Diary 2008. 10
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10月4日 (土)  多様性は豊かさなのか?

ディヤルバクルの教会「平伏して祈る姿」
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#170

オスマン帝国の時代、シリア正教の総主教座はマルディン県に所在していましたが、現在はシリアのダマスカスにあります。スリヤーニと呼ばれるシリア正教徒の方から聞いた話では、共和国の初期(1932年)に当時の総主教が亡くなり、後継者はマルディンで総主教の座に就こうとしたものの、共和国政府がこの人物のトルコへの入国を認めなかった為、マルディンは総主教座を失ってしまったと言います。

10年ほど前、あるトルコ人の識者の方と話していてこの件に触れ、残念に思うと伝えたところ、彼は少し表情を曇らせ、「総主教座が所在することは文化的な豊かさだと言いたいのですね」と確認した後、「私はそう思いません」と否定しました。偏狭な民族主義やイスラム主義とは全く縁がない、視野の広い人だったから、こんな言葉が返って来ようとは予期していませんでした。

当時、彼は、何故そう思わなかったのか一々説明してくれなかったけれど、最近になって少しはその何故が解るような気もします。

トルコ共和国は、様々な民族や宗教を内包していたオスマン帝国から、近代的な国民国家を創り上げようと苦難の道を歩んできました。ところが、最近になって、今度はグローバル化の嵐の中で、国民国家の終焉を望むかのような論説まで堂々と主張され、その苦難の歩みに暗い影を投げかけています。

トルコという国を彩る多様な文化は、外から見れば美しい花畑のように見えるものの、その中で自己のアイデンティーを求めてさまよう人たちにとっては、煩わしい歓楽街のネオンサインのように見えているかもしれません。

日本について良く知っているトルコ人は、画一的な日本の社会を羨ましがり、その有難味が良く解っていない日本人を窘めようとします。分らず屋の私は、それでもトルコの多様性を賛美してやまなかったけれど、ここに至って漸く少し解り始めたというわけです。

文明の十字路に位置するアナトリアには、それこそ何千年もの間、様々な民族、宗教、文化が行き交い、その中で人々は何とか折り合いをつけながら暮らしてきました。折り合いの付け方に関して、島国の我々とは比べ物にならないほど熟練した達人であると言えます。その達人の忠告を有り難く聞いて置いて損はありません。

実のところ、日本も一時期、多民族の帝国を試みたけれど、その結果はどうだったでしょう。

何処で読んだのか忘れてしまいましたが、敗戦から間もない頃、ある右派の政治家(これも忘れました)が国民を元気付ける目的でこんなことを言ったそうです。「今までは朝鮮人とか訳の分からない連中と一緒にやって来ましたが、これからは我々日本人だけです。力を合わせて頑張りましょう」。

一緒にやって行こうと選択して、それを実現させたのは日本の方だから、これは「我々の選択は失敗でした」と自ら過ちを認めている発言にも聞こえます。

80年代以降、外国人労働者の受け入れに反対して、右翼的な勇ましい発言を繰り返す人たちも、裏を返せば、戦前の失敗に懲り懲りして、深く反省しているということじゃないでしょうか。

やはり、一つの社会で一緒に暮らして行くには、共通の価値観がある程度なければ難しいように思えます。多くの場合、宗教がその要になっていて、オスマン帝国では、宗教毎に別の社会が構成されていたから、様々に異なる宗教の人たちが交じり合って暮らしていたわけではなかったようです。↓

【101】アルメニア人の食卓【ラディカル紙】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00101.html

日本では、その宗教が曖昧になっている為、尚更、困難を伴うかもしれません。今のところ、トルコの人たちが羨む画一的な社会になっているのだから、ここは慎重に事を進めるべきであるように思います。


10月7日 (火)  多文化主義の可能性?

