Diary 2009. 12
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12月7日 (月)  寝酒にラク

今日は朝から薄曇りで、気温は13℃ぐらい、イスタンブールも愈々寒くなってきました。それでも、未だ暖房は入れてません。エネルギーの無駄な消費を抑え、地球の環境保全に協力するために・・・というのは嘘で、私の場合、金がないからケチっているだけです。

私は異常に寒がりなんですが、こうやって我慢していると、いくらか耐寒性がついてきたように思えます。昨年も出来るだけ我慢して耐寒性を高めようとしたけれど、11月18日に風邪をひいてしまい、敢えなくギブアップしました。これは“便り”にも記してあるので、日付に間違いはありません。ラク酒を飲んでから寝たなんてつまらないことまで書いてあります。

今年の11月18日の晩に何を飲んだか思い出せませんが、昨晩もラクを飲んでいるから、まあ1年経っても経済事情は相変わらずといったところじゃないでしょうか。というのも、この数年、私がラクを愛飲しているのは、アルコールの量を考えたら、ワインに比べてずっと安いからです。

また、寝酒に一杯やるだけなのに、ワインを飲んだりすると、『アテに美味いチーズがあったら良いな』とか思ってしまうけれど、ラクは、ちょっと甘味があって芳香も強い所為か、それだけで充分に飲めます。

しかし、トルコ人の友人は、「ワインならそうやって気軽に飲めるが、逆にラクの場合は、メゼ(トルコ料理のオードブル)も用意して正式に飲みたくなってしまう」と話していました。何だかラクに対する誇りと愛着が感じられる言葉です。

9月に亡くなったガービおじさんは、大学生活を送ったイタリアの料理について、「メインの料理は結構だが、メゼも無ければラクもない」と酷評していたけれど、やはり正式にメゼを用意しなければラクを飲もうとしませんでした。ラクは、トルコの国民酒と言える存在だから、飲む時はそれなりの流儀が必要なんでしょうか。


12月8日 (火)  ラクかワインか?

寝酒に飲むワインやラク、考えて見ると昨年あたりでも、せいぜい3日に一度ぐらいだったのが、最近、ちょっと増えてきました。経済的な負担も馬鹿にならないから、もう少し減らすべきでしょう。

クズルック村にいた頃などは、懐具合も良かったので、殆ど毎晩のように飲んでいたけれど、今は年齢的にも3日に一度ぐらいが良いかもしれません。

しかし、逆に、友人たちと酒席を囲んだりして本格的に飲むことは、めっきり少なくなりました。『昨日は飲んだなあ』と思いながら目覚めたのは、いつが最後だったでしょう? なんだか遠い昔の話のような気がします。

2006年4月29日(土)炉端焼き
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=4

先日の昼過ぎ、以前は良く飲みに行った“炉端焼き”の前を通り掛ったら、開店の準備をしていた親爺さんが走り寄って来て、「どうしたの? 日本に帰ってしまったかと思ったよ。まあ、そこに腰掛けて・・・」とお茶を振る舞ってくれました。そういえば、ここには、暫く来ていないかもしれません。もう気分的に、“炉端焼き”などでゆったり飲んだりする余裕がないのです。

ウスキュダルのアパートにいた頃は、同居人のハムザやオカンと家で本格的に酒盛りやったりしたけれど、あれは安上がりで、雰囲気も最高でした。まあ、たいした料理を用意できたわけじゃありませんが、贅沢言ったら限がないでしょう。

ハムザは、ビール、ワイン、ラク、なんでも飲んだし、かなり酒に強かったと思います。一度、彼がトルコ国産ウイスキーという怪しげな酒を何処かで仕入れてきて、私も一杯勧められたものの、なんだか気味が悪くて断ったら、「トルコのウイスキーは飲めないのか!」と怒られてしまいました。

2007年10月12日(金)イスタンブールに乾杯
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=10

