Diary 2007. 2
メニューに戻る
2月1日 (木)  クルド語を話す“トルコ民族主義者”?

先月、イスタンブール市内で“狂信的な民族主義者”がアルメニア系のジャーナリストを射殺するという傷ましい事件があり、葬儀では、その死を悲しみ、凶行に抗議する市民が沿道を埋め尽くして、『今まで誰の葬儀にあれだけの人々が集まり哀悼の意を表しただろうか?』と思わずにはいられないような光景が繰り広げられました。

しかし、その数日後には、地方のサッカー試合で、双方の観客が“民族主義的なスローガン”を叫んで大騒ぎになったそうです。

今日、同居しているトルコ人青年二人に、「君らが働いている現場でも、作業員同士が民族主義的な問題で言い争いを始めたりしているのか?」と訊いてみたところ、「マコト、君だって一昨年は現場にいたから分かるだろう? そんなことは起こらない。スタジアムには大勢が集まるし、皆熱狂しているからね。あれはまた別だよ」と言います。

言われてみれば、様々な地方の出身者が一緒に働いていたあの現場で、そういった激しい争いが生じるような雰囲気は殆ど感じられませんでした。その雰囲気を伝えるものとして、例えば、当時、現場の食堂で二人の作業員が演じた少々滑稽な“言い争い”を思い出すことができます。

この二人はいずれもクルド語を母語としていたけれど、一人はスィワス県出身のアレヴィー派で殆ど無信仰、もう一方はカフラマン・マラシュ県出身の信心深いスンニー派であり、もともと余り仲良くなれる要素はなかったかもしれません。

昼飯が済み、彼らを除いて他の多くは黒海地方の出身者である10人ぐらいの作業員が茶を飲みながら雑談していると、そのスィワス県出身が、カフラマン・マラシュ県出身の同僚を指しながら、「皆聴いてくれよ。こいつはクルド語を知っているのに、それを隠して“トルコ民族主義者”をやっているんだ」と言い出したのです。

これに対してマラシュ県出身は、平然と笑みを浮かべながら、「お前、つまんないこと言うなよ。俺がクルド語話せることは皆知ってるぜ。いつだったか皆の前でお前とクルド語で喋ってやったろう、皆、そうだよな?」と言い返し、他の作業員たちからは失笑が漏れ、スィワス県出身も仕方なさそうに苦笑いしながら引っ込んでしまいました。

このスィワス県出身はなかなか自己主張の強い男で、黒海地方出身の信心深いスンニー派の連中を前にして、“アレヴィー派としての意見”を述べたりすることもあったけれど、10人ぐらいでは群集心理的な作用が起こらない所為か、いざこざや争いにまで発展することはなかったようです。

一方のマラシュ県出身は、やはり指摘されたような“トルコ民族主義者”で、これまた公然とその主張を明らかにしていましたが、実際に、彼は自分の母語がクルド語であることを隠したりはしていません。皆がいる前で、私にクルド語の言い回しを説明してくれたこともありました。


2月3日 (土)  東池袋のボロアパート

先月の“便り”に、16年前、東池袋のボロアパートにいた時の話を紹介しましたが、昨年の10月に日本へ行った際、東池袋の界隈を歩いて見たら、そのボロアパートが建て替えられないまま残っていて、住んでいた部屋にも明かりが灯っていたので、びっくりしました。16年前の当時でさえ、なかなか見付からないようなボロアパートだったのに、それが今も変わらぬ姿を留めていたのです。

近くには、昔ながらの番台がある古い銭湯もそのまま残っていて、思わず16年ぶりに湯を使わせてもらいました。銭湯の隣の八百屋さんなど、立ち並ぶ商店の様子もそれほど変わっておらず、良く利用していたクリーニング屋さんが見覚えのある看板で営業している光景には、懐かしさで感極まってしまいそうでした。

それからゆっくりと、丸の内線の新大塚駅に向かって歩き始めたところ、途中で迷ってしまい、スリーエフに入って道を尋ねたら、学生アルバイト風の若い女性が親切にも外まで出て来て、新大塚駅の方向を教えてくれたのですが、この女性、どうやらネイティブな日本語の話者ではありません。

『韓国の方だろうか?』と注意深くそのイントネーションを聞いていると、最後の方で韓国の人たちに特有なアクセントが現れたので、韓国人であることを確信して、「ハングップニシジヨ?(韓国の方ですね?)」と声を掛け、さらに韓国語で暫く話してみたら、彼女は愛嬌のある仕草で大袈裟に驚いてくれました。