4日の“便り”に良く解らない話を書いたら、どうも頭の中のモヤモヤがすっきりしません。まあ、私はずっとこのモヤモヤーとした頭で生きてきたわけだけれど・・・。

昔から多文化主義みたいなものに漠然とした憧れがあって、「日本に万単位のトルコ人コミュニティーがあれば、わざわざトルコで暮らす必要もないよなあ」なんて思ったりしていますが、これは私一人の勝手な憧れで、実際はそれほど簡単な話じゃないでしょう。

在日コリアンの友人たちには申し訳ないけれど、現実的に考えれば、「在日が60万で良かった。600万もいたら話はもっとややこしくなっていただろう」とホッとしなければならないところかもしれません。それに、日本社会の強い同化力が成せる業なのか、もともと文化的に似ていた所為なのか、これほど物分りの良いマイノリティーも余りいないのではないかと思います。

極端な例ですが、イスタンブールにいるジプシーの皆さんを纏めて東京に送り込めば、東京はたちまちパニックに陥ってしまうのではないでしょうか。

http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2004&m=5

↑2004年5月19日の本欄に、イスタンブールの街頭で笛を吹いているジプシーの少年について記し、トルコ人の友人が「彼らと友人になれるかどうかは解らない。好意をもつことさえ難しいかもしれない。けれども、彼らは音楽を初めとする様々な文化を我々に与えてくれた。イスタンブールの趣に色を添える大切な要素の一つなんだと思う」と語ったことを紹介しました。“好意をもつことさえ難しい”人々と共生しながら、“趣に色を添える大切な要素の一つ”と思えるようになるのは容易なことじゃないかもしれません。

とはいえ、現在のトルコ共和国は、多文化主義的だったオスマン帝国から近代的国民国家という均一な“トルコ人”の国を創り上げようとしたわけで、“多様性の豊かさ”を主張し始めたトルコ人も、その殆どは、近代化という枠組みの中で多様性を認めているのであり、ジプシーは例外中の例外と言えるでしょう。


10月8日 (水)  トルコの新興ブルジョワ

先週、ラディカル紙にヌライ・メルトさんという女性ジャーナリストの興味深い記事が3回に亘って連載されていました。トルコの近代化の足取りを追いながら、現AKP政権と共に台頭してきた新興ブルジョワの性格について分析したものです。

第一回では、トルコの近代化・西欧化が決して共和国革命と共に始まったものではなく、先ずオスマン帝国の宮廷を始めとする支配層が西欧の文化を吸収し、それが次第に中流層まで広がって一つの政治的なイデオロギーを形成するに至った過程が明らかにされ、興味深いエピソードが幾つか紹介されています。

例えば、オスマン帝国の支配層出身であるミュネッヴェル・アヤシュル(1906-1999)という今も保守的な人々が敬愛してやまない女流作家は、アタテュルクについての思い出を次のように記していたそうです。

「アタテュルクの車が門の前に停まり、テニスコートに入って来たが、私たちに対して腹を立てることもなく、“我々もテニスをしよう”と言った。しかし、ラケットもなかったので、私たちのラケットを貸してあげると、早速に始めたが、アタテュルクとイスメット・イノニュは全くルールを無視してプレイしていた。アタテュルクはボールを高く打ち上げればそれで良いと思っていたようである」。

また、当時の新首都アンカラについても、無作法でつまらない都市であるとし、その住人たちは都市生活も知らなければ、家の中を整えてデコレーションすることも知らないと記していたことが明らかにされています。

この為、オスマン帝国の支配層は、共和国が西欧化を進めたことに決して反対はしておらず、共和国の指導層を中流と看做して見下していただけだと言うのです。

メルト氏によれば、こういった状況は20世紀以前から西洋化が始まった全てのイスラム圏に共通しており、特にエジプトで顕著になっているとして、以下のような例を上げています。

「・・1965年頃にカイロを訪れたニヤーズィ・ベルケス氏は、上流階級が行くオペラの様子を説明しながら、“シックに着飾った女性たちが多かった。しかし、私を案内してくれた女性の話では、王政時代のオペラの夜の光景に比べれば見劣りがするらしい”・・」。

メルト氏自身も、イスラム主義者の間で良く知られている詩人イクバールの孫をパキスタンに訪れた際、その余りにも西欧的な生活スタイルに驚かされたそうです。

第三回では、いよいよAKPと新興ブルジョワが登場してきますが、この新興ブルジョワとAKPは、過去の新興ブルジョワと異なり、西欧化に関する既存の共通理解を拒否して、近代化を技術と経済に限定した新しいオルタナティブのブルジョワを目指しながら、現在の文化的なヘゲモニーを打ち崩そうとしているとメルト氏は分析しています。

