Diary 2008. 1
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1月1日 (火)  祝2008年

明けましておめでとうございます。

昨日も今日もイスタンブールは良いお天気で、正月晴れといったところですが、私たちが暮らしているエサットパシャの街は田舎から出て来た保守的な人々が多く、別に新年を祝うという雰囲気でもありません。トルコは10日ほど前にも犠牲祭を祝っているので、保守的な人々にとっての正月は、イスラム暦によるこの犠牲祭であり、グレゴリオ暦の新年には何の意味もないということなんでしょうか?

昨年は新年と犠牲祭が重なってしまい、12月31日の犠牲祭初日に祈りを捧げて生贄を切った人が、イスラムの導師さんに「今晩は新年を祝ってラク酒で乾杯したいんですが・・・」と問い掛けて顰蹙を買ったなんて話も聞いたけれど、タクシム広場では新年を祝して、飲めや歌えやのお祭り騒ぎが繰り広げられていました。

それが今年は、“テロの犠牲が多かった”という理由で自粛ムードとなり、余り盛り上がらなかったようです。テロに屈せず今年を乗り切り、来年は盛大に新年を祝ってもらいたいものだと思います。グレゴリオ暦への改暦は共和国革命の重要な成果の一つであるはずだからです。

私は昨年と同様に、タクシム広場に近い旧居を訪ねて、ギリシャ正教徒である大家さんの家族とささやかな新年パーティーを楽しんできました。

2007年1月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=1

昨年の4月に当主だったマリアさんが亡くなり、今年は大分趣きが変わったけれど、アルメニア人の若い友人たちも駆けつけて、それなりに新年を祝うことができたと思います。

私は、年が明けた1時半に暇を告げ、アジア側のエサットパシャの我が家に帰ろうとしてタクシム広場へ出たところ、自粛ムードとやらで昨年に比べれば大分少なかったものの、それでも広場付近は多くの若者たちでごった返していました。

新年は朝までバスが運行されるそうだから、『まあ大丈夫だろう』と思いながら、コズヤタウ行きバスの乗り場に行くと、数人の若者がバスを待ちながら、「バスは本当に来るんだろうか?」と不安そうな顔をしています。

他の路線のバスはどんどん発着しているし、そんなバスへ乗り込んだ若者が運転手と少し話してからバスを降り、外で待っていた仲間に向かって「朝まであるってよ。もっと遊んでいこう!」なんて声をかけていたくらいだから、じきにコズヤタウ行きのバスも来るんじゃないかと思って待っていたけれど、その内、発着しているバスの全てが市営ではない民営バスであることに気がつきました。

コズヤタウには市営の路線しかありません。嫌な予感がして、アジア側のカドゥキョイへ行くバスの運転手に訊いたところ、これが予想通りで、コズヤタウ行きは終了したそうです。しかし、カドゥキョイまで行けば、後はなんとかなるだろうと思って、そのバスへ乗り込むことにしました。

乗り込んでみると座席には未だ余裕があり、私は中ほどの窓際へ腰掛けました。それから段々混んで来て、チャラチャラした感じの青年ばかり4〜5人のグループが、「後ろの方なら座れるぞ!」などと騒々しくしていたかと思ったら、その内の一人が私の隣に座り、大きく息をついたけれど、この青年は明らかに酔っていて剣呑な雰囲気。ところが、出発間際になって、60歳ぐらいのモダンな老婦人が二人、私たちの近くまでやって来たら、その青年は「まいったなあ」というような顔しながら立ち上がって、老婦人に席を譲ろうとするのです。こうなっては、私も立ち上がらざるを得ません。

このモダンな老婦人たちは、いずれも派手な衣装にドギツイ化粧で、『貴方たちはこんな時間までタクシムで何をなさっていたのですか?』とお尋ねしたいくらいだったものの、つべこべ言わずに私も席を譲りました。しかし、なんとも嬉しいことに、例のグループの内で、後ろの方の席に座っていた青年がわざわざ私の手を引っ張って席を譲ってくれたのです。彼も眉のところまでピアスを付けてチャラチャラした感じだったけれど、『やっぱりトルコの若者だなあ』と見直したくなりました。

さて、カドゥキョイに到着してからの顛末です。ここからはエサットパシャの我が家の前まで行く“乗り合いミニバス”があり、普段は1時頃までだけれど、『今日は遅くまでやっているかもしれない』と期待しながら、ミニバス乗り場の様子を見たら、一帯は既にガラガラでもう3台ほどのミニバスしか残っていません。「あちゃー!」と舌打ちして、その内の1台に近づいたところ、これがなんとエサットパシャ行き。「新年早々ついているぞ」と喜びながら乗り込むと、ミニバスの車内には先客が5人ぐらい、席は12席ほどあるから、もう少し乗客が来ないことには出発しそうにもありません。