最近の日本では、コンビニが昔の個人商店と同じように、街の要として機能し、人々に安らぎを与えていると聞きますが、そのコンビニで、こうして韓国や中国の若い人たちが働き、街に溶け込んだ姿を見ていると、何とも言いようのない安堵を感じてしまいます。「日本はまだまだ大丈夫だ」と。

ところで、ボロアパートの近くの銭湯ですが、このサイトの消滅してしまった旧掲示板に、当時、銭湯で度々顔を合わせ、その度に話し込んでいたインド人の方との思い出を書き込んだことがあったので、再度ここに紹介します。

“一度、この日本語を流暢に話すインド人の彼に、「インドの人たちは今でも輪廻とか信じているの?」って訊いたところ、「信じているんじゃなくて、あれは事実なんです。あなた方は知らないだけのことです」ときっぱり。だから、カーストの差別なども大したことじゃなくて、乞食も転生を繰り返したあげく、ある時は王侯としての生を受けているのかもしれないそうです。

これを考えだしたら目が回ってしまいそうになりました。そういった悠久の輪廻から比べたら、人の一生など瞬時のことに違いありません。そんな人生にいったい何の意味があるのだと途方に暮れてしまいます。

しかし、その哲学的なインドさんが、銭湯で話している時、韓国について興味を示して、韓国語の本が見たいと言い出したから、アパートに招待すると、喜んでついてきたのに、ボロアパートの前まで来たら、顔をひきつらせて「ま、また今度にするね」と逃げ出してしまいました。いつも銭湯で会っているのに、風呂付きのマンションに住んでいるとでも思っていたんでしょうか。まあ、余りのボロさに、日本人の友人たちも最初は中に入ることを躊躇するようなところだったのは事実です。でも、「外国の人たちは日本で友人ができないと言ってるけれど、自分たちだって友達になる人を選んでいるじゃないか」と残念な気持ちになりました。”

と、こんな感じで以前の掲示板には書き込んだのですが、今になって思えば、銭湯で会っただけの人を、ああやっていきなりボロアパートに招待したのは失礼なことだったかもしれないと反省しています。ものには順序というものがあるからです。例えば、相手が恋心を感じるような若い女性であったら、さすがに私も直ぐには彼女をボロアパートへ招待したりはしなかったでしょう。

私は、自分が親しみを感じる人に出会うと、つい興奮して、即座に土足でその人のところへ上がり込んでしまうような失敗を何度もやらかしています。このインドの方と銭湯で会った時も、「素晴らしい人物と出会うことができた」と喜んでしまい、早速に我が家へ招待してしまったけれど、あれは間違っていたかもしれません。残念なことをしました。



2月5日 (月)  トルコのムスリムと豚肉

昨年、日本へ往来した際、親しくしているトルコ人の家族に、日本のお土産として“カレーのルー”を買って来ました。大学生の娘さんは日本へ旅行したこともあり、家族の皆がカレーを喜んで食べていたからです。

ところが、いざこのお土産を渡してみたところ、お父さんはパッケージの裏表をまんべんなく眺めてから、「日本語の表記しかないけれど、豚は入っていないだろうね? ちょっと読んで確認してよ」と、それを私の手元へ戻したので、もうその時に『しまった!』と思いながら、恐る恐る“原材料”の表示に目を通してみると、果たしてそこには「ラード」の文字がしっかり記されていました。

「残念だけれど、これはだめですよ」
「あっそう? じゃあ仕方がない。わざわざ持ってきてくれたのに、すまなかったね」

と、せっかくのお土産は全く洒落にもならない結果に終わってしまったのです。

この家族、お父さんも若い頃には結構飲んでいたという話だけれど、10年近く付き合っていて彼が飲んでいるところは未だに見たことがないし、お母さんの方は、亭主をトルコに残したまま一人で国外旅行に出かけてしまうほどの行動派で、全く酒を嗜まないというわけではないものの、夫婦ともに保守的な地方の出身であり、もちろん信仰に篤いムスリムだから、ラードが入っている“カレーのルー”を勧めるわけにはいきませんでした。

大学生の娘は、英語が達者で外国人の友達も多く、これまた頗る行動派で社交的なものだから、やはり全く酒を嗜まないというわけではないけれど、それもせいぜい乾杯の時に加わるぐらいで、見かけより遥かに信仰心があって、「イスラムに帰依しているから進化論は信じない」と主張しているくらいです。

それで、当然、娘の方も、さすがに“ラード入りカレー・ルー”はダメなのかと思っていたら、暫くして会った時に、「あなたも馬鹿ねえ、なんでお父さんにわざわざ豚が入っていることを話しちゃうの? 黙っていれば皆で食べてしまったのに」と言われてびっくり。隣で聞いていた弟も驚いて、「姉さん、豚はダメだ。それぐらい知ってるだろう?」と詰め寄ったけれど、彼女は「ほらね、こういう馬鹿もいるでしょ。今度カレーが手に入ったら一人で全部食べることにするわ」と軽くあしらっていました。

