Diary 2007. 10
メニューに戻る
10月2日 (火)  昨晩の出来事

昨晩、ヨーロッパ側からアジア側へ戻ろうとして、カラキョイ発の最終の船便を逃してしまい、ガラタ橋のたもとにいた警備員に他の船便を尋ねたところ、「残念だけれど、タクシムまで歩いてアジア側へ行くバスに乗るよりないでしょう」と言いながら、もう一人の警備員と話している青年を指差し、「彼も船便を逃してタクシムまで出るようだから、ついて行ったらどうですか?」と勧めるので、青年に声を掛け、一緒にタクシムへ向かって歩き始めました。

タクシムで終バスに乗り損ねたら元も子もないから、二人ともかなり早足で黙々と歩いたけれど、時々お互いを振り返っては、会話を交わしました。青年の話によれば、彼は学校を卒業して働き始めたばかりなのに、近々兵役へ行かなければならないそうです。歳を訊けば、27というから、多分、大学院で修士か博士まで終わらせているのか、あるいは途中で留学経験でもあるのでしょう。背負っているナップザックから定規が覗いていたので、「建築士?」と訊いたら、「解りますか? こんなもの持って歩いていれば当然解りますよね」と笑っていました。

私は、先週の金曜日にも、滞在していたアンカラのクズライで夜遅くまで飲んでしまい、宿のあるウルスまで歩いて帰ったものだから、青年にこの話をしてみたところ、青年はイスタンブール生まれのイスタンブール育ちで、未だアンカラを見たことがないそうです。彼は、アンカラへ行く機会があれば、先ずはアタテュルク廟に詣でたいと言いますが、実際、アンカラには他にこれといった観光名所もないから、格別に用がなければイスタンブールの人がわざわざアンカラを訪れることは余りないのかもしれません。

二人でタクシムに着いたら、私が乗るコズヤタウ行きも、彼が乗るボスタンジュ行きも、出発時間まで未だ間があったので、バス停のところでまた暫く話してから、固い握手を交わして別れました。結局、お互いの名前も聞かずに別れたけれど、船に乗り遅れたお陰で、却って良い時間を過ごせたように思います。こういうのもトルコならではのことじゃないでしょうか。


10月4日 (木)  アンカラのモスク

モスクへ行くと、お堂の前に、石台が一つか二つ設けられていることがあります。この石台、上に大人が一人横たわれるぐらいの大きさで、高さは1mほどじゃないでしょうか。何に使うのかと言えば、葬儀が営まれる際、ここに棺桶を置くそうです。

アンカラには、コジャテペ・ジャミーという近代になってからコンクリートで作られた大きなモスクがあり、要人などの葬儀がここで営まれる為、新聞の紙面に、よくその名が出たりします。

今年の3月、初めてこのコジャテペ・ジャミーを訪れた時のこと。お堂前の広場にそういった石台が八つも並べられていたので、『何故だろう?』と思い、モスクの職員に訊いたら、戦闘で死亡した軍人たちの合同葬儀を営むことがあるからだと教えてくれました。

先週、アンカラ滞在中、この石台の様子を写真に収めようとコジャテペ・ジャミーへ寄ってみたところ、正面の階段の前に兵士たちが整然と列を組み、何やら物々しい雰囲気。兵士たちの前を通り過ぎて階段を登り、石台の設けられた場所へ出ると、そこには将官やその家族と思われる人たちの姿が見られ、どうやら葬儀の準備を進めているようです。

並んだ石台の前に仮設の台が用意され、その上に緑の布に覆われた棺桶が一つだけ置かれています。遺族らしき方が掲げている写真は年老いた女性のものであり、おそらくこの女性の葬儀が営まれるのでしょう。亡くなった女性は軍人の親族でしょうか? いずれにせよ、戦闘で死亡した若い兵士の葬儀ではなくて、まだ良かったのかもしれません。

しかし、この日は写真を撮れそうな雰囲気でもなかったので、カメラを取り出すこともなくモスクを後にしました。今、その光景を思い出すと、政教分離の守護者たる軍人も、決して無宗教じゃないことは解るけれど、もしも、戦闘で死亡した一群の兵士の中に異教徒がいたらどうするのだろうと余計なことが気になります。とはいえ日本でも、戦死した軍人は信仰の如何に関わらず靖国神社に祭られているようだから、正しく余計な心配であるに違いありません。何処の国でも似たような問題はあるのでしょう。

また、もっと余計なことですが、戦死者の合同葬儀の為に、棺桶を置く石台が八つというのは、何だか少ないような気もしました。トルコでは、これまでにそれほど大きな戦争がなかったからでしょうか?

