Diary 2006. 10
メニューに戻る
10月1日 (日)  カイセリ/アルメニア教会

先週は、アンカラからカッパドキアへ、それから、94年に一度だけ訪れたことのあるカイセリにも寄って来ました。

94年には、カイセリ市内で二泊し、近郊のタラスという町やエルジエス山の中腹まで足を伸ばしたけれど、今回は午後の4時過ぎに着いて、翌朝8時には出発という慌しい日程であり、方々見て回ることは諦めて、先ずは市内にある古いアルメニア教会を再び訪れてみることにしました。

94年にこの教会を訪れてみたのは、当時イスタンブールのアルメニア教会で知り合った老人から、「カイセリへ行くのなら、私たちの美しい教会があるから訪れてみると良いでしょう」と勧められていたからです。

それで、この時はカイセリへ着くと、インフォメーション・オフィスへ行き、教会への道筋を尋ねてみたのですが、返ってきた答えは「そんな教会は存在していません」のひとこと。仕方がないから、老人の語ってくれた話を手掛かりに、その教会があるという街区へ赴いたところ、辺り一帯は戦火にでも見舞われたかのような有様で、所々に焼け爛れた建物がそのまま放置されています。残っている家々の造りからして、かつては相当に裕福な人たちが暮らしていただろうと思われるものの、当時は農村から出て来た貧しい人々が住み着き、まるでスラム街のようになっていました。

そのスラム街を歩き回ったあげく、殆ど偶然に近い形でたどり着いた教会らしき建物は、高い塀で囲まれており、入り口の鉄扉は固く閉ざされていたけれど、良く見れば、扉にはその街の様子とは不釣合いな真新しいインターフォンが取り付けられていて、それを押して見たら、中からネクタイを締めてきちんとした身なりの男が現れ、パスポートの提示を求めた上で、私を中へ招き入れます。入り口をくぐると、その脇には番所のようなものまで拵えてあり、そこで旅行の目的などあれこれ訊かれた末、台帳のようなものに署名してから、ようやく教会の内部へ案内してもらえました。

内部は照明が充分とは言えず、ちょっと薄暗かったけれど、歴史を感じさせる古めかしい味わいがあり、祭壇などの装飾も見事で、実に荘厳な雰囲気。見応えのある美しい教会でした。

番所の男はムスリムのトルコ人であり、保安の為に駐在している公務員であると言い、「年に一度、アルメニア人がここに集まって礼拝をあげるので、我々がこうして警備に当たっている」と説明。しかし、こうして教会の警備に努めながらも、インフォメーション・オフィスではその存在を隠したりして、何だかやっていることがちぐはぐであるように思えました。

さて、今回再びここを訪れてみると、スラム街は大分整理されて、一部は更地になっていたり、新しいビルが建てられていたりしています。それでも、教会の周りには、未だに朽ちかけた家々が残っていて、あまり暮らし向きの良くなさそうな人々が生活しているところも変わっていません。

入り口の鉄扉は、12年前と同じように閉ざされていたから、やはりまたインターフォンを押してみたところ、扉が開いて意外にも10歳ぐらいの少女が顔を出し、「お父さんを呼んで来るから待ってて」と言い残して、扉も閉めずに、向かいにある貧しそうな民家へ駆け込んで行きます。暫くして、その子のお父さんが現れたので、中を見せてくれるように頼めば、とても困った表情をして、「教会の鍵はここにないんです。写真もここでは禁止されています」と突然現れた外国人に当惑している様子。善良そうなこの人物を困らせてもしょうがないから、おとなしく引き下がり、ちょっと離れた所で写真を撮らせてもらいました。

教会の後ろに見えるビルは、もちろん12年前には無かったし、記憶に誤りがなければ、大通りになっている所にも家々が建て込んでいたのではなかったかと思います。

スルプ・クリコル・ルサヴォリッチ教会(トルコ語・教会内部の写真あり)
http://www.virtualani.org/kayseri/turkish.htm

カイセリのアルメニア人街について(トルコ語・写真あり)
http://www.katpatuka.org/tr/eski-kayseri-evleri.shtml

アルメニア人については以下の“メルハバ通信”にも書いてます。
“隣国ギリシャへの小旅行”
http://www.neo-pro.jp/makoto/merhaba/004.html#40

