Diary 2009. 7
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7月11日 (土)  ボズジャアダ・テネドス島でホメロスを読む

先週末、エーゲ海のダーダネルス海峡近くに浮かぶ、トルコではボズジャアダと呼ばれている島へ出かけてきました。トロイア戦争の舞台になったテネドス島です。

Tenedos
http://en.wikipedia.org/wiki/Tenedos

“ボズジャアダ−詩人の日〜各国語でホメロスを読む会”という催し物に参加したのですが、様々な言語によるホメロスの作品が用意されていた中には、岩波文庫の“イリアス”と“オデュッセイア”もあり、“イリアス”の一部を私が朗読することになってしまいました。

島に到着した金曜日の夜に、「日曜日の朝、何処でも好きなところを2ページほど読んで下さい」と言われて岩波文庫の全4冊を渡されたけれど、なにしろ私は“イリアス”も“オデュッセイア”も辛うじて名前を知っていたぐらいで、一行も読んだことはなかったから、かなりうろたえたものの、『どうせなら、有名な“トロイの木馬”に纏わる部分が良いだろう』と考え、翌土曜日の午後、一生懸命ページを捲りながら、“トロイの木馬”に纏わる部分を探したところ、これが“オデュッセイア”に回想の場面として少し出て来るだけで、元の場面がなかなか見つかりません。それから、ふと思いついてインターネットで検索し、“トロイの木馬”は“イリアス”の物語が終った後の話であることを知りました。これまで、私は何かの機会に「ホメロスの“イリアス”に描かれた“トロイの木馬”はトルコにあります」なんて恐ろしい知ったかぶりを披露していたかもしれません。お恥ずかしい限りです。

結局、“イリアス”の冒頭の2ページを何度も朗読してから本番に臨み、途中二度ほど閊えただけで、なんとか役目を果たすことができました。

会を主宰したジャーナリストのハールク・シャーヒンさんは、「“イリアス”“オデュッセイア”には、ここで起こった出来事が記されています。いわば自分たちの国の物語ですから、これを私たちはもっと読まなければなりません」と仰っていたけれど、確かにこれは“トルコの人たちの先祖の話”と言っても差し支えないでしょう。「我々は中央アジアからやって来た“トルコ人”だ」と主張する人々は不愉快に感じるかもしれませんが・・・。

ホメロスは“西洋文学の父”とされ、欧米ではその作品が必読書になっているそうですが、私たちの場合、それより前に「あんた源氏物語ぐらい現代語訳で良いから読んで置きなさいよ」と言われそうだし、私のような者がホメロスに辿り着くはいつのことになるでしょうか。“中年はさらに老い易く・・・”だから、急がなければなりません。

日曜日の昼には、トロイアの歴史について研究されている方たちの講演がありました。近年になって発掘調査が進んだことにより、トロイアの歴史に関しては、数年の内に何か新しい発見がもたらされる可能性もあるそうです。紀元前1200年頃から、この地域が衰退に向かった要因として、海底の隆起といった大きな天変地異に見舞われたのではないかとする説もあり、これが明らかにされるかもしれないというお話でした。

講演会が終ると、近くの席に座っていた品の良い50年配の女性に話しかけられたのですが、なんでも日本で3年ほど暮らした為、日本にはとても興味があると仰います。

「お仕事か何かの関係で日本にいらっしゃったのですか?」
「ええ、主人が大使として赴任したものですから」
「えっ、大使?」
「そうです。ギュンドゥズ・アクタンといいます」

私はこの瞬間に驚いて、目の瞳孔が二倍くらい大きくなってしまったのではないかと思いました。98年、私はこの方に京都でお目にかかっていたのです。京都の日本トルコ文化協会で、大使御夫妻を交えた催し物が開かれた時のことでした。アクタン大使のお話などがあった後、立食パーティーとなり、私は皿に色々取ってから、ふと見ると席がいくつか空いていたので、そのうちの一つに腰掛けたところ、知り合いの女性に、「そこは大使夫人の席ですよ」と注意され、慌てて立ち上がろうとしたら、ちょうどそこへ大使夫人が見えて、「どうぞお座りになっていて下さい」と、そのまま座らされてしまったのです。

その大使夫人に、こうしてまたお目にかかれたのは、なんとも感動的で実に有り難く光栄な出来事でした。

しかし、アクタン大使は、98年にトルコへ帰任されてから、2007年までラディカル紙にコラムをお書きになっていましたが、2007年の国政選挙にMHP(民族主義行動党)から出馬されて当選し、その活躍が期待された矢先、2008年の11月にお亡くなりになってしまいました。お元気でいらっしゃれば、このような形でお目にかかる機会もあったのではないかと思うと、とても残念です。


7月13日 (月)  ゼイティンブルヌのウイグル人

一昨日、思い立ってヨーロッパ側のゼイティンブルヌという街へ出かけてきました。

イスタンブールのゼイティンブルヌ
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/002.html#210

94年頃、この街へ行くと、日本人や中国人と変わらぬ東洋人風な面立ちをしたウイグル人やカザフ人等が、喫茶店などで屯していて驚かされました。最近は、ウイグルやカザフの人たちも他の街へ引っ越したりして、東洋人風が当時ほど目に付くわけでもないし、その東洋人風もウイグル人などのトルコ系ではなく、漢族の中国人であったりすることが少なくないそうです。

