Diary 2009. 9
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9月1日 (火)  トルコのスカーフ問題

いつも買い物に行く近所のスーパーでは、4人の若い女性が働いていて、その内の2人がスカーフで頭をしっかり覆っていました。トュルバンと呼ばれる被り方です。ところが、一月ぐらい前から、一方の女性が、スカーフを被らなくなってしまったので、ちょっと驚いています。何故なのか気になるけれど、本人やスーパーの人たちへ訊くわけにもまいりません。被っていなかった女性が被るようになったのであれば、結婚して嫁ぎ先から強制された可能性が考えられるものの、逆の場合はどうなんでしょう、離婚でもされてしまったのでしょうか?

トルコでは、国立大学の構内でスカーフの着用が禁じられています。この為、スカーフを被りたいのに、大学の構内では仕方なくスカーフを外している女学生や、スカーフを外したくないから大学への進学を諦めてしまった女性に関しては、いろいろ話題になっているけれど、一方で、被りたくないのに被らされている女性たちも存外少なくないはずです。

2007年に訪れた東部の農村では、全ての女性がスカーフを着用していました。この村の娘さんが、都会へ出てスカーフを外した時の解放感は充分に想像できます。女性たちは村で抑圧的な空気を感じているかもしれません。その場合、イスラムが女性に対して抑圧的であるかどうかはともかくとして、女性の自由を抑圧する為に、宗教上の戒律の一部が都合良く利用されている可能性は否定できないでしょう。

自らスカーフを被っている敬虔な女性知識人からも、男の身勝手な戒律の利用を批判する声はあがっています。こういった敬虔な女性知識人の多くは、「女性が無理にスカーフを被る必要はない」として、スカーフを外す自由も認めているけれど、御本人は、大学のキャンパスでスカーフの着用を禁じている“もう一方の抑圧的な制度”に抗議して、長年に亘り闘ってきたから、おいそれとスカーフを外してしまうわけには行かないようです。

しかし、スカーフの着用を禁じているような“世俗主義の引力”が弱まってしまえば、宗教を都合良く利用しようとする男たちの引力ばかりが増大して行く危険性はないでしょうか。実際、この引力は近頃になって非常に強まってきたように感じられます。

こういう問題について考えていると、私のような宗教音痴は、戒律に縛られない信仰を模索することは出来ないものかと直ぐに思ってしまうけれど、スンニー派の立場としては未だ無理なのかもしれません。

とはいえトルコの場合、アレヴィー派はもとより戒律に殆ど縛られていないし、スンニー派もその多くは、現代的な生活に合わせて、戒律を柔軟に解釈しているようです。例えば、今日のトルコで、利子を禁じる戒律に従っている人は、かなり敬虔なスンニー派の中にも殆どいないでしょう。今後、現在の世俗主義体制を発展させて行けば、ゆっくりと戒律に縛られない信仰へ向かって行くのではないかと思います。

【181】スカーフ、イスラム、ライシテ【ラディカル紙】【2008.01.24】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00181.html

上記の記事で中東工科大学の哲学部教授ヤスィン・ジェイラン氏は、以下のように述べています。

「スカーフ着用問題の解決をコーランに求め、近代的な生活の条件に基づいて様々な新解釈を導き出そうとするのは無駄なことだ。それは、14世紀に亘って固められてきたイスラム的な生活の様式にも合っていない。また、なによりも、宗教的な生活から世俗的な生活への移行を意味するライシテの体制で、問題の解決を聖典に求めるのでは、矛盾に陥ってしまうだろう。
この為、筆者は聖典を原語により様々な解釈と共に読んでいるが、そのような試みを企てるつもりはない。
アラビア語の柔軟性とコーランの歴史性を利用して、女性の頭からスカーフを外すことがイスラムに反していないと主張することは可能である。実際にこれを試みた所謂改革派という怪しげな宗教家もいないわけではない。しかし、それが解決になるのだろうか? アル・アズハルのようなイスラム世界において権威のある機関がファトワによって、スカーフの着用が義務ではないと宣言したとしても問題が解決されたとは言えない。ある女性が『宗教の命じるところに従ってスカーフを外します』というのはライシテに反しているからだ。これは、『宗教の命じるところに従ってスカーフを被ります』というのがライシテに反しているのと同じことである」。

こういった記事だけ読んで、この先生の思想を理解するのはとても無理ですが、“宗教的な生活から世俗的な生活への移行”というのは決して無信仰を意味しているものではないと思います。それは、戒律に束縛されない信仰であるような気がするのですが、間違っているでしょうか? しかし、この“宗教的な生活から世俗的な生活への移行”を一つの社会で実現させようとすれば、やはり一世代や二世代では難しかったでしょう。

