Diary 2009. 8
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8月12日 (水)  トルコのクルド問題

トルコのクルド問題。政府与党のAKP(公正発展党)は、問題の解決に向けて積極的な姿勢を見せ始め、先週、エルドアン首相がクルド系の政党であるDTP(民主市民党)のアフメット・テュルク党首と会談しました。

この数日、南東部出身のクルド人と会う度、こういった展開について話を聞いているけれど、中にはかなりラディカルな主張もあって驚かされます。

「DTPは、クルドの独立など全く望んでいないだろう。彼らの左派的な思想は、クルドの民衆とかけ離れている。例えば、ディヤルバクル県選出のアイセル・トゥールック女史はトゥンジェリ県の出身で異端のアレヴィー派だが、ディヤルバクル県にアレヴィー派なんて殆どいない。クルド人全体でもアレヴィー派は5%ぐらいなのに、DTP議員の半数近くはアレヴィー派なんだよ。今、トルコ共和国でクルド人の要望を主張できる政党はDTP以外にない為、彼らはクルド人の支持を集めているものの、クルドが独立したら、信心深いスンニー派の民衆から袋叩きにされるだろう。私はクルドの独立を望んでいる。トルコ共和国はカリフ制度を廃し、イスラムの伝統を踏みにじり、人々はこれに同調した。ならば、我々クルド人だけでイスラムを再興させるよりない」。

こう主張する男性は、もちろん敬虔なムスリムであり、年のころは30代半ば、ディヤルバクル県の出身だそうです。こんな意見を持った人がどれほど存在しているのか解らないし、クルドが独立した場合、DTPが信心深い民衆から袋叩きにされるというのは、随分大袈裟な話であるように思えますが、支持を失ってしまう可能性は確かにあるかもしれません。“トルコ共和国でクルド人の要望を主張できる政党はDTP以外にないから支持を集めている”というのは、結構的を射てるような気もします。

しかし、クルドが独立してイスラムを再興させるなんて、それこそ誰も幸せにならない最悪のシナリオであるとしか思えません。それは“再興”ではなく、宗教の名のもとに人々を抑圧していた旧制度の復活に他ならないでしょう。また、その主張には共和国初期の“シェイフ・サイトの反乱”を思わせるものがあり、興味深く感じました。

DTPは、宗教的な抑圧や部族支配からの解放を標榜していて、この点では、トルコ共和国建国の趣旨と変わるところがないし、建国の趣旨を党是に定めているCHP(共和人民党=現・第一野党)とも理解し合える点があるはずです。そもそも党首のアフメット・テュルク氏は元々CHPのメンバーでした。

アフメット・テュルク氏は、エルドアン首相と会談してから、ラディカル紙のムラット・イエトゥキン氏のコラムを通して、CHPのデニズ・バイカル党首にメッセージを伝えています。1980年の軍事クーデターで苦難を共にした後、1983年、バイカル氏は南東部のマルディン県にテュルク氏を訪ね、ラク酒の杯を酌み交わしながら苦難の日々を語り合ったそうです。「私はあの時に心を分かち合ったバイカル、痛みを理解し、拷問の何たるかを知り、それを追及しようとしたバイカルと会いたい。もしも、また向かい合って座り、ラク酒を飲みながら話し合えたなら・・・。我々は古い友人同士だ」。

敬虔なムスリムであるエルドアン首相がラク酒を飲めるはずもないから、これはなかなか意味深なメッセージと言えるのではないでしょうか。しかし、バイカル氏は「PKK(クルド労働者党)をテロリストと認めない者とは話し合えない。アフメットは変わってしまった」とこのラブコールをにべもなく拒絶してしまいました。

これには、世論に向けてのポーズも含まれているように思えますが、DTPが議題にしようとしている“クルド語による学校教育”であるとか、クルド人の自治区は、CHPとしても絶対に認めるわけには行かないでしょう。それは独立への道標になってしまう可能性があるからです。そして、独立は宗教的な抑圧を呼び戻してしまうかもしれません。

私も、クルドの人々が民主的な近代化による豊かな生活を築く為には、トルコ共和国に留まった方が良いのではないかと思っています。

最近、さらに宗教色が強まってきたと言われている南東部のマルディン県で、デニズ・バイカル氏とアフメット・テュルク氏が、気兼ねなく再びラク酒の杯を酌み交わせる日が来ることを願って止みません。



8月13日 (木)  トルコ人のルーツ

“クルドの独立”を主張したクルド人男性、「トルコ人の多くはイスラムに改宗したルーム(ギリシャ人)の子孫に違いない」なんて話していました。これまた当たらずとも遠からずであるような気がするけれど、クルド人の中にも改宗したアルメニア人の子孫がかなりいると言われています。彼にこれを指摘したら、「私たちの家系にもそういった改宗者がいたらしい」とあっさり認めたものの、「トルコ人の場合、エスニック・ルーツを辿ればその殆どがトルコ人じゃないだろう」となかなか引き下がりませんでした。

しかし、トルコ共和国の“トルコ人”とは、本来エスニック・ルーツに基づかない“国民”のことだから、彼の主張が正しかったとしても、それほど問題にはならないわけです。かえって、その主張が正しければ、トルコ人とクルド人を対比して捉えることの方が問題であるかもしれません。

