Diary 2008. 12
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12月1日 (月)  アジャルケント

昨日、映画だか何だかのエキストラに借り出され、訳も解らぬまま「あれやれ、これやれ」という御指示に従い、恥を忍んでドタバタ動き回った末、今日の明け方に帰って来ました。

なにしろ、私のイスタンブール暮らしも、このところ、忘れた頃にやって来る翻訳やら通訳の依頼がたよりで、収入はごく限られている為、正当な労働によって他人に迷惑をかけず、他人に恥をかかせず、自分だけ恥かいて報酬が得られるならば、四の五の言ってられません。向こうから声が掛かれば何処へでも顔を出します。それで、オーディションみたいなものがあって、「日本人“青年”のエキストラですよ。何を考えているんですか? おじさん!」とにべもなく断られてしまっても文句はないのです。場合によっては、却ってホッとするかもしれません。

まあ、今回も“却ってホッとしたい”くらいだったけれど、採用されてしまったから、そういうわけにも行きませんでした。しかし、このドタバタについてはもう忘れることにします。この“便り”に書こうと思ったのは、今朝、帰ってくる時の話です。

深夜の4時近くになってヨーロッパ側のロケ地で撮影が終わり、アジア側へ行く送迎用のミニバスに、他のエキストラ10人と乗り込んだところ、運転手は、それぞれの行き先を確認した後、「それでは、第二海峡大橋を渡って、まずベイコズの方を降ろし、それからウムラニエ、エサットパシャ、ギョズテペ、イエニサハラと回ります」とルートを説明してから出発しました。

出発して、直ぐにウトウトし始めた私がフト気がつくと、ミニバスは何処か団地入口の守衛所らしき所に近づいて停まり、運転手が入口の遮断機を上げるよう守衛に求めたものの、守衛は居住者かどうか確認できなければ遮断機を上げるわけには行かないと言います。

運転手の直ぐ後ろの席に座っていたエキストラの女性が身を乗り出すようにして、運転席の窓から顔を出し、あまり巧くないトルコ語で氏名と住所を伝えたけれど、守衛は何処かへ無線で問い合わせたりしながら、なかなか許可を出そうとしません。

女性は“ナディア”というトルコ人らしからぬ名前であり、御主人と思われるトルコ人男性の氏名も告げたのですが、それでも守衛は繰り返し無線で問い合わせるばかり。女性は苛立って「私、ここで生きています」と妙なトルコ語で抗議するし、私も『この守衛は居住者について全く把握していないのか?』と呆れながら成り行きを見守っていました。

その内、しびれを切らした運転手が女性に、「貴方、ここから歩いて行けないでしょうか?」と訊いたものの、女性は「とても遠いから無理よ」と笑って取り合いません。結局、数分待たされたあげく、やっと許可が出たけれど、実際、中へ入ってからも、ミニバスはくねくねした坂道を上ったり下りたりして、女性の家まで辿り着くのに結構かかりました。

『いったいここは何処なんだ?』と驚いて、隣の人に尋ねたところ、有名なベイコズのアジャルケントという高級住宅団地でした。アジャルケントは、不法に森林を伐採して造成されたと言われ、暫く新聞紙上を賑わせていたから、私もその名を聞いたことがあります。しかし、ナディアさん、こんな所に住んでいながらエキストラに出演したりするのは、私と違って趣味の領域なんでしょうか。

以下のホームページによれば、アジャルケントには、2,291,220uの広さがあるそうです。

http://www.acarkent.net/


12月3日 (水)  ほほにかかる涙

94年に3年暮らしたトルコから戻って来て川崎の産廃屋で働き始めた頃、川崎駅前のCD店で“ゴールド・コレクション”という60年代の洋楽を集めたCDを買って来て良く聴いていました。ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」とかプラターズの「オンリー・ユー」、プレスリーの「好きにならずにいられない」なんていう収録曲に魅かれて買ったものの、当時から現在に至るまで、最も気に入って聴き込んでいるのは「ほほにかかる涙」という、それまでは曲名さえ知らなかったイタリア語の歌です。ボビー・ソロという歌手が64年にヒットさせたそうですが、このボビー・ソロが歌っている他の曲は未だに聴いたことがありません。

CDの歌詞カードにはイタリア語の歌詞が記されているけれど、対訳はないので、長い間、意味も解らぬまま聴いていました。曲は長調でも、“ほほにかかる涙”というからには余り楽しい内容の歌ではないだろうし、実際、何処となく哀愁を帯びた雰囲気があり、その辺が気に入っていたのです。

歌詞の内容は、2001年だったか、クズルック村からトゥズラの工場に出向いていた頃、このトゥズラ工場に勤務していたトルコ人女性から教わりました。

イタリア語に堪能な彼女は、イタリアのミラノにある支社で“トルコ語〜イタリア語”の通訳として採用されたようですが、どうもこの職場に巧く馴染めなかったらしく、トルコへ戻って来て、暫くトゥズラ工場のオフィスで働いていたものの、ここでも齟齬をきたし、結局、トゥズラ工場製造部のチーフとして再出発していました。なかなかの美人でしたが、ちょっと神経質そうなところがあり、歳はもう30に近かったのではないかと思います。

