Diary 2006. 9
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9月2日 (土)  チャムルジャの丘

アジア側からボスポラス海峡を見下ろすことができる“チャムルジャの丘”に登って来ました。おそらく、92年頃に初めて登った時以来のことじゃないかと思います。

その時も一人で登ったのですが、展望台の周辺は若いアベックが群れを成し、これがまた、濃厚にアツアツぶりを発揮するモダンな連中で、辺りは熱気がムンムン。動物園の猿は、檻の前でいちゃつくアベックを見ると、興奮のあまり糞などを投げつけるというけれど、情緒が猿並みというこの私も、その熱気の中で心穏やかにしていられるわけがなく、早々に退散せざるを得ませんでした。“なんという風紀の紊乱だ”などと心内でぶつくさ言いながら、とぼとぼと丘を下って行ったのです。

ところが、今回訪れて見ると、大分様子が違っていました。家族連れやスカーフを被った女性の姿ばかりが目立ち、ラブラブのモダンなカップルは影も形もありません。どうやら、市政を牛耳るイスラム系政党が、展望台のカフェテリアからアルコール飲料を締め出してしまったことが影響しているようでした。また、近年、イスラム的な人々もレジャーを楽しむようになり、“風紀紊乱のアベック”や外国人ツーリストの姿にも臆することなく“チャムルジャの丘”へ進出するようになると、却ってアベックたちの方が居ずらくなって、他のデートエリアへ移動してしまったのかもしれません。

しかし、良く見れば、モダンな連中ほどではありませんが、スカーフを被った女性が男の胸のあたりに顔を寄せていたりと、なかなかアツアツな様子を見せつけているイスラム的カップルもいます。

昨年、ウスキュダル桟橋近くの公園で、まだ人の姿も疎らな朝、スカーフをきっちり被った若い女性が男の膝の上に乗っかってブチューと接吻しているのを目撃したことがあり、これについて、同居しているトルコ人青年たちに「ああいうのはいったい何なのだろう?」と訊いて見たところ、やはり同様の光景を見たことがあるという彼らも、「さあ何なんだろう。親がうるさいから仕方なしにスカーフは被っているけれど、本人の信仰心はそれほどでもないということじゃないのか?」と呆れたように話していました。しかし、そうであれば、親の目がない早朝の公園で、スカーフを外して抱き合っても良さそうなものです。あるいは、彼女らなりの自分勝手な信仰心で接吻を免罪にしているのでしょうか? なんとも良く解りません。

そもそも接吻はともかくとして、人前で抱き合って男の胸に顔をうずめたりすることさえ、一昔前は決して許されるものではなかったはずです。飲酒を拒む敬虔なムスリムの友人に、「ビールぐらいなら良いんじゃないの? 害はないよ」と冗談を言ったら、「ビールがそのうちウイスキーになってしまうのだ」と真面目に返されたことがあったけれど、“男の胸に顔をうずめる”が、そのうち“接吻”になってしまうこともあるでしょうね。“チャムルジャの丘”では、主人公が入れ替わっただけで、また同じ光景が見られるようになったりして・・・。

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9月3日 (日)  石釜クルファスリエ

昨日、“チャムルジャの丘”へ登る前、バス停の前にあるレストランで、久しぶりに名物の“石釜クルファスリエ”を味わいました。

クルファスリエは、以下の“トルコ便り(4月25日)”でも紹介したように、言わば“トルコのお袋の味”であり、最もポピュラーな料理の一つ。ファスリエが“白インゲン豆”を意味し、鞘付きのものを“ターゼ(新鮮な)ファスリエ”と言い、鞘のない普通の豆状態になっているものが“クル(乾いた)ファスリエ”で、これがそのまま料理名にもなっているわけです。

“トルコ便り(4月25日)”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2004&m=4

このクルファスリエ、一般的には、トマトソースで煮込んだシチューのようなものですが、“石釜クルファスリエ”の場合、水分が殆どないドライな状態。そもそも“クル”は“ドライ”のことだから、これぞ正しく本当の“クルファスリエ”でしょう。元来、黒海地方の料理で、石釜を使って調理するため、この名で呼ばれています。

