Diary 2008. 9
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9月3日 (水)  なんと素晴らしい一日

昨日は、以下の“メルハバ通信”でも御紹介した韓国の友人たちのところで、久しぶりに韓国の焼酎を頂きました。

http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#250

チャムという銘柄で、アルコールが20度というのは少し薄いような気がしたけれど、最近は韓国でもライト志向が高まっていて、このぐらいのものが好まれるそうです。

夜10時頃まで楽しく飲んでから、皆と別れてタクシムでいつものようにコズヤタウ行きのバスに乗り、少し混んでいる車内の中ほどにある降車口付近の窓際に立って出発を待っていたところ、突然、降車口が開いて、大きなスーツケースと共に東洋人の若い女性が乗り込んできました。あのスーツケースを抱えて運転席脇の乗車口から乗るのは大変なので、周囲にいた人たちが親切に取り計らってくれたのでしょう。

彼女は私の横に立ち、私の顔を見て目を合わせると嬉しそうに微笑んだので、何となく韓国の人じゃないかと思って、始めから韓国語で「韓国の方?」と話しかけたら、「わーっ、韓国人ですね」とはち切れんばかりの笑顔になりました。「いやいや日本人ですよ」と応じて話を続けたけれど、最初に彼女の自然な微笑みから『韓国人だろう』と判断したのは、やはり間違っていなかったようです。悲しいことに、日本から来た旅行者の多くは、男女共にこういう場面で目を合わせて微笑んでくれたりはしません。時には、こちらから話しかけても、警戒しているような表情をなかなか崩そうとしなかったりします。

アジア側へ向かうこのバスに乗って、普通のホテルに落ち着こうというわけでもなさそうだから、「どちらに行くんですか?」と尋ねたところ、「それが、韓国人の知り合いの方の御宅なんですが、電話番号とウムラニエという街に近いことが分かっているだけで、住所も知らないんですよ」と屈託のない様子で笑っています。「何処の停留所で降りるのか分かりますか?」と訊いても、「適当なところで降りて、後はタクシーで来なさいと言われてます」なんて言うから、『それは困った話だなあ』と呆れながら、ひょっとして彼女の知り合いというのは私が知っている人かもしれないと思って名前を確認してみたけれど、ユー・某氏と言い、私には心当たりがありません。

バスが走り始めてから、彼女に「トルコは初めてなの?」と尋ねたら、「いえ、去年も来てイズミルで1年ほど暮らしました」という答えが返って来たので、思わずずっこけそうでした。

「なんだ、それなら君はトルコ語も解るだろう?」
「それが、子供たちに韓国語を教えたりして、いつも韓国語ばかり話していたから、トルコ語は全く勉強できなかったんですよ」
「イズミルと言えば、ハタイにある韓国人教会にも出掛けたでしょう? さっきまで一緒に飲んでいた韓国人の友人たち、チェさんやドンギョンさんも、あの教会に出入りしていたはずだよ」
「ええ、その教会については聞いていたけれど、行ったことはないし場所も知りませんでした。私はカルシュヤカにあるトルコ人の信者が集まる教会で世話になっていたものですから」

話がここに至ると、私は以下の“メルハバ通信”でお伝えしたフィクレットという友人のことを思い出して、ちょっとした胸の高ぶりを覚えながら訊き返しました。

http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#180

「それじゃあ、フィクレットというトルコ人を知りませんか?」
「ええーっ! 私はそのフィクレットさんが牧師を務める教会でお世話になっていたんです。今回もお世話になると思います」

これには思わず何か叫びたくなるほど嬉しくなり、気を落ち着かせながら、『おいフィクレット、君をついに見つけたよ』と心の中で呟いていました。彼とは94年以来会っていないのです。

ウムラニエに近い停留所で彼女と一緒にバスを降りて、タクシーを止めると、実直そうな運転手さんで先ずは一安心。私の携帯を使って、その場でユーさんに電話したら、運転手さんは直接ユーさんと話し合って行き先を確認した後、「念のため」と言って、ユーさんの電話番号を自分の携帯に控えていました。私はホッとしながら、彼女に「イズミルへ行ったらフィクレットに宜しく」と頼んで、タクシーを見送ったけれど、今思い返しても、『昨日はなんと素晴らしい一日だったのだろう』と感慨深くなってしまいます。


9月4日 (木)  トルコは親日国?

福田総理の唐突な辞任表明には驚きもしたし、がっかりもしたけれど、もっとがっかりさせられたのは、ここ数日、いつものようにトルコの幾つかの新聞に目を通していたのに、このニュースが全く伝えられていなかったことでしょうか。ネットで検索するとネット上のニュースとしては多少伝えられていたようですが、目を通した新聞に関連記事は掲載されていませんでした。

トルコは良く親日国と言われているものの、トルコのマスコミで日本が話題になることは滅多にないし、全般的に日本への関心は極めて低いように思えます。ところが、たまに、新聞の経済欄のコラムを覗いたりすると、こういったところに記事を書いている方たちは、日本の事情にかなり精通していたりして、『やはり日本は経済だけなのか?』と寂しく感じるほどです。まあ、日本でもトルコは全くと言って良いほど知られていませんが・・・。

