例を上げれば、日本の銭湯文化が根を下ろしいて、かつて朝鮮の時代には人前で裸になることを嫌っていたはずの人々が、最近の日本男児より、もっと堂々とすっぽんぽんになって湯を楽しんでいたけれど、トルコではまず無理かもしれません。親子でも裸を見せ合うことはないようです。

しかし、家風呂なら一人で入るわけだし、お年寄りがお孫さんと一緒に入ったりするのは問題ないでしょう。トルコには、孫を可愛がるお年寄りが多いから、日本風の家風呂と湯に浸かる文化を広めたら、お年寄りも健康になり、ほのぼのとした家庭がもっと幸せになるような気がします。



2月20日 (土)  日本の文化の国際化

一昨日の“便り”に、“日本風の家風呂と湯に浸かる文化”が広まったら良いなんて書いたけれど、いつだったか日本のテレビ番組で、オーストラリアに開業した“銭湯”を紹介していました。日本のスーパー銭湯と同じような造りになっていて、入口で靴を脱ぎ、湯上りに寛げる座敷まで用意されているのに、利用者は殆どオーストラリアの人たちなんだそうです。

このオーストラリアの“銭湯”は日本人が経営しているようでしたが、こういった日本の文化に纏わるビジネスの中には、外国の人たちが日本を訪れ、私たち日本人が思いつかないような日本のアイテムに目をつけ、それを母国に持ち帰って成功を収めた例が少なくないかもしれません。以下の“wagamama”はその一例でしょう。

2006年6月9日(金)wagamama
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=6

他にも、鮨がロシアで大ヒットしているとか、日本酒が韓国で人気を博しているとか、色んな話を聴くものの、その多くは日本人が売り込んだというより、ロシアや韓国の人たちが持ち込んで流行らせてくれたのではないでしょうか。先日、ネットのニュースに“上海で日本の将棋が人気”と伝えられていたけれど、これも日本人が広めたのではなくて、日本に留学していた上海の人が持ち帰って広めたものでした。

将棋などは、駒の識別を図柄などで工夫すれば、チェスを凌いで世界中に広まるかもしれません。日本は、世界から様々な文化を巧く取り入れて来たのに、自分ところの素晴らしい文化は国内に閉じ込めたまま、余り積極的に世界へ発信して来なかったようです。例外は、柔道でしょうか。柔道の国際化を早くから推し進めた嘉納治五郎はやはり偉大な人物だったと思います。

先日、相撲の国際化にもちょっと触れましたが、大相撲はもともと興行として発展してきたから、色々難しい面があるかもしれません。



2月22日 (月)  健全な温泉施設?

先日、“平熱が低くなっている”などと大袈裟な話を書いてから、試しに、腕立て伏せや腹筋で少し汗をかいた直後に計ってみたけれど、それでも36.3度にしかなりません。これはひょっとすると体温計がおかしいのではないかと思い、友人のテルモ製体温計を借りて計ってみたところ、ちゃんと36.5度以上あります。どうやら、私が買ってきた安物の体温計(一応デジタルで格好は洒落ています)は、7分ほど低く計っていたようです。お騒がせして申しわけありません。実に間抜けな話でした。

お陰で色々勉強になりました。実際、ここ数年、肥満を恐れて極端に食べる量を減らした為、栄養も少し偏っていたでしょう。もう少し栄養のバランスを考え、もちろん運動量はもっと増やすことにします。

しかし、年々、体重の維持が難しくなってきました。少し余計に食べただけでも大きく体重にはねかえってしまうのです。若い頃は典型的な“痩せの大食い”だったのに・・・。

それから、“寒がり”も何とかしなければならないけれど、我が家のお粗末な暖房は、やはり少し寒いかもしれません。間取りが広いからなかなか暖まらないのです。日本で暮らしていた頃は、いつも四畳半とか六畳ぐらいの間取りだったから、簡単な暖房でも直ぐに暖まりました。

クズルック村の家も寒くて、今、思い返しても冬の寒さに震えた記憶が甦ってきます。以下に記した“温泉”にも度々足を運んでいました。

トルコ人はぬるいのが好き
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/004.html#20

2001年の12月には、今冬と同様に寒さで風邪が長引き、芯から体を温めなければならないように感じた為、正月休みに思い切って、この温泉の宿泊施設に5日ほど泊り込んだこともあります。