写真は、翌日に出直して撮ったものです。

20071004-1.jpg 20071004-2.jpg



10月8日 (月)  引っ越しました

申し遅れましたが、8月の末に引っ越しました。アパートをシェアしていたトルコ人の友人ふたりが、突然解雇されて郷里へ帰った為、私ひとりでは家賃を負担することが難しくなったところへ、同じウスキュダル区内に住む日本人の友人が手を差し伸べてくれたので、彼がトルコ人とシェアしているアパートへ引っ越させてもらったのです。

ここは、同じウスキュダル区内といっても、かなり端の方で、隣接するウムラニエ区の中心街から近いところに位置しています。しかし、バスで乗り換えなしにヨーロッパ側のタクシムへ40分ぐらいで出られることもあって、それほど不便なところではありません。

同居しているトルコ人は、イスラム教導師養成学校の出身とあって、先月の13日から始まっているラマダンを前に断食の実践を宣言していたけれど、完璧に実践していたのは最初の一週間ぐらいじゃないでしょうか。後は、やったりやらなかったりで、本人は「実践よりも、気持ちが大切なんだ」と話しています。

ラマダンの開始日は、来年また11日早まり、再来年にはいよいよ8月の盛夏にラマダンへ入ることになります。その後も10年ほどは、夏場のラマダンが続き、暑い上に日没時間も遅くなるから、断食実践者にとってはなかなか大変なことであるに違いありません。

私も冬場の楽な時に、ほんの数日断食を体験してみただけで、「たいしたことないよ」なんて言ってはいけないから、一日ぐらいは夏場の断食も体験してみなければと思うけれど、さていつのことになるでしょうか?

今年は体験してみる気がないし、イスラム教徒でもない私が、ラマダンになったからと言って、特別に生活のスタイルを変えることはありません。最近は、イスタンブール市内の場合、ウスキュダルのように保守的な街であっても、ラマダン中に昼の営業を止めている飲食店は殆ど見られなくなりました。これは、おそらく経済的な理由からなのでしょう。店主に従業員ともども断食を実践しながら、お客に飲食を提供している食堂もあります。アルコールを提供している店も普段通りの営業を続けているし、断食を実践していない者が特に不便を感じるような変化は余り見られません。私も政教分離のトルコに敬意を表していつも通りに飲んでいます。



10月12日 (金)  イスタンブールに乾杯

京都の日本トルコ文化協会が発行している“キョプル通信”の秋号に、「イスタンブールに乾杯」と題した私の投稿記事が掲載されたので、こちらでも紹介させてもらうことにしました。

実際にこの記事を書いたのは6月末のことであり、8月の末まで暮らしていたウスキュダルのアパートで同居していた友人たちとの交流を題材にしたのですが、前回の“便り”にも記したように、彼らはこの1ヵ月ぐらい後に突然現場を解雇され、郷里へ帰ることになります。

日本トルコ文化協会
http://www.neo-pro.jp/makoto/link/link/link.cgi?mode=go&no=9

*************

【イスタンブールに乾杯】

私のトルコ暮らしもそろそろ12年近くになる。その間、アダパザル県で過ごした3年半とイズミル県での1年を除けば、生活の拠点はいつもイスタンブールだった。しかしながら、イスタンブール市内を転々として、同じところに余り長く居たためしがない。今住んでいるウスキュダルのアパートに越して来たのは一昨年の11月だから、未だ一年半しか経っていないけれど、これが一番長い期間になるのではないかと思う。