“トルコ人”の中には、改宗したルーム、ラズ人、チェルケズ人、クルド人等々が含まれているのに、その一要素であるクルド人と“トルコ人”を比べても意味がないでしょう。とはいえ、殆どのトルコ人は自分たちのルーツが“改宗したルーム”である可能性を認めようとしないし、ラズ人やチェルケズ人ならともかく、クルド人をルーツとする著名人がそれを明らかにすると、10年ぐらい前でも大騒ぎになったものです。

【41】フセイン・チェリック教育相へのインタビュー【ザマン紙】【2004.02.09】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00041.html

現在は、財務相のメフメト・シムシェク氏が、「私はクルド人であり且つトルコ人である」と公言し、状況は大分良くなって来たように思います。

先月、31日の“便り”で、友人のセルダルが生まれ育ったトルコの黒海地方の村では、住民が今でもギリシャ語を話しているとお伝えしました。

7月31日 (金) 黒海地方のナショナリスト?
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2009&m=7

同じ村の出身で、高校の美術教師をしているアフメットさんによれば、この村は数世代前までギリシャ正教徒の村であったのが、村ごとイスラムに改宗してしまったそうです。それでも、彼らは自分たちが余り熱心に宗教やっているわけではないから、キリスト教でもイスラム教でもそれほど大きな違いはないと、これを簡単に片付けていました。

このアフメットさんが、トルコの美術について語りながら、中央アジアから受けた影響を説明しようとして、「我々トルコ人が中央アジアからもたらした」と言ったので、「でも、貴方たちの父祖は中央アジアから来たわけじゃないでしょう?」と口を挟んだら、「そんなことは承知していますよ。我々の父祖はおそらく大昔からトラブゾンにいたんでしょう。しかし、僕らはトルコ人としてその文化を共有しているはずです」と切り返され、その時は何となくこれに合点が行かないように思ったものです。

しかし、今年の1月、オバマ大統領の就任演説を日本語字幕で追っていたところ、オバマ氏は“我々”の歴史を振り返りながら、独立戦争の苦難について語っていました。オバマ氏はもちろんのこと、ルーツを辿って独立戦争まで行き着ける米国人はどのくらいいるのでしょう? まあ、トルコも米国のようなものだと思えば、アフメットさんの発言をそれほど不思議に思う必要はないかもしれません。


8月14日 (金)  続・トルコ人のルーツ

昨日、“トルコ人のルーツ”という話を書いてから、トルコ人の友人と会ってその内容を話したところ、彼は「でも、トルコ人のルーツの大部分はやっぱりトルコ人だったんじゃないかなあ」と言います。

「何故?」
「だって、殆どのトルコ人はトルコ語しか知らないよ」
「しかし、中央アジアをルーツとしている人がそんなに多いのなら、もう少しモンゴロイドの形質が残っていても良さそうに思うけれど」
「でも、アゼルバイジャンのアゼリー・トルコ人だって、僕らみたいに西洋風な顔しているよ」
「トルクメニスタンの人たちはかなりモンゴロイド風じゃない?」
「それは確かにそうだね」

彼はそこで考え込んでしまいましたが、中には「我々は中央アジアにいた時から西洋風の顔をしていたんだ」なんて主張するトルコ人もいます。ひょっとすると、祖先がモンゴロイド顔だったら恥ずかしいと思っているのかもしれません。

この話は前にも書いたけれど、未だトルコで暮らし始めたばかりの頃、トルコ人から「ずっと東にも日本人という優秀な人たちがいるおかげで、我々は先祖がモンゴル高原にいたことを恥じなくてすみます」と言われて驚いたことがあります。その人にとって先祖がモンゴロイドであったかもしれない史実は恥ずべきものだったのでしょうか? すると今もモンゴロイド顔している私たち日本人は、その点について少し恥ずかしがらないといけないのでしょうか? とても複雑な気分になってしまいました。

また、今年の4月に、エーゲ海地方へ出かけて土地の人と話したら、その初老の男性は、「私たちトルコ人は昔中央アジアにいたから、貴方たち日本人とも血統的に近かったらしい。だから、他の人たちはどう思っているのか知りませんが、少なくとも私は、自分に貴方たち日本人と同じ血が流れていると信じています」と微笑んで手を差し伸べて来たので、固く手を握り締めたけれど、『えっ? “少なくとも私は”なんですか?』と意外に思ったものです。

90年代になって、ソビエト連邦が崩壊した後、トルコ人の故地と言われているトルクメニスタンやカザフスタンから多くの人たちがトルコを訪れるようになると、『この人たちは容貌も文化習俗も私たちとは大分違うようだ』と感じたトルコ人が特にアナトリア西部では少なくなかったのではないでしょうか。

しかし、日本人と西洋人のハーフでも、かなり西洋的な風貌になる場合があるから、西洋風に見えるトルコ人にモンゴロイドの遺伝子が受け継がれていても不思議ではありません。中南米のメスチゾに似た雰囲気のトルコ人を見かけることもあります。やはり、アナトリアにトルコ語が広がって行った歴史を考えれば、中央アジアから相当数のトルコ人がアナトリアへ渡って来たのは確かでしょう。その割合はどのくらいになるのか解りませんが・・・。