トルコの人々に、アンケートで“好きな国”を問うた場合は、日本が上位に登場するそうですが、日本と答えた人々は果たして日本の何に魅力を感じたのでしょう。

ワールドカップが日韓共催で開かれた頃、取材で日本を訪れたある左派のコラムニストが、次のように記していたのを読んだ覚えがあります。「・・・イスラム主義者たちが“伝統を維持したまま近代化を成し遂げた日本”などと称賛していたものだから、私は日本が大嫌いだった。しかし、実際にこの国を訪れてみたところ、街角や人々の様子は至ってモダンで何処にも伝統は感じられないし、熱心に宗教を信じている人たちもいない。私はたちまちこの国が好きになってしまった・・・」。これでは、褒められているのか貶されているのか分かったものではありません。

91年、初めてトルコへやって来て、イズミルのトルコ語教室に通っていた時も、トルコ人の講師が日本について殆ど何も知らなかったことに驚かされました。ドイツ人の受講生は未だいくらか知っていたし、あの教室で日本について最も良く知っていたのはアメリカ人の受講生だったように思います。まあ、彼らは、トルコ語を学んでいる非常に珍しいドイツ人やアメリカ人だったわけだけれど・・・。

87年から88年にかけて滞在した韓国では、マスコミに日本が登場しない日など有り得ないどころか、日本は人々の日常生活の一部になっていたような感じさえしたものです。2003年に韓国を訪れて、ソウルで地下鉄に乗った際、車内に張り出されていたクロレラという商品の広告に「・・・日本の人たちは毎日クロレラを飲んでいます」と書かれているのを読んで『相変わらずだなあ』と呆れてしまいました。88年当時も、“日本で流行っています”とか“日本の人たちからも愛用されています”というのはコマーシャルで良く使われる落とし文句でした。

私は韓国で“日本に対する畏敬の念”を人々に感じたこともあります。最近のよろよろした日本に最も憤慨して残念に思っているのは、意外に韓国の人たちであるかもしれません。『どうしたんだ日本?! しっかりしてくれ! お前は俺たちの目標なんだぞ!』なんて歯軋りしているのではないでしょうか。

あれだけ日本に親しんでいる国、つまり親日的な国は余りないはずです。しかし、実際に親日的と言われているトルコで、韓国に見られるような“日本への熱い思い”を感じたことは殆どありません。

しかし、韓国語を学んでから韓国の会社で働き、韓国の人たちと密接な関係を持っていた頃は、その“日本への熱い思い”に堪えられないほどの息苦しさを感じていました。結局、堪え切れずにトルコへ逃げ出した時、トルコが少なくとも“反日的な国ではない”というせこい考えが頭の片隅にあった事実を認めないわけにはまいりません。それが、トルコ生活も長くなって、トルコへの思い入れが強まるにつれ、“トルコは親日国”という括り方に何だか不満を覚えるようになってきたのです。

申し上げたように、“実際、それほど親日的か?”という疑問もあるけれど、それ以上に“トルコの売りは親日だけなの?”という不満があります。

例えば、「三国同盟で一緒に第二次大戦を戦ってくれたから」といってドイツとイタリアが好きになった人であるとか、前大統領が日本の文化に親しみ大の相撲ファンだったからといってフランスに魅了された人が、そんなにいるとは思えません。この国々は、親日的であろうとなかろうと充分に魅力があると思われているから、何も親日を売りにする必要などないでしょう。

私に言わせれば、トルコだって親日的であろうとなかろうと充分に魅力的な国なのです。その歴史、文化、ぬくもりが感じられる人々、そしてトルコ語。魅力はつきないと思います。

もちろん、日本とトルコの両国で、もっとお互いに関心を抱いてもらいたいとは願っているし、そのきっかけとして“親日”は有効であるかもしれませんが・・・。



9月5日 (金)  トルコ語教室の思い出

世界には様々な国があるものの、考えて見たら、私が今までに友人と言えるような付き合いをしたことがあるのは、日本、中国、韓国、トルコ、イランの人々ぐらいです。我ながら随分と狭い世界で生きてきたものだと思うけれど、日本語以外に辛うじて使える言語はトルコ語と韓国語だけだから、まあ仕方ないかもしれません。

しかし、イズミルでトルコ語を学んでいた時には、教室で様々な国から来ている受講生たちと知り合えたし、イスタンブールでも観光地の安宿に長期滞在している各国の人たちと親しくなる機会がありました。

イズミルにやって来て、先ず3ヵ月ほど通ったアルサンジャクのトルコ語学校には、ドイツ人女性の受講生が多く、他にはアメリカ人とイギリス人が各2名(一人はオーストラリアへ移住したという中年女性、もう一人はロシア系ユダヤ人のピアニストという老婦人でした)、アラビア人とギリシャ人が一人ずつだったと記憶しています。