この記事では、「アラビア語の柔軟性とコーランの歴史性を利用して、女性の頭からスカーフを外すことがイスラムに反していないと主張する“怪しげな宗教家”」が批判されているけれど、今の段階では、これも全く無意味な主張ではないかもしれません。双方の勢力が引っ張り合い、三歩進んで二歩後退するような状況を繰り返しながら、トルコの社会が徐々に“世俗的な生活”へ移行して行くことを期待しています。



9月2日 (水)  クルド語の教育

【214】クルド語の教育【ラディカル紙】【2009.09.02】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00214.html

トルコで激しい議論が闘わされている“クルド語教育”、トルコ語では“クルチェ・エイティム”ですが、この記事を訳しながら、まずこの“クルチェ・エイティム(クルド語教育)”の意味が良く解らなくなってしまいました。

これまで私は、この“クルチェ・エイティム(クルド語教育)”が、クルド語による学校教育、即ち全ての授業をクルド語で行なう教育のことであると思っていたけれど、記事の冒頭では、クルド語教育に反対しているCHP(共和人民党)党首バイカル氏の態度が明らかにされ、「クルド語を選択科目に取り入れた場合、これがその内に必修科目となり、ひいてはトルコの分割へ向かう道標になってしまう」というバイカル氏の発言が紹介されています。この場合、“クルド語教育”は、“クルド語による学校教育”ではなく、単なる“クルド語の授業”という意味になってしまうでしょう。

ところが、記事の後半では、北イラクのクルディスタン自治区に“クルド語教育”を行なっている大学があると伝えられていて、これは“クルド語による学校教育”を意味しているに違いありません。クルディスタン自治区ではクルド語が公用語になっているからです。

そこで、“クルド語教育”の定義をジャーナリストの友人に問い合わせて見たところ、彼も「良く解らない」と言います。最近のクルド問題の議論では、誰もが核心をはっきりさせないまま表向きの主張を繰り返している為、“クルド語教育”一つを取ってみても、その意味はまちまちになっているそうです。ただ、クルド系政党DTP(民主社会党)が、“クルド語による学校教育”を主張しているのは、はっきりしているという友人の説明でした。

私も“クルド語による学校教育”はかなり難しいんじゃないかと思っていましたが、「トルコでは、現在も一部の高校・大学が英語やフランス語で教育を行なっているじゃないか」という声も聴かれます。果たして、DTPは何処まで主張するつもりでしょうか?

しかし、“選択科目のクルド語”さえ認めないというのであれば、議論の余地はないかもしれません。非常に残念な気がしました。

記事を書かれたオラル・チャルシュラル氏は、今日のコラムでも、引き続いて“クルド語教育”が分離独立をもたらすことはないという持論を展開しています。その冒頭に、ちょっと微笑ましいエピソードが紹介されていたので、以下のように訳してみました。

「メフメト・シムシェク財務長官は、先日、バットマン県の生まれ育った村に里帰りした。新聞記者も同行したこの里帰りで、興味深かったのは、シムシェク長官の叔父が記者たちには理解できない言葉で話した場面だろう。シムシェク長官の叔父は願望を母語であるクルド語で明らかにし、それを甥のシムシェク長官が通訳したのである」。



9月4日 (金)  海峡の向こうはギリシャなの?

4ヵ月ほど前、テレビ取材の仕事で、運転手付きのレンタカーを借り、トルコで最も西に位置するチャナッカレやトラキア地方を回った時のことです。

運転手は、トルコの東端に位置するヴァン県のクルド人で、なんとも天真爛漫な32歳の男でした。3人の子持ちである一家の大黒柱を天真爛漫なんて言ったら失礼だけれど、とにかく陽気で人懐っこく、底抜けに明るいのは良いとしても、運転手なのにトルコの地理が全く頭に入っておらず、これには困ってしまいました。

日程の後半、トラキア地方から一旦イスタンブールへ戻り、それからブルサに行って取材した後、チャナッカレへ向かって車を走らせていると、途中、ダーダネルス海峡が見えて来たので、「もうそろそろチャナッカレだね」と運転手に話しかけたところ、「えっ、これがチャナッカレの海峡? すると向こう岸はギリシャか」なんてことを言い出します。