これをトルコの人たちに言ったら、ハムザじゃなくても怒るだろうけれど、実のところ、私はラクもそんなに好きじゃありません。寝酒はともかく、良い料理を前にしたら、ラクよりワインを飲みたくなります。

ラクは芳香が強いので、香辛料を効かせたケバブなどには良くても、場合によっては、料理の風味を損ねてしまうような気がするのです。トルコの人たちは、魚料理でラクを飲みたがりますが、あれは魚の匂いを嫌っているからじゃないでしょうか。淡白な白身の魚に、これでもかと言うくらい大量のレモンを絞って食べる姿は、あまり魚好きであるように見えません。

3年ほど前、日本でトルコの実業家の方を御案内したのですが、この方は何度も日本に来ていて、「鮨でも何でも食べれますよ。味噌汁は駄目なんですが」と仰っていたけれど、鮨を召し上がった後に茶碗蒸しが出て来たら、「あっ、ごめんなさい。これは食べれません。味噌汁と同じ匂いですよ」と渋い顔されていました。

味噌の匂いじゃなくて、鰹出汁の匂いが駄目だったようです。私などは、醤油と鰹出汁さえあれば何処でも幸せになれるから、これはなんとも残念でなりませんでした。

ところで、醤油に鰹出汁、魚料理と来たら、やっぱり清酒かもしれません。でも、清酒はクセがないから大概の料理に合うような気もします。試したことはありませんが、トルコ料理のメゼ(オードブル)にも合いそうです。トルコでは、他に選択肢がないからワインを飲んでいるだけで、今の季節はやっぱり清酒じゃないでしょうか。


12月9日 (水)  貴方は共和国主義者?

トルコで酒を嗜む人たちは、どのくらいの割合で存在しているでしょう? 以前、“イスタンブールの成人男子で7割ぐらい”と書いたところ、「そんなに多くないだろう」と友人からクレームつけられたけれど、あれは、トルコの新聞に“トルコ人男性の7割が飲酒”と記されていたのを、私も何だか多すぎるように感じて、いくらか少なめに書いたつもりだったのですが、それでも、やはり少しオーバーな数字だったかもしれません。

例えば、夜、タクシムのイスティックラル通りでアンケートしたら、もっと大きな数字が出る可能性はあるものの、私が住んでいるエサット・パシャの街で実施すれば、半数を割ってしまうような気もします。実際はどのくらいでしょうか?

さて、これは2週間ほど前のことですが、カドゥキョイの街へ買い物に出掛け、スーパーでラクを選んでいると、隣に立っていた中年男が、日本語で「ラク飲むんですか?」と尋ねてきたので驚きました。東京のトルコ料理屋で10年ほど料理人として働いていたそうです。

スーパーを出て、私も彼に、「貴方は飲まないんですか?」と訊き返したら、「前は飲んでいたが、6年前に止めた」と答え、理由を訊いても、「特にない」とはぐらかすだけで教えてくれませんでした。

帰る方向が同じだったので、連れ立って歩きながら、途中、私がスタンドでラディカル紙を購入したところ、彼はニヤッと笑い、「ラク飲んで、ラディカル読んで、貴方は共和国主義者?」なんて言いながら、私の顔を覗き込みます。私は、「そうです」と肯定してから、彼にも同じことを訊いてみたけれど、これまたニヤニヤ笑うばかりで答えてくれませんでした。

素朴な雰囲気の人物で、おそらく、格別、政治や宗教に熱心なわけじゃないと思いますが、このやり取り、何だか少し気になりました。

【197】酒は悪事の母である【ラディカル紙】【2008.08.23】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00197.html

昨年には、アンカラで公安官が酒類販売店の店主を殴打するという信じ難い事件もあり、飲酒への風当たりは少しずつ増してきたように思えるから、『彼は、何故、酒を止めたのだろう』と、またつまらないことを考えてしまったのです。

