Diary 2008. 7
メニューに戻る
7月2日 (水)  モンスター・ペアレント

時々、『一神教を信じる為には、かなり強い自我が必要なんじゃないか?』などと考えたりします。例えば、私のような自我の弱いフラフラした人間が、ある日ムスリムになったとしても、翌日、キリスト教の牧師さんから説教されれば、『まてよ? やっぱりこちらが正しかったかな?』と心が揺らいでしまうように思えるからです。信じる為には、『自分が信じているものは絶対に正しい』と言い切れる強い自我が必要なのかもしれません。

日本では、子供の頃から「お前なんかろくなもんじゃないからね。とにかく世間様に迷惑をかけちゃいけないよ」と育てられ、その過程で少し自我が挫かれてしまう例も多いのではないかと思います。

私などは、女性に言い寄っても、『こんな男で申しわけないけれど、お付き合い頂けたら嬉しいです』といった感じになってしまうから、なかなか巧く行くわけがありません。でも、こちらの自我が強い男たちは、“この世の女は皆俺に惚れる”ぐらいの感覚でいる為、積極的に言い寄り、口説くことにも長けているようです。

韓国のソウルで下宿していた頃、そこの嫁さんが子供をあやす時に、「お前が最高だ、お前が最高だ」と話しかけているのを見て、日本とは大分違うものだと感じました。 トルコでも同様に子供の自我を思い切り伸ばして育てる親が多いのではないでしょうか?

最近、日本では“モンスター・ペアレント”というのが出現したそうで、先日、日本人の友人とこれを話題にしたら、彼は「トルコの場合、殆どがモンスター・ペアレントじゃないのか?」と揶揄していました。

そういえば、クズルック村の工場でも、娘の配置換えを要求して工場まで押し掛けてきた親御さんがいたそうです。しかし、こういった親御さんも宗教的な規範に対しては、四の五の言わずに従っているだろうから、日本のモンスター・ペアレントとは少し違うような気もします。

日本の社会は、個々が自分を抑えて世間に合わせることで巧く成り立って来たように言われているけれど、最近は、これにほつれが見えてきたかもしれません。この為、一神教の必要性を説く人もいるようですが、『日本には日本のやり方があるだろうに』と私は少なからず抵抗を感じてしまいます。同様に、トルコにはトルコのやり方があるのでしょう。



7月3日 (木)  霧の中

昨日の夕方近く、ヨーロッパ側のエミノニュへ渡る為、乗り合いミニバスでカドゥキョイの船着場へ出ようとしたところ、船着場周辺の道路は通行止めになっていて、大分手前からミニバスを降りて歩く羽目に陥りました。

デモをやっていると聞いて野次馬根性が騒いだのに、船着場前の広場へ着いたらもう解散した後で、いったい何のデモだったのか解りません。船の中で新聞を読み返しながら、『エルゲネコン事件に関わるものだろうか?』とぼんやり考えたけれど、実際は、15年前のこの日にシヴァス県でアレヴィー派の人々が襲撃された事件を追想する集会だったようです。

エルゲネコン事件というのは、退役軍人らによって創られたエルゲネコンという秘密組織が現政権に対してクーデターを企てようとした疑いが持たれているもので、一昨日には2名の退役将軍が新たに逮捕され、これが新聞の一面トップを飾っていました。同時に、政教分離体制の守護者である軍にまで及んだ捜査を“政教分離体制への挑戦”と看做す人々の反発も予想されていたのです。

今日の新聞を見ると、イスタンブールのシシリー地区では、この“政教分離体制への挑戦”に抗議する人々の集会も開かれていたと記されています。しかし、これが本当に彼らの主張している“政教分離体制の危機”であるのか、“成熟した民主主義への過程”であるのか、今の段階では未だ何も申し上げられません。

私は昨日、日本でトルコ語を学び始めた頃に観た「霧」というトルコ映画の最後の場面を思い出していました。70年代後半の激動期、主人公の弁護士は、政治抗争に巻き込まれた大学生の長男を殺害され、次男に“兄弟殺し”の容疑が掛けられると、この次男を疑いながらも国外へ逃そうと企てて失敗します。そして、途方に暮れた父親は息子に向かってこう言うのです。「許せ、今は全てが霧の中なんだ」。

映画−霧(1989)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD15735/

現在の状況も全く霧の中、何が真実で何が虚構なのかさっぱり解りません。しかし、左派と右派の抗争により多数の死傷者が出たという70年代後半の状況と異なり、現在は至って平穏です。昨日も、ヨーロッパ側で友人たちと待ち合わせた後、タクシムの繁華街へ繰り出したところ、路上に並べられたテーブルは何処もかしこも満席状態で、人々が楽しそうに酒宴を開いていました。

70年代後半の左派と右派の対立、これも極限られた人々の政治的な争いに過ぎなかったのだろうけれど、現在の“政教分離”と“イスラム”の対立も、実際に敵対し合っている人たちは総人口の二割ぐらいじゃないかと思います。残りの八割を占める人々の日常生活に、そんな争いは見られません。でも、残念なことに、トルコの行く末を握っているのは、その二割の人たちなのでしょう。


7月4日 (金)  天国とはどういう所ですか?