「おいおい何言ってるんだ。明日は、俺たちも海峡の向こう側へ渡ることになっているよ」
「えっ、うそ? ギリシャへ行くの?」
「ギリシャのわけがないだろ。この前に行ったトラキア地方へまた戻るだけだよ」
「でも、チャナッカレ戦争では、向こう側からギリシャ軍が攻めて来て、それをトルコの勇敢な兵士たちが迎え撃ったはずだけど・・・」
「違う違う、チャナッカレ戦争で攻めて来たのは英国を中心とする連合軍じゃないか」
「そうだっけ?」

いつもこんな調子だから、目をしっかり開けて置かないと、何処へ連れて行かれるのか解ったものではありませんでした。

しかし、持ち前の人懐っこさで、何処へ行っても直ぐに土地の人たちと仲良くなってしまいます。最初にトラキア地方のエディルネへ行った時も、取材に協力してくれた地元の床屋さんと、まるで昔からの友達みたいに親しくなっていました。

彼はイスタンブールで生まれ育ったものの、クルド語が紛れもない母語になっていて、運転しながら携帯を片時も放さず、クルド語で何やら楽しそうに話し続けていたほどです。私に対しては、クルド人としての不満も少し漏らしていたけれど、行く先々で出会うトルコ人には、わざわざクルド人であると強調したりせず、その代わり、何処でも「僕はヴァンの者です(ヴァンの地元住民は殆どクルド人)」と出自を明らかにしていました。

エディルネでは、手作業で篭を作っているロマ民族(ジプシー)の村も取材するつもりでしたが、床屋さんの案内で村へ下見に行ったら、法外な謝礼を要求されて、とても取材どころではありません。

これに憤った運転手は、村の人々に向かって、床屋さんを示しながら「この友人は無償で取材に協力しているんだぞ。それなのに何だお前たちは! トルコ人として恥ずかしくないのか! お前らみたいな連中がトルコ人であって堪るか!」と怒っていたけれど、そういう時は彼も完全にトルコ人という意識になっていたのでしょう。

もちろん、場合によっては、クルド人という意識が顔を出します。ブルサ辺りの国道で、屋根の上にも家財道具を積んで走っているワゴン車を追い越しながら、助手席の私を突っついて叫んだものです。

「わーい、あの車見てよ! ディヤルバクル県のナンバーだよ。その内に何処かで警察に止められるね」
「やっぱり止められるのか? ラディカル紙にそんなことが書いてあったけれど・・・」
「なんて書いてあった?」
「編集長のイスメット・ベルカンが、“トルコにクルド人差別がないと言ってる人は、ディヤルバクル県ナンバーの車で、ブルサからイスタンブールまで走ってみたら良い、どのくらい警察に止められて不愉快な思いをすることか”って書いていた」
「本当だよ。良い記事を書いてくれるね。でも、このブルサ県のナンバーでディヤルバクルへ行ったら、それも向こうで止められてしまうよ」

とは言うものの、彼は現AKP政権の熱烈な支持者であり、クルド系政党のDTPを“分離主義者”と決め付けて非難していました。「僕の親戚は、皆イスタンブールで良い生活している。それに、以前、僕は観光業界で働いていたから分かるが、イスタンブールの大きなホテルのオーナーの殆どはクルド人だよ。それなのに南東部だけ独立してどうしようと言うんだ? 全く馬鹿げているね」と力説していたけれど、“大きなホテルのオーナーの殆ど”というのが、どのくらい数値的に裏付けられているのか解らないし、何だか言ってることが単純過ぎて、ちょっと説得力に欠けるようです。

しかし、DTP支持者の多くが、やはり分離独立まで望んでいないのは、イスタンブールを始めとする西部の大都市へ移住し、そこに少なからぬ財産を築いているクルド人が余りにも多い為に他なりません。南東部のクルド人もその多くは、西部から切り離されてしまったら困ってしまうでしょう。

ところが、西部のトルコ人たちは、南東部が切り離されても殆ど困らないわけで、本音を言えば、『さっさと独立してもらいたい』と思っている人たちが、相当な数に上るはずです。今後、クルドの問題が自由に話し合われるようになった場合、今まで隠されていた本音が、大きな主張となって表に出て来てしまうかもしれません。

観光のメッカとなっているイスタンブールの歴史地区スルタンアフメットで、ホテルやレストランを経営している人たちを見ると、実際、クルド人が甚だ多いように感じるのですが、先日、クルド人の友人から次のような話を聴きました。

西部の地方都市、バルケスィルに生まれ、身分証明書でもこの都市の出身者と看做されているクルド人が、スルタンアフメットで小さなホテルを開業するため、役場に申請したところ、受け付けた役人からこう言われたそうです。「君はバルケスィルの人なんだ。嬉しいねえ。最近、申請しに来る奴はクルドの連中ばかりなんで嫌になっていたよ」。