メルハバ通信“91年春、初めてトルコへ”
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#10

アメリカ人受講生の一人は、アメリカで知り合ったトルコ人男性と結婚してトルコへ渡って来たという女性で、彼と知り合う前には日本へ留学していたこともあると言い、流暢な日本語を話していました。もう一人のアメリカ人は、暫く同じ教室にいたジョンさんという如何にもヤンキーらしい陽気な青年。彼は日本について特別関心があるようでもなかったけれど、他のドイツ人受講生やトルコ人講師に比べれば遥かに日本の事情を良く知っていたように思います。このジョンさんとは、2000年頃にイズミルでばったり再会して、お互いに驚かされました。

ギリシャ人のエヴァさんにも忘れ難い思い出があります。美人で頭の回転が速かったし、かなり滑らかにトルコ語を話せたばかりでなく、英語とフランス語にも堪能であることを当初より明らかにしていました。それが、ある日の授業中、どういうきっかけだったか、ドイツ語も解ることが明らかになると、同じ教室にいた3人のドイツ人女性は驚愕の色を表した後、何だか酷く気まずそうにしていたので、授業が終ってから、こっそりエヴァさんに尋ねたところ、「だってあの人たち、休み時間に良くドイツ語でギリシャの悪口言っていたのよね」と愉快そうに答えてくれたものです。

ここで、エヴァさんに教えてもらったギリシャの小話を一つ。

かつて軍政下にあったアテネの街角で、中年男が通りの反対側に向かって、「おーい、おーい」と呼び掛けていた為、憲兵がこれを咎めて詰問します。

「お前は何を叫んでいるんだ?」
「いや、通りの向こうにいる女房を呼んでいるんですよ」
「それなら、奥さんの名前を呼べば良いだろう? 何故“おーい”なんて叫ぶんだ?」
「いや、女房の名前を呼ぶと、旦那に逮捕されてしまいますから」
「馬鹿を言うな。妻の名を呼んで逮捕されるわけがないじゃないか。構わないから、奥さんの名を呼んでみなさい」
「本当に良いんですか? それじゃあ呼びますよ。デモクラシア! デモクラシア!」

すると、憲兵は直ぐに男を連行してしまったという話。

ドイツ人の受講生では、ビルギッテさんという私と同い年ぐらい女性が印象に残っています。他のドイツ人女性受講生の多くが、トルコ人男性と結婚してトルコへ来ていたのに対し、彼女は何処かドイツの地方都市で役所に勤めていて、トルコ人移民の問題を担当しているうちにトルコ語を学び始め、わざわざ休職してイズミルに来ていたそうです。質実剛健なドイツ人の気風が感じられ、異文化を理解しようとする真摯な志が伝わってくるような人でした。

しかし、彼女が楽しそうに語ってくれた“日本人の印象”には、思わず苦笑いするよりありません。なんでも彼女が暮らしている地方都市には、有名な古い寺院か何かがあって、その周辺は街並みを保護する為に車両通行禁止となっているのに、日本人観光客を乗せたバスだけには特別な許可が与えられ、寺院前の広場までバスが進入して日本人観光客を下ろすと、観光客らは集団で寺院の周囲を一回りして慌しく写真を撮ってから、またバスに乗り込んで、あっという間に去って行くのだそうです。


9月6日 (土)  スーダン人の留学生

イズミルで、エーゲ大学のトルコ語教室に通い始めると、こちらは受講生の数も多く、その国籍はさらに多様で、以下のようなリビア人の留学生とも知り合う機会に恵まれました。

メルハバ通信“リビア人留学生ハシム”
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#50

また、トルコ語教室に通っている留学生ばかりでなく、ここを修了して既に学部で学んでいる留学生が教室へ遊びに来ることもあり、スーダン人のサードゥクもそういった留学生の一人。アラビア語の発音はちょっと違っていたかもしれないけれど、本人もトルコ語風にサードゥクと自己紹介していました。

陽気で全く人見知りしないサードゥクから気軽に声を掛けられ、私も直ぐに打ち解けて親しくなり、こちらからも彼が在籍していた薬学部の校舎を訪ねたりしたものです。

当時、エーゲ大学にスーダン人の留学生は多く、トルコ語教室には美しいスーダン人女学生もいて、キャンパス内を歩く彼女の周りを他のスーダン人男子留学生が守るように取り囲んでいるのを見ながら、私は秘かに“シバの女王”と名付けたりしたけれど、こんな話もサードゥクが相手なら気兼ねする必要はありません。

他のスーダン人留学生たちを見ると、イスラムにアイデンティティを求めているようでしたが、サードゥクは一応ムスリムであるにも拘わらず、好んで“我々アフリカ人”という言葉を用い、クリスチャンであるウガンダ人の留学生とも親しくしていました。

92年の春にイズミルを離れてから、93年の夏だったか、久しぶりにイズミルを訪れ、アルサンジャクの駅前を歩いていると、突然、目の前にサードゥクが現れたので、「おおーっ、サードゥク! 久しぶりじゃないか。君はいったい何処から現れたんだ?」と叫んだら、「何処から現れたじゃないよまったく、用事があってボルノバからコナックへ行くバスに乗ってここまで来たら、君が歩いているのが見えたから、慌ててそこの停留所で降りて来たんだよ」と言うのです。私の為にわざわざ途中下車して来たわけで、こういう出会いは本当に嬉しくなります。この時は連絡先だけ交わして、日を改めて会ったけれど、彼と会ったのはそれが最後だったかもしれません。