3年ほど前にこの店で御馳走してくれた方は、「イスタンブールで一番美味しいクルファスリエです」なんて仰っていたけれど、実際、思わず豆を一粒ずつ食べてしまいたくなるような美味しさです。

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9月9日 (土)  イズミル/コルドン・アルサンジャック

先日、久しぶりにイズミルを訪れました。ゆっくりと半日ほど市内を見て回ることができたけれど、これは2001年の夏以来、ほぼ5年ぶりのことです。

http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#250

イズミルは、91年に初めてトルコへ来て、一年ほど暮らした思い出深い街なので、街中へ一歩足を踏み入れた途端、嬉しさのあまり、行き交う人々全てに「メルハバ!」と挨拶したくなってしまいました。

http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#10

しかし、楽しかった“アルサンジャック学生寮”は既に何の変哲もない只の雑居ビルになっていたし、近所の食堂なども皆装いを新たにして全く異なる商店になっていたりと、当時を偲ぶよすがはありません。

特に、コルドンと呼ばれる海岸通りの変容ぶり。かつては棕櫚の街路樹が並ぶ通りの直ぐそこまで海がせまっていたのに、海岸は大幅に埋め立てられて公園となり、人々が芝生の上に寝転んだりしていました。その中の30代半ばと思しき男二人に、「昔のコルドン知ってますか?」と声を掛けて少し話したところ、「それって何時頃のことですか?」なんて言うから、「91年」と答えれば、「それじゃあ僕らは未だ10歳ぐらいの子供でしたよ」だって。二人とも、トルコ人にしたってかなり老けて見えるほうじゃないかと思ったけれど、“アルサンジャック学生寮”の面々も『もう良いおじさんになっているだろうなあ』と考えたら、なんだか寂しい気がしました。

右の写真に黄色い建物が見えますが、これは当時、煙草の葉の倉庫として使われていたもので、港に近いこのアルサンジャックの街はエーゲ海地方で収穫された葉煙草の集積地になっていて、周辺には同様の葉煙草倉庫が何棟もあり、街全体が煙草の香りに包まれていたくらいです。それが、98年にトルコへ戻って来た頃には既に様変わりしていました。

なんでも葉煙草の収穫というのは、大変手間の掛かるものだそうで、90年代の中頃、南東部から出稼ぎに来ていた季節労働者が産業化にともないより高い賃金を求めて都市へ移住すると、殆どの農家が葉煙草の栽培を諦め、他の換金作物を植えるようになってしまったという話です

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9月10日 (日)  イズミル/チョップシシ

イズミルでは、名物のチョップシシ(細切れ肉の串焼き)を食べてきました。これは、食べ易く竹串に刺してあるのと、付け合せの香ばしい“玉ねぎ炒め”が特徴です。

ジュムフュリエト広場の近くに、かつては4軒ぐらいチョップシシの専門店が立ち並び、さながら“チョップシシ通り”という雰囲気だったと思っていたのに、今は離れ離れに2軒あるだけで、大分様子が変わったように感じたから、店の人にそう言ってみたところ、「いや、4軒も無かった。向かいにもう一軒あったのが無くなっただけだよ」と言います。『そうだったかなあ』と訝りながら良く考えれば、つまりは、双方の店ともやたらと小奇麗になり、騒然とした雰囲気が失われた為、なんだか必要以上に小ぢんまりしてしまったように見えるのでしょう。

それに、以前は焼き場がオープンになっていて、肉や付け合わせの玉ねぎを焼く匂いが通りに立ち込めていたんじゃなかったかと思います。今やこれもガラスで囲ってしまい、店の外に並べられた席へ漂って来るのは道を行く自動車の排ガスだけでした。日本じゃ鰻屋さんなどが、わざわざ換気扇を通りの方へ向けて、客を誘き寄せていたりするけれど、そういうのは許されないのでしょうか?