アンカラの事件に関しては、上記コラムのような論調ばかりでなく、もちろん様々な意見が出ていたけれど、同じラディカル紙で、この新聞のコラムニストとしては、かなり保守的な傾向の強い方が、「・・・酒が悪いのは論じるまでもないが、禁止して封じ込めようとするのは良くない」というように書いていたので驚いてしまいました。

酒は悪いと誰が決めたんでしょうか? もしも、「神が決めた」なんて答えが返ってきたら、それこそゾッとしてしまいそうです。イスラム系の新聞ならともかく、「私は信仰上飲まないが、それを他人に押し付けるのは良くない」と言えば済むことじゃないかと思い、残念な気がしてなりませんでした。

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以下の記事は、私が自分の頭を整理してみようと思って訳してみました。この方の記事を読むと、いつも頭の中のモヤモヤが少し整理されるように感じます。

【224】信仰・イデオロギー・良心【ラディカル紙】【2009.12.03】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00224.html



12月10日 (木)  中国酒の思い出話

イスタンブールの大きなスーパーに行けば、ラクやワインに限らず、色々なウイスキーやブランデーの銘柄、ラム酒、テキーラ等々、大概の酒は手に入ると思います。

入手が難しいのは、残念ながら清酒や紹興酒といった東洋の酒でしょうか。私は紹興酒も大好きだから、とても悲しいです。

若い頃は、とにかく即効で酔うために、ウイスキーや焼酎といった蒸留酒を好んで飲んだけれど、その反動か、暫く経つと、清酒やワイン、紹興酒のような醸造酒ばかり飲むようになりました。

それ以降も、たまにはウイスキーを飲んだし、高粱酒、茅台酒といった中国の蒸留酒の味は、今も懐かしく思い出されます。茅台酒など、ウイスキー以上の名酒じゃないかと感じたくらいですが、まあ値段も値段だから、滅多に飲む機会はありませんでした。

中国の酒は、1981〜2年、飯田橋は五軒町辺りの安アパートで一人暮らししていた頃、江戸川橋駅近くにあった“中華風居酒屋”で色々試しながら飲んで、その味を覚えたのです。

そこは、殆どカウンターだけの小さな店で、モツなどを様々な香辛料や薬草を使って中華風に煮込んだ料理(薬膳中華?)と各種の中国酒を売りにしていたけれど、最初、この店を見つけた時は、子供の頃、親に連れて行ってもらった横浜の中華街の雰囲気を思い出して嬉しくなりました。

60年代後半の中華街では、各店の店頭にアヒルの燻製(?)やら腸詰がぶら下がっていて、未だ独特の雰囲気が感じられたものです。いつも“鴻昌”という店で、名前も良く解らない旨煮や炒め物のような料理を食べ、腸詰や燻製(?)を土産に買って帰りました。

しかし、2003年だったか、一時帰国中に中華街まで出かけたところ、もう往時の雰囲気はなく、普通の食料品店のような所で腸詰を買ってみたら、これがまた変に甘いソフトな風味で、昔の強烈な味は偲びようもありませんでした。

それが、2006年にイスタンブールの食料品店で、腐ったラケルダ(鰹の塩漬け:以下参照)の代品としてイタリア産のサラミをもらったら、これが、あの強烈な腸詰に良く似た味で驚いたことがあります。シルクロードで結ばれた味だったのでしょうか?

2006年7月22日(土) ラケルダ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=7

あの江戸川橋駅近くにあった“中華風居酒屋”は、店の中に漢方の匂いをプンプンさせていたし、腸詰もまあまあ強烈だったように記憶しています。

当時は、新宿区内の運送屋で働いていて、安アパートから車庫まで自転車通勤、仕事帰りに自転車で、あの“中華風居酒屋”に寄っては一杯やっていたのです。

さて、ある晩、また中国酒をしたたか飲んで帰り、翌朝、安アパートで目を覚ましたら、これが遅刻寸前の時間で、慌てて飛び起きて外に出ると、先ず自転車を探したのですが、そこで目にした物は、前輪が外れ、胴体部も無残にひん曲がった自転車の残骸でした。