【92】トルコはマイノリティーの寄せ集まりである【ラディカル紙】【2004.21.10】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00092.html




8月15日 (土)  続・トルコのクルド問題

「殆どのトルコ人はトルコ語しか知らない」という昨日の友人の話ですが、これだけで人々のルーツをトルコ人とするのは早計であるように思えます。イスタンブールには、両親が共にクルド人であってもクルド語を殆ど話せない人が少なくありません。

チェルケズ人の友人ハムザは、カフラマンマラシュ県にあるチェルケズ人の村で生まれ育ったからチェルケズ語が話せるというけれど、子供の頃、父親から「正しいチェルケズ語を使え」と良く矯正されたそうです。そういった努力を怠った場合、人は意外なほど容易く母語を失ってしまうのではないでしょうか。在日韓国人の例を見ても、2世で韓国語が殆ど話せない場合がかなりあります。母語を失う為には2世代あれば充分なのかもしれません。

そもそも普通の人々は、いったいどのくらい母語を維持、もしくは取り戻したいと欲しているのでしょう? 衣食住に纏わる欲求に比べれば、それはかなり少ないような気がします。私が深く関わってきたトルコと韓国では、生まれ育った社会や祖国ばかりか、状況によっては母語まで捨てて、欧米へ移民してしまう人たちが驚くほど多く、“祖国や母語”について何度も考えさせられました。

それから、例えばアイルランドの場合、独立しても、母語の回復はそれほど進まなかったようです。独立の原動力となったのは宗教だったのでしょうか?

4月12日 (日) メソポタミア文化センター
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2009&m=4

数年前、この“便り”でお伝えしたメソポタミア文化センターを度々訪れていた頃の話です。受付で常時購買が可能となっていたクルド語の新聞が気になり、いつも受付に座っていた若い女性に、「この新聞、アザディヤ・ウェラト紙と言うのですか? クルド語でどういう意味になるんでしょう?」と尋ねたところ、彼女は近くに立っていた男性を呼んで、その意味を訊いていました。

アレヴィー派のクルド人が多いトゥンジェリ県の出身という彼女、おそらく政治的な関心があったから文化センターでアルバイトしていたのだろうけれど、いつも目の前に置かれている新聞の名称とクルド語の意味には余り関心がなかったようです。

また、やはりここの事務所で働いていたシヴァス県の出身というクルド人女性は、「シヴァス県はトルコ人の土地かもしれないが、それより南東の地域は全て我々クルド人の土地である」と極めてラディカルな主張を明らかにしていたものの、事務所にかかって来た電話を取ると、「あっ、ジョン。久しぶりね。・・・」と暫くトルコ語で通話しました。

「ロンドンにいる友達から掛かって来たのよ」
「お友達はトルコ語が話せるんですね」
「クルド人で、トルコからイギリスへ移住したの」
「でも、ジョンて名前は?」
「もちろんトルコにいた時はそういう名前じゃなかったけれど、イギリスへ移住したからジョンになったの」

これには思わず、『おいおい貴方たちは、“トルコでは子供にクルド語の名前を付けることさえできない”と言って運動しているんじゃなかったのか?』と首を捻ってしまいました。

かつてトルコ共和国は、クルド語による会話さえ禁じて弾圧したから、当然、人々は反発し、それは独立を目指す運動への原動力になったかもしれませんが、民主主義を発展させて、そういった弾圧やクルド人を侮辱するような言動を廃絶すれば、宗教や文化的な基盤を同じくする人々はこれまで通り共存していけるのではないでしょうか。クルド語が解放され、クルド語の放送や教育が可能になった今、“クルド語による学校教育”への熱望は、一部のインテリ層に限られていて、人々を突き動かす原動力には成り得ないように思います。

上述で“侮辱するような言動”と申しましたが、93年だったか、クルド語による放送の是非が議論されていた頃、ジョシュクン・クルジャというタカ派の政治家は、「トルコ語、及び世界的な文化に貢献できる言語以外の放送を禁じるという法案を通せば、如何にヤシャル・ケマル(トルコ文学の至宝と言われているクルド系作家)といえども、クルド語が世界的な文化に貢献できるなんてことは言えないだろう」などと発言していました。

英語やフランス語の教育放送を禁じるわけには行かないから、“世界的な文化に貢献できる言語”なんて馬鹿げた条件をつけたと考えられますが、なんと差別的で下品な言い草でしょう。わざわざクルド人を怒らせる為に発言したとしか思えませんでした。

その後、トルコにおけるクルド人の状況は悪夢のような90年代後半を経て、2002年以降、民主化の流れの中で、やっと希望が見えて来ました。これには時期的なタイミングという要素があったかもしれないけれど、それがAKP政権のもとに実現したという事実は看過できないはずです。いずれにせよ、トルコ共和国は現在の中東地域で、宗教的な抑圧や部族支配を排除した民主主義が可能な唯一の国であると私は思っています。

他の中東各国は、28年間も同じ人が大統領をやっている国、それを世襲する国、聖職者が支配する国、勝手に領土を広げようとする国、そんな国ばかりで、この前漸く自治を手にしたばかりの北イラクも既にそういった兆候を見せ始めています。果たしてクルドの人たちがトルコから分離独立した場合、こういった中東的な世界へ引き寄せられてしまう可能性はないのか考えて見なければなりません。

