Diary 2007. 1
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1月1日 (月)  新年明けましておめでとうございます

2007年の1月1日、トルコは新年と犠牲祭を同時に迎えました。犠牲祭はイスラム暦により、毎年11日ずつ早まって行く為、こうして新暦の元旦と重なってしまうこともあるわけです。また、大晦日から元旦にかけてはギリシャ正教徒にとっても、クリスマスツリーのもとでプレゼントを渡す宗教的な祝祭であり、私も旧居の大家マリアさんのところへ招かれて、ギリシャ正教徒の新年を祝ってきました。

今年、このささやかな新年パーティーに出席したのは、マリアさんと娘のスザンナさん、孫のディミトゥリー君、そして、マリアさんが子供の頃からその家族の友人であったというアルメニア人のガービおじさんに私だけでした。

80何歳かになるガービおじさんについては、昨年10月3日の“トルコ便り”でも紹介したけれど、ガービというのはガブリエルの通称で、正式にはガブリエル・ムムジュヤンといったような御名前じゃなかったかと思います。

http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=10

ガービさん、耳が遠いところを除けば、年齢を感じさせない若々しさで、去年の夏にビュユック島で一緒に泳いだ時などは、岸から遠く離れて悠然と泳ぐ姿に、こっちがハラハラしてしまったほどです。茶目っ気のあるガービさんは「俺は若い頃とてもハンサムだったから、この島の海水浴場では、娘たちが皆俺に見とれていたくらいだよ」なんて自慢していましたが、マリアさんの話によれば、若い頃のガービさんはサッカー選手としても活躍し、同じくビュユック島出身でトルコの伝説的なサッカー選手であった“レフテル・キュチュックアンドニヤディス(Lefter Kucukandonyadis)”がトルコ・リーグのフェネルバフチェから、1951年にイタリアのフィオレンティーナへ移籍した際には、そのマネージャーを務めたそうです。

レフテル・キュチュックアンドニヤディス(Lefter Kucukandonyadis)
http://en.wikipedia.org/wiki/Lefter_Kucukandonyadis

http://www.kimkimdir.gen.tr/kimkimdir.php?id=881

ガービさんは日本の歴史についても詳しく、日露戦争における東郷平八郎元帥の活躍や、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六元帥の名も御存知で、他のトルコ人と同じように、真珠湾攻撃の模様をさも痛快そうに物語り、「アドミラル・ヤマモト、ヤマモトは素晴らしい」などと言いながら、私のことまで“ヤマモト”にしてしまい、「元気か? ヤマモト」なんて言ったりしていました。

それが、昨日は、サッカーについて殆ど何も知らない私を相手に、なんとかサッカーのことを話題にしようとして、
「おいヤマモト、ガラタサライで日本の選手が活躍しているぞ。あれも“ヤマモト”だったな?」
「違いますよ。ヤマモトじゃなくてイナモトでしょう」
「えっ? 何? ヤマモト」
「ヤマモトじゃなくて、イナモト、イナモトです」
「えっ?、イナモト? イナモトだったか」

こうして苦労しながら、やっと分かってもらえたのは良かったけれど、それからは、私のことも“イナモト”に変更。
「おいイナモト、この菓子美味いぞ、もっと食べたらどうだ」などと言う始末です。

このガービさんについては、フジイセツコ氏の著書「イスタンブールのへそのごま」に、幼い頃のディミトゥリー君が、食卓に座っているガービさんの足をこっそりと紐でテーブルの足に結びつけてしまい一騒動あった時の様子が描かれています。

イスタンブールのへそのごま
http://www.ryokojin.co.jp/books/16istanbul/istanbul.html

さて、新年も明けて、夜中の2時ぐらいまで美味しいロードス島産のワインを味わったりしながら楽しみ、それから我が家へ戻るべく、旧居を後にしてタクシム広場の方へ出ると、新年へのカウントダウンが催されていた広場は未だ多くの人たちでごった返しており、売れ残ったビールを一生懸命売りさばこうとしている売り子や、瓶ビールをラッパ飲みにしながら歩く青年たちがいたり、中にはスカーフを被った若い女性の姿も見られました。

この新年は、イスラム教の犠牲祭でもあるわけで、これを書いている今、『広場で飲めや歌えやの乱痴気騒ぎを繰り広げていたあの人たちが、今頃は厳かに祈りを捧げながら犠牲祭の行事に臨んでいることもあるのだろうか?』と気になります。

写真は、マリアさん家族とガービさん。それから、2007と記された特製のパン。このパンの中にはコインが一つ入っていて、めいめいの皿へ切り分けられた後、中からこのコインが出てくれば、その人は“運が向く”のだそうです。また、去年の4月24日の“トルコ便り”に、「この家族では“復活祭”に限らず、クリスマス等の祝祭にも“イースターエッグ”を振舞う」というようなことを記してしまったのですが、これは私の思い違いで、「卵無いの?」と訊いたら、「復活祭以外にイースターエッグを振舞うことはありません」と言われてしまいました。

http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=4

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1月3日 (水)  犠牲祭の思い出

今年の犠牲祭の行事には参加する機会がなかったので、今日は2000年の犠牲祭に、黒海地方のオルドゥ県で友人の家族と過ごした時の思い出をお伝えすることにします。

友人はオルドゥ県の黒海に面したユンエという小都市で小・中学校の教員をしていますが、この年の犠牲祭には、ユンエから山間に暫く入った町にある奥さんの実家へ帰省していました。

