【252】初恋の人はギリシャ人だった【ミリエト紙】【2011.12.23】

12月22日付けのミリエト紙より、ギュネリ・ジュヴァオール氏のコラムを訳しました。フランスにおける“アルメニア人虐殺”の否定を禁じる法案の採決に関連して、ジュヴァオール氏は、子供の頃から、ギリシャ人やアルメニア人といった区別なく友人付き合いしてきた思い出を語っています。ジュヴァオール氏は1939年アンカラ生まれのジャーナリストです。

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初恋の人の名はマルラだった。私たちはキュチュクスの別荘にいた。隣の別荘の庭先で彼女を一目見た瞬間、私の心臓は、ハーレーダヴィドソンのオートバイのテンポで高鳴り始めた。私たちは未だ小学生だった。そして直ぐ友達になった。

その頃、キュチュクスの丘にはスモモの樹が生い茂っていた。そこで子供たちは“スモモ合戦”に興じたものである。私は敵の子供たちが投げたスモモからマルラを守ろうとした。そのため、誰よりも多くのスモモを顔面に受けてしまった。

彼女がルーム(トルコ国籍のギリシャ人)であることには全く考えも及ばなかった。というより、そういった差別は、私たちの脳裏に形成されていなかったのである。友人たちの中には、ユダヤ人やアルメニア人もいた。しかし、私は彼らにとって“トルコ人”ではなかったし、彼らも私にとって、ルームやアルメニア人、ユダヤ人ではなかった。単なる隣近所の友人たちだった。

私たちのエスニック・ルーツは、各々がブロンズの髪、栗色の髪、ブルネットの肌であるのと同じくらい自然だった。

実のところ、当時のイスタンブールで、夏になれば、アルメニア人の多くはクナル島、ルームはブルガズ島、ユダヤ人はヘイベリ島の別荘に出かけた。しかし、これがグループ化であるとは思われなかった。パレットの上の色彩のようなものだった。彼らの特有な料理を味わうために、それぞれのレストランや居酒屋へ出かけたものだ。もちろん、これは島に限ったことではない。カラムシュのトドリ、モダのヨルゴも、そういう店だった。

特に島の場合は、経済的なステータスによる住み分けだったかもしれない。富裕なトルコ人、アルメニア人、ユダヤ人、そしてルームは、ビュユック島に混在していた。タラビア、スアディエ、モダといった高級な街区も同様だった。

子供の頃に始まった交流の文化はその後も続いた。青春の時代にも、その後にもエスニックや宗教的なルーツの異なる友人たちがいた。彼らは皆と同じくらいトルコ人であったり、ガラタサライやフェネルバフチェ、ベシクタシュのファンだったりした。

残念ながら、“9月6〜7日の略奪事件”以降、ルームの多くはギリシャへ移住しなければならなかった。残った人たちの大部分も、1960年以降、キプロス紛争によって、トルコから離脱してしまった。彼らはアテネで自分たちの街区を作ったのである。彼らと話す機会があって、「ここの人たちも我々を認めてくれないんだ。トルコ人て言われるよ」とぼやかれたのを思い出す。

ジャーナリストとして働き始めた頃、私は未だ法学部の学生でもあった。キプロス紛争が頂点に達し、私は当時の外相フェリドゥン・ジェマル・エルキンにインタビューしてキプロスの記事を書くよう命じられた。インタビューは外務省公邸で実現した。エルキンはキプロスのギリシャ系住民とギリシャ政府を激しく非難した。「トルコのルームたちもギリシャへ移住させなければならない」と言うのである。そもそもこれがトルコ政府の政策ではなかったか?

エルキンは、インタビューが終わった後、公邸(当時の名でハリジエ・キョシュク)の“リモンルック”と呼ばれていたガラス張りのティーガーデンに私を招待した。「一杯ウイスキーを飲もうじゃないか」と言うのである。そして、こう言い添えた。「さっきは公的な政府の政策を説明したんだ。今度は個人的な私の意見も聞いてもらおう」。

この招待は、法学部2回生の新米のジャーナリストだった私への大変な好意に違いなかった。ここで聞いた話は今も耳に留まっている。

「君、ルームたちを追い出してしまうのは正しい政策じゃない。この国にどれだけ多くの異なるエスニックや宗教の国民がいれば、世界でそれだけ多くの弁護人を持つことが出来る。彼らの外国にいる親族たちは、トルコに害が及ばないよう尽力してくれるからだ。それから、これは私の感情的なものだが、島へ渡る船に乗って、もしも、ルーム語で話す声がなかったら、アルメニア人、そしてユダヤ人訛りの会話が聞こえて来なかったら、イスタンブールはつまらないものになってしまう。例えば、サマルカンドのようになってしまうだろう。君たちの世代はこれを防がなければならない。イスタンブールの賑やかな色彩を守らなければならない」。

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今日、フランスで“アルメニア人虐殺”の主張を法律で守ろうとする法案が採決される。これが私を過去へ旅出させたようだ。

子供の頃の初恋、マルラの思い出から始めて、この大地に息づいた共有の文化について記した。それから、フランスで行われる採決により、“不当性、誤謬性”が法律で強制されながら正当化されること、そしてフランスの人々のことを考えた。

多分、自分たちの選良が認めた法律を“正しい”と信じるのだろう。彼らは、現実のトルコでエスニックと宗教の“美しい混淆”を知らないだろうから・・・。

知らないのである。特に20世紀の初頭、私たちはあの戦争の中で“共通の痛み”を味わった。この国を分割しようとした列強は、傷口を広げようと画策した。

しかし、私たちの間に“憎悪”は入り込まなかった。“断層の崩壊”は起こらなかった。“差別”もしなかった。そうであったならば、家庭が過去の傷跡を深めるような会話で満ちていたならば、マルラとどうやって恋に落ちたのだろう。

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原文

http://siyaset.milliyet.com.tr/ilk-sevgilim-rum-du-/siyaset/siyasetyazardetay/22.12.2011/1478733/default.htm


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