しかし、10分ほど待っても乗客は二人来ただけで、私の後ろに座っていた男などは、「運転手さん、もう出発したらどうだろう? 新年祝いの連中は既に殆どが引き上げてしまったようだから、これから待ったところで余り来ないと思うよ」と提案します。運転手さんは知らん顔していたものの、5分ほどしてもう一人来たら、やっとエンジンを掛けたので、愈々出発かと思ったのに、さらに5分ほど待機していると、今度はまとめて4〜5人やって来て満席となり、座れない人も出てきました。

それでも未だ出発するつもりはないらしく、運転手さんは悠然と構えています。さきほど提案した男はついに怒り出し、「もう立っている人もいるんだ。いつになったら出発するつもりか。こんなに待たせるんだったら、俺はケマル行きに乗っても良かった。好い加減にしろ!」。これに対して運転手さんは至って冷静、「あまり騒がないで下さい。もう少ししたら出発しますからね。嫌なら料金はお返しするから下りても良いですよ」。男はそれからも「もう待ったところで誰も来やしないさ」などとブツブツ言ってたけれど、運転手さんは殆どそれを無視していました。

結局、私が来てから30分ほど待った末に出発。その頃には、立っている乗客がざっと15人ほどもいて、すし詰め満杯の状態になっていました。男が最初に提案してから20分ぐらいの間に20人ぐらい来たわけで、一人当たりの料金は約125円〜約150円ほどだから、まあ少なくとも2500円ぐらいは差がついたでしょう。これは完全に運転手さんの読み勝ちでした。日銭を稼いでいる運転手さんにとってこの差は大きかったはずです。

提案したり騒いだりした男が、以前にも、新年祝いの末にこうやってカドゥキョイから帰ろうしたことがあったのかどうか解らないけれど、多分、運転手さんの方は、昨年も、一昨年も、こうしてカドゥキョイで客待ちしたことだろうから、新年祝い客の流れはすっかり把握していたに違いありません。

私が家に辿りついたのは3時半でした。まあ、タクシムから2時間で戻って来れたのだから上等と言うべきでしょう。新年の幸先良いスタートだと思うことにします。


1月3日 (木)  鰯パン

今日、近所のパン屋さんで鰯パンなるものを発見しました。このパン屋さんは黒海地方の出身に違いありません。余りにもはっきりしている為、わざわざ「御出身は何処ですか?」なんて野暮なことは訊かなかったほどです。

トルコでは一般的に魚より肉の方が好まれるけれど、エーゲ海や黒海などの海に面した地域ならばその限りではありません。特に黒海地方の人たちは鰯(カタクチイワシの小さなもの)が大好物であるということになっていて、その鰯好きを揶揄した小話もあります。その中から一つを御紹介しましょう。

黒海沿岸のある町でテメルが友達のドゥルスンに訊いた。
「お前、断食している時に鰯を何尾食べるんだ?」
「うん、100尾は食べるなあ」
「馬鹿かお前は? 鰯を一尾食べたら、その時に断食は終っちまうんだ。後の99尾まで数えちゃ駄目だよ」
ドゥルスンは、この話が甚く気に入ったので、同じように友達のイドゥリスに訊いてみた。
「お前、断食している時に鰯を何尾食べるんだ?」
「うん、50尾は食べるよ」
「馬鹿だなあ、お前は。100尾と答えたら、面白い話を聞かせてやったのに!」

他に、黒海地方の人たちは、どんな料理にでも鰯を入れるという話が伝わっていて、鰯入りのピラフを始めとして鰯のパイに鰯のピザ、さらには鰯を使ったお菓子まであるということですが、ここまで来ると少々眉唾ものじゃないかと思います。しかし、鰯のピラフに鰯のパイ、鰯のピザは、実際に私も食べたことがありました。

そして、遂に登場、鰯パン! 早速に味わってみたところ、どうやらトウモロコシ粉の生地に、鰯と玉ねぎやニンジンを細かく刻んで炒めたものを混ぜ込んで焼き上げているようです。お味はまあまあ、でも黒海地方の鰯好きを揶揄しているような魚嫌いのトルコ人に食べさせたら、ほんのりとした鰯の香りに卒倒することでしょうね。

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1月7日 (月)  市バスの痴漢

昨年の11月、タクシムへ向かう市バスに乗っていた時のことです。朝の通勤時間とあって車内は多少混んでいたけれど、立っている乗客たちの間を縫って車内を移動できるくらいで、すし詰め満杯というほどではありません。私は中央降車口の前に立ってボンヤリと外の街並みを眺めていました。