一瞬の何のことだか解らず、漫画の吹き出しに“?”マークが四つぐらい並んだような状態で、ポカンと2秒ぐらい固まっていたように思います。とにかく、自転車は使えないと解り、他のことは何も考えないまま、表通りまで走り、タクシーを止めて乗り込んで、行き先を告げたところ、「お客さん、何があったんですか?」と運転手さん、それから「顔中、傷だらけですよ」と言って、バックミラーをこちらの方へ向けてくれました。

そのバックミラーを覗き込んだら、なるほど顔中に擦り傷があり、気がついたら、肘や膝も何処かにぶつけたようで少々傷みます。『えっ? 何があったんだ?』と、前の晩のことを思い出そうとしたけれど、はっきり覚えていたのは、“中華風居酒屋”で飲んでいるところまでで、後は薄っすらと自転車を担いで歩いていたような記憶がチラついているだけでした。

でも、あの年齢だと回復も早く、朝、2t車を積み込んで一汗かいたら、それでもうケロッとしてしまい、一日快調に働いてから、また何食わぬ顔で“中華風居酒屋”に寄って一杯やりながら、30歳ぐらいの店主に、「昨日は、飲んでいて様子が変じゃありませんでしたか?」と訊いてみたところ、「うーん、ちょっといつもより多かったみたいだね。それで、“もう一杯”て言うから、“もうよしなよ”って言ったら、素直に応じて帰ったよ」と教えてくれたものの、さすがに、その後、自転車に乗った様子までは見ていなかったそうです。

結局、いくら考えても何一つ思い出せなかったけれど、おそらく、何かの拍子で自転車の前輪が外れた為に転倒してしまったのでしょう。まあ、大事に至らず、つまらない思い出話が増えただけで良かったかもしれません。


12月11日 (金)  ゴキブリにしては大きい?

少々汚い話です

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あの五軒町近くの安アパート、正確に言えば、五軒町から神田川を渡った向こう側ですが、路地裏の古い木造二階建てで、私の部屋は一階の玄関を入った直ぐのところにあったけれど、なにしろ泥棒さんも遠慮したくなるような雰囲気を漂わせていた為、外出中も就寝中も鍵をかけたことは一度もありませんでした。

間取りは結構広くて、入口の脇に小さな台所と便所、それに二畳間と六畳間が続いていました。鍵はかけていなかったから、出入り自由となっていて、私が六畳間のベッドで、朝、目を覚ますと、部屋の隅に高校同期の友人が寝ていたこともあります。終電を逃して転がり込んだものの、寝ている私を起こすのは悪いと思い、静かにそのまま寝たんだそうです。

一度、夜中入って来た友人に叩き起こされた時は、肝を潰しました。私は寝惚けながら「ひょええー」とか悲鳴をあげたらしく、友人は後々まで面白がっていたけれど、バイクで乗りつけ、ヘルメットも外さないまま、馬乗りになって揺すり起こそうとしたのだから、その下で目を覚ませば、大概の人間は肝を潰すと思います。

さて、ある晩、六畳間のベッドで寝ていた私がふと目を覚まし、暗がりの中をぼんやり二畳間の方に目をやったら、そこを何かがすっと横切りました。『ゴキブリかな?』と思ったものの、ゴキブリにしては少々大きすぎたようです。

その晩は、直ぐにまた寝入ってしまい、数日の間は何事もなく過ぎたのですが、なんとなく部屋に異臭が漂い始めたように感じていました。

そして、何日か経ち、夕方、暗くなってから帰宅した時のことです。

六畳間に入って、電気を点けたら、部屋の中ほどを横切るもの、隅を走り去るもの、二つの物体が見えたけれど、それは大きなゴキブリじゃなくて、紛れも無い“ネズミ”でした。