「・・・この文化的なヘゲモニーは過剰に世俗的であり、西欧的な生活スタイルによって境界線を引き、保守的・宗教的な価値やシンボルを身につけた度合いによって、彼らを境界線の外へ押し出している。これは確かにそうであるが、誤っているのは、如何に不服があろうと(例えば私も非常に不服である)、現存のブルジョワ文化が“外国かぶれ”“物真似”“自己否定”といった言葉で簡単に消去できるものではないという点だ。先ず、この文化は、如何に問題があって不充分なものであろうと、美学的な側面はさておき、トルコで民主主義の名において守られるべき重要な担保となっているのである。

アナトリアのブルジョワ、あるいはオルタナティブのブルジョワは、現在のところ、トルコにおける文化的な基準を明らかにするブルジョワ文化のエリアを満たす、もしくは、それと競えるだけの位置に達していない。もともと初めから、先ず保守層、そしてイスラム主義の層は、西欧的・世俗的な文化のヘゲモニーに対して、オスマン帝国の遺産を受け継ごうと努めてきた。しかし、オスマン帝国の文化と階級構造が現存していれば、それは、今の後継者たちに、せいぜい軽蔑の眼差しを向けようとするエリート的なものでしかない。この記事の冒頭で、西欧化の物語が末期のオスマン帝国支配層で始まったことを明らかにした理由がここにある。しかも、西欧化はともかくとして、共和国の文化が中流の文化であるのに対し、オスマン帝国の文化は余りにも洗練された貴族的なレベルのものだった。・・・」。

そして、この新興勢力は、今まで既存の文化的ヘゲモニーから見下されて来た為に蓄積した怨嗟で、公平な政治を行なうというより、その位置を奪い取ろうとしていると言うのです。

このメルト氏の記事、長い上に余り上手く訳しきれる自信もないので、全訳は御勘弁下さい。以下に原文のURLを貼り付けて置きます。 リンクページで御紹介している“日本語で読む中東メディア”で翻訳されるのではないかと他人任せな願望を懐いていましたが、今のところ、この記事は取り上げられていないようです。


http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=HaberDetay&ArticleID=901315&Date=07.10.2008

http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=HaberDetay&Date=07.10.2008&ArticleID=901510

http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=HaberDetay&ArticleID=901571&Date=04.10.2008&CategoryID=104

http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=YazarYazisi&ArticleID=901384&Yazar=%20&Date=07.10.2008&PAGE=


10月14日 (火)  ルッコラ

ルッコラ、トルコではロカと呼ばれています。辞書を見たら“ラテン語”となっていました。日本ではかなり高級な食材じゃないかと思いますが、こちらでは写真の一束で1YTL(80円ぐらい?)。ウイキペディエには、「・・・大規模な生産は1990年代になるまで進んでいなかった」と記されているけれど、91年に私が始めてトルコへやってきた頃は、大衆食堂で料理の付け合せとして、このルッコラがどっさり盛られてきたものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%A9

特に季節もないらしく通年出回っています。農村出身の友人に訊いたら、「あれは刈っても直ぐに生えて来るんだよ」と言ってました。

最近は毎日のように、そのまま何もつけずにムシャムシャ食べていますが、ちょっと辛味があって風味も良く、何か調味料を使う必要を感じません。茹でても美味しいです。

「ほれ薬の効果があると信じられ・・・」とも書かれていたけれど、この効果については全く確認できていません。どうやら、誰にでも効果があるわけじゃないようです。もっとも効果があったところで今更どうにもならないような気もしますが・・・。

一緒にビールの500ml缶が写っていますが、大きさを解り易くしようと思っただけで、これをツマミに一杯やろうというのではありません。

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10月21日 (火)  海辺のカフカ

2008年6月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2008&m=6

上記6月7日の“便り”に、オーガニック市場で出会ったトルコの方から“海辺のカフカ”を薦められた話を紹介したけれど、先日、やっとこの本を手に取って読み始めたら、推薦の言葉通り、上下二巻を一気に読み終えてしまいました。まあ、これに限らず、村上春樹の本はどれもこれも一気読みだったように思います。余り多くの本を読んでいないから、何とも言えませんが、こんなに面白い本を次から次へと世に出す作家は、そうざらにいないのではないでしょうか。

薦めてくれたトルコの方は英訳を読まれたそうで、今のところ、トルコ語に訳されている村上春樹の本は、「ノルウェイの森」と「ねじまき鳥クロニクル」以外にありません。各国でブームが起こっているようなのに、何だか寂しい気がします。

