Diary 2009. 3
メニューに戻る
3月1日 (日)  遠い日本とトルコのエルトゥールル号

先月、ヨーロッパ側のベシクタシュにある格安のファーストフード店で、顔馴染みの店員フュセインさんと話し込んでいたら、向かいの席に腰掛けていた青年が、「えっ、貴方は日本人ですか?」と頓狂な声をあげ、「僕はこの前、日本へ行って来たばかりなんですよ」と親しげに話しかけてきました。

大学生と思しきこの青年、彼女と一緒に2週間ほどの日本旅行を楽しんできたそうです。

東京は池袋のサクラホテルにずっと泊まっていたと言うので、「京都とか大阪には行かなかったの?」と訊いたところ、一度富士山の近くまで出掛けたのを除いて、ひたすら渋谷や原宿に入り浸っていたらしく、神社仏閣といった観光名所には余り興味がないようでした。

「色んなもの食べて楽しく飲んで、もう日本は最高ですね! 僕はまた日本へ行きますよ。出来れば日本で暮らしたいくらいです」と興奮した様子で日本の思い出を語っていました。

彼は店員のフュセインさんとも親しいようだから、このファーストフード店の常連なのでしょう。お金持ちのボンボンというわけでもないようです。

また、彼はともかく、彼女の親が良くぞ旅行に反対しなかったと思うけれど、今のトルコで、これはそれほど珍しい話ではないのかもしれません。

例えば、昨年の6月21日の“トルコ便り”で御紹介した山娘のエリフも、彼氏の青年と平気でイランの山へ出かけていました。あのカップル、去年の11月に結婚したとはいえ、イラン遠征の当時は未だ婚約すらしていなかったのです。

2008年6月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2008&m=6

私と同じ世代の友人は、「俺たちが若い頃には、考えられん話だなあ」と唸っていましたが、今やごく普通の若いカップルが、ひょいと日本へ旅行できる時代になったのでしょう。

2006年に、トルコの企業の方たちと日本へ出掛け、余暇に浅草を御案内した時には、こんな出来事もありました。

一行と浅草寺の境内を歩いていたところ、私たちの直ぐ隣に欧米から来たらしいバックパッカー風の若い女性の姿があり、この女性がまた飛び切りの美人だったから、一行の一人が遠慮もなくトルコ語で、「おい、マコト、隣の娘を見なよ。凄い美人だぜ」と大きな声で話したら、件の女性、パッとこちらを振り向き、「テシェキュルエデリム(ありがとう)」とトルコ語で応じて微笑んだのです。

これには一同爆笑、私もびっくりしたけれど、つまらないことを言ってしまった社長さんは、恐縮して何度もその女性に非礼を詫びていました。女性はイズミルの出身でアメリカに留学中と言い、彼女も思いがけない同胞との出会いを結構喜んでいたかもしれません。

さて、「日本は最高!」と語ってくれた青年ですが、彼は深夜になっても賑わうエネルギッシュな東京の繁華街で若者同士の交流を楽しんで来たようです。もともと、漫画やファッションといった若者の文化から日本に興味を抱いたらしく、堅苦しい歴史の話などは最初から対象外だったのでしょう。

それは、昨年、12月17日の“便り”で御紹介した「日本のストリート・ファッションの店“エド”」の店主レイラさんと同じような経緯だったのではないかと思います。

2008年12月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=12

【207】現代のチューリップの球根:日本【ラディカル紙】【2008.12.15】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00207.html

40代以上の古い世代に属するトルコの人たちが、「日本に親しみを感じる」と言った場合、そこには『西欧のように我々を見下したりしない、同等、あるいは我々が少し見下しても構わない親しみ易い存在』という意識が潜んでいるのではないかと考えながら、私たち日本人の中にも存在している同様の潜在意識に行き着いて悄然となったりします。ファーストフード店で会った青年やレイラさん夫婦のような若い世代に、そういった意識が感じられないのは、せめてもの救いでしょうか。