この例に限らず、最近のトルコでは、海外へ出かける機会の多いビジネスマンなどに、豚を平気で食べる人が増えているようです。中には、教義上、豚と知らずに食べてしまった場合は許されることを逆手に取って、「海外へ出たら、料理を勧めてくれる人に、何の肉が使われているのか絶対に明らかにしないでくれと宣言して、出されたものは全て食べてしまうんだ」という“信仰に篤い”ムスリムもいます。

2003年、東京で数人のトルコ人ビジネスマンを案内した時には、こんな一幕もありました。

一人のビジネスマンが、その場に居合わせていない同業者について、「昨晩、夕食を一緒にしたら、あの野郎、豚肉を食べてしまったんだよ」と陰口を叩いたところ、同僚の一人に「そんなこと言ってお前は酒飲んでいるじゃないか。酒も豚も禁忌の度合いは同じだぜ」とやり返されたので、さらに「しかし、あの野郎は、それが豚であることを知っていながら食べていたんだからな」と付け加えたら、これを受けてその同僚、さも驚いたような顔をしながら、「えっ!? すると何か、お前はこれが酒だってことを知らずに飲んでいるのか?」。これには皆が笑い出してしまったから、最初に陰口を叩いた男も釣られて苦笑いするよりありませんでした。


2月6日 (火)  イスタンブールのキョフテ屋さん

キョフテというのはトルコ風ミートボールのことで、イスタンブールでは「スルタンアフメット・キョフテジスィ・セリム・ウスタ」という老舗のキョフテが、とても美味しくて有名です。

この店は、イスタンブールの歴史地区として街そのものが世界遺産となっているスルタンアフメットにあり、創業1920年と言うから、一応はオスマン帝国時代からの老舗に違いありません。

スルタンアフメット・キョフテジスィの看板を掲げる店は、イスタンブールばかりでなく、トルコの至るところに見られますが、セリム・ウスタというこの老舗は、去年、やっと一つの支店をイスタンブールのアジア側にオープンしたばかりで、チェーン店化を図らず、頑なに老舗の味を守っているようです。

観光のメッカであるスルタンアフメットには、外国人のツーリストを対象にした店も多いけれど、庶民的な雰囲気のこの老舗キョフテ屋では、地元イスタンブールの家族連れや、トルコの各地方からイスタンブール見物にやって来た“おのぼりさん”たちの姿が目立っています。

3年ほど前、日本からいらっしゃった方たちをこの店へ御案内した時は、SPらしい厳つい男たちが店内をチェックしていたので、何事かと思っていたら、私たちが店を出た後で、ターイプ・エルドアン首相がここを訪れたそうです。30分ぐらい後に来ていれば、私たちもエルドアン首相にお目にかかれたのに惜しいことをしました。

これは、日本で言えば、首相が浅草雷門の並びにある天麩羅屋さんに立ち寄るようなものでしょう。実際、エルドアン首相は、イスタンブールの中でもかなり庶民的な街として知られるカスムパシャに生まれ育ち、その庶民性が根強い人気を支えているようです。

さらに、この話は未だに半信半疑だけれども、我が家の同居人たちと一緒に工事現場で土方の作業員として働いているムスタファという青年は、カスムパシャの小学校で、エルドアン首相の長男と同級生だったと言います。「向こうは今や首相の息子でアメリカに留学中、俺はしがない作業員、まあ、これが運命というものかもしれないね」なんてぼやいていました。

ムスタファ青年は、カスムパシャにある普通の公立小学校へ通っていたと言うから、首相の長男も同じ学校にいたということが、俄かには信じられません。しかし、ムスタファ青年の話によれば、「だってあの頃は、ターイプさんも未だイスタンブール市長になる前の話で、党の役職についていただけだから、家族でカスムパシャの普通の家に住んでいて、子供たちも近くの学校に通っていたんだ。どんな子だったかって? 余り良く覚えていないけれど、なかなか良い奴だったという記憶がある。向こうは俺のことなんかもう覚えていないんじゃないかな」ということなんだそうです。

20070206-1.jpg 20070206-2.jpg



2月8日 (木)  トルコの国民酒ラク

トルコの人たちが最も愛する酒は、なんといっても“ラク”でしょう。これは、アニスの香りが付いた45度〜50度ぐらいの強い無色透明の蒸留酒で、水を加えると白濁してしまいます。