それこそ、伝え聞いただけで嫌になってしまう話じゃないでしょうか。あのレンタカー運転手の彼が、今のままで天真爛漫に暮らして行けるよう願わずにはいられません。




9月5日 (土)  アブドゥッラ・ジェヴデト

先日、オスマン帝国時代の新聞について、ちょっと調べていたら、アブドゥッラ・ジェヴデト(Abdullah−Cevdet)という人物に行き当たり、この人物の足跡に少なからぬ興味を覚えました。

アブドゥッラ・ジェヴデトは、オスマン帝国の末期に“統一と進歩委員会”の創設に加わり、オスマンル・ガゼテという新聞を発行したことで知られています。

「トルコ近現代史(みすず書房)」には、ジェヴデトがクルド人であり、クルドの覚醒を望んでいたことも明らかにされていますが、例えば、トルコ語のインターネット上の人名辞典と言える“www.kimkimdir.gen.tr”では、ジェヴデトがクルド人だったことすら記されていません。

しかし、ウィキペディアのトルコ語版(Vikipedi)を見ると、ジェヴデトがクルド人の啓蒙に努め、“クルディスタン向上協会”にも参加して、クルド語の会報を書いていたことまで記されていて、ちょっと驚かされました。この“クルディスタン向上協会”からはクルディスタンの独立を目指す運動も派生して行ったようです。

3年ぐらい前だったか、ウィキペディアのトルコ語版で、第2代大統領イスメット・イノニュに関する項目を見ていたところ、「英語版に記載されている“イノニュはクルド人である”という誤りを訂正する作業に疲れてしまった。訂正しても直ぐにまた元に戻ってしまうのである」と書き込まれていて、思わず苦笑したけれど、今改めて、トルコ語版のイノニュの項目を開けたら、既にこちらにも「クルド人をルーツとする」としっかり記載されています。少しずつ色んなところで変化が起こっているのでしょう。

さて、アブドゥッラ・ジェヴデトですが、その後、ジェヴデトは、クルディスタンの独立を目指す人々とは袂を別ち、共和国革命以降も引き続きトルコの近代化に尽力し、1932年にイスタンブールで亡くなっています。晩年は、ギュスターヴ・ル・ボンという同時代のフランスの社会学者の著作をトルコ語に訳しながら、その思想を伝えることに力を注いでいたようです。


トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ/新井 政美 (著)
http://www.msz.co.jp/book/detail/03388.html

Abdullah Cevdet/www.kimkimdir.gen.tr
http://www.kimkimdir.gen.tr/kimkimdir.php?id=1132

Abdullah Cevdet/Vikipedi
http://tr.wikipedia.org/wiki/Abdullah_Cevdet_Karl%C4%B1da%C4%9F

ギュスターヴ・ル・ボン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%B3

Abdullah Cevdet(英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Abdullah_Cevdet



9月9日 (水)  ガービおじさんの葬儀

2009年7月27日 (月) アルメニア人のガービおじさんと猫
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2009&m=7

上記の“便り”でも話題にしたアルメニア人のガービおじさん(86歳)が、7日の月曜日に亡くなり、今日、シシリー区内のアルメニア教会で営まれた葬儀の後、やはり区内にあるアルメニア正教会の墓地に葬られました。

ガービさん、7月末、一匹の猫を残して、他の猫を全て島へ運んだ後、8月の中頃になって、最後の一匹も島へ運びたいと言い出し、私も一緒に出掛けましたが、その時はまだ元気そうでした。しかし、猫を全て手放そうと決意したのは、やはり健康に不安を感じていた為かもしれません。心臓に持病があったのに、病院で何度も診察を受けるのは嫌だと言い、頑固に昔から同じ薬を使い続けていたのです。

今日の葬儀に参列したのは、スザンナさんとディミトリー、私を含めて総勢5人であり、なんとも寂しい限りだったけれど、先ず教会で司祭と2人の輔祭が荘厳な式を執り行った後、司祭さんは墓地まで来て、埋葬の作業が進められる間も祈祷を行い、最後に美しい聖歌を歌って弔いを締めくくりました。アルメニア聖歌というものでしょうか。東方正教会によるマリアさんの葬儀では、埋葬の際に聖歌は歌われなかったように思います。それだけに、この聖歌はとても印象的でした。


*ガービおじさんの御名前は、カプリエル・ヌバル・ムムジュヤンで、以前、“ムバル”と記したのは聞き間違いによるものです。また、トルコの人たちは、アルメニア正教会をカソリックと区別してグレゴリアンと呼んでいる為、私もこの言い方を使っていましたが、これは正しい名称じゃないようなので、単に正教会と記述を改めることにします。




9月10日 (木)  ラマダンの避難場所?

