Diary 2009. 2
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2月9日 (月)  アソシエート・プレス

寒い2月に暖かい南の地方へ出張できるのは、結構なことだと思っていたのに、どういうわけか未だイスタンブールにいます。しかし、寒いはずのイスタンブールも、ここ数日間、嘘のように暖かく、狐につままれたような心持です。そういえば、今冬は未だ雪らしい雪も降っていません。温暖化現象という奴でしょうか。

でも、イスタンブールにいたお陰で、先週は、やりかけていた翻訳を何とか期限内に終らせることができたから、出張の延期は却って好都合だったかもしれません。翻訳というのは、何かのパンフレットに使うらしい数ページの原稿だったけれど、トルコ語の原文が解り難い文章で、解り易い訳文を捻り出すのに四苦八苦しました。まだまだ修業が足りないようです。

日本のお客さんに読んでもらいたいのであれば、自分たちで解り難い文章書いてそれを翻訳させるより、日本のコピーライターに概要だけ伝えて、初めから書いてもらえば良さそうなものだけれど、まあ予算から考えても無理なんでしょう。そもそもトルコでは、コピーライティングという仕事が未だ余り知られていないような気もします。必要な情報を伝えれば良いと考えていて、お客様に解り易く伝えるという意識が欠けている所為でしょうか。まあ、日本社会のサービス意識が少し過剰なのかもしれませんが・・・。

さて、その何かのパンフレットに使うと思っていた原稿ですが、これが実はDVDの映像にナレーションとして被せるという代物で、それをまた土壇場になってから伝えて来ました。そうなると言葉遣いとか微妙に異なってくるのはトルコ語でも同じじゃないかと思うけれど、先方はそんなことなど全く頓着してないようであり、それどころか、そのナレーションの録音を私にやってもらいたいと言い出したのです。

さすがに断ろうとしたものの、乗りかかった船だからと、安請け合いしてしまったら、これが実に難しく、普通に読み上げれば2時間も掛からないような原稿を、途中で何度も引っ掛かって録り直した末、正味7時間も費やして、私としては不満足な出来具合のまま、やっと終らせることができました。

こういう日本語のナレーション録音というのは数年前にも一度やったことがあるけれど、それは極く短い原稿だったから、余り困難に感じなかったのです。しかし、その時、英語バージョンの録音を参考に聴かせてもらったところ、これが朗々とした本格的なナレーションで、自分の情けない声に恥ずかしくなってしまいました。スタジオの人たちの説明によれば、それはアメリカ人のプロによる録音であり、彼はナレーションの仕事だけしながら、イスタンブールで悠々暮らしているそうです。確かに、英語のナレーションならば、かなり仕事はあるかもしれません。

先週のナレーション録音では、特にカタカナ言葉のところで頻繁に引っ掛かってしまいました。考えて見れば、外国で暮らしていながら、カタカナ言葉に弱いというのも妙な話です。自分で訳した原稿に舌が回らなくなって、頭を掻き毟ったりしているのを傍から見れば、さぞかし可笑しかったことでしょう。私も自分で以下のようなコメディ番組の場面を思い出して可笑しくなってしまいました。

Levent Kirca - Asoseytitpres
http://jp.youtube.com/watch?v=Z7J_B1f6sJI

演じているのは、レヴェント・クルジャというトルコの有名なコメディアンで、この方の作品には、もっともっと面白いものが沢山あります。

“アソシエート・プレス”という会社で電話番の仕事にありついた男、電話の前に座って早速予行演習を試みて見たのは良いけれど、肝腎の会社名“アソシエート・プレス”がどうしても言えません。結局、これで首になり、うちへ帰って奥さんに「会社名が言えないから首になった」と報告。奥さんから「それは何ていう会社なの?」と訊かれたら、「アソシエート・プレス」とすらすら答えてしまい、愕然としたまま正気を失ってしまうという話です。


*これ、実際は“アソシエーテッド・プレス”と言ってるそうです。おそらく、私も首でしょう。


2月12日 (木)  ハチ公〜Big In Japan

人間、何が幸いするか解ったものではありません。昨日、一昨日と風邪による発熱でうなされていました。今週、地方へ出張していたら、悪夢のような旅になっていたでしょう。

また、出張が延びたお陰で、翻訳が完了した以外にも、良かったことがあります。先月の末、日本総領事館の主催で開かれた“日本映画祭”、これも最初の日程からすれば無理だろうと諦めていたのに観ることが出来ました。諦めていた分だけ、余計に嬉しく思えたかもしれません。