また、ビールをジョッキで頼もうとしたら、樽生もなくなっていて、瓶ビールを洒落たワイングラスみたいなものに注いできました。まわりを見渡すと、周囲のテーブルで飲まれているのはラクばかり、以前はもっとビールが出ていたような気もしますが、ちょっと高級になって、若い客が減ってしまった所為かもしれません。なんとも残念なことです。

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9月11日 (月)  イズミル/チチェック・パサージュ

91年から92年にかけてイズミルに居た頃、ジュムフュリエト広場近くの海岸通り沿いにある“チチェック・パサージュ”というビアホール風の店で何度か飲んだことがあります。ここは明るくさっぱりとした雰囲気で女性客も多く、値段も手頃だったので、学生たちからも人気があり、イズミルではなかなか評判の店でした。以下の“メルハバ通信”でスルタン・キムがナンパを敢行したのもこの店です。

http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#40

トルコでは今でもそうですが、手頃な値段でさわやかにビールが飲める“ビアホール風”の店がそう簡単に見つかりません。ビラハーネと呼ばれる類いの店が文字通り“ビアホール”のことなんですが、こういった店は、それなりに安いけれど、大概が陰気で黴臭く、昼間から目をどんよりとさせたおじさんたちがボンヤリと外の方を見ながらビールを飲んでいたりします。

他には、サッカーファンが集まってテレビの画面に歓声を上げながら飲んでる店とか、つまみは塩ピーナッツぐらいしかない飲むだけの店、騒々しいロック音楽が掛かっている若者向けの店といったものが目に付くだけで、その上のランクになると、いきなり“カフェバー”とか“パブ”のような店になってしまい、その中間に位置する店、つまり私たちがイメージしている健全なビアホールらしきものを見つけることは至難の業です。というわけで、イズミルの“チチェック・パサージュ”は、かなり貴重な店であったに違いありません。

私はイズミルからイスタンブールに出てきて、またもや“チチェック・パサージュ”の名を耳にした時、「へえー、イスタンブールにも“チチェック・パサージュ”っていう店があるんだ」なんて思ったのですが、これは随分間抜けな話で、イスタンブールの人に聞かれたら笑われてしまうでしょう。というもの、“チチェック・パサージュ(花の小路)”とは、もともとイスタンブールの観光名所にもなっている有名な建物のことだからです。この建物は、内側にある吹き抜けのアーケードを取り囲むように建てられていて、アーケードに面して何軒ものレストランが店を出しているけれど、それほど気楽に飲める値段ではないかもしれません。

それで、やはり“イズミル出身の私”には、イズミルの“チチェック・パサージュ”が相応しい、なんて思いながら、懐かしい海岸通りに来て見ると、あの渋い感じの店構えは姿を消していて、白いひさしのついたモダンな“カフェバー”に変わっていました。“チチェック・パサージュ”は5年ほど前に閉店したそうです。

さて、下の写真ですが、真中と右側は、イスタンブールの“チチェック・パサージュ”で、これが姿を消すことは当分有り得ないでしょう。

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9月15日 (金)  羊頭の丸焼き

未だトルコへやって来る前のこと。各国の風物を現地でリポーターが紹介するテレビ番組を見ていたら、訪れたトルコ人家庭の食卓に“こんがり焼けた羊の頭”が丸ごと一つドンと供されていて“ギョッとする”というシーンが出てきました。

モダンで裕福そうなこの家庭の御主人が説明するところによれば、トルコでは大切なお客さんをもてなす場合、羊の頭の中でも先ずは目玉から召し上がって頂くのだとか。まあ、16年ぐらい前に一度観ただけの番組だから、その他の内容は全く覚えていないあやふやな記憶だけれども、食卓の場面だけは印象に残っています。

それで、91年にトルコへやって来て、イズミルのトルコ語学校で勉強し始めてから、『早くああやって羊の頭から目ん玉を刳り貫いて食べて見たいものだ』と思い、ある日の授業で美人講師のファトシュさんに尋ねてみたところ、彼女は「それって本当にトルコの話ですか? 私はそんなもの見たことすらありません」と顔を顰めて見せました。確かに、イズミルにいた時は、あまり方々出歩かなかった所為かもしれませんが、レストランなどで“羊の頭”を見ることはなかったのです。