17年ほど前、ある日本の女性が、親しくしていたトルコ人男性に、漱石の“こころ”の英訳をプレゼントしたところ、「・・・この程度の小説はトルコにもある・・・大したものではない・・・」といった読後感想を長々と書いて寄越したのでがっかりしてしまったという話も聞きました。

一神教的な側面が見られない“生死の葛藤”は、現代トルコの教養人にとって興味深くはなかったのかと残念に思えるけれど、トルコの教養人たちは日本の文学や芸術へ驚くほど僅かな興味しか示しません。

例えば、村上春樹が世界的に読まれている事実は知っていても、『なんで日本の小説が読まれているのに、トルコの小説は読まれないのか?』と残念に思うだけで、村上春樹の小説を読んで見る気にはならないようです。

これも17年ほど前の見聞ですが、私より一回り上の世代、15歳ほど年長のトルコの教養人は、中年を過ぎてから日本に興味を抱き、日本語を学び始めた経緯を次のように説明してくれました。

西欧化を目指すアタテュルク主義者として、トルコ人という民族意識はあったものの、そのルーツとなる中央アジアや東洋の文化には全く興味がなかったのに、ある日、中国のウイグル人を紹介するドキュメンタリー番組を観ていて、東洋人の面立ちをしたウイグル人の話す言葉(トルコ語と系統を同じくするウイグル語)が半分ほど聴き取れてしまったことに驚き、東洋への興味が芽生えたと言うのです。

その頃、あるトルコ人から「ずっと東にも日本人という優秀な人たちがいるおかげで、我々は先祖がモンゴル高原にいたことを恥じなくてすみます」と言われて驚いたこともあります。

彼にとって先祖がモンゴロイドであったかもしれない史実は恥ずべきものだったのでしょうか? すると今もモンゴロイド顔している私たち日本人は、その点について少し恥ずかしがらないといけないのでしょうか? とても複雑な気分になってしまいました。

トルコの学校教育で“歴史”の授業は、日本のように“自国史”と“世界史”に分けることなく、単に“歴史”として“トルコの歴史”を中心に進められる為、教科書の東洋に関する記述は、多くの場合、突厥などトルコ民族が未だ東洋で活躍していた時期の史実に限られているようです。

3年前、知人に頼まれて、1890年に和歌山県の串本沖で沈没したオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号に関する記述がトルコの教科書にあるかどうか調べたけれど、最初に当たってみた一般の公立高校で使用されている歴史教科書には、エルトゥールル号に関する記述はおろか、当時の東洋史についても殆ど言及されていなかったので驚いてしまいました。

それから、初等教育で歴史を教えている友人に問い合わせたところ、2年近く日本で暮らした経験もあるこの友人から、「その事件ついて私は知っていますが、教科書には出て来ないでしょうねえ。少なくとも私は見たことがありません」と明らかにされて、がっかり。

結局、他の友人の子息が通う、かなりレベルの高い私立の初等教育校で使われている教科書に、やっとその記述を見つけてホッと胸を撫で下ろすことが出来たのです。

トルコの人たちにとって、東洋は限りなく遠い地域だったのかもしれません。日本にとってもトルコは遠い存在でした。お互い、つまらないコンプレックスを持ち合わせていない若い世代の交流に期待したいと思います。


3月4日 (水)  憧れのトルコ航路

91年にトルコへの渡航を決め、親しくしていた韓国の友人にそれを伝えたところ、彼から次のような意見を聞きました。「実を言うと、俺は韓国語を学んでいる日本人に好意を感じても、その気持ちが良く解らなかった。俺は“進んだ日本”から何かを学ばなければならないと思って日本へ留学したんだ。ならば、日本の人たちは何故“後れた韓国”に来て韓国語を学ぶのか? そして、お前は今、もっと後れているトルコへ行くと言う。悪いが、お前の気持ちがさっぱり解らない。人間は常に上を目指すものだろう?」。