ネズミも驚いたかもしれませんが、私もまた肝を潰して「ひょええー」とか叫びながら、ネズミを追っかけ回すと、一匹は台所のガス菅の陰に身を潜ませたまま動かなくなり、私は入口にあった傘に手を伸ばし、それでネズミが逃げないように牽制しながら、『このネズミ、どうやって始末してくれようか』と考えました。

まず、“傘で突き刺す”という策が頭に浮かんだものの、成功確率は低そうだし、成功した場合は“ネズミの出血”という事態を避けられません。

たちまち、“ネズミの出血”〜“ペスト菌”という連想が弱い頭を駆け巡り、『いかん、いかん、そんな恐ろしいことはできない』と諦め、それから、血を流さぬよう“絞殺”“撲殺”色々考えましたが、『“絞殺”? どうやって絞めるんだ?』『“撲殺”? 何処を何で叩くんだ?』といずれもボツ。

そして、考えながら、ふとガス台に目をやった時に思いつきました。『そうだ! ゆ、湯攻めだ!』。

というわけで、思いついたら直ぐ実行。鍋に水を張ってガス台に火を点け、その間もネズミが逃げないように傘で牽制、これに神経を集中させていた所為か、気がつくと、鍋ではもうグラグラ湯が煮立っています。

よしとばかり、その鍋の湯を一気にネズミの上へぶちまけまけたところ、ネズミはそれでくたばるどころか、もの凄い勢いで走り出し、六畳間の方へ突進、部屋の中ほどを猛スピードでグルグル回り、その様子は“ネズミ花火”そのものでした。

でも、“ネズミ花火”が直ぐに消えてしまうのと同じように、ネズミはほどなく回転を止め、ピューッと台所の方へ走って、また同じガス菅の陰に身を寄せると、そこでじっと動かなくなったものの、尻尾は動いているのが見えるから、そう簡単にくたばってしまいそうには思えません。

これでは、ネズミとはいえ、余りにも不憫です。『なんとか早く成仏させてやらなければ』と、無い知恵を絞りつつ、再びガス台に目をやったら、恐ろしい考えが閃いてしまいました。『湯で駄目なら? そ、そうだ油攻めしかない!』。

これも躊躇うことなく直ぐ実行に移し、フライパンにサラダ油を注いでガス台に火をつけて待ち、フライパンから薄っすら煙が立ち始めたのを確認すると、これを一気にネズミの上へぶちまけてやったのです。

今度は一瞬で終りました。ジュッという音と共に、ネズミは少し小さくなったような感じで固まってしまい、無事に成仏してくれました。南無阿弥陀仏、合掌、チーン!

こうして一匹退治すると、近くの雑貨屋へ行き、“粘着性ネズミ捕り”というゴキブリホイホイの親分みたいな奴を二つ購入、翌朝、入口と台所に仕掛けて出勤し、夕方戻って来たら、なんと双方に5匹ぐらいずつ掛かっていたので、またまた肝が潰れそうでした。

部屋の隅々を点検してみたところ、便所の角に穴が空いていて、どうやら、こちらも出入り自由になっていたようです。直ぐにセメントで穴を塞ぎ、以来、少なくとも、ここからの闖入者で肝を潰すことはなくなりました。




12月14日 (月)  冬の到来

イスタンブール、今日は晴れていて気温も9℃ぐらいまで上がっていますが、昨日は霙混じりの雨で、日中でも3℃〜5℃ぐらい、寒いの何のって、いよいよ本格的な冬の到来を感じました。もちろん暖房を入れています。ケチって風邪引けば、もっと金がかかるし、新型インフルエンザなどに掛かったら、それこそ大変です。

そして、冬の到来と共に、トルコでは寒々としたニュースが続きました。クルド系政党DTPは、憲法裁判所から解党命令を受け、大規模なテロ事件が再発し、クルドの問題はまた振り出しに戻ってしまったかのようです。

今年になってから、AKP政権は改めてクルドの問題に取り組んできたけれど、これで御破算と言えるのではないでしょうか。

このAKP政権による新たな取り組み、私は“クルド問題の解決”とか“展開”なんて言ったりしていましたが、正しく訳せば“クルド問題の打開”とするべきでした。以下のサイトを御参照下さい。

トルコの新たな外交戦略(1)/ 内藤正典
http://www.global-news.net/article/contents/2009/11/post-15.html

3年ほど日本に帰っていないので、この方の著作を始めとして、日本で出版されたトルコ関係の新しい書籍を読む機会がなく、残念に思いますが、こうしてインターネットで一部の論説を読めるだけでも有難いでしょう。便利な世の中になったものです。



12月15日 (火)  もう砂のように詰まっているのよ!