一年が過ぎて、イスタンブールへ出て来た後、レストランや肉屋の店先で“焼けた羊の頭”が並んでいるのを時々見かけるようになったけれど、その頃には“羊の頭”に対する熱い思いも冷めてしまい、これを実際に食べて見たのは大分経ってからのことでした。それに、レストランでは、“羊の頭”と注文しても、皿に載って出て来るのは、きれいに切り分けられたものだから、それほどエキサイティングな場面にはなりません。

味の方は、タンとか脳みそがなかなか美味しいものの、肝心の目ん玉はただ脂っこいだけで特別な風味もなく、わざわざ大切なお客さんに勧める味覚でもないように思えます。そもそも、この話、私は未だにトルコの人から聞いたことがありません。

右写真の皿の中で左側に二つ並んで置かれているのが“目ん玉”です。

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9月26日 (火)  アンカラ

先週は、用事を兼ねて、アンカラ、カッパドキア、カイセリを周り、久々に旅行気分を満喫。

アンカラは、トルコ共和国の首都であり、人口400万を有する大都市だけれども、欧亜両大陸にまたがる巨大な一千万都市イスタンブールと比べれば、その規模は遥かに小さく、私は今までに5回ほど訪れて、その度に1〜2泊しただけなのに、街の隅々を知り尽くしたような馴れ馴れしい態度でうろついて来ました。

http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/003.html#120

とはいえ、不慣れなアンカラで少々間抜けな一幕も演じています。チケットが必要な市営バスに乗るのは面倒だから、現金で支払える民営バスを利用しようしたところ、バスの色分けなどがイスタンブールとは違っている為、どれが民営のバスだか分からずにまごついてしまったのです。

しかしこれも、大阪で暮らし始めた頃、市バスが都バスとは違って“料金後払い”になっていることを知らず、乗車口を間違えて「あんた東京の人やろ」と言われた時の“気まずさ”よりはましだったかもしれません。

交通機関といえば、今回アンカラ随一の繁華街であるクズライから地下鉄に乗った際、ホームにいた人たちがドアの両脇に並び、降車が済んでから整然と乗り込んで行くのを見て、ちょっとした感銘を受けました。

イスタンブールでも新市街の路線ならば、それほど酷い光景は見られないかもしれませんが、あんなに整然としてはいないように思います。これがイスタンブール旧市街の路線ともなると、電車が到着するや、ホームにいた連中はドアの前に殺到、開いたら直ぐに乗り込んで来るから、こいつらを押し返してやらなければ降りることもままなりません。

まあ、子供の頃の記憶に、東京は京成線の中山競馬場あたりで「降ろして下さーい」という女性の悲鳴、それに応える怒号と罵声、窓ガラスの割れる音、なんていうのがあったけれど、イスタンブール旧市街の場合は、普通の家族連れも降りる人を待たずに平気で乗り込んで来るのが悲しいところです。こういった家族連れは、親しく付き合って見れば、大概が素朴で善良な人々に違いありません。彼らは都会の生活に慣れていないだけだと思いますが、アンカラの住人もその多くは地方からやって来た人たちなのに、この違いは何処から生じているのでしょう。

写真左と真中はクズライの様子。左の写真に見える斬新なデザインの建物は、正しく“カッコ満点で中身零点”。何故かといえば、テナントが入らないまま空き家の状態になっているからで、なんとももったいない話です。右の写真は、アンカラの周辺部ですが、ここからクズライまで、道が空いていれば30分ぐらいじゃないでしょうか。車でイスタンブールからアンカラへやって来ると、荒涼とした大地の中から忽然と都市が現れたように感じてしまいます。

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9月27日 (水)  アンカラ/学生の街

共和国の首都であり、官公庁が軒を並べているアンカラは、当然のことながら“役人の街”ですが、大学も多く集まっている為、“学生の街”という一面もあります。クズライには書店が立ち並ぶ通りもあって、「“神田の本屋街”を彷彿とさせる」なんて言いたいところだけれど、それにしてはちょっと喫茶店の数が多過ぎるかもしれません。