中国の新疆省では、他省から移住してきた漢族に生活圏を奪われつつあるウイグル人が、愈々悲劇的な状況に陥っていると伝えられ、イスタンブールのこの街ではいったいどうなっているのだろうと数日前から気になっていました。

ゼイティンブルヌの駅で降り、駅前の歩行者天国になっている通りを進むと、通りの中ほどに設けてあるベンチに、東洋人風の老人たちが数人腰掛けて談笑していたけれど、敬虔なイスラム教徒の男性に特有な白い帽子を被っていたから、おそらくウイグル人だったように思います。漢族の場合、商売で来ている人たちばかりなので、そもそも隠居生活に入った老人などはいないでしょう。

それから少し先の角へ来て左手を見ると、ビルとビルの間に巨大な東トルキスタン(1930年代から40年代にかけて、現新疆省の地で二度に亘って樹立されたウイグル人を中心とする国家)の国旗が掲げられていました。『おおーっ』と息を飲み、早速、そのビルの階下で営業している食料品店に入って、清涼飲料水を所望しながら、「この辺でウイグルの人たちの集会があったのですか?」と店の人に尋ねてみたけれど、彼は「良く解りませんが、何かやっていたようですね」とつまらなそうに答え、ウイグル人の問題には殆ど関心もない様子でした。

さらに進んでその次の角を曲がり、その先にあるウイグル人経営の“イペッキ・ヨル(シルクロード)”という食堂に寄ってみたところ、まだ夕食には少し早かった所為か、食堂はウイグル人らしい青年が2人お茶を飲んでいるだけで閑散としています。厨房から出て来た、やはりウイグル人と思われる男性に、「食事できますか?」と訊いたら、「えーと貴方は何処の人? ああ日本人ですか。そろそろホルダク(?)という料理が仕上がりますよ。あの2人もこれを待っているんです」と言いながら厨房に私を招きいれ、羊肉とニンジン、ジャガイモが美味しそうに煮立っている鍋を見せてくれたので、私もこの料理が出来上がるのを待つことにして、その間、この男性に色々尋ねてみました。

「貴方はウイグル人なんですか?」
「ええ、東トルキスタンのクルジャ出身です」
「トルコに来たのはいつですか?」
「1966年ですね」
「貴方はその時、何歳でしたか?」
「いや、私は未だ生まれていませんでした」
「すると、中国語はできないでしょう?」
「少しなら話せますよ。中国人に必要最低限のことを説明するくらいはね」

こう言ってから、彼は東トルキスタンの国旗が掲げてある衝立のところへ私を招き寄せ、国旗を捲って半分隠れていた掲示板を指し示しました。そこにはトルコ語で、「イペッキ・ヨル(シルクロード)に中国人は入れません。−イペッキ・ヨル食堂−」と記されていたのです。

「貴方たち日本人も昔は同じように中国人へ“ここへ入るな”とかやっていたんでしょ?」
「ウイグル人である貴方たちの気持ちは解るけれど、我々日本人がやったことはまた別です。あれは良くない、恥ずべき行いでした」
「いえいえ、日本人がやったことは全て正しい、日本人は素晴らしい民族です」

ウイグル人の中にはもっと凄いことを言う人もいて、初対面の私に「ウイグル人の一人として全ての日本人に感謝しています。ありがとう」と手を差し伸べたので、「何故?」と問い返したら、「貴方たちは昔、中国人を沢山殺してくれました」と言い放ったのです。それこそ恥ずべき発言で、冗談にも口にしてはならない言葉じゃないでしょうか。まあ、それぐらい中国に対するウイグル人の恨みは大きいということなのかもしれませんが・・・。

ところで、このウイグル人とは、以後、イスタンブールで何度か顔を合わせたけれど、それはいつも国際見本市の会場でした。私が日本から見えた一行を御案内していると、彼は中国人のグループを引き連れて姿を現すのです。それはちょっと納得し難い光景に思えました。

次のような所感を洩らすトルコ人もいます。「ウイグル人は信用できない。あれほど中国人のことを罵りながら、ここで彼らは中国人と組んで商売しているじゃないか」。しかし、中国語を解するウイグルの人たちが、トルコで一定の収入を得ようとすれば、他の手段はないかもしれません。背に腹は変えられずといったところでしょうか。

先日、トルコの商工相は、中国のウイグル人弾圧に対して、「中国製品をボイコットする」と発言したそうだけれど、これではトルコで暮らしている少なからぬウイグル人たちも不利益を被ってしまうかもしれません。

さて、イペッキ・ヨル食堂のウイグル人男性ですが、羊肉の煮込みを美味しく頂いて勘定を払う時、もう一度彼に、「中国人は本当にここへ入れないの?」と訊いたら、「いや、そんなことはありません。たまにはここへ来る中国人もいますよ」と笑っていました。さて、実際にはどうなっているのでしょう? 