まあ、期間は短かったものの、彼のことは“友人”と呼んで差し支えないでしょう。伝聞によれば、彼はその後、トルコ人の女性と結婚して、トルコに住んでいるという話ですが、未だに居所を確かめることができません。なんとか近いうちに再会を果たしたいものです。



9月7日 (日)  スルタンアフメットの外人たち

93年の暮れだったか、もう大分寒くなってから、イスタンブールはスルタンアフメットの安宿で1ヵ月ほど暮らしたことがあります。当時は未だ、このスルタンアフメット界隈にバックパッカーの集まる安宿がたくさんあって、私が泊り込んでいたホテルもそんな宿の一つでした。

宿の各部屋は様々なタイプに分かれていて、私は中でも一番安い大部屋のベッドに寝ていたけれど、広い空間に6〜8ほどのベッドが並んだその部屋は滅法寒く、大概の旅行者は2日ぐらいすると文句を言いながら出て行ってしまい、固定のメンバーは、私と三つ先のベッドに寝ていた若いオーストラリア人女性の二人に限られていました。

このオーストラリア人女性はなかなかの豪傑で、寝る時はTシャツとパンティーだけで毛布に入り、朝起きる時は「オッ!」とか気合を入れてそのままベッドから飛び出してきます。まあ、身長が175cmはあって横幅も太く、お世辞にも色っぽい感じではなかったのですが・・・。

お互い部屋にいるのは寝る時ぐらいだから、話す機会もそれほどなかったけれど、そもそも英語が解らない私を相手にしたのでは会話も成り立ちません。彼女、時々挨拶のつもりなのか「マコト、ヨイー」なんて言ってました。ヨイーは日本語の“良い”で、「マコト、グッドか?」という意味だったのでしょう。

この界隈には、ホテル暮らしを始める前から頻繁に来ていたので、近くの土産物屋で店番をやっていたイラン人青年の二人組みとも親しくしていました。一人は、日本で働いていたこともあって流暢な日本語を話し、トルコ語が解っている上、英語やドイツ語にも堪能、ハンサムで何処となく気品が感じられ、日本人旅行者からも“王子”と呼ばれるほどだったのに、もう一人は、ペルシャ語以外には英語しか話さないし、「ターキー・イズ・ドンキー」が口癖でトルコ語を全く覚えようとせず、人相も悪いので“山賊”と名付けられ、このイラン人の二人組みは、私や日本人旅行者の間で“王子と山賊”と言われるようになっていたのです。

王子は日本で旋盤工として働いたこともあったそうで、「あれは難しいし大変な仕事です」としみじみ語り、私たちも「王子はなかなかインテリなのに日本では苦労したんだなあ」と感慨深く思ったものでした。

その後、94年に日本へ帰ってから、97年頃、大阪で知り合ったイラン人の友人にイスタンブールの思い出を語り、“王子と山賊”が記してくれたテヘランの住所を見せると、友人は少し残念そうに、「テヘランという街は階層によって住む地区が別れていて、住所を見ただけで、どんな階層に属する人なのか解ってしまうけれど、このお二人は見事に全く違う階層の人たちですね。こちらは富裕層ですが、もう一人、こちらのお友達はかなり貧しい地区に住んでいます」とそれぞれの住所を示しながら説明したので、私は内心『ああ、山賊さんも可哀想だなあ』と嘆息しつつ、もう一度繰り返し説明する友人の指先を良く見たら、「・・・貧しい地区」と言って“王子”の住所を示しているのです。「えっ!?」と驚き、友人に間違いではないのか念を押したものの、「間違いではありません」と確信に満ちた答え。私は「うーん」と“王子と山賊”の顔を思い浮かべながら絶句してしまいました。

しかし、貧しい地区に生まれ、日本へ行っても苦労したのに、気品と微笑みを失わなかった“王子”は、やっぱり本物の王子と言えるかもしれません。今頃、彼は何処で何をしていることでしょう。

それから、やはり当時、あの界隈で知り合ったスイス人の女性、名前を覚えていないけれど、彼女も忘れ難い印象を残してくれました。年の頃は、35〜40ぐらい。4〜5歳の可愛い金髪の息子を連れ歩いていて、彼女自身は美しいと言えば美しいほうだったかもしれないけれど、そんな外見の美醜などは超越している突拍子もない人物でした。

京都に何年か住んでいたそうで、見事な関西弁を話すのですが、他にも色々数多の言語を知っているみたいだったから、語学の天才と言えるような人だったかもしれません。

日本人男性と結婚してこともあると言うけれど、金髪の息子には全くそれらしいところがないので、「この子のお父さんじゃありませんよね?」と訊いたら、「うん、この子のお父さんはまた違う男やねん」なんて笑っていました。

そもそも、なんでイスタンブールにやって来て長期逗留しているのかも良く解らないうえ、とにかくお金に困っていたらしく、ある日、5キロほど先にある日本レストランでウェートレスを募集している話を聞きつけると、バス代がもったいないと言って、レストランまで歩いて面接に出掛け、おまけに断られて、フーフー言いながら歩いて戻って来たこともあります。