2004年だったか、ギリシャへ行くバスに同乗していた韓国人の若い女性二人から、いきなり「ハルキ、読んだことあります?」と訊かれた時は、ちょっと面食らってしまいました。韓国では、既に“ハルキ”で通っているんでしょうか。しかし、彼女たち、旅に出てから行く先々で日本人と会う度に同じ問いを繰り返して来たものの、「読んだことがある」と答えた日本人は、私が初めてだったそうです。

この2004年の11月には、ラディカル紙に「ノルウェイの森」の書評が出ていました。セファ・カプランという有名な詩人によるもので、カプラン氏は、60年代末の日本で、18〜20歳の大学生たちが引っ切り無しに洋楽を聴き、ウイスキーを飲んでいる姿に驚き、「・・・350ページの中で一曲も日本の歌には言及していない」なんて書いたりしています。私は“ノルウェイの森”に“日本の歌”が一曲も出て来ていないなんて全く気がついていなかったから、この観察に驚かされました。

「・・・保守的で伝統を重んじる国と言えば、真っ先に思い浮かぶ日本で、しかも1968〜9年に、人々は信じられないくらい気楽に性を営んでいる」とも記されていて、これには何だか苦笑いですが、この書評は最後にトルコの作家たちを厳しく批判して終っています。「・・・せっせと小説を書いている友人たちよ、行かんなあ。少し時間を見つけてこういう感動的な本を読んで見たらどうだろう。多分、その労力の無意味なことに気がついて一休みする機会を自分たちやこの世に与えるのではないか」。

こんな書評を読んだら、何か面白いトルコの小説を読んでみたいと常々願っている私は、思わず暗い気分になってしまいます。

さて、「海辺のカフカ」ですが、私にはどうも充分な想像力が備わっていない所為か、いまひとつ“カフカの世界”に浸りきることができません。やっぱり「ノルウェイの森」が一番しっくり来ました。「ダンス・ダンス・ダンス」のユミヨシさんは良かったけれど、もう少し現実的な話が私には合っているでしょうか。次は「国境の南、太陽の西」というのを読んでみたいと思います。

想像力の欠如と言えば、「海辺のカフカ」で大島さんは、「・・・想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。・・・」と語っているけれど、宗教はこういった危険性を常に孕んでいるのではないかと考えさせられました。

ラディカル紙の書評(原文)
http://www.radikal.com.tr/ek_haber.php?ek=ktp&haberno=3242


10月22日 (水)  ノルウェイの森

私には文学というものが恐らく解っていないから、読みやすい洒落た文章でグイグイ引っ張ってもらえれば、ホイホイ読んでしまうだけなのかもしれないけれど、「ノルウェイの森」には、かなり身近に感じられる世界が描かれているし、哀愁とユーモアが漂っていて、おセンチな私には堪りませんでした。直子の横顔を見ながら駒込の辺りまで歩いてしまう件とか、なかなか切なかったです。 それとユーモア、私は本を読んでいて、時々息抜きというか、笑える箇所を作って置いてもらえるとホッとして喜んでしまいます。

「ノルウェイの森」に日本の歌が一曲も出て来ていないことは気がつきませんでしたが、私は読み終わってから、作中に現れたショスタコーヴィチのチェロ協奏曲などをわざわざ買って来て聴いたりしました。結果は、全くピンと来なくてがっかり。同じく作中に現れるブラームスのピアノ協奏曲は時々聴く曲だったけれど、『うーん、なんであの曲なのかなあ?』と思ったりしています。

それが、「海辺のカフカ」では、ホシノ青年がベートーヴェンの“大公トリオ”を繰り返し聴く場面が出て来て大喜び。私はこの“大公”とか“ラズモフスキー”のようなメロディラインがはっきりして解り易い曲が好きなんです。

そもそも「ノルウェイの森」の場合、その表題となっている曲からして余りピンと来ません。『やっぱり“イエスタデイ”とか“ヘイ・ジュード”だろう? ちょっと捻ったところなら“マックスウェルの銀槌”はどうだ?』なんて残念がっています。まあ、かなりミーハー的な気分でしょうね。



10月24日 (金)  罪と罰

99年頃、イズミルでエーゲ大学の教員住宅にキルギス人の御家族を訪ねたことがあります。当時、エーゲ大学でトルコ系民族の伝承文学について研究していたウイグル人の友人(中国の新疆省出身でトルコに帰化)に案内されたのですが、このキルギス人家族の御主人もキルギスに伝わる叙事詩マナスを専門にしているようでした。