私も犠牲祭が始まる前日の晩に町へ入り、友人と共に奥さんの実家で犠牲祭の朝を迎えたところ、友人を初め家族の男たちは、先ず町のモスクへ“犠牲祭の礼拝”に出掛けます。私は一緒にモスクの前まで行ったけれど、礼拝には参列せずに、その辺を散策しながら、礼拝が終わるのを待ちました。

多分、この礼拝には町の男たちが全員参列していたのでしょう。モスクでは中庭に至るまで、堂内に入りきらない参列者が鈴なりとなって礼拝を営んでいました。

礼拝が済むと、今度はモスクの門前に参列者が並び、順に犠牲祭の挨拶を交わすことになります。この時に注意して見ると、友人の岳父は順列の先頭となる門の直ぐ前に立ち、他の参列者より一層の敬意が込められた挨拶を受けているようでした。後で友人に訊いたら、岳父はこの町一番の名士なんだそうです。奥さんの実家は四階建てぐらいのビルで、それほど贅沢な造りでもなかったけれど、隣のビルも所有していたようだから、やはり相当な資産家なのでしょう。

こういった形式的な挨拶やヒエラルキーには抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、これによって町の安寧秩序は穏やかに無理なく守られているのではないかと思います。

挨拶も済んで家に戻ると、いよいよ支度をして、生贄を切りに行くわけですが、この年は、少し離れた村に住む親戚の所で切ることになっており、三台の車に分乗して出発しました。

親戚の所へ着くと、広い庭では子供たちが牛と羊を相手に遊んでいて、どうやらこの2頭が生贄として屠られるようです。

準備が整うと早速祈りが捧げられて、先ずは羊から屠りにかかります。おとなしく寝かされた羊の喉の方から切り込んでいくと、夥しい血が流れ始め、羊は痙攣したようになるけれど、直ぐには絶命しません。

友人の中学生になる長女は、先ほどこの羊と遊んでいた幼い子供たちの肩に軽く手を置いて、一緒に羊の方を見るよう促します。一人は痙攣する羊を見てちょっと嫌な顔をしたものの、長女が静かに「見て生死を争っているのよ」と言うと、頷いて目を背けずに、羊の首が落とされ完全に絶命するまで、それを見守っていました。

この長女はとてもお茶目な娘で、人の好い優しいお父さんをからかって、キャッキャッと笑ったりすることがあるけれど、この時ばかりは最後まで緊張した真剣な表情を崩しませんでした。

羊の次に牛が屠られる番になると、大きな牛を押さえる為に私も手を貸したのですが、牛は首を落とされた後も足を痙攣させ、その強い生命力を見せつけます。私はこれを見て驚きながら、死の凄まじさに厳粛な思いがしたものです。

【110】“犠牲祭”の大切さ【ラディカル紙】【2005.01.21】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00110.html

【40】「犠牲祭」の意味するもの【ラディカル紙】【2004.02.06】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00040.html



1月4日 (木)  強制送還されてしまった友人夫婦

昨日の“犠牲祭の思い出”の続きです。

黒海地方オルドゥ県のユンエで小・中学校の教員をしている友人とは、1998年に名古屋で知り合いました。当時、彼は出稼ぎで日本に来ていたのです。

97年に大阪で日本とトルコのサッカー親善試合が催された時、競技場で名古屋から来たというトルコ人のグループに会い、「是非名古屋へ遊びに来てくれ」と言われていたので、翌98年の夏、名古屋に彼らを訪ねてみたところ、木造2階建てのボロアパートにトルコ人ばかりが住んでいて、さすがに驚かされました。

それから、彼らの車2台で南知多辺りの海水浴場へ出掛けたのですが、夕方になって彼らと一緒に海岸通りを歩いていた時にも、他のトルコ人グループと出会ったりして、「いったいここは何処なんだ?」という思いに駆られたものです。

夜も更けて、今度は「さて何処に泊まるというのだろう?」と思っていたら、車のシートを倒し、「貴方はお客様です」と言いながら私をそこに寝かせ、乗り切れない者は、駐車場に茣蓙を敷いてそこで夜を明かしていました。

彼らは全員オルドゥ県の出身で、お世辞にも“教養がある”とは言えない連中だったけれど、仲間から「先生(ホジャ)」と呼ばれている人物だけは、教養もあり極めて紳士的でした。これがその友人だったのです。