しきりに、もう一度京都へ行きたいと話し、「飛行機は高いしな、バスを乗り継いで行けば、なんとか行けるんやないやろか?」と真顔で訊くから、「お一人ならともかく、その子を連れて行くのは無理でしょう」と真面目に応じたところ、「それなら大丈夫や、この子はとってもバスが好きやねん」なんて笑っているのです。何処まで本気なのか解ったものではありません。

いつだったか、夏の暑い日に、彼女と数日前に知り合ったばかりの日本人青年旅行者の3人で、外の通りを見ながらお茶を飲んでいたところ、目の前をモデル風の黒人女性がシャナリシャナリと歩いて行くので、思わず鼻の下を伸ばして視線を送っていたら、青年に「あれ良いですか?」と突っ込まれてしまい、仕方なく「良いじゃないですかあ」と応じると、青年はさも嫌そうに「黒人は臭いでしょう」と言い放ったのです。

「それは経験上の話?」
「そんな経験なんてないけれど、臭いって話ですよ」

これに何と応じて良いものやら当惑したあげく、「そ、そりゃ風呂に入っていなかったら臭いかもしれないけれど」と言ったものの、何だか場が白けてしまったように感じていたら、彼女がおもむろに、「あのな、エスキモーおるやろ。あれはモンゴロイドやけど、風呂に入れんさかい、えらい匂うって話やで」と言って、自分の胸もとをクンクン嗅いで見せたところ、これには青年も笑ってくれたし、私も窮地を救われたような気分で嬉しくなってしまいました。

まあ、凄く変わったところもあったけれど、朗らかで思いやりがあって、ちょっと天才的、そんな女性だったと思います。私より5〜10歳年長だろうから、もう50代後半になるかもしれません。今頃、どうしているんでしょう。またお目にかかって楽しい話が聞きたいです。



9月14日 (日)  イランを旅した友人

9月1日から始まったラマダンも、そろそろ半ばを迎えようとしています。断食を実践している人たちにとっては、やはり厳しい時期であるかもしれません。今日、イスタンブールの日没時間は19時25分。開始以来、少しずつ日照時間が短くなっているのが、せめてもの救いでしょうか。

日没後はイフタルと言われる夕食を家族や友人たちと楽しむことになりますが、断食していない私も、先日は友人のところでこのイフタルの食事を頂いてきました。

友人はディヤルバクル県出身のクルド人で28歳。7歳の時、家族と共にイスタンブールへ移住し、大学を卒業した後、自分で観光客相手の土産物屋を始め、一昨年からは、ツーリスト用安宿の運営にも乗り出しています。

この友人については、以前も“トルコ便り”で話題にしたけれど、小ざっぱりとした身なりで西欧のツーリストらと冗談を言い合っている姿からは想像できないくらい敬虔なムスリムです。

小学校に入るまではクルド語だけを話し、トルコ語は全く解らなかったというくらいで、充分にクルド人としての意識もありますが、これを余り前面に押し出すことはありません。外国人ツーリストらには「アイム・ターキッシュ」で通しています。「クルディッシュと言った場合、それは北イラクのクルド人なんだか、イランのクルド人なんだか解らなくなってしまい、何の意味も成さない」と言うのです。

政治的には、当初、イスラム的な現AKP政権を熱烈に支持していたけれど、一昨年だったか、商品の仕入先とトラブルがあったらしく、「最近は、トルコ人がトルコ人をぼったくるようになってしまった。油断も隙もありゃしない」と憤懣やるかたない調子で話し始めたから、私はまた『人々の信仰心が薄れた為に』なんて言い出すのではないかと思って嫌な顔をしたところ、「心配しなくても良いよ。信仰心が薄れた所為だとは言わないから。これは何か他に原因がある。宗教の問題じゃない」と語り、現政権に諸手を挙げて賛同しているわけではないと明らかにしていました。

イスタンブールには、新市街のイスティックラル通りに“メソポタミヤ文化センター”という左派クルド人の集まる所があって、友人は私をそこへ連れて行ってくれたこともあります。「あそこの連中は忌々しい共産主義者ばかりだけれど、一応は同胞だからな」と話していたものの、以前は彼自身もここへ頻繁に出入りしていたようで、なかなか一筋縄ではいきません。おそらく社会主義に引かれた時期もあったのでしょう。今回、イフタルに訪れた時も、トルコの現状を評して「この過剰消費傾向は絶対におかしい」と力説していました。

彼のところは、男4人女3人の7人兄弟で、大学まで進学したのは他にいないようです。御両親や歳の離れた長兄にも一度お目にかかったけれど、お兄さんはアルコールも嗜むほどであるし、お父さんからもそれほど宗教的な傾向は感じられませんでした。トルコ語がかなり訛っているお母さんは、一応田舎風にスカーフを被っていたものの、それは伝統的で素朴な信仰によるものだと思います。

ところが、先日のイフタルにも同席していた20歳ぐらいの末弟は、イスタンブールで生まれ育った為、クルド人意識が殆ど見られない代わりに、イスラム導師養成高校を卒業してそこでかぶれてしまったのか、ラディカルな宗教傾向は兄の友人以上であり、現政権について批判しようものなら、まるでこの政権のスポークスマンであるかのような口ぶりで反論します。イスラム導師養成高校の教育レベルについては色々言われているけれど、この弟も「世界の半分を支配した栄光のオスマン帝国は・・・」などと歴史的な事実を全く無視して得々と語るものだから、10分も話していたら頭が痛くなってしまいました。