トルコで、教養のある敬虔なムスリムの方に「天国とはどういう所ですか?」と尋ねると、皆一様に口篭ってはっきり答えてくれません。「どういう所なのか良く解りませんが、とにかく良い所なので、私たちはそこへ行けるように善行を積まなければなりません」と説明した人もいました。おそらく彼らも、コーランに出て来る天国の描写を適当なものであるとは思っていないのでしょう。

それは、コーランの56章に出て来る以下の部分です。「大きい輝くまなざしの、美しい乙女は、丁度秘蔵の真珠のよう。(これらは)かれらの行いに対する報奨である」「本当にわれは、かれら(の配偶として乙女)を特別に創り、かの女らを(永遠に汚れない)処女にした。愛しい、同じ年配の者」。

しかし、アラブ圏の敬虔なムスリムの知識人に同様の質問をしたところ、意味深な笑いを浮かべながら「君も行けると良いね」みたいなことを言ったという話もあります。同じムスリムであっても、文化的な背景によって、聖典の読み方はそれぞれ異なっているのかもしれません。

あるトルコの宗教的なサイトでは、「・・・既婚者として亡くなった人たちにも天女が与えられるのですか? すると愛なんて無意味なものになってしまうのはありませんか? 人は、あの世でも一緒になりたいと思い、あの世でも一緒になる為に愛するのではないでしょうか?」という読者の問いに、宗教学の先生が答えているけれど、それを要約すると次のようになります。

「人間は天国へ入った段階で新しく生まれ変わるから、その趣向や願望も地上にいた時とは異なってしまう。コーランに示されている天国の恩恵は、地上の人間にも解るように地上の概念で明らかにされているが、実際はそういうものではない。地上の人間を善へ導く為に、地上の人間が知っている好ましい恩恵を示したまでのことである。天国では、天国の願望により全ての恩恵が与えられる。天国の美を知った後に、誰が女とか男を望むだろうか?」。

でも、これでは質問に対する答えになっていないような・・・。愛は何処へ行ってしまったのでしょう? それに“人間が知っている好ましい恩恵”ってことは、先生も天女を好ましい恩恵だと思っているんでしょうか? この読者は、そんなものを欲しくないからわざわざ質問したはずです。おそらく、先生も天女を恩恵とは思っていないだろうけれど、“愛のあるセックス”も恩恵であるとは考えていないでしょう。天女どころかセックスそのものを汚らわしいと感じていて、愛欲などというものは認めていないような気もします。

最近は、イスラム原理主義テロの実行犯がこういった“天女の恩恵”を信じて自爆するのではないかと非難されていますが、そもそもそんな男たちを善へ導く為には、あのぐらいの夢を見せなければならなかったかもしれません。

日本では、浄土真宗の「悪人こそ往生できる」という教えに疑念を懐いた弟子が親鸞に問うたところ、「千人殺せば必ず往生できる」と親鸞に言われて、「千人どころか一人も殺せそうにありません」と答えた話が伝わっているものの、テロを実行するような男たちにそんな教え方をしたのでは、「えっ、千人でいいんですか? なんなら一万人ぐらいにしますか?」というようなことに成ってしまいそうです。天はそれぞれの地域に相応しい教えを下されたということでしょうか?


*「千人殺せば云々」というのは歎異抄にある以下の話です。
 
またあるとき、聖人は「唯円房、私の言うことが信じられますか?」と仰せられたので、「はい、信じます。」と申し上げたところ、「それでは、私の言うことに決して背かないか?」と重ねて仰せられたので、謹んでお受け申しましたところ、「それでは人を千人殺してみなさい、そうすれば必ず浄土に往生することは間違いがありません。」と仰せになりましたが、その時私は、「お言葉ではございますが、この私の器量では千人はおろか、一人も殺せそうにはありません。」と申したところ、「それではどうして、親鸞の言うことに背かないと言ったのですか?このことによって思い知らねばなりません。どんなことでも心に思うままになるのであるならば、浄土往生のために千人を殺せと言われたら殺すことができるはずです。しかし、殺さなければならない業縁がない以上一人も殺せないのです。自分の心が良くて殺さないのではありません。またその反対に、殺さないつもりであっても、百人・千人の人を殺してしまうこともあるのです。」と仰せられました。これは自分の心が良ければ往生ができて、自分の心が悪ければ往生ができないと勝手に思い、不思議なご本願により往生させていただくということを知らないためにおこる誤りへのおさとしのお言葉であります。

歎異抄を読もう
http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/



7月5日 (土)  葡萄酒の村

去る5月、エーゲ海地方の葡萄酒造りで有名な村を訪れる機会がありました。その村へ行くのは初めてで、車が寂しい山道をウネウネと登って行く間、『山深い素朴な農村じゃないだろうか』と期待を高めていたところ、これが着いてびっくり、村の大きな駐車場には観光バスが何台も停まっていて、狭い村の中の道は、週末を利用したトルコ人の観光客でごった返していたのです。

山の斜面に小さな白い家が立ち並ぶ村の様子は、遠くから眺める限り、なかなか情緒に溢れています。しかし、村の中に立ち入ると、そこには、情緒もへったくれもない何処にでもあるような土産物店が軒を並べ、地元の名産とされるワインが売られているけれど、いろいろな果実を使った如何わしいリキュールのような酒も沢山あって、その量からして全てがこの村で醸造されているとはとても考えられません。

「醸造所は無いんですか?」と尋ねたら、「家で作っているんですよ」とか「その山を越えた向こうにあって、今はちょっと御案内できません。8月の仕込みの時期にまた来て下さい」という話でした。

外国人観光客の姿も見られ、特に韓国人の観光客が多いのか、ハングルの案内板を掲げている店が何軒もあり、その旺盛な商売っ気にはいささかうんざりしました。観光で“村おこし”する前は、素朴な村だったろうに、今や60歳を過ぎたようなお婆さんまで、自家製の花飾りなどを道行く人たちに売り込んでいます。家族総出で商売に励んでいるのでしょうか。