私はその夏、4年ぶりにトルコへ復帰し、名古屋の連中とはそれっきり会う機会もなかったのですが、99年の暮れに“もしや”と思い、メモにあった友人のユンエの電話番号に掛けてみたら連絡がついて、翌2000年の犠牲祭に前述の如く再会を果たしました。

名古屋で私と会った頃、友人は未だ日本へ来たばかりで、それから直ぐに奥さんも日本へ呼び寄せ、二人して愛知県内の工場に住み込んで働いたそうです。ところが、一年ほど経ったある朝、だしぬけに寮を訪れた入管の人たちから、「もうトルコへお帰りになる時が来ましたよ」と告げられ、強制送還されてしまうことになります。

友人夫婦は突然の出来事に驚き悲しんだものの、入管の施設では係りの人から親切に声をかけられ、特に奥さんは、女性の係員とトルコに残してきた子供たちのことを語り合い、「そんなお子さんがいるのに夫婦で国を離れてはいけませんよ。これからは家庭を大事にして下さいね」というように慰められて、思わず涙をこぼしてしまったそうです。

しかし、友人は日本へ立つ前まで高校の教員をしていたという話だし、犠牲祭の第一日目には、奥さんの実家が相当な資産家であることも分かったから、『何故、夫婦で日本へ出稼ぎなどに行ったのだろう?』と疑問を感じてしまいました。

犠牲祭の二日目、友人は町のあちこちを案内してくれたのですが、途中、ある家の前まで来てから、「実を言うとここが僕の実家なんだよ」と言い、私を招き入れます。家は立派な造りだったけれど、中はなんとなく寂れた雰囲気で、友人のお母さんであるという老婦人が一人で住んでいるようでした。

友人の実家であるというのに、そこではほんの30分ほどお茶を飲んだだけで、そこを後にすると、直ぐにまた奥さんの実家へ戻りました。友人は道すがら、寂しそうに、「君はもう長いことトルコにいるから、これがトルコでは如何に異常なことであるか解るよね」と言います。

それから友人が物語ったところによれば、彼がこの町で奥さんと結婚した頃は、彼の実家も奥さんのところと一二を争う資産家だったのに、その後、弟が事業に失敗して家の資産を蕩尽してしまった為、彼は奥さんの実家で、入り婿同然の立場に追いやられ、夫婦ともども悔しい思いをしたことから一念発起し、教職を退いて日本へ出掛け、夫婦共に頑張って働いたのだそうです。

夫婦が日本で働いていた頃、下の男の子は未だ小学生であり、確かに如何なる理由があろうとも、子供を国に残して日本へ来るべきではなかったかもしれません。しかし、今はその男の子もアンカラの一流大学へ進み、大いに将来が期待されていると聞きました。

友人のところへは、とうとう今年の犠牲祭にも行くことが叶わなかったけれど、なんとか暖かくなる頃には再訪を遂げてみたいと思います。



1月5日 (金)  中国人のホスピタリティー

1990年、東京の大学書林でトルコ語の学習を始めた頃のことです。私は築地の魚河岸でトラックによる配送のアルバイトをしていました。早朝、2tトラックで魚河岸に乗りつけ、場内の卸商から荷車によって運ばれてくる鮮魚等をトラックへ積み込み、多摩地区にある各スーパーへ配送するバイトです。

荷車を引いて商品を運んで来る人たちの中に、ヤンさんという中国人の留学生がいて、彼とは直ぐに親しくなりました。ヤンさんは、日本へ来る前、上海の美術館だか博物館のようなところに勤務していたそうで、非常に博識な上、素晴らしいほどに達筆でした。(まあ、中国の人が達筆なことに一々驚いていたら限はないけれど)

当時、私は東池袋のボロアパートに住んでいましたが、ヤンさんの住所もそこから程遠くない大塚駅の近くだったから、ある日彼に、大塚の辺りで美味しい中華料理屋はないかと尋ね、「メニューを見ても良く解らないから、一度ご一緒できませんか?」と食事に誘ってみたところ、「申し訳ないけれど、僕は貧乏留学生だから、とても外食はできません」と言うので、「それなら食事代は私が持ちましょう」と無理やり承諾させました。

早速、その週末に、ヤンさんが連れて行ってくれた料理屋は、店の人もお客さんもその殆どが中国人といった感じのところで、見るからに美味い料理が味わえそうな雰囲気です。メニューの選択を彼にまかしたところ、彼は店員に向かって中国語で長々と注文していたので、『いったい何を注文したのだろう?』と思っていたら、まもなく料理の皿が次々と運ばれてきて、おそらく5〜6品は出て来たんじゃないでしょうか。

テーブルを埋め尽くした品々は何れも非常に美味ではあったけれど、『まあ、二人で2000円もあれば足りるだろう』と高をくくっていた私は、急にふところ具合が心配になり、心落ち着けて料理を味わっている場合ではなくなってしまいました。それに、そもそもが二人で食べきれる品数ではなく、結局、かなりの量を残したまま席を立つと、ヤンさんはさっさと外へ出て、私が会計を済ませるのを待っています。