マナス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%82%B9

エーゲ大学には客員教授のような形で来ていたのか、その辺が良く思い出せないけれど、未だ35歳ぐらいの若い方で、きれいなトルコ語を話していました。

キルギスのソビエト時代から独立後に起こった変化について尋ねたら、「特に変わったことはありません。ソビエト時代にもキルギス語で教育を受けることは可能でしたから」と言われて、ちょっと当てが外れたように思ったものの、まあ、政治的な変化には余り関心がなかったということかもしれません。

そして、ロシア語については、「子供たちにもロシア語を学ばせています。やはりロシア文学が読めたら良いでしょう」と言うのです。これには、ロシアという国の不思議さを改めて感じてしまいました。スターリンも出て来れば、ドストエフスキーやトルストイも生まれた国・・・。

確かに、「罪と罰」や「戦争と平和」を原文で読めたら素晴らしいと思います。

いつだったか、NHKの教養番組で有名な作家の方が、「罪と罰」の最も印象深いところとして、以下の部分を朗読していたけれど、これは、私も「罪と罰」と言えば真っ先に思い浮かべる場面だったから、ミーハーな気分で何だか嬉しくなってしまいました。娼婦のソーニャが殺人を犯してしまった大学生のラスコーリニコフに語りかける場面です。

「『どうしたらいいですかって!』と彼女は叫んで、やにわに席からとびあがった。と、今まで涙でいっぱいになっていた彼女の眼が、急にきらきらと輝きはじめた。『お立ちなさい!(彼女は彼の肩をつかんだ。彼は、殆ど呆気にとられて、彼女を見ながら身を起こした。)すぐ、今すぐ行って、四つ辻に立って、身を屈めて、まずあなたが汚した大地に接吻なさい、それから全世界に向かっておじぎをして、四方へ向かって、みんなに聞こえるように―“わたしは人を殺しました!”―こうおっしゃい! そうすれば、神さまがまたあなたに生命を授けて下さいます。行きますか? 行きますか?』」(岩波文庫より)。

これをロシア語で朗読出来たら格好良いでしょうねえ。

私は、手に取った本のカバーに「・・・魂の苦悩と発展を描いた、ドストエーフスキイの偉大な文学的達成」とか書かれていると、『そんなものは解らないよ』と思わず腰が引けてしまうのですが、この「罪と罰」だけは、“魂の苦悩と発展”がどの程度解ったかいささか心もとないものの、ぞくぞくするような展開に引き込まれて一気に読んでしまいました。

また、やたらと人が殺されたりする陰惨な話は余り好きじゃないけれど、「罪と罰」は最後に大きな救いがあって良かったと思います。「ノルウェイの森」もあれだけの人が自殺して、やたらとセックスする場面が現れるのに、話が陰惨になったり助平ったらしくなったりしないところが凄いと私は感じたのですが・・・。

私は「罪と罰」を読んで、『これはラスコーリニコフがソーニャを段々好きになって行く物語ではないのか?』と考えたりしました。

上記のくだりで、かつては馬鹿にしていたはずの娼婦ソーニャから「お立ちなさい!」と命じられて、ひょいと立ってしまうように、ラスコーリニコフは自分が罪人に成り果て、見下すことなくソーニャの話を聞くようになってから、漸くソーニャの美しさに気がつき、彼女を愛し始めるという話ではないかと考えたのです。ラスコーリニコフは罪人にならなければ、ソーニャの美しさに気がつかなかった・・・。

でも、これはもともと聖書の“放蕩息子の譬え”などを下敷きにして、“人間の原罪”や“悔い改める心”を描いた作品であるとも解説されているので、当たらずとも遠からずじゃないかと勝手に納得しています。

しかし、ある敬虔なイスラム知識人は、クラシックのミサ曲等を“キリスト教の音楽”だから自分たちの耳には何も訴えかけて来ないと拒絶していました。こういう方たちにとっては、聖書をもとにした小説なども読むには値しないかもしれません。

イスラムの教えによれば、人間は原罪を持って生まれて来る存在ではないようだから、敬虔なムスリムは「罪と罰」を読んでも感動しないのでしょうか? それでは余りにも寂しいような・・・。まあ、トルコに敬虔なムスリムはそれほど多くないと思いますが。