当時、ミラノ支社の責任者だったイタリア人男性は、度々クズルック村の工場にも出張して来たけれど、なにしろ身の丈が2m以上もある巨漢で、「あの神経質そうな女性が彼の下で働くのは大変だったかもしれない」という話も聞かれたほどです。私は、あの巨漢に“動くアルプス”という綽名を付けて、一人でほくそ笑んでいました。昔、ボクシングの世界にそう名付けられたイタリア人のヘビー級チャンピオンがいたのです。

どの部署からも持て余されてしまった彼女を、製造部の日本人部長が引き受けたわけですが、そこには『イタリアでも苦労したのに可哀想じゃないか』という親心めいたものがあったのではないでしょうか。私の勝手な想像ですが・・・。

彼女が製造部で働き始めた頃、日本人部長は、「なかなか一生懸命やっているじゃないか。あれなら大丈夫だろう」と喜んでいました。「もともと頭の良い女性だし、やる気もあるようだから何とかなるさ」と仰っていたように記憶しているけれど、こちらは一向にピリッとしないヘボ通訳への当て付けだったかもしれません。

部長の自宅は、イスタンブールのアジア側、ジャッデボスタンにあり、これを知った彼女が、「その近くに友人の経営しているイタリア料理店があって、最近、店の一角に鮨コーナーを設けたのですが、一度ご一緒できないでしょうか?」と提案したところ、彼女の仕事ぶりに期待をかけていた部長も快くこれを受け入れ、一度、私も交えて3人で出掛けたことがあります。

鮨コーナーで彼女は躊躇うことなく鮨を頬張り、雑談に花を咲かせました。彼女の御両親は日本へ2回も観光旅行に行ったというから、もともと裕福な家なのでしょう。トゥズラの工場へは洒落た輸入車で通勤していました。

その頃、彼女に「ほほにかかる涙」の歌詞をトルコ語に訳してもらったのです。しかし、彼女はこの歌を聴いたことがないようでした。

それから間もなく、私はまたクズルック村の工場へ配置換えとなり、暫くすると部長も日本へ帰任してしまいました。その後、彼女が製造部でも巧く行っていないという噂を聞いたけれど、トゥズラの工場を訪れる機会もなく、本当のところはどうなのか良く解りませんでした。

あれは、2002年の末だったでしょうか。私が退職を間近に控えていた頃じゃなかったかと思います。トゥズラの工場に新しい工程が設置され、クズルック村の工場から日本人の技術部長が出掛けて、それをチェックしなければならなくなり、私も通訳として同行することになりました。

そういった工程はラインの外に設けられ、仕事量も少ないから、それほど手際の良さを必要としません。その為、熟練した作業員が配置されることはなく、まあ、どちらかと言えば余り要領の良くない作業員向きでした。

責任者は未だ若い男で、私がトゥズラにいた頃は一介の製造作業員として働いていたはずですが、要領も良くしっかりしているので、責任者に抜擢されたのでしょう。技術部長を前に、整然とその工程内容を説明していました。部長は一通り説明を聞いた後、装置を自ら手に取ったりしながら細かくチェックしていたので、私はその間、10人ほどの作業員がうつむき加減に作業している様子を漫然と眺めていたけれど、一人の女性作業員が目に映った瞬間、思わず凍りついたようになってしまいました。あの「ほほにかかる涙」を訳してくれた彼女だったのです。

私は数秒間、動悸を抑えながら、目を凝らして見ていたものの、彼女はずっとうつむいて作業を続け、顔を上げて私を見ることはありませんでした。しかし、責任者と技術部長がやり取りしている時、私の下手な特徴のあるトルコ語に気づいていたかもしれません。私は部長の呼ぶ声で我に返り、促されるまま一緒にそこを後にしました。

彼女は結局、何処の部署でも巧く行かず、自主退社か一介の作業員として残るかの選択を迫られ、後者を選んだのではないかと思います。それは彼女なりのささやかな抵抗だったのでしょうか。

私は年が明けた2003年の1月に退社して一旦日本へ帰国した為、その後、彼女がどうなったのか知る由もありません。もともと裕福な家の娘さんですから、また気を取り直して、他の仕事にチャレンジしただろうと信じています。


ほほにかかる涙(Una lacrima sul viso)
http://jp.youtube.com/watch?v=pZUx8Tgch3M


12月6日 (土)  近づく犠牲祭

いよいよ来週の月曜日から犠牲祭が始まります。生贄にされる動物の販売所がイスタンブール市内のあちこちに設けられ、仮設テントの中で牛や羊がのんびりと飼料を食んでいるけれど、今年の景気を考えれば、牛より安価な羊を選ぶ市民も多いのではないでしょうか。

うちの近所でも、高速道路沿いの広い空地が“飼育場”に早や変わりして、周囲に芳しい田舎の香りを漂わせているものの、この辺りの住民は、その殆どが犠牲祭を待ち望む信仰に篤い庶民なので、特に苦情は出ていないようです。信仰のない私も、常日頃、有り難く牛や羊の肉を頂いていますから、年に数日、芳しい香りが漂って来たとしても文句は言いません。