ただ、村の老人から聞いたこの村の歴史はなかなか興味深いものでした。ここには200年ほど前から正教徒のギリシャ人が暮らしていたものの、85年前に共和国が成立すると、ローザンヌ条約に基づいて大規模な住民交換が行なわれ、以前の村人はそっくりギリシャへ移住し、代わりに現在のギリシャのテッサロニキ辺りに暮らしていたイスラム教徒がこの村へ移住して来たそうです。

老人に「貴方たちの父祖はテッサロニキ辺りにいた頃からワインを作っていたの?」と訊いたら、「いや、この村に来てから、前の住民が残していったものを使ってワインを作るようになったんですよ」と話していました。


7月6日 (日)  ブルガリア正教会のミサ

4月8日の“便り”で、アヤ・ステファンというブルガリア正教会の教会を御紹介しましたが、今朝はシシリーにあるブルガリア正教会の“エクサルフハーネ(Eksarhhane−Bulgarian Exarchate)”で営まれたブルガリア語による日曜ミサを見て来ました。

2008年4月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=4

“エクサルフハーネ(Eksarhhane−Bulgarian Exarchate)”、日本語には“ブルガリア総主教代理教区”と訳されたりしています。

1870年にオスマン帝国は、領内のブルガリア人正教徒がコンスタンティノポリ総主教庁から独立することを認め、この“エクサルフハーネ”が創られたそうです。

現在は、ブルガリアのソフィアにあるブルガリア総主教庁の管轄下にあるようで、ブルガリアから派遣されて来た司祭さんがミサを執り行なっています。

10時半ぐらいに礼拝堂へ入り、既に始まっていたミサが終了するまで1時間ほど静かに見学しました。参列者は、初めに10人ぐらい、後から少しずつ増えて、終る頃は15人ほどになっていたでしょうか。年配の女性が多く、途中から入って来て10分ぐらいで出て行ってしまう人もいました。

ミサが終了してから、許可を得て礼拝堂の中をデジカメで撮影していたところ、愛想の良いおばさんがトルコ語で話しかけて来て「司祭さんと一緒に私を写してくれ」と言います。私が快く引き受けると、おばさん今度は司祭さんに頼んでいたけれど、司祭さんはトルコ語が解らずに首を捻るばかり、隣にいた老婦人がブルガリア語に通訳していました。しかし、このおばさんは、写真を撮った後、司祭さんと何かスラブ語系統の言葉で話し込んでいたのです。

「写真を現像して、ここの係の人に預けておきますよ」とおばさんに伝えながら、興味津々に何処の人であるのか尋ねたら、なんとモルドバ出身のガガウズトルコ人でした。司祭さんとはロシア語で話していたのでしょう。トルコにやって来たのは3年前のことだそうです。

メルハバ通信−ロシア教会(1)「雑居ビルの屋上にある教会」/ガガウズトルコ人について
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#140

それから、中庭でお茶を御馳走になりながら、参列者たちの会話に耳を傾けると、その多くがトルコ語でした。会長と呼ばれている初老の男性は、隣の老人とブルガリア語らしい言葉で話していたものの、向かい側にいる40歳ぐらいの男性と話す時はトルコ語になります。その男性はイスタンブール生まれのブルガリア人と自己紹介していたけれど、ブルガリア正教徒の場合、ルーム(トルコのギリシャ人)やアルメニア人と異なり、民族学校があるわけでもないから、母語を維持して行くのは容易なことじゃないかもしれません。

ちょっと驚かされたのは、携帯電話に出た会長が、「カリメラ・・・」とギリシャ語で話し始めた時です。同じ正教徒として、やはりルームの人たちとは近しい関係にあるのでしょう。

ブルガリア正教徒は、共和国の初期にイスタンブールで6万人ほど暮らしていたのが、現在は既に500人を割っているそうです。ルームに至っては、約25万人から2千人足らずになってしまったと言われています。

オスマン帝国の時代に栄華を極めた正教徒たちは、共和国革命によって舞台を降りる運命だったのかもしれませんが・・・。


写真、エクサルフハーネの外観と礼拝堂の内部です。

20080706-1.jpg 20080706-2.jpg



7月9日 (水)  宗教は誰のもの?

88年、ソウルの語学堂で韓国語を学んでいた頃、自由会話の授業で私たち日本から来ていた受講生が「結婚と内縁には形式的な違いがあるだけだ」というような話をしたら、アメリカ人の青年が「内縁は神の祝福を受けていない!」と気色ばんだので驚きました。その時、アメリカの宗教的なところに改めて気づかされたように思います。後日、その青年に「アメリカの大統領は聖書に手を置いて宣誓するけれど、イスラム教徒やユダヤ教徒が大統領になったらどうするの?」と尋ねたら、「イスラム教徒やユダヤ教徒がアメリカ合衆国の大統領になることは絶対にないから、そんなことは心配しなくても良い」と断言したものです。

実際は、アメリカの大統領が聖書に手を置いて宣誓するのは単なる慣例に過ぎないそうで、2000年の選挙ではユダヤ教徒が副大統領になる可能性もありました。

政教分離を国是とするトルコでは、大統領の就任式といった公的な行事に、宗教的な装飾が施されることはありません。しかし、非イスラム教徒が大統領になる可能性も今のところはないでしょう。それどころか、現在、トルコのイスラム色は急速に強まっているのではないかとさえ言われています。