以下のような記事もあります。

【157】アルメニア人強制移住の問題【ザマン紙】【2006.06.13】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00157.html


【158】コンヤの最後のアルメニア人【ミリエト紙】【2006.06.14】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00158.html

20061001-1.jpg 20061001-2.jpg



10月3日 (火)  アルメニア人のガービ小父さん

カイセリのアルメニア教会について詳しい話を聞いてみようと思い、イスタンブールへ戻って来てから、こちらにあるアルメニア教会などにも出掛けてみたのですが、本当に知らないのか言いたくないだけなのか、殆ど何の話も伺えませんでした。

旧居の大家マリアさんが家族のように親しくしているアルメニア人のガービ小父さんに訊けば、なにしろ博識な方だから、御存知のこともあるかと思うけれど、カイセリから戻って以来、まだ会う機会がありません。

80何歳かになるガービさんはほぼトルコ共和国と同じ年齢、アルメニア語にトルコ語ばかりでなく、フランス語とイタリア語に堪能でギリシャ語も解し、なんでも良く知っていらっしゃいますが、イスタンブールはビュユック島に生まれ育ち、イスタンブールの粋を極めたような洒落っ気のある方なんで、あまり暗い話題は好まないかもしれないし、かなり耳が遠いのに「補聴器など格好が悪くてつけられるか」なんて言ってるから、ちょっとややこしい話になると、ペンとノートを持ち出しての筆談となって、なかなか大変です。

マリアさんの話によれば、ガービさんが生まれた頃、その家族はビュユック島にいくつものお屋敷を所有し、多くの召使が働いていたのだとか。それが、68年には最後に残った屋敷も手放すことになり、今ではイスタンブール市内のクルトゥルシュという街でわび住まい。マリアさんに、「手放すことになったのは富裕税の対象になったからですか?」と訊いたら、「68年ですよ。関係ないわよそんなこと。全て、あの人の経済観念があまりにもお粗末だった為にそうなってしまったのです。しょうもない人ですよ、あの人は」と憤懣やる方ない口調で答えていました。

とはいえ、マリアさんのところも昔は相当に裕福な家だったのが、今では見る影もなく零落してしまった様子。「イスタンブールのこの辺はね。私たちのようなルーム(アナトリアのギリシャ人)や選ばれた上級のトルコ人だけが住む街だったんですよ。それが何ですか、あの田舎から出て来た連中は。全く文化も無ければ、礼儀も知らない」と良く怒っているので、一度「まあ、民主主義の世の中ですからね。居住区を定めて“ここに住んではいけません”とやるわけにも行かないでしょう」と申し上げたところ、「民主主義なんて言うのも、ろくなもんじゃないかもしれないわねえ」と嘆いていました。

私も旧居の周りに住んでいた無作法な連中には辟易していたし、もとはルームの人たちが住んでいたと思われる建物へ、彼らがどうやって住み着くようになったのか疑問も感じるけれど、隣の貧しい夫婦者などは、実に素朴な良い人たちで、こういった人たちについてはマリアさんも認めていることでしょう。

また、マリアさんは、ビュユック島へ渡る船が、島へ行楽に行く庶民で座る席もないほど一杯になっていることや、この人々が島を練り歩いていることにも腹を立てていますが、それこそ“民主主義の世の中”ではどうにもならないことかもしれません。

私は時々、「オスマン帝国にブルジョワ階級は存在していなかった(以下の記事参照)というけれど、ルームやアルメニアの人たちがそういった階層を成していたんじゃないのかなあ」と思うこともあります。

イスタンブールで、ルームやアルメニア人のような異教徒が略奪を受けた民衆の暴動は、確かに忌まわしく悲惨な出来事ですが、関東大震災の時に朝鮮から来た人々が暴動によって殺されたりした事件とは、大きく性格を異にしているような気がしてなりません。


【91】ヨーロッパに比して階級の区別が明確になっていないトルコの社会【ラディカル紙】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00091.html


10月4日 (水)  イスタンブールのタクシー運転手さん

9月28日の本欄に、アンカラで乗ったタクシーの運転手さんについて書いたので、今回はイスタンブールでタクシーに乗ってちょっと驚かされた話をお伝えします。

もう一年ほど前になりますが、工事関係で日本から来ていた職人さんたち二人と、夕方、アジア側のボスタンジュからウスキュダルへ出ようとしてタクシーに乗った時のことです。

