Diary 2009. 10
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10月6日 (火)  トルコ人の解体屋さん

先月29日の“運命”などという駄文。「日本にも迷信で騒ぐ人はたくさんいるじゃないか」と言われそうだけれど、トルコで暮らしていると、「運命を信じる」と言い切る割には往生際の悪い人が、結構、多いように感じていたので、またあんなことを書いてしまったのです。

98年頃、愛知県下の解体屋で働いていたトルコ人は、次のように語っていました。

「一緒に働いている日本人たちは、社長が『あれやれ、これやれ』と命令すれば、直ぐに言うことを聞くが、俺たちトルコ人の場合、意味の解らない仕事はしたくないため、その度に『なんで?』と訊き返していたら、社長も最初は『いいからやれ!』とか怒っていたものの、そのうち、俺たちだけには、なんでするのか理由を説明してくれるようになったよ」。

これは、仕事に取り掛かる前の話ですが、トルコでは、事が済んでしまった後も、次の対策の為というより、何だか鬱憤晴らしや言い訳のような、余り意味があるとは思えない“理由探し”を続ける人が多く、『済んでしまったものはしょうがねえだろ』と呟きたくなったことが一度や二度じゃありません。

仕事に取り掛かる前の話なら、例えば、クズルック村の工場でも、“ポカよけ”の工夫などを面倒くさがる人が多かったように思います。

「なんでこんな工夫をしなければならないの? そういうポカは起きないから大丈夫。やるだけ無駄だよ」などと文句を並べたりしていました。

何処でポカが起きるか起きないか予知できないため、一応、全てに対策を取って置こうとしたわけだけれど、文句を言う人たちには、何でも事前に予知したがる傾向があったようです。

まあ、単に面倒くさい仕事は嫌なだけだったかもしれませんが・・・。



10月8日 (木)  ドウバヤズィット

この夏、ラディカル紙のコラムニスト、ハールク・シャーヒンさんの著作「アララトへの帰還」を読みました。シャーヒンさんの父は、1942年、トルコ軍の将校として、アララト山の山麓に位置するドウバヤズィットの基地に赴任し、シャーヒンさんはここで生まれたそうです。そして、1989年に、シャーヒンさんが、妻と年老いた父を伴って再びアララトへ向かう場面から始まる「アララトへの帰還」には、父の時代から1989年に至るトルコ共和国発展の軌跡が、万感の思いを込めて描かれており、非常に感銘を受けました。

私も1994年の6月に初めてドウバヤズィットを訪れ、その後、2006年の冬に一度再訪する機会があったものの、これは通訳業務だった為、自由に出歩くことは叶いませんでした。「アララトへの帰還」を読みながら、『読み終えたら、この夏こそ、ドウバヤズィットに出かけてみよう』と固く心に決めていたけれど、夏はまたしても、それを実現することなく過ぎてしまいました。

イランとの国境に近いドウバヤズィットは、今の私にとって余りにも遠い存在であるかもしれません。いつになったら行けるのでしょうか。

「アララトへの帰還」でシャーヒンさんは、教職についていた母と共に、職業軍人だった父も、トルコの近代化を地方へ伝播する役割を果たしていたと明らかにしていますが、この教員と職業軍人というカップルは今でもトルコに多く見られるそうです。

8月、そういった教員と軍人の若い御夫婦にお目にかかる機会があったけれど、やはり祖国の発展を願う熱意がお2人から感じられました。

トルコ軍の特殊な位置については、以下の“トルコ便り”にも書いています。最近になって、一部の軍人が、クルド人武装勢力との抗争の過程で、過去に犯したとされる暴挙が取り沙汰され、軍の威信は著しく傷つけられたものの、多くのトルコ国民から最も信頼されている国家の機構が軍である事実は変わっていません。

2008年8月9日 (土) トルコの軍隊
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=8

また、軍は政教分離主義の守護者をもって任じているとはいえ、決して宗教を否定しているわけではなく、世俗的に信仰を守っている点で、ほぼ無信仰でありながら、民主主義の発展を目指して、宗教勢力との不思議な連帯を続けているリベラル派の知識人や、これに激しく反発している無信仰の左派知識人たちとは、一線を画しているのではないかと思います。



10月9日 (金)  ドウバヤズィット/イサクパシャ宮殿 −1

以下は、11年前に書いた駄文です。少しだけ書き直しました。ここに登場するアフメットとは、2006年に、通訳業務でドウバヤズィットを訪れた際、再会を果たしていますが、この夏、またドウバヤズィットへ出かけて旧交を温めたうえ、新しい話と共に掲載しようと考えていたものの、結局、この夏もドウバヤズィットへ行く機会はありませんでした。