私が91年に初めてトルコへやって来た時の大統領はトゥルグト・オザル氏であり、世俗派のインテリはオザル氏のイスラム的な傾向を厳しく非難していたけれど、それが非難されるほどの傾向であるのか、私には良く理解できませんでした。確かに、オザル氏は自分が敬虔なムスリムであることを認め、死後、保守派の人々から“敬虔な大統領”として追慕されているものの、セムラ夫人や娘さんはスカーフを被っていなかったし、夫人はアルコールも嗜んでいたと言われています。

また、2007年5月11日付けヒュリエト紙のコラムで、エルトゥール・オズキョク氏が伝えたところによれば、オザル氏自身も夫人から強く勧められた場合にはコニャックを少し口にしたらしく、ウイスキーを飲むセムラ夫人に干渉することは一切なかったそうです。

しかし、現大統領ギュル氏の夫人はスカーフを被っているし、御夫婦ともにアルコールは全く嗜まないでしょう。ギュル氏を擁立したAKP政権の周囲が、この政権を“敬虔なオザル大統領の後継者”と喧伝している為、世俗派のインテリから「オザル氏はそれほどイスラム的ではなかった」とする上記のような話が出てきているのかもしれません。「イスラム化の先鞭をつけた」と言って未だにオザル氏を非難する人もいるけれど、中には『あのぐらいなら良かったのに、あれを叩いたらもっと凄いのが現れてしまった』なんて考えている人がいるんじゃないでしょうか。

クズルック村のモスクは、オザル氏の経済改革が始まる前、礼拝の時間にはいつも満杯だったのが、経済改革により民放の放送等が開始されると、金曜礼拝や宗教的な祝祭日でもないかぎり、なかなか一杯にならなくなったそうです。クズルック村で、私の家の前は茶店になっていたけれど、サッカーの中継があれば多くの村人が集まって声援を送り、礼拝の時間になっても、彼らが観戦を止めてモスクへ行くようなことはありませんでした。

話変って昨年の5月、買い物に行った食料品店のテレビに、ギュル氏の大統領選出に反対する世俗派の人々が開いた決起集会の模様が映し出されていたのですが、その店の親爺さんは、「どんどんやれー。この連中が騒げば騒ぐほど、次の選挙でAKPの票は雪崩のように増えるのだ、ワッハハハ」と嬉しそうに吼えていました。あの集会に対しては、「集まった人たちは、よっぽど暇なのね。私たち庶民には考えられないわ」という声も聞かれたものです。

世俗派のインテリたちは、オザル氏程度のイスラム傾向さえ認めようとしなかったし、長い間、宗教を蔑ろにするような発言を繰り返して来たから、普通の庶民は自分たちの素朴な信仰すら見下されているように感じていたでしょう。言葉は悪いけれど、「クソ小生意気なインテリどもめ、今に見ておれ」と密かに闘志を燃やしていたかもしれません。AKPは、まさにこの庶民の心を掴んで政権についたのではないかと思います。

近年、急速に教育水準が上昇し、経済的にも力をつけてきたトルコの庶民は、もちろん感情的な側面ばかりでなく、経済政策などについてもAKPを支持して、昨年7月の総選挙でAKPに信任票を投じたのでしょう。あの総選挙では、それまで世俗派のCHPを支持してきたギリシャ正教徒の人々もその多くがAKPに投票したそうです。彼らがAKPのイスラム的な傾向を支持したわけはありません。

しかし、昨年の総選挙でAKPが広範な支持を得たことにより、宗教に関わる論争は却って減るのではないかと私は楽観的に期待していたけれど、これは実に甘い考えでした。あれから一年、スカーフ論争に始まり、宗教が政治の焦点から外れることはなかったのです。

スカーフについて、先日、私はちょっと妙なことを考えました。例えば、あるアメリカ人女性の外観から彼女の信仰心がどのくらいであるのか判断できるでしょうか。心の中を外から見通すのは難しいようにも思えます。ところが、これが現在のトルコ人女性であれば、スカーフを被っているか否かで、ある程度判断できてしまうかもしれません。

もちろん、トルコには、スカーフを被っていなくても信仰心に篤い女性はいるのです。でも、今のようにスカーフが話題になり続け、スカーフを被った女性が増えてしまえば、果たしてどうなるでしょう。トルコのイスラムは、社会の制度ではなく、個人の心に関わるものだと思っていたのに、これが少し心配になりました。


【61】トルコにおけるムスリムによる政教分離の可能性
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00061.html

【27】フランスにおけるムスリム女性のスカーフ着用問題とトルコ
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00027.html

2007年7月の“トルコ便り”−総選挙の話など・・・
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=7



7月10日 (木)  非常事態宣言下の旅

クズルック村にいた頃、近所に高圧電線敷設の技術を持った男がいて、時々、長期間泊り込みで地方へ出かけては、敷設作業に携わっているようでした。

2001年のことじゃなかったかと思いますが、その男が南東部はディヤルバクル周辺の山間部で作業してきたと言うので、「あの辺の山間部は、反政府クルド人テロリストが出没して危険だろう。作業中は憲兵隊などが警護してくれるのか?」と訊いたら、「何を言うんだ。憲兵隊なんて連れて行ったら、それこそ標的にされてしまう。普通に作業していれば、奴らは俺たちに手を出したりしないよ」と話していました。

94年の夏、未だ非常事態宣言下に置かれていた南東部を旅行した際、半日、軍関係者と名乗る男に後をつけられたことがあり、その時は『只でボディガードを雇ったようなものだ』と思っていたけれど、実際は却って危険だったのかもしれません。