ウスキュダルは、欧亜両大陸にまたがるイスタンブールのアジア側に位置するが、アパートから10分ほど歩けば、ボスポラス海峡に出て、向こう側のヨーロッパ大陸を望むこともできる。そこからはヨーロッパ側へ渡る船があり、交通の便は極めて良いし、アパートの周辺は静かで環境も悪くない。

私は3LDKのこのアパートを二人のトルコ人青年とシェアして借りた。オカンとハムザ、共にカフラマンマラシュ県出身の28歳、高校の同級生同士だそうだ。彼らは、日本の建設会社が進めているボスポラス海峡のトンネル工事に関わる現場で作業員として働いている。私も一昨年は同じ現場で通訳を務めていて彼らと知り合った。いずれも身体能力抜群という体育会系の好青年で、よく働き、よく遊び、そして適度に飲む。オカンは少しシャイなところがあるけれど、ハムザの方はなかなか曲者だ。恋の道にも長けているらしい。女性の口説き方から酒の飲み方に至るまで、ハムザがオカンに教えたそうである。私は彼らより20歳近く年長だけれど、女性の口説き方では、私もハムザ兄貴の講義を受けているから、このアパートの親分はやっぱりハムザだろう。

ここは現場から近い為、時々、他の作業員たちも集まってトランプ等の賭け事に興じたり、酒盛りしたりしている。私は若い頃、関東でダンプの運転手をしながら飯場暮らしをしたことがあるから、彼らを見ていると、つい当時のことを思い出してしまう。飲む・打つ・買う、日本でもトルコでも現場の男たちがやる事は余り変わらないようだ。しかし、日本の飯場には、そこへ来る前は刑務所に居たとか、クスリに手を出したこともあるとか、なかなか危ない御仁がいたものだけれど、それに比べてこちらの連中はかなり常識的で大人しいような感じがする。ハムザに訊いたら、「トルコでそういう危ない連中は働いたりしないんだ」と言う。また、ハムザにしろオカンにしろ、お世辞にも“敬虔なイスラム教徒”とは言い難いが、全く信心がないわけではない。一昨年のラマダンには二人とも断食を実践していなかったのに、去年はそろって実践していたので少々驚かされた。平時、彼らは礼拝することさえないが、共同生活を始めたこともあって、断食の実践により連帯感を高めたかったのかもしれない。もちろん、ラマダン中は昼夜を問わず酒を絶っていた。

さて、これはつい先日のことだが、夕方、オカンとハムザは、現場から、常連のメンバーであるムラット、アスラン、ムハレムを伴って帰宅した。ムラットとムハレムは妻子持ちで30代後半、特にムラットは現場のリーダー格であり、ハムザも彼には一目置いている。まあ、大親分といったところだろう。ムハレムも、オカンとハムザにとっては以前の職場からの先輩であるはずだが、至って気さくな男で、兄貴分といった風でもない。アスランは未だ23歳ぐらいじゃなかったかと思う。茶目っ気のある陽気な青年だ。

この日は皆で夕食会ということになり、オカンとハムザが調理を担当、あっという間に“メネメン”という“トルコ風卵とじ”をこしらえた。リーダーのムラットは、その場を盛り上げようと、いつもの如く卑猥な冗談を繰り返していたけれど、食事には余り手をつけない。自宅で妻子が待っているから、色々考えなければならないこともあるのだろう。雑談の中に結婚の話題が出て来たら、打って変わって真面目な口調になり、「可能ならば同郷の女性と一緒になるのが良いだろうね。習慣や伝統の違いにお互いが悩まさられることもなく、家庭が円満になる」と力説しながら、自分の家庭も気になり始めたらしい、早々に暇を告げてアパートを後にした。親分を務めるのも楽ではないようだ。

ムハレムの方は、子供たちの学校が夏休みに入ると、妻子ともども黒海地方の郷里へ帰ってしまったそうで、最近は良くこのアパートに泊り込んだりしている。イスタンブールの自宅はヨーロッパ側のかなり遠い所にあるから、夕食を食べてしまったら、とても帰る気にはなれないのだろう。「さて、ビールでも飲もうか」と言い出した。すると、これを受けてハムザが「今日は気分を変えて外で飲もう」と立ち上がったので、ぞろぞろと皆で繰り出すことになった。