2日間に亘って、「ハチ公物語」「リンダ・リンダ・リンダ」「生きる」と3本の邦画を楽しませてもらいました。

「ハチ公物語」を観た帰り、地下鉄の駅で、フランス留学から戻った娘さんと一緒に観てきたという品の良い御夫婦と日本映画について話したところ、「娘はパリで“日本の家”に住んだので日本の文化に興味がある」というので、直ぐには何のことやら良く解りませんでした。うちへ帰ってから調べてみると、それはパリ国際大学都市にある“日本館”だったようです。

パリ国際大学都市
http://maisondujapon.cool.ne.jp/j_ciup.htm

『やはりフランスは文化大国だなあ』と感心しながら、「明日は“生きる”を観に来ますよ」と語っていた家族の笑顔を思い出して、“ハチ公”の実話についても少し調べてみました。そして、翌日、再会した家族に、ハチ公の生涯が映画ほど悲惨じゃなかったことなどを伝えたのですが、調べながら、もっと興味を引かれた話については、少々下世話に思えたので話題にしませんでした。

当時、ハチ公人気に便乗して、“ハチ公せんべい”とか“ハチ公チョコレート”を売る店まで現れたという話。『日本の庶民は、いつの時代も商魂たくましかった』と私は面白く感じたけれど、格調高い映画を観た後にする話ではないと思って遠慮したのです。

忠犬ハチ公
http://welcome-shibuya.net/history/hachiko/

さて、私自身、どう考えたって、格調高い話を語る柄じゃないので、ここで“ハチ公”から話題を大きく脱線させます。ハチ公が死んだ1935年、日本は愈々15年戦争の泥沼に嵌りつつあり、忠犬への称賛も戦時体制に利用されたものだったと言われていますが、翌1936年には、あの有名な“阿部定事件”が起きているのです。

阿部定−ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A

↑ここには、逮捕直後のものとされる阿部定の写真が掲載されていて、どういうわけか、逮捕された本人はもとより、彼女を取り囲む警察官と思しき人々もにこやかに笑っており、そこには戦時下の緊張など全く感じられません。

阿部定事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/abesada.htm

↑このサイトの記事によれば、定が逮捕された時に逗留していた旅館は、定の部屋をそのまま保存し、訪れる人々に旅館の主人が逮捕時の模様を再現して見せ、多いに繁盛したそうです。まさしく、呆れるばかりの“商魂”と言えるのではないでしょうか。

また、刑務所に収監された後、阿部定宛てに送られて来た“結婚の申し込み”が400通以上、出所後の阿部定をスカウトしようとしたカフェが二つ、映画会社が一つあったことも記されています。詳しくは上記サイトをお読み下さい。なんにしても、今のお下劣なワイドショーのノリと何ら変わるところはありません。

さらに、戦後の1969年、事件を扱った映画に阿部定本人が出演した時の様子を以下の“YouTube”で観ることが出来るけれど、この女性にとって、あの事件はいったい何だったのかと思わず唸らされてしまいます。

MORE 阿部定
http://jp.youtube.com/watch?v=KR8Lf2XcjHo&feature=related

ハチ公から凄い脱線ぶりで申しわけございません。しかし、こういったワイドショー的なノリも、日本の文化の一つではないでしょうか。中には酷く下劣なものもあるけれど、そこには、庶民の逞しさ、したたかさ、エネルギーが感じられるように思えます。“ハチ公せんべい”に始まって、格調高い映画「ハチ公物語」へ至るまで、どれだけ多くの人たちが、そこから利益を引き出そうと、したたかに知恵をしぼったことでしょう。本当は、トルコの人たちへ、日本の“近代化”を陰で支えてきた、そんな“庶民パワー”を巧く説明できたら良いかもしれません。

脱線ついでにもう一つ。お隣のギリシャでは、以下のような番組が放映されたそうです。

Big In Japan Episode 1 Part 1 (with english translation!)
http://www.youtube.com/watch?v=GMnau_cHTvM&feature=related

ギリシャの人たちが日本へ行って、何やら珍妙なゲームに参加するという内容のようですが、以下のサイトによると、同様の企画で既にアメリカ編とノルウェー編が制作されており、ギリシャはその3番目ということになります。

収録終了|三宅智子オフィシャルブログ『世界を食べつくせ』
http://ameblo.jp/tomokomiyake/entry-10165585996.html

ギリシャでは、以前、“風雲たけし城”が放映され、もと大家さん一家のディミトリー君もえらく面白がっていたから、こういう企画が受ける下地はあったのでしょう。トルコではどうでしょうか? 私は実現すれば面白いと思いますが・・・。


