【224】信仰・イデオロギー・良心【ラディカル紙】【2009.12.03】

11月29日付けのラディカル紙日曜版より、ヤスィン・ジェイラン氏の論説を拙訳しました。

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先日、ある友人を紹介する際、私はこんな表現を使った。「信仰はあるが、良心を失っていない人間だ」。これがどういう意味になるのか、その時点で、お互い紹介を受けた友人たちも尋ねなかったし、私自身も深く考えてみることはなかった。

数日が過ぎた後、この言葉について、もう一度考えて見た。これは、たまたま口から出た言葉だったのだろうか、それとも私が確信を懐いている考えなのだろうか?

信仰のある人は良心を失うだろうかと自問自答した。その答えは、“そう、失う”である。

多くの人を不愉快にさせるかもしれないこの回答を説明するのは、私にとって既に義務となった。

以下のように説明したい。

ルネサンスは人間を“剥き出し”あるいは“自然”の状態で定義したが、これを第一の命題として考えるならば、社会的な生活、及び文化に汚されていない人間の良心は、他の知的能力と共に、完全であり、未だ手をつけられていないと主張することが出来る。

この完全な良心は、文化を押し付けられ、信仰を受け入れ、あるいはイデオロギーに捉われ、その一部を失うことになるだろう。興味深いことに、文化なくして良心は活動できないが、活動を始めた段階で、喪失は避けられないのである。

その場合、以下の問いが重要となるだろう。どの文化が、どの程度、良心を失わせるのか? つまり、人間の良心を失わせない、あるいは最少の害を与える信仰体系、あるいはイデオロギーはあるだろうか?

▼神を信じる

絶対的な真理として信じられるドグマが、それを信じる人々の間に同胞の絆をもたらしたものの、このドグマを信じない人々に対する敵意の要因となってしまったのは歴史的な事象である。この場合、信じる人の良心は、自分のように信じる人へ、より寛容に近づき、信じない人たちには、この寛容を見せず、もっと頑なな態度を取るのだろう。これは良心の喪失の一例である。

宗教的なドグマの多くは、形而上の主張によって成り立っている。また、イデオロギーを成り立たせる真理は、形而上の性質を持っていないにも拘わらず、絶対的な真理の装いによってドグマに成り得るのである。

様々な宗教、イデオロギーの基本を成す命題の中で、完全な真理のラインに達したものは一つもない。このラインに最も近づいているのは科学的な命題である。しかし、科学的な命題が、宗教やイデオロギーの主なテーゼを構成することはない。

そして、科学的な真理の認知、あるいは拒否が、宗教やイデオロギーのように人々を敵対する集団に分けてしまうこともない。

各一神教に共通な基本的ドグマとなっている“神の存在を信じる”という条項を考えてみるならば、人類の歴史で、人間が血を流す最も正当な理由とみなされているこの命題を検証した場合、これがそういった作用に相応しいものではないことが解るだろう。

神の存在を信じる者たちや、彼らの聖典は、神が定義し得ないものであり、不可知のものであることを明らかにしている。さらに、「お前たちが頭に何を思い浮かべても、どんなことを想像したとしても、それは神ではない」というように、はっきりした言葉で、神を認知できる存在の世界から遠ざけている。

しかし、神が認知し得ない存在であるにも拘わらず、その存在を立証するために、多くの合理的な論拠が明らかにされ、神学の書は、この手の論拠で満ちているのである。

ところが、面白いことに、全てのこういった論拠と聖典が、あらゆる人たちを説得出来るわけではない。何故なら、広大な宇宙の後ろに控えている権能である神の証明には、如何なる証左も及ばないはずだからである。私たちが、日常生活と科学で使っている因果律を、全宇宙に適用する権利は、誰から与えられるものだろうか? 

神の存在を証明しようとする証左の殆どが因果律に基づいているため、「因果律を宇宙の向こう側までは適用できない、何故なら、我々は万物に手が届くわけではない」と主張する者が、こういった全ての証左を認めない場合、これに何と言えば良いのだろうか?