海峡の船着場の辺りまで来て、『いったいどの店に入るつもりなんだろう?』と思っていたら、ハムザは酒屋に入って缶ビールを買おうとする。「それを何処で飲むんだ?」という私の問いに、「何処って、その辺の海岸だよ」とハムザは当たり前な顔して答える。しかし、ウスキュダル区の条例により、海峡沿いの公園等における飲酒は一切禁止されたはずだから、「大丈夫なの?」と訊けば、「関係ないさ。実を言うと、昨日もあの辺で飲んでいたんだ。そしたら、ポリスが来て『ここで飲むことは条例で禁止されている。違反した場合は罰金140YTLであることを承知しておくように』と言渡して立ち去ったよ。区の条例だからね。知らない人もいるんで、先ずは警告することになっている。まあ、大袈裟に考える必要はない」と笑って取り合わなかった。

缶ビールを購入して、海峡沿いの芝地へ出ると、そこでは既に幾組かの家族連れがバーベキューを楽しんでいた。ムハレムが「家族連れがいるから、ここは遠慮しておこう」と言い、ハムザも同意して、波打ち際の岩場まで出ることにした。ハムザ曰く「昨日は最初に岩場へ出てみると、未だ子供が沢山いたんで教育上良くないと思って場所を変えたところ、そこへポリスが登場したというわけさ。今日は時間も遅いから、岩場に子供たちがいることもないだろう」。

彼らも、それなりに周囲へ気を使いながら飲んでいるらしい。条例で禁止されたと言っても、余り無作法に飲んでもらっては困るという趣旨であって、このように気を使って飲む分には構わないのかもしれない。ウスキュダル区政は、イスラム的な傾向があるとされている政府与党のAKP(公正発展党)の手中にあり、この条例は政教分離主義の立場から色々と批判もされているが、ハムザやムハレムたちは、もう少し柔軟に受け止めているようだ。そもそも彼らは皆AKPを支持しているのである。

波打ち際まで出ると、闇の中で静かに佇む海峡の向こうに、ライトアップされたトプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクの姿が浮かび上がっていた。一杯やるには最高のロケーションであるに違いない。早速、めいめい適当な岩に腰掛けて飲み始めた。ところが、先ほどから携帯で話していたオカンは、携帯を耳から外すこともなく、手を振って“飲まない”と合図している。私がハムザに、「オカンはどうしたんだ? そういえば最近やたらと携帯で話し込んでいるけれど、誰に電話しているのか?」と小声で訊いたら、彼女が出来たからビールなど飲んでいる場合じゃないそうだ。
「でも、あれじゃあ電話代が掛かって大変だよ」
「いや、あのぐらいマメに電話しなければいけない。マコト、女っていうのは猫みたいなもんで、いつも撫で回してやらないと、怒ってライオンのようになってしまうんだ」
「へえ、そんなもんかね。俺は用がなければ電話なんて掛けないけどな」
「駄目だよそんなことじゃ。だから君にはいつまで経っても彼女が出来ないんだ。まったくどうしようないよなあ」
そう言いながら、ハムザは如何にも残念そうに顔を顰めて見せた。どうやら、いつまで経っても彼女が出来ない年長の友人を心より心配してくれているようだ。実に有難いことで返す言葉もない。私は黙ってイスタンブールの夜景に乾杯した。

*******

写真左

これは昨年の暮れに撮ったもので、左からアスラン、ムラット、ムハレム、ハムザ、オカン。この頃ムラットは髭を蓄えていて貫禄充分です。

写真右

本文で紹介した6月末の夕食会。メンバーは同じで、左からオカン、ムハレム、ムラット、アスラン、ハムザ。

9月になって一度イスタンブールに出て来たオカンと会ったら、「近々、君を僕らの結婚式に招待できるかもしれない」と笑っていたけれど、あのタイミングでの失職は結構痛かったかもしれません。今はオカンもハムザもカイセリにいて、何とか仕事も見つかったそうです。