2月17日 (火)  高校時代の部活

2007年4月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=4

上記の“便り”で、高校の部活で柔道やっていた時の思い出を書いたけれど、顧問の先生の方針もあって、厳しい“しごき”はなかったから、私のような軟弱者でも何とか続けることが出来ました。

高校は全寮制で、少々体育会系的な傾向があり、部活に励まない者は白眼視されるような雰囲気が感じられ、私も入学入寮と同時に各運動部の先輩たちから勧誘を受けると、柔道部の先輩が最も優しげに見えたという意気地のない理由で入部を決めてしまったのです。ラグビー部等の厳しさは、入寮した時点で既に知れ渡っていて、“我こそは”と思う気概のある連中は、正反対の理由でこちらを目指しました。

実のところ、私は、あんな生半可な気持ちで入部するのではなく、「部活をやる意志はありません」とはっきり断るべきだったかもしれません。しかし、情けないことに、あの雰囲気の中でそうやって断る意志さえ持ち合わせていませんでした。

顧問の先生は、若い頃に柔道の選手として鳴らしたバリバリの体育会系であり、何処から見ても“恐い先生”というイメージで怖れられていたものの、「この学校の部活は、選抜された者から成り立っているわけではなく、体力もそれぞれ異なっているから、無理なしごきはしないように」と仰り、毎日の練習も自ら指導されていました。必ずしも“勝つこと”を目的とした部活ではなかったのです。

数年前にラグビー部出身の畏友と飲んでいた時に、上述のような経緯を話したら、「スポーツは必ず勝利を目的にしなければならない。その指導方針で良かったのか」と首を傾げられてしまったけれど、勝利を目指す厳しい練習が待ち受けていたら、私は直ぐに逃げ出していたでしょう。最初から部活をやる意志はなかったのだから、その方が良かったと言われれば、それまでですが、私は曲りなりにも部活を続けて卒業できたことを今でも先生に感謝してやみません。あそこで逃げ出す羽目に陥っていたら、あるいは初めから部活に入らなかったら、自分がどれほど碌でもない人間になっていたのか、想像するだけでも恐ろしくなります。

柔道部では、先生や先輩ばかりでなく、同輩や後輩からも励まされて、どうにかこうにか続けられました。私にクラシック音楽の妙味を教えてくれた友人も柔道部の同輩であり、彼はなかなか柔道のマエストロでした。伊豆七島の出身で、子供の頃から柔道に親しんできた彼は、実に多彩な技を駆使する名手だったけれど、私が練習について行けずに落込んでいると、「お前の体力では無理なこともある」と励ましてくれたものです。

2年に上がった時は、「新入生に同じ島の奴がいたから無理やり柔道部に引っ張り込んでやった。なにしろひ弱な奴だから、あれならお前でもぶん投げることが出来るぞ。有り難く思え」と妙な励まされ方をしたものの、件の新入生を見たら、私より背は高いし、ひとつもひ弱そうには見えなかった為、「話が違うじゃないか」と文句を言ったところ、「島じゃあれが限界。あれよりひ弱な奴はいない。俺はお前を見て、“都会にはこんな生っちょろいのがいるのか”と驚いたくらいだよ」なんて言われてしまいました。

部活は2年までで、3年になれば毎日練習に出なくても良いことになっていたけれど、いつも中途半端な私は、2年間の部活で何かをやり残していたように感じていたので、3年になっても一学期の間は毎日練習に出ていました。そして、いつも見に行くだけだった都大会の地区予選にも出させてもらったのです。

私は60s以下の軽量級で出場しましたが、この地区予選では“55s以下の優先シード”などという妙なものが設けられていたお陰もあって、あろうことか、そのまま勝ち抜いて都大会にも出場してしまい、まるで夢を見るような気分でした。やはり、人間、勝って嬉しくないわけはありません。私はあの地区予選の日を今でも鮮明に思い出すことが出来ます。