近所にあるドライ・クリーニング取次店の店主は、とても感じの良い青年ですが、とにかく信心深いので、宗教の功徳を説き始めると話が長くなっていけません。青年は、以下の“トルコ便り”でお伝えしたおじさんに比べれば、遥かに教育もありそうだけれど、まずは、万物を創造された偉大な神について語り始めたりして、基本的には、おじさんと余り変わらない説明の仕方じゃないかと思います。

2008年6月13日 (金) どうぞ貴方が説明して下さい
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=6

「太陽や地球は、調和の元に規則正しく回転し続けていますが、偉大な神によってこれがもたらされたと考えなければ、いったいどのように説き明かすことができるでしょう?」と問い、要するに、『人間を超越した力の存在を認め、人間が何でも出来るなんて大それたことは考えないように』と言いたいようです。

しかし、私のような不信心者には、人間が大それたことを考えないようにする為、何故、神を持ち出さなければならないのか、その辺からして良く解りません。却って、そのように“神の摂理”が解ってしまったり、人間を自然界における最も高貴な存在であると看做したりするほうが、よっぽど大それたことであるように思えてしまいます。

多くの日本人の感覚でも、人間なんて動物の一種に過ぎないのではないでしょうか。大阪にいた頃、非常に教養のあるイランの方から、「神を信じない者は、自分が神になってしまう」と諭されたけれど、これは日本人にとって、ちょっと考え難いことであるように思いました。

以下の“便り”でも話題にした“山を呼び寄せる男”と“漫然と育った自然の野人”の違いでしょうか。

2008年5月14日 (水) 山を呼び寄せる男
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=5

あの穏やかなクリーニング取次店の青年が、信仰を無くした途端、『俺は何でも出来るんだ』なんて言う傲慢な人間になってしまうとは全く想像できませんが(その前に信仰を無くすことも想像できませんが)、やはりトルコの社会の安寧秩序にとって、こういった信仰は欠くことのできない要素になっているような気もします。

先日、“戒律に縛られない信仰への移行”などと申し上げたけれど、多くの人々が戒律に従おうとする信仰心によって道徳を守っている状況で、余り急激な“移行”は社会不安を招いてしまったかもしれません。

世俗派の人たちは、戒律に従う信仰をさらに高めようとするイスラム主義を非難していますが、世俗主義とイスラム主義がお互いに引っ張り合いながら、却って無理のない変化が実現されてきたと考えるのは間違っているでしょうか?

【61】トルコにおけるムスリムによる政教分離の可能性【ラディカル紙】【2004.03.26】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00061.html

この記事でアヴニ・オズギュレル氏は、「・・・現在50代以上の人たちやトルコ現代史に興味がある人たちならば御分かりになると思うが、国民秩序党で活動を始めた時にエルバカンが持っていた思想と、その活動が頂点に達した美徳党時代の思想には、山ほど大きな違いがある。その変化は体制から押し付けられたものであるとか、エルバカンが譲歩した所為であるとか、色々言うことができるだろう。しかし、その結果、エルバカンは、自分自身と共に、過激な考えを持った多くのムスリムたちを、体制と和解できる地点にまで連れて来てしまったのである」と述べているけれど、

実際、AKPが政権に就いて以来、一部の敬虔なムスリムたちは、世俗派との共存が可能な地点まで、さらに歩みを進めたかのようにも見えます。以前は各々の領域がはっきり分かれていたものの、近年、かつて世俗派の領域だった所へ敬虔なムスリムたちも進出して、混在するようになってしまったのです。

敬虔なムスリムの中には、こういった展開が「イスラムを薄めてしまった」と言って嘆き、AKPを非難する人たちも出て来ました。この展開に、世俗派の人たちが、それほど悲観的になる必要はないかもしれません。

ところが、先週、世俗派の友人とカドゥキョイにある世俗派の溜まり場“ナーズム・ヒクメット文化センターのオープンカフェ”に出掛けたら、なかなか座る席が見つからないほど混雑していて、友人は「ラマダンになったから、皆ここに避難しているんだ」なんてぼやきながら笑っているのです。私には、この言い草が何ともいじけているように思えて、ちょっと呆れてしまいました。

せっかく、敬虔なムスリムたちが社会の隅から中央にある世俗派の領域へ出て来たのに、世俗派が隅へ逃げる姿勢を見せてどうするのでしょう? お互いに引っ張り合いながらここまで辿り着いたけれど、世俗派が引っ張るのをやめてしまえば、ずるずると逆の方へ引っ張られ、三歩進んで二歩後退どころではなくなってしまうのではないかと、それこそ悲観的にならざるを得ません。

