【245】民主主義の幻想と“ポスト・イスラミズム”【ミリエト紙】【2011.02.05】

前回に続き、2月4日付けのミリエト紙より、ヌライ・メルト氏のコラムを訳してみました。エジプトの論争に端を発して、トルコでも話題になりつつある“ポスト・イスラミズム”について論じています。

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エジプトの出来事は、一方で、そのまま手っ取り早くトルコに持ち込まれて政治的な論争を巻き起こし、もう一方では、“ポスト・イスラミズム”の枠組みで、“イスラムと民主主義”に関して、より幅広い深みのあるページを開いた。

“ポスト・イスラミズム”は、かなり前から話題になっていたが、我々のメディアには、エジプトの論争によってもたらされた。

このテーマに先鞭をつけたのは、有名なイスラム問題の研究者オリバー・ロイが、1994年に上梓した“The Failure of Political Islam, Harvard University Press”(政治的イスラムの破綻)である。ロイは、その後、パトリック・アニ(Patrick Haenni)と共に、“Revue du Monde Musulman et de la Mediterrannee, 1999”(ポスト・イスラミズム)を出している。

そこでは、既にイスラム主義が、現存のシステムの中で、より文化的、社会的、道徳的な方向性に焦点を合わせており、政治的な主張は後退していると強調されていた。

2000年代になって、このアプローチは、論述の仕方は異なるものの、多くの支持者を得た。特に、イスラム主義者が、暴力を拒否して、リベラルな民主主義と融和できる解釈は、高く評価されるようになった。

*話題はポスト・イスラミズムに及んだ

そこから発展した思想や著述としては、「イスラム主義は、一つの民主的な社会勢力である」という学術的、且つ深みのある論説で知られるアセフ・バヤット(Asef Bayat)から、民主化を経済の自由化とアメリカの外交的な利益から説き明かしたベストセラー作家ヴァーリ・ナスル(Vali Nasr)に至るまで、多くの名をあげることができる。

この広範囲なテーマを新聞のコラムに押し込めることは不可能であり、正しい扱いとは言えない。しかし、エジプトの話題が、“ポスト・イスラミズム”にまで及んだので、その基本的な枠組みぐらいには言及したくなった。しかし、今回は、このテーマの枠組みの中から、一つの論点を示すだけにしたいと思う。

まず、“穏健なイスラム主義”、あるいは、もっと大仰な言い方で“ポスト・イスラミズム”は、民主的なダイナミズムの点で、真摯に考えるべきテーマである。しかし、簡単に民主主義の幻想をイスラム主義のダイナミズムへ背負わせないでもらいたい。

私は、イスラムについて先入観に捉われたり、イスラム恐怖症に罹る可能性が最も低い部類に属する。そして、「イスラムが政治化してはならない!」と言う人たちへ、「何故、政治化してはならないのか?」と反論した一人であり、今でもそう考えている。

自分の信仰と思想世界を政治的な表現の形に持ち込んで、何故いけないのか? 誰もが自分の思想世界から出発して、政治的、社会的な議論へ加わっているのに、何故、敬虔なムスリムや保守層をその中へ入れてはならないのか? 民主主義と言いながら、一方でこれを受け入れないのは道理に合わないだろう。

誰もが、あらゆる会合で酒を提供したり、全ての生活スタイルに対して等距離で考えたりする必要などは何処にもない。

*権威主義的な政治概念

イスラム主義、あるいは“政治的イスラム”に関する問題は、それではないと私は思う。

イスラム主義の問題とは、穏健なバージョンも含めて、イスラム主義者たちの政治が、民主主義の枠組みの中で政治的な議論、あるいは競争に加わるという考え方を常時身につけようとするのではなく、これを政権交替の一段階として捉え、政治的な目的として、社会をイスラムに、もっと正しく言うならば、社会を自分たちの考えで解釈しているイスラムに合わせて行こうとする願望である。

つまり、問題は、“権威主義的な政治概念”の問題と言える。

“ポスト・イスラミズム”と言われる運動、あるいは枠組みが主張しようとしているのは、多くのリベラルな民主主義者が考えている種類の“民主主義”ではない。自分たちの解釈によるイスラムの規律を押し付け、ただ政権の交替を選挙によって明らかにする“イスラム民主主義”である。この枠組みを充分に“民主的”、あるいは政治・社会的な解決であると看做す人たちに対して、私は何も言うことがない。しかし、そう考えない人たちは、民主主義の幻想、あるいは幻滅を“ポスト・イスラミズム”へ背負わせないでもらいたい。

*イスラム圏とイラン

西欧では、ムスリム社会における政治・社会的な問題の解決を、徐々にこの枠組みの中で考え始めようとしている。この態度が、如何にオリエンタリストな観点を反映しているかは別の議論が必要だ。しかし、それで良いのなら、“イラン・イスラム共和国”の問題とは何だったのか問わねばなるまい。

議論の余地を残す最後の選挙はともかくとして、イランの現体制は、“ポスト・イスラミズム”が実現させたいと望んでいるシステムである。それなのに、何故、この体制は、長年に亘って、“化け物”のように思われていたのか? イランは“イスラムの規律”に厳格な、政治的権力が選挙によって交替するシステムではないのか? 

さらに、現状を見るならば、イスラム圏における“政教分離の独裁”と言われた国々は言うに及ばず、“民主主義旋風”の旗手とされたアルジャジーラ放送を有するカタールも含む湾岸諸国やサウジアラビアよりも、イランはもっと民主的な国ではないのか?

ムスリムの地域が内包する政治と社会の閉塞状態を何とかしたいと本当に思っているならば、この問題を乗り越えるために、この民衆たちと連帯しようと望むならば、いくつかのステレオタイプな見解に安住して惰眠を貪る代わりに、目を覚まして現実と向き合わなければならないだろう。

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原文
http://www.milliyet.com.tr/demokrasi-hayalleri-ve-post-islamizm-/nuray-mert/yasam/yazardetay/04.02.2011/1347932/default.htm

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