**********

「何だもう下りて来たのか、もっとゆっくりしてくれば良いのに」。2時間ほど前に、イサクパシャ宮殿の遺跡まで送ってくれたタクシーの運転手が親しげに声をかけてきた。

1994年の6月、私は、トルコも東の果て、イラン国境に近いドウバヤズィットの町を訪れていた。のんびりと旅を楽しむほどの余裕もなかったから、ここでは、ノアの方舟伝説で有名なアララト山を眺めて、イサクパシャの遺跡を見ることができれば充分、翌日は、次の目的地であるワンに移動するつもりだった。

しかし、この日は午前中にイサクパシャ遺跡の見学を果たせたので、午後からは近くにあるという温泉まで足を延ばしてみようかと思い、声をかけてきたアフメットと名乗るタクシーの運転手に、温泉までどのくらいかかるのか訊いてみたところ、彼はニヤニヤしながら「連れて行ってやっても良いけど、高くつくよ」なんて言う。

そもそも、このアフメットは、その朝、イサクパシャまでの往復にもかなり高い値をつけてきた。高いのは案内料も含まれている為だと言うから、案内なしの片道だけにさせて、やっと適当な額まで値切ったのである。帰りは歩くつもりだったが、途中で通りがかりのトラックに乗せてもらった。トルコでは、こういう時に、たいてい車のほうから止まって声をかけてくれる。

さて、温泉に行く話は、アフメットが「そんなに急いであちこち見て歩いてもつまらないだろう。ここは俺が出すから、お茶でも飲みながらゆっくり話そうじゃないか」というので、勧められるままに茶を頂くことにした。いろんな人と出会って話を聞くのがトルコでの旅の楽しみだったから、この際、温泉などはもうどうでも良かったのである。

アフメットは、私とほぼ同世代、20代後半から30代の前半ぐらいだろう。イサクパシャ宮殿へ向かう車中でも、ちょっと面白い話をしていたから、その続きを聞いてみたかった。朝、彼は私を助手席に乗せ、宮殿に向けて出発すると、助手席前のサイドボックスを開け、中から本を一冊取り出して見せた。それは、トルコ語に翻訳されたバイブルだった。

「君はクリスチャンなのか?」と訊いたら、彼は笑いながら肩をすくめ、「いろいろ勉強しているのさ。ムスリムでないのは確かだね」。

私が本をパラパラッと捲った後、サイドボックスの上にポンと置くと、「おい、ちゃんと中にしまってくれよ。ここはイスタンブールなんかと違う。そんなものが見つかったら拙いんだ」と言うのだった。

お茶を飲みながら、宗教についても話の続きを聞きたかったが、茶店では、周囲の耳もあるから、余り妙な話はできない。話題はもっとくだけた内容になった。

「日本人の旅行者はどうも変わっているな」とアフメットが言う。「去年は来なかったけれど、以前は決まって10月頃になると、イランから国境を越えて、続々と若い日本人旅行者がやって来るんだ。あれは不思議だった」。

良く解らないが、この手の日本人バックパッカーの殆どが大学生で、その多くは1年休学して4月に旅立つ。この人たちが、さらに同じようなコースを回って旅して来ると、結果はこうなってしまうのかもしれない。

イスタンブールで、日本を出てから8ヵ月かけてこの街へ辿り着くまでに、4回も偶然に会ったというバックパッカー同士の話を聞いたこともあった。上海とかニューデリーの安宿で遭遇したらしいが、これはもう偶然と言えないような気もする。

去年来なかったというのは、イラン政府がビザを出さなくなった為だろう。アフメットにこういった事情を説明すると、「それでは今年も来ないのか」と残念がった。

「以前は、あの季節になると毎日のように国境まで行って、良いお客さんになってくれそうな日本人を探したんだけどな」
「連中からも大分ぼったくったのかい?」
「いや、彼らはなかなか警戒心が強くて、長いあいだ逗留する場合でもホテルから余り出て来ないんだ。そりゃ、巧くつかまえたらこっちのものだから、やっぱりある程度はふっかけてやるけれど、もらった分のサービスはしているつもりだよ」

バックパッカーの中には、もっと危なっかしい国々を通ってくる所為か、やたらと用心深くなっている人もいたのだろう。しかし、トルコのこんな田舎町なら、ぼられたところで高が知れている。やはり多少はお金も使わないと、旅も楽しくならないのではないかと思う。

そろそろ席を立とうかという頃になって、中年のカップルが茶店に入ってきた。男の方は、その垢抜けない服装からして、地元の人らしかったが、女性はかなり都会風な感じである。どうやら男はアフメットの知り合いのようで、こちらに向かい手を振って挨拶した後、少し離れた席に座った。