【181】スカーフ、イスラム、ライシテ【ラディカル紙】【2008.01.24】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00181.html

この記事の最後の部分、「一方のイスラムは、人類に大きく貢献し、歴史的な財産となったそのプロジェクト本来の目的と理想を軽んじて、何世紀も前に使い古した手法を活かそうとしいているが、これはイスラムを最も不当に扱うものである。もしも、人間の知性と経験から得られる能力が時と共に発展するのであれば、人類の高邁な憧れに近づけるために、現世紀の支配的な文明を優先させなければならないだろう。神よ、神よ、と言いながら神から遠ざかることが可能なように、神の名を口にせずとも神へ近づくことは可能なのである」。

私は充分に理解できていないかもしれないけれど、世俗派が目指すものは、正にこれであるように思います。というより、これはトルコ共和国に与えられた崇高な使命じゃないでしょうか。いじけている場合ではないはずです。




9月12日 (土)  半分クリスチャン?

今日、亡くなったガービおじさんの供養で、またシシリー区内のアルメニア教会へ行ってきました。2007年の4月にマリアさんが亡くなった時は、葬儀の直ぐ後に墓地の集会所で、参列者へブランデイ(ギリシャ特産のメタクサ)とトルコ・コーヒー、ラスクのような焼き菓子、それからヘルヴァという練り菓子が振る舞われたけれど、今回は3日後の今日、スザンナさんが自宅でヘルヴァを作って教会の小礼拝堂へ持参し、このヘルヴァと僅か4人の参列者を前に、司祭さんが祈祷を行った後、ヘルヴァは教会前の葬儀屋で皆に配られました。

2007年6月10日 (日) 40日供養−追悼ミサ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=6

これが東方正教会とアルメニア正教会における慣習の違いだったのか、場所や時間の都合によるものだったのか、その辺のところは良く解りません。葬儀の後にヘルヴァを振る舞う慣習は、トルコのイスラム教徒の間にもあるようですが、本来はどちらの慣習だったのでしょう?

マリアさんの葬儀では、参列者が40〜50人に及び、焼き菓子はもちろん、ヘルヴァも業者から届けられた出来合い品でした。しかし、参列者の中には、気品を感じさせる老夫婦も多く、故人の人徳が偲ばれたものです。それに比べて、一昨日の葬儀と言い、今日の供養と言い、その侘しさは譬えようもありません。人間はどう生きるべきか考えさせられたように思います。

今日、ヘルヴァが配られると、葬儀屋さんは次の葬儀の準備に慌しく出かけてしまい、早々に解散となってしまいました。葬儀屋さんは未だ40歳ぐらいのアルメニア人女性で、100キロ以上はありそうな堂々たる体躯、補佐役のトルコ人男性と2人で空の棺桶をひょいと持ち上げて運んだり、事務をてきぱきとこなしたり、実に頼もしい感じです。

補佐役のトルコ人は、黒海地方リゼ県の出身、何でも元々はアルメニア人の家系であり、身分証明書にムスリムと記されているだけで、「気持ちの上では半分クリスチャン」と言います。「アルメニア語も解るんですか?」と訊いたら、「いや、私たちは殆ど解らない。リゼへ行くとアルメニア語を話す人たちがいると言っても、それはヘムシンの辺りだけだよ」という話でした。本人も「トルコには色んなのがいて面白いだろ」と笑っていたけれど、こういう人が次から次へと私の前に現れるのは何か奇妙な縁があるかもしれません。


9月13日 (日)  トルコ人と言える者は幸せである

*トルコ人と言える者は幸せである=「私はトルコ人だ」と言える者は幸せである

今年の4月、黒海地方のトラブゾン市で、数人の若者たちと雑談していたところ、「“トルコ人と言える者は幸せである”という標語がありますね。あれは“トルコ人である者は”じゃなくて、“トルコ人と言える者は”になっている点が素晴らしいのです」という話が出てきました。彼らの中には、例の“ギリシャ語が話されている村”の出身者もいたから、確かに“エスニック・ルーツがトルコ人である者は”とされたら、困ってしまうかもしれません。

トルコでは、「トルコ人は生まれない。トルコ人になるのだ」という言葉も良く聞かれます。この言葉はボーボワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」から得られたようですが、私は日本人の友人に教えてもらうまで、元のボーボワールの言葉を知らずに、「なんて洒落た言い方なんだ」といつも感心していました。