また、こういった証左に依拠して神の存在を信じる者たちは、神の存在を正しい方法で信じたと言えるだろうか? この証左を不充分と考えて、神の存在を信じない者たちは、本当に、存在の立証された神を拒否しているのだろうか? そして、神の概念に、より敬意を持っているのは、どちらなのだろうか? 不充分な証左で、これを信じる者なのか、あるいは、証左が充分でないと考えて、これを信じない者なのか? いずれが、より正直で、いずれが、より誠意を持っているのか?

▼絶対的な真理?

最も強力であると思われていたドグマの分析で、このような不明確さが明らかにされたのであれば、こういった形而上の命題を、絶対、且つ普遍的な真理として示すことが、如何に不当の要因と成るのか理解できるはずだ。

このような形而上の推測が可能なのは、主観的な選択においてである。個人は、自身の主観的な世界において、固有の信仰を成り立たせることができる。その真理性は、自分自身の意識に限られており、他者を信じさせるために充分な装いを持っていない。

イデオロギーにおける、多くの場合、それほど過度ではないドグマについて考えるならば、例として、社会理論の基本的な概念と思われている“平等”と“自由”を挙げることができるだろう。

幸福な社会生活のためには、この二つの原則のどちらが、より重要なのかと問われたら、これにはっきり答えることは非常に難しい。この二つの概念については、19世紀から今日にかけて蓄積された弁証法的な論説が、こういうはっきりした選択を不可能にしている。その為、この二つの基本的な概念から一つを絶対的な真理として認め、一方を拒否することは、正当な論拠に基づいていない。

信仰とイデオロギーの双方で例を挙げてみたが、要するに、社会的な価値においては、絶対的・普遍的な真理は主張できないのである。絶対的な真理の主張は、知性の自然と創造性に反するものである為、知力の機能に否定的な影響を与える。

社会的な価値は、時間の経過の中で、性質を獲得し、不足の補填に向かって活動するダイナミックなファクターである。これを、ある一定の時期に、完全な真理と定義してしまえば、その真理へ向かうプロセスを不活発なものして、発展を妨げる。この点から、人間の良心は、人間が何かを認識していく機能と如何に関わっているのかが解るだろう。

次に、社会的な価値における絶対的な真理が、人々を敵対化させて、異質なものへの寛容性を如何に妨げるのか明らかにしてみたい。

真理への従属、正当性への支持とも定義される良心が、絶対的な真理を認めた意識の中で、如何に分裂し小さくなってしまうのか見てみよう。

人間は、何故、絶対的な真理を信じるのかと問われるならば、満足の行くような説明をするのは非常に難しい。しかし、ドグマを受け入れてしまうのは、何かを問質そうとしない頭脳の仕業ではないかと思われる。

人間は自然と、肉体的にも精神的にも怠惰になってしまう。用意された処方箋は、停滞した頭脳が求めるものである。それは安逸をもたらしてくれるだろう。しかし、その対価として、依存性が身につき、自由を失う。自分で自分を律する個人ではなくなってしまうのである。

批判する能力を欠き、用意された処方箋を受け入れようとする傾向が強くなる。免疫の機能が弱い肉体のように、あたりを行き来している思想に捉われ、何者かに心を奪われてしまうかもしれない。これで、彼には、労なく価値を見つける快感が与えられるが、それは自分で真理を探す機能を停止させてしまうだろう。

社会的なエリアにおける絶対的な真理が、問質されなかった命題、あるいは充分に問質されなかった主張であるならば、これを信じる価値は何であるのか? つまり、形而上、あるいはイデオロギー的なドグマを信じることは、救済なのだろうか、それとも喪失なのだろうか?

良心を守る為に、絶対的なドグマに捉われない、ダイナミックで、ある価値から他の価値へ移行できる知力は、自分のように考えない者に対して、より寛容に、公正な態度を示すことが出来るのではないかと思う。

こうして論理を問質すことは、道徳的な義務であるように考えられる。如何なる根拠に基づいていようと、真理の主張に対して批判的なアプローチを試みない、これを問質さない人間は、道徳的に怠慢である。全的な良心は、道徳的な意識、道徳的な行動によって可能となる。人間の為に絶対的な真理を考えるならば、これは道徳的な法以外の何ものでもない。

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原文
http://www.radikal.com.tr/Radikal.aspx?aType=RadikalEklerDetay&ArticleID=966673&Date=03.12.2009&CategoryID=42



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