なんとか会計を済ませて私が外へ出ると、彼は申しわけ無さそうに頭を下げながら、こう言いました。「僕はとてもこういう店でお返しすることが出来ないから、来週は僕のアパートに来て頂けませんか? 僕が料理を作って御馳走しますよ」。

それで、翌週末の夕方、大塚駅近くのヤンさんのアパートへお邪魔してみると、ここが私のところに負けないほどのボロアパートで、台所といっても、部屋の隅に小さなガス台があるだけ。しかし、既に食卓は手料理の数々で埋め尽くされており、乗り切らない皿がガス台の脇にも置かれていました。ヤンさんはすまなさそうに、「なにしろ僕が作ったものですからね。それほど美味しいものじゃないかもしれませんが、どうぞ召し上がって下さい」と言ってたけれど、小さなガス台を使ってこれだけの品数を調理するのに、いったいどれくらいの時間をかけたのでしょう? おそらくは、朝からせっせと準備していたに違いありません。

なんでも中国では、他所で御馳走になった際、全ての料理を平らげてしまっては失礼になるのだそうです。平らげてしまった場合、料理の品数が充分ではなかったという意味になるから、もてなす方としても、客人が食べきれないほどの量を用意しなければなりません。これは私が暫く滞在した韓国でも同じでした。

ヤンさんは、たとえ奢ってもらうのだとしても、食卓に2〜3品ばかりの料理では私に失礼だと思ったのでしょう。我々日本人の中には、「なんて無駄なことをする文化だ」といってこれを非難する人がいるかもしれないけれど、私はヤンさんの心遣いをとても嬉しく感じました。もちろん、日本の文化で育った私は、いつも食べるものは残さないように気を配り、それを誇りにしていますが・・・。

しかし、我々はそんなことを誇りにしているものの、例えば、その当時、私が魚河岸から或る高級スーパーへ配送していた商品の中に“とこぶし”があって、これがどういう訳か毎日一個ずつ出るので、スーパーで検品してくれるおばさんに、「これは毎日一個売れているということですか?」と訊いたら、おばさんは、「ひとつも売れやしないんだけれど、ここは“品揃え”を自慢にしている高級店だからね。売れなくても必ず並べて置かなければならないんだよ。それで“とこぶし”なんてものは一日経てば傷んじまうだろ。だから、毎日売れ残りを処分して、新しいものを取り寄せるのさ」と呆れたように話したものです。

他にも魚河岸じゃ年末に“ホタテの貝柱”が飛ぶように売れるのだけれど、これも“貝のヒモ”などを一々加工場に回していたのでは、手間賃の方が高くついてしまうから、貝柱だけを取ると残りはどんどん捨ててしまいます。運転手の先輩が、それを「もったいないから」と言って、毎日バケツに一杯我が家へ持ち帰っていたら、そのうち奥さんから「余計なものを持ってくるな」と叱られてしまったそうです。

また、我々日本人が無駄に消費しているものは食品に限ったものではないでしょう。おそらく石油を消費している量だって、アメリカ人に次ぐ者は間違いなく日本人であるはずです。私も去年は二回日本へ行って来たけれど、トルコから日本までジェット機を飛ばす為には凄まじい量の石油が消費されるのだと聞きました。

トルコでは、犠牲祭の度に、「神に祈って生贄を捧げておきながら、肉を食べ尽くさないまま、無駄にしている」と非難する声が聴かれますが、私はなるべく無駄にならないような努力をしながら、犠牲祭の行事は続けるべきじゃないかと思います。現代に生きる私たちは、他のところでもっと凄い消費を繰り返していて、これはある程度減らせるだろうけれど、結局は生活レベルを維持する為に、この“きちがいじみた消費”を続けて行かなければならないでしょう。これに比べれば、犠牲祭でいくら頑張って牛や羊を切りまくったところで、その量はたかが知れています。

論語にも、生贄の羊を惜しんだ弟子に対し、孔子が「爾はその羊愛しむも、我は其の礼を愛しむ」と諭した話が記されていました。



1月6日 (土)  韓国人の熱き友情

これも、1990年に東池袋のボロアパートから魚河岸へ通っていた頃の思い出です。

私は87年の夏から、ソウルにある延世大学の語学堂に留学していました。89年の冬に日本へ戻り、ある韓国の会社の東京支店で働き始めた頃、韓国から来ていた留学生のキムさんと知り合い、蛮カラで如何にも韓国の男らしいキムさんと私は直ぐに意気投合したのですが、彼はまもなくして日本を離れ、韓国に帰って就職してしまいます。そして、その後は、私が韓国を訪れると、必ずキムさんが自分の家に招いて泊めてくれたものでした。

私が魚河岸へ通うようになったのは、90年の正月になってからだから、あれはその頃の話だったのか、それとも90年の暮れだったのか、はっきり覚えていないけれど、とにかく相当に寒い時期のことです。キムさんが日本へ遊びに来て、「何日かお前のアパートに泊まっていくよ」と言い出したので、私はちょっと困ってしまいました。というのも、私のボロアパートに寝具は一式しか無かったし、夜ストーブを消してしまえば、部屋はしんしんと冷え切ってしまうからです。