現在の市政がイスラム色の濃い与党AKPによる為なのか、地下鉄のコンコースにまで、礼拝を呼びかけるアザーンが鳴り響いていたのには少々驚かされたものの、さすがに共和国革命と共に発展して来た都市だけあって、スカーフを被っている女性もイスタンブールよりは少ないように感じられ、なんとなくモダンな雰囲気です。

私はアンカラへ来るたびに、日が暮れてから、飲み食い処も多いクズライのあたりをうろつくことにしているけれど、あの辺には高いホテルしかないので、宿は必ず庶民的なウルスの街で取ることにしています。

今回もいい加減うろついてから、晩飯はクズライでビールを飲みながら済ませ、ウルス街にある宿へ引き上げると、この宿の前には3フロアに小さな飲み屋ばかりが集まっている建物があってなかなか盛況な様子。中に入って一回りして見たところ、飲み屋はその殆どが“ビラハーネ”と呼ばれる“ビアホール風”の安い店で、外観は如何にも“場末の酒場”といった趣だけれど、グループで飲んでいる若い人たちの中には“学生やOLらしき女性”の姿もあり、イスタンブールの“場末酒場”と比べれば遥かに明るい雰囲気。

また、多くの店で女性もガルソンを務めているのはちょっと意外な感じです。女性のガルソンたちは20代ぐらいの若い人から中年までと様々で、店の前を通れば「どうぞ寄って下さい」と声を掛けてきますが、観光地の客引きたちと違って押し付けがましいところは全くありません。私も勧められるままに寄らせてもらい、仕上げに一杯ジョッキを空けて帰りました。

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9月28日 (木)  アンカラ/タクシーで運転手さんと雑談

アンカラではアタトュルク廟へ登ると、市内はもちろんのこと周辺の荒涼とした大地も見渡せてなかなか感動的です。

今回はその光景も写真に収めようと思い、夕闇がせまる前に登らなければとクズライでタクシーへ乗り込んだところ、「アタトュルク廟ですか? 今から行ったのではもう中へ入れないかもしれませんよ。それでも構いませんか?」と運転手さん。それでも、「まあ、とにかく行って見ましょう」と運転手さんを促して出発したのですが、いくらも走らない内に夕方のラッシュへ巻き込まれ、渋滞の中で車は遅々として進みません。

こうなっては焦っても仕方がないので運転手さんと雑談を始めたら、この運転手さん日本については並々ならぬ関心があるらしく、結構話が盛り上がってきたところで車はアタトュルク廟の前に到着したものの、案の定、廟への参詣時間は既に終わっています。クズライへ引き返すつもりなら、もう急ぐ必要もないので、そこで車を降りてしまっても良かったけれど、せっかく盛り上がっていた話を打ち切るのも何だから、「何処か市内を見渡せるような高台は他にありませんか?」と訊けば、なんでもケチオレンという地区に昨年建てられた城が新しい観光名所になっていると言うので、そこまで雑談を続行させることにしました。

さて、私がトルコの人たちと日本について雑談する際、よく使う詰まらない例え話があって、この時も同じネタを懲りずに繰り返していますが、それは次のようなものです。

「例えば貴方が、2年ぶりに韓国へ、平日の午後3時頃に到着する飛行機で訪れることになったとしますね。これを前以って親しい韓国の友人に伝えて置けば、その友人は必ず貴方を空港まで出迎えに来ますよ。そして貴方を自分の家に連れて行くでしょう。ところが、同じ条件で日本へ行くことになって、同様に日本の友人へ連絡したならば、彼はきっとこう言うでしょうね。『何処のホテルに泊まるの? 仕事が終わったら寄るから一緒に晩飯でも食べよう』」。

この話を終わりまで聞いてくれた運転手さんの反応はなかなか興味深いものでした。彼はちょっと苦笑いしてから、「我々トルコ人も韓国人と同じように空港まで出迎えに行くでしょうね。もちろん、貴方が何を言いたいのかは解りますよ。職場を離れて空港まで行ってしまうわけですから。でも、そんな話を聞いたらトルコが今のままであっても良いような気もしてきましたねえ。適当に仕事して、友人たちとの時間を大切にする。経済的に発展するより、私にとってはこの方が良いかもしれません」というようなことを話してくれたのです。