7月14日 (火)  ゼイティンブルヌのカザフ人他

昨日の“便り”に、“敬虔なイスラム教徒の男性に特有な白い帽子を被っていたから、おそらくウイグル人だったに違いありません。”と書いてしまったけれど、ゼイティンブルヌには、カザフ人やキルギス人、ウズベク人といった他のトルコ系民族も暮らしているので、これは早とちりだった可能性が高そうです。(「・・・ウイグル人だったように思います」と訂正しました)

ウイグル人には、日本人や中国人と変わらぬモンゴロイド顔の人もいれば、殆どコーカソイドに見える人もいます。カザフ人やキルギス人のほうが、モンゴロイド顔である割合は遥かに高いでしょう。ウズベク人では逆にコーカソイド風の容貌がかなり多いように思えます。

98年頃に大阪で知り合ったウイグル人の留学生は、ブロンズの髪に灰色の目で、西欧の人たちとも見分けがつかないような風貌でした。彼は新疆省の出身で西安の大学を出てから日本に留学したそうですが、「これが二度目の外国留学であるように感じています。西安でも中国語で苦労しました」と語っていました。

また、西安で宗教への弾圧に抗議して、回族の学生たちとイスラムを象徴する白い帽子を被ってデモ行進した時は、治安部隊から攻撃されて散り散りになって逃げる際、回族の学生たちは皆白い帽子を捨てて逃げた為、周りの漢族と見分けがつかなくなって逃げおおせたものの、彼は直ぐに捕まってしまったそうです。

ゼイティンブルヌには、カザフ人協会という組織もあって、94年頃にそこを訪ねてお話を伺ったことがあります。詳細を覚えていませんが、「カザフスタンにもどんどん中国人が押し寄せてきて脅威を感じているくらいだから、東トルキスタンの状況は厳しいだろう。近いうちにあそこも漢族の土地になると思う」というような悲観的意見を述べたばかりか、「中国に隣接していることは、通商の面でカザフスタンにとって大きなチャンスだろう」と含みのある言い方をしたので驚かされました。


7月15日 (水)  巌流島の決闘

昔、韓国の友人たちに、彼らが時間にルーズなところを論ってやると、「日本人だって、西欧化の過程で時間を守るようになっただけじゃないか」なんて応戦したりするものだから、そういう場合には、次のような話で返り討ちにしてやりました。

「宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の闘いを知りませんか? 武蔵が2時間ばかり遅く来ただけで、小次郎は苛立って集中力を失い、打ち倒されてしまいます。あれが韓国の話だったら、どうせ小次郎のほうも2時間ぐらい遅刻して来るから、苛立つこともなかったでしょう。日本は当時から時間にうるさかったのです」。

戦に明け暮れていた当時の日本では、軍隊的な規律も結構行き渡っていたのかもしれません。しかし、韓国は中華文明の優等生で長い文民統治の歴史を誇っていたから、人々は文弱に流れて規律を失い、時間にもルーズになってしまったのでしょうか? という話になると、韓国の友人たちも俄然勢いを盛り返し、「そうそう、日本は昔から野蛮な軍事体制の国だったからね」と妙なところで納得してくれたものです。

ヨーロッパでも、古くから文明が栄えたイタリアやギリシャなどは、かなり時間にルーズらしいけれど、武力でのし上がった新興のゲルマンやアングロサクソンは、時間にも規律にもうるさいから、“武人統治の歴史が長い国は時間に厳しい”というのは冗談じゃなくて本当に通用するかと思ったものの、トルコの状況を見たら、これは何だか怪しくなってしまいました。

トルコは文明のビザンチンを武力で打ち倒した“武人の国”だったはずなのに、時間にルーズなところは、イタリアやギリシャと大して変わりません。

しかし、考えてみると、中国の清朝も勇猛な満州人が武力で明を打ち倒して建てた国だったけれど、満州人はあっという間に中華文明へ飲み込まれ、文弱に流れてしまいました。ひょっとすると、トルコの歴史でも似たようなことが起こっていたのではないでしょうか。なにしろアナトリアは、ギリシャ神話の舞台ともなった古い文明の地ですから、ビザンチンを武力で倒したトルコ人もあっという間にその壮大な文明に感化され、その中へ飲み込まれてしまったかもしれません。実際、少なくともアナトリア西部の人々は、“勇猛なトルコ人”というイメージからはほど遠い、柔和で文明的な人々です。まあ、情実社会で不正もたっぷり、こんなところも古い文明の国であるイタリアや中国に似ているような気がするけれど・・・。

そんなトルコ人の“ムサシ”と“コジロー”が決闘することになったらどうなるでしょうか。コジローが待つビュユック島へ渡ろうと思ったムサシは、船を間違えてヘイベリ島へ渡り、「おかしいなあ、コジローの奴、何処へ行ったんだろう?」とのんびりチャイを飲みながら海を眺めているうちに日が暮れてしまい、一方のコジローは、ビュユック島で「ムサシの奴、それにしても遅いなあ」とぼやきながら、茶店でバックギャモン(西洋双六)に興じているうちに決闘のことなど忘れてしまうのです。メデタシ、メデタシ。


7月17日 (金)  トルコ語の四行詩マーニ

2年ほど前、“地球街道”というテレビ番組の取材に同行させて頂いた時に、アナトリア東部シヴァス県のアラハジュという村で、村の娘さんたちが“マーニ”と呼ばれる四行詩を詠み合う光景を間近に観ることができました。以下に二つほど例をあげますが、撮影の際、娘さんたちはこの他にもいくつかのマーニを諳んじて見せたほどで、予行など全く必要としない、ぶっつけ本番でした。

