【237】クルド問題におけるAKPとCHP【ミリエト紙】【2010.06.22】

6月22日付けのミリエト紙より、タハ・アクヨル氏のコラムを訳してみました。

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トルコ共和国の創立者たちは、数世代後、クルド民族主義が過激に登場するだろうと予見していた。アタテュルクもイノニュもカラベキルもこれを予見し、様々な会議で明らかにしていた。

アンカラの政府は、1921年、「クルド部族に関する社会学的な調査・研究」をズィヤ・ギョカルプに要請した。将来、南東部がマケドニヤのようになる危険性に対して、解決の道を探していたのだ。

1924年のギョカルプの死は、トルコにとって不運だった。さらに不運なことに、革命や反乱といった緊急の事態が、長期的にこの問題を上から抑え付け、後回しにした為、問題は蓄積してしまったのである。

アイタチ・ヤルマン陸軍大将が言うように、この問題は文化的な打開策により、60年代や70年代に解決できたかもしれない。しかし、クルドという言葉さえ禁じた偏狭な考えは、その可能性を見出そうとしなかった。

そして、蓄積され続けた問題は、1984年に爆発してしまう。以来、4万人が亡くなり、流血は未だ止まっていない。そればかりか、クルド民族主義はどんどん先鋭化している。

トルコは、80年代の終わり、故オザル大統領によって打開を試みた。最初の一歩はクルド音楽の解禁だったが、これさえオザルは配下の議員たちを説得するのに苦労したそうだ。

現在、政府は24時間クルド語の放送を実施している。クルド人のアイデンティティーは自由に表現できるようになった。しかし、テロは終っていない。それどころか基盤を広げている。もっと先鋭的な“投石する子供たち”の世代がやって来るのだ。

ならば、もう一度抑圧に戻れば良いのか、非常事態宣言や戒厳令を出すべきなのか? そういった政策は、クルド民族主義を大きく育て上げると共に、トルコを世界から孤立させてしまう。PKKに“自由の戦士”といった印象を与えるだろう。

MHP(民族主義行動党)の主張は、この観点から間違っていると思う。

1920年代、クルド問題は“タクリリ・スクン法(治安維持法)”によって解決されず、却って長い間に先鋭化してしまった。今日、またその方法を使えば、問題を煽り立てるだけである。

トルコが近年になって打開を試み、しかも逮捕されたオジャランが「国家に奉仕する」と語った時、武器放棄の代償として、政治への道を開き、一連の打開策を実施して解決の道筋をつけることは可能だったかもしれない。

しかし、歴代の政府は、武器放棄の為に、何の代償もないまま、民主化の道を歩んだ。オザルから今日まで・・・。

テロは終らなかった。テロ実行者への民衆的な支持も減らなかった。

現在の世界で通用するのは、「山で武装活動をせずに、平地へ降りて政治活動をしなさい」という呼びかけだろう。

トルコの場合、組織は山で武装活動を続けながら、平地で政治活動も行っている。山から平地へというプログラムと民主化の展開は一体になっていなければならない。

但し、総意が得られない限り、如何なる政権もこれを単独で成し遂げることはできない。社会が政治とイデオロギーの争いで寸断されていると、“共通の知性”を創造するのは非常に難しくなる。

御覧なさい、AKP政権は、充分な議席を確保しているにも拘わらず、結果を得られなかった。少なくとも、AKPとCHPの関係の正常化が条件となるはずだ。

CHPの新しい党首は、対話にオープンであるように見受けられる。

首相は、いつも何か話すたびに扇動的な言葉を用いるのを止めて、社会的、政治的な各層と対話できるような態度を取らなければならない。

“共通の知性”を創造できない社会が、エスニック的な民族主義の衝突により、如何なる惨劇に巻き込まれていったのか、ここで説明する必要があるだろうか?

“この問題がAKPを政権から下ろしてしまえば良い!” それは良いが、代わって政権に就いた人たちが火事場のようなトルコを見なければならないのは、酷過ぎないだろうか?

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原文
http://www.milliyet.com.tr/kurt-meselesinde-akp-ve-chp/taha-akyol/siyaset/yazardetay/22.06.2010/1253779/default.htm

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