韓国有数の大学を卒業して日本へ留学した友人には、韓国の将来を背負って立つ“青雲の志”があり、日本で学んだ何かを祖国の発展に役立てなければならないと考えていたのでしょう。それに引き替えこの私は、高校を出てから、トラックの運転手といった仕事を転々とした挙句、多少の文化的な興味と“簡単に習得できそうな技術”という側面に魅かれて韓国語を勉強しただけであって、“祖国の発展”云々などという志は全くなかったし、そもそも、そんな志を抱ける立場にはありませんでした。

もちろん、私のように好い加減な日本人ばかりが、韓国語やトルコ語を学んでいたわけではないでしょう。その時、友人に何と答えたのか忘れてしまったけれど、当時の日本は、既に、もう少し価値観が多様化していて、“日本より進んだ国・後れた国”という分類も失われつつあったように思います。国を背負って立つような人たちは、それぞれの専門分野で何事か習得する為に、その多くが欧米を目指したとしても、一部の人たちは、はっきりした目的意識を持って韓国やトルコへ向かっていたはずです。

私は1960年の生まれですが、私たちの世代になると、一回り上の世代に見られた“欧米への強い憧れ”は大分弱くなっていたのではないでしょうか。物心ついて最初に憧れたのは“ガンダーラ”だったかもしれない人がいる世代です。

日本がアメリカだけを教師にしていれば良かった時代は、私たちが物心つく前に終わり、それから徐々に西欧全般に対する憧れもかつての熱気を失い、今やそれぞれに異なる視点で、トルコや韓国、そして世界中に教師を求めなければならない時代になったような気もします。

ところが、トルコでは、自分たちより進んだ国・後れた国という見方をする人たちが、古い世代を中心に未だ少なくないかもしれません。“進んだ西欧”“後れた中東・東洋”といった区分けです。

近年、その“後れた東洋”の安い工業製品が市場を席巻して、生活が脅かされる事態に至り、なんだか東洋人への風当たりも一段と強くなったように思えるけれど、未だに自力では自動車すら生産していない国が、自力で宇宙へ有人衛星を打ち上げる大国を軽んじても良いのでしょうか。そこには、“進んだ西欧”と“後れた東洋”の間に安住しようとする気分が潜んでいるように感じられてなりません。

しかし、若い世代は非常に意欲的であり、トルコの将来を期待させてくれます。もちろん、一線で活躍する人たちには、私がお目にかかるチャンスなどないから、マスコミの報道で知るだけですが、例えば、先日の“便り”でお伝えした若者たちを見れば、少なくとも、彼らに“進んだ国・後れた国”といった意識はないように思えます。それは、彼らが楽しんでいるサブカルチャーに、そういった価値基準がないからでしょうか? いずれにせよ、若者たちが主導する交流の輪は驚くほど早く広がるかもしれません。


3月7日 (土)  アメリカン・シンドローム

前回、トルコには“自分たちよりも進んだ国”“後れた国”という見方をする人たちが少なくないと書いてしまったけれど、あれをトルコの友人たちが読んだら不愉快に思うでしょう。「日本にも沢山いるじゃないか」と言うに違いありません。ある友人の話では、ほんの数年前、東京の街角で若い女性に話しかけられ、自分がトルコ人であることを明らかにしたら、なんとその女性、「えっ! 嫌だわ、アメリカ人じゃないの!?」と残念そうに叫んで立ち去ってしまったそうです。

西欧への憧れとコンプレックスは、西欧以外の殆どの国々に見られる現象であるような気がします。多くの国が、程度の差こそあれ欧米化を図り、自分たちの伝統や風俗の一部を捨て、欧米の伝統・風俗に合わせなければなりませんでした。例えば、私は、子供の頃から和服の類いを着た覚えが殆どありません。おそらく柔道着が唯一の例外だったのではないかと思います。