10月26日 (日)  ケンタッキー〜スターバックス

イスタンブールはベシクタシュのバルバロス大通りに、“ケンタッキー・フライドチキン”“ピザハット”“バーガーキング”“スターバックス”が並んで店を構えている所があります。どの店も奥行きがあって広く、ケンタッキーとピザハットなど、あれほど大きな店舗は日本じゃ見たことがありません。いずれも沢山の人で賑わっていて結構繁盛している様子です。

日本の場合、こういったファーストフード店は、値段の手頃さも魅力になっているんじゃないかと思うけれど、トルコじゃ決して安い飲食店の部類には入らないでしょう。スターバックスなど、店の内装も遥かにリッチな雰囲気になっていて、客層も中高年が多いように見受けられます。

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10月27日 (月)  鉄オタ

トルコの各都市間の移動はバスが主流(最近は航空機も)で、鉄道は余り発達していません。私のように少々鉄オタの傾向がある者には寂しい限りです。特に私の場合、鉄オタと言っても、レトロ趣味はそれほどないので、トルコの老朽化した鉄道は悲惨なものにしか見えません。やはり、鉄道というのはシステマチックな大量輸送が魅力じゃないでしょうか。大概の鉄オタが“時刻表”に凝ったりするくらいで、鉄道は時間通りにビシッと来てもらわなければ困ります。

小学生の頃、上野駅を出た東北線が山手線等と別れて尾久駅へ向かう分岐点の辺りまで足を運び、何時間もの間、目の前を通り過ぎて行く特急列車を眺めたりしたものです。あの分岐点の辺りは、疾走する特急列車を間近に見れる“知る人ぞ知る”ポイントでだったかもしれません。当時は未だ、秋田行きの特急“いなほ”がディーゼル動車を使っていて、これが通ったりすると大喜びでした。ディーゼル動車なんて言うと、今じゃレトロな雰囲気があるかもしれないけれど、あの頃、特急“いなほ”のちょっと丸みを帯びた先頭車両はなかなか格好良く見えました。

85年に、東北・上越新幹線の上野駅が開業した頃には、ああいった特急列車も順次姿を消してしまい、それ以降は私鉄の特急電車が興味の対象になっています。笑わないでもらいたいけれど、もう一度、小田急ロマンスカーの先頭席に乗って箱根湯元まで行きたいと、今でも願ってやみません。

96年〜98年にかけて大阪で暮らしていた時分も、名古屋の友人を訪ねるのに、わざわざ近鉄の特急で行ってみたり、阪急や京阪の通勤特急を乗り比べたりして喜んでいました。しかし、通勤特急に関してなら、関東の京浜急行の快特に優るものはないでしょう。品川〜横浜間はJRと熾烈なスピード争いを繰り広げていたから、その飛ばし方は半端じゃありませんでした。また、夕刻のラッシュアワーに品川駅に行ったりすると、駅員のキビキビした誘導のもと、大混雑の中を一刻の遅れも無く快特が発着して行く光景に感嘆したものです。乗客たちは所定の位置にきちんと並んで待ち、整然と乗車して、分刻みのダイヤに乱れが生じることはありません。まあ、あれは日本のお家芸と言えるものでしょうね。トルコでは絶望的に不可能なことじゃないかと思います。

もちろん、特急電車が好きなくらいだから新幹線も嫌いじゃありません。95年の正月だったか、ソウルを訪れ、帰りは釜山から博多に出て、わざわざ“のぞみ”に乗って東京へ戻ろうとしたことがあります(ソウルから成田まで飛んだほうがよっぽど安かったはずです)。その頃、“のぞみ”には自由席がなかったから、前日に博多駅で指定席のチケットを購入し、博多駅前のカプセルに泊まり、当日は時間的な余裕があったのを良いことに、『せっかく博多へ来たのだから“鶏卵素麺”発祥の店を見て行かなければ』と、その松屋菓子舗という店まで散歩がてら、のこのこ出かけて見ました。鶏卵素麺というのはポルトガル伝来の甘いお菓子、甘味オタクの傾向もある私にとっては堪らない存在です。