そこへ突然、後ろの方から、女性の金切り声が聴こえてきたのです。
「あんた何触ってんのよ! 私に触るとそれがあんたの利益になるわけ? 恥知らず!」。
何事かと思って振り返ると、2mほど離れたところで、20代後半と思しきOL風の女性が恐い顔して未だ大きな声をあげており、女性と同年輩ぐらいの男が険しい表情で俯きながら素早く降車口の方へ歩み寄りました。どうやらその男が痴漢行為を働いたようですが、ごく普通な身なりをした中肉中背の男で、私の直ぐ横に立つと俯いたままじっとしています。女性は尚も男の背中に向かって罵倒の言葉を浴びせていたけれど、男はじっとしているし、他の乗客もあっけに取られて見守るばかりで反応を示しません。

それから、1分もしなかったのではないかと思いますが、バスが停留所に止まると、男は俯いたままさっと降りて行きました。

その後のことです。バスが再び走り始めてから、私の直ぐ後ろに立っていた中年の男は女性の方へ向き直り、
「御婦人、あなたは立派なことをなさいましたよ。ああいう男を許してはいけません。このバスには、明日、私の妻や妹が乗るかもしれないわけですからね。いやあ全く、あなたの行いに感謝しますよ」と言い、その向かいに立っていた男も、
「その通りですね。あの男は警察に突き出してやった方が良かったかもしれない」と意見を述べ、これに対して、また別の男は、
「警察に突き出す? いやあそんな必要はありません。殺してやれば良かったんですよ、あんな男は!」と憤慨した様子で話し、車内は俄かに活気を帯びてきました。しかし、警察に突き出すとか殺すとか、色々な意見が出ているものの、当の痴漢はとっくにバスを降りて消え失せているから、もうどうすることもできません。話題は直ぐに尽きて、皆もとの方向に向き直って黙ってしまい、バスはそのまま何事もなかったかのように走り続けたのです。

先日、この顛末をトルコ人の友人に話したところ、彼は「トルコも変わったなあ」と驚いていました。彼によれば、一昔前だったら、そんな男は必ずその場でリンチされてしまったそうです。しかし、あの場面で、男をリンチしたり警察に突き出したりしていれば、皆、間違いなく会社の出勤時間に遅れてしまったことでしょう。まあ、今のトルコには、会社の出勤時間を無視してまで、痴漢退治に奔走するような物好きは余り残っていないのかもしれません。


1月17日 (木)  私のカメラはいったい何処の製品?

今日は、滞在許可を一年延長する為にイスタンブールの警察署へ行って来ました。

10時頃に着いて、入口でナップザックを探知機に通したところ、担当官の女性が「カメラが入ってますね。カメラは持ち込めないのでここで預かります」と言うので、『また余計なものを持って来てしまったな』と思いながら、デジカメを取り出して手渡すと、彼女は名前を訊いてノートに記入しただけで、「では、帰りに名前を言ってカメラを受け取って下さい」と言います。『えっ? 引換証とか番号が無くても大丈夫なの?』とこれには不安を感じたけれど、警察のやることだから間違いもないだろうと納得してそのまま引き下がりました。

この日、滞在許可の部署は思いのほか混雑していて、結局手続きが済んだのは3時半、カメラのことなどとっくに忘れたまま警察署を出てしまい、地下鉄でアクサライに着いてから思い出し、慌てて引き返すと、今度は入口に男の担当官が座っていて、「カメラですか? 名前は? ああここに書いてありますね」と言ってから、ニヤニヤ笑い「さて、貴方のカメラはどれでしょう?」と机の上に並べられた五つぐらいのカメラを手で示し、「まず、メーカー名から言ってもらいますか」と詰問調。でも、その愛嬌のある態度から冗談だろうとは思ったけれど、間抜けなことに、私は自分のデジカメが何処の製品なのか全く忘れていたため、少々うろたえながら「C社製だったかな?」と答えたものの、直ぐにそれは以前使っていたものであることに気がついて、ますますうろたえながら「いやいやC社製じゃなかった。とにかくそこにある袋に入っていない奴だよ」と言い繕ったところ、担当官は愉快そうに笑って「自分のカメラが何なのかも解っていないのでは困りますねえ」と言っただけで、あっさりカメラを渡してくれたのです。

しかし、ノートには実際名前しか書かれていなかったみたいだし、私の主張を信じてもらえたのは有難かったけれど、『警察官がこんな簡単に人を信用しても良いのかなあ?』なんてことも考えてしまいました。

ところでこの警察署には、明日また出掛けなくてはいけません。手続きは済んだものの、出納窓口は3時で閉まってしまうため、入金することができませんでした。やれやれです。