韓国は全羅南道のキムさんの実家は、当時、映画館を数軒も経営していたほどで、彼はその気になれば東京の一流ホテルにも宿泊できたはずなのに、なんでまた私のボロアパートに泊まろうとしたのかと言えば、それはつまり、彼なりの熱い友情を示したかったからなのでしょう。韓国の人たちは、えてしてこういう熱烈な感情の表出を好むものです。

それで、どうしたら良いものかと考えていたら、ふと思い出したのが押入れの奥にしまい込んであった寝袋でした。それは、韓国から帰国してこのアパートに入居した時、母が「この寝袋は薄いけれどとても暖かいからね。いざとなればこれだけでも充分に寝られるよ」と言って渡してくれたものだったのです。

アパートを訪れたキムさんに、「どうだろう。使ってみたことは無いけれど、結構暖かいらしいよ」と言いながら寝袋を出してみせると、彼は「おっ、上等な寝袋じゃないか。お前のところに泊まれるんだったら、俺は寝袋でも何でも構いはしないんだ。ありがたく使わせてもらうよ」と大いに喜んでくれて、夜になると嬉しそうに寝袋の中にもぐり込み、その笑顔だけを覗かせて芋虫のような格好で寝転びながら、「うん、なかなか快適なもんだ」と言うから、それで私も安心して自分の万年床につきました。

翌朝の4時半、私はいつものように目覚めると、まだ寝袋の中で寝ているキムさんを起こさぬよう、静かに万年床から抜け出して、魚河岸へ向かいました。

こうしてキムさんが、私の部屋で、3日泊まって行ったのか、5日ぐらい泊まって行ったのか、これまた良く覚えていないけれど、その後、韓国へ行ってキムさんと会っても、お互い寝袋の話などはすっかり忘れて、話題にもしませんでした。

それが、99年の3月頃、トルコから一時帰国していた私は、よんどころない事情により、あの寝袋を使わなければならなくなったのです。その頃は、キムさんがボロアパートに泊まって行った時期に比べれば遥かに暖かくなっていたものの、その薄っぺらな寝袋は全くと言って良いほど保温性が無く、寒がりの私はブルブルと震えながらなかなか寝付くことができませんでした。

その後、2003年の夏に韓国でキムさんに会ってこの話をしたところ、彼は愉快そうに笑ってから、「なんだ結局お前もあの寝袋を使ったのか? あれはもの凄く寒かったよ。正直言って俺も良く寝れなかったから、毎朝お前がごそごそ起き出す時も気がついていたけれど、心配かけると悪いから寝たふりをしていたんだ。それから、お前が出て行った後、お前の布団に入ってもう一眠りしていたというわけさ」と打ち明けたのです。

彼とは知り合った頃に良く日韓大激論みたいなこともやったけれど、その熱き友情は片時も忘れたことがありません。




1月7日 (日)  イスタンブールの正教徒

昨日、イスタンブールでは、ギリシャ正教徒たちによる“キリストの生誕と洗礼”を祝う行事が催されていました。これは、司祭が海へ投げ入れた木製の十字架を、正教徒の男たちが冷たい海に飛び込み、競い合って取りに行くというもので、コンスタンティノポリス総主教庁がある金角湾を初めとする各所で毎年催されます。

私は、今年こそ、この行事を実際に見物してみようと思っていたのですが、今日行なわれるものだと勘違いしていた為、またもや見逃してしまいました。

旧居の大家マリアさんに、昨日の晩、電話で問い合わせたところ、「明日じゃなくて今日だよ。うちでは誰も行かなかったけれどね。テレビのニュースでやるから観ると良いよ」と、それほどこの行事に関心があるわけでもなさそうな口ぶりでした。

マリアさんの家族は、復活祭とかクリスマスのような祝祭でもない限り、日曜日毎に教会へ行くこともないようだから、余り熱心な信者とは言えないのでしょう。

それでも、聖誕祭の晩に伺った際、茶の間で衛星放送によるギリシャのニュース番組を観ていて、コンスタンティノポリス総主教庁のバルソロメオス総主教が画面に映し出されるや、「なんて素晴らしい方なんだろうねえ」と感嘆しながら、その徳を称えていました。

バルソロメオス総主教は、東方正教会における名誉上の最高の地位にあり、先達て、ローマ法王がイスタンブールを訪れたのは、カソリックと東方正教会の和解をはかるために、このバルソロメオス総主教と会うことがその主たる目的だったはずです。

私はこれまでマリアさん家族のことを“ギリシャ正教徒”と紹介してきたけれど、実際は単に“正教徒”もしくは“東方正教徒”と言った方が良いのかもしれません。以下の“ウイキペディア”の説明などを読むと、どうやら東方正教会の中にそれぞれ“ギリシャ正教会”やら“ロシア正教会”なるものがが存在しているような感じです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A