タクシーは、両脇に高級なブティックやマンションが立ち並ぶバクダッド通りをウスキュダルへ向かって進んでいました。通りは渋滞というほどではなかったものの、少し混んでいたから、車の速度はそれほど上がりません。

車がエレンキョイの辺りに差し掛かると、30歳ぐらいに見える運転手さんは、助手席に座っていた私へ申しわけ無さそうに「すみません。後ろの席にもう一人乗れるでしょうか?」と訊きます。「もう一人乗れないこともないけど、どうしたの?」と問い返したところ、「歩道に私の母が立っているので乗せても良いですか?」なんて言い出したのです。

「えっ? 貴方のお母さん?」と驚きながら、運転手さんが示した歩道の方を見て、その人が何処に立っているのか解らないまま、「それなら、私が後ろの席へ移ってあげよう」と答えたら、彼は直ぐに車を歩道の方へ寄せ、クラクションを鳴らしながら合図します。すると、でっぷり肥えたおばさんが車の中を覗き込んだので、私はドアを開け、車を降りて後ろの席へ回ったのですが、おばさんは私の方をちょっと見てごく当たり前に挨拶しながら、躊躇うこともなく助手席へ乗り込みました。

この展開に驚いたのは日本の職人さんたちです。いきなり乗り込んで来たおばさんに「な、なんなのこのおばさん?」。「運転手さんのお母さんらしいですね」と経緯を説明したところ、「日本じゃ考えられないことだなあ」と絶句していました。

その後の運転手さんとお母さんの会話を聞いてみると、どうやらお母さんはその付近に仕事場があるらしく、これは全くの想像ですが、おそらく家政婦でもしているのでしょう。それで毎日決まった時間に仕事が終わると通りへ出て、バスなり乗り合いタクシーなりに乗って家へ向かう。息子の方は既に結婚して新居を構えており、実家に寄ることはあまりないけれど、時々こうやってお母さんを送ってあげるようです。

助手席のお母さんが「今日は家に来なさい」と息子に言えば、息子は「お客さんをウスキュダルまで連れて行かなければならないんだよ」
「それならウスキュダルから家に来なさい」
「お母さん、ウスキュダルからまたお客さんが乗って来て、その人はヨーロッパ側へ行くかもしれないし、どうなるか分からないんだよ」

お母さんは「客なんか乗せんで家へ来れば良いじゃないか」となかなか後へ引かなかったけれど、結局、その辺が家の近くだったのか、途中で車を降りて行きました。

私としては、別に大回りされたわけでもないし、時間的なロスもそれほどではなかったから、微笑ましい一場面を見せてもらえて良かったと思ったけれど、職人さんたちはどう感じたでしょう。「日本じゃ考えられないトルコらしいところが見れた」と懐かしい思い出にしてもらえたら幸いです。


10月5日 (木)  歩くのも大変です

“トルコ便り”9月13日/マスラック
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2004&m=9

今日、マスラックという所へ出掛け、帰りは急ぐこともないので、最寄りの地下鉄駅“レヴェント”まで歩いてみたところ、これがなかなか大変でした。

大きな通りに沿って真っ直ぐ行けば、距離もたかだか3kmぐらいと思って歩き始めたものの、立体交差になっている所まで来たら、陸橋の上に歩道はなく、迂回できるような道も見当たらない為、そのまま車道を歩いて長い陸橋を渡ったのですが、バスやトラックに猛スピードで横を通り抜けられると、排ガスや埃をもろに被るばかりか、ちょっと怖い感じがして、まったく情けない気持ちになってしまいました。

おそらくイスタンブールの都市計画に、マスラックからレヴェントまで歩いて行く人がいることは想定されていないようです。だから、「なんて歩きにくい道なんだ」と文句を言っても始まりません。

この国では、海岸などで景色を眺めながら散策するのはともかく、「3kmぐらいなら近いから」と言って歩く私のような者は、ただの貧乏人(これは大正解)か、さもなければ少々頭がおかしい奴(これもひょっとすると正解)だと思われているのではないでしょうか。