さらに私が、「この話も18年前だったら、ある程度通用しただろうけれど、今は韓国の人たちもそこまでしてくれないかもしれませんね。トルコだって、第一線で働いているような人たちはもうそんなことしていないと思いますよ」なんて生意気にも分かったようなことを言ったら、「確かにそうです。トルコもこの10年ぐらいで大分変わりました。これからどうなるんでしょうね」としんみりした口調になってしまいました。

それから、教育の問題に話が及んだので、「かつて日本はヨーロッパのように初等教育の段階で進路を決めて分けたりしなかったことが良かったのではないか、今ではこれも随分怪しくなって来ているけれど」というように説明したところ、運転手さんはこれを意外に感じたらしく、少し驚いた様子で、「そうでしょうか? 私はヨーロッパのように早くから方向付けする教育制度をトルコにも導入すべきだと考えていました」と言うのです。

ホワイトカラーに属する人ならともかく、タクシーの運転手さんからこういう意見を聞いて、私も驚きました。運転手さんは自分の子供について、「倅は英語が良く出来るから、大学へ行ったら日本語も習えば良いと思ってそう勧めたら、本人はスペイン語をやるつもりでいて、『そんなに日本が気になるなら自分で勉強すれば良いでしょう』なんて言うんだよね」と語っていたから、どうやら子供の方は進学コースを歩んでいるようだけれど、もっと早い段階で“方向付け”されていたら、『どうなっていただろうか?』とは考えてみないのでしょうか?

もちろん、私には教育制度の良し悪しなど何一つ解っていないけれど、この運転手さんの意見は色々な意味でとても興味深いものに思えました。

写真はウルスの街並みです。


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9月29日 (金)  アンカラ/白亜のエステルゴン城

さて、運転手さんが案内してくれたケチオレン区の新しい観光名所ですが、その名も“エステルゴン城”と名付けられています。この名称は、おそらくハンガリーのエステルゴムに由来するもので、その昔、オスマン帝国はこのエステルゴムを攻め落とし、これにちなんだ“エステルゴン城”というメフテル(オスマンの軍楽隊)の曲もあったはずです。

しかし、ケチオレン区のホームページを覗いて見たところ、この建物は、セルジューク朝の遺跡として有名な地中海地方アランヤの城跡に残るクズルクレ(赤塔)を模して造られたようなことが書かれていて、何故、“エステルゴン城”と名付けられたのか、いまいち良く解りません。

そもそも、なんでこんな所に“お城”を建てたのかも良く解らないし、“クズルクレを模した八角形の構造・・・セルジューク風の装飾を施した”なんて謳っている割には、何だか安っぽい造りで、日本の余り流行らない温泉地にある俗悪な観光施設を思い起こさせるものがあります。

では、このエステルゴン城の周りにも、日本の温泉地にあるようなキャバレーやストリップ小屋があって、酔っ払ったおじさんたちが高歌放吟しているのかと言えば、さにあらず。城の中には、トルコ民族とイスラムの伝統に纏わる品々が展示された博物館があり、まあ余り趣味の良い感じでもないけれど、一応はそれなりの文化的な雰囲気を漂わせていて、如何にも庶民的な家族連れが神妙な面持ちで展示物に見入ったりしていました。博物館の上はレストランになっていますが、もちろんアルコールは一切提供されていません。

これは、トルコのイスラムにおける庶民性として評価されるべきものなんでしょうか? そうかもしれませんが、以下の記事にあるアフメット・アルタン氏の気持ちも少しは理解できます。

 【83】作家アフメット・アルタン氏とヒディヴ邸(1)
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00083.html

【84】作家アフメット・アルタン氏とヒディヴ邸(2)
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00084.html


右の写真は、エステルゴン城から向かい側にある公園を写したもので、ライトアップされた人工の滝が見えます。日がとっぷり暮れてから城をあとにし、バス停まで下りて後ろを振り返って見たら、エステルゴン城もライトアップされていて、宵闇の中に不気味な姿を浮かび上がらせていました。

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