しかし、この“トルコ人”は、“アメリカ人”や“オスマン人”と違って、一つのエスニック的な民族の名前だから、中には元々“トルコ人である者”も存在しているはずです。

以下の記事で、ムラット・ベルゲ氏は、共和国の創立以来、トルコ共和国が、“トルコ人”をエスニック的な意味のない“国民”に作り変えようと努力するどころか、「人種差別的な思想で“トルコ人という概念”を飾ってきた」として批判しています。

【99】「トルコ人」という概念【ラディカル紙】【2004.11.22】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00099.html

とはいうものの、私たち“日本人”に比べたら、“トルコ人”の人種差別的な思想なんて儚い幻想に過ぎなかったのではないでしょうか。例えば、あるトルコ人が「母はチェルケズ人で父はアラブ人です」と言ったところで少しも奇異には感じられないし、そんな人はざらにいますが、「母は中国人で父は韓国人です」という日本人がいたら、『えっ?』と思われてしまうに違いありません。

オスマン帝国の末期に、トルコ民族主義を創始したズィヤ・ギョカルプは、ディヤルバクルの出身でエスニック的にはクルド人だったのではないかと言われているけれど、本人は「学問的に調べたわけではないが、私は自分をトルコ人と感じている」と語っていたそうです。つまり“トルコ人と言える者”だったのでしょう。

オスマン帝国歴代の皇帝でさえ、母方はギリシャ人やロシア人といった非トルコ系ばかりだったから、果たしてエスニック的にどれほど“トルコ人”であったのか解ったものではありません。トルコ人のエスニック・ルーツなど、余り深く考えても意味はないような気すらします。本人がトルコ人であると感じているかどうかの問題じゃないでしょうか。

上記の記事に、「ハンガリーの国民的な英雄であるコシュートは、ドイツ人を母に、クロアチア人(スロバキア人かもしれない)を父に生まれている」とハンガリーの例が紹介されていますが、6月、イスタンブールで知り合ったハンガリー人の女性も、父母がチェコ人とドイツ人であるものの、自身はマジャール人という意識を持っていると話していました。

この“マジャール人”も歴史の上では、シベリアを故地とするエスニック的な民族だったに違いないけれど、今では、ほぼ“ハンガリー国民”という意味になっているようです。マジャール人の場合、言語的に近いとされるシベリアのハンティ人・マンシ人が、僅かな人口しか残っておらず、余り民族主義的な幻想を抱かせる対象にならなかったのは幸いでした。“YouTube”で、このハンティ人・マンシ人の映像を見つけたので、以下に貼り付けて置きます。

Khanty Song
http://www.youtube.com/watch?v=UmjYHN770n0

Faces of the Uralic Peoples (Khanty, Nenets, Mansi, Komi, Sami)
http://www.youtube.com/watch?v=ktuPHY80o7c

ところで、日本でも最近は、“日本人”をエスニック的な民族ではない“国民”を表す名称とし、この“日本人”の中に、“大和人”や“沖縄人”“アイヌ人”“コリア人”などのエスニック的な民族を位置づけようとする意見が出ているそうです。

このやり方で行けば、トルコでは、エスニック的にも自分をトルコ人と感じている人たちが、“トルクメン人”とか“オウズ人(オスマン帝国の皇帝はオウズ族でした)”と名乗れば良いかもしれません。トルクメン人はともかく、オウズ人と名乗ることに抵抗を感じる“エスニック的なトルコ人”は殆どいないでしょう。まあ、彼らがどのくらい“オウズ人”なのか解ったものではないし、こんな試みに大した意義はないような気もしますが・・・。

しかし、日本人の代わりに“大和人”なんて、もっと意味がなさそうで、私には悪い冗談のようにしか思えません。


9月14日 (月)  最大の敵:国民国家!

【215】最大の敵:国民国家!【ラディカル紙】【2009.09.14】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00215.html

トルコ共和国は、トルコ民族を主体として成立した“国民国家”ですが、今、クルドの問題が議論される中、国民国家という国の在り方自体が、この問題の解決を妨げているかのように主張するリベラル派の知識人もいます。国民国家という枠組みの中で、クルド人のアイデンティティーが抑圧されていることが問題であるというのです。

上記の記事で、ヌライ・メルト氏は、このように全ての問題を国民国家の所為にしようとする極端な主張のために、国民国家に対する正当な批判まで説得力を失っていると明らかにして、次のように述べています。