聖誕祭の晩、ギリシャのニュース番組で、バルソロメオス総主教が映し出された後に、アテネを本拠地とする“ギリシャ正教会”の主教がその姿を現すと、それまでバルソロメオス総主教を称えながらうっとりとしていたマリアさんは、途端に顔をひきつらせて「これは全く嫌らしい男だよ。徳も無ければ、学識も無い。なんでこんなのが主教になれるのかね」と罵倒し始めました。

そもそも、こういった宗派の問題に限らず、マリアさんは、自分たちがギリシャ共和国のギリシャ人と一緒にされることを非常に嫌がります。トルコでは、ギリシャ共和国に住んでいるギリシャ人を“ユナンル”、マリアさん家族のようにトルコ国籍を持つギリシャ人を“ルーム(ローマ人の意。ローマ帝国の末裔ということです)”と呼んで区別しているけれど、以前、私がうっかり「あなた方はユナンルだから・・」と言ってしまったら、ムッとした様子で声を荒らげ、「ちょっと待ちなさい。私たちはユナンルじゃありませんからね」と訂正を求めるほどでした。

そして、アテネのことが話題になったりすると、マリアさんは、「お前知っているかい? アテネも、オスマン帝国の時代には、遺跡があるだけの小さな田舎町に過ぎなかったんだよ」というように語り、「イスタンブールには美しい都市にあるべき全てのものがある」と言うのです。

また、娘のスザンナさんは、ギリシャ共和国のギリシャ人と結婚して一時期アテネに住んでいたこともあるくらいですが、それでも結局「あの街に慣れることはなかった」と話していました。

一昨年に日本でも公開されたギリシャ映画「タッチ・オブ・スパイス」には、故郷のイスタンブールを追われてギリシャ共和国へ移住した後、なかなか新天地の生活に慣れ親しむことができなかったルームの家族の苦悩が描かれているけれど、マリアさんはこの映画を少なくとも5回は見たそうです。しかし、「タッチ・オブ・スパイス」はギリシャでも、「タイタニック」に次ぐ歴代2位の興行記録を打ち立てたというくらいだから、ギリシャの人々は、既に彼らの苦悩を理解しようとしているのではないでしょうか。それと共に、ギリシャとトルコの間に横たわる悪感情も徐々に和らいで来ているのかもしれません。

“タッチ・オブ・スパイス”
http://www.gaga.ne.jp/spice/main.html


写真はミリエト紙とアクシャム紙が報じた“海へ十字架を投げ入れる行事”の模様です。来年こそは、自分で写真を撮って来ましょう。


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1月9日 (火)  減らない飲酒運転

昨年の10月に日本へ行った際、書店でワインについて書かれた本をちょっと捲ってみたら、トルコという項目に「葡萄の産地ではあるものの、国民の殆どがイスラム教徒である為、飲酒の習慣がなく、ワインの醸造も行なわれていなかったが、近年輸出用に生産を始めている」というような記述があり、思わずのけぞってしまいました。

日本で様々に誤解されているトルコですが、これなどその最たるものでしょう。

実際にイスタンブールで生活してみると、この都市における飲酒率が男女共にそれほど低いものであるとは決して思えません。成人男子の場合、少なくとも7割以上に飲酒の習慣があると見ても良いのではないでしょうか?

最近読んだトルコで出版されている本の記事に、17世紀のオスマン帝国の旅行家だったエヴリヤ・チェレビの随筆から引用があり、それによると中部アナトリアのアマスヤを旅行したチェレビは、アマスヤの“桑の実酒”が美味であると記していたようです。

チェレビはもちろんイスラム教徒(ムスリム)だったわけで、オスマン帝国の時代からムスリムの間でも結構飲酒の傾向があったと考えて良いかもしれません。

現在のトルコでは、この飲酒率と共に、残念ながら飲酒運転率も極めて高いような気がします。

先達て、同居人の青年を訪ねて来て、一緒に飲み食いして行った男の話には、私もさすがに唖然としてしまいました。この男、以前は長距離バスの運転手をしていたそうなんですが、ある日イスタンブールでビール4本にラクも飲んでから、旅客を乗せてチャナッカレまで行ったそうです。しかもこれを、自分がどれくらい酒に強いのか自慢する為に話していたのだから、開いた口がふさがりませんでした。

さて、トルコには、イシュケンベという“モツを煮込んで作った美味しいスープ”があり、これは二日酔いの特効薬であると言われ、飲んだ後にこのスープを頂くと酷い二日酔いをせずに済むそうです。

このイシュケンベを食べさせる専門店もあるけれど、イスタンブールの有名なイシュケンベ屋というのは、たいがい繁華街から少し離れた大通り沿いなどにポツンと店を構えています。

かつては、多くの人たちで賑わうイスティックラル通りの中ほどにあったイシュケンベの名店が、夜になれば人影も疎らになるような大通り沿いに越してしまった為、その時、店の人に「何でまたこんな所へ越したの?」と訊いてみたところ、嬉しそうな顔をして「うちもやっと良い場所が見付かったんですよ。何しろこの商売は駐車スペースが確保できる所じゃないとやっていられませんからね」と話してくれました。