ギリシャの“ウゾ”やフランスの“パスティス”という酒も、同じぐらいの強さでアニスの香りがし、水で割ると、やはり白濁してしまうそうだから、別に“トルコでしか見られない酒”というわけでもないようだけれど、その愛され方は正しく“トルコの国民酒”と呼ぶのが相応しいかもしれません。

酒場に入ると、殆どのテーブルでこのラクが酌み交わされているから、プーンとアニスの香りが漂っているほどです。

2006年4月29日の“トルコ便り”で紹介した“炉端焼き”の店。ここへ行くと、私はいつもビールばかり飲んでいたけれど、ある日思い切ってラクを頼んだところ、店の親爺さんは「そう来なくちゃ!」と実に嬉しそうな笑顔を見せて喜んでくれました。「ビールなんか飲んでいるようではトルコの男じゃない。やっぱりラクを飲まなければ」というような雰囲気さえ感じてしまいます。

2006年4月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=4

さて、このラクについては、2004年12月14日の“トルコ便り”に、「透明な蒸留酒のラクは、水で割れば白濁するところがミソだけれど、あれはどうやら温度が下がることによるもので、冷蔵庫に入れて置いても白濁してしまいます。『さては?』と、お湯割りを試して見たところ、案の定白濁しないし、不味くて飲めたものじゃありませんでした」なんて書いてしまったのですが、これもどうやら私の勝手な思い違いで、実際は、アルコールの度数が低くなることにより、それまでアルコールに溶け込んでいた物質が凝固するために白濁するようです。

先日、再度試してみようと、ラクを暫く冷蔵庫に入れてみたものの、何の変化も起こりません。冷凍庫にぶち込んだら、やっと白く濁ったようになったけれど、ちょっと白さが物足りない感じでした。以前、試した時も、冷蔵庫ではなくて冷凍庫だったのでしょう。

「しかし、もう少し白くなっていたような?」と首を捻っていたら、同居しているトルコ人青年が、「ラクの種類にも拠るんじゃないのか? 俺も昔ラクを冷凍庫に入れておいたら、もっと白くなったような気がする」と言ってました。そういう妙なことを試すのは、何も私に限られていないようです。

お湯で割ると白濁しないのは、再度の実験でも確認されましたが、これは凝固すべき物質が高温により溶け込んでしまうからじゃないでしょうか。同居人もさすがにこっちの方は試していなかったようで、「変なことするなよ」と呆れていました。

2004年12月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2004&m=12


【119】私は如何にして酒豪となったか?【ラディカル紙】【2005.03.13】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00119.html


2月10日 (土)  イズミルの冬の思い出

今年の日本は例年にない暖冬だそうですが、イスタンブールでも薄気味悪いほどの暖かい冬が続いています。先週はちょっと雪がちらつく日もあったけれど、今日はまた随分と暖かく、我が家自慢のスチーム暖房も全く出番がありません。おそらく、トルコで迎えた最も暖かい冬になるのではないでしょうか。

91年に初めてトルコへやってきて、温暖なエーゲ海地方のイズミルで一年を過ごしましたが、その暖かいイズミルの冬でさえ、今年のイスタンブールほどではなかったかもしれません。というより、却って中途半端に暖かいイズミルでは、冬の間、もっと寒い思いをさせられました。温暖なイズミルでは、冬の備えが甘く、寝起きしていた学生寮の暖房もお粗末なものだったからです。

アルサンジャック学生寮
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#30

その冬、学生寮の“二段ベットを三つ並べた6人部屋”には、電熱線がむき出しになっているヒーターが一つあっただけで、我々寮生は晩になると、よくヒーターの上に鍋を乗っけて、インスタントのスープを作ったりしました。トルコのスーパーでも売っている“クノール”の野菜スープやらチキン・スープの素を適当に混ぜ合わせ、ヒーターの上でゆっくり煮立たせれば、美味しいスープが出来上がります。

それを、銘々がスプーンを持ってヒーターの周りに集まり、鍋から直に掬ってすするわけです。皆、一様に背を丸めながら鍋に向かい、「寒い冬には暖かいスープが一番だね」とか「今日は野菜スープの素を入れなかったんじゃないのか? やっぱり何種類か混ぜた方が美味しくなるよ」といったような年寄りくさい会話を交わしたものでした。