犠牲祭が始まれば、指定された場所で、今度はこの牛や羊が一斉に屠殺され、夥しい血によって、そこには異様な匂いが立ち込めます。屠殺の光景と言い、血の匂いと言い、誰もが好き好んで近づきたくはないでしょう。トルコでも、メズバハ(屠殺場)という言葉に余り良いイメージが持たれているとは思えません。しかし、友人の奥さんなどは、それでも、殺される生贄が可哀想だと涙ぐみながら、毎年この屠殺作業に立ち会っています。

日本では、誰もが嫌がるこの作業を、社会の中で差別されている人たちに押し付けてやらせて来た経緯があるから、私もこれに目を背けるつもりはありません。機会があれば喜んで立ち会わせてもらいます。


【110】“犠牲祭”の大切さ【ラディカル紙】【2005.01.21】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00110.html

【40】「犠牲祭」の意味するもの【ラディカル紙】【2004.02.06】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00040.html

“トルコ便り”−2007年1月−“犠牲祭の思い出”(1月3日)
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=1

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12月7日 (日)  ケ麗君の“何 日 君 再 来”

ケ麗君、日本では“テレサ・テン”と言ったほうが通りが良いかもしれませんが、私は何となくこの呼び方が好きじゃないのです。それで、ケ麗君。中国語の読みは良く解りません。日本語読みの“とう・れいくん”で構わないのではないでしょうか。

日本でヒットした“つぐない”〜“時の流れに身をまかせ”といった曲も嫌いではないけれど、どうも歌詞の内容が前近代的というか、男の戯けた妄想みたいで抵抗を感じてしまいます。でも、ケ麗君が歌うと、あまり粘っこくならず、さらっと聴けるから不思議ではあるものの、もっと詩情豊かな歌なら良かったのにと残念でなりません。

ケ麗君が中国語で歌っているのは“何 日 君 再 来”ぐらいしか知りませんが、彼女の歌の中ではこれが一番好きです。

“何 日 君 再 来”、今見た資料では“ホーリィチュンツァイライ”というカナが振られています。しかし、最初の“ホー”からして、“ハー”か“へー”の間にあるような音であり、これをカナで表記するのはとても無理でしょう。ケ麗君は、日本語で歌っている時も微妙な音を使い分けていたように感じられるけれど、それは彼女が、そういった微妙な音の多い中国語を母語としていたからじゃないかと思ってしまいます。

先月、“YouTube”で以下の録音を見つけました。1982年に何処で収録されたものか解らないけれど、冒頭で観衆との間に中国語のやり取りが聴かれます。ケ麗君の日本語会話はそれほど巧いものじゃなかったから、彼女の日本語スピーチには余りユーモアを感じませんでしたが、このやり取りを解らぬまま聴いても、その美しい中国語には何となくユーモアが感じられます。まあ、観衆が笑っているから、そう思えるだけかもしれませんが・・・。楽しそうに何を話しているんでしょうねえ。途中、“リーベンレン(日本人)”という単語が聴こえたようで気になります・・・。

何 日 君 再 来 When Will You Return (Live) - (現場演唱 - 1982
http://www.youtube.com/watch?v=B33AwGSV0iI&feature=related

中国語の音声的な美しさが遺憾無く発揮された名曲じゃないかと思いますが、どうでしょうか? ケ麗君の歌い方にも、抑制を効かせた気品が感じられます。まさしく“東洋の歌姫”ですね。

昔から、ほろ酔い加減でこの歌を聴いたりすると、ある中国人の朋友が思い出されてならないけれど、向こうはあの世に行ってしまったから、もう“君 再 来”もへったくれもありません。先日は、酔いが回りすぎていたのか、訳も解らず落涙してしまいました。いい歳して全く情けない話です。


12月9日 (火)  アレヴィー派の犠牲祭

犠牲祭が始まった昨日の昼、私は家から歩いて30分ほどのところにあるアレヴィー派の礼拝所へ出掛けました。この礼拝所については、以下のように1月21日の本欄でも御紹介したことがあります。

2008年1月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=1

犠牲祭を祝う人々で賑わう礼拝所の広い敷地の一角には、大きな仮設テントが設けられ、中では生贄にされる羊たちがひしめき、外の“臨時屠殺場”では、既に沢山の羊が“肉”となっていました。

その周囲は、買い求めた羊を屠殺する為に順番を待つ人たちでごった返しており、先週、ビュユック島で知り合ったアリさんも、婿の青年と一緒に、そこで順番を待っていました。

アリさんは、旧居の大家さん家族がビュユック島で借りている別宅のお隣さんで、昨年亡くなったマリアさんと懇意にしていたのです。先週、マリアさんの娘のスザンナさん、親しい友人だったアルメニア人のガービ小父さんと共に、私もビュユック島のアリさん宅に招かれ、魚料理とラク酒を御馳走になったばかりでした。