20071012-1.jpg 20071012-2.jpg



10月17日 (水)  昨年も感じたことではあるけれど・・・

前々回、10月8日の“便り”には、「保守的なウスキュダルの街でもラマダン中に昼間の営業を止めている飲食店は殆ど見られなくなった」というように書きましたが、トルコ人の友人によれば、この現象は、交通の便が良いウスキュダルへ保守的ではない人たちも移り住むようになった結果であり、農村からの流入も多い周辺部の街へ行けば、ラマダン中に営業しない飲食店は決して少なくないそうです。

昨年の11月25日の“便り”でも記したけれど、やはり2002年にAKPが政権を取って以来、ラマダンになるとイスラム的な傾向が目立つようになったかもしれません。

2006年11月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=11

しかし、今日、トルコのワインを海外に紹介する事業を進めているトルコ人の方と会って話を伺ったところ、かつて中部アナトリアの葡萄の産地では、ワイナリーに葡萄を提供したがらない農家が多かったものの、最近は提供を躊躇わない農家が増えてきたそうです。

トルコでは、ここ数年の間に価値観の多様化が急速に進み、かつてのように世俗主義やイスラム主義といった簡単な色分けは難しくなってきました。もちろんイスラムの引力には依然として強いものがあるようだけれど、グローバリズムの引力は日々に増してきているし、その他にも様々な引力が絡み合っている為、社会が何れかの方向へ簡単に引っ張られてしまうことはないように思えます。



10月22日 (月)  この恥知らず!

トルコ軍による北イラクへの越境攻撃が取り沙汰される中、またしても南東部で軍とテロリストの大規模な衝突があり、双方に多くの死者が出た模様です。昨夕、タクシム広場を通り掛ったら、トルコの国旗を掲げてテロ行為に抗議する人たちが沢山集まっていました。

8月末から暮らしている今のアパートには、23歳のトルコ人青年とその弟が同居しているけれど、イスラム導師養成学校出身のこのトルコ人青年は、イスラムというより民族主義的な傾向が強く、親米的なAKP政権を辛辣に非難しながら、ニュース番組でテロリストの事件が報道される度に、テレビに向かって大声で「この恥知らず!」とか「けだもの! 売女! 悪党どもめ!」などと叫んでいます。昨夕は、何処かで抗議集会に参加していたかもしれません。

しかし、テロリストらが悪党であり、けだものであり、恥知らずなのは当然であるとしても、青年が事ある毎にこのフレーズを叫ぶ姿には少々不可解なものを感じます。こうして解り切ったことを何度も繰り返し叫ぶのは、テレビの画面で象を見る度に、「なんてでかいんだ! なんと長い鼻だ! 耳が凄く大きいぞ!」などと叫んでいるようなものだからです。

8月まで住んでいたアパートの同居人だったオカンとハムザは、いずれも兵役を東部の危険地域で済ませ、テロリストについて意見を求めれば、静かな口調でその行為を非難し、「いざとなれば国の為に戦う用意はできている」と答えますが、テレビに向かって大声で叫ぶようなことは決してありませんでした。

これに引き換え、現同居人青年は、未だに兵役を済ませていません。先日は、テレビに向かって「可能ならば直ぐに戦場に赴いて、こいつらを皆殺しにしてやりたいくらいだ!」と叫んでいたから、「可能ならばって、君には兵役に付けない障害でもあるのか?」と訊いたところ、「学校があるじゃないですか、無ければ兵役に付けるんですがね」と当然のような顔して答えます。
「君は、この前短期大学を卒業して、今は不動産屋に勤めているんじゃなかったのか?」
「でも、通信教育に登録して、学業を続けているんですよ」

この青年が通信教育を受けている事実をこの時に初めて知りました。同居している日本人の友人もこれを知らなかったそうです。昼間に不動産屋で何をやっているのか知りませんが、アパートに帰って来れば、テレビを観ているか、友人のパソコンでゲームやチャットを楽しんでいるだけで、何か勉強しているところなどは一度も見たことがなかったから、これにはちょっと驚かされました。

まあ、この青年が何を思って通信教育に登録したのかは解りませんが、トルコには兵役を遅らせる目的で通信教育に登録している若者が多いという話は良く耳にしたことがあります。