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Maydonoz deste deste
Gel babamdan beni iste
Eger babam vermezse
Kir at benim icin besle

マイドノズ デステ デステ
ゲル ババムダン ベニ イステ
エエル ババム ヴェルメズセ
クル アトゥ ベニム イチン ベスレ

パセリを束ねて
来て、父から私を望んで
もしも父が許さなかったから
灰色の馬を私の為に育てて


冒頭の“パセリを束ねて”は語調を合わせる為の決まり文句らしく、別に意味はないという説明でした。最後の“灰色の馬を私の為に育てて”は、「駆け落ちする為の馬を用意してくれ」という意味で、トルコでは保守的な東部の農村においても、恋する若者たちの最後の手段として“駆け落ち”が認められているようです。

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次は、本来男女の掛け合いによるもので、女性の句から始まります。男性の句の冒頭に“カーネーションを植えないでくれ”とありますが、これはカーネーションを植える時、腰を曲げて頭を下げなければならないことに由来しているそうです。“うなだれないでくれ”も直訳すれば「首を曲げないでくれ」となります。

Daglarda meselerde
Gulsuyu siselerde
herkes yarini aldi
Biz kaldik koselerde

Karanfil ekme yarim
Boynunu bukme yarim
Ben seninim sen benim
Hic merak etme yarim

ダーラルダ メシェレルデ
ギュルスユ シシェレルデ
ヘルケス ヤーリニ アルドゥ
ビズ カルドゥック キョシェレルデ

カランフィル エクメ ヤーリム
ボイヌヌ ビュキュメ ヤーリム
ベン セニニム セン ベニム
ヒッチ メラク エトゥメ ヤーリム

山々に、樫の木に
薔薇の水は瓶の中に
誰もが恋人を得た
私たちだけが取り残された

カーネーションを植えないでくれ、恋人よ
うなだれないでくれ、恋人よ
僕は君のもの、君は僕のものだ
心配しないでくれ、恋人よ

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マーニを詠む伝統は、トルコの各地方に受け継がれているそうですが、シヴァスの後に訪れたカッパドキアでは、これが全く行なわれていないようでした。オスマン帝国の末期に至るまで、カッパドキアにはギリシャ系の住民が多く、独自の文化が育まれていたからでしょうか?

シヴァス県や、さらに東のエルズルム県などでは、サズという伝統楽器を手にした吟遊詩人“アーシュク”による弾き語りも盛んに行なわれていると言われ、トルコ語の土着的な詩を詠む伝統が濃厚に受け継がれているのかもしれません。

興味深いのは、こういった如何にも原トルコ的な文化が残っているアナトリア東部のシヴァス県やエルズルム県には、クルド系の住民も少なくないことです。しかし、考えて見れば、本来は遊牧の騎馬民族だった中央アジアのトルコ人とクルド人の文化は、かなり似通ったものだったのではないでしょうか。

このアナトリア東部には、部族制度の残滓も見られ、アナトリア西部の近代的なトルコの人々から眉をひそめられています。また、そういった部族の多くがクルド語を話している為、近代的なトルコ人の中には、これをクルド的なものだと思い込んでいる人も少なくありませんが、お手軽にウイキペディアのトルコ語版で調べてみても、本来はトルコ系だった部族が、後にクルド化してクルド語を話すようになった例も少なくないと説明されています。

ディヤルバクル県出身のクルド人の友人も、「アクコユンル部族は、そもそもアクコユンルという名称がトルコ語だし、アクコユンル王朝(白羊朝)の血筋を引くトルコ系の部族と言われているが、彼らは皆クルド語を話しているよ」と明らかにしていました。彼によれば、有名なマラズギルトの合戦も、トルコの部族とクルドの部族が力を合わせて、ビザンチン帝国軍を打ち破った戦いなんだそうです。

その後、トルコ部族の一派はさらに西進し、ビザンチン帝国の制度や文化を受け継いでオスマン帝国を築いたけれど、他のトルコ部族とクルド部族は、そのまま“辺境の部族”として取り残されてしまったということなんでしょうか? 

2カ月ほど前、ギリシャとの国境に近い、トラキア地方エディルネ県のウズンキョップルを訪れて現地のトルコ人と雑談したら、彼は次のように語っていました。「私たちの文化習俗は、アナトリア東部のトルコ人のものとは余り関係がありません。どちらかと言えば、そこにある国境を越えた向こう側に住んでいる人たちの文化に近いです」。

確かに、アナトリア西部の人々の様子を見ても、かなりギリシャに近い雰囲気を感じます。



【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である【ラディカル紙】【2004.12.30】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00105.html

【150】アルメニア文字で表記されたトルコ語の小説【ザマン紙】【2006.05.08】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00150.html


7月20日 (月)  トルコ人の熱い人情

トルコ語には、親族の間柄を表す言葉が色々あって、ややこしくなります。父方のおじさんはアムジャ、母方の場合はダユ、おばさんも父方はハラ、母方はテイゼと言い分けたり、親族の男性の奥さんをイエンゲ、親族の女性の旦那をエニシテと呼ぶなど、時々、どっちがどっちだったのか解らなくなってしまいます。