それでなくても、トルコからの分離独立を望んでいるクルド人は極限られているし、DTPに至る左派のクルド民族運動を主導してきた知識人もその多くは自治連邦制さえ支持していないようです。

【114】連邦制はトルコに適していない【ヒュリエト紙】【2005.02.27】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00114.html

この記事でインタビューに答えているオルハン・ドアン氏(故人)は、かなりラディカルなクルド知識人でしたが、それが本音であるかどうかはともかくとして、ここでは連邦制を望んでいません。

イスタンブールで普通の会社に勤めたりして、もっと一般的な社会生活を送っている人たちの中には、エスニック・ルーツがクルドであっても、「私はトルコ人である」と当たり前に認めている人がいくらでもいるでしょう。

私は“メルハバ通信”の「川崎の産廃屋でダンプの運転手」というエピソードで、自分たちが日本人であるとは思っていない沖縄出身の同僚について書いたけれど、あれを読んで不愉快に感じる沖縄の方も多いのではないかと恐れています。普通に日本人であると思っている方も多いはずだからです。何処の民族問題においても同じことが言えるのではないでしょうか。

メルハバ通信「川崎の産廃屋でダンプの運転手」
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#200


写真は、クルド語の新聞“アザディヤ・ウェラト紙(祖国に自由を)”です。

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8月16日 (日)  ボブ・ディランの先祖はトルコからの移民だった

【108】ボブ・ディランの先祖はトルコからの移民だった【ラディカル紙】【2005.01.17】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00108.html

上記の記事によれば、ボブ・ディランは、その著書で自分のルーツについて次のように記したそうです。「南ロシアの港町オデッサから米国へ移住した。そのオデッサへもトルコのトラブゾンから渡って来たのである。祖母の家族はもともとアルメニアとの国境に近い小さな町キャウズマンに居て、姓はクルグズだった。祖父の家族も同じ地方の出身である。皮革や靴の加工に携わっていたという。祖母の先祖は、イスタンブールからこの地へやって来たそうだ」。

記事には、これを伝え聞いたトラブゾンのクルグズ家の人々が、自分たちはボブ・ディランの遠縁に当たるかもしれないと名乗りを上げ、「ボブ・ディランが明らかにしたことには私たちも驚きました。これは私たちにとっても大変興味深いことです。父も祖父も一人息子だった為、家系についてはそれほど情報がありません。報道を知ってから、祖母の近親者に尋ねて見たものの、祖父アリ・オスマン・クルグズより先には家系を遡れませんでした。父が9歳の時に祖父は亡くなっています。祖父はバイブルト県のトマラ村から移住してきたそうです」と語ったことが報じられています。

この記事が出て既に4年経ちますが、その後クルグズ家の人々はどうしているでしょうか。私が知る限り、これに関する続報はなかったようです。

ボブ・ディランの旧姓はズィマーマンでユダヤ人の家系だそうですが、トラブゾンにいた頃はクルグズ姓を名乗っていたのでしょうか? トルコ共和国に創姓法が制定されたのは1934年のことだから、41年生まれのボブ・ディランの祖母がアメリカへ移民する前の話としては少々辻褄が合わないような気もします。クルグズはそれ以前に使われていた俗称のようなものだったかもしれません。その場合、現在トラブゾンに住んでいるクルグズ家とは余り関係がなさそうに思えるけれど、それならクルグズ家の人々も却ってホッとするでしょう。親族関係が明らかになれば、『えっ? うちも昔はユダヤ人だったの?』ということになってしまうからです。

91年にイズミルで知り合ったトルコ人の靴職人さんは、「僕が子供の頃、イズミルには貧しいユダヤ人の靴職人がたくさんいたのに、それがいつの間にかいなくなっていた」と話していました。ボブ・ディランの祖父母もそんなユダヤ人の靴職人だったのでしょうか。

また、クルグズ家の人が「・・・祖父アリ・オスマン・クルグズより先には家系を遡れませんでした」と語っているけれど、トラブゾン県やリゼ県を始めとする黒海地方では、こういった例が非常に多いそうです。リゼ県出身の友人は、「黒海地方には様々な民族や宗派が存在していたから、家系を遡れないように何かが行なわれたのかもしれない。うちも少し前までしか遡れないんだ」と明らかにしていました。

リゼ県の出身であるエルドアン首相はグルジア系であるらしく、グルジアのサーカシビリ大統領と会談した際、「私もグルジア人です」と公言して物議を醸したことがあります。さらに、エミネ首相夫人は南東部のシールト県出身でアラブ系というから、日本の人たちは大概驚いてしまうものの、トルコでは大袈裟に驚くようなことでもありません。

しかし、この黒海地方はトルコ民族主義が盛んな地域としても知られています。いつだったか、トラブゾン県で、拘留中のクルド人運動家をリンチしようとしたトルコ民族主義者たちが警察署に押し掛けるという事件がありました。

その時、あるジャーナリストは「あの辺の人たちは未だ“トルコ人”になって間もないから、こういう機会にここぞとばかり“トルコ人”であることを見せ付けようとするのだろう」と論評したものです。