アリさんの本宅は、ビュユック島へ渡る船が頻繁に発着するボスタンジュにあるそうで、屠殺の順番を待ちながら、「イスタンブール市が指定している所はボスタンジュの近くにないのですか?」と尋ねたところ、「ありますが、私たちはこちらを選びました」と言います。

「市が指定している所はスンニー派の人たちが多いからですか?」
「そんなことはありません。私たちは同じイスラム教徒なんですよ。犠牲祭でも同じように生贄を切ります」。

アリさんはこう仰っていたけれど、スンニー派とアレヴィー派では、礼拝の仕方や断食を行なう期間も異なり、同じように実践している信仰上の儀礼は、この生贄の屠殺だけではないのかと思えるほどです。

暫くして、アリさんの順番が読み上げられると、係りの人がアリさんの羊を引っ張って、隣接する建物の半地下にあるガレージのような所へ降りて行き、私たちもその後を追いました。

そこは屋内に設けられた屠殺施設で、多くの人が見守る中、係員が祈りを捧げながら次々に羊を屠殺しています。他の係りに押さえられて順番を待つ羊たちは、目の前で首を落とされたお仲間がその脇を引き摺られて行く時も、暴れたりせずにじっとしているけれど、自分の運命には全く気がついていないのでしょうか。

施設内には、空調設備や血を洗い流す為のハイウォッシャーが用意されているとはいえ、閉ざされた狭い空間にはムッとするような匂いが立ちこめ、『夏場になったら大変だろうな』と思いました。

しかし、あの首が切られる瞬間は何度立ち会っても、気分が良いものではありません。首がなくなった羊の姿にも無残なものを感じます。それが、毛皮も剥がされてしまうと、未だ手足がついていても、それは肉屋さんで目にする“肉塊”となってしまい、なんの感慨も催さないから不思議です。アリさんの羊も、屠殺後、瞬く間に切り分けられ、美味しそうな“肉”になってしまいました。もっとも、その場では美味しそうに見えませんでしたが・・・。

ところで、ここ数年、私はこうやって犠牲祭の行事に立ち会わなかった為に気がつかなかったのですが、3年ほど前から、イスタンブールでは、屋外における生贄の屠殺が禁じられ、市が新たに作った“屋内の施設”等で屠殺することが義務付けられているそうです。それまでは、市が指定する空地で盛大にやっていたものの、今はそれも叶わぬことになりました。

まあ、うちの近所では、先週土曜日の本欄でお伝えした“生贄販売所”でも、一部の仮設テントを取り壊して、そこで屠殺していたし、この礼拝所まで歩いてくる間に、民家の庭先とかガレージのような所で、何度となく、その光景を目撃したばかりか、礼拝所でも、仮説テント脇の屋外で屠殺していたくらいだから、それほど厳密に禁じられているわけでもないのでしょう。アリさんは、「本来、周囲に配慮されすれば何処でも良いはずです」と話していました。

私が91年に初めてトルコへやって来た頃は、イズミルの街角でも当たり前にバッサリやっていたものの、確かにあれでは、見たくない人たちまで偶然にその光景を目の当たりにしてしまったかもしれません。でも、目を背けて通れば見なくても済むような状況であれば、屋外であっても構わないのではないかと私は思います。

昨年だったか、あるトルコの知識人は、新聞のコラムで犠牲祭をアナクロニズムと決め付け、「田舎の風習を都会に持ち込んでもらっては困る」と嘆いていました。こんな感覚が、日本の社会で屠殺に携わる人々が差別されて来た根底にもあるのではないかと見るのは考え過ぎでしょうか。もちろん、この知識人も「そういう人たちを差別するつもりなど全くない」と言うはずですが、こういった知識人たちは、屠殺を生業にしている人々と接点すら持っていないような気もします。


12月11日 (木)  動物の屠殺

メルハバ通信「イズミル在住韓国人家庭を訪問」
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#260

上記の駄文でお伝えした韓国人の御夫婦は、イズミルの近郊に農場を持っていて、この2001年の訪問では、農場の方にも案内してもらいました。

御主人のパクさんに案内されて農場についたら、いきなり大きなシェパードが躍り掛かって来たけれど、尻尾を振って歓迎しているみたいだから、頭でも撫でてやろうと思い、「パクさん、この犬は噛みつきませんね?」と訊いたところ、「気をつけなさい。私も噛まれたから」なんて言うので、先ずは肝を潰してしまいました。それから、家の庭先に用意されたテーブルの席を勧められたのですが、その隣の低い柵で囲われた庭には、15〜20羽ぐらいの鶏が群れていて、またまた肝が潰れそうでした。私は鶏が大の苦手だったのです。

これもどういうわけか、羽を毟られて肉屋さんに並んでいる鶏を見るのは大丈夫だし、手羽先の唐揚などは大好物であるものの、羽のついている鶏や鶉、鳩、インコなどは、見ているだけで気持ちが悪くなってきます。昔、地方の旅館で働いていた頃、調理場の人に「羽を毟っといてくれ」と5〜6羽の死んだ野鳥を示された時は心臓が停まりそうになりました。恐々、2羽ほど毟っただけで、直ぐに他の仕事を命じられたから助かったけれど、あの感触の気持ち悪さは未だに忘れられません。