1月18日 (金)  滞在許可の申請

昨日に続いて今日もまたイスタンブールの警察署に行って来ました。昨日は昼食を挟んで長いこと署内にいたけれど、今日は30分もいなかったかもしれません。着くと直ぐに出納窓口で入金を済ませ、申請書を提出して手続きは完了してしまいました。

その後で少し先の窓口を見たら、昨日、出納窓口が閉まったことをボヤいていた私に、「直ぐ近くの税務署でも入金は可能なはずですよ」(その税務署は移転していましたが)と親切に教えてくれた青年がいたので、声を掛けたところ、彼もにこやかに手を差し伸べてきます。この青年は2m近くありそうなくらい背が高く、スマートではあるもののがっしりした体格で、容貌を見ればロシア人のような雰囲気。なかなかの二枚目でクレムリン宮殿の前に立っている衛兵にいそうな感じです。

そもそも滞在許可の申請に来ているのは皆外国人であるという先入観もあって、昨日、私は彼のことをロシア人かウクライナ人とほぼ決め付けていました。ここへ来るとロシア人やウクライナ人には必ず会うし、彼らの中には驚くほど流暢なトルコ語を話す人も珍しくないからです。

それで今日、その青年に「貴方は何処の人ですか?」と尋ねてみたところ、意外にもトルコ人であると言い、これに私が驚いていると、隣のこれまたスラリと背が高い美人を示しながら、「妻がウクライナ人なんで・・・」と明かしてから、「御存知でしょう? トルコ人には色々なタイプがいますからね。僕みたいなのもいるんですよ」と朗らかに笑っていました。

申請に来る外国人にも色々な人がいます。昨日、隣の窓口で女性の担当官ともめていた東洋人顔の男は、おそらく中央アジアのトルコ系、カザフ人かトュルクメニスタン人だったでしょう。30歳ぐらいのこの男、やたらと威張った態度で一方的に主張し続けるので、若い女性担当官もたじたじとなっていました。

男の主張の中には奇妙に思えるものもあって、例えば、手続きの煩雑さや事務処理の遅さを非難するかのように話してから、「・・・私の妻は、もう5ヵ月もオーバーステイになっているんですよ。未だ生まれてから9ヵ月の小さな赤ちゃんがいますからね。出国したくても出来ない状態です」などと説明しています。彼らがどのくらいの期間滞在できるビザでトルコへ入国したのか解りませんが、仮に3ヵ月とすれば、彼の奥さんは生まれて1ヵ月の乳児を伴って入国したということになってしまいます。いずれにせよ、赤ちゃんは突然生まれて来るものではないから、それを見越して滞在期間の延長を図っておけば良かったはずです。

私が手続きしていた窓口でも、私の後ろに並んでいたブルガリア国籍という女性が、流暢なトルコ語で「私は朝から待っているのよ。ここの担当官はさっきから席を外してばかりで、全然進まないじゃないの。本当に何をやっているの!」と大きな声を出します。

私は常々トルコで一部の警察官が見せる高圧的な態度を疎ましく思って来ましたが、こういう人たちを相手にしていると高圧的になってしまうものでしょうか? トルコの人々の間でもお互いに余り遠慮しない場合が少なくないから、警察官も自然と居丈高になってしまうのかもしれません。


1月19日 (土)  新年のチーキョフテ

9月13日 (木) クナ・ゲジェスィ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2007&m=9

一昨日、警察署へ行った帰り、94年に半年ほど下宿してお世話になった家族のところへ寄って来ました。この家族については上記の“便り”を始め、このホームページで度々取り上げたことがあります。

家族の構成は、娘のベルクスさんが嫁いでしまった為、お母さんのジャビデさんと末っ子のユミットの二人だけとなってしまいましたが、ベルクスさんと新郎の職場はすぐ近くなので、仕事帰りに二人で良く訪れるらしく、相変わらず賑やかに暮らしているようです。

ジャビデさんは、2008年の幕開けを新郎新婦の家で祝ってきたと言います。
「我が家の伝統でね、新年にチーキョフテを作って食べることになっているんだよ」。

ジャビデさんの家族は、料理が美味しいことで有名な南東部のガジアンテップ出身。チーキョフテというのは、トルコ風のタルタルステーキで、生の挽肉に唐辛子などを入れ、手で良く捏ね上げて作ります。ジャビデさん一家の伝統では、新年が明ける前に、挽肉などチーキョフテの材料を全て用意して置き、新年が明けると同時に祝杯を挙げ、それを合図に材料を捏ね始めてチーキョフテを仕上げるのだそうです。