また、黒海地方には、トルコ民族主義ばかりでなく強いイスラム主義の影響も見られますが、これも“ムスリムになって間もない”点に結び付けて考える論者が少なくありません。トラブゾンのギリシャ語村で見られるように、改宗した後、新しく受け入れた宗教をそれほど熱心に信仰しない人たちもいるようだけれど、多くの場合、改宗者は非常に熱心な信者になると言われています。



8月17日 (月)  ウイグル人の旧友アリムジャンさん

トルコ共和国で、クルドの人々は言語の相違があるとはいえ、他のトルコ国民との間に宗教や文化的違いがそれほど見られない為、充分に共存して行けるのではないかと思います。食文化なども似たり寄ったりで、日本の本土と沖縄の間に見られるような大きな違いはありません。

ところで、中国におけるウイグル人の状況はどうでしょうか。宗教と文化の相違が甚だしく、漢族との共存は極めて難しいと思われるけれど、ウイグル人の独立は国際社会の中で余り話題にさえなっていないようです。一つの民族が独立する為には、その民族が置かれた状況などより、国際社会における力関係が重要なのかもしれません。

一方、隣接するカザフスタンやウズベキスタンは、ソビエト連邦が崩壊すると共に、するりと独立を達成してしまいました。カザフスタンやウズベキスタンは、もともと連邦内の共和国であり、自治が与えられていた為に、それが可能になったようですが、新疆省のウイグル人にはそんな期待が抱けるでしょうか。現在、新疆省は一応“ウイグル人自治区”と呼ばれているものの、果たして本当に“自治”という実態があるのか、甚だ疑わしいような気がします。

冷戦の時代には、ソビエト連邦なんて公正さの欠片も見られない帝国じゃないかと思っていたけれど、ある程度は真面目に共産主義をやっていたのかもしれません。一方のアメリカは、私のような間抜けな少年が有難く思っていたほどには公正な国でもなかったでしょう。

しかし、アメリカは少なくとも自国内で公正な社会を作り上げてきたと思います。かつての英国も産業革命を経て、民主主義による公正な社会を作り上げ、これによって強大な国家となり得たに違いありません。その後、海外に進出して横暴の限りを尽くしたとはいえ、英国の植民地となった一部の地域に民主主義が伝播されたのも事実じゃないでしょうか。

近世史のこれまでの常識としては、少なくとも自国内に公正な社会を作り上げた国が強国となって国際社会に覇を唱えて来たと言ってよさそうです。まあ、ロシアはちょっと怪しい感じもしますが・・・。

こんなことを言ったら中国や韓国の人たちが卒倒するかもしれないけれど、日本だって明治以降、公正な社会を作り上げることで富国強兵を成し得たのでしょう。87年に韓国へ留学していた頃、日本統治時代を知る年配の女性は、「日本の時代、朝鮮人同士が喧嘩すれば、警察官は非がある方を引っ張っていった。今は賄賂が少ない方を引っ張って行くんだから」と嘆いていました。こういう話を大袈裟に喧伝するのも何ですが、警察官が賄賂を取らないという点に関しては、今も昔も日本は韓国に比して遥かに良い状態じゃないかと思います。

現代の国際社会は、中国が愈々覇を唱える超大国になりつつある様相を見せていますが、中国がこのままの状態で覇権国になれば、これはひょっとして近世史の今までの常識を覆す事態であるかもしれません。

私たちはウイグル人の問題に深く関心を持ち、この巨大な隣国がどうやって公正な社会を作り上げるのか見守って行かなければならないのではないでしょうか。

このように、今回、またしても私の分限を超えた話を書き連ねたのは、昨日、イスタンブール市内でウイグルの問題をテーマにしたシンポジウムを観てきたからです。これまで、こういったテーマの集まりは、エスニック・ルーツに拘る偏狭なトルコ民族主義者たちの大合唱になりはしないかと敬遠していたけれど、昨日はこのシンポジウムに91年以来の友人であるアリムジャンさんがパネリストとして参加することを知り、もう10年近く会っていないアリムジャンさんの話を聴ければと思いながら出かけてみました。

アリムジャンさんはトルファンに生まれ、北京大学を卒業して暫く北京で働いた後、多分、80年代の末にトルコへ移住したようです。私がイズミルのエーゲ大学にあるトルコ語教室で学んでいた91年には、同大学で研究員をしていましたが、今は教授になっています。

アリムジャン・イナイェトさん、知り合った頃に、この姓名を「阿里木江・阿那衣提」と漢字で書いてくれました。アリムジャンさんはモンゴロイド顔なので、北京にいた時は普通に漢族と思われたらしく、漢字で姓名を書き始めると、「どこまで続くの?!」と驚かれたそうです。

昨日、少し早めに会場へ着き、中ほどの席に腰掛けて開催を待っていたところ、会場に入ってきたアリムジャンさんが周囲の人たちと握手を交わしながら、こちらへ近づいて来るのが見えたので、私も立ち上がって手を差し伸べると、彼は私と気がつかなかったみたいで、何気なしに私の手を握り返してから、「あっ、君はマコトじゃないか!」と驚き、手を握り締めたまま、何度も上下に振って、「君は何処にいたんだ? 天から降って来たのか?」と再会を喜んでくれました。