電熱線むき出しのヒーターは寒かったけれど、そうやって鍋を囲むと、実に暖かな雰囲気が醸し出され、その和やかさは今もって忘れることができません。

しかし、この電熱線むき出しヒーターのお陰で危うく火事になりかけたこともありました。

ある晩、真中のベットの下段に寝ていた私がふと目を覚ますと、隣のベットの枕元がボオッと明るくなっています。寝ぼけ眼で『何だろう?』と思いながら見ているうちに、『あっ! いかん。何かが燃えている』と気がつき、ベットから飛び起きて、良く見れば、ヒーターの上で下着のシャツが一枚燃えているのです。私はすかさず近くにあった棒切れで燃えているシャツをすくい上げ、「ヤングン(火事)! ヤングン!」と叫びながら、そのまま部屋を出てシャワー室へ直行、燃えるシャツに水を掛けて火を消しとめました。

それから、『我ながら実に適切な処置であった』と意気揚々に部屋へ引き上げたところ、部屋の連中も皆起き上がっていて、「おい、マコトが叫んでいるの聞いたかよ。“ヤングン! ヤングン!” ヤングンだなんて可笑しいったらありゃしない」などと失礼なことを話しています。「だってあれは、ヤングン(火事)だろ?」と言い返したら、「あれが火事なものか。シャツが一枚燃えていただけじゃないか」と皆して愉快そうに笑うばかり。

この連中、震度2ぐらいの僅かな揺れでも、大騒ぎして外へ飛び出すくせに、本当の危機に際しては至って平然としていました。



2月11日 (日)  イスタンブールの庶民の足

昨日、かなり混んでいる“乗り合いミニバス”の中で立っていたところ、片肩に掛けていたリュックサックの端を、前の席に座っている青年が軽く引っ張りながら「良かったらどうぞ」と言うので、「ありがとう」と言ってリュックを肩から外すと、青年はリュックを受け取り自分の膝の上に置きました。

座っている人が、せめて立っている人の荷物ぐらいは持ってあげようという親切な行為で、かつてはイスタンブールのバスや電車の中で頻繁に遭遇したものですが、最近は余り見られないかもしれません。しかし、地方へ行けば、まだ当たり前に行なわれているのではないでしょうか。

昔は、何も言わずに他人の持ち物を、ぐいと膝元へ手繰り寄せる人もいたから、この親切を知らない旅行者は、随分驚いたんじゃないかと思います。現在のイスタンブールでは、残念ながら、親切ならぬ盗難を目的として引っ張る輩がいるかもしれず、さすがに無言で引っ張られたら、ゾッとしてしまうでしょう。

“乗り合いミニバス”というのは、ミニブスと呼ばれているもので、走行するコースは決まっているけれど、始点と終点以外に停留所のようなものはなく、乗客は適当なところで乗ったり降りたりすることができます。

ミニブスは運転手だけのワンマン運行であり、後ろの方に乗った人の運賃は、走行中に他の乗客の手から手へ渡りながら運転手のもとへ届けられ、それを運転手がハンドルを握ったまま器用に受け取って計算し、釣銭はまたリレーによって戻されるわけですが、なにしろ詰めれば20人ぐらい乗れるから、その作業も容易なことではありません。
「二人分と言って20YTL寄越したお客さん、何処まで行くの?」
「某病院まで行くんだけどね」
「それなら、某陸橋のところで降ろしてあげるから、そこから歩いて下さい。一人分1.5YTLだよ。17YTL受け取ってね」
といったようなやり取りが繰り返され、精算が済んで行くのを見ていると、運転手の手際の良さにいつもながら驚かされます。私のような鈍くさい人間では、とてもじゃないけど務まらないでしょう。

ミニブスの他に“ドルムシュ”というのも同様のシステムで運行していますが、こちらは座席のみの8人乗り。“ドルムシュ”は“一杯になった”という意味のトルコ語で、通常始点で人数が揃わない限り出発しません。

ドルムシュには、ほぼ24時間運行しているコースもあって非常に便利だけれど、夜中の3時ぐらいに始点へ来たりすると、なかなか8人全てが揃わない為、7人目が現れた段階で乗客同士が話し合い、「運転手さん、我々で8人分出し合うから、もう出発しよう」となることもあります。

このミニブスやドルムシュに乗ると、運転手や乗客たちのやり取りを見ていても楽しいし、トルコらしい素朴な親切にふれる機会もあり、場合によっては運行中の交通渋滞さえ苦になりません。

写真は左がドルムシュ、真中がミニブス、右は普通の市バスです。

20070211-1.jpg 20070211-2.jpg 20070211-3.jpg



2月13日 (火)  トルコの医療問題?