今日、いつものように“乗り合いミニバス”でカドゥキョイの街へ出ました。この“乗り合いミニバス”には、座席が12ほどあり、立っている乗客を含めれば、25人ぐらいは乗れるはずです。

今日のミニバスに何人乗っていたのか、いちいち数えて見ませんでしたが、まあ普通の混み具合じゃなかったでしょうか。ところが、きっかけは何だったのか解らないけれど、60歳ぐらいの男性が運転手さんに「なんでこんなに沢山の人を乗せるんだ?」と文句を言い始め、他の乗客もこれに加勢して、大分盛り上がっていました。

「もっとミニバスの本数を増やせないのか?」
「これ以上増やしたら、我々運転手の収入が確保できません」
「全ての乗客が座れるようにして、料金を上げれば、あんたらの収入はもっと増える」

まあ、これは無理でしょう。ミニバスの値上げには私も反対です。座れなくても文句は言いません。

もっとも、私は毎日ミニバスで通勤しているわけじゃないから、こんな意見を述べる資格なんてありませんが、毎日通勤に使っている人たちも値上げには反対すると思います。いつだったか、ミニバスで同じような文句を言う中年女性に、運転手さんが「貴方はタクシーに乗れば良いでしょう」と言い返したら、その時は、他の乗客たちも「そうだ、そうだ、タクシーに乗りなさい」と運転手さんの肩を持っていました。

2006年12月6日(水)ローマ法王で大混雑
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=12

上記の“便り”にも書きましたが、そもそもトルコのバスや電車が、日本のように“すし詰め”になることは殆どありません。

市バスで運転手さんが、「皆さん、もっと奥のほうへ詰めて下さい」と叫んだら、「もう砂のように詰まっているのよ。これ以上乗れるわけないじゃない!」と金切り声を上げた女性がいたけれど、この女性は、“砂のように詰まっている”状態が如何なるものか理解するため、一度、東京へ行って、ラッシュアワーの山手線に乗ってみるべきじゃないかと思いました。

悲惨なのは、乗っている人たちが詰めようとしないから、終バスに乗り損ねてしまう事例です。タクシムからアジア側の我が家に帰ろうと、タクシム始発の終バスに乗ったところ、海峡大橋の一つ手前の停留所で、数人の若者が乗れなくなり、運転手さんは「もっと詰めて下さい。乗れない人がいます」と声をからし、私も『詰めれば皆乗れるよなあ』と思ったものの、誰も詰めようとせず、若者たちはそのまま取り残されてしまいました。

若者たちは、走り去るバスに向かって何事か叫んでいたけれど、その気持ち良く解ります。あんな場所で終バスを逃したら堪ったものではありません。

私も詰めてくれない乗客には叫びたくなったことがあります。混んでいるミニバスの出入口に立っていたところ、途中、二人降りようとしたので、一旦降りて、また乗ろうとしたら、出入口は既にブロックされてしまい、もう簡単には乗ることができません。『今、二人降りたじゃない。なんで乗れないの?』と泣きたくなりながら、思い切り押して無理に乗り込みました。


12月16日 (水)  バックドロップ・クルディスタン

バックドロップ・クルディスタン
http://www.back-drop-kurdistan.com/

“バックドロップ・クルディスタン”という映画が日本で上映されたそうです。この映画は、クルド人として日本政府に難民申請したものの、難民と認められずに強制送還されてしまったカザンキランさんの一家に取材したドキュメンタリーであり、クルドの問題を客観的に様々な角度から捉えた力作と言われているので、私も早く観たいと思っています。