韓国語もこういった言葉の使い分けがややこしくて閉口したけれど、これは家族や親族の結びつきの強さを表しているのでしょうか? トルコや韓国のお嫁さんたちは、親族との付き合いでなかなか苦労させられることが多いそうです。

これに比べれば、日本の親族関係は遥かに淡白であるような気がします。その代わり会社関係の結びつきが強くて、奥さんたちはその付き合いで苦労しているかもしれないけれど・・・。

明治や江戸時代の“家”について書かれた記事を読んでいると、養子縁組、それも成人した後で他家の養子となり、その家督を継いだりする話が良く出て来るので驚かされます。思ったより血縁には拘っていなかったということでしょうか。もちろん、基本的には嫡子相続なんだろうけれど、大阪の商家は殆ど女系相続だったと言われているし、現在でもそういった女系家族は珍しくないようです。トルコの場合、結婚した男性が相手女性の姓を名乗ることは殆ど有り得ません。(例外は、元首相のタンス・チルレル女史の夫オゼル・チルレル氏) 

また、トルコでは血縁関係ばかりでなく、全ての人間関係が日本に比べて濃厚というか、日本の感覚からすれば、何だかベタベタしているように感じられるでしょう。

トルコの人たちは、「人情や家族のあり方が似ているから日本が好きだ」とか「人情がなくて冷たいからイギリス人は大嫌いだ」なんて言うけれど(イギリス人を前にした時は何と言っているのか不明ですが)、人情より規律が大事だったりする点では、日本人もそのイギリス人に良く似ているような気がします。

例えば、2年ぶりにトルコを訪れることになり、これを前もって親しいトルコの友人に知らせたなら、平日の勤務時間中であっても、友人は空港まで出迎えに現れ、そのまま自分の家に招待してくれるかもしれません。韓国では、実際にこうして友人の出迎えを受け、家に招待されたことがあります。しかし、これが日本であれば、外国の友人が2年ぶりに日本を訪れるとしても、「何処のホテルに泊まるの? 仕事が終わったら寄るから一緒に晩飯でも食べよう」と言うのが関の山じゃないでしょうか。仕事をほったらかして友人を出迎えに行ったらそれこそ顰蹙を買いそうです。




7月21日 (火)  意地と張りと見栄

暴力団の山口組は、今の組長が6代目だそうだけれど、初代と2代目が父子だっただけで、後の各代は全く血縁関係がないというから、そういうのも珍しい話じゃないかと思って、ちょっと調べてみたところ、ああいった裏社会の組織は、何処でも血縁関係だけで結びついているわけではないようです。“血よりも濃い義兄弟の契り”なんて言いますが、人間は一緒に悪事を働くと連帯意識が高まるのでしょう。

YouTube−山口組
http://jp.youtube.com/watch?v=QcRCGFn4beM&feature=related

これは、1984年にNHKで放送された番組のようですが、この山口組幹部に対するインタビューの様子などを見る限りでは、何だか整然としていて、割りと規律のある結構まともな組織じゃないかと思わされてしまいます。実際、あれだけ大きな組織が今でも続いているのだから、侮り難い組織力じゃないでしょうか。トルコだったら、そのうち皆が勝手なことをやりだすから、絶対に続きません。

しかし、インタビューで幹部の親分が、「・・・我々の社会は意地と張りで生きているんです。見栄もあるだろうしね。実際は世間からみて、それほど優雅な暮らしじゃありませんよ」なんて語っているけれど、“意地と張りと見栄”、これで生きている人は、トルコに沢山いるんじゃないかと思います。でも、指をちょん切ったりするのは嫌がるでしょうね。

以下は、上記番組の最初の部分ですが、4代目の襲名式の場面が出てきます。

YouTube−山口組
http://jp.youtube.com/watch?v=3mgrUO0Ycxk&feature=related


7月25日 (土)  家族3人の姓が全て違う?

2008年1月19日 (土) 新年のチーキョフテ 
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=1

トルコ人の家庭に下宿(1)「祖父母の秘密」
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#90

トルコ人の家庭に下宿(2)「イスタンブールのライブハウス」
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#100

一昨日、上記の“便り”等で度々御紹介したジャビデさんのところで夕食を御馳走になってきました。ジャビデさんの家族とは、94年に半年ほど下宿して以来、もう長い付き合いになります。

この日、ジャビデさんと娘のベルクスさん、三男坊のユミット、そして昨年結婚したベルクスさんの御主人であるハーカンさんと夕食の席を囲み、世間山話に花を咲かせながら、この家族に関する意外な事実を知って、少々驚かされました。94年当時から、この家族の3人は、全て姓が異なっていたそうです。

ジャビデさんの姓はクビライ、娘のベルクスさんがジャンテュルク、そして三男坊ユミットの姓はパムクで、何故そんなことになってしまったのかと言えば、トルコでは法律上、子供は必ず父方の姓を名乗らなければならない為、二度離婚したジャビデさんが元の姓に戻った後も、子供たちは各々の父親の姓を名乗っているからだと言います。