「あれはメフメットという男で、俺と同じように観光ガイドをしている。女のほうはフランス人さ。メフメットに会いに毎年ここへやって来るんだ」

イスタンブールでは、トルコ人の若いツバメをかこっているドイツ人やら日本人のオバサンの話を聞いていたので、ちょっと冷やかしてみた。

「なんであんなオジサン相手にしているんだろう? もっと若いほうが良いんじゃないか?」

アフメットは、とんでもないといった風に顔を顰めた。

「よせやい、誰があんなオバサンの相手するんだ。あの2人は、あれでお似合いだよ」

アフメットは高校しか出ていないそうだが、本をたくさん読んでいるのか、いろんなことを良く知っているし、英語も結構話せるようだ。もともとクルド語とトルコ語のバイリンガルだから、言語の感覚が良いのだろう。アララト山をガイドする資格も持っていて、かつては欧米のツーリストを案内する機会も多かったらしい。

反政府ゲリラが出没するようになってから、アララト山は入山禁止となり、ツーリストもめっきり減ってしまったそうである。

「アララト山もあるし、この辺はもっとツーリストで賑わっても良いはずなんだが」とアフメットは言う。しかし、観光地化していない為に、人々が純朴さを失っていない良さも認めていた。

「ここだから、のんびりこんな仕事していられる。よその観光地でこうは行かないだろう。イスタンブールで働いたこともあったけれど、あまり住みたいとは思わないね」

トルコでは田舎へ行けば何処でもそうなのかもしれないが、確かに、この辺りの人たちの優しさには何とも言えないものがある。

その前の日、アララト山を望むことができる町外れまで出かけてみたが、そこでも思わぬ歓待を受けた。ぼんやりアララト山を眺めていたところ、近くの農家の人が庭先に出て来て手招きする。近づいて行って、トルコ語で挨拶すると、向こうも、ごく当たり前にトルコ語で挨拶を返しながら、「どうぞ、お茶飲んでいって下さい」と家の中へ招き入れた。

こういうトルコの人たちのホスピタリティーは本当に不思議だ。よそから来た旅人であれば、誰にでもお茶ぐらいは御馳走して上げるものだと思っているらしい。

でも、この時はお茶だけじゃなかった。よく冷えたアイランというヨーグルト風味の飲み物、薄焼きのパン、そして、塩漬けにした魚の焼いたものが出て来た。ドウバヤズィットのような内陸部の高原で魚は珍しい。訊くと、ワンから送られて来るそうだが、ワン湖で獲れた魚かどうかは分からないと言う。


10月10日 (土)  ドウバヤズィット/イサクパシャ宮殿 −2

前回の続きです。

**********

結局、あの日、温泉とやらに行くのは止めにした。昼過ぎ、アフメットが車で、メフメットとフランス人の彼女をイサクパシャの遺跡へ送るついでに、私も乗せて行ってくれることになった。今度はアフメットに遺跡の中を案内してもらえるそうだ。

「朝は、どうせその辺うろついただけだろう? こんなの只じゃできないが、今日は特別だよ」

遺跡では、いつ終るとも知れない修繕作業が行われていたけれど、かなり荒れたままになっていて、もちろん案内板などはなかった。案内板なんて無いほうが良いものの、確かに、朝来た時は、何も分からぬまま、うろついて来たのである。

アフメットはガイドだけあって遺跡の詳細を実に良く知っている。宮殿の主だったイサクパシャの伝聞に至るまで詳しく説明してくれた。礼を述べると、「だから言っただろう。料金に見合うサービスはしているんだよ」と愉快そうに答えた。

もっとも、説明してもらった内容の殆どを、今は思い出すことができない。案内があるに越したことはないが、イサクパシャの遺跡は、その景観だけでも充分に感動的だったと思う。

遺跡からの眺望も素晴らしかった。私たちの隣で、修繕作業の石工たちも仕事の手を休めて、気持ち良さそうに景色を眺めていた。話を聞いてみたら、彼らは黒海地方のバイブルトから来ているという。バイブルトの石工は腕が良いので、全国各地の遺跡で仕事があるそうだ。

アフメットは知り合いというわけでもなかったようだけれど、随分親しげに彼らと話し込んでいた。トルコの人たちにはお喋りが多いから、何処でも直ぐに話の花が咲いてしまうのである。

遺跡の回りに景観を壊すものはなかったが、唯一、裏手を少し登った所に、無愛想なコンクリート造りのカフェテリアが建っていて、これがえらく目障りに思えた。それをアフメットに伝えたら、「俺もそう思うけど、あれは俺の兄貴がやっているんだ」と苦笑い。