パクさんの農場でも、お茶を頂きながら、なるべく鶏の方は見ないようにしていましたが、「どうです、うちの鶏は?」と訊かれて、明後日の方向を見ているわけにも行かなくなり、恐る恐る鶏の方に向き直って、鶏に関するパクさん夫婦の話を聞いていたところ、1羽の鶏がぐったりしているのが目に映ったので、「あれはどうしたんでしょう?」と奥さんに尋ねたら、「ああ、良く気がついてくれましたね」と、奥さんは何か用意して柵の中へ入って行き、その鶏をつかまえて出て来ました。

それから、奥さんがそのまま鶏を近くの木陰へ持って行くまでは、『どうするのだろう?』と思いながら見ていたけれど、奥さんの手に刃物が見えた瞬間、私はそこから目を逸らしてしまいました。羊はともかく、鶏が切られるのは気持ちが悪くて正視できなかったのです。

犠牲祭で生贄が屠られる光景を絶対に見たくない人もいるでしょう。これ見よがしに所構わずやられたら堪ったものではないかもしれません。

昨日の新聞には、犠牲祭の問題点を指摘する記事がいくつも出ていましたが、これ見よがしに大威張りで屠殺したり、生贄を乱暴に扱ったりする行為が非難されているのは確かに納得がいきます。毎年のように、街中で逃げる牛を追っかけまわす光景がテレビに映し出されるけれど、御するのが難しい牛は専門家に任せて、一般の生贄は扱い易い羊だけすることは出来ないものでしょうか。

しかし、生贄の屠殺そのものを批判する次のような意見には、抵抗を感じました。
「・・・動物が人々の目の前で殺されるのは、我々の潜在意識に必ず一群の不健康な痕跡を残している・・・」

子供の頃から、動物の屠殺を間近に見てきたという農村出身の友人たちの潜在意識に、そんな不健康な痕跡があるとは、とても思えません。それに、これでは屠殺場などで誰も働けなくなってしまうでしょう。

未だ続けられているかどうか解りませんが、四半世紀近く前に、東京で子供の為の音楽教室を運営していた友人たちは、情操教育の一環として、子供たちを農村へ連れて行き、動物を屠ってから、その肉を料理して食べるまでの過程を体験させたそうです。都会で育った子供たちは、肉をパックに入ってスーパーで売られている商品としか思っていないように、生と死についても頭の中だけで考え、深く理解していない場合があるからだ、と友人はその理由を説明していました。


*ラディカル紙のヌライ・メルトさん、犠牲祭について、今年は以下のように記しています。

【206】犠牲祭【ラディカル紙】【2008.12.10】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00206.html



12月13日 (土)  犠牲祭と政教分離

犠牲祭を機会に、私も自分なりに“下手の考え”を繰り返してみたものの、例によって頭の中のモヤモヤが増すばかりでした。

トルコでは、地位や財力に恵まれていれば、煩わしい作業は下働きにやらせて、自分の手を汚そうとしない人たちが多いけれど、犠牲祭になると、屠殺の際に自ら手を下さずとも、生贄を押さえたり、皮を剥ぐのを手伝ったりする光景が少なからず見られるように思います。また、我慢や辛抱がそれほど美徳とされていないトルコで、ラマダン月に多くの人たちが断食を実践するのも驚くばかりです。これぞ正しく宗教の成せる業でしょうか?

でも、それならば、普段から、身の回りの雑事に手を貸すとか、食べ物を粗末にしないよう心がけてくれたら良いのに、どうもその場限りで終ってしまうような気がしてなりません。教義に定められているから実践するだけで、心には留めていないように思えてしまいます。敬虔な信者の方には申し訳ありませんが、教義の実践を周囲に見せているだけの場合もあるのではないかと感じてしまうのです。

以前、私たちを訪ねて来たムスリムのアラブ人留学生が、時間になったと言って話を中断し、そこで立ったり平伏したりしながら礼拝を始めた時には、『この所作を誰に見せたいのだろう? 心の中で祈るというわけには行かないのか?』と冷ややかな気持ちになりました。しかし、彼はこれによって大きな信仰上の満足を得たのでしょう。周囲にムスリムの同胞がいれば、お互いに実践して見せることで、同じ共同体の一員であるという安堵感を得ているのかもしれません。

トルコで、人々が何処でも物怖じせずに自分の意見をはっきり述べる背景には、イスラムの原則さえ踏まえていれば“真っ当なムスリムとして認められる”という安堵感があるのではないでしょうか? その時々で変わってしまう空気を読む必要なんて殆ど感じていないように見える人もいます。彼らは、教義上の束縛を受けることで、却って楽になっているようです。

一方で、こういった教義は、往々にして形骸化し、実践をデモンストレーションにしてしまう危険を孕んでいるようにも思えます。

【206】犠牲祭【ラディカル紙】【2008.12.10】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00206.html

上記のコラムには、「宗教的な教えは、今日まで、人間の暗い側面を口実にした抑圧的な社会秩序を正当化する為に使われてきた」と記されていました。私は、この文を念頭に以下の記事を読みながら、ライシテ(政教分離)の意味について“下手の考え”を繰り返していたのです。