休暇に入り、温泉施設のオフィスへ予約を申し込みに行ったところ、宿泊料も結構したけれど、それ以前に「連れのいない一人の逗留は認められない」という理由で、なかなか予約を受け付けてくれませんでした。“家族連れで楽しむ健全な温泉場”に、男が一人で逗留するのは不健全であると言うのです。結局、暫く押し問答した末に受け付けてくれたものの、この“不健全”という言い草には何とも呆れてしまいました。

というのも、2000年頃、温泉施設の職員がある不健全な事件を起こしていたのを私は良く知っていたからです。

当時、イスタンブール近郊のトゥズラに新設した工場で採用された女子従業員たちをクズルック村の工場へ招いて数日間教育しなければならなくなり、彼女たちの宿泊施設として、この温泉が選ばれました。

温泉は、イスラム色の強いイフラス社が運営する“健全な施設”だから、若い女性たちでも安心できるだろうと思われたのです。

ところが、彼女たちが逗留し始めて数日たったある晩、皆が寝静まった頃に彼女たちの部屋へ、あろうことか施設の男性職員が合鍵を利用して侵入、大騒ぎになってしまいました。幸い、侵入に気がついた女性が大声を上げて皆を起こし、一斉に騒ぎ立てたので、男は下着を盗んだだけで退散したそうですが、翌日、工場の総務課に責任を問われた施設管理者は、次のように弁明したというから笑わせてくれます。

「当施設には、今まで敬虔な家族連ればかり訪れていたのに、突然、イスタンブールから派手な格好をした娘さんたちが現れた為、職員も平常心を失ってしまったのです。厳重に注意するから今回は見逃して下さい」

女性たちの中には、ノースリーブやヘソが見えるようなファッションもあったらしいけれど、まあ常識の範囲内で、それほど挑発的なスタイルだったとは思えません。それでも温泉施設の連中は、“派手な格好をした女性たちにも少し非がある”と言いたかったのでしょう。もの凄い発想であると思いました。


2月24日 (水)  停電48時間

前回、“クズルック村の家は寒かった”と書いたけれど、私が借りていた部屋は、元来住居として使われていたものではなく、以前は某政党の選挙事務所だったそうです。

トイレとシャワー場もついていましたが、それは部屋から外側に張り出した部分に設けられており、外部の冷気がそのまま伝わってくるような造りでした。

シャワー場の湯沸し器は、電熱式の小さなもので、電気を入れれば直ぐに暖まるものの、電気が切れたら、あっという間に水になってしまいます。ところが、アダパザル県一帯は、99年8月の“大地震”以来、毎日のように停電が起こる状態が続いていたのです。工場には自家発電が用意されていて、操業に支障を来たすこともなかったけれど、私の家はそういうわけに行きません。

真冬に、吐く息も白くなるような寒いシャワー場で体を流し、頭から石鹸を塗りたくった後で電気が切れたことも何度かあります。また、夜、体を流している最中に電気が切れれば、真っ暗になるから、シャワーを止めて直ぐにタオルで体を拭けるものの、昼は、シャワーが水になってから、停電に気がつき、冷たさに飛び上がったりしました。

まあ、大概の場合、停電は数分から数十分の間でしたが、一度、48時間に亘って延々と続いたこともあります。

しかも、始まったのが土曜日の朝。工場は土日が休みで、この週末を利用して良くイスタンブールへ出掛けたりもしたけれど、その日は朝から冷たい雨が降っていて、とてもイスタンブールまで出掛ける気にはなりません。

『そのうち電気も来るだろう』と思いながら窓際に座って、ずっと本を読んでいましたが、夕方暗くなって活字が判別できなくなっても電気は来ません。仕方ないので、早々と布団に入って、暗い天井を見つめていたものの、そんなに早く寝付けるはずもなく、何時間もそういう状態で、つまらないことを色々考えてから、やっと眠りに着きました。

翌日も全く同じで、いつ電気が来るかと思いながら、またしても夕暮れを迎えてしまい、布団に入って止め処もない妄想の続きを楽しむよりありませんでした。

それから、暫く経った頃だと思いますが、朝日新聞のネット記事で、ある高名な作家の方が連載しているコラムを読んだところ、日本の過疎地の農村に暮らしているその方は、「物質文明から遠く離れたここでは夜になると蛍の光を見ることができる」といった趣旨の話を語りながら物質文明を批判していたのです。私は思わず、『御冗談でしょう、先生はその原稿をインターネットで編集部へ送信しているんじゃありませんか? インターネットはもの凄い物質文明の恩恵であるように思えるけれど・・・』とぼやきたくなってしまいました。