多分、2000年以来の再会じゃなかったかと思います。それからも何度かイズミルを訪れたことがあったけれど、いつも仕事絡みだったり、大学が休みに入っている時期だったりして連絡がつかなかったのです。

それから、お互いの近況を訊き合いましたが、アリムジャンさんはトルコにいるウイグル人の間では有名な人物なので、私も彼が数年前に客員教授として台湾へ行ったことぐらいは知っていました。台湾には1年ほど滞在し、2年まえにはトルコ人の奥さんと子供を連れてトルファンや北京も訪れたそうです。

しかし、今回のウルムチの事件について色々書いたり発言したりしている為、「もう暫く中国へは行けないだろうなあ」と言います。それから、明るい表情に戻って、「でも、来年には愈々日本へ行けるかもしれないよ。日本の大学から招請を受けられそうなんだ」と嬉しそうに話していました。なんとか私も来年は一時帰国を果たして、アリムジャンさん日本で会いたいものです。

シンポジウムが始まると、アリムジャンさんが参加するパネルに先立って、“〜会長”といった肩書きのついた方たちが入れ替わり立ち代り壇上に上がって一席ぶっていたけれど、案の定、「・・・今トルコでは“クルド問題の解決”が叫ばれているが、まずはウイグルの問題を解決しなければならない!」と叫んだ方が拍手喝さいを浴びていました。

クルド問題の解決が今になって急がれているのは、米軍がイラクから撤兵した後、北イラクのクルド人地域がトルコの庇護下に入ることを望むアメリカの意向が働いているのではないかと言われ、慎重に検証してみなければならない面もありますが、トルコ共和国にとってクルド問題は国内の最重要課題に他なりません。それを国外の問題より後回しにするわけには行かないでしょう。

引き続き始まったパネルでは、アリムジャンさんが冷静に中国政府の同化政策を非難していました。アリムジャンさんはトルコの左派政党を支持していたくらいだから、偏狭な民族主義とは異なる視点で問題を見ているようです。「・・・中国は阿片戦争という英国の蛮行を受けたり、日本からも侵略されたりした為、国際社会を信用していないところがある。これも問題の解決を妨げている。・・・中国は国際社会の声を聴かなければならない」と日本人にとっては少々耳の痛い意見も述べていました。

アリムジャンさんは、以下のサイトでもトルコ語とウイグル語によりこの問題を明らかにしているものの、中国からのサイバー攻撃により何度となくサイトは閉鎖され、その度に再開して来たそうです。今、私がアクセスを試みたところ、残念ながら繋がりませんでした。

alimcan.com
www.alimcaninayet.com/



8月19日 (水)  金大中氏

韓国の金大中元大統領が亡くなりました。“民主化闘争の勇士”といった型通りの表現では捉えきれない“したたかでしなやかな政治家”だったのではないかと思います。朴正煕氏や全斗煥氏の軍事独裁政権に対して、度重なる弾圧にもひるむことなく果敢に民主化闘争を展開したけれど、人間のタイプとしては、相手の朴正煕氏や全斗煥氏と良く似ていたかもしれません。いずれも凄まじい権力志向を持ち、強靭な精神力で乱世を闘い抜いた“英雄”ではなかったでしょうか(全斗煥氏は未だ御存命ですが)。

韓国に滞在していた88年、知日派の友人が、「日本の歴史は戦国時代とか明治維新に波乱万丈の物語があって英雄が登場するから面白い。我国の歴史はつまらんよ」と言うので驚いたことがあります。実際、明治維新はともかくとして、戦国時代の方は、山岡荘八の“徳川家康”の韓国語訳がベストセラーになっていたほどだから、日本の歴史を面白がっていた韓国人は少なくなかったかもしれません。

私に言わせれば、明治維新の英雄でさえ、古ぼけた写真から辛うじて面影を偲ぶことが出来るだけなのに、その頃の韓国では“乱世の英雄たち”を間近に見ることも可能だったから、よっぽど羨ましく思えるくらいでした。しかし、これは傍観者の戯言に過ぎないでしょう。当時、韓国の人々は未だほとぼりが冷めていない身近な歴史をそう気楽に振り返って見れなかったはずです。

今や金大中氏も亡くなり、韓国の“英雄の時代”も遠い過去になりつつあります。最近、イスタンブールで大学生ぐらいの若い韓国人観光客の様子を見ていると、随分と線が細くなったような気がしてなりません。この前、友人が経営するゲストハウスで、何だかオドオドした態度の東洋人青年を見かけたから、日本人であると確信して声を掛けたところ、韓国人だったのでがっくり。『貴様、それでも韓国の男か! チョンシンチャリョー(しっかりしろ)!』と叫びたくなりました。

韓国でも“草食系”ならぬ“草食男”なんて言葉が流行っているそうです。まあ、草食どころか栄養失調気味でフラフラしているこんな腐食中年男に言われたかないだろうけれど、あれでは韓国人の男なのか日本人の男なのか見分けがつかなくなって困ります。かつて私が考案した識別法も有効期限が切れてしまったかもしれません。