講道館の都大会は、トーナメントに出場する前の選抜戦で敗退したものの、先生に後楽園のカレースタンドで夕飯を御馳走になり、忘れられない思い出となりました。

それから、あれは都大会の前だったのか後だったのか、その辺りが良く思い出せませんが、学校で漢文の先生から職員室に呼び出されたことがあります。この先生は小柄な方で、体育会系ではありませんが、教育熱心な厳しい先生として有名だったので、私は『俺、何も悪いことしていないよな?』とびくびくしながら職員室へ赴いたところ、先生は私を近くまで引き寄せ、「おい、お前、都大会の為にいくら袖の下を使った? こっそり俺だけに教えろ。お前が只で都大会へ行けるわけないからな。さっ、早く教えろ」と冗談ぽく迫ってから、にっこり微笑んで、「お前、良かったな。俺も嬉しいよ」と仰ってくれたのです。ちょっと風変わりな褒め方でも、この先生からお褒めの言葉を頂けるとは思っていなかったから、私は涙が出るほど嬉しく感じました。

さて、柔道部の練習では、道場から出て、外を走って筋トレする時もあれば、12.5qのクロスカントリー・コースを走れば終わりという日もあり、私はこのクロスカントリーになるとえらく張り切ったものです。普段、道場では、ぶん投げられてばかりで余り良い格好は出来なかったのに、この部活のクロスカントリーでは、多分、2年になってからトップの座を譲ったことは一度もなかったと思います。

私は小中を通して、体育はいつも1、運動会等の徒競走では必ずドン穴の定位置を守ってきたものの、心肺機能は良かった為、少し距離が長くなれば、ドン穴から救われました。まあ、高校時代も体育の授業にある3〜4qのコースでは余りパッとしなかったけれど、部活のクロス・カントリーは、そもそも柔道部に“走る体型”の奴が殆どいなかったこともあって、2年になってからは断トツの速さでした。

ところが、学校で年に一回開催されるクロスカントリー大会では、2年の時も体調が悪くて、情けない結果に終ってしまいました。それでも、柔道部以外の友人たちは、体育授業の私しか見ていないから、「嘘だろ、お前がこんなに速いとは思わなかったよ」と言うのですが、却ってそう言われる度に、『本当はもっと速いんだよ、クソ!』と悔しく堪りません。それで、このクロスカントリー大会は、1〜2年生だけに義務付けられていたのに、私は3年の秋にもう一度出場しました。

しかし、夏休みを経て二学期になってからは部活にも出ていなかったし、自主的にトレーニングするつもりだったけれど、根性が怠慢に出来ている私には、ある程度、管理された状態でなければ身の入った練習など出来るわけがなかったのです。結果は、2年の時よりも酷く、とりあえず完走しただけで、呆れ返って悔しい気持ちにもなれませんでした。

高校を卒業してから30年、あの地区予選のような出来事は二度と起こらなかったものの、3年のクロスカントリー大会で味わった“悔しさも感じられない敗北感”は幾度となく繰り返されて来たように思います。“鉄は熱いうちに打て”の言葉通り、打たれなかったなまくらはこのまま錆びていくということでしょうか。

この歳になって、しかも何らかの組織に所属しているわけではないから、もう厳しいことを言ってくれる人はなかなかいないし、自分で管理して行かなければなりません。世界大不況の暗いニュースを聞きながら、『これは、今まで不届きな人生を送って来た私に、天が降した大鉄槌じゃないのか』なんて脅えている場合ではないのです。まだまだ敗者復活戦があるつもりで頑張らないと・・・。


2月19日 (木)  高校時代の部活・続

先日の部活の話、またしても勝手な独白を書き連ねてしまいました。御容赦下さい。思い出というのは自己中心的に甦るようです。あの地区予選には、もう一人同期の友人が出場していました。彼は、私のように生半可な気持ちで入部したわけではなく、2年の時は主将を務め、3年になっても毎日練習に出ていたけれど、これには大きな目標があったからです。彼にとっては地区予選など単なる通過点に過ぎなかったはずで、私も彼がこの通過点を“地区優勝”で飾るに違いないと、当然のように思っていました。ところが結果は、まさかの初戦敗退でした。

それで、自分の都大会出場について、在学中はもちろんこと、卒業してからも暫くは話題にするのを躊躇っていました。しかし、数年前の一時帰国中にも、彼と飲んで、あの日の出来事を話題にしたように思います。“思います”なんて、また無責任な言い方で御免なさい。でも、実際、何の話をしたのか良く覚えていないのです。いつも、したたか飲んでいますから・・・。

彼のように何かを目指していた友人たちにとって、私などは練習相手にもならなくて、何とも迷惑な存在だったでしょう。私が言っても始まりませんが、同期には実力者が揃っていました。主将は、2年に上がる際、顧問の先生が最も強い者から指名する慣わしになっていて、当初はもう一人の強者が指名されたくらいですが、彼は“やりたくない”と言って拒否してしまったのです。前代未聞の出来事で、先生も大分驚かれたようだけれど、それでも「口答えするな」と叱責されたりはしませんでした。