これがジャビデさんの一家だけに見られる伝統なのか、ガジアンテップに広く見られるものなのか、その辺のところは良く解りませんが、保守的な人たちが多いガジアンテップでは、イスラム暦の行事を祝うことはあっても、グレゴリオ暦の新年を盛大に祝うことは余りないような気もします。ジャビデさんの家族は亡くなったお祖父さんが軍人だったこともあって、共和国革命の成果を非常に重んじているのでしょう。逆にイスラムの伝統にはそれほど重きを置いていなかったらしく、ジャビデさんは昨年12月の犠牲祭に、新郎の実家で、生まれて始めて生贄を切る行事に参加したそうです。しかし、以前から断食は実践していたし、決して信仰心がないわけではありません。

ところで、ジャビデさんが語ったところによれば、今年の幕開けには少し寂しいものもあったようです。
「新郎は情けない男でねえ、新年の祝杯にビール一杯飲んだだけでフラフラしているんだよ。ベルクスはもともと飲まないだろ。ユミットは来なかったかし、私も余り飲む気がしなくなってしまったよ。それから、チーキョフテを捏ね始めたんだけど、新郎はソファーでひっくり返っている始末で、まあ少したったら起き上がって来て、出来上がったチーキョフテを食べていたけどさ。まったく娘もあんな婿殿をどうやって見つけたもんだかねえ。うちのユミットは未だ18歳だけどかなり飲めるよ」。

下戸というのはモンゴロイドに良く現れる特徴だそうで、コーカソイドには殆ど下戸がいないという話を聞いたことがあります。新郎さん、外見は完全にコーカソイドですが、結構、中央アジアからやって来た原トルコ人のDNAを引いているのかもしれません。ジャビデさんにこれを話したら、
「そんなことがあるのかい? でも、新郎のところはギリシャからの移民だよ」と笑っていました。

ジャビデさんの家系は元を辿ればクルド人だったようで、“中央アジアの原トルコ人”なんていう話に余り喜んだりはしません。「ルーツの如何に関わらず我が国民は全てトルコ人である」というような信念を感じさせるところもあります。この点でも正に“共和国の申し子”というべき家族ではないでしょうか。私にとっては、未だトルコで暮らし始めて間もなかった頃に、トルコの人々への親しみ、信頼を揺るぎないものにしてくれた掛け替えのない家族です。


1月21日 (月)  アレヴィー派の断食

昨日は、家から歩いて30分ぐらいのギョズテペという地区にあるアレヴィー派の礼拝所へ行って来ました。アレヴィー派は、トルコでイスラムの主流となっているスンニー派から異端視されているイスラムの宗派ですが、オスマン帝国の初期にはアレヴィー的な傾向が却ってトルコ人の主流を占めていたと言われ、現在でも1千万〜1千5百万人のアレヴィー派がトルコに存在しているという説もあります。

アレヴィー派は、イスラム暦のラマダン月にではなく、ムハレム月に12日間の断食を行なうことが知られていて、先週はエルドアン首相がアレヴィー派のイフタル(日没後の断食明けの食事)に参加したことも話題になりました。このアレヴィー派の断食は今日が最終日となるため、昨日、どんな様子だろうと思って出かけてみたわけです。

礼拝所はかなり広い敷地の中に建てられており、敷地内には食堂やアレヴィー派についての授業を行なう教室もあります。私は昨年、この教室で学んでいるトルコ人の方に案内されて初めてここを訪れました。この方は、トルコの聾唖学校で宗教の授業の担当している先生であり、もちろんスンニー派ですが、「オスマン帝国を築いたのはアレヴィー派の人々でした。アレヴィー派の豊かな文化を知らなければ、トルコの歴史・文化が解っているとは言えません」と仰っていました。

昼過ぎに着いて、まず教室を覘いてみたところ、昨年来た時に知り合った青年から「やあ、ニイノミ!」と声をかけられので、「良く名前まで覚えていてくれたね」と喜んだら、「日本人の知り合いは今のところ君しかいないから」と言われたけれど、これは確かに一理あるかもしれません。

次の授業を見学してから教室を出ると、このアナトリア東部エルジンジャン出身の青年は、近くにいた友人二人を紹介してくれました。彼らはシヴァスとエラズーの出身。いずれもアナトリアの中東部に位置する地方です。それから中庭のベンチに腰掛けて雑談を始めたところ、驚いたことに、二人の女性が中庭にいる人たちへパンとお菓子を配っていて、それを美味しそうに頬張っている人もいます。青年たちは一様に断食中といって受け取りませんでしたが、戒律の緩やかなアレヴィー派らしい光景じゃないかと思いました。

彼らは断食しているから、その期間中に酒を飲むことはないと言うものの、アレヴィー派は普段の飲酒を禁じることもなく、地方の農村でもアレヴィーの村であれば皆普通に酒を飲んでいるそうです。