私たちの世代は、戦後に加速化した生活スタイルの変更が一段落ついた後に育ち、その過程で心に葛藤が生じたわけじゃないし、進駐軍の記憶など全くないから、私が子供の頃に感じていたアメリカへの印象は“日本に民主主義をもたらした有り難い国”というものでした。強烈な憧れもない代わり、恨みや憎しみもなかったでしょう。今では、アメリカの“有り難さ”の裏に潜んでいた“恐ろしさ”にも思い至るけれど、概して私が育った60年代〜70年代の所謂“戦後”は非常に良い時代だったと追憶しています。

韓国の場合、米軍は今でもソウル市のど真ん中に居座っているし、さらに日本への複雑な思いも絡んでくるから、そう簡単には片付かないようです。アメリカへの明らかな憧れと隠しきれない恨み、日本への露わな怒りと秘かな憧れ、それに、最近は超大国として浮上しつつある中国に対する恐れも加わって、一層ややこしくなっているかもしれません。これは地政学的な宿命でしょうか。しかし、隣接する巨大な中国へ飲み込まれることなく、したたかに生き抜いてきた韓民族の長い歴史は感動的であり、示唆に富んでいると思います。

確かに、一部の韓国の人たちが見せる過激な反日感情には大人気ないものを感じるけれど、時として、彼らがアメリカに対しても同様の“怒り”を爆発させているのを見ていると、『何故、私たち日本人はアメリカに対して、あそこまで大人しくしていられるのだろうか?』と問わずにはいられません。韓国に対しては余り大人しくない人たちもいるからです。

95年頃にソウルを訪れ、90年に東京で一緒に働いたことのあるチョンさんの御宅に泊めてもらった時のことです。私はチョンさんが書斎代わりにしている部屋に寝かされたのですが、枕元にあった本棚に日本から持ち帰った本が沢山置かれていて、その多くは韓国について書かれた本でした。

翌朝早くに目が覚めてしまって、そういった本の一冊をパラパラと捲っていたら、所々にチョンさんが赤ペンで印をつけているので、その部分を読んでみたところ、その殆どは、日本の右翼的な人物が韓国を非難した発言ばかりだったから驚きました。

チョンさんは余りそういう話に興奮する人ではないと思っていたので、朝食の後に尋ねてみると、「ああいう発言はやはり嫌な感じだし、おかしいと思う。なにより発言している本人が、一つもおかしいと思わないで、発言の内容を信じきって、自信を持って発言しているところが恐ろしい。韓国で反日についておかしなことを言ってる連中は、興奮して喚いているだけで、本人もその発言が多少おかしいことに気がついているし、周りで囃したてている連中も『ちょっとおかしな発言だが反日の鬱憤を晴らすには良い材料だ』ぐらいに思っているのではないかという傾向がある。日本の右翼は極冷静にあれを言ってのけるところが恐ろしい」と説明してくれました。

私もこの時、全く同感であると答えたのですが、例えば、当時韓国の人たちは日本に対して非常にコンプレックスを感じていたようだけれど、自分たちがコンプレックスに悩まされていることを何処か心の片隅で認めていたような気がします。私たちも欧米に対してはコンプレックスがあるに違いないと思うけれど、その点どうなんでしょう?

韓国は歴史上で何度もやられているから、やられた後の気持ちの整理にも長けているのではないかと思ったことがあります。年季の入ったプロボクサーは、ダウンしても、その後どうやって立ち上がって、どうやって試合を続けるのか解っているそうですが、まさしく韓国は年季の入ったプロボクサーであるかもしれません。余りやられたことのなかったアマチュアボクサーの日本は、アメリカにガツンとやられて、どうやって立ち上がったら良いのか解らなくなってしまったのではないかと心配です。