「国民国家への批判は、固定観念を打破し、国民国家に多く見られる硬直した差別的な態度と闘うことから始まったのであり、この為に重要な意味を持っていた。しかし、現状において、その言動は、国民国家の枠組み中で自分自身を定義している一般の人々を困惑させて喜んでいるような残虐性を帯びている。先ず、『私たちの父祖はアルメニア人を殺しました。クルド人を弾圧しました。そもそも独立戦争なんて大したものじゃなかったのに大袈裟に誇張されているんです。もともと私たちは最悪の民族です。おそらく全世界に謝れば、まともな人間になれます』なんてことを朝から晩まで頭に刻み込んで改善された社会など何処にもない」。

もちろん、メルト氏はクルド人に対する弾圧を否定したり、問題の解決を拒否したりしているわけではありません。極端な主張は、反発を招くだけで、かえって正常な議論の進展を妨げてしまうと指摘しているだけです。これは、何だか日本でもそのまま当てはまるような気がして興味深く思いました。

まあ、トルコの場合は、逆に右翼からも、「クルドには一歩も譲歩するな」とか「もう一度征服してやる」とか、日本の右翼のそれ以上に、極端な主張が繰り返されているけれど・・・。

クルドの問題に限らず、トルコの国民国家の在り方については、私もかなり疑問を持っていました。特に、体制側の世俗派が反欧米に傾いた2007年の総選挙前、その“硬直した差別的な態度”にゾッとしたものです。しかし、最近になって、国民国家の終焉を望むかのような声まで出て来ると、今度はこれに対して『ちょっと待ってよ』と首を捻っていたので、この記事を読んで、何だか胸のつかえがとれたように納得しています。

「最後に、流行が過ぎてしまった為、誰も国民国家の歴史的なプロセスにおける重要性を認めたがらないが、国民国家とは、伝統的な社会が良い意味で解体されて行く上でのプロセスである。そして、アフガニスタンやイラクで見られたように、このプロセスに逆行して、より抑圧的な社会へ戻ってしまう危険性も存在している。その為、独占的、排他的、権威的な枠組みから脱け出せるなら、はっきり申し上げて、国民国家のモデルは今でも重要性を失っていないと私は思っている」

メルト氏は最後にこう述べているけれど、トルコでは、分けても南東部のクルド人地域で、この“伝統的な社会の解体”は未だ終っていないでしょう。“国民国家の重要性”、全くその通りだと思います。



9月15日 (火)  9年連続200本安打!

イチロー選手、ついに達成しました。やっぱり私も単純に感動して喜んでいます。ネットで関連記事をしみじみ読んで嬉しくなったりして、まったく他愛ないものです。

いつだったか、日本語に堪能なトルコ人の友人が、「イチロー選手は既に功名を遂げ、富も手に入れたのに、何故、未だああやってひたむきに頑張ることが出来るのか?」なんて不思議がるので、「柔道とか剣道とか知っているでしょう? 道なんですよ。イチロー選手にとって野球は、そういう道だから、それを極めなければならないんじゃありませんか」などと説明したけれど、解ってもらえたでしょうか。というより、そもそも説明している本人が、道の何たるかを本当に解っているのか甚だ疑わしいと思います。

友人たちと酒を飲みながら、「まあ、なんだね。イチロー選手の前には、私のような馬鹿タレには見えない道が敷かれていて、彼はその道を歩むべき運命のもとに生まれたのだろう」とかほざいていますが、何処からか、『そんなところで飲んでいる場合か? お前、探しもしないで、“私の前に道は見えません”なんて馬鹿を言ってるんじゃない!』という天の声が聴こえてきそうです。

しかし、イチロー選手じゃなくて、もっと近いところに目標を定めて探さないと、やっぱり道は見えてこないかもしれません。何処かの記事に、「イチロー選手は常に目標を遠くに置いているから、記録の達成は通過点に過ぎず、それで緩むことがない」といった趣旨の話が出ていたけれど、凡人がそれをやると却って巧く行かないような気もします。

さて、トルコ人の友人が不思議に思った問いですが、もちろんトルコにも、“功名を遂げ、富を手に入れて”から、さらに頑張って上を目指している人たちは沢山いるでしょう。この友人自体、富を手に入れようとして日本語をあれほど一生懸命勉強していたとは、とても考えられません。ただ、全般的に見ても、日本には、老後の余裕も充分過ぎるほどあるのに、ひたすら頑張り続ける年配の方が多いから、友人もその辺りが気になっていたのではないでしょうか。

トルコの場合、夢のある創造的な仕事に携わっている働き盛りの中にも、「人生の目標は、早く定年になって楽な老後を送ること」なんて言う人が少なくないので驚かされます。「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし」なんて言っても、首をかしげられてしまうだけかもしれません。


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