それは、南東部を旅行中にヌサイピンまで足を延ばした時のことでした。前日、歴史を感じさせる美しい石造りの街並みで名高いミディヤットを訪れ、宿の2階の部屋で休んでいたところ、部屋に上がってきた宿の主人が困ったような顔して、「下にコルジュが来ていて貴方に会いたいそうだ」と言います。

コルジュというのは、反政府クルド人テロリストに対し、政府側に立って戦っていたクルド人民兵のことです。『厄介がなければ良いが』と思いながら降りていくと、宿の入口の前に並べられた椅子の一つに、髭を蓄えて威厳がある迷彩服姿の中年男が腰を下ろしていて、その周りを、やはり迷彩服を着て、機関銃などの物々しい兵器を手にした5〜6人の男たちが取り囲んでいました。

椅子に座っている男は隊長のようであり、穏やかな口調で普通に挨拶してから私にも椅子を勧め、まずは氏名や国籍といった身分に関わる事柄を確認したうえ、旅行の目的などを問い質してきたのですが、それはどれも極く当たり前な質問だったし、態度も非常に紳士的で全く不愉快には感じませんでした。

翌日はヌサイピンに行く予定であると告げたら、「良い旅を」と言って引き上げて行ったけれど、その間、ものの5分ぐらいだったでしょうか。

ミディヤットからヌサイピンへ行くバスは、午前と午後の二便しかなかったので、翌日、午前の便に乗ったところ、バスが町外れまで来た時に、道路脇に立っていた30歳ぐらいの男がバスを止めて乗り込んで来ました。

バスには空席が目立っていたのに、乗り込んで来た男は、どういうわけか真っ直ぐ私のところへやって来て隣に座ります。後から考えれば妙な感じがするものの、その時は格別変に思うこともなく、いろいろ話しかけて来る男に愛想良く応じたのです。

その男は最初、バットマン出身のクルド人で歯医者をやっていると自己紹介していました。ヌサイピンでバスを降りてからも、友人気取りでずっと後をついて来る為、『トルコではこういう俄か友達も珍しくないが、これは少し怪しいかもしれない』と気を緩めずに付き合っていたら、今度は「この後の予定がないなら、一緒にジズレへ行きましょう」と言い出します。

ジズレは、ヌサイピンよりさらにイラクの国境に近く、テロリストの襲撃事件などがニュースになっていたから、「危険じゃないのか?」と訊けば、男は「大丈夫。チグリス河の畔には美味しい魚料理屋があるそうですよ」と勧めるし、バス会社の人も問題なしとするので、そのまま一緒にジズレ行きのバスへ乗り込みました。

ジズレまで1〜2時間掛かったのではないかと思いますが、周りに他の乗客がいないバスの中で、男は「貴方に嘘をついた」と何とも奇妙な告白を語り始めたのです。

「バットマン出身というのは嘘で、実はアイドゥン県の出身なんですよ」
「アイドゥンってエーゲ海地方の? それならクルド人というのも嘘ですか?」
「まあ、そういうことですね。クルド語は勉強したからある程度解るけれど」
「何故、そういう嘘をついたの?」
「貴方についてはもう調べることもなさそうだから言うけれど、僕は軍の諜報機関で働いているんです」
「すると君は職業軍人なんですね?」
「兵役で任務についているだけですよ。僕は体が丈夫に出来ていないから、余り過酷な任務には堪えられないし、クルド語が解るからこういう仕事が割り当てられました」

こんな話の何処までが本当なのか確かめようもないし、そもそも諜報機関で働いている人が自分でそれを打ち明けるとは考えられないから、『こいつはいよいよ怪しい』と気を引き締め、ジズレに着くと直ぐに安全そうなホテルを見つけて部屋を取ろうとしたら、フロントの係は、「部屋はあるんですが、冷房がないから暑くて寝られやしませんよ」と言い、ずっと側を離れない“諜報機関の男”も、「この辺じゃ、そこらの屋根に上がって寝るそうですよ」なんて笑っていたけれど、この状況下でそんな恐ろしい選択は考えられません。とにかく部屋を取ってもらい、それから“諜報機関の男”を引き連れて町の中を歩いたら、殆どの商店がシャッターを下ろしたままでゴーストタウン化しており、もちろん魚料理屋なんていうのも営業していないようです。

チグリス河の畔に出ると、ちょっと先に古い城壁のような建造物が見えたので、写真を撮ろうとすれば、男が「あれは軍の施設なんで撮影しないで下さい」と邪魔しながら、「だから言ったでしょう。僕は軍の関係者なんですよ」といっぱしの口を利きます。

そこで私にも良い知恵が閃き、「君が本当に軍の関係者なら、あの施設の中でお茶を御馳走してくれませんか?」と迫ったところ、男は困った顔して暫く考え込んだ末、「良いでしょう」と答え、施設の方に向かって歩き出しました。

半信半疑のままついて行き、城壁の門前に達すると、男は私を少し離れた所に待たせ、番兵に何事か囁いてから私の側に来たけれど、暫くしたら、門の中から将校らしい軍人が姿を現し、私たちの方に向かって、普通に聞こえる声量で、「君の仕事は解るけれど、ここに外人を連れて来るのは拙いなあ」と言ったのです。

男は慌てて、「この人、トルコ語解っているよ」と苦笑いしながら将校に近づき、二言三言、こそこそ話し合ってから私を呼び、門の中へ招き入れると、本当に将校クラブみたいな所でお茶を御馳走してくれました。