「欧米のツーリストを当て込んで建てたものの、さっぱりだね。一時は、あそこに泊まって遺跡で夜明けを迎えようとするツーリストで結構賑わったこともある。でも今や宿泊施設は手入れもしていないから酷いものだ。カフェテリアも専ら地元の連中が集まる所になっているよ。実は今日も宴会があって、終ったら俺も何人か町まで送らなければならないから、君もその時一緒に帰れば良いさ。ここで夕日を見るのも悪くないだろう」

暫くして、アフメットは、「直ぐに戻る」と言い残し、メフメットと彼女を乗せて町へ下りて行った。

私はカフェテリアの裏手をさらに登り、ちょうどその無愛想な建物が視界から外れ、遺跡がきれいに見下ろせる場所を見つけると、そこで日の入りを待つことにした。夕日は、遺跡からドウバヤズィットの町を隔てた向こうに連なる山々の間に落ちるのである。

やがて日が沈み、辺りに夕闇が迫ってきたので、カフェテリアへ引き返すと、アフメットは既に戻って来ていた。

「俺たちは外のテラスで落ち着くことにしよう。中では連中がそのうち踊り出してえらい騒ぎになるよ」と言って、私をテラスに座らせてから、アフメットは中へ入って行き、やがてビールとグラスを持って出て来た。

「食べる物は中にいくらでもある。まあ、勘定は連中持ちだから、余った分から持ってくるさ」

外からでも中の様子は良く見える。集まっているのは12〜3人といったところだが、大分盛り上がっている。

この当時、ドウバヤズィットでは夜間外出禁止令が出ていたため、前日は夕暮れが迫ると、早々にホテルへ戻った。しかし、アフメットも中の連中も、そんなことは全く気にしていないらしい。

「ホテルで誰かが待っているというわけじゃないだろ。それならゆっくりしていこう。宴会はまだまだ終らないからね」

そして、私たちの話も何時終わるとも知れないように続いた。考えてみれば、この時点でアフメットと出会ってから未だ10時間ぐらいしか経っていなかったが、まるで旧知の間柄のような雰囲気だった。

アフメットは、昔、左翼の運動に傾注していた時期もあったそうで、その時に警察でやられたと言いながら、足にある傷跡を見せてくれた。

「でも政治的な話は、もううんざりだよ。右も左もない。みんな嘘ばかりだ」

私はこれを聞いて、朝のバイブルの件を思い出したが、宗教や思想に関する深刻な葛藤が、彼を悩ましているとは思えなかった。いずれも単に好奇心の対象だったかもしれない。

外出禁止の制限時間はとっくに過ぎていて、辺りはもう真っ暗になっていた。遠くの方で、「ドーン、ドーン」と砲声が聴こえる。しかし、実際に危険を目の当たりにしたことのない私には、これといった実感がわいてこない。他人事のように、「あれはどの辺だろう?」と訊いてみた。

アフメットは別に気にも留めていない様子で、「心配するな、あれは演習さ」と答える。

「考えてもみてくれよ。俺たちはずっとここで生活してきているんだ。そんなに危険なはずがないじゃないか。特に近頃、事態は完全に収まっている。好い加減にしてもらわないと、こっちも干上がってしまう」

この言葉を裏付けるかのように、カフェテリアの中からは時ならぬ歓声が沸き起こった。見ると、酔いの回った男たちが、お互いに肩を組んで踊りに興じている。

「いつものことだけど、この馬鹿騒ぎに付き合わされる身にもなって欲しいよ」

アフメットはこっちの方も好い加減にしてくれと言いたげだった。

そのうち宴会も一段落ついたのか、何人か外に出て来て私たちの会話に加わってきた。しかし、中では、そろそろお開きにしようかという周りの思惑など気にする気配もなく、酔いにまかせて未だ気勢を上げている者もいた。こういう手合いは何処にでもいるのだろう。やがてこの事態も収拾された。

ドウバヤズィットに下りると、果たして町には人影も何もない。シーンと静まりかえっている。外出禁止令が全く無視されているわけでもなかったようである。アフメットは私をホテルまで送ってくれた。そして、翌朝、私はワンに発ち、それ以来アフメットには会っていない。

その後、イスタンブールに戻って2ヶ月ほど過ぎた頃。イスタンブールに在住している知り合いの日本人がドウバヤズィットに旅行すると言うので、私はアフメットの連絡先を教えて世話になるよう勧めておいた。

後日、帰って来たその人に、「旅行は如何でした?」と訊いたら、呆れたように、「貴方が教えてくれたのは、とんでもない男でしたね。ぼったくりもいいところです。もちろん、その手にはのらなかったけれど」と言われてしまった。

私は表向き、「はあ、それは残念でしたね」と言いつつ、心の中で、「アフメットは俺の友達だよ。それなのに、何てことを言うんだ。少しぐらいぼられたって良いじゃないか」と舌打ちしていた。