先々週、旧居の大家マリアさんが熱を出して3日ほど寝込んでしまいました。その際に、リンパ腺か何かが腫れたらしく、念の為、病状が落ち着いてから、その辺りでは評判が良いアルメニア系の病院へ行ったところ、レントゲンやら採血やら色んな項目で検査を受け、結果は翌日明らかになると言われたそうです。

私も検査結果が気になったから、翌日の夕方、マリアさんのところへ電話を入れると、本人が出て、わりと力のある声で、「検査の結果、血液が減っている為、輸血を受けなければならないそうだよ。また明日、もう一度検査すると言ってるがね、暫く入院しなければならないかもしれないよ」と言うので、私は驚いて問い返しました。
「しかし、マリアさん、今はベットから起き上がれないような状態じゃないでしょ?」
「そう、ちゃんと立っているよ。自分じゃそれほど具合が悪いとも思えないけれど、なにしろ体の中に血が残っていないと言うんだよ。私の血は何処へ行ってしまったんだろうねえ?」
「ちょっと待って下さい。それはどう考えてもおかしい。輸血なんていうのは、かなり急を要する状態じゃなければしないはずです」
「私もそう思うよ。だけど医者がそう言うんだから」
「でも、輸血するのは変でしょう。それだけは止めた方が良いと思います」
「そうだね。他の医者にも相談してみるよ」

その翌日は、少し心配になったこともあり、夕方、旧居に寄ってみたところ、入口のところでマリアさん本人が、元気な様子で私を迎え入れてくれました。「なんだ、元気そうじゃないですか?」と言ったら、「私はもう病気じゃない。完全に回復してしまったよ。それなのに、医者が私のことを病人にしようとしているんだ」と大きな声で怒ったように言い、それから、その日病院であったことを、入口のところに立ったまま、興奮のあまり手を振り上げたりしながら説明し始めたのです。

私は、輸血をしなければならないような病人がこんなに興奮すれば、そのうち泡を吹いてひっくり返ってしまうのではないかと恐れ、娘のスザンナさんを促して、先ずはマリアさんに座ってもらい、自分も腰掛けたうえで、落ち着いて話すことにしました。

彼女たちの話によれば、医者は50歳ぐらいのアルメニア人女性であり、どういう経緯でそれを聞き出したのか解らないけれど、「一度も結婚したことがない」という変わった女なんだそうです。

この日も医者は、マリアさんへ輸血の必要性を説きながら、「あなたフラフラしませんか? 眩暈がするでしょう?」などと、マリアさんが元気であっては困るのかのように、執拗に問い質したといいます。

私はこの話を聞いて、昔観たトルコのコメディ映画を思い出してしまいました。

有名な喜劇俳優ケマル・スナルが主演した1979年の作品「勇気ある臆病者」という映画がそれで、スナル氏が演じるミュラヒムという青年が病院へ検査結果を聞きに行くと、医者は別の“ミュラヒム”のカルテを見ながら、青年の余命が6ヵ月であることを宣告。ミュラヒム青年がしょんぼりと肩を落としながら診察室を後にしたら、そこへ、ミュラヒムというよぼよぼの老人が息も絶え絶えに担ぎ込まれて来ます。

ところが、その医者、今度はミュラヒム青年のカルテを手にして、「ミュラヒムさん、貴方は素晴らしい健康体です。これから100年でも生きるでしょう」と伝えたものの、ミュラヒム老人はその場で絶命。狼狽した医者は老人を揺さぶりながら、「貴方は健康であることになっているんです。生きなければなりません」と絶叫。「これは医学に対する裏切りだ」と頭を抱えてしまうという展開。

マリアさん母娘に、「それって、ケマル・スナルの映画みたいな話じゃないでしょうね?」と水を向けたところ、二人ともこの映画のことは知らない様子。それで、上記の話を演技を交えて大袈裟に話して聞かせたら、二人して大笑い。娘のスザンナさんは、もともと発作的に笑い出す癖があるけれど、この時も発作が起こってしまい、笑い転げて椅子から落ちてしまうんじゃないかというような有様で、私は思わず、『俺はいったい何しに来たんだ? 病気のお見舞いじゃなかったのか?』と心内で自問してしまいました。

結局、マリアさんは入院も輸血も拒否してことなきを得ましたが、トルコでは、必要もないのに手術を施したりして、高額の治療費をせしめようとする医者が多いと専らの評判です。

わけても、帝王切開の多さは特筆されるべきかもしれません。トルコで通常分娩と言ったら、それは帝王切開のことじゃないかと思ってしまうほどです。責任取って腹切る男が少ない代わりに、女性は直ぐに腹を切らされてしまうのでしょうか。