軍の施設を出て、チグリス河の畔に戻ったら、諜報機関の男、今度は「暑いから河で泳ぎましょう」なんて言い出します。既に男の疑いは晴れていたものの、『俺を裸にして何を調べる気だ?』と薄気味悪かったから、にべもなく断ると、男は一人でパンツ一丁になって河へ入って行ったけれど、“余り過酷な任務には堪えられない”と言う割には、なかなか鍛えられた体つきでした。

男が河から上がり、一緒にホテルへ引き上げる途中、何処かでビールを飲もうという話になり、男はそこらにいた12〜13歳ぐらいの子供を呼び止め、「この辺にビールが飲める所はあるか?」と訊いたのですが、その子は「おじさんたち何処のホテルに泊まっているの? ああそれなら、そのホテルの前がビアガーデンになっていますよ」と答えながら、「でも、サイレンが鳴ったら、直ぐにホテルへ逃げ込んで下さい」なんて注意するので、私が横から口を出して、「テロリストが町の中まで侵入して来るのか?」と質したところ、「テロリストなんて一つも恐くないけれど、サイレンが鳴っても外にいたら、憲兵隊に撃ち殺されちゃいますよ」と言い放ったのです。

子供が去ってから、私は男の方を振り返って、「貴方たちは随分酷いことしているねえ」と嫌味を言ったら、男が照れ臭そうにしているものだから、調子に乗って、「諜報なんて特に恥ずかしいことだと思いませんか?」と突っ込んでも、男は「その通りですね」と殊勝に答えていました。

今から考えて見れば、この諜報員はなかなか出来た人物だったのでしょう。身分を明かしたりしたのも、それをきっかけに何か話を引き出そうとした為かもしれません。

その夕方、ホテルの前でビールを飲んでいる時に、「明日はマルディンへ行くことにしましたよ」と話したところ、「それは良い考えですね。私も今日で貴方をつけるのは止めますから、明日は私を探さずにそのままマルディンへ行って下さい」と応じていたけれど、翌朝、ホテルの食堂で朝食を取っていたら、「お早う」とちゃっかり向こうから声を掛けてきたうえ、バスターミナルでマルディン行きのバスに乗るまで、しっかり見届けてくれました。

さて、それからマルディンに着き、有名な郵便局前のカフェテリアで、その雄大な景色を眺めていると、後ろから「マコト、マコト」と呼びかける声が聞こえるではありませんか。『こんな所に知り合いはいないはずだが?』と訝りながら振り返って見れば、髭を蓄えた中年男の笑顔に一瞬戸惑ったものの、直ぐに誰だか思い出しました。ミディヤットの宿に訪ねて来た民兵の隊長が、こざっぱりとした私服姿で微笑んでいたのです。

これも任務の範囲内だったのか、休みの日に偶然そこへ来ていただけなのか、その辺は何とも解らないけれど、私がヌサイピンへ行くことを諜報員に伝えたのはこの隊長さんだったでしょう。それにしても、隊長さんや諜報員さんが、また何処かで偶然に会いたくなるような人物だったのは、なかなか運が良かったかもしれません。

民兵については、以下の記事でも余り好意的に書かれていないようですが、あの隊長さんはとても立派な紳士でした。

【134】ディヤルバクルから強制的に移住させられたクルド人の家族【ラディカル紙】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00134.html

現在ではあの地域も非常事態宣言が解除され、ジズレ辺りはちょっと解りませんが、マルディンなら既にそれほど危険はないように思えます。当時はもちろん、所々のツーリズムオフィスなどで安全を確認しながら旅したけれど、今でもそういった用心は当然必要になるでしょう。

メルハバ通信−94年夏の南東部
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/004.html#70


7月11日 (金)  ドルマバフチェ宮殿

イスタンブールはヨーロッパ側のベシクタシュ区にあるドルマバフチェ宮殿、オスマン帝国末期の1855年に完成したと言われるこの宮殿は、アルメニア人建築家により設計されたそうです。西洋風な趣がある華麗な宮殿は、イスタンブールの重要な観光地になっていて、私も今までに5〜6回は訪れているように思います。

1855年と言えば、衰退したオスマン帝国が既に“瀕死の病人”と呼ばれていた頃であり、ため息が出るほど華麗な宮殿を訪れる度に、『こんなものを建てる余裕があったのかなあ?』と首を傾げたくなったものです。果たしてこの宮殿の主は国民の生活を少しでも考えていたのでしょうか。

これに比べれば江戸の将軍さんなんて可哀想なくらいであるかもしれません。江戸城の天守閣は明暦の大火で焼失しても再建されることはなかったし、幕末の頃の記録よれば、将軍たちの生活は実に慎ましかったそうです。

という話をトルコの人たちに聞かせると、大概の場合、「大帝国と小さな島国を比べてはならない」なんて言われてしまいます。とはいえ、オスマン帝国も1855年には、バルカン半島の領土をかなり失っていたから、人口の面から見れば当時の日本に比して、それほど巨大な帝国であったとは言えないでしょう。例えば、現在の人口を見ても、トルコ、ブルガリア、ギリシャ、マケドニア、アルバニア、グルジア、アルメニア、シリア、レバノン、イラクの10ヵ国を合わせたところで、約1億4千万にしかならないのです。

農業生産力でも、当時の日本がそれほど引けを取っていたようには思えないけれど、欧亜両大陸にまたがるイスタンブールの交易量であるとか帝国の威信といったものは、やはり比較にならないくらい大きかったかもしれません。

しかし、宮殿の主であった皇帝は、交易によって富をもたらすイスタンブールの商人とアナトリアの農民のどちらを身近に感じていたものでしょうか。その富裕なイスタンブールの商人の殆どは、アルメニア人やギリシャ人、ユダヤ人等の異教徒だったそうです。