しかし、そうなると元首相のタンス・チルレル女史の家族はどうなるのでしょう? チルレルは元々タンス女史の姓であり、結婚する際、タンス女史が夫のオゼル氏にこれを無理やり認めさせたと言われているけれど、この夫婦が離婚した場合、今はチルレル姓を名乗っている息子さんたちの姓がどうなるのか気になります。

もちろんベルクスさんは、今、ハーカンさんの姓を名乗っていますが、「以前、ここでお母さんとユミットの3人で暮らしていた頃は、時々、郵便屋さんなどから“この家は3世帯が同居しているんですか?”なんて訊かれたりしたのよね」と笑いながら話していました。

まあ、トルコと日本の家族制度には、異なる点がかなり多そうです。

2008年8月31日 (日) それでは世間が立たぬ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2008&m=8

上記の“便り”で話題にした「冥途の飛脚」の主人公忠兵衛は、成人した後に奈良の農家から大阪の飛脚宿へ跡継ぎの養子に出されています。飛脚宿の御上さんには子供がいなかったようですが、この家も大阪の商家の例に漏れず女系家族だったのでしょうか。とはいえ、店の経営等は全て男に任されていたらしく、読み書きの出来ない御上さんが忠兵衛に容易く騙されてしまう場面も出てきます。この飛脚宿は結構な大店という設定みたいだから、当時の日本で、婦女子の間にも読み書きが普及していたなんていう話はかなり怪しいかもしれません。

でも、私が中学高校で学んでいた頃の歴史の教科書に、江戸時代、大阪の商家に女系が多かったなんていう話は出てこなかったし、どちらかと言えば、家父長制による封建的な大家族の問題などが強調されていました。

しかし、例えば、以下の山本七平の著作にざっと目を通しただけでも、教科書の記述とは大分違った様相がいくつも明らかにされています。

「日本人とは何か」
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%82%E2%80%95%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%A1%8C%E5%8B%95%E5%8E%9F%E7%90%86%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-NON-SELECT-%E5%B1%B1%E6%9C%AC-%E4%B8%83%E5%B9%B3/dp/4396500939


もっとも、私のような無学の輩が、これを読んで何処まで正しく理解できたのか疑わしいし、“教科書的な常識”を打ち崩そうとして、そういった例ばかり上げているかもしれないから、気をつけなければいけないけれど、「・・・日本には夫権と親権はあっても大家族制度の国のような家長権はなかった」と切り出して、江戸時代の家族制度を説き明かす件では、「・・・核家族化は決して戦後にはじまったものではない。家長権を認めない徳川時代の民法がすでにそれを指向している。両親は隠居で核家族、厄介者は出て行って核家族、残った当主も核家族・・・」なんて記されていて、これには思わず納得させられました。考えてみれば、落語に出て来る江戸の長屋の人たちは、核家族であるとしか思えない場合が殆どでしょう。しかも間男がやたらと出てくるし・・・。やはり、当時からトルコの家族とはかなり違っていたんじゃないかと思います。



7月27日 (月)  アルメニア人のガービおじさんと猫

2004年〜2005年にかけて1年ほど間借りしていた部屋の家主だったマリアさんの家族、そして家族の友人ガービおじさんについては、今までにも何度なく話題にしてきました。

マリアさんは一昨年の4月に亡くなり、家族は娘のスザンナさんと彼女の息子のディミトリー青年の2人だけになったけれど、新年や誕生日のような祝い事があれば、必ずガービおじさんも訪ねてきて、相変わらず賑やかにというか騒々しくやっています。ガービおじさんは耳が遠いから大声で話さなければ聴こえないという要因もありますが、スザンナさんも今は亡きマリアさんと同じく、直ぐに感情を剥き出しにして喚きたてるため、いつも大騒ぎになってしまうのです。

2007年の新年祝い
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=1

86歳になるガービおじさんは、マリアさん家族と既に50年近い付き合いらしいけれど、マリアさん家族のようなルームと呼ばれるトルコ国籍のギリシャ人ではなく、アルメニア人であり、正式にはカプリエル・ヌバル・ムムジュヤンと言います。

ガービおじさん、トルコ語にアルメニア語ばかりか、イタリア語とフランス語をこなし、ギリシャ語もかなり話せるものの、さすがにマリアさん家族と話す時は、殆どトルコ語を使っています。

ガービおじさんが生まれた86年前、その家族はイスタンブール市内のシシリーに豪邸を構え、イスタンブールの沖合いに浮かぶビュユック島にいくつものお屋敷を所有し、働くお女中さんたちの数は30人を下らなかったという話です。

ガービおじさんはフランスのパリで生まれ、3歳の時にイスタンブールへ戻り、イスタンブールの名門ガラタ・サライ高校を卒業して、大学はイタリアのフレンツェに学んだというから、それはもう大変なエリートであったに違いありません。

さらに、マリアさんから聞いたところによれば、若い頃のガービさんはサッカー選手としても活躍し、やはりビュユック島出身でトルコの伝説的なサッカー選手であった“レフテル・キュチュックアンドニヤディス(Lefter Kucukandonyadis)”がトルコ・リーグのフェネルバフチェから、1951年にイタリアのフィオレンティーナへ移籍した際には、そのマネージャーを務めたそうです。

レフテル・キュチュックアンドニヤディス(Lefter Kucukandonyadis)
http://en.wikipedia.org/wiki/Lefter_Kucukandonyadis