しかし、不必要な治療が横行している背景には、医者ばかりでなく、一般の人々の問題もあるはずです。我慢と辛抱が大嫌いなトルコの人たちは、ちょっとした風邪でも大騒ぎして、直ぐに病院へ行くから、何処の病院も大混雑。直ぐに症状が軽減しないと医者を“やぶ”呼ばわりする患者も多く、医者は強い薬をどんどん処方するから、何処の薬局も大繁盛。これでは、医者と病院ばかりを糾弾したところで、なかなか事態は改善されないかもしれません。



2月15日 (木)  “恋人たちの日”−バレンタインデー

昨日の午後、一昨年住んでいたヨーロッパ側のジハンギルへ出掛け、同世代(つまり中年)であるトルコ人の友人が待ち合わせ場所に指定した“サヴォイ”という老舗の洋菓子店に赴いたところ、店頭には派手な赤いハートマークが飾ってあり、入って直ぐの所にあるショーケースを見ても、特製のハート型ケーキが並べられていて、否応無しにこの日が“バレンタインデー”であることを思い起こしてしまいました。

91年に初めてトルコへやって来た頃は、“バレンタインデー”だからといって、それほど大騒ぎもしていなかったから、日本のバレンタインデーにラブハラスメントを感じてうんざりしていた私は、大いに安堵したものだったけれど、最近はトルコでもバレンタイン商戦が過熱してきて、“恋人たちの日”と呼ばれるこの日が近づくと、「貴方は恋人に何をプレゼントしますか?」なんていうキャッチコピーがやたらと目に付き、不愉快なことこのうえもありません。

この洋菓子店のショーケースに並んだ特製ケーキの数々を見れば、なかなか凝った作りになっていて、そのお値段は相当ハートに響くことでしょう。恋人がいなくて寂しい人ばかりか、ふところが寂しい人にも縁はなさそうです。

というわけで、いずれにしても全く縁が生じる余地のない私は、ケーキなどには目もくれず、さっさと喫茶コーナーのある2階へ上がろうと思ったけれど、話のネタにはなりそうだから、一応写真だけは撮らせてもらいました。

2階へ上がると、友人は未だ来ていなかったものの、やはりトルコ人である友人の奥さんが同年輩の女性と茶を飲みながら談笑している姿が見えます。近づいて挨拶したら、彼女は私が来ることを知らなかったらしく、「あら? うちの人と待ち合わせですか?」と訊きながら、席を勧めてくれたので、「残念ながら、“恋人たちの日”に御主人と会うことになっているんですよ」と答えて席に着くと、「まあ、それは確かに残念。私もこうして女友達とお茶を飲んでいますけどね」と愉快そうに笑ってくれました。

間もなくして友人もやって来たから、4人で暫く雑談したのですが、奥さんの友人はアルメニア人であり、奥さんとは高校時代の同級生であると言います。イタリア語に堪能な友人の奥さんが、イスタンブールの“イタリアン・リセスィ”という私立高校の卒業であることは知っていたので、「アルメニア高校には行かなかったのですか?」と尋ねたら、「彼女はイスタンブールのハイソサエティなアルメニア人だから」という話。トルコで少数民族として認められているアルメニア人やルームと呼ばれるギリシャ人の子弟は、トルコ共和国の公立である各々の民族学校で学ぶこともできますが、経済的に余裕のある人たちはその限りでもないのでしょう。

旧居の大家マリアさん家族の例を見ても、裕福な娘時代を送ったマリアさんは私立のフランス高校を出ているけれど、娘のスザンナさんはギリシャ共和国の高校に留学したそうであり、孫のディミトゥリー君は現在市内のトルコ公立ギリシャ系民族学校に通っています。

アルメニア人の女性に、「すると貴方は、トルコ語とアルメニア語にイタリア語もお解りになるということですか?」と念の為に訊いたところ、彼女はギリシャ語も話せるんだそうです。そこで、やはりギリシャ語も解るアルメニア人のガブリエル・ムムジュヤンさん、つまりマリアさん家族の友人であるガービさんについて話してみると、「ガブリエルという御名前なら、その方はグレゴリアン派(アルメニア正教)じゃありませんね。カソリックのアルメニア人でしょう」と言われたので、少し意外な気がしました。ガービさんがカソリックであるという話は聞いていなかったからです。

洋菓子店を出て、友人夫婦らと別れた後、直ぐ近くの旧居へ寄って、マリアさんにガービさんのことを訊いてみたら、「うん、あれは私たちが勝手にガブリエルと言ってるだけで、正確に言えばカプリエルなんだよ。カプリエル・ヌバル・ムムジュヤン。まぎれもないグレゴリアン派のアルメニア人さ。ガブリエルと言ったら確かにカソリックだね」と説明してくれました。いやはや、ガブリエルとカプリエルで何が違ってくるのか良く解らないけれど、当事者にとっては簡単に済まされる問題ではないのかもしれません。