この帝国が倒されて共和国が成立し、首都がアナトリアのアンカラへ移され、イスタンブールの異教徒たちの多くが国を去ってしまったのは、自然な成り行きであったようにも思えます。共和国はアナトリアの民衆の国であり、この民衆が“トルコ人”と名付けられたのでしょう。アナトリアの庶民の出である現首相などは、まさしく共和国の申し子と言えそうだけれど、その支持者の中からオスマン帝国を懐かしむような声が聴かれるのは、なんとも皮肉な話です。

オスマン帝国が自立した国民などを望んでいなかったのに対し、共和国は特定の教団や部族の支配から自立した国民を創造すべく、民衆に教育を与え、一連の改革を行なったのであると私は理解して来ました。この為、共和国の理念に目覚めた人々の中から、クルド民族主義等を主張する者が現れてしまったのは、これまた皮肉な結果であるかもしれません。

しかし、クルド民族主義者の人たちが熱望したクルド人の国家(自治政府)が北イラクに出現したものの、それは石油利権を背景にした部族支配の延長に過ぎないことが明らかになってきた為、トルコのクルド民族主義者の間には大きな変化が起こっているようです。


ドルマバフチェ宮殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%90%E3%83%95%E3%83%81%E3%82%A7%E5%AE%AE%E6%AE%BF

【179】健全な民族主義【ラディカル紙】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00179.html



7月15日 (火)  国の独立は目的なり

いつだったか、トルコ在住の韓国人の友人夫婦のお宅で夕食を御馳走になっていた時のことです。サッカーの番組を放送していた茶の間のテレビに、試合場でトルコの国歌を歌う場面が映し出されたところ、普通のトルコの公立小学校に通っていた7歳の長男は、食事を中断してぴょこんと立ち上がり、朗々とトルコ語で国歌を歌い始め、「座ってご飯食べなさい」というお母さんの言葉を無視して、最後まで歌ってから着座しました。

この条件反射のような行動に、『トルコの小学校は毎日いったい何を教えているんだ?』と驚いたけれど、国歌は未だ序の口であり、その後は大学に至るまで、国父アタテュルクの功績や共和国革命の意義が延々と教え込まれるそうです。私も偉大なアタテュルクの功績についてはもっと勉強しなければと思っているものの、トルコ人にその功徳を得々と説き付けられたりすると、却って嫌になってしまいます。

しかし、先日、教養のあるトルコの方から、「日本の近代化に功績のあった人物は?」と問われて、即座に「福沢諭吉」と答えて置きながら、その功績について得々と説明できるような知識を持ち合わせていないことに気がつき、何だかうろたえてしまいました。さらに、そのトルコの方は韓国の近代化について調べていたので、「まあ、韓国では評判良くないかもしれませんが・・・」なんて話でお茶を濁す始末でした。

福沢諭吉に関しては、韓国ばかりか日本でも批判的に論じられることがあるようです。もちろん、100年以上前の人物だから、その思想には現在通用しない部分もあるだろうけれど、日本ではもっと肯定的に評価したうえ、学校で詳しく教えても良いのではないかと思います。知識がないことを学校の所為にするわけじゃありませんが・・・。

同様に、アタテュルクも70年前に亡くなった人物であり、その思想が全て現代に通用するとは考えられないものの、アタテュルクの場合、国父とされ共和国革命の象徴的な存在となっている為、簡単に批判することは許されないかもしれません。とはいえ、“君臨すれども統治せず”といった存在ではなかったから、歴史上の業績は検証されなければならないでしょう。何とも難しい問題です。

福沢諭吉は「国の独立は目的なり。今の我が文明はこの目的に達するの術なり」と言って、西欧列強に独立を脅かされていた日本の近代化を説いたそうですが、トルコにおいては実際に独立が侵され、分割寸前にあった国土を死守して共和国革命が成就したので、正しく目的は“国の独立”であったに違いありません。今、これを忘れて易々とその象徴に対する批判を許せば、独立が危うくなると憂慮している人たちもいます。取り越し苦労であれば良いけれど、例えば、私たち日本人はこれを他人事だと思っていても良いのでしょうか。


7月18日 (金)  肌を何処まで露出できるか?

この前、7月9日の“便り”で、スカーフの問題に少し触れましたが、トルコでは、スカーフの被り方によって、信条等の違いが現れるとされ、特にトュルバンというスタイルでスカーフを被っている女性たちの傾向が議論を呼んでいるようです。

トュルバンの語源はターバンだそうで、髪の毛ばかりか首も見えないようにしっかり巻き付けます。髪の毛の長い女性は、それを束ねたうえでスカーフを被っているのか、スカーフで覆われた部分がこんもりと盛り上がっている場合があり、その格好によっては、何だか鞍馬天狗のように見えなくもありません。

このトュルバンという被り方は、近年になって始まったらしく、昔は見られなかったそうです。

オスマン帝国の時代に、イスラム教徒の女性がどのような服装で出歩いていたのか良く解りませんが、例えば、2月の“便り”でも御紹介した『落葉』という小説を読んでみると、舞台となっているオスマン帝国末期のイスタンブールで、主人公のアリ・ルザ・ベイの娘たちはスカーフなど被っていなかったようです。しかし、スカーフを被った女性が多く、一部にはベールで顔を隠して外出する女性たちもいたと言われています。