【181】スカーフ、イスラム、ライシテ【ラディカル紙】【2008.01.24】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00181.html

こちらの記事は次のように締めくくられています。

「一方のイスラムは、人類に大きく貢献し、歴史的な財産となったそのプロジェクト本来の目的と理想を軽んじて、何世紀も前に使い古した手法を活かそうとしているが、これはイスラムを最も不当に扱うものである。もしも、人間の知性と経験から得られる能力が時と共に発展するのであれば、人類の高邁な憧れに近づけるために、現世紀の支配的な文明を優先させなければならないだろう。神よ、神よ、と言いながら神から遠ざかることが可能なように、神の名を口にせずとも神へ近づくことは可能なのである」。

アレヴィー派の人たちによれば、「ラマダンは、食べ物の有り難さを知り、貧しい人々について考える為のものであり、なにも必ず断食を実践せよという意味ではない。我々にとっては1年の毎日がラマダンである」と解釈されるそうです。教義の命じるままに実践するのではなく、その意味を考えて社会に活かそうということなのかもしれません。

トルコでは、スンニー派であっても、政教分離支持者の中には、これに近い見方を示す人が多いように思います。「政教分離を成しえたトルコのイスラムが最も正しいイスラムである」と語ってくれた人もいました。




12月17日 (水)  日本のストリートファッションの店“エド”

【207】現代のチューリップの球根:日本【ラディカル紙】【2008.12.15】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00207.html

14日のラディカル紙日曜版に、エスマハン・アイコルという新進気鋭の女流作家が上記のような記事を書いていました。

表題の“チューリップの球根:日本”ですが、17世紀のオランダでオスマン帝国から輸入されたチューリップがヒステリックなブームとなり、その球根の価格が異常に高騰した“チューリップ狂時代”に準えて、現在、西欧でブームを呼んでいる日本のデザイン、小説、コスメティック、漫画、映画等々が、まさしく現代の“チューリップの球根”ではないのかと言うのです。

この記事で筆者は、ベルリンのH&Mに、コム・デ・ギャルソンの創業デザイナー川久保玲のコレクションが登場した日の熱狂ぶりを伝えた後、日本の文化に無関心なトルコの実状を以下のように綴っています。

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・・・私たちトルコ人は、未だに、草履や下駄、着物、鮨、あるいは自動車より先に進んでいない。例えば、ケンゾーは撤退してしまった。11月末に、ニシャンタシュでオープンした、文具からコスメティックまで様々な商品を揃えた“Muji(無印良品)”や、テペバシュにある日本のストリートファッションの店“エド”が、同じ運命を辿らないよう祈っている。

私が虜になってしまった日本の女流作家吉本ばななについては、一時期、出版関係者と会う度に勧めていたけれど、皆が申し合わせたかのように、日本の作家は流行らないと言うのだった。何に基づいて? まるで、数多の日本人作家が翻訳されたものの流行らなかったような言い方だ。西欧でも自国でも、とっくに偶像の如く崇められている若き作家吉本ばななは、結局、何の音沙汰もないままに翻訳された(“キッチン”“ TUGUMI”)。本当に何の音沙汰もなかった。

日本で最も良く知られているベストセラー作家であり、ノーベル賞の候補にもその名が挙がっている村上春樹の作品も二つ翻訳されただけである(“ノルウェイの森”“羊をめぐる冒険”)訳注−2。“羊をめぐる冒険”についてタラフ紙に掲載された書評で以下の一節を読んだ時は、思わずぶち切れそうになった。「これはクラシックな意味合いの着物の日本文学ではない」。
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私はこれを訳す際、“ストリートファッション”のところで引っ掛かってしまいました。原文は“ソカック(通り)ギイミ(服)”で、『“通りの服”って何のこっちゃ?』と思いながら、先ずは“庶民服”などという大間抜けな訳をつけたのです。それから、どうにも気になったので、昨日、この“エド”という店を訪れて見たところ、やっと“通りの服”に合点が行きました。これは“ストリートファッション”と呼ばれているものでしょう。直訳で良かったんですね。

店は、ベイオールの“ハッゾ・プロ・パッサージ(Hazzo pulo pasaji)”という、変わったアクセサリーや服飾品を売る店が立ち並び、奇妙奇天烈な格好をしたオネーチャンたちがうろうろしている小路からテペバシュの方の通りへ出た角にあります。この小路にはアルメニア人の知り合いが、やはり変わった服飾品の店を出しているので、何度か出掛けたことがあったけれど、“エド”の存在には気がついていませんでした。

開店したのは2ヶ月前だそうで、そういえば最後に知人の店に立ち寄ったのは、それより少し前だったかもしれません。その時は、店の前にあった粗大ゴミを通りまで出して欲しいと頼まれ、えんやーとっと担いで行って、どの辺に放置すれば良いのか迷っていたら、近くにいた人が、手招いて「ここに下ろせ」と合図してくれたので、そのまま放置して戻ったけれど、そこがちょうど“エド”の前であり、その時は未だ開店の準備をしている様子でした。