まあ、友人は大学のキャンパスで様々な学生と知り合っているだろうし、英語がそこそこに話せて、外国人ツーリストとも親しくしているから、弟とは世間の広さが違っているかもしれません。イラクの問題に関しては、顔を真っ赤にして英米を非難するものの、西欧文明の価値は一応認めています。食事の後、弟と私が話しているのを横でちょっと聞いていたようだけれど、途中で「土産物店の方に行ってるから」と言い残して席を立ってしまいました。

今回は、友人から是非聞いてみたい話があったので、私も直ぐに後を追い、土産物店の軒先に座って暫く彼の話を聞いて来たのですが、それはイラン旅行の思い出話でした。彼は5月から6月にかけて1ヵ月ほどイランの隅々を旅してきたのです。イランに出掛けたのは、トルコ人が安く簡単に行ける外国はイランやシリアに限られているからで、可能ならばヨーロッパの方へ行って見たかったのではないかと思います。

残念ながら、イランの印象はそれほど良くなかったらしく、「日本人や西欧の人が行けば違うかもしれない。イランの人たちは何だかトルコを見下しているようで、特に無教養な連中は態度が悪かった」と話を切り出しました。

「トルコだったら、無教養な連中のほうが親切だろうに、そういったところがない。教養のある人たちは普通に接してくれたけれど、都市部の人たちは贅沢が過ぎるように思えた。地方へ行くと英語は思ったより通じない。でも、クルド語とペルシャ語はかなり近いから、僕はペルシャ語も少し解るし、トルコ語を話すアゼリー人は、タブリーズの周辺に限らず何処にでもいた。それから、西南部のクルド人地域へ行こうとして、遠回しに訊いたら、“ああクルディスタンに行きたいんですね”と言われて驚いたよ。イランじゃ普通にクルディスタンと言ってるようだ。しかし、そのクルディスタンは、石油で潤っているのか、結構豊かだったものの、人情は全く感じられない。クルド語でも話してみたけれど、とても同胞とは思えない態度だった。タブリーズで“トルコから来た”というと、アゼリー人たちはとても喜んで歓待してくれたのにね。一番楽しい思い出があるのは何と言ってもタブリーズだよ」。

イランにはアフガン難民が流れ込んでいて、“一般市民はこういった難民たちを冷ややかな目で見ている”という話は、日本人の旅行者からも聞いたことがあります。友人は肌の色も少し浅黒く、最初から西欧の人とは思われなかっただろうけれど、その影響があったのでしょうか。日本でもありそうな話ですが、世界中何処へ行っても似たような話はあるのかもしれません。



9月18日 (木)  イズミルの韓国人教会

現在、日本人がイスタンブールで一年間の居住許可を申請した場合、3000円ぐらいで済むようになりましたが、韓国の人たちは未だにその何倍も取られるそうで、先日会った韓国人の友人はぼやくこと頻りでした。「何故、差をつけるのか?」と。それで私も「韓国の人たちには宣教師とか問題のある活動を行なっている例もあるでしょう。それだからじゃないですか?」と言ってやったら、「あれは確かに問題ですね。今、イスタンブールに滞留している韓国人は約2000人で、その内の300人が宣教師や牧師というから呆れてしまいます」と苦笑いしているのです。

この数字をどうやって割り出したのか解りませんが、中には他の名目で滞留しながら宣教活動を行なっている人もいるだろうから、実際はもっと多い可能性もあります。しかし、300人でも凄い数字でしょう。これには私も驚かされました。

一昨年の暮れ、イズミル在住の韓国人チェさんの御宅を訪ねた時は、熱心なクリスチャンである奥さんの要請に従って、市内のハタイ地区にある韓国人教会へクリスマスの飾りつけに借り出されたこともあります。

ところが、無神論者と言って憚らないチェさん自身は、教会で飾りつけを手伝っている時も、二人きりになると、「こいつらは皆狂っているぞ。牧師とか宣教師なんて連中はまとめて本国に送還しなきゃダメだな」などと悪態をつきまくっていたばかりでなく、当の牧師さんを前にしても、「あなたは、“神様に祈って下さい”とか色んなことを言うけれど、もっと正直に“とにかく献金してください”と言った方が良いんじゃないのか?」と言いたい放題。

私が「何もそこまで言わなくても・・」と言ったら、「礼拝の時になったら解るけれど、この教会へ来る連中は、皆、牧師か宣教師なんだ。そもそも、もう商売の為にイズミルへ来ているのは、俺とあと二人ぐらいになってしまっている。この牧師連中は、外貨を稼ぐどころか、韓国から金を持ち出して、世界中にばら撒いていやがるんだ。これは本当に大きな問題だろ? だから、送還しなきゃならんのさ」と力説していましたが、実際、礼拝の時になったら、チェさんの言うとおり、会衆より牧師さんと宣教師の方が多い状態で、これでは確かに困るかもしれません。