2004年、カザンキランさんの一家が、渋谷区の国連大学前で座り込みを続けて、話題になっていた時点で、ネットの記事を読んだりしながら、ある程度、経緯について知っていたけれど、私は当時から、『おそらく就労目的で日本へ渡った人たちが、何とか送還を免れようと画策しているのではないか』と想像していました。

実際に、クルド民族主義的な活動を行い、拘束される可能性のある人物ならば、ヨーロッパの支援機関が放って置かないだろうと思ったからです。

それでも、上記のサイトにより、カザンキランさん一家がガズィアンテプの出身であると解った時は、思わずずっこけそうでした。難民申請という手段を使うくらいだから、少なくとも、シュルナクとかハッカリ、ディヤルバクルといった民族的な緊張が感じられる地域の出身じゃないかと思っていたので、ガズィアンテップという平穏な地方では、何だか肩すかしを喰ったように感じてしまいました。

ガズィアンテップも、エスニック的にはクルドである人たちが多く、かつてはクルド人地域と言えたのだろうけれど、産業化が進んで比較的豊かな地方となった今、そういった印象は殆ど得られないのではないでしょうか。同化されてしまったと言われれば、確かに、そうかもしれませんが・・・。

先月、トルコ人の友人に、この映画について話したら、「なに? ガズィアンテプ出身のクルド人で難民申請? そりゃ大嘘だろう」と一旦は呆れたものの、カザンキランさんが、10年以上、日本で生活していた経緯などを説明すると、「それは可哀想だ。それまで日本の社会は、不法滞在と知りつつ彼らを労働力として使っていたんだろ。それで充分に使い切ったら追放か? ひどいねえ、日本人は。彼らが難民申請するのも無理ないよ」と日本を厳しく非難しながら、カザンキランさんに同情していました。

カザンキランさんの一家については良く解りませんが、3年ほど前、やはり日本で在留特別許可を求めて話題になったアミネ・カリルさんというイラン人の家族には、小学校から高校まで日本の学校で学び、大学受験にも合格した長女がいて、特別許可の是非が注目されていました。

結局、その長女だけが日本への残留を許されたようですが、こういった不法滞在の家族の子供たちはどうやって学校へ行くことが出来たのでしょうか? 学校の関係者が、カリルさん家族の不法滞在を知らなかったとは思えません。それ以前に、カリルさんを雇用していた会社の関係者も、不法滞在を承知していたはずです。

これでは、トルコ人の友人に、「・・・日本の社会は、不法滞在と知りつつ彼らを労働力として使っていた」と非難されても仕方がないでしょう。カリルさん一家の話も聞いた友人は、「子供が学校へ行くのは黙認し、後になって、不法滞在だからと退去を求めるのは酷すぎる。そんな残酷な仕打ちをするくらいなら、子供が学校へ行く前に退去を命じるべきだ」と憤慨していました。



12月17日 (木)  南東部への投資は難しい?

ガズィアンテプのエスニック構成がどのようになっているのか、はっきりしたことは解りませんが、クルドやアラブをルーツとする人たちがかなり多いのではないでしょうか。「ガズィアンテプも、昔はディヤルバクルと大して変わらなかった」と言う人もいます。

とはいえ、今年3月の地方選挙で、クルド系政党のDTPは、ディヤルバクルにおいて65%という記録的な得票率を示したものの、ガズィアンテプでは、僅か5%の票しか得られませんでした。

しかし、ガズィアンテプの人々は、クルドの問題に高い関心を見せているようです。例えば、ガズィアンテプ商工会議所のメフメット・アスラン会長は、8月、“クルド問題の打開”を何故望んでいるのか、有名なクルド人歌手のシヴァン・ペルベル氏を例にあげて、次のように述べています。「我々の子供たちは、マイケル・ジャクソンやエルトン・ジョン、エルヴィス・プレスリーを聴きながら育ちました。しかし、この地方の人々なら、シヴァンも聴く権利を有しているのではありませんか?」。