10月11日 (日)  社会の信頼と絆

タクシムのバス乗り場では、広いスペースの適当な所にバスが停まる為、バスを待つ人たちは、「サルエル行きは、だいたいこの辺に停まる」と目星をつけ、そこに列を作って待ちますが、時として、そんな列がお互い知らぬ間に二つ出来てしまい、

「私たちは、この列がサルエル行きだと思って待っていました」
「いや、バスはこちらに停まったでしょう? 貴方たちは間違った場所で待っていたんです」
「でも、私たちのほうが早くから並んでいたのは、御存知でしょう?」

などと、言い争いになったりするものの、大概の場合は、双方の列から交互に乗り込んだりしながら調整を図り、なんとか収まります。

ところが、昨日は、それぞれ別の列で待っていた50年配の男女2人が、乗車口で相手を罵って押し合い、大騒ぎになってしまいました。止めに入った周囲の人たちは、皆、男性に向かって、

「あんた御婦人になんてことをするんだ!」
「相手が御婦人であることが分かっていないのか!」

と口々に言い、女性を先に乗せて、その場を収めたけれど、男女はバスが走り始めてからも、車内で暫く罵り合いを続けていました。

しかし、あの場面、日本の人たちが見たら、知り合い同士の諍いか、見ようによっては痴話喧嘩のように思えたかもしれません。何だか、トルコの社会では、お互いに見ず知らずの人たちも軽く罵り合ってしまうほど、人々の間に親しみがあるのではないか、このように私には感じられます。時に罵り合い、時に喜び合い、時には助け合いといったところでしょうか。

バスなどで、隣の席に座り合った見ず知らずの人同士が気軽に雑談し始めたりするのも良く見られる光景です。社会の中に、何ともいえない信頼と絆があるように思えてなりません。

1ヵ月ほど前、知人を訪ねた帰り、夜の10時ぐらいに、勝手の分からぬ住宅街をとぼとぼ歩いていたら、突然、25歳ぐらいの美しい女性に呼び止められました。

「あのう、すみません。ちょっとお願いがあるんですが」

若く美しい女性から、こんな風にお願いされたら、大概の中年男は断れないでしょう。周囲を見たら、薄暗い街路は静まり返っていて、他には誰も見当たりません。

「どんな御用件ですか?」
「お願いです助けてください。私たちのアパートの前に大きな犬がいるから、恐くて入れないのです。先ほどから、どなたか通り掛らないものかと思って待っていました」
「犬? 何処にいるんですか?」
「ほら、その先の歩道に寝転んでいるでしょう? あの前がうちのアパートなんです」
「ああ、あれですね。追い払ってしまいましょうか?」
「いえいえ、そこまでしたら、犬が可哀想ですから。私がアパートの門扉を開けて中へ入るまで、犬を見張って頂ければ結構です」

“お願い”とは、それだけのことでした。私が犬の前に立ちはだかっている間に、女性は素早く門扉を開け、「ありがとうございます!」と叫ぶように言い残して、アパートの中へ姿を消しました。

私はよっぽど安心できる風体に見えたのでしょうか? しかし、女性は、通り掛った私の様子を窺ったりせず、躊躇うことなく直ぐに声を掛けてきたように思います。社会の安寧秩序に安心しきっている感じがしました。まあ、私も同じような無防備さで、いつもイスタンブールの街をうろついているわけだけれど・・・。




10月12日 (月)  風変わりな人々

今、住んでいるエサットパシャは、どちらかといえば保守的で、地方から出て来た信仰に篤い庶民が多く暮らす街ですが、私のような外国人もいるし、中にはちょっと風変わりなトルコ人もいて驚かされます。

例えば、我が家の直ぐ近くにある携帯電話店の経営者。この店、最近、代替わりしたばかりだけれど、前の経営者も相当に変わった人物でした。

私は2ヶ月に一度くらい、プリペイド式携帯電話のポイントを入れる為にここを利用するだけですが、その35歳ぐらいの経営者は、私が店を訪れると、「オー、マイフレンド!」とか何とか、妙な英語を叫びながら、歓迎してくれました。なんでも、以前、数年に亘ってアメリカで暮らしたことがあるそうです。

「僕はアメリカでも日本人とは一人しか知り合えませんでした。貴方が二人目の日本人です」
「私が二人目? アメリカには、たくさん日本人が住んでいるはずですが?」
「僕はねえ、アメリカへ労働者として出稼ぎに行ったんですよ。そういう環境にいると、中国や韓国の人たちとは知り合えるけれど、日本人とは出会う機会もありませんでしたね」