こういった宣教師に対するトルコの人たちの反応は様々で、「別に構わない」という敬虔なムスリムもいれば、本人は殆ど信仰がなくても、「社会不安をもたらす」と嫌な顔をする人もいます。イスタンブールやイズミルの様子を見る限り、市民の反発はそれほどでもないように思えるけれど、地方では狂信者が宣教師を襲撃するような事件を起きていて、民族主義を煽ったりするトルコの国内政治に利用されている可能性が無きにしも非ずです。やはり、トルコで彼らが“招かれざる客”であることは確かじゃないでしょうか。

日本にはミッション系の学校が沢山あって、クリスチャンによる慈善活動が如何に広く市民から歓迎されているのかトルコの人たちに説明したところで、余り良く解ってもらえないかもしれません。


写真は、一昨年のクリスマスを前にしたイズミルの韓国人教会の様子です。

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9月20日 (土)  右の頬を打たれたら左の頬も向けよ

いつだったか、イスタンブール大学の学生と話していて、その学生が「右の頬を打たれたら左の頬も向けよ」という聖書の言葉を知らなかったので驚かされたことがあります。新聞のコラムなどには、よく聖書の句が引用されたりしているけれど、一般のトルコの人々は聖書の内容について殆ど何も知らないのではないでしょうか。

信心深い人たちからは、聖書について次のような話を何度か聞かされました。「聖書は4通りもあって、どれが本物なのか解らない。途中で改竄され、神の言葉が正しく伝わっていない」。だから、神が最後の預言者であるムハンマドに託した“神の言葉”であるコーランを信じるというのです。その為、“偽物”である聖書の内容については余り興味がないのかもしれません。

キリスト教の人たちはイスラムに対して、4人妻などの例をあげながら、コーランの内容に好ましくないものがあると言って批判を試みたりしていますが、イスラムの側からキリスト教を批判する場合は、内容が良いとか悪いとかではなく、上記のように“神の言葉”であるかどうかに焦点を定めることが多いようです。

宗教が苦手な私は、未だに聖書を通読していないものの、聖書に出て来る有名な話はいくつか読んだことがあり、前述の「右の頬を打たれたら左の頬も向けよ」は今一としても、“放蕩息子の譬え”などは、なかなか良い話じゃないかと感動しています。このように、日本では宗教的な対立など気にせず、単なる読み物として聖書を読み、全く信仰がなくてもその内容に感動できるけれど、イスラムの国ではそういうわけにも行かないのでしょう。

トルコに来てから、何度か「イスラムは良い宗教ですよね?」とムスリムのトルコ人に尋ねられ、面くらいながらも、その時は『控え目な人たちだなあ』と嬉しくなりました。自信満々な欧米のクリスチャンたちが同様の問いを発するとは思えなかったからです。

クズルック村にいた頃、街の茶店で知り合った男が、「イスラムは良い宗教です。インドとパキスタンを見て下さい。パキスタンのほうが発展していますが、それはパキスタンがイスラムの国だからです」と力説するので、「貴方の信仰を守る為にも、そういう見方は止めたほうが良いなあ。世界規模に拡大して見たらどうなります? 発展しているのはキリスト教の国ばかりですよ」と言ってやったら、驚いたような顔して少し考え、「確かに貴方の言うとおりです」としょげ返ってしまい、可哀想なくらいでした。

当時は未だ、社会のエリート層が世俗的な人たちに占められていて、なんとなく『あまり熱心にイスラムを信仰しているのは後れた人間』という雰囲気もあり、それで控え目な態度になってしまったのかもしれません。でも、彼らは、私たちと違って“控え目”に安逸を見出せなかったようです

最近は、大統領や首相も敬虔なムスリムが務めるようになったから、それほど控え目になる必要もなくなりました。「コーランは“神の言葉”だから絶対に正しい」と敬虔な庶民も自信に満ち溢れて来たような気がします。しかし、これは欧米の人たちが営々として築き上げて来た“自信”と果たして同質のものでしょうか?




9月24日 (水)  鯖サンド船

一時期、姿を消していたイスタンブールの鯖サンド船、昨年の7月から装いを新たに復活しています。昔から、金角湾のガラタ橋付近に係留した小船の上で鯖を焼き、パンに挟んで岸辺で寛ぐ人たちに売っていたそうですが、景観を乱すとの理由で、2004年の秋より一旦撤去されていました。

先日の昼、この鯖サンド船の前を通り掛ったら、ラマダンの断食時間中にも拘わらず沢山の人たちが美味しそうに鯖サンドを頬張り、なかなか盛況の様子でした。観光名所にもなっているから、中には外国人のツーリストもいただろうけれど、その多くは普通のトルコ人だったのではないかと思います。

近くのガラタ橋下にあるレストランでは、真昼間に外の席でこれ見よがしにビールを飲むトルコ人もいるくらいで、断食時間中の飲食など驚くに当たりませんが、他のイスラム圏の国々ではまず見られない光景だそうです。

私たちが暮らしているエサット・パシャは、イスタンブールの中で比較的宗教色が強い地域とされているものの、家の向かいにあるカフェテリアでは昼から外の席に腰掛けてお茶を飲んでいる人がいます。酒類の販売店も通常通り営業しているし、例のおじさんは、夜11時過ぎにやはり出来上がっていました。