また、ガズィアンテプを本拠地とするトルコ有数の大企業サンコのアブドゥルカディル・コヌクオウル会長も、10月30日付けのラディカル紙のインタビューに答えて、「民間の企業では、テロが終らない限り南東部へ進出することが難しいから、政府が先ず大きな産業施設を造り、南東部の人々に産業文化を根付かせなければならない」と語っていました。

トルコ人の中には、「クルドの連中は、“南東部だけ経済的に取り残された”と言いながら、自分たちだって、南東部には投資しようとしないじゃないか」と文句を言う人がいるけれど、確かに今の状態では、民間の企業にとってリスクが大き過ぎるのではないでしょうか。

イスタンブールやアンカラなど西部の大都市では、キレルという大手のスーパーマーケット・チェーンが、ここ10年ぐらいの間に急成長を遂げています。このキレルの創業者一族は南東部ビトゥリス県出身のクルド人ですが、キレルも未だ南東部には展開していません。

キレルのサクセス・ストーリーはちょっと感動的です。1941年生まれの創業者ヒクメット・キレル氏は、15歳の時からタバコ工場で働き、1981年に定年退職すると、ビトゥリスで小さな雑貨屋を開いた後、1984年に家族を連れてイスタンブールへ移住し、ここでも小売業を営みながら3人の息子を育てあげ、1994年、この息子たちの協力を得て、バクルキョイにスーパー・キレルの第一号店を立ち上げました。そして、長男ナヒット・キレル氏の経営手腕により、キレル・グループは急成長を遂げることになります。

次男のヴァヒット・キレル氏は、その後、政界へ進出し、ビトゥリス県選出の国会議員(AKP)となり、氏のウェブサイトには「全てをビトゥリスの為に」と記されているけれど、そのビトゥリスにスーパー・キレルが一店舗もないのでは、何だか格好がつかないかもしれません。

しかし、創業者一族が、自分たちの故郷だからといって、リスクを承知で南東部へ進出しようとしたら、他の社員たちは堪らないでしょう。なかなか難しいものだと思います。


12月20日 (日)  クルド問題の打開

政権党AKPが進めていた“クルド問題の打開”は、クルド系政党DTP(民主社会党)が憲法裁判所によって解党させられた為、振り出しに戻ってしまったかのようです。

DTPの国会議員たちは、当初、総辞職する意向を明らかにしていたものの、結局、BDP(平和民主党)という新しい政党で議員活動を継続することになりました。テロの再発など、物騒なニュースが続く中、民主的に平和が回復されることを祈ります。

数年前、日本の大手新聞に掲載されたクルド問題に関する論説を読んだところ、トルコのクルド人について、“独立が無理でも、悲願の自治が得られるように・・・”といった記述があり、とても複雑な気分でした。これは私たち外部の人間が簡単に“独立”など言い出せる問題ではないと感じてきたからです。

トルコ共和国は、トルコ人というエスニック・ルーツに基づく民族が、クルド人を併合して成立させた国家ではなく、多民族のオスマン帝国が崩壊する過程で、それぞれエスニック・ルーツを異にする人々が集まって国民国家を造り上げ、その国民を“トルコ人”と名付けたのではなかったでしょうか。

以下の記事で、トルコのジャーナリストであるエティエン・マフチュプヤン氏は、「“トルコ国民国家”とは、一つの民族に地理的な条件を与えるのではなく、一つの地理的な条件の中で“国民”を創り出すプロジェクトなのである」と述べています。

【89】クルド人知事の発言に向けられた反発【ザマン紙】【2004.09.18】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00089.html

もちろん、この記事でマフチュプヤン氏は、国民の名がトルコ人であることに疑問を呈しているわけですが、その“地理的な条件”を崩そうとはしていません。


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