だから、ここで日本人と知り合えたことが、とても嬉しかったようです。

91年に初めてトルコへやって来て、1ヵ月ほど滞在したイズミルの安宿、コライ・ペンションの管理人アリさんも、長年暮らしたドイツで日本人とは全く知り合いになれなかった言い、「ドイツに韓国人の友人はたくさんいたよ。でも、あそこで日本人はドイツ人と同じ立場だったからねえ・・・」と寂しそうに話していました。アメリカへ行った彼も、同じように感じていたかもしれません。

一昨日、この携帯電話店へ行ったら、彼の代わりに新しい経営者が座っていたけれど、この男も同じく35歳ぐらいで、やはり相当に変わっています。私が外国人の非イスラム教徒だと解ったからなのか、いきなりキリスト教系の某新興教団について尋ねて来ました。

「その教団について余り良く解りませんが、日本でも色々と問題になっているようです。何故、そんなことを尋ねるのですか?」
「私がその教団の信者だからですよ」
「えっ? 貴方は信者なの? 大丈夫なんですか? この辺で抑圧とかありませんか?」
「トルコ共和国は政教分離の国です。合法的に認められているし、抑圧なんてありませんよ」
「いや、だから国からの抑圧じゃなくて、この近所から抑圧を受けないかということなんですが?」
「まあ、そういうのは多少ありますが、信仰を放棄しなければならないほどの抑圧はありませんね」
「ところで、貴方の故郷はどちらなんですか?」
「エルズィンジャンです」
「ひょっとして、前はアレヴィー派だったとか?」
「そうです、アレヴィーです。良く知っていますねえ、ハハハハハ」

驚きました。しかし、その教団に走るくらいなら、イスラム系の新興教団でも良かったように思えるのですが、何だか良く解りません。

正直言えば、その教団に関して、私は少々剣呑なものを感じているけれど、彼自身はとても好人物に思えたので、「貴方、変わっているねえ。面白い人と知り合えて嬉しいよ」と言って手を差し伸べ、固く握手を交わしてから、「この店の前の経営者も随分変わった人みたいでしたが・・・」と水を向けたら、「そうそう、あれも変わっていましたねえ。この店を全て買い取ったものの、彼の私物もあるだろうと思って訊いたところ、カバンを一つ掲げて、『僕の私物はこれだけです。今度はこれを持ってアフリカへ行きます』なんて言うんですよ。楽しい男でした」と愉快そうに話していました。


*写真は、我が家の窓から撮ったエサットパシャの街です。


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10月13日 (火)  プレゼント(贈り物)という名の女

もう4〜5年前になりますが、「イスヤン・ギュンレリンデ・アシュク(反乱の日々の恋)」というアフメット・アルタン氏の小説を読み進めていた頃の話です。

この小説は、以下の駄文でも話題にした「クルチ・ヤラス・ギビ(刀傷のように)」の続編で、オスマン朝の末期を舞台に繰り広げられるメリハリの利いたストーリー展開は、468ページをそれほど長いものに感じさせませんでした。

禁断の恋
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/002.html#30

「クルチ・ヤラス・ギビ(刀傷のように)」で、父が皇帝の主治医である“フランス帰りの伊達男”ヒクメット・ベイは、イスラムの導師と別れたばかりの美女メフパーレと結婚して甘い日々を過ごしていたけれど、滞在先のテッサロニキで、妻のメフパーレがギリシャ人の情夫のもとへ走ってしまい、嘆き悲しんだヒクメット・ベイはピストル自殺を図り、ここで物語は終っています。

続編の「イスヤン・ギュンレリンデ・アシュク(反乱の日々の恋)」では、一命を取り留めたヒクメット・ベイが、テッサロニキの病院で傷を癒した後にイスタンブールへ戻り、物語は新たな展開を迎えるのです。

イスタンブールで、ヒクメット・ベイが先ず父の屋敷に身を寄せると、父は傷心の息子を労り、暫く屋敷に留まるよう勧め、女中に部屋を用意させました。そして、ヒクメット・ベイが女中に案内されてその部屋へ入ったところ、ベッドに若い女が佇んでいたので、ヒクメット・ベイは驚き、廊下に出て女中を呼びとめ、女が何者であるか尋ねると、女中は「お父様より、ヘディエ(プレゼント)でございます」と言い残して立ち去ります。

それから、ヒクメット・ベイは、その若い女に名前を訊いたけれど、「名前はございません。貴方がつけて下さい」と言われ、女をヘディエ(プレゼント)と名付けて寵愛しました。

4〜5年前、この場面を読んでから、ほんの数日過ぎ、パソコンが壊れてしまい、市内の代理店へ出かけて、受付にいた若く美しい女性に事情を説明しながら、彼女の胸についていたネームプレートを見たら、なんとそこには“ヘディエ”と記されていたのです。