エサット・パシャの辺は住宅街で酒場のような店はもともとない為、この前の昼、ビアホールがあるウムラニエの繁華街まで歩いて様子を見に行ったところ、残念ながらビアホールはラマダン期間中休業となっていたけれど、さらに宗教色が強いと思われているこの街でも、道端で飲食したり煙草を吹かしている人たちは結構いました。

もっとも、こういった光景が見られるのは、イスタンブールやイズミル、アンカラのような大都市と一部の地域に限られているようで、例えば、クズルック村やその近くのアクヤズの街では、ラマダンともなれば、日中、営業しているレストランなどまず見当たらなかったし、街中で大っぴらに飲食するなんて全く考えられないことでした。あれでは、個人的な信仰心云々というより、周囲の状況から少なくとも断食しているように見せなければならない場合もあったのではないかと思います。

最近は、この状況がイスタンブールにも波及し始め、断食の実践者が増えているという声も聞かれるけれど、一方でその逆を主張する人もいて、本当のところは良く解りません。

9月15日付けのタラフ紙には、以前、ラディカル紙で活躍していたネシェ・デュゼル氏が、アディル・ギュル氏という世論調査会社の代表にインタビューした記事が掲載されていました。アディル・ギュル氏によれば、断食実践者やスカーフを被っている女性は年々減る傾向が見られ、1999年の調査では、整然と断食を実践していた人が全体の60%に及んでいたものの、現在、これは50%を割っており、スカーフ着用女性も、2003年の64%から60%に減少したそうです。

しかし、トルコのこういった統計は、調査機関によって、数字が大きく違っていたりして、どれを参考にして良いものやら、さっぱり解りません。スカーフ着用に関して言えば、この10年で60%から70%近くに跳ね上がったという説もあります。私たちがイスタンブールの街々を出歩いて得られる印象では、スカーフの着用者はここ数年の間に著しく増えたのではないかと思えるけれど、減少説によれば、これはスカーフを被った女性たちが社会進出を果たした為、その姿が目立つようになっただけであると言います。

まあ、イスタンブールに農村から流入する人口は留まる所を知らずに増えているから、イスタンブールにおけるスカーフ着用率は当然増えるとしても、イスタンブールに出て来てからスカーフを外す農村の女性が少しでもいれば、全体の着用率はその分減少するかもしれません。

いずれにせよ、世俗主義の人たちは、「現政権になって以来、イスラム化が進んだ」と主張する為に増加が見られる資料を使い、現政権を支持する人たちは「いや、そんなことはない」と言って、減少の見られる資料を提示しているようです。上記のタラフ紙も、若干、現政権よりの傾向が見られます。また、断食の実践者が1999年に比べて減少したというけれど、1999年のラマダンは冬場の出来事であり、実践するのは、日照時間も長くなった今期のラマダンより遥かに楽だったはずです。その辺の影響は考慮しなくても良いのでしょうか?


写真は、盛況の鯖サンド船で3艘出ていました。なかなか立派に飾り付けています。

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9月27日 (土)  吉田茂とアタテュルク?

日本へ里帰りしていた友人が買って来てくれた以下の本を読みました。

広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4121019512.html

日本の歴史の中でも、とりわけこの辺りの事情は殆ど解っていなかったので非常に新鮮でした。

20年前、韓国へ行った頃は、日本の歴史について問われたり、議論を吹っかけられたりしたものだから、必要に迫られて少しは歴史関連の新書なども読んでみたけれど、こちらへ来てからはそういった刺激を余り受けないこともあって、この手の本は全く読んでいなかったように思います。なんにしても勉強不足でいけません。

というわけで、これ一冊読んだからと言って特に何か申し上げる気にもなれませんが、トルコに結びつけてかなり意外に感じたことがあったので記してみます。

まず、広田弘毅が外務省で吉田茂と同期であり、生年も同じだったという事実を始めて知り、これさえ何だか意外な気がしました。吉田茂が亡くなったのは、私が小学校へ上がった後のことであり、その国葬の様子を微かに覚えているくらいなのに、一方の広田弘毅はあくまでも“戦前の人”だったからです。共に明治11年(1878年)の生まれで、39年に入省しています。

ここで、ふとアタテュルクの生年が気になって調べてみたら、これが1881年。「えっ!?」と思ってしまいました。アタテュルクは吉田茂より三つも若かったのです。まあ、アタテュルクがトルコ共和国の初代大統領となったのは42歳の時であり、68歳で首相の座に就いた吉田茂とは、活躍期の年齢に相当な隔たりがあるものの、それにしても意外でした。

アタテュルクが祀られているアンカラのアタテュルク廟に詣でると、その荘厳な建造物に思わず遠い歴史を感じてしまうけれど、この廟が完成されたのは、1953年というから、それほど古いものではありません。トルコ共和国の成立は1923年、元号年にすれば大正12年で、これまたそんなに遠い昔の話とは言えないでしょう。

今更ながら、トルコという国の若さに驚かされました。まだまだこれからの国だと思います。


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