私は深夜にイシュケンベ屋などへ行ったことがないから良く解りませんが、週末のイシュケンベ屋の書き入れ時は、夜の1時を回ってからであり、その頃になると、近くの繁華街でしこたま飲んだ常連客が大挙して車でやって来るのだそうです。

イスタンブール市内の道路でも、たまには飲酒検問をやっているらしいけれど、なんでイスタンブールの警察は、夜中にイシュケンベ屋の近辺で検問して見ようとは思わないのでしょう? あの辺で張っていれば、それこそ一網打尽のはずなんですが・・・。私は秘かに、警察とイシュケンベ屋が何処かで繋がっているんじゃないかと有らぬ疑いを抱いてしまいました。


*以下は“サラフィン”というトルコ産ワイン醸造元のホームページです。ワインの味が良く解っているわけではありませんが、ここのワインは美味しいと思います。お土産として日本へ持ち帰った時は、いつも好評を博していました。
http://www.sarafin.com/



1月10日 (水)  結婚は未だか?

一昨日の朝、イスタンブール在住の韓国人キムさんの奥さんから電話があって、「何しているの? 連絡も寄越さないで。タクシムに新しい韓国レストランをオープンしたからお昼にいらっしゃい」と言われ、未だ新年の御挨拶もしていなかったことに気がついて、4時頃に寄ってみたところ、「まあ、昼を御馳走しようと思ったのに、こんな時間に来て、ちゃんと食事しているの?」と、奥さんは先ず軽いジャブを放ちながら私に席を勧め、座るや否や、いつもの如く「チャンガ・アンガヨ(結婚は未だなの?)」とストレートパンチを食らわせて来ました。

キムさん御夫婦とは、91年にイズミルで知り合って以来のことだから、もう世話になりっぱなしで15年も過ぎてしまったということです。

“「結婚は未だなの?」と問われ続けて早や15年”といったところでしょうか。その度に「結婚ばかりは一人じゃできませんからね」と答えてきたけれど、そういう相手が見付からなかったことは、却って幸いだったかもしれません。

なにしろ、一人でも路頭に迷ってフラフラしているこの身上、結婚なんぞしてた日には、今頃とっくに“心中事件”でしょう。

私が未だに独身でいることは、トルコ人の友人たちにとっても非常に重要な問題であるらしく、久しぶりに会った時は皆同様に「結婚は未だか?」と訊いてくるのです。

ところが、たまに日本へ行っても、日本で同様の質問を受けたことは、まずありません。考えてみれば、日本の同世代の友人たちには結婚していない奴がまだまだいるから、逆にこっちが訊いても良いくらいだけれど、トルコや韓国と違って、日本でこのテーマは、とうの昔に重要性を失っているのでしょう。少なくとも私のまわりでは、誰もそんなことなど気にしていないようです。その代わり、結婚ではない単なる男女関係の有無を訊いてくる奴はたくさんいます。

これは少し特殊な例かもしれませんが、日本では決して珍しい例じゃないでしょう。これがトルコの場合、そういう風に“男女関係から結婚を除外する”なんてことは、まず殆ど考えられません。

多くの人にとって、人間とは、必ず結婚しなければならない存在であるようです。

しかしこれは、私たちの考えているような倫理感とは大分かけ離れていて、例えば、昨日の“便り”でも紹介した元長距離バスの運転手。彼はその晩、酒に強いことを自慢していたばかりではなく、長距離バスで全国津々浦々を回った経験から、トルコ各地にある公娼宿について得々と語り、さながら“公娼宿評論家”にでもなったかのように、「女の美しさ、室の清潔さ、サービスの良さ、どの面を見てもブルサが一番だったな。アダナも良かった。最低はイスタンブールだよ」と評していました。

この男の倫理感が、どういうものであるのかは全く想像もつきませんが、彼にとっても、私がこの歳になって未だ結婚していないのは非常な不都合であるらしく、「早く結婚して家庭をもちなさい」としきりに私を諭すのです。これには私も『いくらなんだって、お前にそんなこと言われたくないよ』と呆れてものが言えませんでした。


1月11日 (木)  キュネフェ

数あるトルコ・スイーツの中で、一番のお勧めは“キュネフェ”という焼き菓子。これ、何と説明したら良いでしょう? 春雨のような細い麺状のものでチーズを包み、こんがり焼いてから甘いシロップを掛けたものです。

中にピスタチオや胡桃が入っているものは“カダイフ”と呼ばれ、これは冷めたものが店頭のショーケースに並べられていますが、“キュネフェ”の場合は熱々であることが命、必ずオーダーを受けてから焼き上げて供します。

写真は、カドキョイの桟橋に近い“ギュナイドゥン”というレストランの“キュネフェ”で、ここのキュネフェは正しく絶品。私は食べる度に、美味さのあまり途中で三回ぐらいは唸り声を漏らしてしまうほどです。