2月の“便り”『落葉』
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=2

私は、この顔まで覆うベールが共和国になってから禁止されたと教わり、「メルハバ通信」の冒頭にもそう記しましたが、最近の議論を見ていると、禁止されたとは言い切れないようです。条文は「・・・宗教的な服装は、導師らが寺院などで着用する以外に用いてはならない・・・」といったような表現になっていて、“宗教的な服装”が何であるかは示されていません。一部の識者によれば、当時の一般的な認識として、法衣、ターバン、顔を覆うベール、頭から胴にかけてすっぽり被る黒い布などは、充分に“宗教的な服装”と看做されていたと言うものの、これに異を唱える人たちもいます。

こういった議論はともかく、そもそも現在のトルコで、顔をベールで覆っている女性はまずいないでしょう。少なくとも私は見たことがありません。しかし、法衣らしきものやターバンを纏った男、頭から胴にかけてすっぽり黒い布を被った女性たちは、今でも僅かながら存在し、ある特定の街区へ行けば、そんな男女ばかりが群れを成して歩いている光景を目にすることができます。

クズルック村の工場にも、法衣のようなマントを着て通勤してくる青年がいました。髪の毛を短く刈り込み、モジャモジャと顎鬚を蓄えた風貌はタリバンを彷彿とさせ、未だ20代というのに、やたらと老成した雰囲気があり、同僚たちも彼のことを“ホジャ(師匠)”などと嘲笑気味に呼ぶくらいで、信仰に篤いクズルック村の中でも少々浮いた存在になっていたようです。

さすがに工場内では制服に着替えて働き、仕事ぶりは真面目で優秀工員として度々表彰され、新しく導入されたパソコン制御付きの機械が彼にまかされたこともあります。その時、数日経ってから、イスタンブールの大学を出たばかりの若いエンジニアが機械を点検しようとして、付随のパソコンを立ち上げたところ、任意で書き込める“使用場所−使用者”の欄に、“アフガニスタン−オサマ・ビン・ラディン”と書き込まれていた為、直ぐに“ホジャ”が呼びつけられたけれど、ホジャ青年は自分より若いエンジニアの小言を聞きながら、頭を掻いて畏まり、照れ臭そうな笑顔で殊勝に謝っていました。911から未だ間もない頃の話です。

敬虔なイスラムの人々は、女性ばかりでなく男たちも肌の露出を嫌がるので、92年にイスタンブールで宗教色の強い学生寮にいた時は、短パンのまま寮の食堂に下りて注意されたこともあります。しかし、それから10年後にクズルック村の広場では、ホジャ青年が短パンのユニフォームを着てサッカーに興じていました。あの顎鬚をモジャモジャと蓄えたホジャ青年が真剣な表情でボールを追う姿は、今思い返しても微笑ましい感じがします。

トルコでは、共和国革命以来、女性の海水浴が奨励されて来たから、91年に初めてトルコへやって来た時も、イズミル近郊の海水浴場にはビキニ姿のトルコ人女性が溢れていたけれど、肌の露出を嫌がる敬虔なイスラムの人々が、水着姿を認めないのは当然でしょう。

敬虔な女性たちは顔と手足だけが露出したウェットスーツみたいなものを着て海に入ります。これはボディラインが明らかにならぬようダブダブになっていて、とても水着には見えません。私も昨年の夏に、ビュユック島の余り賑わっていない海岸で、そういった敬虔な女性の姿を目撃しました。その女性は御主人と思われる男性から泳ぎの手ほどきを受けていたけれど、男性の方はバミューダタイプの海水パンツでした。

世俗派の中にも、こういった“敬虔な水着姿”を「そんな人たちが海水浴へ行くようになっただけでも進歩だろう。ヨーロッパでも昔は似たような露出を控えた水着だった」と言って歓迎する識者がいます。しかし、敬虔な女性たちがこれから段々露出を増やして行くと期待できるでしょうか?

ところで、そんな水着の問題に頭を悩ましているトルコの人たちへ、伊勢の海女さんを見せたら、あの“頭まで覆った白装束”にはちょっと驚くかもしれません。

海女さんについて少し調べたところ、伊勢の海女さんがあれを着るようになったのは大正年間以降のことで、それまでは、上半身裸の胸も露わな姿であり、他の地方では、ふんどしのようなものを締めただけの勇ましい姿もあったのに、西洋人などから好奇の目で見られたりした為、白装束やウェットスーツを着用するようになったそうです。

海女の文化
http://www2.ocn.ne.jp/~amagaku/index.html

海女のふんどし
http://fundoshilady.fc2web.com/ama/ama.html

日本の場合、肌の露出に宗教的な問題は絡んでこないから楽だけれど、トルコではそう簡単に行きません。ビキニや“敬虔な水着”を個人が心の赴くまま自由に選択できれば良いものの、ビキニを選んだ女性が“信心のない淫らな女”に見られる心配はないでしょうか? もちろん、今のところ、海水浴場にやって来る人たちの殆どは、ビキニを何とも思っていないだろうから、そんな心配はないし、却って“敬虔な水着”の女性が奇異な目で見られているかもしれません。

しかし、全体から見れば、スカーフを被っている女性は7割近くに及ぶと言われています。イスタンブールやイズミルの繁華街だけを見ていると、この数字は俄かに信じられませんが、東部地方の農村へ行けば、ほぼ全ての女性がスカーフを被っているそうです。こういう女性たちは、おそらく海水浴場などへ出かけたこともないでしょう。

村で例外的に被っていない女性は、学校の先生やお医者さんといった知識層であり、村の普通の若い女性が彼女たちに憧れても、スカーフを外す“自由”は未だ東部の農村まで広がっていないかもしれません。

【181】スカーフ、イスラム、ライシテ【ラディカル紙】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00181.html



| 1 | 2 |