エドは、日本のストリートファッション、つまり原宿辺りで売っているらしい(私にはこの辺の事情がさっぱり解りません)服飾品を中心に品揃えしていて、コスプレ用品みたいなものもあり、店内はインテリアにも遊び心が感じられる奇抜な雰囲気になっています。

入口のショーウインドーからして、右側では、ショートパンツを穿いた女サンタのマネキンがポーズをとり、左側では、どういうわけか剣道着姿のマネキンが竹刀を突きつけているのです。レジの後ろの陳列棚には、一応、雛人形といった如何にも日本風な品々も並べられ、その中には、あの幻の名焼酎“森伊蔵”の一升瓶が・・・。「おおっ!」と思ったけれど、中身はもう入っていないと言われてがっかり。残念でした。

店主はレイラさんという未だ20代ではないかと思われる女性で、驚いたことに、こういった店を企画して見ようと思い立つまで、日本へ行ったことは一度もなく、ファッション雑誌などを見ながら日本のファッションに興味を持ったそうです。

しかし、良く考えてみると、これは一向に驚くようなことじゃないかもしれません。例えば、私なんぞはトルコに13年いても、トルコの何が日本で売れそうなのか全く解らないけれど、多分、その何かは、日本に居ながら専門の分野で何か売れそうな商品を探している方がトルコへ目を向けた時にこそ見つかるものなんでしょう。

レイラさんも、トルコの若者たちのファッション志向を見極めたうえ、自ら企画して商品の設定まで行なったというから、今後の展開が楽しみです。西欧に見られるブームを起こすまでには、まだまだ時間が掛かるとしても、前述の記事で筆者が心配していたような事態に至ることはないと思います。

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12月18日 (木)  中島みゆき“ルージュ”

94年頃、トルコで“8時15分発の船(8:15 Vapuru)”という歌が大ヒットしていました。歌っていたのは、当時人気の女性歌手ヨンジャ・エヴジミック(Yonca Evcimik)。テレビの歌謡番組などで聴く機会も多く、私も結構気に入って口ずさんだりしていたけれど、オリジナルのテープで聴くと、歌い出す前に「オカエリ、ヤマシタ、コンバンワ」という台詞をお経でも唱えるような気味の悪い調子で連呼するのです。『いったい何だろう?』と思っていたら、日本人の友人が「あれは中島みゆきの歌だよ。それで日本語を入れたかったんじゃないの?」と教えてくれました。

「好きなシンガーソングライターは?」と訊かれれば、「ユーミンと中島みゆき」などと答えているくせに、私はそれほど色々な歌を聴いているわけじゃないから、その歌についても全く知らなかったのです。でも、日本で知らず知らずに聴いていたメロディーが耳の底に残っていて、それでヨンジャ・エヴジミックの歌を聴いたら直ぐに反応したのかもしれません。それは中島みゆきのルージュという歌でした。

しかし、エヴジミックの歌は、「オカエリ、ヤマシタ、コンバンワ」なんて連呼していものの、クレジットには、詞・Ercan Saatci/曲・Adaptationと記されているばかりで、中島みゆきの名はおろか、日本の歌であることも明らかにされていないようです。

だからと言って、ここで「パクリじゃないのか?」と目くじらを立てるつもりはありません。残念に思ったのは、なんで日本の歌をカバーしたのが、この一曲で終ってしまったのかということです。“8時15分発の船(8:15 Vapuru)”はかなりヒットしていました。多分、中島みゆきの他の歌を持ち込んでも、大概ヒットするんじゃないかと思います。トルコと日本では、歌心みたいなものに結構似通ったところがあるのではないでしょうか? ということは、逆にトルコの歌が日本でヒットする可能性もかなり高いと見て良いかもしれません。


中島みゆき ルージュ
http://jp.youtube.com:80/watch?v=yMgt1zF8HU8

Yonca Evcimik - 8:15 Vapuru
http://jp.youtube.com/watch?v=0PYpWlevEU8&feature=related



12月19日 (金)  トルコの歌

昨日の“便り”で、「トルコの歌は日本でヒットするかもしれない」なんて書きましたが、最近、私は殆どトルコの歌を聴いていないので、実際のところ、「どんな歌が?」と言われても困ってしまうのです。また、一昨日水曜日の“便り”にも書いたように、音楽のことなど何一つ解っていない私が探してみたところで始まりません。やはり、日本の音楽市場を熟知している人たちにトルコの歌を聴いてもらわなければならないでしょう。

91年に初めてトルコへやって来て、イズミルの学生寮にいた頃は、寮の友人たちが聴いている歌に耳を傾けながら、気に入った歌のテープを自分でも買って来たりしました。以下の曲は、その当時から現在に至る日々の中で、最も好きになった歌の一つじゃないかと思います。

Yeni Turku-Maskeli Balo(仮面舞踏会)
http://www.youtube.com/watch?v=CkW1f0lNFkw

学生寮で最初に聴かせてもらった頃は、「トルコには何て素晴らしい歌があるんだ!」といささか感動したくらいなのに、後で話を聞いたら、曲はギリシャのマノス・ロイゾスという作曲家の作品であることが解ってがっくりしました。このマノス・ロイゾスによるギリシャ語の歌の数々は今でも良く聴いています。