“ヘディエ”という名が、物語上の創作であるとばかり思っていた私は、これに驚き、こみ上げてくる笑いを抑えるのに苦労しました。

まあ、これだけの話ですが、先日もトルコ人の友人と与太話を楽しんでいる際、この話を披露したら、友人は呆れたように、「なんで君は、そのヘディエさんに、小説の話を聞かせて上げなかったの? 馬鹿だねえ。彼女もきっと面白がって話に乗って来たと思うよ」とぼやいていたものの、私にそんな機転が利くわけありません。話したところで、助平根性が丸出しになり、おそらくヘディエさんの機嫌を損ねてしまったでしょう。


10月14日 (水)  宗教と政治における二通りの権威

【218】宗教と政治における二通りの権威【ラディカル紙】【2009.10.14】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00218.html

10月11日付けのラディカル紙日曜版より、アンカラ大学神学部のイルハミ・ギュレル教授が寄稿した論説を訳してみたのですが、これまた私の手に負えない少々難解な記事だったかもしれません。

「イスラムでは、神と人間の関係が、神の権威、そして神の人間に対する慈悲/恩恵−正義、一方で、人間の信心と正しい行い(正義)に基づく契約の上に築かれている。つまり、神の権威は、神が全能であり、絶対的な力を有している為だけではなく、同時に、この力を取り囲む道徳(正義、知恵、慈悲)から生まれるのである。何らかの関係において、その関係をただ力に依存した場合、弱い方は圧迫される。何故なら、力とは危険なものであり、絶対的な力は、絶対的な危険となるからだ」とイルハミ・ギュレル教授は述べていますが、つまり神も絶対的な力ではないということでしょうか? これは、かなりトルコ的なイスラムであるような気もします。

実際、後述でギュレル教授は、こういった道徳と法に基づく解釈が、トルコの代表的な宗派であるハナフィー学派とマートゥリーディー派によるものであると明らかにした上で、トルコ人が数百年に亘って、この思想・解釈から離れ、宗教的な意識が、道徳と法に基づく関係というより、絶対的な力に服従(運命)、あるいはへつらいになってしまい、政治的にも、数百年の間、君主政が続いた為、トルコの社会では、民主主義を“法治国家”として築き上げることが困難になっていると論じています。

さらに、そういった“絶対的な力に服従”する傾向により、軍部は武力を行使、あるいは背景にしながら、容易く法(軍刑法148条)から逸脱しているのに、この権限が国民から容認されていると批判しているのです。

しかし、多くのトルコ人の宗教意識が、未だに道徳と法に基づく関係というより、絶対的な力に服従にする傾向にあるのなら、これを利用しようとする原理主義的な宗教勢力の脅威も消え去っていないということになり、政教分離の守護者である軍も、簡単に引き下がるわけには行かなくなってしまうでしょう。実に複雑で難しい問題であるように思えます。



***
この記事の「官僚的、政治的な権力は、国家の立法的な力を、軍部は武力を行使、あるいは背景にしながら、・・・」に続く“軍刑法148条”に関連した部分ですが、最初は良く調べもせず、この法自体が軍の治外法権的な権限を認めているのではないかと勝手に考えたあげく、この部分を「・・・法の及ばない領域(軍刑法148条)を容易く手にしている」などと誤訳してしまいました。

直訳すれば、「法の外へ(軍刑法148条)容易く出てしまう・・・」であるのを、これでは日本語として変だと思い、上記のように変えてしまったのですが、軍刑法148条を検索して調べたところ、これは、軍人の政治活動を禁じた法であり、大変な誤訳に気がついた次第です。

この部分は、「容易く法(軍刑法148条)から逸脱している・・・」と訂正しました。ごめんなさい。



10月17日 (土)  子供の塾通い

2009年9月4日(金)海峡の向こうはギリシャなの?
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2009&m=9

先日、上記の話でお伝えした天真爛漫なレンタカーの運転手とまた会って、お茶を飲んで雑談してきたのですが、今回は彼の奥さんも一緒でした。

彼は、両親が保守的な南東部ワン県の出身であり、あの取材旅行中、酒の席に同席しても自分は飲まなかったくらいだし、けっこう信心深そうな話もしていたから、多分、そうじゃないかと思っていたけれど、一緒に現れた奥さんは、やはりしっかりスカーフを被っていたばかりか、大きなサングラスを掛け、私が挨拶すると、ちょっと会釈しただけで、何も言わなければ握手もしようとしません。

そのままずっと黙っていられたら、こちらも気まずくなってしまいそうでしたが、席についてお茶を飲み始めてから、サングラスを外し、亭主と私の話にも割り込んできたのでホッとしました。奥さん、なかなかしっかり者です。自分の意見を持っているし、言葉にも力がありました。

天真爛漫氏は、「教育に悪いから、子供たちの前では、汚い言葉も使わないように気をつけているし、夫婦喧嘩も子供たちが見ている所ではやらない」なんて言ってたけれど、あの奥さんが相手じゃ、喧嘩しても敵わないでしょう。