この礼拝所では、日曜日にセマーと呼ばれる礼拝の儀式が執り行われますが、この儀式には女性も男性と共に参加し、歌や舞踊を伴うなどイスラムとは思えない光景が繰り広げられます。

しかし、こういった特異性の為に、主流のスンニー派からは異端視され、いわれのない風説が流布されたりもしました。その一つに“アレヴィーの蝋燭祭り”などというものがあり、「アレヴィーの村では男女が一つの部屋に集まり、蝋燭の火が吹き消されると乱交が始まる」などと語られたりしたものです。私は92年にイスタンブールの学生寮にいた時、スンニー派の学生たちが、この怪しげな都市伝説みたいなものの真否を真面目に討論しているのを見て、思わず背筋が冷たくなったことを覚えています。

ちょっと話は変わりますが、仏教やキリスト教も含めて多くの宗教に見られる、こういった性、特に女性の“性”を汚らわしいとする発想は実に悲しいものではないでしょうか。性を謳歌する若者たちを卑劣な手段で殺してしまうことは恥ずかしいと思わず、自分たちをこの世に送り出した愛の営みを汚らわしいと感じる悲しさ。ところが、そういう男たちには、女性の“性”に対する敬意がないものだから、その性的傾向は得てしてなかなか貪欲で見境がありません。

女性の頭を剃髪したり、スカーフで覆ったりするのも同じ発想から来ているように思えてならないけれど、一途に信じてスカーフを被っている敬虔な女性に、いったい何を申し上げたら良いのでしょう。それに、スカーフに反対する“進歩的”な男たち(トルコ人に限らず)と話してみると、女性の“性”に対する敬意の無さは上記の男たちとそれほど変わらない場合もあって愕然となることもあります。

昔、イズミルの学生寮で“性の解放”について議論したら、ドイツ帰りの学生は、「ドイツでは、女性が独立しているから性を解放できるけれど、今のトルコで性を解放すれば、女性が玩弄されるだけだ」と主張していました。その通りかもしれません。

閑話休題、アレヴィー派の話でした。このホームページで「トルコには民族的な差別が少なく、各々の民族的出自は結婚において問題にならない」というように書いたこともありますが、残念ながら、アレヴィー派に関してはそうでもありません。相手の民族的な出自はそれほど気にならなくても、宗派の違いは大きな問題にしてしまうことがまだまだ多いようです。この日も、青年たちから「日本では宗派による差別が存在しているのか? 好きになった娘と結婚できなくなってしまうようなことがあるのか?」とさんざん訊かれました。

夕方、日没の時間が近づくと、青年たちは「食堂でイフタルの食事が無料で配られるから君も是非食べて行って下さい」と勧めます。それで私もお言葉に甘えることにしたのですが、このアレヴィー派の施設は、スンニー派のモスクのように国が管理しているわけではありません。国から財政的な支援も受けていないそうです。食堂は2百人ぐらいは入れそうな大きさで、「これを篤志家の援助で賄っているのは大変なことだろう」と忝く思いました。

食堂の外で順番を待っている時、シヴァスの青年は直ぐ隣に見えるモスクを示しながら、「隣は我が兄弟たちのモスクなんだよね。あの塔についているスピーカーを見てよ。わざわざこっちに向けてあるじゃないですか。あれで彼らの礼拝時間になると大音量でアザーン(礼拝への呼び掛け)を流すんだから、困ったものだねえ」と苦笑いします。エルジンジャンの青年によれば、施設の敷地内にある野外ステージでコンサートを開いた時は、アザーンを大音量で延々30分以上流し続けたそうです。

彼らもこういった仕打ちに対して一矢報いようということなのか、シヴァスの青年は次のような話を聞かせてくれました。

「いつだったか、ラマダンの時に村から近くの町へ買い物に出たんですよ。村はアレヴィー派の村だからモスクも無いし、ラマダンでも皆飲んでいます。村の友人にビールも頼まれたから、まず町でビールを売っている所を探すと、これは直ぐに見つかりました。あの保守的なシヴァスの田舎町でも一応ラマダンにビールを売っている店があるんですよね。店の奴に“エフェス・ビールを5本”と言ったら、マルマラ・ビールしかないという話だから、他所を探すと言えば、店の奴、“お前、ラマダンに他所でビールなんて探し歩いたら殺されるぞ。他にビールを売っているところなんて無いから、大人しくここでマルマラを買って行け”なんてことをぬかすんですよ。それで僕は、マルマラを5本買うと、わざわざビニール袋の中のビールが見えるように持ち、ビールをガチャガチャいわせながら、町の中を暫く練り歩いて他の買い物を済ませ、帰りがけにまたビールを買った店の前を通ったら、奴が店の前に立っていたから、ビールの入ったビニール袋を振りながら、“殺されなかったよ”と言ってやったら、野郎、驚いた顔して店の中へ入って行ってしまいましたよ」。