写真左はマスラックの街中。真中は陸橋に差し掛かった辺りから振り返って見たマスラック。写真右は陸橋を渡りきってレヴェントに入ったところです。

20061005-1.jpg 20061005-2.jpg 20061005-3.jpg



10月6日 (金)  ラマダン

話題にするのが遅くなりましたが、先月の下旬からラマダンが始まっています。イスラム暦により、毎年11日づつ開始日が早まるラマダン、3年前に比べると既に1ヵ月も早まっていて、それだけ日が長くなっているから、断食を実践するにはそろそろ難儀な時期に差し掛かっているのではないでしょうか。これからまた3年も経てば、いよいよ8月中にラマダンが始まることになります。

以前、私も試みに何日かは断食を実践してみたことがあるけれど、夕方の5時前に日没してしまうような時期だったから、それほど難儀にも感じませんでした。その時期には、イフタルという断食明けの食事に招待された場合、昼を食べてしまったのでは食欲が出ないから、正式に断食はしないまでも、昼は食べずにイフタルへ備えたくらいです。

今の日没時間は午後7時ぐらい。先日、5月15日の本欄で紹介した家族のところでイフタルを御馳走になったのですが、昼もしっかり食べていったうえで、美味しい手料理の数々を頂いてきました。ここのお母さんは、料理が美味いことで知られるガジアンテップの出身で、その手料理は、大袈裟ではなく本当に、そんじょそこいらのレストランじゃ味わえない美味しさだと思います。

5月の“トルコ便り”
http://www.neo-pro.jp/makoto/tayori/diary/diary.cgi?mode=read&y=2006&m=5

ラマダンでも、レストランや酒場がそのまま昼からの営業を続けているイスタンブールのような都会では、ラマダンになったからといって、断食を実践していないものが不便を感じるような変化は殆ど見られません。それどころか、イフタルへ招待されたりすることにより、なんとなくお祭りめいた気分になってしまうほどです。

実際、オスマン帝国時代のラマダン風景を伝える記事で読んだところによれば、時がゆるやかで、あくせく働かなくても済んでしまうその当時、余裕のある人々はラマダンになると、日没から深夜、さらには夜明けまで料理や菓子を食べ続け、日中は何もせずにごろごろして過ごしたというから、まさしく1ヵ月の長いお祭りそのものだったのでしょう。

現在は、如何なる地位にある人でも、さすがに丸々1ヵ月休んでいるわけにはいかず、断食を実践するのは決して楽じゃないと思いますが、それでもラマダンの到来に人々は喜び、世間がうきうきした雰囲気になっているのを感じとることができます。

ギリシャ正教徒である旧居の大家マリアさんの家族も例外ではありません。彼らにとってラマダンに宗教的な意味はなく断食を実践することもないけれど、伝統的な行事の一つとして喜んで迎え入れているようです。

先週、ラマダンになってから始めて旧居に寄ってみると、マリアさんは「今年もラマダンがやって来たわねえ。イフタルに招待されるのが楽しみだよ。お前も何処かイフタルに呼ばれたかい? 未だなの? それはいけないね。ラマダンにはイフタルを楽しまなければ」と言い、娘のスザンナさんも「ラマダンになったらやっぱりギュルラッチを食べないと。本当に美味しいからね」とうきうきした様子で話していました。

このギュルラッチというのは、主にラマダンの期間だけ家庭で作ったりカフェのメニューに載ったりするトルコ菓子で、白いパイ生地のようなものにミルクや刻んだナッツ類を加えて作るようです。

私は決してそんなに美味しいものだと思っているわけじゃないのに、それでもラマダンの期間中、2回ぐらいは必ず食べることにしています。まあ、これは、さほど“お雑煮”が好きじゃなくても、正月になれば必ず一度や二度は食べてみないと気がすまないのと同じことなんでしょう。

かつてアナトリアに未だ多くのキリスト教徒やユダヤ人が暮らしていた頃、彼らとムスリムは、それぞれの祝祭にお互いの家庭を訪問しながら、それを祝い合ったというけれど、この場合、年間を通じて様々な祝祭があっただろうから、人々はそれこそ休んでばかりいて、人生をおおらかに楽しんでいたのかもしれません。

写真は、ラマダンになって今日始めて食べたギュルラッチです。

20061006-1.jpg