結果的には、これが間違いの元でした。土産の鶏卵素麺を買い込んでから「はっ!」と気がつくと、既に“のぞみ”の出発時間が間近に迫っていました。「急げば間に合う」とタクシーを飛ばして駅に乗りつけたところ、未だ微妙に“望み”は残っていたから、重い荷物を抱えて駅の構内をダッシュすると、キオスクのおばさんまで、「お兄ちゃん、頑張れー!」と声援を送ってくれます。その声援に応えて、最後のエスカレーターを駆け上がれば、途中、ホームに“のぞみ”の姿が見えたので、それこそ残った力を振り絞るようにスパートをかけたけれど、ホームに上がった瞬間、無情にも“のぞみ”のドアは閉まり、最後の“望み”は敢え無く断たれてしまったのです。何より、キオスクのおばさんの声援に応えられなかったのが情けなくてなりません。次の“ひかり”まで少し時間があったから、とぼとぼエスカレーターだか階段を下り、キオスクのおばさんにも結果報告したら、本当に残念がってくれました。博多には人情があります。


写真は、イスタンブールのアジア側、ハイダルパシャの駅です。駅舎はなかなか渋くて格好良いけれど・・・。

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10月28日 (火)  ホットケーキ

私はかなりの酒好きですが、甘いものにも目がありません。羊羹や饅頭からシュークリームにアップルパイ、トルコのバクラヴァに至るまで何でも食べます。

トルコでは嬉しいことに、甘くて美味しいお菓子の種類が豊富である上、野郎でも気軽にケーキ屋さんのようなところへ出入りすることができます。何処でも立派な髭を蓄えたおじさんたちが美味しそうに甘いものをパクついているのです。これが日本の場合、ケーキ屋さんやお汁粉屋さんといった甘味処は全て女性に占拠されており、野郎が簡単に足を踏み入れられるような雰囲気ではありません。流行の洒落た洋菓子店に行こうものなら、店内は若い女性ばかりで、私は何度かそんな店の前から恐れおののいて撤退しました。

また、私はただ甘いものが好きなだけでなく、子供の頃から、自分でホットケーキを焼いたりしたこともあります。最近、ネットのニュースに「ホットケーキを作る子供は頭が良くなる」なんていう話が出ていたけれど、どうでしょうか? この私の体たらくを見る限り、余り信じないほうが良いかもしれません。台所を粉だらけにされ、後で掃除するのが大変なだけじゃないかと思います。

ひと月ほど前、久しぶりにホットケーキ作りに挑戦してみましたが、卵を泡立てる道具もなければ、小麦粉のダマをとる篩いもなく、あまり上手く出来ませんでした。それに、使用した小麦粉も、薄力粉なんだか強力粉なんだか良く解らなかったけれど、一般にトルコの店々で売られているのは、いったいどちらなのでしょう?

そもそもトルコでは、ホットケーキを余り見かけることがありません。もう1年ほど前、ネットのコミュニティで、トルコの喫茶店等にホットケーキはあるかという話題になった時、「もちろんあります」と大見得を切ってしまい、以来、ちょっと洒落たカフェの前を通る度に、店頭のメニューを見たりしているものの、未だに発見できず、大いに焦っています。

大見得を切ってから、先ずは『あそこにはホットケーキがある』と確信していたカフェへ行き、実際に注文して食べてみようとしたところ、メニューにあるのは各種の“ワッフル”だけ。『ゲゲッ、こんなはずでは・・・』と店の女主人に、ホットケーキがどんなものであるか説明しながら、何処かにやっている店はないものか尋ねてみたけれど、「ええ、仰っていることは解りますよ。でも、うちに限らず余りやっている店はないでしょうねえ」とにこやかな笑顔で答えられてしまいました。

ワッフルなら、もう随分前から流行っていて、そこらじゅうの店でやっているのに、ホットケーキはないなんて・・・。あれは、タネをワッフルの型に流し込まず、鉄板の上で丸く焼けばホットケーキになるはずなんですが・・・。

それから、ネットで検索してみると、「パンケーキのレシピを紹介します」なんていうトルコ語の個人サイトは結構ヒットするものの、カフェなどは出て来ません。個人サイトには美味しそうに焼きあがったホットケーキの写真を載せているところもあって、『そ、それ美味しそうじゃありませんか。タクシム辺りでカフェでもやってみては?』と思わず勧めてみたくなりました。

最近、イスタンブールのマクドナルドでは、ホットケーキのメニューを始めたようだけれど、大見得を切ったからには、もっと普通のカフェでホットケーキを発見しなければ済まないように思います。何処かでやってないでしょうかねえ、ホットケーキ・・・。


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