3月22日 (日)  イスタンブールに戻ってきました

昨日、地方への出張から戻ってきました。当初、1月の末から今月の初めまでと伝えられていた日程が大幅にずれ込んで、今月の9日から10日間の予定で出掛けたのですが、これも土壇場になってから二日間延長されたうえ、さらに問題が生じて、来週、また出掛けなければならなくなりました。

もちろん、仕事が増えるのは嬉しいけれど、困ったことに、来週、私はイスタンブールで別の通訳仕事を受けていたのです。エージェントの方に事情を説明してお詫びしましたが、「直ぐには代わりが見つからないかもしれない」とあちらも大分困った様子でした。

「私のようなへぼ通訳なら何処にでもいます」といつも口にしていたものの、いざ「誰か代わりの人を・・・」と求められたら、フリーで直ぐに動ける人は、なかなかいないかもしれません。改めてマイナーな世界であることを実感しました。

しかし結局は、なんだかんだ言いながらエージェントが代わりの人を手配してくれたようです。5年ほど日本で暮らしていたトルコの方というから、私などよりよっぽど適任者ではないかと思います。

この方の経歴は存じ上げませんが、大学への留学といった正式な教育を受けていなくても、婚姻や就労目的で日本へ渡り、工場などで働きながら、短期間で日本語をマスターしてしまうトルコの人は少なくありません。しかし、そういった人材も学歴がなかったりすると、トルコへ戻って来た後、その能力を充分に発揮し得ないまま、土産物屋の店員さんなどをしていたりします。

例えば、以下の駄文で御紹介した元キックボクサーの友人は、知り合った頃、実に見事な日本語を話していたけれど、高校を卒業していなかった為、観光ガイドの試験を受けることさえ出来ませんでした。

メルハバ通信“イスラム異端派”
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/002.html#90

トルコの観光ガイド試験は決して難しいものではないらしく、満足に日本語を話せない“日本語ガイドさん”もいるのに、当時の受験資格は“高卒以上”となっていたのです。それどころか、数年前には、観光ガイドの質を向上させる為、受験資格を大卒以上に引き上げようという意見も出ていたので驚かされました。

私はその時、観光ガイド協会の役職に就いていた友人に、「受験資格を制限するのではなく、試験をうんと難しくしてハードルを上げたらどうか」と申し上げたけれど、なかなかその意図が解ってもらえませんでした。日本の“通訳案内士試験”には受験資格などありませんが、あれは大学を出ていれば誰でも受かるような生易しいものではないでしょう。

また、トルコの観光ガイド試験は、ガイドの人員が需要に比して不足した場合に行なう不定期制というから呆れてしまいました。ひとたび簡単な試験を通ってしまえば、新規参入者との競争は最小限に止められる為、満足に日本語を話せないガイドさんでも、一定の仕事にありつけたようです。こういった制度は、観光ガイドに限らず、例えば、公立の管弦楽団も欠員が生じなければ、新規入団者の為の試験を実施していないと聞きました。恐るべき“ぬるま湯体質”ではないでしょうか。

さて、私が4年ほど前、日本の建設会社が進めているボスポラス海峡トンネル工事の一現場で、昼夜シフト交替しながら通訳を務めていた際に、もう片方のシフトを任されていたトルコ人の通訳さんは、流暢な日本語を話すばかりか、英語にも堪能、スペイン語もかなり話せるという才人であり、人柄も申し分なく、今も海峡トンネル工事の現場で活躍しているけれど、学歴がないばかりに、彼の能力はトルコの社会で充分に活かされていないような気がして残念に思っていました。

ところが、この彼と、一昨日、“代わりの通訳者”の件で連絡を取り合ったところ、数日前、折りしもイスタンブールで開催されていた水フォーラムに参席されていた皇太子の浩宮が現場に立ち寄られ、彼は皇太子さんと握手する栄誉に恵まれたそうです。「感激のあまり何も話せなかった」と興奮気味に語っていたけれど、これには伝え聞いた私も興奮しました。まあ、彼の現場における功績や苦労も少しは報いられたのではないでしょうか。