しかし、レフテル・キュチュックアンドニヤディスは、マリアさん家族と同じルームと呼ばれるギリシャ系ですが、ガービおじさんは、いつもこの人物を“恩知らず”と口汚く罵っています。

2007年の正月、上記の話をホームページに書こうとして、マリアさんに確認の電話を入れた時も、マリアさんがちょうどそこにいたガービおじさんから、わざわざイタリアの移籍先チームの名前を聞き出そうとした為、激怒したガービおじさんが、「なに! レフテルだと? マコトはいったい何を調べているんだあ! レフテルは恩知らずの糞野郎だあ!」と喚いている声が電話口まで聴こえてきました。

レフテル・キュチュックアンドニヤディスは、今もビュユック島の名士として健在であり、島にはその名を冠した街路まであって半ば生ける伝説と化しています。それに引き換え、ガービおじさんは、今やシシリー区内の小汚いアパートで侘しい一人暮らし、レフテル氏との間に何があったのか知りませんが、彼我の差を思うと悔しくて仕方がないのでしょう。

レフテル氏については、マリアさんも「大工の子で読み書きも知らない(おそらくギリシャ語の)」と言って貶していました。マリアさんは、レフテル氏と同じルームであっても、没落したブルジョワとしてはガービおじさんと同じ立場にあったわけで、そこには階級的な意識も潜んでいたように思います。

現在、シシリー区内にあるガービおじさんのアパートには、スザンナさんが週に3回ほど訪れて面倒を見ているだけで、往時の栄華は偲び様もありません。昨年の今頃には、30人のお女中どころか、17匹の猫に囲まれて目も当てられない有様となっていました。猫はマリアさんから2匹もらって飼い始めたのがどんどん増えてしまったというけれど、なにしろ1匹も外に出さず、17匹を全て部屋の中で飼っていたため、その臭さといったら堪りませんでした。ついには階下の住人からも苦情が出たので、スザンナさんが説得して、猫を少しずつビュユック島へ移すことになり、これが一昨日、1年がかりでやっと完了したのです。

一昨日、私も手伝って4匹をビュユック島に運び、残るはとうとう1匹だけになりました。1年の間に、また8匹ぐらい生まれたらしいから、都合24匹ほど島へ運んだことになるでしょう。

昨年、この猫移動作戦が開始されて以来、何度かガービおじさんのアパートを訪れましたが、その臭いもさることながら、部屋の大部分は古新聞や余り必要とも思われないガラクタの山で占拠されており、『よくこんな所で暮らせるものだなあ』と溜息が出てしまいます。

古新聞の中には、イスタンブールで発行されているアルメニア語の新聞もあり、2007年の1月、この新聞の代表者が殺害された事件で、ガービおじさんは冷淡に何の感想も洩らさなかったとスザンナさんが嘆息していたけれど、ガービおじさんは今でもこれをシシリー区内にある発行元まで出向いて購入し続けているそうです。

【165】暗殺されたアルメニア系ジャーナリストへのインタビュー【ラディカル紙】【2007.01.23】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00165.html

ガラクタの山とは申し上げたものの、壁にはイエスの描かれたイコンのような絵が掲げられており、これは満更ガラクタでもないかもしれません。そして、もう一枚、壁に掲げられた古めかしい肖像画。トルコ帽を被った威厳のある人物が描かれていますが、この方はガービおじさんの祖父にあたり、オスマン帝国の高官として栄達を極めた人物であるといいます。

トルコ帽−フェズ(帽子)
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83t%83F%83Y_(%96X%8Eq)/

さて、猫移動作戦は、当初、ビュユック島で“猫屋敷”と呼ばれている廃屋の庭に猫を放す計画だったものの、これは昨年7月の第一回目で早くも頓挫してしまいました。

あの日、ガービおじさんとスザンナさん、私の3人で島へ向かい、船が島の桟橋に着くと、計5匹の猫が入った二つのキャリーケースを私が抱え、ゆっくりとしか歩けないガービおじさんを後ろに残したまま、スザンナさんと一足早く“猫屋敷”に着いて様子を窺っていたところ、そこへガービおじさんと同い年ぐらいの老人が現れ、「君たち、猫を放すんじゃないだろうね。そんなことしてはいけないよ」と厳しい口調で私たちに注意したのです。

スザンナさんは、「いいえ、猫を放すなんて。私たち、ここで友人を待っているだけですから」と殊勝な態度で言い訳したものの、老人は通り掛った二人連れをつかまえて、「こうやって無責任に猫を放す人が後を絶たないから困ったものです」と嫌味たっぷりに話してから、その場を後にしました。

これでは、さすがにそこで猫を放すわけにはいきません。仕方なく、ガービおじさんを探しに、桟橋の方角へ向かおうとして、最初の角を曲がったら、その陰にガービおじさんが佇んでいました。『さては揉めているのを見て、ここに隠れていたんだな』と私は思ったけれど、スザンナさんはそういう風に受け止めなかったようです。