芝田山親方にも是非召し上がって頂きたい、トルコ・スイーツの“横綱”と言えるでしょう。

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1月12日 (金)  なかなか融通が利いてしまうトルコの銀行

“2005年2月のトルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2005&m=2

この“トルコ便り”で御紹介した何とも微笑ましい自動?預金システムですが、さすがに今は、何処の銀行へ行っても自動預金の機能を備えた“完全な自動預払機”が設置されています。

しかし、これが外に設置されている状況は今も変わっていません。銀行が営業を終了した後も、外に置かれた預払機は24時間休むことなくサービスを提供しているのです。深夜に人影も見当たらない暗い夜道を歩いていて、前方に何か明かりが灯っているのを発見し、何だろうと思って近づくと、これが銀行の預払機だったりすることもあります。

先日、夕方日が落ちてから、こういった自動預払機の前で、金を引き出しているらしい二人組の操作が終わるのを待っていたところ、この二人組、何だか“やくざっぽいスーツ”を着て、人相も悪く、険しい表情で何事か話し合っていたので、耳を欹ててみたら、彼らはロシア語のような言語で話しています。これには思わず、「ポ、ポロニウムの運び屋か!?」と疑ってしまったけれど、夕刻薄暗い路上で、こんな連中と並んでいるのは余り気持ちの良いものではありません。銀行が営業している時間帯には、短銃を携えた警備員が必ず入口付近に立っているものの、夜は全く無防備な状態だから尚更のことです。

さて、私が良く利用している近所の銀行では、この警備員さんが笑顔で利用客へのサービスにも努めています。例えば、預払機の使い方を知らないおばあさんが来れば、カードを受け取って自ら差し入れ、「おばあちゃん、暗証番号は?」。おばあさんも紙切れを差し出しながら「そこに書いてあるよ」。「えーと、何々? ふんふん、これで暗証番号はOK。それで、おばあちゃん、何がしたいの?」といった調子。これでは、いったい何の為に暗証番号があるのか解ったものではありません。

私もこういう警備員さんには、にこやかな挨拶を欠かさないようにしています。顔見知りになっていれば、いざという時に融通を利かしてくれるからです。閉店時間にタッチの差で間に合わなかった時、ガラス戸を叩きながら警備員さんに目配せしたら、「なんだ、お前か? しょうがないなあ、今開けてやるよ」というような顔をしながら、さっと私だけ中に入れてくれたこともありました。

トルコの銀行で融通が利くのは、何も警備員さんに限ったことではありません。普段、行員さんたちが、お茶を飲んだりしながら、のんびり仕事している姿に、思わずムカムカすることもあるけれど、彼らの意外な親切に嬉しくなることもあります。

ここへ越して間もない頃、水道料金を指定の銀行へ納めに行ったら、窓口のところは凄い混雑で、受け取った“待ち順を示すレシート”の番号と、電光掲示板に表示されている“現在取り扱い中”の番号を見比べても、実際に待っている人たちの数からしても、ゆうに一時間以上は待たなければなさそうです。仕方なく、ポケットから新潮文庫を取り出して読み始めてから、ふと気がつくと、銀行内の照明が落されていて、待っていた人々の姿も何処かへ消えて無くなっています。「えっ?」と思いながら窓口の方を見ると、未だ一人行員の女性が座っていたので、近寄って「どうしたんですか?」と尋ねたら、彼女は落ち着いた様子で、
「昼休みになりましたから」
「何時までですか?」
「未だ始まったばかりですからね。あと50分ありますよ。ところで貴方は何しに来たんですか?」
「水道料金の支払いなんですが」
「納金書はお持ちですか? ああそれですね。では、こちらへ出して下さい。受け付けますから」
結局これで、一時間以上は待たなければと覚悟していたものが、20分ほどで済んでしまったのです。これには、何だか待ち時間が短縮されたこと以上に、とても嬉しい気持ちになりました。

また、昨年、イスタンブールで100名ほどの作業員を雇用しているメーカーの社長さんとお会いした時に、この話をしたところ、営業などで世界中を飛び回っているその社長さんは、ふっふっと笑いながら「そうだよね。日本の人たちには考えられないことだろうけれど、もっと凄い融通を利かしてくれることもあるよ」と、以下のような話を語ってくれました。

「工場の作業員の給与は現金払いになっていて、給料日の前日にはその分を用意して置かなければならないけれど、ある日これをうっかり忘れてしまってね。気がついたら、銀行の営業はもう終了している時間なんだ。でも、その銀行の支店長は長い付き合いの友人だから、彼に電話して、どうにかしてくれと頼んだところ、『じゃあ、銀行の近くまで来てくれ』というので、銀行の近くに車を停めて待っていたら、彼がその現金を持ってきて、『明日、銀行へ来て事務処理を済ませくれ。これは俺の一存で持ち出した金だからね』と言ったものさ」。


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