その識別法とは、まず椅子に座る姿勢。申しわけなさそうな態度で膝をきちんと合わせて座っていたら日本人。偉そうな態度で股をおっ広げて座っていたら韓国人。次は雑踏での歩き方で、『すみません、通らせてもらいますよ』という感じで歩くのは日本人、『どけどけ俺様のお通りだ』と兵隊の行進みたいに足を上げて大股に歩くのは韓国人。まあ、つまらない冗談ですが、雑踏での『どけどけ』は大袈裟にしても、兵隊の行進みたいな歩き方は、本当に有効な識別法でした。

99年だったか、夜の11時ぐらいに人通りの絶えたイズミルの街路を歩いていた時に、向こうから胸を張り腕を振って大股で近づいて来る男のモンゴロイド顔が街灯に照らされると、見知らぬ男だったにも拘わらず、その余りの韓国人らしさに何だか嬉しくなり、すれ違いざまに「アンニョンハセヨ!」と挨拶したら、男も喜色満面になって韓国語で話しかけて来ました。その時は、二言三言言葉を交わしただけで、『また近いうちに何処かで会うだろう』と思って別れたけれど、結局それっきりでした。ちょっと不思議な思い出です。



8月20日 (木)  韓国人の団体客

昨日、“オドオドした態度だったから日本人だと思った”なんて言いましたが、実際、そんな態度を取る日本人が少なくないのです。例えば、イスタンブールの街角で東洋人の旅行者が日本語のガイドブックを広げているから、躊躇わずに日本語で声を掛けると、脅えたような表情で何も言わずに立ち去ってしまったりします。

客引きの類いと思われてしまったのかもしれないけれど、それなら商品の購入等を勧められた時点で断れば良いでしょう。どうも日本の旅行者たちは、断るという行為を苦手としているような気がしてなりません。

16年ぐらい前ですが、土産物屋の客引きをやっているトルコ人に、「なんで日本人ばかりしつこく勧誘するの?」と訊いたら、「日本人は自分から店に入って来ないが、何とかして店に引っ張り込めば、必ず何か買って行ってくれる。アメリカ人などは、自分から店に入って来て、図々しくお茶まで飲んだあげく、何も買わずに出て行ったりする」なんて言ってました。

特にお茶を勧められて飲んでしまったりすると、日本の人たちは『何か買って上げなきゃ悪いだろうか?』と思ってしまうようですが、トルコでは高価な商品を勧める場合、お茶ぐらい出すのは当たり前だから、お茶を飲んでも気に入った商品が見つからなければ、そのまま店を後にすれば良いのです。良心的な店なら気分良く送り出してくれるでしょう。少々剣呑な店でも悪態をつくくらいが関の山で何かするわけじゃありません。

韓国の人たちは、値引き交渉を図々しいくらいやるし、要らなければはっきり断ります。しかし、団体旅行の韓国人たちを見ても、10年ぐらい前に比べて大分お行儀が良くなったというか、パワフルな感じがなくなりました。911が起こり、イスタンブールの観光地がガラガラになった時も、韓国人の団体客だけは来ていて、その恐れを知れないパワーに驚かされたけれど、最近は彼らも少し恐れを知ってしまったのでしょうか。観光名所を歩く際、添乗員が治安上の注意を言い含めたりすれば、ある程度は団体行動を取ってくれるようになったそうです。

93年、まだまだ韓国人の団体客が珍しかった頃、イスタンブールの大学で研究活動を続けながら、団体客が来れば案内役も買って出ていた韓国人の青年学者は、「日本人の団体が羨ましい」と酒の席で溜息をついていました。「日本の人たちは注意事項を良く守ってくれるし、集合時間に遅れたりしないでしょ。韓国人と来たら、バスを降りて注意事項を説明している間に何処かへいなくなってしまい、平気で遅れて来るから、案内するのも大変です」。

私も89年頃に日本で韓国人の団体を何度か引率したことがあるから、その気持ちは良く解ります。団体と言っても普通の観光客じゃなくて、一応、財閥系大企業の研修旅行で来ていた人たちなのに、その規律の無さには唖然とさせられました。

昼、晴海の国際展示場で自由時間にして、バスが出発する前に人員を確認したところ、一人多くなっているのです。数え間違えたかと思って、もう一度数えたけれど、やはり一人多い、『減ることはあっても増えるわけがないよな』と首を捻っていたら、何人かがゲラゲラ笑い出し、「一人多いんでしょ。間違いじゃないですよ。ここに一人余計なのが乗っているから。この男も同じ財閥系の別会社でね。やはり研修旅行で展示場に来ていたんだが、彼のバスはもう行ってしまったそうですよ。可哀想だから、今日一日、私たちのグループに混ぜてやって下さい。夜、ホテルに着いたら、後はタクシーで自分が泊まることになっているホテルへ行ってもらいましょう」などと言います。

グループの代表者も「まあ、良いじゃないですか。経費が掛かればうちで払いますよ」と笑って済まそうとするので、追い出すわけにも行かず、そのまま連れて行くことにしたものの、夕食の予約を一人増やさなければなりません。面倒なことになりそうだ思いながら、次の目的地である霞ヶ関ビルへ向かい、予定通りに見学を終らせてバスへ戻り、人員を確認すると、今度は一人減って数が合っています。