拒否した彼は、稀代の変人、部活以外でも相当な偏屈者として通っていて、私に対しても、結構率直に不満を漏らしていました。彼の場合は、1年の時から、夜、先輩に呼び出されて、特別メニューの練習を課せられたりもしたようです。道場でも、先生から直接に稽古を付けられたりしていました。私が乱取りの相手になったりした時は、彼も調子が狂ってしまったでしょう。なにしろ、長身の彼に、ぐいと引き寄せられると、それだけで私の身体は浮き上がってしまい、そのままひっくり返されてしまうのです。本当は“払い腰”を仕掛けるつもりでも、あれでは“つまみ上げ投げ捨て”とでも言うよりない変則的な技になっていました。

彼とは、在学中、よく一緒に飲んだりしたけれど、どういうわけか卒業して以来一度も会っていません。自衛隊に進んだから、暫くは柔道も続けたのではないかと思いますが、今頃、何処で何していることでしょう。


2月22日 (日)  お国自慢

20年ほど前、私がソウルで韓国語を学んでいた頃、日本のマスコミには、韓国の知識人の反日的な言動が頻繁に取り上げられていたようだけれど、実際は、それと併せて『日本は、何故、近代化に成功したのか?』という論調の記事も、韓国の新聞や雑誌の紙面を賑わせていました。こういった記事を読んだ学生から、大真面目に『日本の成功の秘訣』を問われたりすると、まあ、日本人として悪い気はしないと言うか、結構、単純に喜んだものです。しかし、一部の記事には、日本の歴史や文化が、かなり詳細に述べられていたから、好い加減な受け答えでは、直ぐにボロが出てしまいます。こちらも、日本の本を参考にして付け焼刃の知識を得ようと努めなければなりませんでした。

その手の記事には、「日本のような“職人の技を貴ぶ伝統”が、韓国には無かった」とか、「日本では江戸時代、既に資本主義の萌芽が見られたが、李朝時代の朝鮮では、貨幣経済さえ充分に機能していなかった」という問題が、歴史的な例と共に説かれていたりしました。「江戸時代、日本の庶民に読み書きが普及していた背景には、商業の発展があり、読み書きを知らなければ、商業に従事することが出来なかったからである」とか、「元禄の頃、既に浮世草子のような書物を娯楽として読み耽る市民が存在していた」という指摘も見られました。李朝時代の朝鮮において、読書は、学問に励む知識人に限られていたそうです。

トルコでは、そもそも日本は余り注目されていないし、“大統領の訪日”といった機会に、“日本の近代化”が話題になったとしても、「日本では、近代化が始まる以前、読み書きがかなり普及していたようだ」で終ってしまい、何故読み書きが普及していたのかまでは、なかなか話が進みません。しかし、トルコでもオスマン朝の時代、読書は学問に励む知識人に限られていたようであるし、韓国の人たちが、自国と日本を比較して指摘した事柄の一部は、そのままトルコにも当てはまっているような気がします。

私が付け焼刃の知識で申し上げても、何だか安っぽい“お国自慢”になってしまうかもしれないけれど、日本の文化や伝統は見えない部分で、江戸時代から明治維新を乗り越え、断ち切れることなく連綿と続いてきたのではないでしょうか。日本の家屋は、木で出来ているから、昔の建物がそのまま残っているわけではないし、衣装のデザインなど目に見える部分は全く様変わりしてしまったものの、例えば、現在、日本橋の三越がある場所では、300年前から、その前身となった「越後屋」呉服店が、今に通じる大量販売のコンセプトで営業していたはずです。

また、酒造りのように、目に見える形態は変わったとしても、核心となる伝統的な技術が、今も変わらず受け継がれている業界は枚挙にいとまがないでしょう。

他にも、私が思いつく卑近な例で、申しわけありませんが、今の吉原のソープランド街。あそこも、江戸時代から遊郭として発展し、現在、花魁のような格式は見られないけれど、コンパニオンの皆さんは、そのサービス精神の伝統を受け継ぎ、矜持を持って、寂しい男たちに夢を見せてくれているのだと思います。

すみません。また話が少々脱線してしまいました。軌道を元に戻して、最後にもう一つ、トルコの人たちへ伝えたい“お国自慢”。東京は下町の話だから、まさしく、私にとって“お国自慢”です。世界的な技術を開発し続ける“町工場”、これぞ日本のお家芸と言って良い“職人の技”ではないでしょうか。↓

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