しかし、この夫婦、子供の教育には、実際、かなり力を入れているようで、9歳の長男を学習塾に通わせているそうです。トルコでも、最近はこんな親たちが増えて来たかもしれません。

3年ほど前、日本から来られていた方とボスポラス海峡を渡る船に乗っていたところ、向かいの席に座っていた親子連れが話しかけてきました。スカーフを被った30代と思しきお母さん、10歳ぐらいの娘、そしてその弟です。

「英語は話せますか?」と訊かれたので、「私は駄目ですが、こちらの方はかなり話されますよ」と答えたら、お母さん、娘に向かって、「さあ、何か英語で話してみなさい」と発破をかけたものの、娘さんは照れてしまったのか、未だそれほど勉強していなかったのか、挨拶ぐらいしか口にしませんでした。

お母さんは、「これからの時代、やはり英語が話せなければいけないと思って、わざわざ英語塾に通わせているんですよ」と笑っていたけれど、御自身は英語など殆ど解っていなかったみたいだし、それほど裕福な家族でもなかったでしょう。何だか、ビートたけしと母サキさんの話を思い出してしまいました。

今、こうして塾通いさせられている子供たちが、社会へ出て働き始める頃のトルコを想像したりすると、そこに右肩上がりの活力が感じられて、羨ましくなります。

また、この親子連れも、かなり信心深そうだったから、おそらく天真爛漫氏と同様に、現AKP政権を支持していたのだろうけれど、こういった家族を見ている限り、イスラム化の怖れなども杞憂に思えるのではないでしょうか。

以下の記事では、そのAKP政権のエルドアン首相が宗教に対して示した柔軟な見方も紹介されています。

【219】宗教と文化【ラディカル紙】【2009.10.15】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00219.html

しかし、一部のイスラム知識人のコラムなどを読んだりすると、まるで世俗主義に挑戦するかのような意見が述べられていたりして、一抹の不安を感じてしまうし、エルドアン首相にしても、如何に現実的で柔軟な政治家とはいえ、長年に亘り、おそらくある種の使命感を持ってイスラム運動に携わっていた人物だから、この不安も全くの杞憂ではないかもしれません。

世俗主義者の中には、「エルドアンなんて、宗教を利用して金もうけしているだけで、信仰心の欠片もないだろう」などと悪態ついている人たちがいるけれど、全く馬鹿げた話で、それなら、彼らは却って安心して良いはずです。

確かにブルジョワ志向はあるかもしれませんが、そんなこと言えば大概のトルコ人がそうであるし、やはり敬虔なムスリムであり、政治家としては強面なところがあるにしても、恐妻家という噂もあり、家庭では良き夫、良きお父さんじゃないでしょうか。だからこそ、一部の世俗主義者たちが、そのイスラム傾向を懸念しているのだと思います。




10月18日 (日)  イスタンブール ユーラシア マラソン 

2009年9月9日(水) ガービおじさんの葬儀
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2009&m=9

今日の昼、ヨーロッパ側のシシリー区内にある墓地で、ガービおじさんの40日供養が営まれるため、11時頃に近所の停留所へ行き、海峡大橋を通ってヨーロッパ側へ渡るバスを待ってたところ、これがなかなかやって来ません。

通常、15分に一本ぐらい来ますが、いつだったか30分近く待たされたこともあったので、『遅いなあ』とイライラしながら11時半まで待った挙句、さすがに変だと思い、やはりそこで、10分ほど前から待っている青年に訊いたら、「僕もそのバスを待っているんですが・・・」と言いながら少し考えていたけれど、そこで思い出したのか、「あっ、そうだ。今日はマラソン大会です。海峡大橋は通行止めになっていますよ」と苦笑い、「ウスキュダルから船でヨーロッパ側へ渡るより手がありませんね」と教えてくれました。

全く間抜けな話で、私は、来ないバスを無駄に30分も待っていたことになります。ウスキュダル行きのバスなら、待っている間に何本も通過していたので、悔しさもひとしおです。

ウスキュダルへ出たら、スポーツウエアを着て、胸にマラソン大会記念メダルをぶら下げた人たちがたくさん歩いていました。

マラソン大会、アジア側から海峡大橋を渡ってヨーロッパ側まで行く8kmのコースでも記念メダルがもらえるため、老若男女を問わず、たくさんの市民が参加するものの、始めから完走というより、完歩を目指す市民も多いそうです。

イスタンブール ユーラシア マラソン
http://www.roundtrip.co.jp/marathon/istanbulmarathon_index.html

Istanbul Euroasia Marathon
http://www.istanbulmarathon.org/en/index.php


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