同様に以下の歌も、当時とても気に入って「フンフン♪」口ずさんでいたりしたのに、これまたトニー・ハッチという英国人の曲なんだそうです。

Ajda Pekkan - kimler geldi kimler geçti
http://jp.youtube.com:80/watch?v=dKdZ5m220eg&feature=related

まあ、日本でも子供の頃に聴いて好きだった“ペドロ&カプリシャス”の“別れ朝”などはオーストリアの曲のカバーだったし、同様のものを数えたら限がないくらいでしょう。でも、今、「ジョニーへの伝言」なんかもそうだったんじゃないかと思って調べてみたら、これは都倉俊一の作曲でした。

しかし、2ヶ月ほど前、日本から来た方たちを交えたパーティーの席上で、トルコの人たちが「我が祖国(Memleketim)」というトルコ語の歌を合唱した時は、さすがに驚いてしまいました。

それは、以下の便りでも御紹介した“イディッシュの歌”だったからです。

2007年11月の“トルコ便り”―「イデッシュの歌、ギリシャの歌」(11月15日)
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=11

この歌、トルコでは準国歌的な扱いになっていて、パーティーの席などでも良く合唱されるそうだし、一時は某銀行のテレビコマーシャルにBGMとして使われていたと言うから、もちろん、私の耳にもしっかり馴染んでいたのでしょう。それを、2004年頃、高級ホテルのロビーで、ピアノの生演奏によって聴かされたものだから、何だか感じ入ってしまい、ピアノを演奏していた中年のトルコ人男性に曲名を尋ねたところ、彼は「・・ユダヤの人たちの曲らしい」と答えたのです。

それから、「某銀行のテレビコマーシャルのBGMでユダヤ人の曲」というキーワードで探して、そのイディッシュの歌“Der Rebbe Elimelech”を見つけ出したのですが、ホテルのロビーで演奏していた男性は、当然、トルコ語になった「我が祖国(Memleketim)」についても知っていたはずなのに、なんでまた「・・ユダヤの人たちの曲らしい」なんて曖昧に答えたのでしょう? 外国人に対して、ちょっと照れ臭かったのかもしれません。

Memleketim(我が祖国)
http://jp.youtube.com/watch?v=l7CM8BikWgM

Der Rebbe Elimelech
http://jp.youtube.com/watch?v=CQlZaA6blHU&feature=related

ネットで検索して見ると、トルコの国内でも「準国歌的な扱いの歌が“ユダヤの歌”では国辱ものだ」と騒いでいる人たちがいるようです。

しかし、日本でも“伝統ある国技”とされている大相撲の優勝杯授与の際、どういうわけかヘンデルの曲を流して平気でいるくらいだから、あまり騒ぐほどのことではないかもしれません。文部省唱歌にも外国の曲がたくさん入っていました。“蛍の光”や“きよしこの夜”を日本の歌だと思っている人もいるそうです。

こんなところもトルコと日本の歌事情は似ているのでしょうか?

話が妙な方へそれてしまったけれど、昨日、“YouTube”で、色々なトルコの歌を探していたら、次のような素晴らしい場面も見つかりました。

Haris Alexiou Candan Ercetin Teli Teli Teli
http://jp.youtube.com/watch?v=axadilyyYgc

トルコの歌番組のスタジオに招かれた“ギリシャの歌姫”と呼ばれるハリス・アレクシーウ(Haris Alexiou )が、トルコを代表する女性歌手であるジャンダン・エルチェティン(Candan Ercetin )と、両国語でデュエットしているのです。男性司会者が、アレクシーウに「今度は私をジャンダン抜きでギリシャに招待して下さい」と語りかけたら、「私とジャンダンがギリシャで度々会っていることを知らないようですね」と切り返されて、思わずずっこけるという微笑ましいシーンも見られます。ギリシャとトルコは“犬猿の仲”だなんて誰が言ったのでしょう?

歌っているのは、やはりマノス・ロイゾスの曲でトルコ語にもカバーされた“Teli Teli ”。私も大好きな歌です。

ジャンダン・エルチェティンは歌手としての活動の他に、名門ガラタ・サライ高校で音楽の先生を務めるという多才な女性で、以下の場面では「チャプクン(プレイボーイ)」というトルコ語になっている歌をギリシャ語で歌い始め、途中からトルコ語で歌っています。

candan ercetin- capkin (in greek) - live ı
http://jp.youtube.com/watch?v=D9sA6ULM9xI&feature=related

ジャンダン・エルチェティンの両親は、アルバニアからの移民であるという話だから、ひょっとすると、もともとギリシャ語が少し解っているのではないかと思ったけれど、これは少し考えすぎでしょうか? なにしろ多才な女性ですから、このぐらいギリシャ語で歌うのは造作もないことかもしれません。

以下のような歌もヒットさせています。こちらは曲もトルコのオリジナルです。

Candan Ercetin - Unut Sevme
http://jp.youtube.com:80/watch?v=6oXOCbaqDUY&feature=related


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