3月24日 (火)  WBC

WBCで日本が二連覇を達成。日本では号外も出たそうだけれど、私は「あの陣容なら当然だろう」と考えていたから、何だかホッとしたように感じただけで、それほどピンと来ませんでした。阪神が18年ぶりに優勝した時のほうがよっぽど興奮しました。

“世界を舞台に”というのであれば、メジャーリーグに挑戦した野茂やイチローが、奪三振王や首位打者に輝いた偉業が遥かに感動的だったと思います。WBCでは、肝腎の米国が本腰を入れておらず、日本と韓国しか盛り上がっていないような気がして残念でした。

また今回も、日本のメディアでは「打倒日本に燃える韓国」の姿がクローズアップされていましたが、野茂がメジャーリーグに挑んだ1995年、韓国ではその活躍が逐一大きく報道されていたし、野茂に続いたイチロー、松井、松坂の各選手も“東洋の英雄”という扱いではなかったでしょうか。それなのに、メジャーリーグで活躍する韓国人選手が日本のメディアに取り上げられた例は余りないから、これも韓国の人たちには恨として残ってしまったかもしれません。

まあ、他のスポーツの分野を見ると、ボクシングの世界では日韓の癒着が囁かれていた時期もあったようです。中南米などから来たボクサーと韓国の選手が対戦する際、中立国として判定に加わる日本人のジャッジが韓国の選手を贔屓し、日本の選手が対戦する場合には、韓国人のジャッジが同様に贔屓しているという噂だったけれど、いつだったか、日本の選手が大負けしていたにも拘わらず、韓国人のジャッジは平然と日本人選手の勝ちにしてしまい、日本サイドも苦笑いするよりなかったという事件がありました。韓国人ジャッジの“義理堅さ”は、自国の選手たちだけに発揮されるものではなかったのでしょう。

トルコで事業を展開している韓国の人たちも、好んで社名に“ウザックドウ(極東)〜”なんて付けたり、「我々東洋人は・・・」と言いながら、日本との関係を強調したりします。本国における反日フィーバーからすると、何だか調子が良すぎるようにも思えるけれど、“我々東洋人”という言い方は私も嫌いじゃありません。

野球の話題と言えば、昔、産経新聞の黒田勝弘論説委員が、氏の創作と思われる以下のような小話を紹介していました。

「ノーアウト三塁のチャンスに、各国のチームはいったいどのような作戦に出るのか? アメリカはもちろん積極的にヒッティング、日本なら手堅くスクイズ。しかし、性急な韓国人は何れの作戦も待てないまま、三塁走者は直ぐにホームへ向かって走り出す。つまりホームスチールを敢行する」。

野球を楽しむトルコ人は未だ数えるほどしかいないようですが、トルコのチームだったら“ノーアウト三塁のチャンス”にどうするのか私も考えてみました。

「直ぐバリー・ボンズに電話して、“すまんが、1万ドル出すから、一打席だけ打ってくれないか? 増強剤もたっぷり用意しておくよ”と鷹揚に依頼する」なんていうのはどうでしょうか? トルコの人たちには、なんでも簡単に済ませようとする傾向が感じられるので・・・。 


3月25日 (水)  凄い爺さん?

2008年7月の“トルコ便り”−産廃屋の思い出−
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&page=10&y=2008&m=7

26年ほど前、上記の産廃屋にいた頃の話です。寮の部屋で、私より15〜17歳年長の先輩二人、青森県出身のヤマさんと岩手県出身のサトウさん、そして私より3歳ほど年下で暴走族あがりという20歳の青年エンドウ君と無駄話をしていた時、つけっ放しになっていたテレビの画面に未だ御健在だった昭和天皇の姿が映し出されると、エンドウ君はテレビの画面を示しながら、冗談とも思えない口調で「この爺さんが凄いんだってね」と言い放ち、ヤマさんとサトウさんは凍りついたように顔を見合わせてしまいました。