「あれ? さきほどの方は?」と言ったら、また何人かゲラゲラ笑い出して、「彼ならここにいますよー。今度はね、うちのグループから一人いなくなっているんですよ。このビルに同じ財閥系の支社が入っているでしょ。そこに友達がいたらしくて、今日は夕食を一緒に食べてからホテルに戻るって言ってました」という次第。夕食の予約を増やす必要もなくなり、無事に一件落着しました。


8月25日 (火)  ラマダン

先週の21日、ヒジュラ暦(イスラム暦)のラマダン月が始まりました。来月の19日にラマダン月が終るまで、敬虔なイスラム教徒は断食を実践します。

1年を354日としているヒジュラ暦は、太陽暦から毎年11日ずつずれて行く為、ラマダン月も春夏秋冬の季節を巡り、およそ33年で一巡する計算になります。

91年の4月、初めてトルコへやって来た日の翌日か翌々日が、その年のラマダンの最終日だったように記憶しているけれど、あれから18年、トルコは愈々真夏のラマダンを迎えました。これから6年ぐらいの間は夏場が続き、断食の実践は一層厳しいものになるでしょう。また、35歳以下の人であれば、おそらく初めて夏場のラマダンを経験することになるはずです。

今日、イスタンブールにおける夜明けの断食開始時刻は4時42分、日没の終了時刻は19時58分、この暑さの中で水も飲めないのは相当辛いに違いありません。その分、達成した時の喜びはひとしおでしょうか。

しかし、昨日の昼過ぎ、カドゥキョイの繁華街を歩いてみたら、道端に置かれた飲食店のテーブル席に座って食事を楽しんでいる人たちがかなりいて、いつもとそれほど変わらない賑わい、中にはビールを飲んでいる人もいました。まあ、カドゥキョイという街の性格にもよるとは思いますが・・・。

途中、私も良く行く菓子店に入って、ラマダンになると売り出されるギュルラチという菓子を食べたんですが、すっかり顔なじみになっている店員の若い女性二人に、「ところで君たちは断食しているの?」と尋ねたところ、まさしく実践中と言うので、一応「申しわけないね」と言ったら、「良いんですよ。訊いてくれるだけでも嬉しいくらい。そんなこと気にしているお客さん殆どいないんだから」と笑っていました。2人ともコロコロ太って、陽気にケラケラ笑う娘さんですが、客たちが食べているのを見ながら断食するのは尚更辛いものがあるはずです。

クズルック村の工場で働いている人たちはどうしているでしょう? 私が働いていた頃は、秋から冬にかけての比較的やり易い時期だったけれど、今はさぞかし大変じゃないかと思います。当時、生産現場では、村から働きに来ていた人たちの9割強が断食を実践していたものの、生産効率や品質に影響が出ることはありませんでした。皆、「断食しているから生産効率が落ちた」とは言われたくないから、いつも以上に頑張っていたかもしれません。

しかし、今、この季節のラマダンを生産効率や品質に全く影響を与えず乗り切るのは、何処の生産現場であっても、なかなか難しいような気がします。シフトの交替時間に工夫を凝らしたりしている工場もあるのでしょうか。トルコで市場経済による競争が激しくなり、生産効率などを厳しく管理するようになったのは、この20年ぐらいの間だろうから、“夏場のラマダン”というのは結構真新しい課題であるかもしれません。




8月27日 (木)  エリヴァン・ラジオ

ちょっと時間が経ってしまいましたが、とても興味深い内容だったので、8月16日付けのラディカル紙日曜版から“さようならマモステ・アラム”という記事を訳して見ました。

【213】さようならマモステ・アラム【ラディカル紙】【2009.08.27】

http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00213.html

マモステとは、クルド語で師匠という意味になるそうで、トルコのクルド人映画制作者フェスィフ・アルパグ氏が、8月8日にアテネで亡くなったアルメニア人の歌手アラム・ディクラン氏を追悼しています。

記事は、世界で初めてクルド語の放送を行なった“エリヴァン・ラジオ”に関するドキュメンタリー映画の制作を準備していたアルパグ氏が、イスタンブールでアラム・ディクラン氏と出会う場面から始まっているけれど、ソビエトをおちょくるジョークの中に存在していると思っていた“エリヴァン・ラジオ”が、クルド語の放送を行なっていたという話に先ず驚かされました。

しかし、トルコの新聞にこういった記事が当たり前に掲載されるようになったとは、非常に感慨深いものがあります。また、クルドとアルメニア、ソビエト、そしてギリシャの関係など、色々に想像が膨らんでしまう内容ではないでしょうか。トルコを取巻く国際関係はなかなか複雑に絡み合っているようです。

以下の“YouTube”より、記事の中で紹介されている“Ey Dilbere(美しい女よ)”を歌うアラム・ディクラン氏を観るができます。

aram ey dilbere
http://www.youtube.com/watch?v=8lMKgZt922Y&feature=related

ARAM Tigran - Ay Dilbere studio mmc
http://www.youtube.com/watch?v=xHtBKXdQYPA&feature=related


ディクラン氏には、“私はクルディスタン”という少々過激な表題の歌もあるようです。

ARAM DIKRAN Ez Kurdistan Im (Hezin Gerilla)
http://www.youtube.com/watch?v=6cDMoax7_VU


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