まあ、これぐらいなら御愛嬌といったところでしょうか。ところで、日没後の食事がどうなったかと言えば、私たちは一番最後の方に並んでいたので、結局ありつくことができませんでした。私はともかくとして、断食していた青年たちには可哀想なことですが、彼らは私に向かって、「わざわざ誘ったのに、食事が残っていなくてすみません」としきりに謝っていました。もともと無料で配っている食事ですから、残っていなくても文句は言えないでしょうね。


メルハバ通信“イスラム異端派”
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/002.html#90


1月22日 (火)  ハタイ県のアレヴィー派

昨日、アレヴィー派の断食を話題にしましたが、今日は92年にイズミルで始めてラマダンの断食、つまりスンニー派の断食を迎えた時の見聞をお伝えしたいと思います。

その頃はエーゲ大学にあるトルコ語教室に通っていたのですが、他の受講生の多くはトルコ語を習得してから大学の各学部へ入る予定になっている留学生であり、シリアやパレスチナといったアラブ圏から来ている学生も少なくありませんでした。

こういったアラブの留学生たちと親しくしているトルコ人の学生もいて、彼はトルコ語教室までアラブの留学生を訪ねて来て、アラビア語で彼らと話したりしていました。当初、私はこのアラビア語に堪能な学生を信心深い敬虔なムスリムではないかと思っていたところ、ラマダンを迎えたある日の昼、キャンパス内のカフェテリアへ入ったら、彼が平然と茶を飲んでいたので、意外に思って、「断食はしないのですか?」と声を掛けると、「そんなもの僕らとは何の関係もありませんよ」と言うのです。

私は『ひょっとするとアレヴィー派かな?』と思ったけれど、その頃は未だ大っぴらに「アレヴィー派ですか?」なんて訊くことが憚られるような雰囲気もあったから、遠回しに話を進めてみようと、まず「トルコには色々な宗派があるようですね?」と訊いてみました。

すると彼は、「ええ、色々ありますね。スンニー派、アレヴィー派、正教、カソリック・・・」と並べ上げ始めたので、「ちょっと待って下さい。正教やカソリックはキリスト教じゃないですか?」と口を挟んだところ、「これは皆トルコに存在している宗派ですよ」と全く意に介さない様子。それで今度は質問を変えて、「まあ、色々な宗派があるようですが、何か問題になっている宗派はありますか?」と訊いたら、彼は大きな声で、「ありますね、問題のある宗派が、それはスンニー派です。非常に後れた考えを持っていて大きな問題となっています」と言い放ったのです。私は思わず周りを窺ってしまいました。周りにいた学生たちは、ラマダンに昼間カフェテリアでお茶を飲んでいるくらいだから、それほど信心深くはないだろうけれど、その殆どがスンニー派だったでしょう。

もうその時は、訊くまでもなく明らかだったけれど、一応、最初から訊いてみたいと思っていたことも尋ねたら、「僕ですか? 僕らはアレヴィー派です。トルコで最も近代的で健全な宗派です」と胸を張って答えてくれました。

それから、何故アラビア語を知っているのか尋ねてみたところ、彼はシリア国境に近いハタイ県の出身でもともとアラビア語を母語として育ったという話です。「やはりアラブの留学生には親しみを感じるのですか?」と訊いたら、「その多くは信心深く後れた考えを持った連中であり、別に親しみを感じるわけじゃないけれど、アラビア語の練習にはちょうど良いんでね。僕らがハタイ県で使っているアラビア語は一種の方言なんで、そのままでは向こうの連中に通じない場合があるから、少しずつ勉強しているんですよ。アラビア語を話せれば役に立つこともあるでしょう」というようなことを話していました。

彼の父親は税関の役人だそうで、転任に伴いトルコの各地を移動したため、ずっとハタイ県にいたわけではなかったようですが、家族の間ではアラビア語を使っていたのでしょう。


1月23日 (水)  アレヴィー派への差別?