ついでに、ディミトゥリー君へ「“恋人たちの日”にちなんで何か良いことはなかったのか?」と言ってやったら、「今日はね、フェネルバフチェの重要な試合があるからそれどころじゃありません。“恋人たちの日”なんて、あんなものは数年前から騒ぎ始めたようだけれど、フェネルバフチェは100年前から存在しているんですよ」と頼もしい言葉が返ってきました。

右側の写真、ハート型のケーキには「貴方の“恋人たちの日”おめでとう」などと記されています。おめでたいのは、こんなケーキを食べて喜んでいる連中の頭じゃないでしょうか。

20070215-1.jpg 20070215-2.jpg 20070215-3.jpg



2月18日 (日)  アルメニア正教の教会

“トルコ便り” − 9月11日 (月) イズミル/チチェック・パサージュ
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=9

イスタンブールのベイオウル街、チチェック・パサージュから入る横丁は“バルック・パザル(魚市場)”と呼ばれ、魚屋さんや八百屋さんの店も出ているけれど、店頭でムール貝などを揚げたりしている酒場が軒を並べ、夕刻が迫ると未だ明るい内から辺りは喧騒に包まれます。

この並びに、普段は閉ざされている幅2mほどの鉄扉の付いた門が、商店と商店に挟まれてひっそりと佇み、周囲とは異なる雰囲気を漂わせているものの、行き交う人々がこれに気を取られることは余りないかもしれません。

この鉄扉の向こうには、アルメニア正教会の教会があります。礼拝等がある時は、扉が開け放たれていて、私は偶然にその前を通りかかり、この教会へ足を踏み入れました。1992年頃のことです。

横丁に面した建物の門をくぐり、この建物の下を7〜8mほど通り抜けると、そこは中庭のような空間になっていて、その向こう側に、1838年の創建と言われる荘厳な教会が姿を現します。初めてその内部へ入った時は、高い天井とその広さに驚かされました。それまで周りにある酒場などへ出入りしながら、その目と鼻の先に、これほどまでに大きな教会が潜んでいたとは夢にも思わなかったからです。そして、横丁での賑わいや喧騒を思い浮かべると、その静寂な佇まいが俄かには信じられませんでした。

1994年の初夏、ある日の昼過ぎ、この教会を訪れると、中庭で一人の老人が、手のひらにすっぽりと収まってしまいそうな短い変わった笛を吹いていました。そのドゥドゥクと呼ばれる笛を吹いていた老人は、イラン国籍のアルメニア人で、イスタンブールへ知人を訪ねて来たそうです。

中庭では、私の他に3人ほどイスタンブールのアルメニア人が、老人の吹く笛の音に耳を傾けていたけれど、その内の一人はイスタンブールで音楽関係の仕事をしているらしく、老人の演奏が如何に芸術性の高いものであるかを説明していました。私は正直言って、芸術性云々については良く解らなかったものの、荘厳な教会を前にして悲しげな笛の音色を聴いていると、なんとなく感動的な気分になったものです。

この時、音楽関係の仕事をしているという中年の紳士は、演奏を終えた老人に、イスタンブール市内のアルメニア人協会でリサイタルを開くよう提案し、私たちをそのリサイタルに招待しました。

当日、その頃イスタンブールに滞在していた日本人の友人たち数人と一緒に、アルメニア人協会を訪れたところ、地下に設けられた会場には60〜70名のアルメニア人が集まっていて、いよいよ笛を手に老人が舞台に登場すると、発起人である中年の紳士は、会場の人々に先ずアルメニア語で何事か説明し、それからトルコ語で「今日はトルコ語を解する日本の友人も招待したので、特別にトルコ語でも挨拶することにします」と語り始め、老人の経歴やリサイタルを開くことになった経緯などを解り易く話してくれました。

その後も、曲が演奏される前には、アルメニア語と共に必ずトルコ語でも曲の由来などを説明してくれたのですが、いくつかの曲はオスマン帝国時代の悲しい歴史に纏わるもので、一部の聴衆が笛のメロディに合わせて唱和することもあり、“アダナの悲劇”という曲が演奏された時には、聴衆の中からすすり泣きの声が洩れたりして、一種異様な雰囲気に包まれたものでした。

左の写真は、“バルック・パザル(魚市場)”の横丁。青い服の男が歩いている辺りに鉄扉の門があります。真中の写真は鉄扉を開けて中へ入ったところ。右の写真は、中庭から撮った教会の姿です。

20070218-1.jpg 20070218-2.jpg 20070218-3.jpg



| 1 | 2 |