「あっ、ガービ、今来たの?」
「どうだ? 猫は放したのか?」
「それが放せなかったのよ。ほら、キャリーケースを見なさい。未だ猫いるでしょ。放せなかったのよ」
「なんで放さなかった?」
「あんたの宿敵が現れたのよ。あんたの宿敵! レフテルよ! レフテル! レフテルが出て来て、猫は放すなって!」
「えっ! なんだって? レフテルか? レフテルがいたのか? おのれ、レフテルの奴め! 恩知らず! 糞野郎!」

『へーっ、あの御老人が、かの伝説的なサッカー選手、レフテル・キュチュックアンドニヤディスであったのか』と私は何だか感慨深く、老人の面影を思い返してみたものの、ガービおじさんを見たら、それどころじゃなくて、「アッラー(神)に誓って申します。レフテルは恩知らずの糞野郎です」と泡を飛ばしながら、大袈裟な所作で十字を切り、再び「アッラー・・・」と繰り返して、大袈裟に十字を切ります。“アッラー”は、アラビア語で神(ゴッド)を表す言葉だから、キリスト教徒のガービおじさんが「アッラー」と言ったところで、なんの不思議もありませんが、その大袈裟な十字を切る所作と「アッラー」の繰り返しは何だか妙に思えてなりませんでした。

結局、猫はマリアさん家族が以前から借りていた別宅の中庭へ放すことにしました。“猫屋敷”なら、猫へ餌をやるおばさんが常時いるものの、ここではそうも行かないため、ガービおじさんは嫌がっていたけれど、他に適当な場所もなく、なんとか承知してくれたのです。

しかし、別宅前の通りでも猫に餌をやる人たちがいて、猫たちは中庭から通りまで出て来て餌を漁るから、ガービおじさんが心配したような事態には至りませんでした。

一昨日、猫を放した後、ガービおじさんが中庭に餌を置くと、以前連れて来た猫たちも寄ってきたので、ガービおじさんは嬉しそうに「ジジクズム(可愛い娘よ)、ジジクズム」と呼んでいましたが、“可愛い娘”の中には既に野生化してしまったのか、餌には近づいても、ガービおじさんには近づかない不届き娘もいて、ガービおじさんの後姿は心なしか寂しそうに見えました。



7月28日 (火)  楢山節考

ガービおじさん、猫移動作戦では、私が猫を手荒く扱うと言って一時へそを曲げ、私を遠ざけていたことがあります。最近は、昔と同じように愛想良く接してくれるものの、私を呼ぶのに、しょっちゅう名前を間違えて「カジモト」と言うのは、何だか気になって仕方がありません。これが“梶本”と間違えているのなら構わないけれど、ガービおじさんが日本人の姓名をそんなに知っているわけはないし、ひょっとして「ノートルダムの鐘つき男“カジモド”」に引っ掛けた嫌味な当てこすりじゃないかと勘ぐっています。そうすると、スザンナさんはジプシー女のエスメラルダで、御自身は悪徳神父といったところでしょうか。

まあ、ガービおじさんがなかなか厄介な爺様であるのは確かです。“性、狷介、自ら恃む所頗る厚く”で正しく「山月記」の李徴を思わせますが、李徴ほどには尊大でもないから、そのうち虎じゃなくて猫に化けてしまうかもしれません。

へそを曲げていた頃は、「楢山節考」についてしつこく話していました。マリアさん共々未だ羽振りが良かった頃は、スザンナさんも連れてフランスやイタリアへ旅行したというから、何処かで映画の「楢山節考」を観る機会があったのでしょう。

「日本には爺さん婆さんを山に捨てる習俗があったらしい。まあ、文化も文明もない野蛮な国だったからな。こうやって足を縛り付けて、ドンと突き落としたら、コロコロ転げて落ちて行くんだよ。ハハハハハ」

特にこの「ドンと突き落としたら、コロコロ・・・」が面白かったらしく、何度も愉快そうに繰り返して大笑いするのです。『この日本人、猫の次は俺も捨てるつもりか?』なんて思っていたかもしれません。

しかし、ガービおじさんの話を聞いていると、東郷平八郎を賞賛したりしたこの世代のトルコの知識層が、実際には日本をどう見ていたのか解るような気もします。西洋文明の揺籃の地に栄えたオスマン帝国の末裔にしてみれば、当然、そのように思えたでしょう。「東洋の野蛮国がロシアやアメリカを相手になかなか頑張った。褒めてやりたいよ」ぐらいの気持ちだったのではないでしょうか。

ところで、先日の「江戸時代の核家族化」という話について、そんなきれいごとじゃなかったのではないかという御指摘を頂きました。

江戸時代、農村の余剰人口は江戸や大阪などへ流入、長屋というスラムを形成したものの、その生活環境は極めて劣悪で若死にする者も多く、たとえ生きながらえたとしても、結婚して子孫を残すのは経済的にも難しかった為、一生独身のまま過ごす者が少なくなかったそうです。江戸時代に人口が殆ど増えなかったのは、農村の間引きや姥捨てより、若者が都市へ捨てられていたからであるという訳です。

しかし、現代に生きるこの私も、結局この歳になるまで結婚して子孫を残すことは出来なかったから、同じようなものでしょう。島に捨てられても子孫を残し続ける猫は、なかなか立派であるかもしれません。


歴史人口学で見た日本 (文春新書) (新書)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AD%A6%E3%81%A7%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%80%9F%E6%B0%B4-%E8%9E%8D/dp/4166602004



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