一昨日の便りで、アレヴィー派への差別について書いたけれど、もちろん政教分離の共和国で彼らが公に差別されているわけでは決してありません。都市部の知識層にアレヴィー派は少なくないようであるし、そういった階層では婚姻の際に宗派の違いが問題となることもないでしょう。

就職等で困難が生じることもないのではないかと思います。昨日の便りで話題にしたアレヴィー派の学生の父親は税関に勤める公務員でした。逆に、スンニー派の敬虔な女性がスカーフを被ったまま税関で公務員として働くことはできません。

クズルック村の工場には、敬虔なスンニー派ムスリムの優秀なトルコ人エンジニアが何人も働いていましたが、あるトルコ人スタッフは「ああいう人たちは普通のトルコの企業では昇進できないから、ここのような外資系の企業に入るんだ」と話していました。

トルコの大学ではスカーフの着用が許されていないため、スカーフを被った敬虔な娘さんが一念発起して猛勉強の末、外国の名門大学へ留学を果たしたというのも良く聞く話です。

現在、AKP政権のもと、こういった状況に大きな変化が起こっていると言われていますが、いったいこれからどうなることでしょうか。


1月27日 (日)  異文化との交流

今年も旧居で新年を祝ってきましたが、ギリシャ正教徒である家主さんの家族は、当主だったマリアさんが昨年の4月に亡くなってから、娘のスザンナさんと孫のディミトリー君で細々とやっています。ディミトリー君は、昨年の今頃、イスタンブールのギリシャ系高校を卒業したらギリシャの大学に進学するようなことを言ってましたが、今はイスタンブール市内の会社で働いているようです。他にこの母子家庭の収入は、エステティシャンの資格を持っている母スザンナさんが数少ない顧客から時おり依頼を受けて得るものと、階下の部屋を貸して生じる家賃以外に何もありません。

現在、階下の各部屋を借りているのはタクシム付近で中華料理店を経営するトルコ人で、ここに6〜7名の中国人を住まわせています。先週、スザンナさんから連絡があった際、「昨日、階下の中国人たちが深夜まで騒いで煩かった」とこぼしていたので、「彼らの旧正月じゃないですか?」と言ったら、「私たちは中国の旧正月について良く知っているけれど、それは2月の初めのはずよ」と反論されてしまいました。

私が入居する以前にも、ここには中国人の夫婦が4年ほど住んでいたそうで、このスーさん夫婦については、生前のマリアさんからもさんざん話を聞かされたものです。彼らは、やはりタクシムの辺りで中華料理店を経営し、もう一つの部屋に調理人の同胞夫婦を住まわせて、ここに4人で暮らしていたようです。

スーさん夫婦の思い出を語る時、マリアさんは「紳士的で教養のある人たちだった」といつも称賛の言葉を惜しみませんでした。今でもスザンナさんは、尊敬を込めてスー・ベイと呼んでいますが、スー・ベイから中国の旧正月についても色々聞いていたのでしょう。

スザンナさん、現在入居している中国の人たちについては、「一人の女性がやっと少しトルコ語話せる程度で会話のしようもないし、がさつでスー・ベイとは比べ物にならないのよ」と嘆いているけれど、スーさんは北京大学の出身だったというから、彼らもそんな人と比べられたら困るかもしれません。私も一度だけ彼らと会いましたが、愛想の良い田舎丸出しの中国人でした。

ところで、スーさん夫婦は、回族と呼ばれる中国人のイスラム教徒だったようです。かつて、マリアさん家族の友人であるアルメニア人のガービさんを、私がガービ・ベイと呼んでいたところ、マリアさんから「ガービはムスリムじゃないから“ベイ”という尊称を使うのはおかしい」と注意された為、「貴方たちも中国の人をスー・ベイと呼んでいるじゃありませんか」と言い返したら、「お前、スー・ベイがムスリムだったことを知らなかったのかい? それはもう紳士的なれっきとしたムスリムだったよ」と何だか誇らしげに言われたので、少し意外に感じました。マリアさんは、生前、ムスリムの悪口を言い続けていたけれど、『やはり、全く異なる文化圏の異教徒より、気心の知れた同じ啓典の民であるムスリムの方が安心できるのかなあ?』と思ってしまったのです。

これよりも大分前のこと、イスタンブールで教養のあるアルメニア人の御婦人にお目に掛かったら、この方が次のような話を聞かせてくれました。なんでも、この方の友人である上流のムスリム・トルコ人の娘さんがイスタンブールで知り合った日本人男性と結婚して日本へ渡ったところ、この日本人男性の家は特殊な仏教教団に属しており、娘さんは男性の家族から改宗を迫られたうえに監禁されてしまったものの、隙を見て着の身着のままトルコ大使館に逃げ込んで事なきを得たというのです。

私が日本で知り合ったイラン人の男性と結婚していた日本人女性は、ご両親がやはり熱心なある仏教教団の信者だったけれど、彼女は後にイスラムへ改宗したから、この話をそのアルメニア人の御婦人に伝えたところ、「良くやったね、そのイラン人の夫は。褒めてやりたいよ」と喜び、それから「まったくムスリムの娘を仏教に改宗させようなんて、何を考えているんだろうねえ」と嘆息していました。

多少の不満はあっても、イスラムならどういうものであるか良く解っているけれど、仏教などというものは得体が知れないから、一層不気味に思ってしまうのでしょうか?


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