「おい、エンドウ、お前、この人が誰だか知らないのか?」
「何だか知らねえけれど凄い爺さんだって話だよ」
「馬鹿、この人は俺のお父さんだよ」
「ハハハハ」
「まっ、それは冗談だけど、本当にお前、この人が誰だか知らないのか? 天皇陛下だよ」
「あっ、それそれ。凄く偉いんだってね」

ちょうど、その時、下からエンドウ君を呼ぶ声がして、エンドウ君が降りて行った後、ヤマさんは唖然とした表情で、「ニイノミ、お前はいくらなんでも知っていたよな。でも最近、学校じゃ天皇陛下について何も教えていないのか?」と私に訊きながら、首を傾げていました。

私は子供の頃に皇室一般参賀へ連れて行ってもらった記憶もあり、両親から皇室に対する敬意は何気なく教えられていたように思います。しかし、高校時代を経て、左翼的な友人たちと生意気な議論を重ねたりしていたから、当時、それほど皇室を敬っていたわけではありません。それでも、エンドウ君の発言には少々驚かされました。エンドウ君にしてみれば、天皇は右翼の大親分のようなイメージだったのでしょうか?

それから数年、私はバイト先の先輩に、「皇室の人たちに、国民としての権利や自由は法的に保障されているんですか?」なんて問質したことがあります。先輩はその翌年、司法試験に合格した法学士で、明確に皇室の存在を支持していたけれど、この時は、私に良く解らせようとしたのか、次のように答えていました。

「あのなあ、皇室の人たちは結構あれで毎日美味しい物食べて快適に暮らしているんだぜ。社会には貧しい家に生まれて満足に学べなかった人もいる。法的にはその人に自由や権利が与えられているだろうけれど、経済的な条件によって最初から人生の選択肢は狭められ、自由も制限されているんじゃないのか? その上、貧しくて快適とはいえない生活を余儀なくされているんだ。皇室の場合、法的にも自由は殆どないかもしれないが、快適な生活が出来るだけましだよ。世の中、全てが巧く行くことはない。様々な運命を背負った人たちがいて成り立っているのだと思う」

翌年、私は韓国へ留学したのですが、韓国の新聞だか雑誌の記事に、「日本では権威と権力が巧妙に分離されている。天皇に権威はあるが、権力はない。首相は権力を持っていても権威は持っていない。これが社会に安定をもたらしている」といったように書かれているのを読んで、妙に納得させられたこともあります。

皇室の方たちが不自由を強いられてまで、何故、天皇という権威は存在しなければならないのか、私は今でも良く解っているわけではありません。民主主義の世の中で、生まれながらにして職業選択の自由を奪われてしまった人たちが存在するのは甚だ矛盾しているでしょう。とはいえ、合理的な考えに基づいて天皇という権威の廃止を唱える人たちの主張にも少々寒いものを感じています。矛盾に満ちた人間たちの営む社会を何から何まで合理的に正そうとしたら、そのうちポキッと折れてしまうに違いありません。その意味で、皇室は“矛盾の象徴”でもあるような気がします。

トルコの人たちから、「天皇とはどういう存在ですか?」と問われて、こんな私が答えては拙いかもしれませんが、この前は一応次のように答えて置きました。「アタテュルクのような存在であると思います。貴方たちがアタテュルク廟へ詣でるように、私たちも皇室一般参賀などで皇居へ詣でるのです。ただ、アタテュルクはお亡くなりになった方ですが、皇室の方たちは生身の人間であるところが違うかもしれません」。

アタテュルクについても、トルコでは、「個人崇拝はもうやめよう」とか「アタテュルク廟に祀りたてるのではなく、普通の墓地に埋葬してあげなければ故人の霊も浮かばれない」といった意見が聞かれるけれど、残念ながら、日本の皇室の方たちと同じく、トルコで権威を象徴しているアタテュルクもそう簡単には自由になれないのではないでしょうか。